2003年07月31日(木) 『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。私があなたを助ける。」と言っているのだから』(イザヤ41:13)
『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。私があなたを助ける。」と言っているのだから』(イザヤ41:13)
大きな問題が襲ってきた時、また、困難の怒涛 の中で、かろうじて一日が過ぎ去る時、心に感覚 も失せ去るほど疲れ果て、神経がすり切れるよう な経験をした事があるだろうか。 このような、押しつぶされそうな精神的圧迫のあ る時、どう対処すればよいのか。主が模範だ。 主は常に群集から離れ、御父と一人交わる時を持 たれた。これが答えだ。主は幸いな時を持たれ、 再び新たな力を受けて群集のもとに戻られた。 私達も神に祈るのだ。静けさの中ですべての思い を神に向け心を集中させ祈るのだ。 心の平安を経験する。極度の恐れと不安を主の平 安と交換して下さる。神に問題を委ねて、神の愛 を再確認し、心は平安に満ちる。 主があなたをしっかり握っておられる。
2003年07月30日(水) 「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:30)
「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:30)
「だから恐れることはありません。あなたがた は、たくさんの雀よりすぐれた者です」一羽の 雀さえ、神の許しが無ければ地に落ちない。す べての事に神の御手と配慮が働いている。小さ な事柄の中に、神の愛と配慮が詰まっている。 あなたはそれをしっかり受け取っているか。落 胆している時の聖書の励ましの言葉、悲しみに 沈んでいる時の友人の慰め、家族からの小さな 手助け、友人からの電話、遠方の友からの手紙、 近所の人の親切、様々な事柄は神からのものだ。 あなたへの愛と配慮だ。どれほど、あなたは気 づいているだろうか。あなたの心の目を大きく 開け。よく見よ。あなたへの愛を、わたしは知 らせ続けていると、神は言われている。しっか り見るなら、神の愛が見える。
2003年07月29日(火) しかし彼は答えて言った「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい』(マタイ20:13)
しかし彼は答えて言った「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい』(マタイ20:13)
一人の独身女性が、年末になりイルミネーシ ョンが輝き、街がキラキラし出すとたまらなく 寂しくなった。巷がにぎわい、特に家族団らん が溢れる年末年始はひどく孤独に感じた。 周囲の家庭と比較して神は不公平だと不満が募 った。その時、ぶどう園の例え話しで気づきが 与えられた。一日中ぶどう園で働いた人達は賃 金に満足していた。ところが隣の人と比べた時 不満で一杯になった。隣を見る事がなければず っと満足したままだ。自分の心の態度の問題だ と気づいた。人との比較ではなく、また、自分 の思い、理想との比較でもなく、ありのままの 自分を認め、神に従って行くなら、来る日も来 る日も幸せでいる事ができるのだ。 比較を止めよ。横ではなく、上だけを見上げて、 御心に従うのだ。
2003年07月28日(月) 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)
ある道路を運転中、センサーで、「速度オーバー」 との表示が出た。60キロ制限のところを85キロで 走っていたのだ。すぐに速度を落とした。速度ダウン、 この事を通し日常生活を思わせられた。あまりにも忙 し過ぎないか。次から次への盛だくさんのスケジュー ルをこなし、疲れ果てていないか。 苛立ちと焦り、思い煩いで一杯になっていないか。 しばし立ち止まるべきだ。優先順位が混乱すると、秩 序を見失う。神の優先順位に従うなら、生活に秩序が 生まれる。神第一。神との交わりの時間までないとい うならその生活は間違っている。不必要なものを整理 し神第一にせよ。
2003年07月27日(日) 「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(創世12:1)
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(創世12:1)
アブラハムは神の導きを受け、故郷を出て、示され た地へ向かって旅立った。故郷から離れる事、親族 との別離、大変な困難があったに違いない。しかし、 神の命令に従った事により、大いなる国民とされ祝 福の基とされた。一歩を踏み出す時は大きな決断と 勇気がいるかも知れない。しかし、それはあなたに も周囲にも必ず大きな祝福をもたらす。今、あなた に示されている事は何か。悪い習慣を断つ事か。何 か新しい事を始めることか。あなたに悪い態度をし た誰かを赦す事か。誰かと和解する事か。何であれ、 神があなたに、今示されているその導きに従え。一 歩を踏み出すなら神が助けて下さる。そして、アブ ラハムのようにそれを成し遂げる事ができる。今、 一歩を踏み出せ。
2003年07月26日(土) しかしナアマンは『何ということだ。私は・・彼が彼の主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし・・と思っていたのに』」(T列王5:11)
しかしナアマンは『何ということだ。私は・・彼が彼の主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし・・と思っていたのに』」(T列王5:11)
将軍ナアマンは主君に重んじられ、尊敬を受けていた。 しかし、らい病にかかっていた。召使いの少女が預言 者エリシャなら癒すことが出来ると提案した。エリシャ はそれを引き受け、ナアマンはやって来た。すると、 使いの者がヨルダン川に七度身を浸すなら、元通りに なると告げた。ナアマンは怒ったが、しもべの説得に 耳を傾け、その通りにした。すると、癒されたのだ。 まずナアマンにはプライドが砕かれる必要があった。 自分は手厚く迎えられ、手を置いて癒されるだろうと 思っていた。出迎えもなく、公衆の面前に恥をさらし、 川に浸かるというものだった。しかし、へりくだって、 それらを受け入れた時、癒された。神の砕き、神の方法 を受け入れ、従って行く時、私達は一段階一段階と成長 する。
2003年07月25日(金) 「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける・・しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」(イザヤ49:29)
「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける・・しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」(イザヤ49:29)
人生で極度の苦しみや悲しみに会う時、 立ち向かって戦う力や耐える力も失い、 ただ祈るばかりの状態になる。 しかし、祈りこそ力だ。主だけを見上げ、 主だけに信頼し、祈るなら、新たな力を 受ける。余りにも多忙すぎて疲れきって しまう時も、新しく力を得、鷲のように 翼をかって上ることができ「走ってもた ゆまない」又、何の変化もない毎日繰り 返す同じ仕事、同じ日常、同じ会社へ毎 朝行き、同じ仕事を繰り返す。 延々と気が遠くなるほどの、つまらなさ を覚えても、「歩いても疲れない」のだ。 有限な私達のいつも覚える疲れや弱さが、 無限の神の力と交換される。 何という恵みだろう。あなたは疲れ、弱 っているか。新しい力を受けよ。
2003年07月24日(木) 「自分のことだけでなく他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい」(ピリピ3:4)
「自分のことだけでなく他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい」(ピリピ3:4)
あなたも経験した事があるだろう。 電話を取った途端、友人の悩みの相談が始まり、 愚痴、不安、恐れや苦しみを延々と聞く事にな ったという事態を。主にある友のために愛情と 祈りを必要としているという事だ。 助言を必要としているという事だ。聞くという 事は、仕える事の一つの有益な形だ。 愛を分かち合う方法だ。神は互いに仕え合いな さいと言われる。耳を傾け、愛情と同情をもっ て聞く時、相手は慰めを受ける。 時間を取り、手を止めて相手に関心を示す事は 愛だ。他の人の事を顧みる事は主のみこころ。 あなたにとってのマケドニヤ人は誰か。 「マケドニヤに渡って来て、私達を助け出して 下さい」助けを懇願している相手は誰か。 あなたの周囲をよく見回そう。キリストの愛を 示し仕える機会だ。
2003年07月23日(水) 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Tコリント7:10)
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Tコリント7:10)
あなたは日々、漠然とした罪意識に悩まされて いないか。何の罪かはよくわからないが、いつも 罪意識があり、自分はだめだ、自分みたいな者は 価値がないと感じる。そこからは、否定的な感情 しか生まれない。神のみこころに添った悲しみと 世の悲しみがある。聖霊は明確に的を絞って、私 達の犯した罪を示される。そして、私達に悔い改 めを促される。悔い改めるなら、完全に赦して下 さる。悔い改めの後にも、自分を無価値な者と感 じ続ける事が謙遜と勘違いしてはいけない。それ は大きな間違いだ。神は罪を赦される。拭い去っ て下さり、二度と思い出さないと言われる。漠然 とした常習的な罪意識はサタンからのものだ。悔 い改めの後の罪意識もサタンからのもの。聖霊の 御声を真似るサタンに騙されるな。間違うな。
2003年07月22日(火) 「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方・・疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」(イザヤ40:28)
「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方・・疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」(イザヤ40:28)
「あなたは知らないのか。聞いていないのか。 主は永遠の神、地の果てまで創造された方・・ 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気 をつける」(イザヤ40:28) 誰しも疲れ果てた経験があるだろう。 大きな責任の重圧とストレスで。また追い切れな い重荷や解決が見つからない困難の中で。 ある人は完全に行き詰まり、しばし神との時を持 とうと、高層ビルの最高階のカフェで聖書を開い た。その時、眼下に素晴らしい地平線に見事な夕 日が落ちるのが見えた。都会の真中で息を飲む美 しさだった。その場に神を感じた。 ある人は夜空の満点の星に神を感じ、ある人は海 岸に休養のために退いて、そこで創造主である神 に触れた。神に触れるや心の緊張やストレス、痛 み、圧迫感が消えてしまったのだ。神は疲れたあ なたを快く迎えて下さり、新しくして下さる。 翼をかって再び上がることが出来る。
2003年07月21日(月) 「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも」(詩篇22:1)
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも」(詩篇22:1)
ダビデは神に愛され、神に従った人物だ。 しかし、息子が自分に反逆して立ち向かって来た 時、神に見捨てられてしまったと感じた。 主イエスも十字架上で、どうしてお見捨てになる のですかと、神に訴えた。私達は悲しみや苦しみ、 困難に遭遇した時に、きれい事の祈りではなく、 神に訴える事が出来る。訴えて良いのだ。 神の御前で、建て前の祈り、きれい事の祈り、本 心からでない祈りは全く答えられない。 祈っても無駄だ。無駄な祈りでなく、本心からの 正直な心を神に訴えるなら、神は聞かれる。 多くの人が嘆きを神に持ちだし、正直に心の内を 訴える時、神が不思議な道を開いて下さったと体 験している。神は道を開かれる。 信じるなら神は大きく働かれる。
2003年07月20日(日) 「求めなさい。そうすれば与えられます・・だれであれ求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:7)
「求めなさい。そうすれば与えられます・・だれであれ求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:7)
主を信頼する小さな子供が、可愛い人形をとても 欲しがった。それを遠方の祖母が知り、数ケ月後 の誕生日プレゼントに送ると約束してくれた。子 供は喜び一杯で、指折り数えて誕生日を待った。 胸が踊った。神様が一番良いものを与えて下さる ようにと、ずっと祈った。やがて、誕生日当日に なった。しかし、その荷物は届かなかった。娘の 失望落胆を心配した母親は、祖母が忘れたのでは と言った。しかし、娘は絶対に祖母は忘れていな い、必ず届くと言い張った。すると、祖母から電 話があり一番良いものを捜し続けていて、取り寄 せに時間がかかり、間に合わなかったが、今途上 にあり、明日届くからと。神はあなたの願いを決 して忘れておられない。答えを待て。途上に来て いる。
2003年07月19日(土) 「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」(イザヤ26:3)
「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」(イザヤ26:3)
私達の日常生活が順調で、何の問題も無い時に、 平安を感じるのは簡単だ。穏やかに毎日過ごし て行けるだろう。しかし、問題にぶち当たり、 悩み苦しむ時、心がちぢに乱れる時、どうして 良いかわからない時、私達は混乱してしまう。 平安は完全に吹き飛んで、怒涛の嵐の中に巻き 込まれ、翻弄されてしまう。そのような最中に、 平安であるというのは簡単ではない。しかし、 平安であり得るのだ。波にも嵐にも決して揺る ぐことのない岩であるキリストの上に立ち、 信頼と信仰を主に置く時、全き平安でいられる のだ。どんなに波風逆巻く中でも、平安でおれ る。主を信頼するのだ。万事を益にして下さり、 最善以下のことを決してされない主を見上げ、 信ぜよ。あなたも平安を経験する。
2003年07月18日(金) 『イエスは彼に言われた「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」』(ルカ19:5)
『イエスは彼に言われた「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」』(ルカ19:5)
私達の家に来客を迎える時、どのように用意 するだろう。朝起きる時間に合わせて、朝食の 準備をし、ゆっくりした語らいの時間を取り、 何かを一緒にするように計画するかもしれない。 お客の必要に答え、お客に合わせるだろう。 どんなに忙しい日常を過ごしていても来客の時 は別だ。そのように主のために時間を取ってい るか。朝、主にお会いしているか。 語らいの時を取っているか。もしお客のためな ら、朝の時間を必ず取るだろう。それなら朝早 く待っていて下さる主との時間はどうか。 翌朝主にお会いするために、整え、夜に床につ くならどれほど生活が変わり幸いなことだろう。 主をなおざりにしていないか。今一度生活を整 え朝毎に主にお会いしよう。
2003年07月17日(木) 『イエスは、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」・・すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた』(マルコ5:36)
『イエスは、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」・・すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた』(マルコ5:36)
私達は心配し、不安に思い、恐れを抱くものだ。 あらゆる思い煩いから開放されたいが、心配事 で心が一杯になったりする。信仰と心配を行っ たり来たりするのが、私達だ。しかし、パウロ も「弱く恐れおののいていました」と告白して いる。心配や不安があることで思い煩わないで、 その事実をしっかり神の御前で認めるのだ。 恐れや不安など全く無いという振りをすること が良くない。 恐れや不安を、そのまま神に告げるのだ。 すると、神は御声をかけ、強め、立たせて下さ る。神により頼むのだ。不安と恐れのある時、 神を信じよう。恐れないでただ信じていなさい、 との御声をかけていて下さる。 主の真実を堅く信じよう。不安は平安に変えら れる。
2003年07月16日(水) だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑されたと言ってはいけません」(ヤコブ1:13)
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑されたと言ってはいけません」(ヤコブ1:13)
自分の過ちや失敗を人のせいに、環境のせいに してしまうことが無いだろうか。罪を犯したア ダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにして 責任転嫁して行った。アダムは「あなたが、置 かれたこの女」と暗に神のせいと言わんばかりだ。 モーセが山にいた間に、民はアロンと共に、何と 鋳物の子牛を造って偶像礼拝の罪を犯した。アロ ンはその場で悔い改めて責任を取ろうとせず、民 のせいにした。金を火に投げ入れると、子牛が出 て来たと嘘までついた。神は罪をさばかれ、多く の人々が神に打たれ死んだのだ。間違ったら悔い 改め、責任を取ろう。自分を正当化して、人のせ いにしてはならない。罪を認めることだ。まして や、神のせいにするな。
2003年07月15日(火) 「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました」(ピリピ3:7)
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました」(ピリピ3:7)
私達が心の命となっているものが一人一人違う だろう。多くの人は仕事が生きがいであり命だ。 仕事に時間も労力も全精力を注ぎ込んで当然と 思っている。自分のアイデンティティが仕事で 成り立っている人が多い。仕事はどこまでも、 仕事であり、神が与えて下さった賜物だ。 仕事は神ではない。偶像になりがちだ。 勿論、仕事に一生懸命身を入れて働く事は、神 のみこころだ。経済的必要のために用い、困っ ている人々を援助する事を神は喜ばれる。 しかし、仕事を自らの充足の手段にしてはなら ない。どこまでも、こころの充足は神ご自身か ら来るべきだ。神は仕事以上に大切だ。 仕事が偶像になっていないか。
2003年07月14日(月) 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです」(マルコ10:45)
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです」(マルコ10:45)
イエスは言われた「あなたがたのあいだで偉くなり たいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」 この御言葉からある牧師が言った。 「誰でも偉くなれる。なぜなら、誰でも仕える事が出 来るから」天国で栄光の座に座りたいと願った弟子達 に、主は人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべ になりなさいと言われた。私達はどうだろう。 喜んで裏方の奉仕が出来るだろうか。誰の目にもつか ないところで喜んで出来るだろうか。 私達には人に認められたい、人の評価を受けたいとい う根深い欲望がある。私達のみこころの動機は、主に 喜ばれたいという事だ。人ではなく、主だ。 主をお喜ばせするなら、自分にも満足が来る。
2003年07月13日(日) 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っています」(Tペテロ5:8)
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っています」(Tペテロ5:8)
山登りをした時に、片側、崖の細い道にでくわ した。恐いので、皆が一歩一歩大変注意しながら、 足元をしっかり見て、地面を踏みしめて、全神経 を張り詰めて、皆が無事通過した。危険だとわか っていたので、意識を集中し、注意深く通ったの で安全だったのだ。私達は、いつ道徳上の危険に 遭遇するか知れない。サタンは食い尽くすべき獲 物を狙って歩き回っている。警戒しているから安全 なのだ。自分は大丈夫だと、自分は絶対にそんな 事はしないと、たかをくくっている者が一番危険だ。 誰でも罪を犯す可能性はあるのだ。道徳上の過失で、 罪を犯してしまった人々と同じように。自分は大丈 夫との過信が失敗を招く。しっかり武具をつけて、 祈りつつ見張り、警戒、警戒、警戒を怠るな。
2003年07月12日(土) 愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」(箴言12:15)
愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」(箴言12:15)
ある牧師が、文句、批判、非難ざんまいの人に出 会った。面と向かって批判された時、その牧師は 「あなたの考えを話して下さった事を感謝します。 その事についてよく考えてみます」と答えた。周 囲の人々はなぜ反論しないのかと驚いた。すると、 牧師は「どんな批判も考える事にしています。も しかしたら、神からかも知れないし、神からなら 聞かねばなりません」。批判された時は「柔らか な答えは憤りを静める。しかし、激しいことばは 怒りを引き起こす」を覚えよう。怒りで応答して はならない。争いを引き起こすだけだ。柔和に受 け止め、よく考えよう。もしかしたら、私達は変 わらなければならないのかも知れない。もし、そ うでなくても、私達は失うものは何もないのだから。
2003年07月11日(金) 『モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた・・彼らには水が見つからなかった。民はモーセにつぶやいて「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った』(出エジプト15:22)
『モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた・・彼らには水が見つからなかった。民はモーセにつぶやいて「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った』(出エジプト15:22)
苦難の中にいたイスラエルは、エジプトから 救い出された時大喜びで、神を賛美した。 すぐに、約束の地に進まなければならなかった。 モーセに導かれて荒野に出て行った。 神を賛美した、舌の根も乾かない内に、三日間 水が無いと不平を言った。私達はどうか。 病気が回復し、経済的必要が与えられ、悩みが 解決されると神を誉め称え感謝する。 しかし、困難が来るやすぐに不平不満だらけに なる。神の奇跡的なみわざは、それ自体が目的 ではない。神に従うように導くためのものだ。 イスラエルの民がそうであったように、奇跡を 見ても、どれほど神の力を体験しても、人の心 が変わらないという事があり得るのだ。 心いて神に従うものでありたい。 ------------
2003年07月10日(木) 「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら・・出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りしなさい」(マタイ5:23)
「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら・・出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りしなさい」(マタイ5:23)
ある友人同士が、ちょっとした事で言い争いになり 腹立ち紛れに、一方が相手を、非難、罵倒した。 帰宅してその夜、全く平安が無かった。 言い過ぎ、相手を傷つけたであろう事に心がとがめら れ、眠れなかった。謝罪するようにとの御声の促し、 御声がよくわかった。翌日すぐに御声に従い、相手に 謝った。平安が戻った。神を礼拝する行為よりも和解 する方が更に大切だと、神は言われる。 争ったまま、神を礼拝など出来ないからだ。 それは欺瞞だ。あなたは和解しなければならない相手 がいるか。ぎくしゃくした関係がそのままか。 その関係を正す事をせよ。神との関係が正しいと、人 との関係も正しく矯正される。 今日、神のみこころに従おう。
2003年07月09日(水) 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(T列王19:12)
地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(T列王19:12)
山々を裂き、岩々を砕く大風があり、その後に 地震が起こった。大風の中にも地震の中にも 火の中にも主はおられなかった。その後にかす かな御声があった。大騒動の中ではなく、静 けさの中で、主の御声は聞こえる。小さなかす かな御声だ。心を静めて聞かないと聞こえない。 喧騒の中では聞こえない。日々の忙しさに流さ れてしまっていないか。世の凄まじい勢力に飲み 込まれてしまっていないか。かすかな小さな御声 が聞こえなくなってしまっていないか。神の御前 に静まる必要がある。しばし、世の喧騒から離れ、 人から離れ、テレビを消して、主の御前に静まる ことだ。心を主だけに向けて集中するのだ。かす かな細い細い御声が聞こえてくる。今、あなた に一番必要なことだ。
2003年07月08日(火) 「それから、モーセはシナイ山から降りて来た・・彼は主と話したので、自分の顔のはだが光を放って彼は主と話したので、自分の顔のはだが光を放っていたのを知らなかった」(出エジプト34:29)
「それから、モーセはシナイ山から降りて来た・・彼は主と話したので、自分の顔のはだが光を放って彼は主と話したので、自分の顔のはだが光を放っていたのを知らなかった」(出エジプト34:29)
あなたは日々、鏡を見るだろうか。私達はどんな顔を しているだろうか。疲れた顔だろうか。思い煩いで眉間 にしわがよっているか。イライラして歪んだ顔か。 思い通りにならなくて、きつい顔をしているか。 悲しみや、嘆きや痛みは私達の顔つきに表れる。 しかし、その反対も同様だ。喜びや楽しみ、安らぎ、満 ち足りた心持も顔に表れる。モーセは一人っきりで神と 時を過ごした時、彼の顔は光を放ったのだ。 平安と満足、喜びは神と時を過ごすことから来る。 神との交わりから来る。状況や環境の問題ではない。 神と共にいること、神との交わりから来るのだ。 あなたの顔が疲れているなら、眉間にしわがよっている なら、神と交われ。心に潤いと喜びが来る。
2003年07月07日(月) 「ですから、あなたがたは今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」(Tテサロニケ5:11)
「ですから、あなたがたは今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」(Tテサロニケ5:11)
人は誰しも励ましを必要としている。 励ましが要らない人などいない。私達が落ち込ん でいる時、励ましによって、引き上げられ立ち上 がれた事を何度経験した事だろう。 自分が何かの役に立っているのか、努力は無駄だ ったのか、骨折りは何の役にも立たないのでは、 そんな時、一言の励ましがどんな救いになるだろ う。「あなたに助けられました。ありがとう」 「あなたの心遣いに慰められました。感謝します」 気落ちしている時の励ましは大きな力だ。 再び力が与えられ奮い立たせられる。 私達も誰かが励ましを必要としている時に、怠った 事はないか。あなたの一番近い家族は励ましを必要 としていないか。励ましの一言で、人は生き返る。 私達が与えられる素晴らしいプレゼントだ。
2003年07月06日(日) 「宴会の時刻になったので、しもべをやり、招いておいた人々に「さあ、おいでください。もうすっかり用意ができましたから」と言わせた」ルカ14:17
「宴会の時刻になったので、しもべをやり、招いておいた人々に「さあ、おいでください。もうすっかり用意ができましたから」と言わせた」ルカ14:17
この箇所には盛大な宴会の話が出てくる。大勢 の人が招かれた。しかし、皆、次々断ってきた のだ。ある人は畑を買い、見に行くのでと。ある 人は牛を買ったので、ためすと。ある人は結婚した ので行けないと。これらは悪い事ではない。むしろ、 私達の日常生活の事であり、合法的な事だ。しかし、 悪い事ではない。これらの事が私達の生活を一杯に して埋め尽くす。そして、これらの人々は宴会に出 ることができなかった。あなたはどうだろう。毎日 のスケジュールで一杯になり過ぎ、神との宴会に出 ることが出来ないのではないか。宴会はすでに用意 されている。あなたは行くだけなのだ。 祈りと御言葉のデボーションの宴会に出席せよ。 忙し過ぎるなら、生活の方を調整すべきだ。
2003年07月05日(土) 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)
画家を父親に持つ、少年である息子が父親のような 絵を描きたいとねだった。父親の絵筆を持って絵を 描きたいと。しかし、幾ら頑張っても父親のような 絵を描くことは不可能だ。父親の絵筆だけを持って もだめなのだ。父親の絵を描くためには父親の心、 父親のいのちが必要なのだ。信仰面でも同様だ。キ リストを信じていない人が、キリストのように生き ることは不可能だ。全く出来ない。新生したクリス チャンには可能だ。しかし、あなたは無力を感じて いるか。それは、内におられる御霊に抵抗し、従わ ないでいるからだ。ゆえに、御霊があなたを支配 することができない。自我が御霊に逆らい、抵抗 している状態か。御霊の導きに従順に従うなら、あ なたは自由を経験する。あなたは自分の思いが強く、 自分の欲望、願いが、御霊を妨げていないか。
2003年07月04日(金) 『ダビデは言った「そんな男は死刑だ」ナタンは言った「あなたがその男です」ダビデは言った「私は主に対して罪を犯した』(Uサムエル12:7)
『ダビデは言った「そんな男は死刑だ」ナタンは言った「あなたがその男です」ダビデは言った「私は主に対して罪を犯した』(Uサムエル12:7)
ある偏屈で近眼の老人が目の前の老人を見て、何と 年寄り臭い男だ。背が曲がり、器量は悪い、何と不格 好なみすぼらしい老人だと言った。 しかし、彼は鏡の前に立っていたのだ。他人だと思っ ていたのは、実は自分の姿だったのだ。 姦淫と殺人と言う大罪を犯したダビデはナタンに一つ の物語を指し示された。多くの羊を持っていた金持ち がたった一匹の子羊しかなく大切にしていた貧しい者 から奪った話しだ。ダビデはその子羊を奪った者に裁 きを下した時に、自分自身に裁きを下したのだ。 自分の欠点はわからないが、他人の欠点や罪ははっき りとわかる。御言葉は鏡だ。鏡がなければ顔の汚れは 見えない。御言葉がなければ罪はわからない。 鮮明に御言葉が罪を照らし出す。
2003年07月03日(木) 「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)
私達には生まれつきの古い性質があり、 主イエスを信じた時、聖霊の内住により、 新しい性質が与えられる。 古い性質は自己中心で、自己を主張する。 そして、新しい性質は罪を憎み、神に従 い、神を愛そうとする。この二つの性質 が、私達の内で戦う。あなたが救われて 以来、今、どこにいるだろう。 古い性質が支配し、クリスチャンだが未 信者のような生活を送っているか。 それとも、二つの性質が平行線か。 それとも新しい性質がどんどん成長し主 イエスを現す者とされているか。 バプテスマのヨハネは主イエスに出会っ た時、あの方は盛んになり私は衰えなけ ればならないと言った。あなたの自我は 衰えているか。 自我がまだまだ屈強で頑強か。主に従え ば従うほど、自我に従う事が滅じてくる。
2003年07月02日(水) 「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27)
「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27)
ある女性が職場で根も葉も無い中傷をされ、深く傷 ついた。怒りが沸騰し、どんなに理不尽な扱いを受 けたかを、神に訴え続けた。怒りと不満を神に訴え 叫び尽くすと、少し落ち着いて、その時、イエスな らどうされるだろうとの思いがきた。祈り出し、自 分の怒り、自分の思いをまず神に委ねた。そして、 どうすべきかを神に尋ねた。すると、その中傷した 人のために祈れと言われた。絶対に嫌で祈れなかっ た。しかし、従おうと、意志を向けた。言葉を発し て行く内に、祈りが導かれ、自分の心が変えられた のだ。その相手への怒りが消え、かわいそうに思え、 同情の気持ちが湧いて来た。他人に傷つけられてい るが、怒り、憎しみは相手以上に自分で自分を傷つ けて行く。
2003年07月01日(火) 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」(ヨハネ15:7)
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」(ヨハネ15:7)
祈りは生き生きとした主との交わりの中で、答えられ て行く。何よりも交わりの生活が大切だ。 あるメッセンジャーは逆の事も言った。 祈りの答えを見張り、祈りが答えられているのを確認す る必要がある。なぜなら、祈りが答えられる事は、正し く主につながっている事の確証になるからと。 御言葉に従い、神との約束に立って祈る祈りは答えられ る。神はこの世界での立身出世は約束しておられない。 また、必ず健康であるとも約束しておられない。 しかし、多くの約束がある。必ず益になる事、耐えられ ない試練はない事、必要は満たされる事・・これらの約束 を土台に祈るなら答えられる。 神の約束に基づく祈りは神を動かす。