2025年09月30日(火)

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだ から、私を救い出してくれるでしょうか」ローマ7:24



「いのちの御霊の原理が、あなたを解放した」と。原理とは法則
だ。法則とは、例外無く当てはまる事で、一つでも例外があれば、
それは法則でない。私たちの中に、一つの法則があると。「善を
したいと願うのに、悪が宿っている原理」だ。新生したパウロは、
新しい性質を宿し、善をしたい。主に喜ばれ、御心に歩みたい。
主に従いたいと願う。

私たちも主に喜ばれる事をしたい。だが、それに逆行する法則が
存在する。「悪が宿っているという原理を見いだす」。罪の性質
がある。物を幾ら上に投げても、必ず下に落ちる。そのように私
たちは、善をしたいのに、悪を行なってしまう。これがどうにも
ならない。自力で善行を少しはするのだが、必ず落下する。

どんなにあがいても、主に従う事ができない。それを徹底的に経
験したパウロは「私は惨めな人間、誰が、救い出してくれるのか」
と叫んだ。心底の叫びだった。「誰が」と言い、自力では不可能
だと悟った。どうやっても、落ちるばかりだ。主を仰いだ時に解
決を見た。

主が、別の原理を備え、解決して下さった。「命の御霊の原理」
だ。物は下に落ちるが、手で受けると落ちない。御霊の力により
導かれる時に、落下せずに、生き生きと喜んで、自由に主に従っ
て行ける。御霊が働く領域だ。自分を明け渡し自力でなく、御霊
により歩めるよう、祈ろう。
------------
自分で頑張ろうとするが、今日は出来ても明日は出来ない。出来
れば自分を褒め、出来なければ喜びがない、これが限界ではない
だろうか。恵みも平安も主から受け取ろう。主を仰ぎ御霊によっ
て歩もう。


2025年09月29日(月)

「あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわない なら、わたしはもはやあなたがたとともにいない」ヨシュア7:12



モーセの死後、ヨシュアが率いる民は、舟も橋も無い水が溢れるヨ
ルダン川を、主の奇跡で渡った。そして目の前に立ちはだかるエリ
コの城壁をも、主に言われた通りに行動すると、何と、城壁が崩さ
れた。主の奇跡だった。次にヨシュアはアイに、偵察を送った。す
ると彼らは「二、三千人で大丈夫」と戻って来た。

それでヨシュアは三千人を出すと、何と敗退した。想定外の大きな
事実に、民の心はしなえ、水のようになった。勝利を全く疑わなか
っただけに、大衝撃と動揺だった。奇跡のヨルダン渡渉、難関エリ
コ城壁崩壊は、大いなる全能の神が共におられる、その事がヨシュ
アの拠り所だった。

敗北の事実自体は、それらすべてをなし崩しにし、主の聖なる御名
はどうなるのか。周囲の敵の前で、この敗北はどうなるのか。敵は、
主の御名も、ヨシュアたちも、恐れるに足る対象では無くなってし
まう。ヨシュアは、この深刻な事態に「なぜですか」とひれ伏し祈
った。「大いなる御名のために何をされるのか」と。しかし「大い
なる御名」こそが、この敗北を与えられたのだった。

全能の神は、同時に「聖い」神だ。「聖さ」に関心を持たれ、聖さ
のゆえに罪のある所に働かれない。聖く無い所では、敗北の方が、
神の栄光が現れる事になる。妨げは、神の側ではなく民の側にあっ
た。神は罪をあぶり出され、アカンの罪が発覚した。罪は主との仕
切りとなる。すぐ主に告白しよう。罪に対応し、対処した時に、主
は勝利を与えられた。
--------------
失敗の原因は外側でなく自分の内にあるかも知れない。動機はどう
だろう。戦いにおいて、一番大切なことは、主が共にいてくださる
かどうかだ。罪があるなら排除し、主を中心にお迎えしよう。


2025年09月28日(日)

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできな いような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、 耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えて くださいます」Tコリント10:13


ある夫婦が親を自宅介護していた。親の強い願いであり、
祈り、受け止める決心をした。段々、認知症も入って来た。
徘徊があり、何度も捜し回った。あれこれが無くなったと、
大騒ぎになり、食後すぐに、食事した事を忘れた。生活に
様々支障が出て、それが厳しくなって行く。現実は決して甘
く無かった。

医師に施設を勧められるが、しかし夫婦で、親の願いを遂げ
るべく、御心を確信していた。毎朝、夫婦で祈った。主に切に
助けを求め、拠りすがる日々だった。こんなに主に頼る事は
初めての経験だった。時には辛くて、涙が溢れた。しかし夫婦
の絆が深められて行き、大きな恵みの時であった。主の御言
葉に支えられ、御言葉の力を身をもって経験した。

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配しま
す」とあり、一日づつ、今日一日だけを生きよう、明日は考えな
くともよい。この一日の事だけを考え、なすべき事をしようと夫
婦で話し合い、一日づつを生きて行った。一日だけで良いのだ
と思うと、気持ちが、すうーっと楽になり、心が救われた。

そして目の前の事に集中できた。御言葉が、大きな「脱出の道」
に感じられた。やがて主の時が来て、親は召されたが、最期を
看取ることが出来た。平安に満たされた。主がずっと共にいて
下さった実感に、感謝が溢れた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主の御心に従うなら、どんなに不可能に思える事も、遂げられる
事をずっと経験して来た。御心であれば、「人には出来ないが、
神にはどんな事でもできる」ことを見せられる。主を知る時とさ
れて行く。


2025年09月27日(土)

「今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。 ・・私には、咎がないのに、彼らは走り回り、身を構えてい るのです」詩編59:3



ダビデは戦いで連戦連勝で、人々の賞賛を受け人気を博し
た。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と女性たちが
笑って、繰り返し歌った。サウルのプライドはズタズタで、ダビ
デへの激しい嫉妬は憎しみとなった。その憎悪は殺害願望と
なり、行動に移した。自らの高ぶりから来る罪だが、一筋に
ダビデへ向かい、抹殺したい。

実際、槍を投げつけられ間一髪だった。ダビデは、サウルに
対して何の悪い事もしていない。逆に、忠実に王に仕える素
晴らしく有能な部下だ。罪は、闇へ引きずり込み、どんどん的
をはずし見えなくする。サウルが主に向き、その嫉妬を祈りに
持って行けば、どんなに良かったろう。全権力を持つ一国の王
に太刀打ちなどできるわけがない。

ダビデは、神から油注がれた王に手出しなどできないと、ひた
すら逃げまくった。即、幾らでも兵を招集できる王を相手に、ど
んなに恐怖だったろう。更に、実子アブシャロムに歯向かわれ、
攻撃され、どんなに心痛だったろう。愛する息子と戦えない。戦
わず、逃げ続ける事で身を守った。

詩篇の様々な箇所で、ダビデは、嘆き、苦しみ、痛み、悲しみ、
怒り・・思いも感情も主に告げて訴えている。なすすべなく、嘆き
で心身疲れ果て、涙で、夜毎に寝床をぬらし・・、ああ翼があれ
ば、飛び去り休めるのに、遠くへ逃れ荒野に宿りたい・・逃げた
いと本音で主と交わっている。その祈りの後が、どの箇所も賛美
に変わっている。ありのまま主のもとへ行こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ダビデは、驚くほど本心を主に吐き出し、告げる。試練は受け止
めるべきでは、しかし彼は逃げてしまいたいと。本心を受け止め
てもらっている。その後、不思議に賛美と感謝に変わる。自らの
本当の姿を認めて行く時、変えられる。


2025年09月26日(金)

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は 言われる」ローマ12:19



私たちは、新しい性質と古い性質を持つが、古い性質は、悪に、報
復しようとする。それも何倍にもして、仕返しをしたい。何か言わ
れた時、言い返すと、肉はすっきりする。悪口や批判を受けると、
即、反撃したい。怒りを晴らしたい。しかしこの復讐は、更に怒り
を増幅させ、互いの間を裂き、憎しみや敵意の連鎖を生む。

害毒を流し、これらの行き着く先は死だ。何も生み出さないし、何
の良い実も結ばない。人への恨みや憎しみは相手でなく、自分自身
を傷つけ、損なう。自分が辛い。平安も喜びもない。結局、相手に
支配を許して、自分の人生を壊してしまう。特に被害者である場合、
悪いのは相手で、自分は悪くないと思うので、相手への憎しみと恨
みも、当然に思えてしまい、心に闇を持つ事になる。

「人から出るものが、人を汚す」とあるので、人を汚すのは、自分
の内からの思いだ。外側からのものは、決して私たちを汚すことが
出来ない。主のもとに行き、心の諸々を、憎しみ、恨み、敵意を打
ち明けよう。主は取り扱い、憎しみは悔い改めに導き、悶々の心を
平安に変えて下さる。主が必ず正しい裁きをされる。

主が、悪に報いられる。「復讐はわたしのする事」だと。主ご自身
が復讐される。だからいっさい自分で復讐をするな、わたしにゆだ
ねよと。私たちのする事は、主にゆだねることだ。
--------------
憎しみの感情のままに行動するのは違うと知っている。最善の方法
は、主にお任せする事だ。復讐は主だけができること。主の報いに
任せ、今を平安に生きよう。主のご配慮に信頼しよう。


2025年09月25日(木)

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、 実に、神なのです」創世記45:8



父ヤコブは、兄弟の中でも、特にヨセフを可愛いがった。特別に
袖つきの長服を着せたが、それは当然のように、他の兄弟たちの
妬みを買った。ヨセフもヨセフで、彼らの悪い噂を父に告げてい
た。妬みは激しい憎悪となり、兄たちはヨセフを殺そうとするが、
ルベンが止めて、穴に投げ込んだ。

丁度そこに隊商が通り、ユダの提案により、売られてエジプトへ。
ヨセフは家族と離され、異国の地で、どんなに不安で恐れがあった
事だろう。しかし「主が共におられたので」エジプトで、主人の好
意と信頼を得た。だが主人の妻に陥れられ、無実の罪で投獄の身と
なる。アップダウンで、試練が続き、ヨセフの心はどんなだったろ
う。

だが。尚も「主はともにおられ」恵みを施され、模範囚となり監獄
長の心にかない、重んじられた。絶望的な中で、「共におられる主」
を信じ、ヨセフはその場〃で、ベストを尽くして生きた。すべての
事が、主の主権と愛の御手の中にある事を信じたので、委ねる事が
できた。そして結果的に総理大臣とされた。

信仰の目で見ると、ヨセフが先にエジプトに遣わされ、総理大臣と
され、大飢饉の中、ヤコブと一族を救う事とされる。パズルが埋ま
る時、主の深いご計画が見えて、素晴らしい主の栄光を拝する。ヨ
セフは、「私をエジプトに遣わしたのは、神」と信仰に立った。

兄たちの悪行を見るのでなく、それをも摂理のもとに用いられた、
神を見た。人生に起きる出来事を、神視点で見てみよう。今まで理
解不能だった事柄に光が差して、パズルのように、主と主のご計画
が見えて来るだろうか。
--------------
主が選び、今ここに置いてくださっている。長い年月の導きを通し
て、目に見えない主をはっきりと実感できることは、何と感謝だろ
う。今、分からなくても主を信じて、ベストを尽くそう。


2025年09月24日(水)

「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに」 哀歌3:25



私たちにとり、大変難しい事の一つに「待つ」という事がある。待
つことが、なかなか困難で、出来ない。苦手だ。現代は忙しく、調
理時間の短いファストフードや、即、飲物が出て来る、自動販売機
に慣らされ、すぐに結果が欲しい、すぐに目に見える形で手にした
い。そのために自分が動き、自分で何とかしようとしてしまう。そ
の方が早いからだ。

又、主を待つ事をせずに、落ち込み、思い煩い、不安にさいなまれ、
目の前の状況だけを見て、失望落胆してしまう。待つことが苦手だ。
「待つ」とはどうイメージするだろう。順番を待つ、友人との待ち
合わせ、病院で呼ばれるのを待つ、バスを待つ、病気の回復を待つ
・・じっと待つようなイメージだろうか。

詩篇には「夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待つ」とある。
夜回りは、朝に必ず太陽が昇る事を知っている。毎日毎日繰り返さ
れ、経験によって絶対に昇るとわかる。わかっているが、しかし物
理的時間は必ず経過しなくてはならない。詩篇記者は更に確信をも
ち、信じて、今はどんなに暗くとも、必ず夜は明けるから、夜明け
を待つと言う。

そしてその夜明けは必ず来る。今はあなたも、主を待つ時だろうか。
自分の思い、判断、力で動かずに、主を待てと言われているだろう
か。「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましい
に」。主を待つなら、慈しみ深い主を知る事になる。主の慈しみを
味わい知れるとは、どんなに祝福で喜びだろう。
-----------
喜びや平安が失われるのは、状況には関係なく、いつも主から目を
離したときにはじまる。主がこの状況を動かしていることに感謝し
よう。主は、主を待ち望む者を知っておられる。待ち望もう。


2025年09月23日(火)

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを 加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい」ヘブル12:6


信仰生活で、私たちは様々な試練に会う。御言葉も、何度もはっき
りと、試練があると言っている。主が与えられるものだ。「試み」
「患難」「刈り込み」「懲らしめ」「訓練」「鍛錬」の言葉が幾つ
も出て来る。その時に、どう向き合うかが大切だ。苦しみにも種類
がある。@ヨブが受けた、見たところ理由のわからない苦しみA善
に歩んでいて、尚、受ける不当な苦しみTペテ2:19

B信仰の訓練鍛練、成長のためのものヘブル12:7C自分の罪の刈り取
りガラテヤ6:7D主のための苦しみピリピ1:29 自分の罪の結果である苦
しみは、罪を悔い改めよう。罪を知らせ、悔い改めに導くために送
られている。自ら蒔いたものを、主と共に刈り取って行く事が、祝
福の道だ。訓練となって自分に返り、それをも益とされる。

そして主は懲らしめを軽んじるな、又、逆に弱り果てるなと言われ
る。しっかり受け止め「訓練と思って耐え忍べ」と。耐えられない
試練は無い。その苦しみを通して、私たちは砕かれ、練り鍛えられ、
聖められる。必ず一段階〃成長して行く。理不尽な苦しみは、忍耐
する時、柔和が形造られる。

又、ヨブは試練を通して、主の噂を聞いていたが、今、この目で主
を見たと告白した。「後になると」「これにより訓練された人々に
平安な義の実を結ばせる」結実を見、平安にされる。何と感謝だろ
う。今、苦しみがあるだろうか。罪ゆえなら悔い改め、そうで無け
れば受け止め、忍耐できるよう主に祈り、求めよう。大きな祝福と
される。
--------------
なぜ、どうしてと原因を探そうとするが、目の前に来る問題は全て、
主を通して見ていくのが信仰生活だ。御霊に導かれ、試練を受け取
り、主と共に超えていこう。主は必ず力も慰めも励ましも与えてく
ださり、試練の中で賛美が湧いてくる。


2025年09月22日(月)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、 私の思い煩いを知ってください」詩篇139:23


人は、だいたい悲観的思考に傾くと言われるが、どうだろう。コッ
プに水が半分あると、人は「半分しかない」「半分もある」に分か
れる。あなたは心配症だろうか。ああでも、こうでもないと、くよ
くよと、まだ起きてもいない事を思い煩うだろうか。それなら、平
安に喜び楽しんで過ごす時間を、つぶしてしまう事になる。

だが、思い煩いの中にいると、なかなか気づけない。今後のあれこ
れ煩うのは、亡霊だ。現実では無く、実際に起きてもいない事を、
主もどうにもできない。「思い煩い」とは「心を分割する」との意
味があり、あの方面この方面へと、心が分かたれる。マルタが、主
をもてなすための、準備にあれこれと心が分割し、焦りイラ立った。

何もせず座っているマリヤに怒りがわき、それを許している主を責
めた。自分の力で頑張る時に、私たちは思い煩う。自分の肩にすべ
ての重荷がかかり、担い切れずに、いら立つからだ。主に頼らず、
自力で歩む時に、思い煩いに襲われる。又、私たちは、人が気にな
って仕方がない。

あっちにも、こっちにも良い顔をし、良く思われたい。嫌われたく
ない。主の目でなく、人の目を気にすると、どう思われるかが、気
になって仕方が無い。あの言葉、この態度と思い煩いの種になる。
とにかく思い煩いが来ると、それを主に持って行こう。

そのままの思い、心の悶々を主に告げて、いっさいゆだねよと、言
われる主にお任せしよう。ゆだねる時に、その問題が主の手に渡る
ので、こちらにはもう無い。それを信じる時に、重荷を下ろせて、
心が平安にされる。
--------------
思い煩うとき、よく失敗するが、主から離れている事に気づけない。
自分で心配し、自分を守ろうとして不安に陥る。主の恵みと平安を
見失わず、主に何でも祈り、思いを知っていただこう。主はいつも
支えてくださる。


2025年09月21日(日)

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいな さい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」 ヤコブ4:7


こんな話がある。悪魔が倉庫を持ち、人々の心に蒔こうと
する「種」を様々保管していた。一番大量に保管した種が
「失望」だった。この種が最も良く育ち、沢山の実を得るの
だ。効率良く、人々を神から離せる最強パワーの種だ。こ
れを蒔くなら、後は放っておいても順調に育つ。

だがこの種は、ある場所にだけは、全く効き目が無かった。
幾ら蒔いても〃だめで、効果があったためしがない。徹底無
力なのだ。「それはどこの場所か」の問いに、「感謝する心」と
悪魔は答えた。「失望」は信仰者にとって、一番の敵だ。気力
さえ奪えば、心は萎えて、何も出来ない事を悪魔は知っている。

逆に「感謝」に対しては、悪魔が完全に無力だ。悪魔の足場を
失ってしまう。良い事だけでなく、一見悪い事も「すべての事」を
感謝するする事は最強だ。一見、都合の悪い事は、悪い事で
はない。万事益なので、そこから逆転、素晴らしい祝福に繋が
っている。ある人が極めて苦しい状況に陥った。しかし御言葉
に従い、まず感謝し、感謝を続けた。

すると「御心に従ったのに、なぜ?」「主は助けられるのに、なぜ
?」の疑いや不信仰な思いが消えたのだ。悪魔を寄せつけない。
状況はそのままだが、心が落ち着いた。平安にされたのだ。やが
てその事態は、良きに導かれて行った。悪魔の罠にはまらず、感
謝を選ぼう。これは選択だ。意志を向けて選ぼう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
落胆すると気力が失せる。沈んで、なえてしまう。どんどんネガティブ
思考になる。不安、恐れ、不満、悪魔の攻撃だ。意志で感謝に切り
換えてみよう。そこに御霊が働かれ、あれもこれも感謝が出て来る。
悪魔の足場を崩す。


2025年09月20日(土)

「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、 神に至るからです」ローマ11:36



ある人が、学びの中で、主に委ねる事の大切さを教えられ
た。それで自分が立案し、練りに練ったプランを、主にお委
ねした。そうすれば、大成功するのだと思っていた。しかし、
そのプランはうまく行かず、挫折し、散々な結果となった。
大失敗し、自らの力不足で、未熟さで、周囲に多大な迷惑を
かけてしまった。

自分自身も大打撃で、落ち込み、体調を崩した。休暇を取り、
静かな時が与えられ、御前に祈りの時を持った。ことごとくを、
ち明けて祈る中で、教えられた。自分は、自分主導で、自分が
立案した計画がうまく行くよう、主が力を貸して下さるのだと思
っていた。それなら、立案には主が全く不在だ。そうでなく、自
分を明け渡して、祈り、主の計画に、自分が従って行く時に、
主が成し遂げて下さるのだと。

「神から発し、神によって成り、神に至る」のであって、自分から
発した事では無いのだと。自分から発した事が、神によって成り、
神に至る事は、無いのだと。「神のみこころに従って、まず自分
自身を主にささげ」、まず主に自分自身を渡して、委ねることが
大切で、そうする時、主は御心の計画を示し、成し遂げて下さる
と知った。

自分が運転席で、主が助手席だと思っていた。自分が行く方向
をすべて決め、主がそれをヘルプして下さるのだと、思い違いを
していた。大切な学びを得て感謝だった。私たちも信仰生活の中
で、事に当たって、まず主に祈り、主のみ思いを教えて頂こう。そ
れに歩んで行く時、主と一つに歩めて、大きな喜びとされる。

・・・・・・・・・・・・・・・
神から発している事が大切だ。自分から発するものでは無い。
「 主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」
これこそ最善と自分は思うが、主の御心は別だったりする。主の
み思いを求めて、従おう。豊かな祝福にあずかる。


2025年09月19日(金)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから 『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」 イザヤ書30:21



信仰に入った初心者の女性だった。神の愛を知り、救いに入れられ、
喜びでいっぱいだった。祈りも教えられ、祈れることも喜びだった。
そんな時、夫が、今回の結婚記念日は子どもを親に預けて、海外旅
行はどうかと提案して来た。夫婦の時間を持ちたいと。夫の願いが
あり、だが親も少し遠方で、各々日常予定の変更も必要だ。御心に
ついて学び、御心はどうなのだろう。御心に従いたいと願う。

あれこれ思いが駆け巡る中、導き手に、、まず祈ることを教えられ
る。自分はまだ御言葉についても、初心者である事を言うと、環境
の閉じ開きで教えて下さるからと。それを祈ればよいと。それで御
心なら環境が開かれ、御心でないなら閉じられるよう祈り、学び会
の皆も一緒に祈ってくれた。

祈っていると、少しして、その学び会の夫妻から、自分たちが子ど
もを預かりたいと申し出が来た。子どものいない夫婦で、いつも子
どもを可愛がってくれていて、子どもも、よくなついていて、問題
無かった。夫の仕事も、自分の予定もすべて導かれて、目の前で、
すべての面で、するすると門が開かれて行き、驚きだった。

御心を確信でき、チケットも無事取れた。そしてこの上なく素晴ら
しい祝福の旅とされた。何よりも主が、わかるように手を取り導い
て下さった経験に、共におられる実感に、喜びが溢れた。主は、ど
うであれ、従いたいと願い、従おうとする人々を必ず導いて下さる。
--------------
主にお任せしたつもりでも、早く結論をと、思いは乱れ主を聞こえ
て来るのは自分の声ばかりだ。主を信じて、どのようにでも主の導
きに従います、の態度を祈り、心定めて祈りの答えを待ち望もう。
これが道だと悟れるように。


2025年09月18日(木)

「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれが あなたがたがに、まことの富を任せるでしょう」ルカ16:11


主人の財産管理人が、乱費が発覚、解雇を言い渡され、会計報告
を出せと。その時に、彼は債務者の借金を次々と減額した。そう
すれば彼らが、解雇時に有利に計らってくれると踏んだのだ。主
人は、彼の乱費をほめたのでなく、抜け目のなさをほめた。主は
このように「不正の富」で自分のために友を作れと言われた。

ここで「不正の富」というのは、「正・不正」の悪事で得た富の
事でなく、永遠に対する「この世の富」との意味だ。「不正」=
「この世」の意味であり、この世の富を忠実に、主の御心通りに
使い、天に宝を積めと。この世にいる間に、世の富で天に宝を積
む事ができる。それは今しかできない。賢く使えと。天に帰った
時に大きな報いを得る。

主から任されたこの世の富を、御霊の導のもと、御心に従って、
賢く用いるようにとの教えだ。会計報告を出すのは、所有者でな
く管理人で、所有者なら自分の物であるので出す必要はない。管
理人は主人に報告の義務がある。私たちもこの世の富は管理であ
って、所有ではない。主から任された富を御心を問いつつ、使う
責任がある。

突如、想定外のお金が入った時どうだろう。嬉しくて、あれこれ
使うだろうか。そこで祈れたら大丈夫だと言われる。「主が与え
て下さいました。どう使いましょうか」と。富は容易に偶像にな
る。まず主に祈って、主と共に用いて行く時に、この世の富に忠
実であり、「まことの富」天で豊かな報いを受けることになる。
--------------
この世だけを考えている人でさえ、真剣に富を管理している。
まして天に富を築ける私たちは、どれ程、真剣に管理しているだ
ろう。与えられたものに感謝し、御心にそって用いていきたい。


2025年09月18日(木)

「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれが あなたがたがに、まことの富を任せるでしょう」ルカ16:11



主人の財産管理人が、乱費が発覚、解雇を言い渡され、会計報告
を出せと。その時に、彼は債務者の借金を次々と減額した。そう
すれば彼らが、解雇時に有利に計らってくれると踏んだのだ。主
人は、彼の乱費をほめたのでなく、抜け目のなさをほめた。主は
このように「不正の富」で自分のために友を作れと言われた。

ここで「不正の富」というのは、「正・不正」の悪事で得た富の
事でなく、永遠に対する「この世の富」との意味だ。「不正」=
「この世」の意味であり、この世の富を忠実に、主の御心通りに
使い、天に宝を積めと。この世にいる間に、世の富で天に宝を積
む事ができる。それは今しかできない。賢く使えと。天に帰った
時に大きな報いを得る。

主から任されたこの世の富を、御霊の導のもと、御心に従って、
賢く用いるようにとの教えだ。会計報告を出すのは、所有者でな
く管理人で、所有者なら自分の物であるので出す必要はない。管
理人は主人に報告の義務がある。私たちもこの世の富は管理であ
って、所有ではない。主から任された富を御心を問いつつ、使う
責任がある。

突如、想定外のお金が入った時どうだろう。嬉しくて、あれこれ
使うだろうか。そこで祈れたら大丈夫だと言われる。「主が与え
て下さいました。どう使いましょうか」と。富は容易に偶像にな
る。まず主に祈って、主と共に用いて行く時に、この世の富に忠
実であり、「まことの富」天で豊かな報いを受けることになる。
--------------
この世だけを考えている人でさえ、真剣に富を管理している。
まして天に富を築ける私たちは、どれ程、真剣に管理しているだ
ろう。与えられたものに感謝し、御心にそって用いていきたい。


2025年09月17日(水)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます・・私の思いを 遠くから読み取られます」詩篇139:1



ある女性の証しだ。両親共に仕事で多忙を極め、長女である自分
に妹弟の面倒を任された。親代わりになり、家の手伝いもした。
親はいつもひどく疲れていて、それを目にすると何も言えず、自
分の気持ちを抑え込んだ。親の言われる通りに、ずっと良い子で
来た。親にほめられるのが嬉しく、生きがいだった。

嫌な事は、嫌じゃないと思い込もうとし、思い込んだ。いつしか
自分の本当の気持ちが、わからなくなった。救われてから、ずっ
と良い子クリスチャンだった。自分では全く気づかなかったが、
主の前で良い子でいようとした。しかしそれは決して本当の自分
では無いので、主との間にいつも距離を感じていた。

主と自分の間に、幕があるような感覚だった。神の愛がわからず、
実感は無かった。本当の気持ちなどわからなかった。ところが試
練が次々と来て、もう苦しくてたまらず、瀬戸際で、容量オーバ
ーとなった。心の叫びとなり、抑えきれない気持ちを、初めて主
にぶつけた。それは怒りだった。自分でも驚いた。

これまで頑張りに頑張って来たのに、この状況に怒りが爆発した。
しかし本心を吐き出し、主にぶつけた時に、初めて主と交わりが
生まれた。主から答えが来て、驚いた。主に触れた実感が臨んだ。
主との生きた交わりを経験した。

良い子でなく、そのままで受け入れて下さっていることを、身を
もって経験した。心に初めて平安と喜びが来た。繕いという余裕
をはがすための試練だとわかり、主のご愛に更に感謝が溢れた。
--------------
主は、何もかも知っていてくださるのに、自分が主の前にかまえ、
整えてからと思う。何処かさみしく喜びがないことを御霊が教え
てくださるとき、主の前に自分をさらけ出そう。主は共におられ
る。


2025年09月16日(火)

「あなたは必ずカイザルの前に立ちます・・神はあなたと同船して いる人々をみな、あなたにお与えになったのです」使徒27:24




パウロは主から、ローマへの宣教を示されていた。想定外の囚人と
して向かう事になった。航海途上、激しい暴風に遭遇。これ以上無
理で「良い港」に着岸。その時パウロは冬が来るので、「もう航海
は危険」と忠告した。だが護送の隊長は、航海士と船長の判断の方
を信用した。同船の人々も、この先の快適な港での越冬を願った。

その頃、風が穏やかになり、今だと、出帆した。だが、パウロの言
う通り、生死をさまよう凄まじい暴風に襲われた。隊長がパウロよ
り、プロの意見に従った結果だった。大勢の賛成があり、状況的に
海は一旦穏やかになったので。私たちもどうだろう。御言葉と、常
識・この世の判断・大勢の意見が相反する時、どちらを選ぶだろう。

多数が正しく見えて、見た目で判断するだろうか。しかし「神、そ
の道は完全。主のみことばは純粋」神の道こそが完全で「わたしの
口から出るわたしのことばもむなしく、わたしのところに帰って来
ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を
成功させる」と。

結果的に、航海士と船長、大勢の人の意見は間違っていた。環境に
よる判断も失敗だった。そのため全員が、死に直面する事になる。
今度こそ、神から受けたパウロの言葉を、聞き、従う事により、厳
しい危機の中で、全員の命が助かった。今、判断すべき事柄がある
なら、見た目でなく、世の価値観でなく、神の言葉に立ち、従おう。
---------------
大きな嵐ではなくても、日々、御言葉に聞き、従う生活を送ってい
きたい。一見、良いと思われる人の言葉や状況が、御言葉に反して
やってくる。いざという時に、必ず御言葉が力づけ、確信に立たせ
てくれる。


2025年09月15日(月)

「『確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べること はできない』・・そのとおりのことが彼に実現した」U列王7:19



エリシャの時代に飢饉があった。食物が失せ、人々が餓死して行く
中、エリシャが、明日、サマリヤの門で小麦や大麦が溢れるばかり
にあると言った。すると侍従が、そんな事はあり得ないと言った。
目に見えるところはひどい飢饉であり、不可能だ。エリシャは、あ
なたはそれを見るが食べられないと告げた。

そんな時、四人のらい病人が、町の門の入口にいた。町は大変な飢
饉で、自分たちは死ぬだろう。どうせ死ぬなら敵の陣営へ入ってみ
ようではないかと。もしや食料があるかも知れない。するとその時
に、主が敵に、大軍勢の騒ぎを聞かせられ、彼らに襲撃と勘違いさ
せられた。敵は驚き恐れ、陣営を置き去りにし、逃亡した。

そこで入ると、山ほどの金銀と溢れる食料があった。彼らは、王家
に知らせた。王は信じなかったが、部下に偵察させ、事実を知った。
すると大群衆が押し寄せたので、門の管理の侍従は踏みつけられ死
んだ。エリシャの言葉通りになった。実際主は、溢れるばかりの食
料を用意された。

しかしそれを信じなければ、自分のものとならない。豊かな食料が
そこにあるのに、餓死する事になってしまう。私たちはどうだろう。
神の愛、十字架の救い、罪の赦し、義とされる事、驚くばかりの恵
み・・、溢れる恵みの中で、不信仰で飢えていないだろうか。

自分で恵みを断ち切り、受け取らない侍従は自分の姿だろうか。固
い自我があるだろうか。信じようとしない自分に気づく事から、祝
福は始まる。ありのまま祈りに持って行き、溢れる恵みに、喜びに
浴せるよう、求めよう。主は祈りに答え、導いて行って下さる。
--------------
赦されていても、どこかに罪責感があったり、弱いままではいけな
いと取り繕ったりしてしまう。主の備えておられる恵みの喜びから
遠く思える時、不安定に気づき、主の恵みに入ろう。


2025年09月14日(日)

「ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように」 マタイ15:28



異邦人の母親がいて、その最愛の娘が悪霊につかれていた。必
死の思いで、主に助けを叫び求めた。「主よ。ダビデの子よ。私を
あわれんで下さい」。心底からの切なる叫びに、主は答えて下さる
と思う。だが主は、一言も答えられなかった。沈黙され、母親は無
視された状態だ。しかし彼女は決して諦めず、尚も叫び続けた。弟
子たちは見ておれず、主に、帰して欲しいと願った。

すると「わたしは、イスラエルの羊以外のところには遣わされてい
ない」と。彼女はそれを聞いて「ダビデの子」を抜いて、更にひれ伏
し、求めた。カナン人はイスラエルではない。「ダビデの子よ」と言う
資格は無い。彼女は引き下がらず、尚もへりくだり、正しい位置に
立った。すると主は「子どものパンを子犬に投げてやれない」と言
われた。

何と冷淡なと思いそうだが、実は、主は彼女を、尚も導いておられた。
彼女は、更にへりくだった。「主よ。その通りです」と小犬である事を
認め、しかし「小犬でも食卓から落ちるパンくずはいただきます」
と求めた。主はあわれみにより、いやして下さると堅く信じたから、決
して諦めなかった。小犬がもらえる恵みを求めた。

その時、娘はいやされ、彼女の願いは聞かれた。主は彼女の「立派
な信仰」に驚かれた。主を信じたからこそ、へりくだった。そして求め
続けた。信じていなければ、求め続けられない。そして決して諦めな
いので、答えを手にすることになる。彼女の信仰だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・
母親は、主が、絶対にあわれんで下さることを、信じたから求め続
けた。主の言葉に、従い続けた。「その通りです」と自らの立場を
認めた。「その通りです」と、ひざを折って、認めて行く時に、主の尽
きないあわれみにあずかる。


2025年09月13日(土)

「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で 認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で 認めます」ルカ12:8



私たちは、どうしても人を恐れてしまうものだ。そのために、主
を証しできないでいるかも知れない。しかし、主は言われる。
人の前で主を認める者は、主もまた、その人を神の御使いの
前で認めると。そして「恐れなければならな方を、あなたがたに
教えてあげよう」、体を殺しても、それ以上何も出来ない人間を
恐れるなと。

人は何も出来ない。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っ
た方を恐れよと。真に恐れるべきはこのお方だと。一羽の雀す
ら忘れられず、神の御前に覚えられていて、神の許しなしに、
その一羽も地に落ちることはない。当時、雀は価値の無いもの
の代名詞だった。無価値な雀でさえ、主の主権と配慮の中にあ
るなら、ましてや私たちを守って下さらないわけが無いと。

そして証しをする事のために、祈っていよう。祈りを積んでいると、
御霊が、証しの機会を与えて下さる。その時には「何をどう弁明
しようか、何を言おうかと心配するに及ばない」「言うべきことは、
その時に聖霊が教えて下さる」と。言葉を口に授けて下さる。心
配無い。

私たちも経験する。証しをする時に、次々と語るべき言葉が浮か
び、御言葉が浮かんで来たりする。証しする勇気がないと、尻込
みしそうだが、その時には、御霊が臨み、力強く働いて下さる。御
霊の助けがある。今、特に証しをしたい相手がいるだろうか。相手
のためにまずよく祈ろう。主は祈りに答えて、機会を与えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
「心配するな」「言うべき事は聖霊が教えて下さる」、この事を経験
する。御言葉が浮かんだり、こういう風に話せばよいと御霊の導き
が来る。証しをしたい人々のために、祈りを積んで行く時、機会を
与えて下さる。祈りを積もう。


2025年09月12日(金)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなた の計画はゆるがない」箴言16:3



ある人が健康上の問題があり、甘みを控えていた。「主よ、もしケ
ーキを買う事が御心でないなら、駐車場が空いていませんように」
と祈った。すると駐車場は空いていた。笑い話みたいだが、私たち
も、同様かも知れない。主よ、御心が成りますようにと祈るのだが、
実は、自分の思いがもう定まっていて、主からの承認印が欲しい。

御言葉を与えて欲しいと祈るのだが、もしすでに決めているなら、
自分の思いに合わない御言葉は、無意識に排除してしまう。そして
都合の良い御言葉しか目に留まらない。自分は決してそうではなく、
偏見無しに御言葉を聞いていると思うのだが、無意識なので気づか
ない。

時々、御言葉を与えられたと思うが、、「そのことが起こらず、実
現しないなら、それは主が語られたことばではない」とあり、自分
の思いで取ってしまう。余りにも自分の思いが強いと、間違ってし
まう。そのため、自分の思いと計画を一旦、主に委ねてしまうのが
良い。主に明け渡すことだ。「あなたのしようとする事を主にゆだ
ねよ。そうすれば、あなたの計画は揺るがない」と。

自分の手から離れて、主に渡されたその計画が、御心なら返って来
て、確信が与えられ揺るぎないものとされる。そしてそれは、主に
より成就される。叉、もし御心でないなら、返って来ない。それは、
その方が良いのだ。自分の肉の思いは強烈だ。主に明け渡すことが
最善だ。導きを求めて祈ろう。
----------------
自分の願いがあるのでいつも迷ってしまうが、思い通りが最善でな
い事も知っている。選択するために、主の御心を祈ろう。イエスで
もノーでも主の最善が与えられる。何と感謝な事だろう。


2025年09月11日(木)

「・・夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことば どおり、網をおろしてみましょう」ルカ5:5




その日ペテロは、徹夜で漁をし、一匹も捕れなかった。翌朝、疲れ
切った身体で、網を洗っていた。大勢の群衆が主の言葉を聞いてい
たが、ペテロは、背を向けて聞いていなかった。すると主がペテロ
の舟に乗られ、少し漕ぎ出すよう頼まれた。先生の頼みであり、ペ
テロは舟を出した。

主は、舟の中から、岸の群衆に向かい御言葉を話された。終わると
「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚をとりなさい」と言われた。
ペテロは「え?」と思い、「でも先生。夜通し働いたが一匹もとれ
なかった」と。漁は重労働であり、もうクタクタで、早く帰宅して
休みたい。

又、再度、網を洗うのは、骨の折れる事だ。それに、何より朝方に
魚はいない。だがペテロは「でもおことばどおり、網をおろしてみ
ましょう」と網を下ろした。直前に舟の中で、主の言葉を聞いた事
でそのように出来ただろうか。すると、いるはずの無い魚がいて、
驚くばかりの大漁だった。

仲間の舟に助けを頼み、双方が沈みそうなほど満杯になった。ペテ
ロは奇跡を目の当たりにし、聖い畏れに襲われ、主の足もとにひれ
伏した。そして自分から離れるように願った。罪深い者だと。主は
そのペテロを召され、「これから後、あなたは人間をとるようにな
る」と。

もしペテロが、主の言葉に対し、魚がいるはずが無いし、疲れてい
ると断ったらどうだろう。沢山の人々が、御言葉と、目に見える所
が相反するが、御言葉に従った時に、主のみわざを見て来た。「そ
のとおりにすると」がカギだ。見た目、常識、経験値に合わずとも、
御言葉の方に従えるよう祈ろう。
----------------
あるはずがないと思っていたことが主によって成される。主に従う
ときに、何度も経験する。主の邪魔をしないで良かったと、その度
に謙遜にさせられる。素直に御言葉に従っていこう。


2025年09月10日(水)

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富を もって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」 ピリピ4:19



他の訳では「あなたがたの"いっさい"の必要を」「必要(複数)」
ともあり、必要は、いっさい、完全に満たされると。私たちは、ど
うだろう。あれも、これもと、沢山の欲しいものがあるかもしれな
い。しかし、主が与えて下さるのは、欲しいものでなく、「必要な
もの」だ。

「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神
は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っ
ておられるからです」私たちは欲しいものを願うが、実は不必要な
ものも、多いかもしれない。信仰生活では、この区別は大切だ。自
分には何が必要なのだろう。それを見分けることができるよう祈ろ
う。

必要は、必ず与えられるとは、何という大きな恵みだろう。そこを
踏まえ、必要なものなら、必ず主が与えて下さるとの信仰に立とう。
そして続けて求めよう。その時に、幾ら祈っても、与えられない場
合は、自分の思いと、主のみ思いが異なっているのかもしれない。

自分はどうしても必要だと思うのだが、必要でないのかもしれない。
又、動機が間違っているかもしれない。「祈っても受けられないの
は、快楽のために使おうとして、悪い動機で願うから」とあり、求
めているその動機はどうだろう。

自分の利得のため、虚栄心、プライド、自己顕示欲のため・・隠れた
動機を御霊に探って頂こう。主は、動機を軌道修正し、きよめて下
さる。これらを踏まえつつ、必要をすべて満たして下さる主に、信
じて求めよう。
----------------
本当に必要なものは主が与えてくださるとは、何と感謝な約束だろ
う。自分の欲しいものが、本当に必要なものかどうか、今一度、信
仰に立ち主に委ねよう。


2025年09月09日(火)

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに います」マタイ28:20



ある人が、教会へ行く前に、自分で聖書を読んでいたが、よくわか
らなかった。良い教えで、教訓だろうと思っていた。頭だけの理解
で、心に響いて来る事は無かった。だが教会に行き、聖書を学ぶ中
で、神の愛、主イエスの十字架の救いを知り、信仰告白に至った。
その時から自分が変わった。

祈って、御霊の助けを求めて、聖書を読むようになり、ただの良い
教え、教訓が、まことに生きた言葉に変わって行った。心に御言葉
が響いてきて、生まれて初めての経験だった。御言葉から、喜びや
生きる力が与えられ、まことに生きた言葉となって驚いた。頭だけ
の以前とは全く違った。

「聖書のこの事、信仰のあの事がわかりません。教えて下さい」と、
ありのまま祈ると、礼拝説教で答えが来たり、学び会が、ピッタリ
の学びだったり、教会での交わりで、他の人の証しを聞いて「あ!」
とわかったり、今までに経験した事のないことで、不思議な驚きと
感動だった。

まさに主が、心の内をご存じである事を実感した。私たちも同様だ。
悩みの時に祈り求めて、アンテナを立てていると、御言葉から指針
が来たり、ふっとこれはこうすれば、あれはああすればと、思いが
浮かんで来る。又、日常生活で平安が失せると、何かが違い、軌道
修正が必要なことを学んだ。

心に思い煩いや不安があったり、妬みや憎しみがあったりする。信
仰人生、必ず試練は来る。しかしどんな苦しい中でも、必ずふさわ
しい導きが与えられ、いつも共にいて下さる主を経験して行く。
----------------
様々な場面でいつも主が共におられるのを感じる。苦しみの中でも
必ず感謝することがあり、落ち込んでいる時には慰めを受ける。主
が心の内をご存じだ。主に祈り、喜びと力を受けよう。


2025年09月08日(月)

「悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:27




私たちの格闘は人間に対するものでなく、悪魔に対するものだが、
まず悪魔に「機会を与えるな」と言われている。機会を与えるのは、
自分自身だ。悪魔は私たちの「心」の内に、足場を得ようと常に狙
っている。カインは献げ物が受け入れられなかった「怒り」で、悪
魔に足場を与えた。

カインが間違っていたので、悔い改めて、罪を治めるべきであった。
が、カインはそうせず、献げ物が受け入れられなかった、矛先をア
ベルに向けて、殺害してしまった。サウル王は、ダビデへの「妬み」
で悪魔に足場を与えた。妬みを悔い改め、主に拠り頼み、捨てる事
をせず、悪魔に機会を与え続けた。

ダビデは「高慢」の罪により、人口調査をした。勝利に次ぐ勝利に、
高慢になり、人口調査で自らの力を誇ろうとした。部下ヨアブが、
神への反逆だと止めるが、聞かなかった。その結果、主の怒りを招
き、自分のゆえに、民に災いをもたらした。悪魔は、主を愛し、主
に忠実であったダビデをも巧妙に誘い、姦淫と殺人の罪に誘い込ん
だ。

私たちは自分の心を、見張る必要がある。又、悪魔は狡猾に「疑い」
を起こす。「これでも神は愛?」「本当に守ってくれる?」「必要は
与えられるのか?」。足元がぐらつく。対人関係に「疑い」を起こ
し、
疑心暗鬼にし、相手への不信感を植え付ける。悪魔の攻撃だ。

赦さない心は、悪魔に絶えず足場を与える。今、悪魔の攻撃に会って
いないか。足場を取られていないか。心をしっかり見張ろう。悪魔の
策略に気づけるよう祈っていよう。御霊の気づきを与えて下さる。
----------------
様々な罪を自覚する時、主に顔を向けて祈りたい。自分で治めるのは
難しく、悪魔は私たちの弱さを知り尽くしている。心を見張り、気づ
きと助けを主に祈っていよう。


2025年09月07日(日)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます・・私の思いを 遠くから読み取られます」詩篇139:1



ある時主は、様々な起きる出来事により、普段は全く気づかない、
心の内側に気づかせて下さる。私たちも、自分の内にあるものに、
気づくだろうか。ある女性は、夫もクリスチャンで、夫婦で信仰を
持ち、クリスチャンホームを築いていた。忠実に教会に通い、喜び
もって奉仕をし、兄弟姉妹と交わり、教会生活はとても充実し、楽
しいものだった。

ある時、夫から、神学校への思いを打ち明けられた。突然だったが、
聞いていると、主の御心だと思えた。しかし職を辞することになる。
そう思った時に、心は動転した。ほとんどパニック状態となった。
「収入はどうなる?」「ローンの返済、経済的なことは?」「子ど
もたちの進路、これから、かかるであろう莫大な教育費は?」もう、
断崖の絶壁にいるような恐怖であった。不安で心は真っ暗だった。

信仰など、吹っ飛んでしまっていた。一体、自分は何?順風満帆、
順境の時の信仰でしかない事を、心底思い知らされた。まるで、海
上歩行のペテロのようだった。風を見た途端、ぶくぶくと湖に沈み
かけた。しかし自分がどうであれ、主が、しっかりつかんで、握っ
て放されなかった。

逆に初めて、主に真に向き合い、本音の自分で交わり、主に拠りす
がる経験に導かれた。そして何より、「ふたりが、どんな事でも、
地上で心を一つにして祈るなら・・それをかなえて下さる」夫婦で心
一つに祈るという、何にも代えられたい素晴らしい恵みを与えられ
た。
------------
問題に直面してはじめて、自分の本音を知る。本心に気づけたとき、
主に向いてありのままの憂いや願いを祈れる。さらに主に近く近く
されていくことが感謝だ。新たな祝福が備えられている。


2025年09月06日(土)

「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」詩篇147:3




ある女性が、主を信じ、救われた後、宣教の必要を教えられた。
もし、主を信じずに死ぬなら、罪の支払う報酬は死で、第二の死、
地獄で永遠の滅びだと。そのため熱心に伝道した。教会の伝道活
動に参加し、又、友人や、親族には更に熱心に伝えた。帰省し、
家族のもとに戻る度に、まさにガンガン〃、ストレートに信じる
ように勧めた。

家族も、毎回のことで、段々その話はうんざりで、迷惑に感じて
いた。特に妹は、相手が姉であり、毎回つかまえられては、延々
と説得された。姉は救われて欲しい一心なのだが、妹は嫌で嫌で、
苦痛でたまらなかった。そんな中、その女性に大きな試練が臨ん
だ。厳しい大変な試練に、心底砕かれ、悔いくずおれ、へりくだ
らされた。もう動く力もなく、実家へも戻らなかった。

そんな折り、実家方面に所用があり、久し振りに数日間滞在した。
口数も少なく、聖書に関しては一言も語らなかった。最後の夜、妹
の方から話しかけて来た。「お姉ちゃん変わった。以前のお姉ちゃ
んは嫌いだった。いつも上から目線で、見下されてると感じてた。
今のお姉ちゃん好きだよ。話を聞きたい」。あんなに拒絶していた
妹の言葉に驚いた。以前は恐ろしく高慢だった。

自分の力で伝道していたし、自分は真理を知っている、信じない人
は愚かだとさげすんでいた。何もわかっていなかった。主が砕いて
下さらなければ、どんなに恐ろしい事になっていただろう。感謝し
かない。苦しい試練だったが、妹の言葉で大きな慰めを受け、心い
やされた。

-------------------
初めて福音に触れた時は、喜びのあまり、自分の気持ちだけで押し
ていってしまうが、自分自身が主に深く慰められ、主の助けを受け
て行く信仰生活の中で、主が共に働く者にしていってくださる。感
謝だ。


2025年09月05日(金)

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡され た方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んで くださらないことがありましょう」ローマ8:32



ある宣教師の証しだ。主から宣教師の召しを受けた。道が備えられ
神学校に入学できた。ところが卒業年に、授業料が払えなくなったの
だ。規則では、払えなければ退学だ。必死で祈りに祈った。主は、必
要は絶対に与えて下さるはず、期限も近づく中、祈るばかりだった。こ
れ以上祈れないほど祈った。しかし、とうとう期限が来たが、与えられ
なかった。

仕事を辞めて、遠方の田舎から来た。主の御心を確信したのに、「な
ぜ?」しかし現に与えられず、これも御心であり、田舎に帰る決心をし
た。僚の片づけをしていると、学友が部屋に来た。驚いたが、彼もまた、
授業料が払えず、せっぱ詰まった状況にいた。不足分を聞くと、手持
ち内の金額だった。自分のためには全く不足だが、彼のためには間に
合う。それで、それを彼に上げた。

彼は、非常に驚いて「でも、君はどうなるんだ?」と。「僕はいいんだ。
君がこれで進級できるなら、使ってもらえたら、嬉しい」と。彼は、どう
していいかわからず、申し訳無さそうにしていた。片付けが全部できて、
部屋を出ようとした時に、一通の郵便物が、机に置かれたままだった。
彼が「え?見ないの?」と聞いた。

もうすべてが終わったとの失意で、「もういいんだ。捨てて」と言った。
それで、彼が開けてみると、何と、授業料に十分余りある小切手だった。
二人で抱き合って、大喜びし、主に感謝を献げ、御名を崇めた。今一度、
主の愛に包まれた経験だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
よくギリギリまで信仰を試されるが、主は、必要は必ず与えて下さる。
どんな事があろうと備えて下さる。何度も〃経験して来た。主の愛を
知って行く。主に拠りすがり、次は、どのように与えて下さるのか、楽
しみに思えて来る。


2025年09月04日(木)

「・・全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち 足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました」ルツ1:20



飢饉の際に、エリメレクとナオミは、ベツレヘムからモアブへ移動し
た。御心の地にとどまるべきであったが、家族の幸せを求めて、
偶像の地に移ってしまった。やがて、夫と二人の息子は亡くなり、
ナオミは、異国の地で苦しい時を過ごす。その内に故郷は飢饉が
去り、帰郷を決意する。ナオミは二人の嫁、ルツとオルパに、実家
に戻るよう強く勧める。

オルパは帰ったが、ルツはナオミと共に行く事を堅く決意し、その
根拠は「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」との信仰に
よる事だった。神を見ていた。すると帰郷が丁度、時、ピッタリに
大麦の刈り入れ時期で、ルツは生計のため落ち穂拾いに出た。そ
こが「はからずも」ボアズの畑だった。

また「丁度その時」所有者であるボアズが来た。普通は所有者は
来ない。ボアズは遠縁であり、その後、門がスルスルと開かれ、
そのボアズと結婚に導かれる。ナオミは帰郷時に、人々に、自分
は「苦しみ」であり、「満ち足りて出たが、素手で帰った。主は私を
卑しくし、辛い目に会わせられた」と言った。しかしナオミは、その
素手に、孫を抱く事になり、異邦人のルツが、メシヤ誕生の系図
に入ることになる。

ナオミは、苦しいばかりで、素手で帰されたと。何の良いことも無
いと。しかし、素手ではない。ナオミには、素晴らしいルツが与えら
れていた。主のあわれみは尽きない。いつも良いものを与えて下
さる。私たちにも、与えられている「ルツ」が、見えているだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・
夫と共にナオミは、危機の際に偶像の地へ移住してしまった。家族
のためだった。御心を離れて、異国の地で、苦しい時を過ごした。
しかし帰郷の際、出た時にはいなかった、ルツが与えられていた。
どんな時も、主のあわれみは尽きない。何と感謝な事だろう。


2025年09月03日(水)

「ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆ えにつまずいても、私は決してつまずきません」マタイ26:33



私たちは、時に失敗する。人間だから必ず失敗する。どうして自分
がこんな事を、信じられないという、失敗をしてしまう。過去にも、何
度も失敗して来た。だが失敗で、人生が終わってしまうのではない。
大事な事は失敗を認め、悔い改め、そこから学んで行く事だ。主は
豊かに赦して下さり、失敗を通して多くの学びを得る。

あわれみ深い主は、次の展開へと導いて下さる。ペテロのために、
主は「あなたの信仰が、なくならないように」と祈られた。「失敗しな
いように」とも祈れたはずだが、そうは祈られなかった。ペテロは
保身のため、主を3回否み、更に呪いをかけて誓い裏切るという
大失敗を通して、満々の自信を見事に砕かれた。ペテロはへりく
だらされ、変えられた。

主の昇天後は、諸教会のリーダーとして大きく用いられた。私たち
も失敗を通して、砕かれ、自分の考え、あり方を軌道修正される。
ペテロは、自分の真の姿を見せられた。自力で従って行けると思っ
ていたが、そうでない事を心底思い知った。だが、ペテロの失敗の
ただ中も、主の愛は変わらなかった。

主の執り成しにより、ペテロは立ち直れた。そして深く主を愛し、頼
る者とされた。私たちにも、主の愛が注がれていて、失敗しても、そ
の愛は決して変わらない。弱さを通し、失敗を通して、自分の力で、
生きて行けない事を知る。これこそが大きな恵みであり、成長だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・
失敗すると、気落ちして、ひどく落ち込んでしまう。しかし、主は、学
べと言われる。そして失敗から多くを学ばせて下さる。砕かれ、高慢
にならないよう守られる。失敗すると、主から離れそうになるが、ます
ます主のもとで、拠り頼もう。


2025年09月02日(火)

「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、 立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3


主はヨナに、ニネベへ宣教に行くよう命じられた。しかしヨナは、
ひどい敵国ニネベが気に入らず、「主の御顔を避けて」、行きた
くないとの態度だ。そこに丁度、反対方面行きの船があり、何と
その船に乗った。すると嵐になった。ヨナはこの嵐は自分のせい
であり、自分を海に投げ込むようにと言った。そうすると、主は、
海中に大きな魚を備え、ヨナを飲み込ませられた。

その中でヨナを守られた。ヨナは悔い改めの祈りをし、魚の腹か
ら出た後、今度は素直にニネベに向かった。何と滅びを告げる
ヨナの言葉に聞き従い、ニネベの人々は皆が悔い改め、王まで
従った。主は災いを思い直された。それがヨナには納得行かず、
心が収まらない。小屋を作り、陰に座り、どうなるか見てやろうと
の、すねた態度だ。

主はとうごまで、日陰を作られ、ヨナは喜んだ。だが翌日、虫で、
とうごまが枯れた。焼け付く太陽は照りつけ、ヨナは衰え果て「死
んだ方がまし」と死を願った。機嫌を損ね、直ったかと思うと、又、
機嫌を損ね、死にたいと願う。私たちも、さ細な事で、信仰が揺れ
動く。うまく行けば大喜びし、逆だとひどく失望し落ち込む。目に見
える所に振り回されてしまう。

大事な事は、主は、ヨナを大きな愛で愛されて、ヨナが主の御心
をそれても、その主の愛は変わらない。決して見捨てず、見放さ
れない。何があろうと変わらない不変の愛で、ヨナに目を留め導
かれる。この同じ愛で、私たちも愛されている。もし今、御顔を避
けているなら、主に向き、御心を行なえるよう祈ろう。何にも代え
られない大きな喜びがある。

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自分の意に合わない事は、従うことが非常に難しい。しかし、それ
は、御顔を避けてしまうことになる。喜びや祝福から遠ざかってし
まう。自分には出来ないので、従えるよう、祈ろう。主が従えるよう
に助けて下さる。そして主の愛を知ることになる。


2025年09月01日(月)

「しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった」 出エジプト8:32


モーセを指導者に立て、エジプトから苦難の民を救出の際に、
主は次々と奇跡をされた。パロは、次々と様々な災害に苦し
められた。すると、苦しみの余り「民を出て行かせる」と言うの
だが、苦難が去ると「行かせない」と翻す。又、苦難が臨むと
「私は罪を犯した。行かせる」と言う。「祈ってくれ」とまで言い、
一見、悔い改めのように見えるが、事が収まると、頑なになり
強情になる。

これは目の前の苦しみを、何とかして欲しいだけで、悔い改め
ではない。口先だけの事で、心では思ってはいない。王であり、
すべてが自分の思うがままに回って来た、パロにとって、主の
奇跡は、単に脅しに過ぎなかった。脅しが無くなれば、問題無い。
そのため元に戻り、何も変わらない。主のみわざが、悔い改め
を生み、主のご愛や真実を知る事にはならなかった。

私たちはどうだろう。苦しみは、ただ単に災難であり、去りさえ
すれば良いのだろうか。それならパロと同じになってしまう。
「わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」。様々
な悩みや苦しみは、「わたしが主であることを知るため」に送ら
れている。

それは、主ご自身が、真の神である事を知る時であり、又、自
分の内側が、罪が照らされる時だ。悔い改めに導かれるかも
知れない。目の前の問題は、「わたしが主であることを知る心
を与える」ためと受け取り、学べるよう祈ろう。

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パロに悔い改めはなく、ただ、目の前の状況が不都合なだけ
で、心は強情で、頑なだった。そのためすぐ元に戻った。自分自身
も、様々な事柄を通して、自らの強情な心を照らされ、そこを祈
りに持って行けるように。そして変えられて、主を知れるよう祈りたい。