2001年02月28日(水)

『彼を見つけ「みんながあなたを捜しております」と言った』(マルコ1:37)

自分がいなくても何とかなる。ほとん
どの人は、この言葉にすぐ同意するだ
ろう。しかし、生き方は反対だ。文句
を言いながら、全部自分がやり遂げよ
うとする。イエスは弟子を召し、訓練
し、教え、福音を語り、癒し、悪霊を
追い出し、個人に群集に仕えられた。
どのように、これらすべてを行なわれ
たのか。主は徹底して優先順位に従わ
れた。まず一人になり、父なる神と共
に憩い、祈られた。イエスが一つの働
きに向かう時は、他の働きに背を向け
ねばならなかった。それは私達と同じ
だ。しかし、自分が必要を満たさなけ
ればというプレッシャーにより、方向
を決めるのではなく、神のみこころに
従って応じて行かれた。父のご目的を
いつも意識しておられた。主は父なる
神との個人的な交わりを通して、その
意識を日々研ぎ澄まして行かれた。主
からあなたの生活での優先順位を教え
て頂こう。そうすれば、イライラする
事はない。まず何をすればよいか、わ
からない時は主を第一にせよ。


2001年02月25日(日)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)


ある女性が不幸な家庭で暮らして
いた。いつも友人に不平不満を言
っていた。。そこにいるのがどん
なに大変かを愚痴っていた。彼女
は自分に満足が無いのは、両親や
家族のせいと責め、自活出来るよ
うになれば、すぐ家を出るように
と、息巻いていた。しかし、ある
頃から彼女の顔に幸福そうな笑み
が溢れ出した。不機嫌な様子が全
く無く、目は輝いていた。友人が
気づいて「家が良くなったの」と
言うと、「いいえ、家は同じよ。
変わったのは私なの」と言った。
彼女の環境が好転したのでなく、
彼女の心が変化したのだ。私達が
イライラする状況にでくわし、自
分が惨めに感じる時、自問すべき
だ。この問題は本当に他人のせい
なのか。それとも私が問題なのか。
主にご自身の完璧な愛で満たして
下さいと求めるなら、どんなに人
生が良く見えるか、驚くほどだ。
自分を変えて頂く事は、私達の世
界を変える最善の方法だ。変わる
事を止める時、成長が止まる。


2001年02月24日(土)

「キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい」(Tペテロ4:2)


私達は、自分に問題が起こり、思
うように行かない時、自分をかわ
いそうに思い、自己憐憫に陥る。
そのような時、他の人々がどんな
に忍耐したかを思い起こすのは、
有益だ。ディビッド・ブレイナー
ドは書いている。「食べ物はとう
もろこし粥、ゆでとうもろこし、
少しの肉とパン。寝床は板に藁を
敷いた物。私の仕事は大変忙しく
困難である。けれど、霊的な戦い
と苦悩はそれらすべてより大きい
ので、生活の不便についてめった
に考えない。むしろ、自分が贅沢
を楽しんでいるかのように感じる
」私達の主はどうか。十字架の主
の苦しみを思い、主が再び栄光を
帯びて戻って来られる時に、私達
が経験する喜びを思う事だ。イエ
スに思いを集中する時、新しい視
点を得、自己憐憫は止む。苦しみ
の時こそ、神の養いを経験する時
だ。あなたが自己憐憫に陥る時、
イエスが何を忍ばれたかを思い起
こせ。


2001年02月23日(金)

「あなたがたは偽りを捨ておのおの隣人に対して真実を語りなさい」(エペソ4:25)

 この世界では、日常茶飯事のように嘘が平気で通っている。
少しくらい嘘をついた方が対人関係がうまく行くと言う。
少しくらいいいじゃないか、というのが世の常だ。
このような中にあって、嘘をつかないことは結構難しい。
しかし、嘘をつく誘惑に負けてしまうと、すぐにしょ中
嘘をつくようになってしまい、間もなく嘘など気にも
とめなくなってしまう。それが行き方そのものになって
しまうのだ。それは、ほんのちょっと得をしたり儲けた
りするために、聖書の根本的原則を裏切りキリストの証
しに大きな傷をつけることになる。
神の御言葉は、はっきりしている。みこころもはっきり
している。嘘は罪だ。経済的な利益や仕事を成り立たせ
るためにその基準を曲げてはならない。
仕事でも、生活でも、私達の主義はこうあるべきだ。
「嘘はつかない」。神には偽りはいっさい無い。
偽りはサタンから来ている。サタンは偽りの父だ。
サタンに荷担してはならない。真実を語れ。


2001年02月22日(木)

「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、叫びをお聞きになり…私の口に新しい歌、われらの神への賛美を授けられた」(詩篇40:1) 

 ここはダビデが待たされた時のことを言っている。
しかし、心に新しい歌を持って振り返った時、待つのにも大きな意味があることを彼は悟った。
私達も混乱の中にあるとき、右往左往せず、忍耐を持って
主を待つことが重要だ。そんな時、私達のすることは、主を待つことだ。
頭では良くわかるが実生活ではどうか。
なかなか待てない。三十分仕上げの写真屋に駆け込んだり、一時間仕上げのクリーニングが重宝だったり、ファーストフードで食事をしたり、
「待つ」ほど難しいことは無い。
夕食は電子レンジ、即効薬を飲み下す。手紙など遅すぎて、ファックス
でもイライラする。物事だけでなく、自分本位な人に忍耐するのも
難しい。静かに主を待つことはもっとも難しい。忍耐は成長への神の
ご計画だ。あなたが忙しくて急ぎ過ぎて、イライラしているなら、
ペースを落せ。神はあなたに新しい歌を与えてるださる。
自分自信に追いつくために座して神を待て。


2001年02月21日(水)

「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい」(伝道9:10)


大きな建物を建てるために、3人の男
が一生懸命働いていた。ある人が尋ね
た。「あなたは何をしているのですか」
「モルタルを混ぜています」と1人が答
えた。2番目の男は「この大きな石壁
を建てるのを手伝っています」と答え
た。3番目の男は「私は神の栄光のた
めに大会堂を建てています」。多くの
人は生計を立てるためや、成功のため
や、富のために働く。しかし、クリス
チャンが働く本来の動機がそのような
理由であってはならない。仕事に永遠
の価値を与えるのは、仕事から生み出
されるものや、功績にあるのではない
事をわかっていなければならない。本
当の価値は、私達が仕事を主の栄光の
ために忠実に行なう、その働く過程そ
のものにあるのだ。神が働く事を命じ
られたのは、正しい事だからだ。仕事
は未信者にイエス・キリストを示す機
会を与える。最善を尽くす事によって、
神の御名に栄光を帰する事が出来る。
あなたの仕事は単なる仕事か。神の栄
光のためか。


2001年02月20日(火)

『あなた方は、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました』(創世記50:20)

 ヨセフは沢山の災難に会った後、傑出した人物になった。
彼は自分の兄弟達にエジプトの隊商に売られ、エジプトで
性的な暴行を働いたと言う偽りの訴えによって投獄され、
牢獄で彼を助けてるれると言った男には忘れ去られた。
これらすべての障害にも関わらず、ヨセフは王に次ぐ者
となり、多くの人の命を救い、兄弟達を許したのだった。
私達は成功すると、その前にあった困難や思うように
行かなかったことを忘れてしまいがちだ。
この世には不正や裏切りや病気やけが、不誠実な友人
倒産など、どうにも出来ないことがある。
あなたは今、困難な状態に出会っているか。神に導きを
求めよ。そして、結果を神に委ねるのだ。目はかすみ
今見えないことが沢山ある。神に頼りすべてを神に委ねよ。
足をすくわれたなら、ひざまずいて祈れ。


2001年02月19日(月)

『私達は、救われる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです』(Uコリント2:15)

 牛の放牧場を訪ねた二人が話した。「素敵な匂いだね。
ここは大好きだ。この眺めと匂いはたまらないよ。」
町育ちのもう一人はそう思わなかった。何か死んだような
匂いで好きでなかった。同じ匂いが、一人には命の匂いに、
一人には死の匂いに感じた。
人々の福音への反応についても同じことが言われている。
私達がキリストの福音を証しする時、二通りの反応が生
まれる。信じる者にとっては、キリストの話は甘いし
嬉しい香だ。
しかし、キリストを拒む者には、厭わしい死の香だ。
福音は彼らの恐れる死と永遠について考えるよう仕向け
るからだ。ある人には楽しい花の香も人によっては葬式を
思い出させる。救いの知らせは受け入れない者には、死の
香り、しかし信じる者には素晴らしい命の香りだ。
あなたと共にいる時、周囲の人はどんな香りをかぐだろうか。
キリストの香に気づくだろうか。


2001年02月18日(日)

「天では、あなたのほかにだれを持つことができましょう」詩編73:25

2才の幼児は驚くほど動き回り、遊び
回る。自分の家では、何もかもわかっ
ているので、自由自在に振る舞う。し
かし、知らない場所では、母親べった
りだ。外出すると、いつも母親を確か
める。知らない人が話しかけると、母
親にしがみつく。転ぶと、すぐ母親の
元へ行く。母親はいつもそこにいる。
詩編記者の神との関係も似たもの
だった。戸惑い悩む状況で、主に立
ち返った。神がすべてを支配してお
られ、自分の事を心配していて下さ
る事を自分に言い聞かせた。
自分の疑問を正直に言い表わした
後、あなたの他に私は誰をも望み
ませんと言っている。神だけが与え
る事のできるものを求めて、他の所
を捜しても無駄な事だ。信仰によっ
て、神にしがみつけ。他にどこへ行
くというのか。主はあなたの悩みと
心配をご存じだ。主は常にあなたを
気にかけておられる。前途を恐れる
必要は無い。あなたは一人ではない。
いつも主が共におられる。


2001年02月17日(土)

「恐れのある日に、私はあなたに信頼します」詩編56:3

「信仰は恐れを追い払う。さもな
くば、恐れが信仰を追い払う」こ
の言葉はうなずけるものだ。しか
し、どんなクリスチャンでも、う
ろたえたり、恐れに縮み上がる事
があるものだ。ある時、対向車が
無理は追い越しをしてきて、ぶつ
かりそうになった。その時、身の
毛はよだち、心臓は飛び出すかと
思った。大地震に会った人達はど
んなに恐ろしかったかを語る。爆
撃の中を生き残った軍人達は恐く
無いという人は嘘つきか頭がおか
しいと言う。命の危険に対して、
恐怖を感じる事は罪ではない。突
然の嵐に見舞われた弟子達はうろ
たえた。主から穏やかに叱責を受
けた。しかし、彼らが「主よ助け
て下さい」と主を求めた事は正し
い事だった。恐れに襲われる時、
神を思い、意識的に神に頼れ。恐
れのある日に神に信頼せよ。そう
でないと、恐れは私達の信仰を襲
い、パニックにする。主がそばに
いて下さる。敵も嵐も恐れる必要
がない。


2001年02月16日(金)

『世をも、世にあるものもをも、愛してはなりません』 (Tヨハネ2:15)

聖書で私達に注意している「世」とは何だろう。
信仰的な人なら避けるべきいかがわしい行為だろうか。
そんな簡単な事ではない。単に外見的な行動ではなく
心の底にある動機の事だ。「世」というのはサタンに
支配された組織の事だ。この社会を通してサタンは働
いている。私達はその社会で生きなければならないが、
決して従ってはならない。
この世の職場で働き、世の教育をしている学校へ行き
この世のメディアを楽しむ、しかし、敵の縄張りだ。
中立ではない。世的なものは罪を魅力的に、正義を
愚かに見せる。私達が神を愛さない人と同じように生き、
愛し、選ぶなら世的だ。
教会で妬み合ったり、家で妻に怒りを爆発させているなら
バーで泥酔している人々と同じように世的だ。
心の動機が問題だ。父なる神を心から愛して生きているか。
何処にいても神の御旨を果たしたいと切に願っているか。
この世のものとなってはならない。


2001年02月15日(木)

「私の主であるキリスト.イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」 (ピリピ3:8)

ある男性が自動車事故に遭い、九死に一生を得た。
重症だった。長い期間後遺症で苦しんだ。家を売り、
貯金もすべて使い果たした。後に彼はこう言った
「ホームレスの保護施設に座り、残った夢と持ち物の
残りを見ていた。キリストがかたわらに立たれ、
囁かれた『私が残った物を手に取り、かつて
夢見ていたより遥かに良いものを建て上げよう』」
大きな損失を経験する時こそ、キリストが現実のお方
となる時だ。自分でも、もうどうにも出来ない無力な状況
だ。パウロはダマスコ途上で神に打たれた。
目が見えなくなって初めて、先祖から受け継いだものが
無意味であると気づいた。しかし、その損失のゆえに、
イエスが救い主であると個人的に知れた。人生で、日常で、
大きな損失、大切なものを失う時は、キリストがすべてである
と知る時だ。あなたがすべてを明け渡す時、キリストは
あなたのすべてとなってくださる。


2001年02月14日(水)

「イエスは起き上がって、風しかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた」(マルコ4:39)


最も際立った二つの問いかけが、イエスを愛した人々からかけられている。
ガリラヤ湖で激しい嵐に船が沈みそうになった時、弟子達からのものだ。
「私達が溺れて死にそうでも、何とも思われないのですか」。
別の場面では、マリヤがイエスの足元で御言葉を聞き入っている時、ピ
リピリしたマルタが台所から来て言った。
「妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか」。
どちらの問いもイエスの力を知っているので、介入して、心配事を取り除いて貰いたかった。
無視されているように見えて、「何とも思われないのですか」という言葉になった。
私達が一人だと感じる時、よく叫ぶ。
「主よ、あなたは何とも思われないのですか」。
しかし、イエスは嵐を静め、名前を呼ばれる時、主がずっと深く思いやって下さっている事を悟り、どんな心配事の中でも主により頼みたいと望ようになる。
主は絶えず気遣っていて下さる!


2001年02月13日(火)

『イエスは彼が伏せっているのを見・・彼に言われた「よくなりたいか」』(ヨハネ5:6)

デビッド・ジェラーンターは、爆弾犯と
して知られる男から送られて来た爆弾
物を仕掛けられた包みを開けた時、
治る事のない傷を受けた。しかし、彼
は自分を無力な犠牲者とみなしたり、
自己憐憫にふける事を拒否した。
彼はこう言っている。「人に対して、
あなたは何かの犠牲者になったのだ
と慰めるなら、その人の心をかえっ
て重くする事になる。自分を人生の
犠牲者と見る傾向が世間では強い。
不幸のせいで、自分が憧れていた人物
になる機会や意志を奪われたと感じや
すい。不幸のせいで、自分の人生が狂
ったと思う。罪の世界に住んでいるの
で不公平をこうむる。
多くの事は私達の力ではどうにもなら
ない。私達を無力にさせるような状況
に対して、どうする事を神は望んでお
られるのか。「よくなりたいか」と
いう主の御声に耳を傾けよ。主の力に
より頼み、あなたが変える事の出来る
事に対して行動せよ。犠牲者でいる
必要はない。なぜならキリストは勝
利者だから。














2001年02月12日(月)

「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけない事が起こったかのように驚き怪しんではなりません」(Tペテロ4:12)

苦しみは人生の一部だと言ったら、驚くだろうか。
誰でも身近に個人的な苦しみがある。病気になったり
経済的に困窮したり、失恋、悲しみ、倒産…挙げれば
きりがない。キリストのゆえの迫害もある。
嘲られ、憎まれる。しかし、苦しみが来る時、その人
の本質を明らかにする。ある人が言った。「もし私が
苦しみを回避する手段を知っていても、教えない。
人のためにならないからだ。苦しみは苦しみに対処する
力を創り出す。苦しみを友とせよ。」
苦しみが来た時、予想外だと思うな。苦しみを持って
私達を試される。苦しみに対処する最善の方法は「善を
行うにあたって真実であられる創造者に自分のたましい
お任せ」する事だ。苦しみは私達の信仰と意志の力を試し、
神の言葉に頼るよう助ける。大きな勝利は大きな苦しみ
から生まれる。


2001年02月11日(日)

「わたしの願いではなく、みこころとおりにしてください」  (ルカ22:42)

ある人が、逆境に有っても、どうして平静を保って
生きていられるのか、と尋ねられた。
彼の言葉は単純なものだった。「私は避けられない事と
協力する事を学んだのです」。ある著者は「神のみこころ
に明け渡しているとずっと思いこみながら、生涯を通じて
環境について戦ったり、文句を言ったりしている」と言っ
ている。誰でも人生において、どうしても避けられない
問題がある。しかし、神が起こる事を許された問題を、
神は救いのために用いてくださる。問題は、神が許された
問題を私達が許しているかどうかと言うことだ。
私達はしょっ中こう祈る。「神様、このごたごたから
私を出して下さい。」しかし、主はこう言っておられる
かもしれない。「私をこのごたごたの中に入れておくれ。
私にあなたの環境よりも、あなた自身を変えさせておく
れ。」これこそ、なにより偉大な奇跡だ。
神が送ってくださるものを喜びでも悲しみでも、良き、悪
しきに関わらずなんでも受け入れられますように。


2001年02月10日(土)

「私の神は、キリスト.イエスにあるご自身の栄光の富を持って、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)

一人の若い女性が経済的に大変な中で、一才の子供を育てていた。
母一人子一人だった。経済的苦境の中にいた。ある日、帰宅すると
アパートの自分の部屋のドアに紙が張ってあった。
部屋代支払の締め切りの日だった。彼女は絶望に打ちひしがれた。
お金が無かった。行くところも無かった。そして、自分と息子の
食料を買うための最後のお金を使い果たしたところだった。
彼女はそれまでの二週間、部屋代を切に祈り求めてきた。
神はなぜ答えて下さらないのか、思い惑った。
家を追い出される夢、息子を自分から連れ去られる夢に悩まさ
れていた。彼女は重い足取りで、管理事務所へ行った。
すると、そこで封筒を渡された。それには「あなたの部屋代は、
主に在るあなたの友人達によって全額支払われました。
主はあなたを愛しておられます。そして私達もです」。


2001年02月09日(金)

「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう」(ヤコブ2:14)

ある夫妻が、大きな竜巻の被害に
会った。家は破壊され、家具は野
外で雨にさらされていた。少し怪
我もしていた。近くの宿泊施設は
被災者達で満員だった。親戚もい
なかった。その時にクリスチャン
夫婦が彼らを家に迎え入れてくれ
た。食事と宿を与え、家族の一員
にしてくれた。3ケ月共に過ごし
たが、彼らはその間、彼らのプラ
イバシーを侵しているとか、好意
に甘えていると感じさせた事は一
度もなかった。彼らの優しさ、心
遣いは夫妻の身も心も癒した。彼
らが強い信仰を持っている事は知
られていたが、それを真に知らし
めたのは彼らの行ないだった。私
達は親切な行ないによって、クリ
スチャンとしての信仰を示す事が
出来る。行ないが無ければ、信仰
は役立たないと、神は言われる。
今、聖霊様があなたに示している
行ないは何か。


2001年02月08日(木)

『するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神のみ恵みがありますように。そんなことが あなたに起こるはずはありません」』(マタイ16:22)

見知らぬ人から道を聞かれる事がある。
道を教えると「もっと近道はありませんか」「そうでは
なく、こっちの近道を行くわけには行きませんか」と聞かれる。
一見、他の道が近道に見えても、実際はそうではない。
交通量が激しくて渋滞であったり。工事中であったりする。
信仰生活上で、同じような場面に出合わす。
神がねじれ道の迷路のような所へ導かれ、私達は、わけ
がわからない事がある。
どうしてですかと尋ねたい誘惑にかられる。
もっと易しい道があるように思ってしまう。しかし、
私達は地図のほんの一部しか見えていない。もし主が
近道を選ばれたらどうだろうか。もし、十字架につかれ
ないで、他の道を選んでおられたら。私達の救いはなく、
永遠に滅びていただろう。ペテロは肉の思いで、主を
いさめた。近道の誘惑が来た時、十字架の主を見上げ従おう。


2001年02月07日(水)

『わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向って、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った』(イザヤ65:1)


こんな訳もある。「わたしは、わたし
の民の祈りに答えようと用意してい
た。しかし、彼らは祈ってくれなかっ
た」。私達はどうだろうか。不信仰に
陥り、失望落胆し、祈りに萎えている
だろうか。ある男性は定年退職後、
大手術をし、健康が衰えた。回復途
上に、目も悪くなった。意気消沈した。
妻も両眼の白内障に苦しんでいる。
小さな畑で生計を立てていた。ある
日、見舞いに来てくれた人がいた。
健康の悪い状態を数え上げて話し
た。しかし、祈りを信じている事を
言った時、失望落胆し、弱っている
妻が口を挟んだ。祈りに何の力が
あろうかと。妻の言葉が残念であっ
た。彼も意気阻喪し、その夜は祈れ
なかった。しかし、真夜中に考えに
沈んでいた時、神は語りかけられた。
祈りに答えたくて、祈りを待ってい
ると。彼は突然、起き出して、神の
前に再び委ねて祈り出した。祈り続
ける力を新たにされた。



2001年02月06日(火)

「たよりにならない富みに望みを置かないように。むしろ私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」(Tテモテ6:17)

「楽しませてくださる神」ある人が、自分にはこれが
足らないと教えられた。もっと、神を楽しみ、神の創造された
創造物を楽しむこと、これが必要だと気づかせられた。
彼は勤勉で、良心的で、真面目で、献身的だった。
家族でも職場でも、地域でも教会でも忠実な人物だった。
しかし杓子定規に、型にはめ込んで、物事を周囲を窮屈に
していた事に目が開かれた。
今、神の創造物を楽しむために、時間を取る事の大切さを実感し
満足している。妻との散歩を楽しみ、孫との遊びを楽しみ、
海へ行き、広大な眺めを楽しんでいる。
そのような満ち足りた平安の中に身を置く時その中に
その背後に、もっと大きな、偉大なお方が見えてくるのだ。
神の創造物を楽しむ事は、私たちをリフレッシュさせ、新たな
気力と力を与えてくれる。
神の贈り物をもっともっと楽しもう。


2001年02月05日(月)

「私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるから です」(詩編86:6)

ある夫婦が結婚20年目にして、行
き詰まってしまった。どうにもなす
すべが無く、夫は家を出て別居した。
彼の心は混乱して、パニック状態だ
った。しかし、時間と共に、今まで
の人生について、これから先の事に
ついて深く考える時が与えられた。
そんな時、友人が自分達夫婦に起き
た奇跡について話してくれた。妻と
共に祈り始めた時、夫婦が建て直さ
れた。祈る事を勧められた。自分達
夫婦のした事のない事だった。妻に
提案すると、いぶかり疑いながらも
妻は賛成した。神が自分達を癒し、
この結婚を導いて下さるよう二人で
祈った。祈り続ける内に二人は変わ
った。各自が自分の事ではなく、相
手の求めに注意を集中するようにな
った。結婚生活が大きく変わったの
だ。今までに経験した事のない愛が
二人の間に育まれた。神は祈りに答
えられた。


2001年02月04日(日)

「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を堅く保っていてくださいます。測り網は、私の好む所に落ちた」 (詩篇16:5)

 ある人が、自己嫌悪に陥り、自分を責めていた。
神と交わるために、早朝散歩に出た。神と語りながら田舎道を歩いた。
太陽が昇ろうとする空は、ピンク色に染まり、鮮やかに美しかった。
思わず創造主である神をほめ讃えた。
風に舞う木の葉は美しかった。その時に、みことばが浮かんだ。
「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です.測り網は私の好む所に落ちた」心に平安がやって来て満ちた。
自然には、確かに好きでない部分もあるが、神の創造された創造物である。
自分が不愉快に感じたとしても、美を損なうものではない。
自分自信も同様に神が創造された。
自分で感じる、自分の欠点や自分への不満も、神が自分の内に置かれた本当の美しさを変えるものではない。
その時に、あるがまま愛して下さっている神のゆえに自分をあるがまま受け入れられるようになった。
自分の限界に忍耐できた。


2001年02月03日(土)

「もし子があなたがたを自由にするならあなたがたはほんとうに自由です」(ヨハネ8:36)


よくテレビ番組で、出演者が自分達の
不道徳な行為を得意そうに、面白ろお
かしく話している。恥も外聞もなく、
自分達の罪を話す彼らは、自分達は何
にも拘束されない自由な人間だと思っ
ている。実は自分達が罪の虜になって
いるのを気づいていない。肥満で医師
から食事制限を受けていた男は「医者
も私の自由を奪う事など出来ないぞ」
と豪語していた。やがて、彼の自由は
彼を死に至らしめた。別の男は、自由
に生きたいと妻と子供を捨て、別の女
性の元へ走った。身も心もぼろぼろに
なったが、生き方を変えなかった。ま
もなく彼は死んだ。自制も規律もない
自由など妄想だ。キリストに正しく従
う事にこそ、真の自由がある。この世
の楽しみに惹かれてれて行くクリスチ
ャンがいる。やがて、罪の恐ろしい代
価を払う事になる。


2001年02月02日(金)

「まず杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」(マタイ23:26)

 こんな話がある。ある男が自分の古い車を
ディーラーに持ちこんで、売ってくれるように頼んだ。
走行距離を尋ねられると、「三十万キロ」と答えた。
「走行距離を戻さない限り、売るのは無理でしょうね」
と言われると、男は立ち去った。
数週間後、販売係りが男に電話すると、「もう売る必要は
無くなった。今じゃこれは十万キロしか走っちゃいない。
なぜ売る必要があるかね」これは霊的真理を表わしている。
外側の行為を変えるだけで神を喜ばせる事が出来ると勘違
いしている。必要なのは新しい心だ。あの古い車は弱った
エンジン、悪いリング、すべる変速装置のままだった。
中身は何も変わっていない。
良い行いはあなたの心を変えない。キリストへの信仰だけが
内側と外側を清める。そして、初めてあなたの良い行いは
神を喜ばせるようになる。
新しい命はキリストを信じる信仰によって与えられる。
外の行いを幾ら良いものにしても、内側は汚れたままだ。


2001年02月01日(木)

「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)

今日一般的な考え方は、人のした事
や失敗について、個人は責められな
いというものだ。環境、遺伝、両親
社会、学校、政府が悪いと、その責
任を問われるが、個人の責任を問お
うとしない。神の御言葉は、このよ
うな責任転嫁は誤りであるとし、個
人の責任を強調している。昔「父が
酸いぶどうを食べたので、子供の歯
が浮く」という諺があった。今の苦
しみの責任は親にあると、責任転嫁
する。親の影響を受けたとしても、
罪を犯すのは本人、その責任は自分
にある。責任転嫁をすると、自分を
正当化してしまい、悔い改めて、主
の恵みを仰ぐ事が出来なくなる。神
の裁きを免れるために、まず裁かれ
て当然と認めねばならぬ。