2003年05月31日(土) 「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています」(ピリピ4:2)
「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています」(ピリピ4:2)
試練が来た時、逆境の時、耐えられるだろうか、 自分の信仰はどうだろうと、時々思うだろう。 試練のメッセージを聞く時に問いかけられる。 しかし、実際は試練よりも、順境に耐えられる だろうかと問うた方が良い。人生が順調に行って いる時の方が、実は信仰において困難である ことは体験するところだ。順調で何の問題もない 中で、よく人々は信仰から離れて行ってしまう。 世に流されてしまい気づかない。実は試練の 時は、神に真剣に拠り頼むので、神に近いのだ。 突然、莫大な富を手にしたため、その後の人生 が破滅したとは、よく聞く話だ。神に頼る必要が 無いので、自分の力で歩み出す。祝福とは、神 の一方的な愛顧であるのに、自分が正しいから 順調だと思い、高ぶってしまうのだ。神にすべての ことを感謝しよう。
2003年05月30日(金) 「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(イザヤ40:11)
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(イザヤ40:11)
一人の婦人、子供が出産時の困難で、脳に傷を負い 障害を生じた。しかし、その純真な笑顔は周囲を和ま せ、明るくした。その子供が幼くして亡くなった時、 癒されようのない悲しみ、寂しさだった。 ただただ、子供を抱きしめ、笑顔を見たかった。 思いが募り、主の御前に心を打ち広げ、打ち明け、心 注ぎ出し、すべての思いと感情をぶつけ、心の癒しを 求めて祈った。その時に、子羊なるイエスが、子供を ふところに抱いていて下さる、大きな慰めを得た。 そして、その時心が変えられた。主は子供と同様に、 彼女自身をもふところに抱いていて下さる事、すべて の重荷を負っていて下さる事を知ったのだ。 主イエスに重荷を下ろし憩いと安らぎを経験した。 主のもとへ行く事だ。
2003年05月29日(木) 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Tヨハネ4:10)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Tヨハネ4:10)
福音を伝える時に、罪について説明をし、「罪がある事 がわかりますか」と聞くと「はい、でもそんなにひどい罪 だとは思えません。良い人間の方だと思います」と言う。 また、言わないにしても、心ではそう思っている。 神は「義人はいない。一人もいない」と言われた。 どんなに善人に思えても、私たちは皆悪い罪人だ。 心の奥底を正直に見るなら、すべての人は自己中心だ。 罪の性質があるからだ。外側がどんなによく見えても、心 の中は醜く、自分しか愛せないような者だ。自分を偽らず、 真実な姿を聖霊様が見せて下さるなら認めざるを得ない。 しかし、神はありのままの私達を自己中心で、自分しか愛 せない者を愛して下さったのだ。全くの無条件の一方的な 不変の愛で。
2003年05月28日(水) 「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:8)
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:8)
誰しも天国へ行きたいと思うが、本当に天国へ 行って幸せなのだろうか。この世を楽しみ、快 楽を求め、世にどっぷり浸かっていて、礼拝や 祈りや主との交わりに何の関心も無い。関心 の的は、ひたすらこの世界の事だ。そのような 人々が、突然天国へ行って主との交わりを楽 しめるのだろうか。天国には、この世がない。 快楽も無いし、罪も無い。そのような所へ本当 に行きたいのだろうか。行って楽しいのだろうか。 私達はそうではなく、地上にいる間に天国への 備えをすべきだ。この世にかまけているのでな く、主イエスとの日々の親しい交わりを重ねつつ 神の御声を聞き、従うのだ。みこころを行なって ゆくなら、更に主を親しく知れる。主イエスを愛し、 慕い求め、永遠への備えを日々すべきだ。主が 迎えに来て下さるのはもう近い。
2003年05月27日(火) 「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストの香りなのです」(Uコリント2:15)
「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストの香りなのです」(Uコリント2:15)
未信者の親族がタバコを吸うだろう。 部屋に入ると少し前まで、父親がいたのだなと、 すぐわかる。愛すべき父親特有の匂いだ。 また別の匂いもある。赤ん坊から放たれるミルク の匂いがある。独特の微笑ましい、心温められる 匂いだ。女性から漂う香水の香りもある。強烈で はない心地良い、ほのかなかぐわしい香りだ。 様々な香りがあり、周囲に放たれている。 私達も周囲の人々に必ず何らかの香りを放ってい る。人があなたの名前を聞く時、どんな印象を持 っているだろう、どんなイメージを浮かべ、どん な感じを持つだろうか。あなたは周囲にどんな香 りを放っているだろう。自我が砕かれて、自分に 死んで行く事によって、キリストの似姿へと形造 られ変えられて行く。それによって、キリストの かぐわしい香りが放たれて行く。
2003年05月26日(月) 「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ9:37)
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ9:37)
よく主を知らない人から言われる言葉だ。 「クリスチャンは弱い人達だ何でも問題があれば神 任せで、自分の人生に責任をとらない事ではないか」 しかし、クリスチャンは敗北者ではない。 クリスチャンは圧倒的な勝利者だ。自分の弱さを認め る事は決して恥ではない。むしろ強さだ。 弱い者に自分の弱さは認められない。 自分の弱さを認め、神に頼り、助けを求めるのであっ て、何もしない事ではない。 そして全知全能の神は私達を確かに助けて下さる。 神が味方であるなら、私達は人生の勝利者だ。 自分の弱さを認める時、強められるのは何度も経験す る事だ。神の助けが必要と知る事は力だ。 弱さは問題ではない。そこに神の力が完全に現われる。
2003年05月25日(日) 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)
ある女性、引っ込み思案で、自由に旅行を楽しみたいが、なかなかそれが出来なかった。不安が募り、億劫になってしまうのだ。ところが、ある時から、どんどん一人旅をし出した。「地図と口さえあれば大丈夫。わからなければ、聞けばいいとわかったの」と。一人旅を自由に楽しむようになった。私達の霊的歩みも同じだ。地図と口があれば、迷うことなく、目的地へ行くことができる。地図は御言葉だ。人生の旅路で、どっちに行けばよいか、わからない時、どう歩むべきか、わからない時、御言葉は足元をしっかり照らして道を示してくれる。口は祈りだ。神はどんなに小さな祈りも聞いて下さる。不安な時、恐れる時、みこころを知りたい時、いつでも神を呼び求めることができる。祈りと御言葉で、神の喜ばれる、お心にかなった道を歩める。
2003年05月24日(土) 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:32)
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:32)
ある男性の証しだ。ずっと仕事人間でやって来た。仕事がすべてで、成功したかった。上司の命令には絶対服従で、人の倍働いた。残業もいとわず、全エネルギーを仕事に注いだ。そのため順調に昇進した。更に多忙になったが仕事最優先で、家族を全く顧みることがなかった。家族との間に距離を感じ、不安で寂しくはあったが、考えまいとした。 やがて、過労で倒れ、病床で初めて自分のこと、家族のこと、将来のことを考えた。神から完全に離れてしまっていることを見せられた。優先順位が完全に間違っていたこと、人生で真に大事なものは何かを考え、心から悔い改めた。神を第一にし、信仰生活を大切にし、家族を仕事より優先させることを決心した。新しい生活が始まった。神は気づきを与えて下さる。
2003年05月23日(金) 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテア6:7)
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテア6:7)
私達の人生、日々の生活を見る時、「蒔いたものを刈る」 神の法則の通りだ。私達は愚かな事をしていないだろうか。 一時の罪の快楽、楽しみのために神の恵みを捨ててしまう。 モーセがそうだった。岩に命じて水を出せ、と神は命じられ たのに、モーセは民に対する怒りから岩を二度も打った。 神に従わなかったため、約束の地カナンに入れなかった。 一時の怒りのために大きな犠牲を払う事になった。 ダビデは一時の欲望のためにバテシバと姦淫を犯し、ウリヤ も殺害するという二重の罪を犯してしまった。 神は赦して下さったが、苦しい刈り取りがあり、ダビデの家 から剣が絶える事がなかった。誘惑がどんなに凄まじくとも、 罪に屈伏してはならない。主に頼り決して罪と戯れるな。
2003年05月22日(木) 「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れて入り、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは、入って来て、わたしの国を汚し、わたしのゆずりの地を忌みきらうべきものにした」(エレミヤ2:7)
「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れて入り、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは、入って来て、わたしの国を汚し、わたしのゆずりの地を忌みきらうべきものにした」(エレミヤ2:7)
いつでも結婚式に出る時、微笑ましく心和むものだ。 どの信仰夫婦も愛し合っている。 最初は素晴らしいスタートを切るが、年月が経ると熱烈 な恋愛感情は失せて来るものだ。互いの欠点や弱さがも ろに見えて来る。しかし、神との関係が冷えて来るなら、 それは神のせいでは全く無い。 なぜなら、神の愛は決して変わらないし真実も変わらな いからだ。神に非はない。私達の側の問題だ。 神との交わりが少しづつ遠のく。世の快楽が勢いを増す。 霊的食物が段々減退する。 あなたは神から離れていないか。礼拝には忠実に出てい るかもしれないが、心が神から離れていないか。 あなたの側に問題がある。静まって神との関係を再確認 せよ。
2003年05月21日(水) 「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる」(箴言3:9)
「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる」(箴言3:9)
ある人が菜園を作り、野菜を育てた。丹精し見事な野菜を収穫した。もっと沢山あれば、人に分けてあげられるのにと思った。その時、心の底に「惜しむ」思いがあることに、気づかされた。これがいつも自分が神に対して取っている態度ではないかと。自分の大切なもの、自分のお金、自分の時間、労力は、まず自分のために取り、自分が満足して余ったら、神に献げ、人に分け与えていると。自分の最良のものは決して神にも人にも与えはしないと。自分本位で自己中心な姿が見せられた。自分が一番大切なのだ。神は最も大切な御子イエスを「惜しまずに」与えて下さった。主イエスを知らなかったら、今頃どんな人生を送っていたのだろう。自分の最も大事なものを、最良のものをまず第一に神に献げ たい。
2003年05月20日(火) 「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から愛し合いなさい」(Tペテロ1:22)
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から愛し合いなさい」(Tペテロ1:22)
愛に偽りがあってはなりません、とあるように、 偽りのない愛は御霊によるものだ。 自分の内には無い御霊の愛だ。超自然だ。ある人が 職場にどうも合わない人がいて、好きになれなかっ た。クリスチャンだから愛さねばならないと、愛せ るように祈り続けた。何ヶ月たっても祈りは答えら れない。心は悶々と苦しく、切羽詰り祈った。 「私は愛せません。愛したくないです。でも、私を 通してあなたが愛される事を承諾します」そして、 親切を行動で示す事を始めた。 神は助けて下さって、今では心も自由にされて、幸 いな関係とされ、以前の苦しみが嘘のようだ。 主が私達の内に生き、愛される。私達が全く明け渡 すなら、主はそうする事がお出来になる。
2003年05月19日(月) 『「私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトで仕えさせてください」事実エジプトに仕えるほうがよかった・・』(出エジプト14:12)
『「私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトで仕えさせてください」事実エジプトに仕えるほうがよかった・・』(出エジプト14:12)
ある婦人は幼稚園児の頃、両親がいつも喧嘩し ていた。とうとう離婚になり、両親の離別を目の 当たりに見た。父に引き取られ、母が出て行った。 母はアル中気味だったが、離婚後ひどくなって行 った。母親は時々会いに来たが、生活が乱れてい るのを見るのが辛かった。感謝な事に自分と父親 は教会へ導かれ、主イエスを信じ救われた。 父親は良い親になろうと生活を懸命に建て直して いる。しかし母親は神を拒み、エジプトの絆が好 きで気に入っているのを見るのは悲しい。 離れたくないのだ。キリストにある永遠の命や喜 びより、エジプトが好きなのだ。 私達にも自分のエジプトがあるかもしれない。 もっと成長して行くより、このままでよいと縛り 付けているものは何だろう。
2003年05月18日(日) 「話が終ると、シモンに『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と言われた」(ルカ5:4)
「話が終ると、シモンに『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と言われた」(ルカ5:4)
聖歌にこんな歌詞がある「ある者はわずか漕ぎて、遠く乗り出さず、返る波に飲まれてたり、舟ともろともに、沖へいでよ、岸を離れ、主の恵みのただ中へ、いざ漕ぎいでよ」「乗りいだせ、沖をさして、恵みの潮の瀬に流されて、すべてを主に任すまでは」主は、それぞれの段階、段階に応じて導いて下さり、ある時、一歩前進せよと招いて下さる。今より深みに乗りいだせと。しかし、私達は恐れがあり、自我の欲望があり、自分の握り締めているものをなかなか手放せない。もっと高い深い素晴らしい神を知らないので、手の中のおもちゃが非常な宝物に見えてしまう。しかし、神はそれを手放して、神の力強い流れに身を任せよと言われる。神に信頼せよと。あなたは、今一段階前進せよと促されていないか。岸を離れ、沖へいでよ。
2003年05月17日(土) 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」(詩篇46:1)
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」(詩篇46:1)
北の地方へ行った時、雪の力に驚いた。吹雪が荒れ狂い、非常な強風に降雪もろともに巻き上げ、全く目の前が見えない状態になった。風の轟く音に恐怖を感じた。対照的に、家の中は安全そのもので、一切の風と雪はシャットアウトされ、ストーブが赤々と燃え暖かく、身の守りに慰められた。しかし、家が真の安全を保証するものでない事も知っている。大きな台風や洪水で家が流されるニュースもよく目 にする。私達の真の安全は神のみだ。何があろうと、どんな嵐、台風であろうと安全だ。不慮の事故、倒産、病気、失業、死別、何があろうと私達の避け所であり、力だ。人生の最も苦しい試練の深みを 通る時、それを体験する。主が共におられる、それがどんな状況の中でも平安の根拠だ。
2003年05月16日(金) 「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」(マタイ6:11)
「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」(マタイ6:11)
私達は皆、疲れ果てるものだ。 主婦は子育てに疲れ果て、サラリーマンは仕事に 疲れ果て、学生は受験勉強に疲れ果てている。 私達は毎日毎日の肉体の糧が必要なように、霊的 糧が必要だ。それがないと霊的力が失せ生きてい けない。荒野のイスラエルは朝毎にマナを集めた。 昨日のマナは腐ってしまうので朝毎に集めなけれ ばならなかった。私達は昨日の恵みで、今日も乗 り切ろうとしているだろうか。 息切れがしてしまうだろう。主は毎日、必要なも のを与えて下さる。神の恵みを朝毎に受け、それ は日々「新しい」のだ。あなたは日毎に「新しい」 恵みを受けているか。 あなたの恵みは何日前、何年前のままか。 主のもとへ行け。「日毎に」「新しい」恵みが備 わっているのだ。受け取りに行かねば持てない。
2003年05月15日(木) 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」(マルコ5:19)
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」(マルコ5:19)
墓場に住みついていた悪霊につかれた男は、 昼夜叫び続け、石で自分の身体を傷つけていた。 イエスに出会い、悪霊を追い出してもらい、正気 に帰った彼に、家族や周囲の人達は驚き、目を見 張った。その彼が、イエスと共に行きたいと願っ た時、主は、家族のもとへ帰り証しをせよと命じ られた。神は一人一人に賜物に応じたそれぞれの 道を示される。ある人は海外宣教に出るように、 ある人は国内宣教、別の人は近所の人々への証し、 また学校や職場での証し、場所が何処であれ示さ れた事に従順に応答するなら、そこで豊かな実を 刈り取る事になる。あなたの遣わされた場所はど こで、誰に証しせよと導かれているか。
2003年05月14日(水) 「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)
キリストを宣べ伝えたという理由で、パウロとシラス は、何度もむち打たれ、牢獄に入れられ、足かせをか けられた。打たれた傷は痛み、牢獄は暗く湿っていて 気が滅入りそうだった。失望落胆しそうだ。しかし、 彼らは全く違った。そのような状況の中で祈りと賛美 をしていたのだ。その時、地震が起こり扉は開き、囚 人達の鎖は解けてしまった。ところが、パウロとシラス は逃げなかった。二人にとって、真の自由とは、肉体的 に拘束から解かれることではなかったのだ。彼らは牢獄 のまっただ中で、すでに自由だったのだ。状況には関係 無かった。御霊に導かれて、御霊に従っている時、私達 は自由だ。みこころの中にいる時、苦しくても、心の 奥底に揺るぐ事のない平安を経験する。主を知れば知る ほど自由になる。
2003年05月13日(火) 『しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さの内に完全に現われるからである』(Uコリント12:9)
『しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さの内に完全に現われるからである』(Uコリント12:9)
生活の中で、私達は色々な困難を経験する。 経済的困窮、倒産、失業、別離、病気、事故 ・・この苦しみの時期に私達は神の恵みに拠 り頼む事が出来る。そして、神の恵みは私達 の必要ぴったりの時に来る事だ。 ある子供が父親に「死ぬ時とはどんなものな のか、死ぬのは恐い」と言った時、父親は子 供に「大丈夫、その時には神様が恵みを与え、 必要な力も下さるから何の心配もないのだよ」 と答えた。私達の肉の思いは、いつも蓄えたい。 霊的必要を前もって蓄えておきたいのだ。 しかし、恵みはその時その時に与えられるとは なんと平安な事だろう。 神を信頼して生きて行けるのだ。荒野でマナが 日毎に降って来た。私達も日毎に必要が与えら れる。神に信頼して行く時成長して行く。 思い煩うな。
2003年05月12日(月) 「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(マルコ14:8)
「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(マルコ14:8)
主はマリヤの事を、彼女は自分にできることをした と言われた。主はマリヤの主への行ないを喜ばれた。 どこにいようと、主は私達を用いて下さる。マリヤは 高価な香油を主のからだに塗り、これから十字架につ こうとされている主のお心を深くお慰めした。 この素晴らしい奉仕ができたのは、マリヤが常に主の 足元に座し、しっかりと御言葉に耳を傾けたからだ。 雑多で多忙な日常で御声を聞き続ける事の大切さを思 う。偉大なる働きに召された人は僅かだ。 ほとんどの人々は普通の人々の中で平凡に生きる。 自分に出来ることをすれば良い。主婦は近所の主婦を お茶に招き証しができる。学生や会社員はそれぞれの 場で証しをすればよい。できない事ではなく、自分に できる事をすればよい。
2003年05月11日(日) 「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)
「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)
「待つこと」は誰にとっても難しい事だ。大変難しい。 待つことほど、困難な事はないかも知れない。神は 私達の側の心備えのために、待つ事を命じられる。 主が弟子達にエルサレムにとどまって、父の約束 を待てと言われた時、心の準備のためであった。 弟子達は心を一つにして、備えをした。待つ時間は 幸いな時間だ。御言葉を聞く時であり、神を深く思う 時だ。そして、私達が動くのでなく、神が働いて下さ る時間なのだ。神は私達に待つことを命じられる。 人生の指示を与えて下さる時も、待ち望まねばな らない時が往々にしてある。人生のみこころのため に長期間待ち望んだある人は、振り返った時、その 期間は神に極めて近く歩め、又、その期間に実質的 技術も身につける事ができ、すべてにおいて益であり、 御旨を示された時、即、神の召しに応答できた。 神を待ち望むことは幸い。
2003年05月10日(土) 「主よ。私のうめきを聞きとってください。私の叫びの声を心に留めてください・・私はあなたに祈っています」(詩篇5:1)
「主よ。私のうめきを聞きとってください。私の叫びの声を心に留めてください・・私はあなたに祈っています」(詩篇5:1)
サラリーマンである男性が過密スケジュールの仕事をこなしていた。深う夜に帰宅し、早朝には出勤。そんな中、特別に多忙な1週間を過ごした。その時に出張が入った。車での出張だった。神との交わりをほとんど持てない1週間だったので、感謝し、車の中での時間を神との交わりに用いた。運転しながら祈り、賛美し、御言葉を思い、神と交わった。教会の牧師のため、一人一人の兄弟姉妹達のために祈り続け た。その後、神を意識し続け、黙って神と共にいた。何という幸いな時間、楽しい時間であっただろう。心は新たにされ、平安と喜びに満たされた。神が与えて下さった出張に心から感謝した。仕事を終えての帰路、ラジオに手が伸びたが、続けて神との交わりを楽しもうと、手を止めて、瞑想しながら運転を続けた。行き帰りを通して、カラカラの心が水を得たスポンジのように、すっかりよみがえった。神はいこいの水のほとに伴って下さる。みもとに導き返してくださる。
2003年05月09日(金) 「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)
一人の男性が子供の時、母親が再婚。義父とうまく 行かなかった。思春期の頃、様々な行き違いからの争 いがあり、敵意と憎しみ、恨みが心の底に蓄積された。 牧師にその事を話した時、牧師は義父に謝るようにと 言われた。その意味がわからなかった。 しかし、心の内を探り、よく考えた時、自分の人生の うまく行かなかった事のすべてを義父のせいにして、 責め、責任転嫁している事に気づかされた。 決心して義父に今までの事を謝った。すると義父も間 違いを認めた。憎しみが溶かされ、和解し、関係がま ったく変えられた。長い苦しみから開放された。 心に喜びが来た。神との関係も新たにされた。あなた は誰の赦しを求めなければならないか。
2003年05月08日(木) 「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ5:18)
「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ5:18)
田舎の土地に、高速道路が出来るので、立ち退き の話が出た。村の人々が家を失う事を恐れ、不安に なった。ある日の礼拝で牧師が「すべての事につい て感謝しなさい」とのメッセージを語った。 この事柄にどう感謝したらよいのかわからなかった が、理由はわからなかったが、神に感謝をささげた。 すぐに、この事が大きな祝福だとわかった。 思いを遥かに超えた莫大な保証金を提示されたのだ。 場所は変わったが、皆が前より遥かに立派な家を建 てる事ができた。 感謝する事は信仰だ。まだ見えない事を神を信じて 先取り感謝して行く時サタンの足場をくつがえす。 感謝と思い煩いや不安は同居できない。感謝は力だ。 サタンの働く余地を与えない。 すべての事を感謝しよう。
2003年05月07日(水) 「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたを信頼しているからです」(イザヤ26:3)
「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたを信頼しているからです」(イザヤ26:3)
ある人の証しだ。仕事が大変忙しくなり、帰宅が 深夜になる事もしばしばとなり、疲れ果て、日曜 は教会へ行かなくなってしまった。悩みや問題が 生じた時には行き、又、人生の大きな喜びの時 には行くぐらいだった。人々が何で毎週行ける のかがわからなかった。そんな時、人生観を 変える説教を聞いた。信仰や神に従う事に関し て、感情に頼っていてはならないというものだ った。意志で決断して行なわねばならないと。 説教者は日曜の度に喜びで満ちていたり、 熱い心があったわけではないと話した。しかし、 意志で従い続けた時、感情はついて来て喜び が与えられたと。みこころを行なおうと決心する なら、神は助けて下さる。感情ではなく、意志で 従って行こう。
2003年05月06日(火) 「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)
「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)
「私が子どもであったときには、子どもとして 話し、子どもとして考え、子どもとして論じま したが、おとなになったときには、子どものこ とをやめました」(Tコリント13:11) 主は子供のような信仰を持つようにと語られた。 しかし、子供のような素直な信仰とは子供っぽい 信仰の事ではない。子供っぽい信仰とは、自分が 受ける事しか考えない。神は良くして下さらなけ ればならない。困難が来ると不平不満。 思い通りにならないと、すねて、いじけて、自己 憐憫に陥る。神を責め、人を責め、環境のせいに する。主にある友が愛をもって、間違いを正そう とすると、自分を受け入れないと怒る。 どこまでも自己中心なのだ。あなたの信仰はどう か。神は聖くして下さりたいので、困難は次から 次へと来る。愛のゆえだ。 子供っぽい信仰から脱却し、大人の信仰へと成長 して行こう。神は手をとって導いて下さる。
2003年05月05日(月) 「私は黙っていたときには一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり・・」(詩篇32:3)
「私は黙っていたときには一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり・・」(詩篇32:3)
犯行を犯して、何年、何十年と逃避行をする犯人が いる。一つ所に留まる事もできない。一時も安らぐ事 がない毎日だ。神経を研ぎ澄ましていなければならな い逃避行が長くなると、もう休みたい、捕まりたいと の心理が生じるそうだ。ダビデも自分の罪に向き合う 事を拒み悶々とした心の内を記している。 なぜ、私達は神の前に隠れようとするのか。 神にも自分にも隠れようのない事がわかっているのに。 罪は恐れを生じさせ、神の前から逃げる。アダムとエ バもそうしたように。しかしダビデは勇気を持って自 らの罪を認めた。 「私のそむきの罪を主に告白しようとすると、あなた は私の罪のとがめを赦されました」罪には赦しがすで に備えられている。それを認め告白しさえすれば。
2003年05月04日(日) 「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(ローマ8:35)
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(ローマ8:35)
信仰があると、いつも幸福なのだろうか。困難や 苦しみ、悩みがあると、すぐ不平不満、つぶやきで 一杯になる人々がいる。信仰は私達を幸せにして くれるのではないのか。主は私達を危害や悩みか ら守って下さるはずではないのか。しかし、御言葉 はそう言ってはいない。神は明確に私達に困難が あると言っておられる。患難、苦しみ、迫害、飢え、 裸、剣・・多くの困難がある。苦難を通る時、主は 共におられ、ひときわ強い愛で守り導いて下さる。 キリストと共にあれば、心に消える事のない真の 喜びを持つ。困難はやってくるが、悩みに押しつぶ されるのではなく、一つ一つ確実に乗り越えて行け るのだ。そして、成長して行く。困難や悩みは信仰 生活の中に与えられていることを覚えよう。しかし、 圧倒的勝利者となる。
2003年05月03日(土) 「それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3)
「それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3)
厳しい試練の中で私達はどうするだろう。ある人は 心はついて行かないが、まあとにかく主をほめたた えようとする。しかし、心の中ではつぶやいている。 感謝しなければならないから、感謝するという態度 だ。しかし、御言葉によると、患難は忍耐を生み出 し、忍耐が練られた品性を生み出すとある。試練を 通して、霊的に成長し、敬虔な品性が培われて行く のだ。何と幸いな事だろう。今、あなたは試練のま っただ中で苦しいかも知れない。しかし、神は解決 を持っておられる。ご計画があり、教えようとされて いる事がある。つぶやいていると、せっかくの神の ご計画、知恵が見えない。神は私達を造り変えて 行かれる。状況でなく、私達を変えたいのだ。人格 を成長させたいと思っておられる。
2003年05月02日(金) 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(Tヨハネ1:8)
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(Tヨハネ1:8)
イエスはいつも罪人と共におられ、罪人を 愛された。遊女や取税人、大酒飲みを愛され た。どのような罪人も愛され、その罪を赦し て癒して下さった主が何よりも非難された罪 がある。それは何だろうか。偽善者だ。 当時の宗教指導者達が陥っていた罪だ。 彼らは律法を守り、神を愛する振りをして、 人に霊的だと思われたい。人を欺いているが、 実は神を欺いている恐ろしい罪だ。 神を欺くことなどできない。本当の自分以外 の者である振りをする、自分を実際の自分と 違って良く見せる、それは偽りの罪だ。 神は常に心の中を見ておられる。私達の全て を知っておられる。神から隠れる事はできな いし装う事もできない。主は心のうちの真実 を何よりも喜ばれる。人を欺く事が実は神を 欺く事である事に心しよう。
2003年05月01日(木) 「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」(エペソ5:14)
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」(エペソ5:14)
一人の青年が交通事故で救急車で病院に運ばれ、 手術後昏睡状態に陥った。もうだめだと医者にも 言われたが、九死に一生を得、昏睡状態から目覚 め身体も回復した。しかし、多くの人々は、肉体 的には元気だが、霊的な昏睡状態にある。 彼らは現実である霊的な事柄に全く気づかず、見 えず、霊の世界に死んでいる。 主がラザロを肉体の死から甦らされたように、主 は霊的な死から人々を甦らせて下さる。 命の御言葉を通して、霊的昏睡状態から呼び覚ま され、新しい霊の命を与えて下さる。 罪により心が曇らされ、神を見えなくされている。 十字架に癒しがある。すでに救われているのに、神 を離れた生活をしているなら同じく霊的昏睡状態だ。 すぐに神の元へ立ち帰れ。