2003年06月30日(月)

「指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る」(箴言11:14)


 「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を
聞く者とともにある」との御言葉もある。
私達は、いつでも喜んで、神と人からの忠告を
受け入れようと思っているだろうか。
キリストに似る者とされるために、更に実を結
び神の栄光を現す者とされるために、自分の欠
点や弱さを指摘してもらって、成長したいと思
っているだろうか。批判も非難も忠告、助言を
喜んで且つ熱心に受け入れるだろうか。
私達のうちにある古い罪の性質は、即、自己防
衛に入る。自分を正当化しようと動く。
自我は自分の欠点や弱さを認めたくない。
しかし、認めない限り、何の成長も無い。
批判や助言を受け止めて行く時、成長して行く。
自分が変えられて行くという事だ。批判を喜ん
で受け止めよう。成長への大きな祝福。


2003年06月29日(日)

「わたしはどんな境遇にあっても、満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)

すべてのクリスチャンは、人生からハピーな事も、
ラッキーな事も、又、苦しい事も、痛い事も経験
しなければならない。甘い蜜も、鋭いとげもある。
良いものも不都合なものも、人生に与えられた
ものに満足することだ。鍵はここにある。不平不
満、愚痴に支配されるのでなく、とげも受け止め
るのだ。正しく対応できるよう祈るのだ。これは
境遇の問題でなく、態度の問題だ。正しい態度
によって、どんな境遇でも満ち足りる事ができる。
そして、真に満ち足りる事ができるのは、良い事
も痛い事も、共に受ける事を学んでいる人だ。
人生に起こる数々のハピーな事も、苦しい事も
しっかりと受け止めることだ。私は私を強くして
下さる方によって、どんなことでもできるのだ。


2003年06月28日(土)

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません」(Tコリント2:14)

           
生まれながらの人間、未信者に霊的なことは全く
わからない。なぜなら罪のゆえに、霊は死んだ状態
にあるから。神の言葉は肉の耳からは聞こえるだろ
うが、心が罪で死んでいるので、その内容が愚かな
ものに思えてしまう。文学書や新聞やこの世の
書物は読めて理解できるが、霊的メッセージは
全く理解できない。クリスチャンでも、神から離れ
た生活をしていると、霊的聴力障害を起こす。
御言葉が耳からは聞こえるが、心で聞く事ができ
ない。神の言葉は生きていて、力があり、両刃の
剣よりも鋭く・・とある。あなたにとって、御言葉は
生きているか。それとも、ただの字に過ぎないか。
御霊に拠り頼み、御言葉がわかるように祈れ。
何より主に近く歩むことが必要だ。


2003年06月27日(金)

「あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから・・」(出エジプト18:18)


 舅イテロは、余りにも重責と仕事の量に押しつぶ
されそうなモーセを見て助言をした。
余りにも重すぎ多すぎるので、民から人を選んで、
グループのかしらに立てて、民を治めて行くように
と。舅の助言通りに実行した時、秩序が回復した。
あなたは責任過多ではないか。
仕事の量が余りにも多過ぎないか。重荷と思い煩い
心配に押しつぶされそうな状態だろうか。
許容量オーバーであれば、何かの責任から降りるべ
きだ。活動を制限する必要があるかもしれない。
何でもかんでも手を出すべきではない。
「ノー」を言う勇気が必要だ。祈りと御言葉に時間
を取れないほど忙しいなら確かに間違っている。
第一のものを第一に据えよ。時間を取れ。
そうするなら、秩序正しい生活となる。


2003年06月26日(木)

「しかし、満ち足りる心を伴なう敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません」(Uテモテ6:6)


 「すべてあなたの隣人のものを、欲しがっては
ならない」十戒の最後にはっきり「むさぼり」の
罪を戒めている。貪欲、これは誰の心にもある古
い罪の性質だ。もっと欲しい、もっともっと、と
欲望はとどまるところを知らない。
富を得て満足するかと思うとそうではない。
富を得れば得るほど、ますます富を欲しがり富の
奴隷になる。これが貪欲だ。偶像礼拝と言われて
いる。満ち足りる心は神から来る。
なんと幸いだろう。パウロはどんな境遇でも満ち
足りる事を学んだと言う。貧しくても、豊かでも
どちらでも満ち足りたのだ。自分の欲望に従って
行くなら際限が無い。しかし、御霊に従い、御霊
に明渡して行くなら、平安と満足を経験する。


2003年06月25日(水)

「主よ。あなたがもし不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」(詩篇130:3)

神は私達が「有難う!」と、神の恵みを素直に
受け取る事を喜んで下さる。こんな人をよく見る
だろう。自分は余りにも悪過ぎて、こんなに罪深い
者はとても赦してなどもらえない。赦されるには、
余りにも罪が深すぎる。何だか一見大変謙遜
そうに聞こえるが、実は、間違った謙遜だ。本当
は裏返しの高慢だ。プライドが神の賜物を受け
取る事を頑なに拒んでいる。プライドゆえに素直
に受け取れないのだ。自分を神の上に置いて、
自分が神になっている事だ。赦しを受け取れな
いほど悪いと拒むのは、大それた高ぶりだ。神が
赦すと言っておられるのだ。神の上に立ってはな
らない。私達は神に従う者だ。神は悔い改める
なら赦すと約束された。イエスの血潮によって。
有難う!と、受け取る事が真の謙遜だ。


2003年06月24日(火)

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」(エペソ4:30)


 「御霊を消してはなりません」という御言葉
もある。先日もニュースになっていたが、火事
が起きたのに火災報知機が作動しなかった。
その理由は誤作動が多いので切ってしまってい
たのだ。もし、作動していたら、違う結果にな
っていただろう。御霊も私達の心に警報を鳴ら
してくれる。御霊には決して誤作動はない。
御霊は正確に私達を正しい道へ導いてくれる。
あなたは御霊の声に耳を傾けているか。
御霊の警報を無視していないか。なおざりに、
また、拒否していないか。無視し拒み続けると、
御霊を消す事になってしまう。
御霊の導きに敏感に応答して行くなら、あなた
の生活はますます御霊に導かれる。
罪が示され、離れるならきよめられて行く。
御霊に満たされて行く。


2003年06月23日(月)

「強くあれ。仕事にとりかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ・・わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな」(ハガイ2:4)


 何かを始めるには、必ず時間と労力、時には経済的必要
がある。その犠牲を思う時、新しい事を始めるのをためら
ってしまうのだ。しかし、その仕事を成し遂げた時、必ず
思う。どうしてもっと早くとりかからなかったのだろう、
して本当によかったと。
イスラエルの人々は宮を建てるべき時なのに、まだ時では
ないと言っていた。彼らが預言者ハガイを通して奮い立ち
仕事をはじめた時、神は祝福を約束された。
あなたは今なすべき事を示されているか。なすべき事があ
るのに、心地よい場所を動きたくなくて、ためらっている
か。仕事にとりかかれ。始めよ。
神は「わたしはあなたがたとともにいる」「今日から後、
わたしは祝福しよう」と言われる。


2003年06月22日(日)

それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです」こうして彼らはそこで主を礼拝した」(Tサムエル1:28)


親は子供が可愛いので、出来るだけそばにおいて
おきたいものだ。独立させるのは、理性では理解
できるが感情的には寂しい。子供が進学や結婚で
親元を巣立って行く時、多くの親が体験するとこ
ろだ。ハンナはまだ子供が小さい時に、手放した
のだ。どんなに困難な事だったろう。ハンナは強
い信仰を持って、子供を完全に主にお任せした。
献げた後「私は心は主を誇り・・私はあなたの救
いを喜ぶからです」と言った。辛さではなく、主
を誇り、主のみこころが最善であると信じていた
のだ。子供を、最も愛して下さっている、主にお
任せすることは、一番安全だ。平安と喜びで守ら
れる。又、私達は、心に大切な宝を握っていない
か。あなたのサムエルとは何か。それを主に明け
渡すなら、真の平安がやって来る。


2003年06月21日(土)

「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」(ガラテヤ5:26)


妬みは、破壊的な力を持つ。ヨセフの兄弟達は妬み
にかられて、ヨセフをエジプトの隊商に売った。父
ヤコブがヨセフをことさらに可愛がったので、他の
兄弟達が嫉妬したのだ。妬みは憎しみへと発展する。
祭司長達はイエスを十字架につけるよう、群衆を扇
動し、そのように追い込んで行ったが、その動機は
妬みだった。自分達よりもイエスに群衆の人気が集
るのに嫉妬した。あなたに妬みはないか。「しかし、
心の中に苦い妬み・・があるならば、真理に逆らっ
て偽ることになります」妬みのあるところには、秩
序の乱れや邪悪な行ないがある。妬みから多くの争
いが生み出される。まず、自分の心の奥底に妬みが
ある事を認め、捨て去るべき。聖霊の助けによって
それが出来る。聖霊に従い導かれるなら、妬みや虚
栄から守られる。


2003年06月20日(金)

「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい」(ルカ6:27)

私達は、人々に福音を伝え、御言葉を伝え、証しをする。
しかし、説得力が無い。自らの生活が福音に伴っていない
のだ。すぐに怒りを表わし、きつい言葉を口から発し、思
い通りにならないと悪い態度を取る。不機嫌を表わし、相
手のせいにする。御言葉と相反する生活によって、台無し
にしてしまっている。証拠を示せずにいるのだ。一つの強
烈な証拠を示す事ができる。それは家族や友人だけでなく、
敵を愛することによってだ。強烈な証拠になる。無愛想な
人々に親切を示す事もできる。愛してくれる者を愛する
ことは、誰にでも出来る。しかし、敵を愛する事は不可能
だ。そうする時、神の栄光が現われる。御言葉を生きる事
が一番の証しであり、最大の証しだ。あなたは誰を愛する
よう言われているか。


2003年06月19日(木)

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」(ヘブル6:1)

赤ん坊が生まれた時、しょっ中体重を測る。どれだけ
増えているか表につけてチェックする。赤ん坊の体重
が増えなければ、ミルク不足等、様々な原因を探る。
体重が増え、身長が伸びて行くことは正常なことだか
らだ。では、私達の霊的成長はどうだろう。救われた
頃から、私達は確実に成長しているだろうか。赤ん坊
が成長するのが正常で健全であるように、私達も成長
するのが正常だ。私達に御霊の実が見られるだろうか。
怒りを「自制」できているか。腹立ちをそのまま今も、
相手にぶつけているか。「柔和」な対応が出ているか。
批判し攻撃してくる相手に、何倍にもして仕返しし、
大喧嘩するのでなく、柔和な態度で対応できるか。御霊
の助けによって、キリストに似て行くことができる。


2003年06月18日(水)

「そこでイエスは、さらにこう言われた「わたしに何をしてほしいのか」すると、盲人は言った「が見えるようになることです」(マルコ10:51)先生。目

ある婦人は小さな時からの生育歴で、すぐに自分の殻に
閉じこもり、自己憐憫に陥ってしまっていた。外界との
関わりを遮断して、そこは心地良かった。ある日、礼拝
メッセージの中で、主から、あなたは私に何をして欲し
いのかと強く迫られた。その問いかけから逃げたかった
が、まっすぐにはっきりと、主に向かい、私を癒して欲
しいのです、自己憐憫の殻から抜け出せるようにと願っ
た。その日から、神は働かれた。自己憐憫に陥り、自分
の殻に逃げ込みそうになる時、気づきが与えられた。古
い性質と聖霊が力強く働かれる新しい方向の二つが、識
別できるようになり、古い性質に向かうときに拒否した。
自分が変えられて行くのがわかった。弱さに落ち込むの
ではなく、様々な弱さの気づきを与えられる度に感謝す
るようになった。


2003年06月17日(火)

『「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」』(マルコ9:23)


 悪霊に憑かれた子供を救ってもらおうと、イエス
のもとに来た父親が「もしおできになるものなら」
と頼んだ。すると主は「できるものなら、と言うの
か。信じる者にはどんなことでもできる」と不信仰
をいさめられた。すぐに父親は自らの不信仰を認め
「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と主に頼
った。それゆえ、主は奇跡をして下さった。
不信仰な自分のありのままの姿を認め、主に拠り頼
む時、主は助けて下さる。
常に自らのありのままの姿を認め、正直に主に近づ
く時、主は受け入れ、助けて下さる。
自分のありのままの状態を正直に認め、助けを求め
るなら、どのような状態であろうと、神は顧みて下
さる。常に希望がある。


2003年06月16日(月)

『主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」「それを地に投げよ」・・杖は蛇になった』(出エジプト4:2)


 モーセが神から民をエジプトから導き出すよう
命じられた時、モーセは尻込みした。
人々は私が神に遣わされたなどと信じないと。
その時、手に持っている杖を地に投げるよう、言
われた。すると、杖が蛇に変わった。
それは、神が共におられるというしるしだった。
あなたにも神は問われる。「あなたの手にあるそ
れは何か」。社交的で人に証しができる、家庭集
会をする、陰で祈りの奉仕をする、奏楽ができる、
賛美ができる、料理が上手、大工仕事が巧み、一
人一人全く異なる賜物が与えられている。
神は私達の手にあるものを用いて下さる。
神は「あなたの手にあるそれは何か」と聞いてお
られる。賜物を持って仕えることが出来る。


2003年06月15日(日)

「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」(ピリピ3:16)

ある人がバイブルクラスから戻ると落ち込んだ。順番に
テーマを決めて一人一人が準備し発表し合うのだ。一人
一人、順番に導く人すべてが余りにも素晴らしく見える
のだ。その日も、今日導いた人ほどの霊的な事柄が、自
分にもわかる日がくるのだろうかと、落ち込んだのだ。
しかし、神により御言葉から正された。隣と比較するの
ではない。それぞれの達しているところを基準として、
歩めばよい。そうすれば、次の段階へと一歩一歩成長に
導かれるのだ。人と比較するのではなく、日々、理解を
与えられたところに応じて、従えばよいのだ。理解する
だけでなく、従うなら、理解を更に増やし、みこころが
はっきりわかるようにされる。従うことが大切。


2003年06月14日(土)

「ダビデはナタンに言った「私は主に対して罪を犯した」ナタンはダビデに言った「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」(Uサムエル12:13)

すべての罪は、必ずつけが回ってくる。ダビデはバテ
シバと姦淫の罪を犯し、その罪をおおい隠すために彼女
の夫を殺すことを企み、罪に罪を重ねた。神の御手が昼
も夜も重くのしかかり、骨髄は夏のひでりでかわききった。
罪は彼を苦しませ、弱らせた。彼の素晴らしいところは、
ナタンに罪を指摘された時、罪を告白した。神は罪を赦し
て下さった。しかし、罪は深い悲しみをもたらした。罪
には刈り取りが必ずある。ダビデの家に剣が絶えることが
無かった。しかし、赦しの幸いは取り去られることは無か
った。罪は断じて犯すべきではない。傷跡が残る。刈り取
りもある。しかし、尚も、キリストの十字架により頼むな
ら、完全に赦される。神の大いなるあわれみと慈しみだ。
罪を告白せよ。


2003年06月13日(金)

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:45)


 キリストが来られたのは仕えるためであった。
喜んで人に仕えるしもべとなられた。生まれつき
の罪の性質は、人に仕えたいなどとは思わない。
むしろ、人に仕えてもらいたいのだ。
誰もが、相手に仕えてもらいたい。夫婦は互いに
仕え合う事が嫌なので離婚する。自分は犠牲を払
いたくない。相手に要求するばかりだ。
相手から得られないと不満を抱く。与えるは嫌で
喧嘩になる。教会で問題が起こるのも、この罪の
性質からだ。与える事はしないで、要求ばかりす
る。犠牲を払うのは嫌、不平不満ばかり。
問題の根本は自己中心、自我だ。自己主張が強く、
自分さえよければよい。
仕えたくない自我、その自我に死んで、主に従う
時、仕える者に変えられて行く。


2003年06月12日(木)

「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」(エペソ4:3)

  
 ある教会内で、諸問題を話し合っていた時に、
様々な意見に分かれた。十人十色で皆が違った
意見を持っていた。しかし、皆には良い解決を
見つけたいとの願いがあった。
バラバラな意見にらちがあかないまま時間が過
ぎて行く内に一人が「この件に関して心あわせ
て祈ろう」と提案した。
すると、司会者は賛同し、その人物に祈りを要
請した。皆が頭を垂れ、その人物が聖霊に導か
れて祈り始めた。その祈りは、その場にぴった
りのもので、皆は感動した。聖霊が導かれた。
その瞬間不思議な事が起こった。
雰囲気が変わってしまったのだ。皆が心柔らか
くされ、皆がお互いに歩みより、すぐに解決へ
と導かれたのだ。互いの間に愛を感じた。
神が働かれたのだ。御霊に従うなら、すでに
与えられている一致が保たれる。


2003年06月11日(水)

「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります」(マタイ19:21)

私達も、この富める青年のように、見えるところは立派な者かも知れない。礼拝には必ず出席し、良い行いをし、献金し、穏やかで、人々にはよく見られているかも知れない。しかし、青年と同様、私達にも心の中には、妨げがあるかも知れない。彼は富への執着だった。財産が偶像であり、大切なもので、決して放せなかった。私達は同様に、プライドやうぬぼれ、嫉妬、名誉、地位、世を愛する心、高慢があるかも知れない。これらは永遠の命にふさわしくない。愛する主との間を妨げ、さえぎるものを捨てる必要がある。自分を捨て、自分の十字架を負って従うようにと言われた。富ゆえに、彼は正しい人生を破滅させた。私達には偶像が無いか。心に執着しているものはないか。


2003年06月10日(火)

「しかし、助けぬし、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)


 主イエスを信じて、クリスチャンになった頃、神の
みこころを行おうと真剣になるものだ。
進路の導きは勿論の事、大きな買い物にも導きを求め
た。様々な事柄に、主のみこころを求めたものだ。
みこころを行うことは正しい事だ。「みこころが天で
行われるように地でも行われますように」と祈れと言
われている。神を信頼して、みこころを求めるのは正
しい事だ。しかし、些細な、小さな事まで求める事に
神経質になって疲れ果ててはならない。
神と交わりの生活をし、よく祈り、御言葉に親しみ、
神に従う生活をしているなら、悩む必要はない。
聖霊がなすべき事を教えて下さる。日々の小さな様々
な決断は平安の中で導かれる。


2003年06月09日(月)

「これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」(ガラテア2:16)


 ある人は毎日規則的に聖書を読み、祈り、懸命に罪の
告白もしている。しかし、神に受け入れられているとい
う確信が無く、救われている確信も無かった。
神に受け入れられるために、聖書を読んだり祈ったりし
ていたのだった。それは間違いであり、どこまで行って
も受け入れられているという確信は持てない。
行ないではだめなのだ。キリストがして下さった事、
十字架のみわざに頼り、喜び感謝をささげるのだ。
自分の力で神に受け入れられようという、誰もが陥る間
違いをしてはならない。救いは受けるに全く価しない者
に与えられる恵みだ。自分が罪人であり、受けるに価し
ないと認めた人のために備えられた無代価の恵みだ。


2003年06月08日(日)

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」(創世記3:1)


私達はアダムとエバが、なぜあんなに簡単に誘惑にかかってしまたのか、いぶかるかも知れない。自分なら、あんな失敗はしないと思うかも知れない。どうしてだまされてしまうのか。まず、サタンは狡猾で巧妙だと御言葉は言っている。サタンの最大の攻撃とは、自らの身を隠すこと、気づかせない事だ。だから、サタンの攻撃にさらされていながら全く気づかない。そして、変装して来る事、「我はサタンなり」と言って現われはしない。又、「あなたを滅ぼしたいので、私と対話しませんか」とも言わない。この狡猾な敵に、常に目を覚まして見張っていなければならない。生活に働くサタンを見分けるのは祈りだ。それゆえ、主との親しい交わりが必要不可欠だ。祈りがあるなら、識別できる。


2003年06月07日(土)

「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」(Tテモテ6:17)


サタンはエデンの園で巧みに誘惑してきた。園のどの木からも食べてはならない、どの木からも楽しんではいけないのだはないかと、問いかけてきた。エバは正しい情報を与えようと、中央にある木の実だけだと説明した。しかし、触れてはいけないと言ったが、神はそのような事を言っておられない。御言葉につけ加えたり、差し引いたりして、神の御旨を歪める。神を超えて、厳しい人々がいる。禁欲的であれば聖いと、思ってしまうのだ。たった1本の木のために、園全体を楽しめない。神が禁じられている事だけに捕らわれてしまい、神の愛や恵みを楽しめない。神は楽しみと喜びを与えて下さるお方だ。福音は喜びの知らせなのだ。苦しみの知らせではない。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安。あなたは楽しんでいるか。


2003年06月06日(金)

『しかし主は仰せられた「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見てないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る』(Tサムエル16:7)


 王位から退けられたサウルの代わりに、神はサムエルに
ご自身が示す者を王として油注ぐよう命じられた。
最初にサムエルは立派なエリアブを見て、この者が選ばれ
た者だと確信した。しかし、見えるところと違った。
結局神が選ばれたのは末の子ダビデであった。
神は背の高さや器量、能力を見られない。私達は皆違って
いる。外見が異なり、性格が異なり、能力が異なる。
しかし、神はそれぞれをありのまま愛し、受け入れて下さ
っている。自らの外見に悩む必要などない。
悩む事は無意味だ。神がそのように創造されたのだ。
神にとって優劣がないのだから。そしてその神がどう見て
おられるかが、重大であり全てなのだから。
心を見られる主に心を向けよ。


2003年06月05日(木)

『それから、イエスは弟子たちに言われた「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て・・そしてわたしについて来なさい』(マタイ16:24)


 すごろくに似た子供用のゲームがある。
点数が増えたり減ったりしながら上がりまで行き
競う。自分の基地があって、そこに避難できる。
点数は減らないが避難所にいると、点が増える事
もない。点が減り続けると、子供達は避難所に留
まったままになる。そんなゲームを見ながら、信
仰生活も同様だと思った。安全な場所にじっとし
ていたいのだ。危険は犯したくないし新しい事を
始めるのはエネルギーがいる。
同じ場所にただじっとしているのが心地よいのだ。
「愛し合う」ためには、新しい状況に挑まなけれ
ばならない。自分の居心地の良い快適な場所を離
れて神がせよと言われる新しいみこころに従え。
近隣に証しして行く事か、親族に仕える事か、あ
なたに示されている事をせよ。


2003年06月04日(水)

「主はモーセに仰せられた「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え」(出エジプト14:15)

          
モーセに導かれて、イスラエルの民は出エジプトを果たしたが、パロが追跡して来た。パロの戦車と軍勢は荒野で民に追いついた。民は非常に恐れて、神に向かって叫んだ。そして、モーセに向かって叫んだ。何と、エジプトにいた方が良かったと文句を言ったのだ。その時、神は
モーセに「前進せよ」と命じられた。海の真ん中の乾いた道を進み行けと。神が道を造るからと。「前進」すべき時がある。なすべき事がわかっているのに、続けて祈る事は無意味だ。神は祈りを止めて、行動に移れと言われている。人を愛する行動をしなければ、良い関係は築けない。赦しを求めて謝罪しなければ、和解は得られない。祈りの後の、次の段階は具体的行動だ。あなたはどうか。一歩進み出す時か。


2003年06月03日(火)

『「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」・・主が若い者の目を開かれたので、彼が見ると火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた』(U列王6:17)

 私達は人生の中で、神以外には何もないという所に
導かれる。神意以外に頼れるものがいっさい何もない。
アラムの王がエリシャを捕らえようと馬と戦車と大群
を送り、夜の内に町を包囲した。
自分達が敵軍から包囲されている。若い者は怯えて恐
れて、エリシャのもとに来た。
すると、エリシャが若者の目が開かれるようにと祈る
と、なんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に
満ちていた。目の前の状況に、失望落胆、絶望する事
があるか。その背後を勝利の火の戦車が囲んでいる事
を見よ。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よ
り多い。恐れるな。その試練は乗り越える事ができる。
大能の主が共におられる。
これより心強い事が他にあろうか。


2003年06月02日(月)

「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい」(Tコリント15:33)

 生活をする中で、信仰と日常生活を別に考えようと
する事がある。少々不道徳な映画を見ても大丈夫、
信仰には影響を及ぼさないと、たかをくくっている。
しかし、御言葉にあるように、触れるものが悪ければ
良い習慣が損なわれて行く。影響を受けずには済まな
い。私達の目で見たもの、耳で聞いたものは脳裏に残
る。何を見るか何を聞くかは、しっかり選択しなけれ
ばならない。何でもかんでも無防備に受け入れてはな
らない。自分の肉のために蒔く者は、滅びを刈り取る。
見る事、聞く事、すべてが影響受けるのであれば私達
はしっかり選択しなければならない。
主と交われば交わるほど、主の影響を受けて主に似る。


2003年06月01日(日)

「神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を与えてくださったのです・・こういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです」(Tコリント12:18)

私達はキリストのからだの中で、一つの器官を構成している。しかし、自分が何の役に立つのか。皆が働いている。自分一人ぐらい何もしなくても大丈夫だろう。自分が何かしたところで、大した事はない。しかし、少年が献げた小さな弁当、五つのパンと二匹の魚を用いて、主
は奇跡を起こし、大勢の人々を満腹させられた事を忘れてはならない。よく知られた話がある。有名な指揮者がオーケストラを指揮していた。コンサートの練習中だった。バイオリンやトランペットやら素晴らしい音色が奏でられていた。その時、ピッコロ奏者が「自分なんてどうせ誰にも聞こえない」と演奏しなかった。指揮者はすぐに「止め!ピッコロ!」と、全体の音色を識別した。すべての器官が必要なのだ。