2003年05月31日(土)

「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています」(ピリピ4:2)

試練が来た時、逆境の時、耐えられるだろうか、
自分の信仰はどうだろうと、時々思うだろう。
試練のメッセージを聞く時に問いかけられる。
しかし、実際は試練よりも、順境に耐えられる
だろうかと問うた方が良い。人生が順調に行って
いる時の方が、実は信仰において困難である
ことは体験するところだ。順調で何の問題もない
中で、よく人々は信仰から離れて行ってしまう。
世に流されてしまい気づかない。実は試練の
時は、神に真剣に拠り頼むので、神に近いのだ。
突然、莫大な富を手にしたため、その後の人生
が破滅したとは、よく聞く話だ。神に頼る必要が
無いので、自分の力で歩み出す。祝福とは、神
の一方的な愛顧であるのに、自分が正しいから
順調だと思い、高ぶってしまうのだ。神にすべての
ことを感謝しよう。


2003年05月30日(金)

「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(イザヤ40:11)


 一人の婦人、子供が出産時の困難で、脳に傷を負い
障害を生じた。しかし、その純真な笑顔は周囲を和ま
せ、明るくした。その子供が幼くして亡くなった時、
癒されようのない悲しみ、寂しさだった。
ただただ、子供を抱きしめ、笑顔を見たかった。
思いが募り、主の御前に心を打ち広げ、打ち明け、心
注ぎ出し、すべての思いと感情をぶつけ、心の癒しを
求めて祈った。その時に、子羊なるイエスが、子供を
ふところに抱いていて下さる、大きな慰めを得た。
そして、その時心が変えられた。主は子供と同様に、
彼女自身をもふところに抱いていて下さる事、すべて
の重荷を負っていて下さる事を知ったのだ。
主イエスに重荷を下ろし憩いと安らぎを経験した。
主のもとへ行く事だ。


2003年05月29日(木)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Tヨハネ4:10)


 福音を伝える時に、罪について説明をし、「罪がある事
がわかりますか」と聞くと「はい、でもそんなにひどい罪
だとは思えません。良い人間の方だと思います」と言う。
また、言わないにしても、心ではそう思っている。
神は「義人はいない。一人もいない」と言われた。
どんなに善人に思えても、私たちは皆悪い罪人だ。
心の奥底を正直に見るなら、すべての人は自己中心だ。
罪の性質があるからだ。外側がどんなによく見えても、心
の中は醜く、自分しか愛せないような者だ。自分を偽らず、
真実な姿を聖霊様が見せて下さるなら認めざるを得ない。
しかし、神はありのままの私達を自己中心で、自分しか愛
せない者を愛して下さったのだ。全くの無条件の一方的な
不変の愛で。


2003年05月28日(水)

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:8)

誰しも天国へ行きたいと思うが、本当に天国へ
行って幸せなのだろうか。この世を楽しみ、快
楽を求め、世にどっぷり浸かっていて、礼拝や
祈りや主との交わりに何の関心も無い。関心
の的は、ひたすらこの世界の事だ。そのような
人々が、突然天国へ行って主との交わりを楽
しめるのだろうか。天国には、この世がない。
快楽も無いし、罪も無い。そのような所へ本当
に行きたいのだろうか。行って楽しいのだろうか。
私達はそうではなく、地上にいる間に天国への
備えをすべきだ。この世にかまけているのでな
く、主イエスとの日々の親しい交わりを重ねつつ
神の御声を聞き、従うのだ。みこころを行なって
ゆくなら、更に主を親しく知れる。主イエスを愛し、
慕い求め、永遠への備えを日々すべきだ。主が
迎えに来て下さるのはもう近い。


2003年05月27日(火)

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストの香りなのです」(Uコリント2:15)


 未信者の親族がタバコを吸うだろう。
部屋に入ると少し前まで、父親がいたのだなと、
すぐわかる。愛すべき父親特有の匂いだ。
また別の匂いもある。赤ん坊から放たれるミルク
の匂いがある。独特の微笑ましい、心温められる
匂いだ。女性から漂う香水の香りもある。強烈で
はない心地良い、ほのかなかぐわしい香りだ。
様々な香りがあり、周囲に放たれている。
私達も周囲の人々に必ず何らかの香りを放ってい
る。人があなたの名前を聞く時、どんな印象を持
っているだろう、どんなイメージを浮かべ、どん
な感じを持つだろうか。あなたは周囲にどんな香
りを放っているだろう。自我が砕かれて、自分に
死んで行く事によって、キリストの似姿へと形造
られ変えられて行く。それによって、キリストの
かぐわしい香りが放たれて行く。


2003年05月26日(月)

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ9:37)


 よく主を知らない人から言われる言葉だ。
「クリスチャンは弱い人達だ何でも問題があれば神
任せで、自分の人生に責任をとらない事ではないか」
しかし、クリスチャンは敗北者ではない。
クリスチャンは圧倒的な勝利者だ。自分の弱さを認め
る事は決して恥ではない。むしろ強さだ。
弱い者に自分の弱さは認められない。
自分の弱さを認め、神に頼り、助けを求めるのであっ
て、何もしない事ではない。
そして全知全能の神は私達を確かに助けて下さる。
神が味方であるなら、私達は人生の勝利者だ。
自分の弱さを認める時、強められるのは何度も経験す
る事だ。神の助けが必要と知る事は力だ。
弱さは問題ではない。そこに神の力が完全に現われる。


2003年05月25日(日)

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)

ある女性、引っ込み思案で、自由に旅行を楽しみたいが、なかなかそれが出来なかった。不安が募り、億劫になってしまうのだ。ところが、ある時から、どんどん一人旅をし出した。「地図と口さえあれば大丈夫。わからなければ、聞けばいいとわかったの」と。一人旅を自由に楽しむようになった。私達の霊的歩みも同じだ。地図と口があれば、迷うことなく、目的地へ行くことができる。地図は御言葉だ。人生の旅路で、どっちに行けばよいか、わからない時、どう歩むべきか、わからない時、御言葉は足元をしっかり照らして道を示してくれる。口は祈りだ。神はどんなに小さな祈りも聞いて下さる。不安な時、恐れる時、みこころを知りたい時、いつでも神を呼び求めることができる。祈りと御言葉で、神の喜ばれる、お心にかなった道を歩める。


2003年05月24日(土)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:32)

ある男性の証しだ。ずっと仕事人間でやって来た。仕事がすべてで、成功したかった。上司の命令には絶対服従で、人の倍働いた。残業もいとわず、全エネルギーを仕事に注いだ。そのため順調に昇進した。更に多忙になったが仕事最優先で、家族を全く顧みることがなかった。家族との間に距離を感じ、不安で寂しくはあったが、考えまいとした。
やがて、過労で倒れ、病床で初めて自分のこと、家族のこと、将来のことを考えた。神から完全に離れてしまっていることを見せられた。優先順位が完全に間違っていたこと、人生で真に大事なものは何かを考え、心から悔い改めた。神を第一にし、信仰生活を大切にし、家族を仕事より優先させることを決心した。新しい生活が始まった。神は気づきを与えて下さる。


2003年05月23日(金)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテア6:7)


 私達の人生、日々の生活を見る時、「蒔いたものを刈る」
神の法則の通りだ。私達は愚かな事をしていないだろうか。
一時の罪の快楽、楽しみのために神の恵みを捨ててしまう。
モーセがそうだった。岩に命じて水を出せ、と神は命じられ
たのに、モーセは民に対する怒りから岩を二度も打った。
神に従わなかったため、約束の地カナンに入れなかった。
一時の怒りのために大きな犠牲を払う事になった。
ダビデは一時の欲望のためにバテシバと姦淫を犯し、ウリヤ
も殺害するという二重の罪を犯してしまった。
神は赦して下さったが、苦しい刈り取りがあり、ダビデの家
から剣が絶える事がなかった。誘惑がどんなに凄まじくとも、
罪に屈伏してはならない。主に頼り決して罪と戯れるな。


2003年05月22日(木)

「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れて入り、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは、入って来て、わたしの国を汚し、わたしのゆずりの地を忌みきらうべきものにした」(エレミヤ2:7)


 いつでも結婚式に出る時、微笑ましく心和むものだ。
どの信仰夫婦も愛し合っている。
最初は素晴らしいスタートを切るが、年月が経ると熱烈
な恋愛感情は失せて来るものだ。互いの欠点や弱さがも
ろに見えて来る。しかし、神との関係が冷えて来るなら、
それは神のせいでは全く無い。
なぜなら、神の愛は決して変わらないし真実も変わらな
いからだ。神に非はない。私達の側の問題だ。
神との交わりが少しづつ遠のく。世の快楽が勢いを増す。
霊的食物が段々減退する。
あなたは神から離れていないか。礼拝には忠実に出てい
るかもしれないが、心が神から離れていないか。
あなたの側に問題がある。静まって神との関係を再確認
せよ。


2003年05月21日(水)

「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる」(箴言3:9)

         
ある人が菜園を作り、野菜を育てた。丹精し見事な野菜を収穫した。もっと沢山あれば、人に分けてあげられるのにと思った。その時、心の底に「惜しむ」思いがあることに、気づかされた。これがいつも自分が神に対して取っている態度ではないかと。自分の大切なもの、自分のお金、自分の時間、労力は、まず自分のために取り、自分が満足して余ったら、神に献げ、人に分け与えていると。自分の最良のものは決して神にも人にも与えはしないと。自分本位で自己中心な姿が見せられた。自分が一番大切なのだ。神は最も大切な御子イエスを「惜しまずに」与えて下さった。主イエスを知らなかったら、今頃どんな人生を送っていたのだろう。自分の最も大事なものを、最良のものをまず第一に神に献げ
たい。


2003年05月20日(火)

「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から愛し合いなさい」(Tペテロ1:22)


 愛に偽りがあってはなりません、とあるように、
偽りのない愛は御霊によるものだ。
自分の内には無い御霊の愛だ。超自然だ。ある人が
職場にどうも合わない人がいて、好きになれなかっ
た。クリスチャンだから愛さねばならないと、愛せ
るように祈り続けた。何ヶ月たっても祈りは答えら
れない。心は悶々と苦しく、切羽詰り祈った。
「私は愛せません。愛したくないです。でも、私を
通してあなたが愛される事を承諾します」そして、
親切を行動で示す事を始めた。
神は助けて下さって、今では心も自由にされて、幸
いな関係とされ、以前の苦しみが嘘のようだ。
主が私達の内に生き、愛される。私達が全く明け渡
すなら、主はそうする事がお出来になる。


2003年05月19日(月)

『「私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトで仕えさせてください」事実エジプトに仕えるほうがよかった・・』(出エジプト14:12)


 ある婦人は幼稚園児の頃、両親がいつも喧嘩し
ていた。とうとう離婚になり、両親の離別を目の
当たりに見た。父に引き取られ、母が出て行った。
母はアル中気味だったが、離婚後ひどくなって行
った。母親は時々会いに来たが、生活が乱れてい
るのを見るのが辛かった。感謝な事に自分と父親
は教会へ導かれ、主イエスを信じ救われた。
父親は良い親になろうと生活を懸命に建て直して
いる。しかし母親は神を拒み、エジプトの絆が好
きで気に入っているのを見るのは悲しい。
離れたくないのだ。キリストにある永遠の命や喜
びより、エジプトが好きなのだ。
私達にも自分のエジプトがあるかもしれない。
もっと成長して行くより、このままでよいと縛り
付けているものは何だろう。


2003年05月18日(日)

「話が終ると、シモンに『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と言われた」(ルカ5:4)

聖歌にこんな歌詞がある「ある者はわずか漕ぎて、遠く乗り出さず、返る波に飲まれてたり、舟ともろともに、沖へいでよ、岸を離れ、主の恵みのただ中へ、いざ漕ぎいでよ」「乗りいだせ、沖をさして、恵みの潮の瀬に流されて、すべてを主に任すまでは」主は、それぞれの段階、段階に応じて導いて下さり、ある時、一歩前進せよと招いて下さる。今より深みに乗りいだせと。しかし、私達は恐れがあり、自我の欲望があり、自分の握り締めているものをなかなか手放せない。もっと高い深い素晴らしい神を知らないので、手の中のおもちゃが非常な宝物に見えてしまう。しかし、神はそれを手放して、神の力強い流れに身を任せよと言われる。神に信頼せよと。あなたは、今一段階前進せよと促されていないか。岸を離れ、沖へいでよ。


2003年05月17日(土)

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」(詩篇46:1)

             
北の地方へ行った時、雪の力に驚いた。吹雪が荒れ狂い、非常な強風に降雪もろともに巻き上げ、全く目の前が見えない状態になった。風の轟く音に恐怖を感じた。対照的に、家の中は安全そのもので、一切の風と雪はシャットアウトされ、ストーブが赤々と燃え暖かく、身の守りに慰められた。しかし、家が真の安全を保証するものでない事も知っている。大きな台風や洪水で家が流されるニュースもよく目
にする。私達の真の安全は神のみだ。何があろうと、どんな嵐、台風であろうと安全だ。不慮の事故、倒産、病気、失業、死別、何があろうと私達の避け所であり、力だ。人生の最も苦しい試練の深みを
通る時、それを体験する。主が共におられる、それがどんな状況の中でも平安の根拠だ。


2003年05月16日(金)

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」(マタイ6:11)


 私達は皆、疲れ果てるものだ。
主婦は子育てに疲れ果て、サラリーマンは仕事に
疲れ果て、学生は受験勉強に疲れ果てている。
私達は毎日毎日の肉体の糧が必要なように、霊的
糧が必要だ。それがないと霊的力が失せ生きてい
けない。荒野のイスラエルは朝毎にマナを集めた。
昨日のマナは腐ってしまうので朝毎に集めなけれ
ばならなかった。私達は昨日の恵みで、今日も乗
り切ろうとしているだろうか。
息切れがしてしまうだろう。主は毎日、必要なも
のを与えて下さる。神の恵みを朝毎に受け、それ
は日々「新しい」のだ。あなたは日毎に「新しい」
恵みを受けているか。
あなたの恵みは何日前、何年前のままか。
主のもとへ行け。「日毎に」「新しい」恵みが備
わっているのだ。受け取りに行かねば持てない。


2003年05月15日(木)

「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」(マルコ5:19)


 墓場に住みついていた悪霊につかれた男は、
昼夜叫び続け、石で自分の身体を傷つけていた。
イエスに出会い、悪霊を追い出してもらい、正気
に帰った彼に、家族や周囲の人達は驚き、目を見
張った。その彼が、イエスと共に行きたいと願っ
た時、主は、家族のもとへ帰り証しをせよと命じ
られた。神は一人一人に賜物に応じたそれぞれの
道を示される。ある人は海外宣教に出るように、
ある人は国内宣教、別の人は近所の人々への証し、
また学校や職場での証し、場所が何処であれ示さ
れた事に従順に応答するなら、そこで豊かな実を
刈り取る事になる。あなたの遣わされた場所はど
こで、誰に証しせよと導かれているか。


2003年05月14日(水)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)

キリストを宣べ伝えたという理由で、パウロとシラス
は、何度もむち打たれ、牢獄に入れられ、足かせをか
けられた。打たれた傷は痛み、牢獄は暗く湿っていて
気が滅入りそうだった。失望落胆しそうだ。しかし、
彼らは全く違った。そのような状況の中で祈りと賛美
をしていたのだ。その時、地震が起こり扉は開き、囚
人達の鎖は解けてしまった。ところが、パウロとシラス
は逃げなかった。二人にとって、真の自由とは、肉体的
に拘束から解かれることではなかったのだ。彼らは牢獄
のまっただ中で、すでに自由だったのだ。状況には関係
無かった。御霊に導かれて、御霊に従っている時、私達
は自由だ。みこころの中にいる時、苦しくても、心の
奥底に揺るぐ事のない平安を経験する。主を知れば知る
ほど自由になる。


2003年05月13日(火)

『しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さの内に完全に現われるからである』(Uコリント12:9)


 生活の中で、私達は色々な困難を経験する。
経済的困窮、倒産、失業、別離、病気、事故
・・この苦しみの時期に私達は神の恵みに拠
り頼む事が出来る。そして、神の恵みは私達
の必要ぴったりの時に来る事だ。
ある子供が父親に「死ぬ時とはどんなものな
のか、死ぬのは恐い」と言った時、父親は子
供に「大丈夫、その時には神様が恵みを与え、
必要な力も下さるから何の心配もないのだよ」
と答えた。私達の肉の思いは、いつも蓄えたい。
霊的必要を前もって蓄えておきたいのだ。
しかし、恵みはその時その時に与えられるとは
なんと平安な事だろう。
神を信頼して生きて行けるのだ。荒野でマナが
日毎に降って来た。私達も日毎に必要が与えら
れる。神に信頼して行く時成長して行く。
思い煩うな。


2003年05月12日(月)

「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(マルコ14:8)


 主はマリヤの事を、彼女は自分にできることをした
と言われた。主はマリヤの主への行ないを喜ばれた。
どこにいようと、主は私達を用いて下さる。マリヤは
高価な香油を主のからだに塗り、これから十字架につ
こうとされている主のお心を深くお慰めした。
この素晴らしい奉仕ができたのは、マリヤが常に主の
足元に座し、しっかりと御言葉に耳を傾けたからだ。
雑多で多忙な日常で御声を聞き続ける事の大切さを思
う。偉大なる働きに召された人は僅かだ。
ほとんどの人々は普通の人々の中で平凡に生きる。
自分に出来ることをすれば良い。主婦は近所の主婦を
お茶に招き証しができる。学生や会社員はそれぞれの
場で証しをすればよい。できない事ではなく、自分に
できる事をすればよい。


2003年05月11日(日)

「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)

「待つこと」は誰にとっても難しい事だ。大変難しい。
待つことほど、困難な事はないかも知れない。神は
私達の側の心備えのために、待つ事を命じられる。
主が弟子達にエルサレムにとどまって、父の約束
を待てと言われた時、心の準備のためであった。
弟子達は心を一つにして、備えをした。待つ時間は
幸いな時間だ。御言葉を聞く時であり、神を深く思う
時だ。そして、私達が動くのでなく、神が働いて下さ
る時間なのだ。神は私達に待つことを命じられる。
人生の指示を与えて下さる時も、待ち望まねばな
らない時が往々にしてある。人生のみこころのため
に長期間待ち望んだある人は、振り返った時、その
期間は神に極めて近く歩め、又、その期間に実質的
技術も身につける事ができ、すべてにおいて益であり、
御旨を示された時、即、神の召しに応答できた。
神を待ち望むことは幸い。


2003年05月10日(土)

「主よ。私のうめきを聞きとってください。私の叫びの声を心に留めてください・・私はあなたに祈っています」(詩篇5:1)

サラリーマンである男性が過密スケジュールの仕事をこなしていた。深う夜に帰宅し、早朝には出勤。そんな中、特別に多忙な1週間を過ごした。その時に出張が入った。車での出張だった。神との交わりをほとんど持てない1週間だったので、感謝し、車の中での時間を神との交わりに用いた。運転しながら祈り、賛美し、御言葉を思い、神と交わった。教会の牧師のため、一人一人の兄弟姉妹達のために祈り続け
た。その後、神を意識し続け、黙って神と共にいた。何という幸いな時間、楽しい時間であっただろう。心は新たにされ、平安と喜びに満たされた。神が与えて下さった出張に心から感謝した。仕事を終えての帰路、ラジオに手が伸びたが、続けて神との交わりを楽しもうと、手を止めて、瞑想しながら運転を続けた。行き帰りを通して、カラカラの心が水を得たスポンジのように、すっかりよみがえった。神はいこいの水のほとに伴って下さる。みもとに導き返してくださる。


2003年05月09日(金)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)


 一人の男性が子供の時、母親が再婚。義父とうまく
行かなかった。思春期の頃、様々な行き違いからの争
いがあり、敵意と憎しみ、恨みが心の底に蓄積された。
牧師にその事を話した時、牧師は義父に謝るようにと
言われた。その意味がわからなかった。
しかし、心の内を探り、よく考えた時、自分の人生の
うまく行かなかった事のすべてを義父のせいにして、
責め、責任転嫁している事に気づかされた。
決心して義父に今までの事を謝った。すると義父も間
違いを認めた。憎しみが溶かされ、和解し、関係がま
ったく変えられた。長い苦しみから開放された。
心に喜びが来た。神との関係も新たにされた。あなた
は誰の赦しを求めなければならないか。


2003年05月08日(木)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ5:18)


 田舎の土地に、高速道路が出来るので、立ち退き
の話が出た。村の人々が家を失う事を恐れ、不安に
なった。ある日の礼拝で牧師が「すべての事につい
て感謝しなさい」とのメッセージを語った。
この事柄にどう感謝したらよいのかわからなかった
が、理由はわからなかったが、神に感謝をささげた。
すぐに、この事が大きな祝福だとわかった。
思いを遥かに超えた莫大な保証金を提示されたのだ。
場所は変わったが、皆が前より遥かに立派な家を建
てる事ができた。
感謝する事は信仰だ。まだ見えない事を神を信じて
先取り感謝して行く時サタンの足場をくつがえす。
感謝と思い煩いや不安は同居できない。感謝は力だ。
サタンの働く余地を与えない。
すべての事を感謝しよう。


2003年05月07日(水)

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたを信頼しているからです」(イザヤ26:3)

ある人の証しだ。仕事が大変忙しくなり、帰宅が
深夜になる事もしばしばとなり、疲れ果て、日曜
は教会へ行かなくなってしまった。悩みや問題が
生じた時には行き、又、人生の大きな喜びの時
には行くぐらいだった。人々が何で毎週行ける
のかがわからなかった。そんな時、人生観を
変える説教を聞いた。信仰や神に従う事に関し
て、感情に頼っていてはならないというものだ
った。意志で決断して行なわねばならないと。
説教者は日曜の度に喜びで満ちていたり、
熱い心があったわけではないと話した。しかし、
意志で従い続けた時、感情はついて来て喜び
が与えられたと。みこころを行なおうと決心する
なら、神は助けて下さる。感情ではなく、意志で
従って行こう。


2003年05月06日(火)

「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)

「私が子どもであったときには、子どもとして
話し、子どもとして考え、子どもとして論じま
したが、おとなになったときには、子どものこ
とをやめました」(Tコリント13:11)


 主は子供のような信仰を持つようにと語られた。
しかし、子供のような素直な信仰とは子供っぽい
信仰の事ではない。子供っぽい信仰とは、自分が
受ける事しか考えない。神は良くして下さらなけ
ればならない。困難が来ると不平不満。
思い通りにならないと、すねて、いじけて、自己
憐憫に陥る。神を責め、人を責め、環境のせいに
する。主にある友が愛をもって、間違いを正そう
とすると、自分を受け入れないと怒る。
どこまでも自己中心なのだ。あなたの信仰はどう
か。神は聖くして下さりたいので、困難は次から
次へと来る。愛のゆえだ。
子供っぽい信仰から脱却し、大人の信仰へと成長
して行こう。神は手をとって導いて下さる。


2003年05月05日(月)

「私は黙っていたときには一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり・・」(詩篇32:3)


 犯行を犯して、何年、何十年と逃避行をする犯人が
いる。一つ所に留まる事もできない。一時も安らぐ事
がない毎日だ。神経を研ぎ澄ましていなければならな
い逃避行が長くなると、もう休みたい、捕まりたいと
の心理が生じるそうだ。ダビデも自分の罪に向き合う
事を拒み悶々とした心の内を記している。
なぜ、私達は神の前に隠れようとするのか。
神にも自分にも隠れようのない事がわかっているのに。
罪は恐れを生じさせ、神の前から逃げる。アダムとエ
バもそうしたように。しかしダビデは勇気を持って自
らの罪を認めた。
「私のそむきの罪を主に告白しようとすると、あなた
は私の罪のとがめを赦されました」罪には赦しがすで
に備えられている。それを認め告白しさえすれば。



2003年05月04日(日)

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(ローマ8:35)

信仰があると、いつも幸福なのだろうか。困難や
苦しみ、悩みがあると、すぐ不平不満、つぶやきで
一杯になる人々がいる。信仰は私達を幸せにして
くれるのではないのか。主は私達を危害や悩みか
ら守って下さるはずではないのか。しかし、御言葉
はそう言ってはいない。神は明確に私達に困難が
あると言っておられる。患難、苦しみ、迫害、飢え、
裸、剣・・多くの困難がある。苦難を通る時、主は
共におられ、ひときわ強い愛で守り導いて下さる。
キリストと共にあれば、心に消える事のない真の
喜びを持つ。困難はやってくるが、悩みに押しつぶ
されるのではなく、一つ一つ確実に乗り越えて行け
るのだ。そして、成長して行く。困難や悩みは信仰
生活の中に与えられていることを覚えよう。しかし、
圧倒的勝利者となる。




2003年05月03日(土)

「それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3)

厳しい試練の中で私達はどうするだろう。ある人は
心はついて行かないが、まあとにかく主をほめたた
えようとする。しかし、心の中ではつぶやいている。
感謝しなければならないから、感謝するという態度
だ。しかし、御言葉によると、患難は忍耐を生み出
し、忍耐が練られた品性を生み出すとある。試練を
通して、霊的に成長し、敬虔な品性が培われて行く
のだ。何と幸いな事だろう。今、あなたは試練のま
っただ中で苦しいかも知れない。しかし、神は解決
を持っておられる。ご計画があり、教えようとされて
いる事がある。つぶやいていると、せっかくの神の
ご計画、知恵が見えない。神は私達を造り変えて
行かれる。状況でなく、私達を変えたいのだ。人格
を成長させたいと思っておられる。


2003年05月02日(金)

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(Tヨハネ1:8)


 イエスはいつも罪人と共におられ、罪人を
愛された。遊女や取税人、大酒飲みを愛され
た。どのような罪人も愛され、その罪を赦し
て癒して下さった主が何よりも非難された罪
がある。それは何だろうか。偽善者だ。
当時の宗教指導者達が陥っていた罪だ。
彼らは律法を守り、神を愛する振りをして、
人に霊的だと思われたい。人を欺いているが、
実は神を欺いている恐ろしい罪だ。
神を欺くことなどできない。本当の自分以外
の者である振りをする、自分を実際の自分と
違って良く見せる、それは偽りの罪だ。
神は常に心の中を見ておられる。私達の全て
を知っておられる。神から隠れる事はできな
いし装う事もできない。主は心のうちの真実
を何よりも喜ばれる。人を欺く事が実は神を
欺く事である事に心しよう。


2003年05月01日(木)

「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」(エペソ5:14)


 一人の青年が交通事故で救急車で病院に運ばれ、
手術後昏睡状態に陥った。もうだめだと医者にも
言われたが、九死に一生を得、昏睡状態から目覚
め身体も回復した。しかし、多くの人々は、肉体
的には元気だが、霊的な昏睡状態にある。
彼らは現実である霊的な事柄に全く気づかず、見
えず、霊の世界に死んでいる。
主がラザロを肉体の死から甦らされたように、主
は霊的な死から人々を甦らせて下さる。
命の御言葉を通して、霊的昏睡状態から呼び覚ま
され、新しい霊の命を与えて下さる。
罪により心が曇らされ、神を見えなくされている。
十字架に癒しがある。すでに救われているのに、神
を離れた生活をしているなら同じく霊的昏睡状態だ。
すぐに神の元へ立ち帰れ。