2003年07月31日(木)

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。私があなたを助ける。」と言っているのだから』(イザヤ41:13)

大きな問題が襲ってきた時、また、困難の怒涛
の中で、かろうじて一日が過ぎ去る時、心に感覚
も失せ去るほど疲れ果て、神経がすり切れるよう
な経験をした事があるだろうか。
このような、押しつぶされそうな精神的圧迫のあ
る時、どう対処すればよいのか。主が模範だ。
主は常に群集から離れ、御父と一人交わる時を持
たれた。これが答えだ。主は幸いな時を持たれ、
再び新たな力を受けて群集のもとに戻られた。
私達も神に祈るのだ。静けさの中ですべての思い
を神に向け心を集中させ祈るのだ。
心の平安を経験する。極度の恐れと不安を主の平
安と交換して下さる。神に問題を委ねて、神の愛
を再確認し、心は平安に満ちる。
主があなたをしっかり握っておられる。


2003年07月30日(水)

「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:30)

「だから恐れることはありません。あなたがた
は、たくさんの雀よりすぐれた者です」一羽の
雀さえ、神の許しが無ければ地に落ちない。す
べての事に神の御手と配慮が働いている。小さ
な事柄の中に、神の愛と配慮が詰まっている。
あなたはそれをしっかり受け取っているか。落
胆している時の聖書の励ましの言葉、悲しみに
沈んでいる時の友人の慰め、家族からの小さな
手助け、友人からの電話、遠方の友からの手紙、
近所の人の親切、様々な事柄は神からのものだ。
あなたへの愛と配慮だ。どれほど、あなたは気
づいているだろうか。あなたの心の目を大きく
開け。よく見よ。あなたへの愛を、わたしは知
らせ続けていると、神は言われている。しっか
り見るなら、神の愛が見える。


2003年07月29日(火)

しかし彼は答えて言った「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい』(マタイ20:13)

 一人の独身女性が、年末になりイルミネーシ
ョンが輝き、街がキラキラし出すとたまらなく
寂しくなった。巷がにぎわい、特に家族団らん
が溢れる年末年始はひどく孤独に感じた。
周囲の家庭と比較して神は不公平だと不満が募
った。その時、ぶどう園の例え話しで気づきが
与えられた。一日中ぶどう園で働いた人達は賃
金に満足していた。ところが隣の人と比べた時
不満で一杯になった。隣を見る事がなければず
っと満足したままだ。自分の心の態度の問題だ
と気づいた。人との比較ではなく、また、自分
の思い、理想との比較でもなく、ありのままの
自分を認め、神に従って行くなら、来る日も来
る日も幸せでいる事ができるのだ。
比較を止めよ。横ではなく、上だけを見上げて、
御心に従うのだ。


2003年07月28日(月)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)

ある道路を運転中、センサーで、「速度オーバー」
との表示が出た。60キロ制限のところを85キロで
走っていたのだ。すぐに速度を落とした。速度ダウン、
この事を通し日常生活を思わせられた。あまりにも忙
し過ぎないか。次から次への盛だくさんのスケジュー
ルをこなし、疲れ果てていないか。
苛立ちと焦り、思い煩いで一杯になっていないか。
しばし立ち止まるべきだ。優先順位が混乱すると、秩
序を見失う。神の優先順位に従うなら、生活に秩序が
生まれる。神第一。神との交わりの時間までないとい
うならその生活は間違っている。不必要なものを整理
し神第一にせよ。


2003年07月27日(日)

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(創世12:1)

アブラハムは神の導きを受け、故郷を出て、示され
た地へ向かって旅立った。故郷から離れる事、親族
との別離、大変な困難があったに違いない。しかし、
神の命令に従った事により、大いなる国民とされ祝
福の基とされた。一歩を踏み出す時は大きな決断と
勇気がいるかも知れない。しかし、それはあなたに
も周囲にも必ず大きな祝福をもたらす。今、あなた
に示されている事は何か。悪い習慣を断つ事か。何
か新しい事を始めることか。あなたに悪い態度をし
た誰かを赦す事か。誰かと和解する事か。何であれ、
神があなたに、今示されているその導きに従え。一
歩を踏み出すなら神が助けて下さる。そして、アブ
ラハムのようにそれを成し遂げる事ができる。今、
一歩を踏み出せ。


2003年07月26日(土)

しかしナアマンは『何ということだ。私は・・彼が彼の主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし・・と思っていたのに』」(T列王5:11)

将軍ナアマンは主君に重んじられ、尊敬を受けていた。
しかし、らい病にかかっていた。召使いの少女が預言
者エリシャなら癒すことが出来ると提案した。エリシャ
はそれを引き受け、ナアマンはやって来た。すると、
使いの者がヨルダン川に七度身を浸すなら、元通りに
なると告げた。ナアマンは怒ったが、しもべの説得に
耳を傾け、その通りにした。すると、癒されたのだ。
まずナアマンにはプライドが砕かれる必要があった。
自分は手厚く迎えられ、手を置いて癒されるだろうと
思っていた。出迎えもなく、公衆の面前に恥をさらし、
川に浸かるというものだった。しかし、へりくだって、
それらを受け入れた時、癒された。神の砕き、神の方法
を受け入れ、従って行く時、私達は一段階一段階と成長
する。


2003年07月25日(金)

「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける・・しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」(イザヤ49:29)


 人生で極度の苦しみや悲しみに会う時、
立ち向かって戦う力や耐える力も失い、
ただ祈るばかりの状態になる。
しかし、祈りこそ力だ。主だけを見上げ、
主だけに信頼し、祈るなら、新たな力を
受ける。余りにも多忙すぎて疲れきって
しまう時も、新しく力を得、鷲のように
翼をかって上ることができ「走ってもた
ゆまない」又、何の変化もない毎日繰り
返す同じ仕事、同じ日常、同じ会社へ毎
朝行き、同じ仕事を繰り返す。
延々と気が遠くなるほどの、つまらなさ
を覚えても、「歩いても疲れない」のだ。
有限な私達のいつも覚える疲れや弱さが、
無限の神の力と交換される。
何という恵みだろう。あなたは疲れ、弱
っているか。新しい力を受けよ。


2003年07月24日(木)

「自分のことだけでなく他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい」(ピリピ3:4)


 あなたも経験した事があるだろう。
電話を取った途端、友人の悩みの相談が始まり、
愚痴、不安、恐れや苦しみを延々と聞く事にな
ったという事態を。主にある友のために愛情と
祈りを必要としているという事だ。
助言を必要としているという事だ。聞くという
事は、仕える事の一つの有益な形だ。
愛を分かち合う方法だ。神は互いに仕え合いな
さいと言われる。耳を傾け、愛情と同情をもっ
て聞く時、相手は慰めを受ける。
時間を取り、手を止めて相手に関心を示す事は
愛だ。他の人の事を顧みる事は主のみこころ。
あなたにとってのマケドニヤ人は誰か。
「マケドニヤに渡って来て、私達を助け出して
下さい」助けを懇願している相手は誰か。
あなたの周囲をよく見回そう。キリストの愛を
示し仕える機会だ。


2003年07月23日(水)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Tコリント7:10)

あなたは日々、漠然とした罪意識に悩まされて
いないか。何の罪かはよくわからないが、いつも
罪意識があり、自分はだめだ、自分みたいな者は
価値がないと感じる。そこからは、否定的な感情
しか生まれない。神のみこころに添った悲しみと
世の悲しみがある。聖霊は明確に的を絞って、私
達の犯した罪を示される。そして、私達に悔い改
めを促される。悔い改めるなら、完全に赦して下
さる。悔い改めの後にも、自分を無価値な者と感
じ続ける事が謙遜と勘違いしてはいけない。それ
は大きな間違いだ。神は罪を赦される。拭い去っ
て下さり、二度と思い出さないと言われる。漠然
とした常習的な罪意識はサタンからのものだ。悔
い改めの後の罪意識もサタンからのもの。聖霊の
御声を真似るサタンに騙されるな。間違うな。


2003年07月22日(火)

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方・・疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」(イザヤ40:28)

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方・・
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気
をつける」(イザヤ40:28)


 誰しも疲れ果てた経験があるだろう。
大きな責任の重圧とストレスで。また追い切れな
い重荷や解決が見つからない困難の中で。
ある人は完全に行き詰まり、しばし神との時を持
とうと、高層ビルの最高階のカフェで聖書を開い
た。その時、眼下に素晴らしい地平線に見事な夕
日が落ちるのが見えた。都会の真中で息を飲む美
しさだった。その場に神を感じた。
ある人は夜空の満点の星に神を感じ、ある人は海
岸に休養のために退いて、そこで創造主である神
に触れた。神に触れるや心の緊張やストレス、痛
み、圧迫感が消えてしまったのだ。神は疲れたあ
なたを快く迎えて下さり、新しくして下さる。
翼をかって再び上がることが出来る。


2003年07月21日(月)

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも」(詩篇22:1)


ダビデは神に愛され、神に従った人物だ。
しかし、息子が自分に反逆して立ち向かって来た
時、神に見捨てられてしまったと感じた。
主イエスも十字架上で、どうしてお見捨てになる
のですかと、神に訴えた。私達は悲しみや苦しみ、
困難に遭遇した時に、きれい事の祈りではなく、
神に訴える事が出来る。訴えて良いのだ。
神の御前で、建て前の祈り、きれい事の祈り、本
心からでない祈りは全く答えられない。
祈っても無駄だ。無駄な祈りでなく、本心からの
正直な心を神に訴えるなら、神は聞かれる。
多くの人が嘆きを神に持ちだし、正直に心の内を
訴える時、神が不思議な道を開いて下さったと体
験している。神は道を開かれる。
信じるなら神は大きく働かれる。


2003年07月20日(日)

「求めなさい。そうすれば与えられます・・だれであれ求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:7)

主を信頼する小さな子供が、可愛い人形をとても
欲しがった。それを遠方の祖母が知り、数ケ月後
の誕生日プレゼントに送ると約束してくれた。子
供は喜び一杯で、指折り数えて誕生日を待った。
胸が踊った。神様が一番良いものを与えて下さる
ようにと、ずっと祈った。やがて、誕生日当日に
なった。しかし、その荷物は届かなかった。娘の
失望落胆を心配した母親は、祖母が忘れたのでは
と言った。しかし、娘は絶対に祖母は忘れていな
い、必ず届くと言い張った。すると、祖母から電
話があり一番良いものを捜し続けていて、取り寄
せに時間がかかり、間に合わなかったが、今途上
にあり、明日届くからと。神はあなたの願いを決
して忘れておられない。答えを待て。途上に来て
いる。


2003年07月19日(土)

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」(イザヤ26:3)

私達の日常生活が順調で、何の問題も無い時に、
平安を感じるのは簡単だ。穏やかに毎日過ごし
て行けるだろう。しかし、問題にぶち当たり、
悩み苦しむ時、心がちぢに乱れる時、どうして
良いかわからない時、私達は混乱してしまう。
平安は完全に吹き飛んで、怒涛の嵐の中に巻き
込まれ、翻弄されてしまう。そのような最中に、
平安であるというのは簡単ではない。しかし、
平安であり得るのだ。波にも嵐にも決して揺る
ぐことのない岩であるキリストの上に立ち、
信頼と信仰を主に置く時、全き平安でいられる
のだ。どんなに波風逆巻く中でも、平安でおれ
る。主を信頼するのだ。万事を益にして下さり、
最善以下のことを決してされない主を見上げ、
信ぜよ。あなたも平安を経験する。


2003年07月18日(金)

『イエスは彼に言われた「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」』(ルカ19:5)


 私達の家に来客を迎える時、どのように用意
するだろう。朝起きる時間に合わせて、朝食の
準備をし、ゆっくりした語らいの時間を取り、
何かを一緒にするように計画するかもしれない。
お客の必要に答え、お客に合わせるだろう。
どんなに忙しい日常を過ごしていても来客の時
は別だ。そのように主のために時間を取ってい
るか。朝、主にお会いしているか。
語らいの時を取っているか。もしお客のためな
ら、朝の時間を必ず取るだろう。それなら朝早
く待っていて下さる主との時間はどうか。
翌朝主にお会いするために、整え、夜に床につ
くならどれほど生活が変わり幸いなことだろう。
主をなおざりにしていないか。今一度生活を整
え朝毎に主にお会いしよう。


2003年07月17日(木)

『イエスは、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」・・すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた』(マルコ5:36)


私達は心配し、不安に思い、恐れを抱くものだ。
あらゆる思い煩いから開放されたいが、心配事
で心が一杯になったりする。信仰と心配を行っ
たり来たりするのが、私達だ。しかし、パウロ
も「弱く恐れおののいていました」と告白して
いる。心配や不安があることで思い煩わないで、
その事実をしっかり神の御前で認めるのだ。
恐れや不安など全く無いという振りをすること
が良くない。
恐れや不安を、そのまま神に告げるのだ。
すると、神は御声をかけ、強め、立たせて下さ
る。神により頼むのだ。不安と恐れのある時、
神を信じよう。恐れないでただ信じていなさい、
との御声をかけていて下さる。
主の真実を堅く信じよう。不安は平安に変えら
れる。


2003年07月16日(水)

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑されたと言ってはいけません」(ヤコブ1:13)

自分の過ちや失敗を人のせいに、環境のせいに
してしまうことが無いだろうか。罪を犯したア
ダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにして
責任転嫁して行った。アダムは「あなたが、置
かれたこの女」と暗に神のせいと言わんばかりだ。
モーセが山にいた間に、民はアロンと共に、何と
鋳物の子牛を造って偶像礼拝の罪を犯した。アロ
ンはその場で悔い改めて責任を取ろうとせず、民
のせいにした。金を火に投げ入れると、子牛が出
て来たと嘘までついた。神は罪をさばかれ、多く
の人々が神に打たれ死んだのだ。間違ったら悔い
改め、責任を取ろう。自分を正当化して、人のせ
いにしてはならない。罪を認めることだ。まして
や、神のせいにするな。


2003年07月15日(火)

「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました」(ピリピ3:7)

私達が心の命となっているものが一人一人違う
だろう。多くの人は仕事が生きがいであり命だ。
仕事に時間も労力も全精力を注ぎ込んで当然と
思っている。自分のアイデンティティが仕事で
成り立っている人が多い。仕事はどこまでも、
仕事であり、神が与えて下さった賜物だ。
仕事は神ではない。偶像になりがちだ。
勿論、仕事に一生懸命身を入れて働く事は、神
のみこころだ。経済的必要のために用い、困っ
ている人々を援助する事を神は喜ばれる。
しかし、仕事を自らの充足の手段にしてはなら
ない。どこまでも、こころの充足は神ご自身か
ら来るべきだ。神は仕事以上に大切だ。
仕事が偶像になっていないか。


2003年07月14日(月)

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです」(マルコ10:45)

イエスは言われた「あなたがたのあいだで偉くなり
たいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」
この御言葉からある牧師が言った。
「誰でも偉くなれる。なぜなら、誰でも仕える事が出
来るから」天国で栄光の座に座りたいと願った弟子達
に、主は人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべ
になりなさいと言われた。私達はどうだろう。
喜んで裏方の奉仕が出来るだろうか。誰の目にもつか
ないところで喜んで出来るだろうか。
私達には人に認められたい、人の評価を受けたいとい
う根深い欲望がある。私達のみこころの動機は、主に
喜ばれたいという事だ。人ではなく、主だ。
主をお喜ばせするなら、自分にも満足が来る。


2003年07月13日(日)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っています」(Tペテロ5:8)

山登りをした時に、片側、崖の細い道にでくわ
した。恐いので、皆が一歩一歩大変注意しながら、
足元をしっかり見て、地面を踏みしめて、全神経
を張り詰めて、皆が無事通過した。危険だとわか
っていたので、意識を集中し、注意深く通ったの
で安全だったのだ。私達は、いつ道徳上の危険に
遭遇するか知れない。サタンは食い尽くすべき獲
物を狙って歩き回っている。警戒しているから安全
なのだ。自分は大丈夫だと、自分は絶対にそんな
事はしないと、たかをくくっている者が一番危険だ。
誰でも罪を犯す可能性はあるのだ。道徳上の過失で、
罪を犯してしまった人々と同じように。自分は大丈
夫との過信が失敗を招く。しっかり武具をつけて、
祈りつつ見張り、警戒、警戒、警戒を怠るな。


2003年07月12日(土)

愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」(箴言12:15)


ある牧師が、文句、批判、非難ざんまいの人に出
会った。面と向かって批判された時、その牧師は
「あなたの考えを話して下さった事を感謝します。
その事についてよく考えてみます」と答えた。周
囲の人々はなぜ反論しないのかと驚いた。すると、
牧師は「どんな批判も考える事にしています。も
しかしたら、神からかも知れないし、神からなら
聞かねばなりません」。批判された時は「柔らか
な答えは憤りを静める。しかし、激しいことばは
怒りを引き起こす」を覚えよう。怒りで応答して
はならない。争いを引き起こすだけだ。柔和に受
け止め、よく考えよう。もしかしたら、私達は変
わらなければならないのかも知れない。もし、そ
うでなくても、私達は失うものは何もないのだから。


2003年07月11日(金)

『モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた・・彼らには水が見つからなかった。民はモーセにつぶやいて「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った』(出エジプト15:22)


 苦難の中にいたイスラエルは、エジプトから
救い出された時大喜びで、神を賛美した。
すぐに、約束の地に進まなければならなかった。
モーセに導かれて荒野に出て行った。
神を賛美した、舌の根も乾かない内に、三日間
水が無いと不平を言った。私達はどうか。
病気が回復し、経済的必要が与えられ、悩みが
解決されると神を誉め称え感謝する。
しかし、困難が来るやすぐに不平不満だらけに
なる。神の奇跡的なみわざは、それ自体が目的
ではない。神に従うように導くためのものだ。
イスラエルの民がそうであったように、奇跡を
見ても、どれほど神の力を体験しても、人の心
が変わらないという事があり得るのだ。
心いて神に従うものでありたい。
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2003年07月10日(木)

「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら・・出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りしなさい」(マタイ5:23)


 ある友人同士が、ちょっとした事で言い争いになり
腹立ち紛れに、一方が相手を、非難、罵倒した。
帰宅してその夜、全く平安が無かった。
言い過ぎ、相手を傷つけたであろう事に心がとがめら
れ、眠れなかった。謝罪するようにとの御声の促し、
御声がよくわかった。翌日すぐに御声に従い、相手に
謝った。平安が戻った。神を礼拝する行為よりも和解
する方が更に大切だと、神は言われる。
争ったまま、神を礼拝など出来ないからだ。
それは欺瞞だ。あなたは和解しなければならない相手
がいるか。ぎくしゃくした関係がそのままか。
その関係を正す事をせよ。神との関係が正しいと、人
との関係も正しく矯正される。
今日、神のみこころに従おう。


2003年07月09日(水)

地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(T列王19:12)

山々を裂き、岩々を砕く大風があり、その後に
地震が起こった。大風の中にも地震の中にも
火の中にも主はおられなかった。その後にかす
かな御声があった。大騒動の中ではなく、静
けさの中で、主の御声は聞こえる。小さなかす
かな御声だ。心を静めて聞かないと聞こえない。
喧騒の中では聞こえない。日々の忙しさに流さ
れてしまっていないか。世の凄まじい勢力に飲み
込まれてしまっていないか。かすかな小さな御声
が聞こえなくなってしまっていないか。神の御前
に静まる必要がある。しばし、世の喧騒から離れ、
人から離れ、テレビを消して、主の御前に静まる
ことだ。心を主だけに向けて集中するのだ。かす
かな細い細い御声が聞こえてくる。今、あなた
に一番必要なことだ。


2003年07月08日(火)

「それから、モーセはシナイ山から降りて来た・・彼は主と話したので、自分の顔のはだが光を放って彼は主と話したので、自分の顔のはだが光を放っていたのを知らなかった」(出エジプト34:29)


 あなたは日々、鏡を見るだろうか。私達はどんな顔を
しているだろうか。疲れた顔だろうか。思い煩いで眉間
にしわがよっているか。イライラして歪んだ顔か。
思い通りにならなくて、きつい顔をしているか。
悲しみや、嘆きや痛みは私達の顔つきに表れる。
しかし、その反対も同様だ。喜びや楽しみ、安らぎ、満
ち足りた心持も顔に表れる。モーセは一人っきりで神と
時を過ごした時、彼の顔は光を放ったのだ。
平安と満足、喜びは神と時を過ごすことから来る。
神との交わりから来る。状況や環境の問題ではない。
神と共にいること、神との交わりから来るのだ。
あなたの顔が疲れているなら、眉間にしわがよっている
なら、神と交われ。心に潤いと喜びが来る。


2003年07月07日(月)

「ですから、あなたがたは今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」(Tテサロニケ5:11)


 人は誰しも励ましを必要としている。
励ましが要らない人などいない。私達が落ち込ん
でいる時、励ましによって、引き上げられ立ち上
がれた事を何度経験した事だろう。
自分が何かの役に立っているのか、努力は無駄だ
ったのか、骨折りは何の役にも立たないのでは、
そんな時、一言の励ましがどんな救いになるだろ
う。「あなたに助けられました。ありがとう」
「あなたの心遣いに慰められました。感謝します」
気落ちしている時の励ましは大きな力だ。
再び力が与えられ奮い立たせられる。
私達も誰かが励ましを必要としている時に、怠った
事はないか。あなたの一番近い家族は励ましを必要
としていないか。励ましの一言で、人は生き返る。
私達が与えられる素晴らしいプレゼントだ。


2003年07月06日(日)

「宴会の時刻になったので、しもべをやり、招いておいた人々に「さあ、おいでください。もうすっかり用意ができましたから」と言わせた」ルカ14:17

この箇所には盛大な宴会の話が出てくる。大勢
の人が招かれた。しかし、皆、次々断ってきた
のだ。ある人は畑を買い、見に行くのでと。ある
人は牛を買ったので、ためすと。ある人は結婚した
ので行けないと。これらは悪い事ではない。むしろ、
私達の日常生活の事であり、合法的な事だ。しかし、
悪い事ではない。これらの事が私達の生活を一杯に
して埋め尽くす。そして、これらの人々は宴会に出
ることができなかった。あなたはどうだろう。毎日
のスケジュールで一杯になり過ぎ、神との宴会に出
ることが出来ないのではないか。宴会はすでに用意
されている。あなたは行くだけなのだ。
祈りと御言葉のデボーションの宴会に出席せよ。
忙し過ぎるなら、生活の方を調整すべきだ。


2003年07月05日(土)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)

画家を父親に持つ、少年である息子が父親のような
絵を描きたいとねだった。父親の絵筆を持って絵を
描きたいと。しかし、幾ら頑張っても父親のような
絵を描くことは不可能だ。父親の絵筆だけを持って
もだめなのだ。父親の絵を描くためには父親の心、
父親のいのちが必要なのだ。信仰面でも同様だ。キ
リストを信じていない人が、キリストのように生き
ることは不可能だ。全く出来ない。新生したクリス
チャンには可能だ。しかし、あなたは無力を感じて
いるか。それは、内におられる御霊に抵抗し、従わ
ないでいるからだ。ゆえに、御霊があなたを支配
することができない。自我が御霊に逆らい、抵抗
している状態か。御霊の導きに従順に従うなら、あ
なたは自由を経験する。あなたは自分の思いが強く、
自分の欲望、願いが、御霊を妨げていないか。


2003年07月04日(金)

『ダビデは言った「そんな男は死刑だ」ナタンは言った「あなたがその男です」ダビデは言った「私は主に対して罪を犯した』(Uサムエル12:7)


 ある偏屈で近眼の老人が目の前の老人を見て、何と
年寄り臭い男だ。背が曲がり、器量は悪い、何と不格
好なみすぼらしい老人だと言った。
しかし、彼は鏡の前に立っていたのだ。他人だと思っ
ていたのは、実は自分の姿だったのだ。
姦淫と殺人と言う大罪を犯したダビデはナタンに一つ
の物語を指し示された。多くの羊を持っていた金持ち
がたった一匹の子羊しかなく大切にしていた貧しい者
から奪った話しだ。ダビデはその子羊を奪った者に裁
きを下した時に、自分自身に裁きを下したのだ。
自分の欠点はわからないが、他人の欠点や罪ははっき
りとわかる。御言葉は鏡だ。鏡がなければ顔の汚れは
見えない。御言葉がなければ罪はわからない。
鮮明に御言葉が罪を照らし出す。


2003年07月03日(木)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)


 私達には生まれつきの古い性質があり、
主イエスを信じた時、聖霊の内住により、
新しい性質が与えられる。
古い性質は自己中心で、自己を主張する。
そして、新しい性質は罪を憎み、神に従
い、神を愛そうとする。この二つの性質
が、私達の内で戦う。あなたが救われて
以来、今、どこにいるだろう。
古い性質が支配し、クリスチャンだが未
信者のような生活を送っているか。
それとも、二つの性質が平行線か。
それとも新しい性質がどんどん成長し主
イエスを現す者とされているか。
バプテスマのヨハネは主イエスに出会っ
た時、あの方は盛んになり私は衰えなけ
ればならないと言った。あなたの自我は
衰えているか。
自我がまだまだ屈強で頑強か。主に従え
ば従うほど、自我に従う事が滅じてくる。


2003年07月02日(水)

「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27)

ある女性が職場で根も葉も無い中傷をされ、深く傷
ついた。怒りが沸騰し、どんなに理不尽な扱いを受
けたかを、神に訴え続けた。怒りと不満を神に訴え
叫び尽くすと、少し落ち着いて、その時、イエスな
らどうされるだろうとの思いがきた。祈り出し、自
分の怒り、自分の思いをまず神に委ねた。そして、
どうすべきかを神に尋ねた。すると、その中傷した
人のために祈れと言われた。絶対に嫌で祈れなかっ
た。しかし、従おうと、意志を向けた。言葉を発し
て行く内に、祈りが導かれ、自分の心が変えられた
のだ。その相手への怒りが消え、かわいそうに思え、
同情の気持ちが湧いて来た。他人に傷つけられてい
るが、怒り、憎しみは相手以上に自分で自分を傷つ
けて行く。


2003年07月01日(火)

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」(ヨハネ15:7)


 祈りは生き生きとした主との交わりの中で、答えられ
て行く。何よりも交わりの生活が大切だ。
あるメッセンジャーは逆の事も言った。
祈りの答えを見張り、祈りが答えられているのを確認す
る必要がある。なぜなら、祈りが答えられる事は、正し
く主につながっている事の確証になるからと。
御言葉に従い、神との約束に立って祈る祈りは答えられ
る。神はこの世界での立身出世は約束しておられない。
また、必ず健康であるとも約束しておられない。
しかし、多くの約束がある。必ず益になる事、耐えられ
ない試練はない事、必要は満たされる事・・これらの約束
を土台に祈るなら答えられる。
神の約束に基づく祈りは神を動かす。