2003年08月31日(日)

「彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した」(ネヘミヤ8:8)

「いつも喜んでいなさい」との御言葉が聖書に
ある。普通は不可能だ。状況に左右されアップ
ダウンを繰り返している。なぜ、いつも喜ぶ事
が出来るのか。それは聖書の言っている事を、
神様のみこころをしっかり理解した時にわかる。
何が起ころうと、神は目的をお持ちで、ご計画
があられ、無意味な事は一つもなく、神は無駄
な事などなさらない。
すべては益となり、自我が砕かれる事により霊
的成長が与えられ、きよめられて行く。
私達の救われた目的はきよくなる事、キリスト
のかたちに変えられて行く事、痛みを通してそ
れらが達成されて行く事、
それらを理解する時に、すべての事に感謝し、受
け入れる事ができ喜べる。
聖書をよく理解し、受け入れる事は大切、従順に
従う事はもっと大切。


2003年08月30日(土)

「・・マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ10:42)

私達の信仰生活、瞬間、瞬間、選択したものが
結実する。「マリヤは・・選んだ」。
私達はどうだろう。神が呼びかけておられる
時に無視していないか。すでに自分には、自分
の思いがあり、する事があるので、神の入る余
地は無いのではないか。祈る時間を取るように
促されているのに、忙しいから無視する。聖書
に向かうよう御霊の導きを感じるが、気楽な雑
誌に手が伸びてしまう。なすべき事をするよう
にの促しがあるのに、怠惰に身を任せて無駄に
時間を浪費する。私達は選ばない限り、みここ
ろをそれ、神の喜ばれる歩みの反対方向へ行っ
てしまう。私達は選び、成し遂げる力は神から
来る。しかし、意志を向け選ぶ必要がある。


2003年08月29日(金)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」(Uコリント5:7)



 ある男性が一つの事業を起こす事をずっと
主に祈っていた。自分の思いでなく、みここ
ろを求めて祈り続けた。祈りの中で主が導い
ておられる確信が与えられた。
事業を立ち上げたが、なかなか順調には行か
なかった。金銭面での工面、様々な人間関係
等、難問山積だった。しかし、見えるところ
がどうであれ、神を信頼し続けた。
状況はしばしば私達の目を信仰から離してし
まう。失望落胆、不安に陥らせ、否定的、消
極的になる。しかし、私達は見えるところで
はなく信仰によって歩んでいる。
神を信頼し、従い続けるなら多くの門が開か
れる。鍵は信頼だ。見えるところがどのよう
であれ、神を信頼し続けるのだ。
神はその信頼に答えて下さる。


2003年08月28日(木)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」(詩篇46:10)


 私達は慣れてしまっているかもしれないが、
実に騒がしい世の中だ。テレビはつけっ放し。
電話のベル、カーラジオにカセット、車の騒
音、様々なものが静けさを奪ってしまってい
る。「かすかな細い声」が、かき消されてし
まう。神の細かい小さなかすかな御声は静け
さの中で聞こえる。静かな時間はどうしても
必要だ。テレビを切り静かな場所と時間を持
とう。神と交わり、細い御声を聞こう。
騒がしい日々、時間を取らなければ、どんど
ん流されてしまう。神がすぐそばにおられる
のに、私達の側で交信不能状態となり、カラ
カラに乾ききった、潤いのない心で生活して
いる。溢れる恵みと潤いがすぐ側にあるにも
かかわらず。神から慰めと励ましを受け取ろ
う。


2003年08月27日(水)

「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5:7)

「私の隠れ場」の著者コーリー・テン・ブーム
が少女の頃、死が恐ろしくて、父親に死をどう
捕らえたらいいのかと尋ねた。父親はそれに答
えて、列車に乗る時を思い出してごらんと言っ
た。切符は列車に乗る直前にお前に渡しただろ
う。神様は同じ事をして下さるのだよと。誰も
皆、時が来れば死を迎える。しかし、ちょうど
その時に、必要な力を下さるのだと。私達は信
仰生活の中で、よく経験する。その時ちょうど
ピッタリに必要を備えて下さる神様を。お金が
無かった時、幾度ピッタリに与えられた事だろ
う。霊的必要がある時、幾度ピッタリな慰めと
励ましを受けたことだろう。何も心配する必要
がない。神は時ピッタリに、すべての必要を備
えて下さっている。神を信頼しよう。


2003年08月26日(火)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Uコリント5:17)


 日常の中で、様々な物が壊れる。電気器具類、日用品、
身の周りの物品。多くの物は壊れ、修理が必要だ。
修理により、再び仕様出来るし、前よりも更に良くなった
りする。物だけでなく、様々な人間関係、夫婦間、友人間
の関係が壊れる。しかし、神だけが救いの手段を持ってお
られる。罪を赦すことが出来、罪の解決を持っておられる
からだ。神は罪を赦し、回復させて下さり、素晴らしい事
に、前よりも良くして下さるのだ。
これを信じる時、希望がある。私が失敗する時、罪を赦し
回復させ、前より良いものにして下さる。
壊れた対人関係を回復させ癒し、前よりも良くして下さる
のだ。新しくして下さる。


2003年08月25日(月)

「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」(詩篇19:12)



 周囲の人から突然、あなたの欠点や弱点を
指摘されたことがあるだろうか。
突然の事だと、動揺が激しくて、訳がわから
ないかもしれない。怒りと屈辱で打ちのめさ
れるだろう。ある人は友人からの突然の指摘
に、怒り心頭だった。帰宅して、自分の部屋
で静かな時を持った。心の内を主に打ち明け、
友人が言ったのは事実かどうかを尋ねた。
主は心を探られ、導いて下さり、自分の姿だ
と教えて下さった。正すべきだと悟らせて下
さった。痛いけれど認めた時、心の傷と痛み
は消え、癒された。主は人を通して、あなた
の隠れた咎を、あらわにされるかも知れない。
あなた自身にそれを悟らせ正したいと思って
おられる。


2003年08月24日(日)

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった」(出エジプト40:36)

神はしばしば待つように命じられる。私達は
待つことが大変難しい。導きがすぐに欲しい
し、答えがすぐに欲しいのだ。「待て」との
命令をしばしば受ける。ある人が一つの仕事
に手を出し、進めて行こうとすると、空回り
し始めた。対人関係で問題が生じたり、人が
揃わなかったり、企画に必要な資料が集らず、
右往左往し、前に進まない。やがて疲れ果て、
気力も失せ、時間も間に合わず、企画を中止
した。神は「待て」と言っておられたのだ。
イスラエルも、何度か待つことを命じられた。
すべての準備が整い、進もうとする時に、待
てとの命令はいら立つものだ。神は待つ理由
を説明される場合も、されない場合もある。
妨害は待てとの導きかも知れない。前進か、
待機か、よく祈る必要がある。


2003年08月23日(土)

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(Tサムエル17:47)

ダビデの素晴らしいところは、神に栄光を帰してい
たところだ。「獅子や、熊の爪から私を救い出して
くださった主」と、主が助けて下さったと。その主が
ゴリアテに勝たせて下さると。そして、このゴリアテと
の戦いは主の戦いであると。あなたのゴリアテは何
だろう。あなたの前に立ちはだかる巨大な障害物。
あなたに立ち向かって来るもの。抜け出せない悪
い習慣、経済的困難、対人関係の悩み、悲しい
別離、罪との戦い、人によって様々だろう。困難
が巨大過ぎて、尻込みするかもしれない。しかし、
あなたの戦いでなく、主の戦いなのだ。戦いが主
のものであると知る時、私達は恐れでなく、勇気
が与えられる。神が必ず最善をして下さるから。


2003年08月22日(金)

『むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらとなるキリストに達することができるためなのです』(エペソ4:15)


 疲れたあなたは神の声は快く、幾らでも聞く
ことができる。どれだけ聞いても心地良い。
しかし、欠点を正される場合はどうか。また、
逆に私達が相手の欠点を正さなければならない
場合もある。絶対に完全ではないのだから、正
されて成長して行かねばならないことは、頭で
はわかる。しかし、神に直接言って欲しいのだ。
皆誰しもそうだ。プライドや虚栄心が傷つく。
人から言われたくない。皆高慢な者だ。
人から正されるのは嫌、しかし神は私達を砕か
れる。私達は、互いに真理を語り合う責任があ
る。真理は両刃の剣だ。人を刺し貫く。
ゆえに真理を語る時は、愛を持ってでなければ
語れない。愛は立て上げ結んで行く。愛が大切。


2003年08月21日(木)

『愛は寛容であり、愛は親切です・・礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず』(Tコリント13:4)


 御言葉ははっきりと「自分の利益を求めず」と
いっている。常に相手の立場に立って考え、行動
しているだろうか。人の必要を絶えず意識してい
るか。自分中心で厚かましく厚顔無恥だろうか。
愛とはまず相手に愛を強いる事をしない。他人の
した事をいつまでも恨みに思わずいつまでも根に
持たない。愛は思いやりを示す事だ。
私達は鈍感で不親切ではないか。
愛をしばしな抽象的観念に考えてしまうが、極め
て実際的な事だ。日常生活の些細な小さな事で表
して行くべきものだ。
家族や身近な人々の中で実践されるべき者だ。
愛が冷えている相手を思いやる事を小さな事の中
から実行して行こう。愛は妬まず羨まず、いつも
みこころを行う。


2003年08月20日(水)

『「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていた・・だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ』(民数記11:6)


 ある夫婦が引っ越した場所は素晴らしい所だった。
家の目前には海が広がり背後には山。水平線に夕陽
が沈む様は言葉に表せないほど感動的だった。
夫婦は感動に喜び踊った。このような所で日々を送
れるとは何という幸せ。しかし、日常生活を送るう
ちに感動が失せて行くのはすぐだった。
イスラエルも同じだった。食べ物のない荒野で、叫
んだ民に神は天からマナを降らせて下さった。
民は驚いて大喜びし感謝した。しかし、毎日マナが
続くと飽きてしまい、すぐに感謝を忘れ、不平不満
が口に上った。私達はどうか。感謝が失せると、
不平不満が心を占領して行く。
無感動になり不満が募ると、神の恵みと祝福が全く
見えなくなる。恵みを感謝する事を忘れるな。


2003年08月19日(火)

「カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私達は、ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」(民数記13:30)


 十二人の斥候がカナンの地を探るために遣わ
された。十二人、皆が肥沃な地を見た。しかし、
十人はその地の住民を恐れた。背の高い強そう
な男達で、自分達がいなごのように見えた。
その者達と戦うのは無謀だと、尻込みした。
ヨシュアとカレブは神が共におられるから、上
って行こうと言った。同じ対象物を見て、この
違いは何処にあるのだろう。
十人は目の前の障害を見、二人はその向こうに
おられる神を見ていたのだ。
何を見るかによって天と地の差が出て来る。
障害物を見るか、神を見るか、あなたは何を見
ているだろう。問題を見るなら不信仰に陥り、
問題でなく神を見るなら信仰により前進できる。
信仰とは、あらゆる困難な状況の中で、状況で
なく神を見続ける事。


2003年08月18日(月)

「私はつまずき倒れそうであり、私の罪はいつも私の前にあります。私は自分のとがを言い表し、私の罪で私は不安になってしまいます」(詩篇38:17)


 ダビデは王の地位と権力を利用して、バテシバと
姦淫の罪を犯し、その上、妊娠を隠す工作に失敗し
夫のウリヤ殺害を企てた。その後、罪を犯したダビ
デは主の御手が重くのしかかるのを感じた。
神は痛みを持って、私達の罪に臨まれる。
私達も罪を犯した時、神は訓戒を送られる。痛みを
送られる。私達が悔い改め、神に立ち返り、罪が赦
され、新たな出発をすることを神は望んでおられる。
あなたに痛みが送られた時、神の懲らしめの御手を
認め、神の取り扱いに預かる事だ。
神の訓戒が来る前に自ら、罪を認め悔い改めるなら
一番良い。神から逃げてもますます問題を深刻にす
るばかりだ。神のもとへ来る事だ。
あわれみは尽きない。悔改め通して新たにされる。


2003年08月17日(日)

「妻たちよ。あなたがたは主に従うように、自分の夫に従いなさい・・夫たちよ・・自分の妻を愛しなさい」(エペソ5:24)

 結婚がうまく行くためには双方の努力が必要だ。
生まれつきの肉の性質は、自己中心だ。
まず自分が第一だ。自分の欲求、自分の欲望を満
たそうとする。双方が同じ事をすれば結果は火を
見るより明らかだ。御言葉は私自身が何すべきか
を明確に示してくれている。相手を評価するため
に使うべきではない。御言葉は自分自信をのみ照
らすべきだ。もう一つの間違いは、相手を変えよ
うとする事だ。自分は決して変わりたくない。
肉は頑固で頑なだ。
自分も変わりたくないのに相手が変わりたいはず
がない。こうして関係は悪化する。
自分の心の奥深くの必要を相手に求めるのも間違
っている。それは人間が満たす事など出来ない。
神にしか心の乾きは満たせない。
相手を責めるのは間違い。


2003年08月16日(土)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23)


 詩篇の作者は、「主よ。あなたは私を探り、
私を知っておられます」と言っている。
私達も知らない私達の心の中を主は全てご存
知だ。だから、もしあなたが自分の本当の姿
を知りたいと願うなら主はそれに答え教えて
下さる。祈りと心を照らし出す御言葉によっ
て、あなたの真の姿を見せて下さる。
心の奥深く押し込めた恨み、憎しみ、怒りを
引き出して教えて下さる。心に封印してしま
った感情を教えて下さる。正直に自分に向き
合い、真の感情を知るなら、それを神の御前
に持ち出し真の解決に導かれる。
真の姿をまず知らない限り解決はない。
現実をしっかり見ること、認める事、そこか
ら始まる。心の動機、思いを見せて下さる。


2003年08月15日(金)

「悪いことをする者は光を憎み・・明るみに出されることを恐れて光の方に来ない・・真理を行う者は光の方に来るその行いが神にあってなされたことが明らかにされるため」(ヨハネ3:20)


 神は正直を好まれる。ありのままの本当の姿を
認めることを喜ばれる。そして神は偽り、欺瞞を
嫌われる。取り繕いの偽り、真実でない欺きを喜
ばれない。偽りはサタンから来ていて、サタンは
偽りそのものだからだ。暗闇はサタンの領域だ。
私達の中に偽りが入り込むことを許す時、サタン
に足場を与えてしまう。
真理を行うとは、善を行うの意味ではなく、自分
のありのままの姿を正直に認めることだ。
どのようであれ、自分の姿を正直に認められる人
はいつも神の側にいる。そして、いつも光が豊か
であり光に照らされる。
それゆえ罪がますます鮮明にわかり悔い改めるこ
とができる。悔い改めた罪は完全に許される。
それゆえ常に光の中にとどまっておれる。
明らかにされるため」(ヨハネ3:20)


 神は正直を好まれる。ありのままの本当の姿を
認めることを喜ばれる。そして神は偽り、欺瞞を
嫌われる。取り繕いの偽り、真実でない欺きを喜
ばれない。偽りはサタンから来ていて、サタンは
偽りそのものだからだ。暗闇はサタンの領域だ。
私達の中に偽りが入り込むことを許す時、サタン
に足場を与えてしまう。
真理を行うとは、善を行うの意味ではなく、自分
のありのままの姿を正直に認めることだ。
どのようであれ、自分の姿を正直に認められる人
はいつも神の側にいる。そして、いつも光が豊か
であり光に照らされる。
それゆえ罪がますます鮮明にわかり悔い改めるこ
とができる。悔い改めた罪は完全に許される。
それゆえ常に光の中にとどまっておれる。


2003年08月14日(木)

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんがその時には・・完全に知ることになります」(Tコリント13:12)


 時々私達の人生はパズルのように感じる。
渦中では何が起こっているのかがまるでわからない。
どうしてこんな事がと驚き怪しむ。
しかし、神は完全であられ、間違いがない。
天に帰った時、完全に知り、すべてが解ける。
長い数十年の信仰生活をしている人々は少しはその意
味がわかる。あの時あの事が無かったら高慢になった
まま道をそれていただろう、あの事がなかったら、信
仰の成長が全く無く世にまみれていただろう。
答えられない祈りの意味もかの日に知る。
私達の気まぐれな祈りに答えられなかった事を必ず感
謝する。私達は断片的なピースしか見えない。
神を信じ信頼する信仰が必要だ。かの日には完全に知
るのだ。


2003年08月13日(水)

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」(マルコ11:25)



祈っても祈っても答えられない事を経験した事が
あるだろうか。心の内で人を恨み、人を赦さない
ならその祈りは天へ向かうのがストップし、届か
ない。あなたに人を赦せない気持ちがないか。
神はあなたの罪をどうして下さったのか。
もし神に赦して頂けなかったら、あなたは今どう
なっていたのか。赦さない心は祈りを枯らし、不
毛にする事ができる。また、生活もすさませる。
あなたが赦す事に意志を向け、選び取るなら聖霊
は助けて下さる。自由にして下さる。
そしてあなたの祈りは天に届き答えられる。
罪人の私をあわれんで下さいと祈った取税人は罪
赦されて、祈りが天に聞かれてその場を去った。
神とあなたのパイプを赦せない心で詰まらせては
ならない。


2003年08月12日(火)

『もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです』(Tヨハネ3:21)


 祈りが何だか一方的で、聞かれている感じがせず、
壁に向かって祈っているようだと感じる事あがある
か。祈りが味気なく、日々の日課、儀式になってい
ないか。祈りは神との交わりだ。神は人格をお持ち
であり、生き生きとした人格的交わりだ。
しかし一方的に感じるなら「神のみこころは何か、
何が良いことで神に喜ばれることなのか」を求める
必要がある。自己中心な一方的な神のお心を無視し
た祈りをしていないか。
又、要求するばかりで、神の示しておられる事を拒
否したりなおざりにしていないか。神の喜ばれない
態度や、行動がないか。それらを悔い改め正す必要
があるかもしれない。生活をよく点検してみよう。







2003年08月11日(月)

「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです」(Tペテロ2:20)


 私達は、批判されたり誤解された時、どう反応す
るだろうか。濡れ衣を着せられたり、いわれないき
非難をされる時どうだろう。穏やかな柔和な対応が
できるだろうか。優しい言葉と親切で応じられるだ
ろうか。怒りと憎しみだろうか。復讐するだろうか。
突如の試練、試みの時にこそ私達の本当の姿が現れ
出る。本性が出る。どれほど成長しているかイエス
の似る姿に変えられて行っているかのテストなのだ。
私達の内に聖霊が満ち、聖霊の導きに従おうとして
いるなら、突然の試にも優しい言葉と歩忍耐で反応
するだろう。私達の内にあるものが、試みの時に暴
露される。聖霊に導かれて、突如の事態にも証しと
されるような生き方とされるように。



2003年08月10日(日)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から・・きよめてくださいます」(Tヨハネ1:9)

罪は最初は無害に思える。少しぐらいは大丈
夫だと、たかをくくる。しかし、罪は段々大きく
なって行く。いつの間にか、罪に支配されて飲
み込まれてしまう。アルコール依存症やギャン
ブルで生活を破綻させてしまう人々も多い。
罪は熟して行くのだ。どの罪もそうだ。罪は
告白されなければならない。告白するなら
赦される。告白しないなら赦されようがない。
主の十字架で赦しは、すでに備えられている。
しかし、罪を言い表わす必要がある。あなた
は赦されなければならない罪がないか。わか
っていて罪と戯れていないか。罪が熟すると
死を生む。その罪はあなたに死を招く。霊的
にも精神的にも肉体的にも。今すぐ告白し
て、その罪を離れよ。飲み尽くされる前に。


2003年08月09日(土)

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」(マタイ6:1)

主はどのような罪人をも愛された。遊女も取
税人をも愛された。ザアカイの家に泊まられ、
マグダラのマリヤに、よみがえられた後、一
番にご自身を愛された。しかし、偽善者に対
しては「忌まわしい」「蛇でも」「まむしの
すえども」「白く塗った墓」と断罪された。
外側は正しく見えても、内側は偽善と不法、
汚れで一杯だ。私達クリスチャンはどうだろ
う。人に見せるために善い行ないをしていな
いか。人前を取り繕っていないか。それなら
主の忌み嫌われた偽善だ。問題は「動機」だ。
主に喜ばれようと、正しい事をしているなら、
御霊に導かれている。しかし、人に良く思わ
れたいから、正しい事をしているなら間違っ
ている。あなたの動機は何か。


2003年08月08日(金)

『主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は芝の中から彼を呼び「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた』(出エジプト3:4)

モーセは不思議な光景を見た。火が燃えているの
に芝は燃え尽きない。よく見るために近付いた。
その時、燃える芝の中で神のモーセを呼ぶ声を聞
き神に出会った。もっとよく見ようとして近寄っ
た時、神に出会った。私達も日常生活の中に、神
を見よう、神の愛、神の私への配慮を知ろうと目
をしっかり開いて見る時、神が見える。
家族のちょっとした心遣い、近所の人の親切、遠
方からの手紙、庭の美しい花、綺麗な夕暮れ、聖
書のみ言葉、信仰書からの恵み、家族が健康に一
日を過ごせた事、衣食住が与えられている恵み、
日常の些細な沢山の事柄の中に神と神の恵みが溢
れている。この一日の中にあなたへの愛が溢れて
いる。しっかり目を開いて数えてみよう。


2003年08月07日(木)

『そこでイエスは彼らに「さあ、あなただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである』(マルコ6:31)

 あなたは余りにも多忙な生活にクタクタにな
っていないか。スケジュールに追われ、時間に
追われ、目の前の事をこなすのに精一杯。
ある人は仕事に追われ、ある人は育児家事や介
護に追われ、学生は勉強に追われる。
ストレスとプレッシャーに押しつぶされ疲れ果
てている。イエスと弟子達も多忙だった。
説教、教え、癒し、多くの群集が常に周囲に。
食事の暇もないほどだった。主は弟子達が休む
必要を覚えられ、働きを一旦脇に置かれた。
私達も同様だ。静かな主との交わりの中でめま
ぐるしい活動、スケジュール、それらの優先順
位が正される。思いは新たにされ、重荷は取ら
れ、平安で心は満たされる。


2003年08月06日(水)

「肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(ヘブル12:10)

神が私達を救って下さった目的は、私達を御子のかたちに造り変える事、御子に似せて行く事だ。御父の手に握られた私達を、御父は見捨てられず見放されずに、どんどん聖めて行って下さる。もし、罪を犯していたら、神は痛みを与えて懲らしめ、立ち返らせて下さる。人の心は
何よりも陰険で偽るものだ。心に偽りがあれば、痛みを与え、苦しみを送って偽りを除いて下さる。自己欺瞞は根深く、自分をすら偽ってしまう者だ。痛みや懲らしめは私達の益のためだ。後になれば必ずわかる。もしその時にその痛みが無ければ、どんなに高慢になっていた事かと。高慢は滅びに先立つ。懲らしめがどんなに感謝であったかが必ずわかる。


2003年08月05日(火)

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)

いつも不機嫌で愛情薄い夫に仕えていた
一人の婦人、姑からも虐げられていた。
どれだけ尽くしても気持ちが報いられるこ
とはなかった。教会へも行かせて貰えなか
った彼女は、家で一人で神を礼拝し、いつ
も御言葉を慕い求めた。神は彼女の状況と
心をご存知で、大きな慰めと力を日毎に与
えられた。そのようなひどい状況の中で彼
女の心は健全さを全く失わなかった。
彼女はその秘訣を全く神に自分自身を明渡
す事と、状況を受け入れる事だと言った。
神のみこころが自分にとって良い事で、完
全であると信じる事だ。主は御父のみここ
ろを行い、そのみわざを行い、そのみわざ
を成し遂げる事がご自身の食物だと言われ
た。みこころを行うことを喜びとされた。
状況を受け入れ、御旨を歩む事が祝福。


2003年08月04日(月)

『イエスは彼らに言われた『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」すると、すぐに、彼らは網を置いて従って行った』(マルコ1:17)

 主イエスは普通の感覚と違った神らしい
ことをされる。ご自身が生まれたのも宮殿
ではなく家畜小屋だった。
ヨセフとマリヤは宿泊する宿さえなかった
のだ。王の王、主の主であるお方なのに。
皇族や大統領にこういう事態を考えられる
だろうか。主は弟子を選ぶ時も考えられな
い場所に行かれた。優秀な学者や有能な政
治家や軍人ではなく、ガリラヤ湖へ行き、
ペテロやヤコブ、ヨハネを召し出されたの
だ。全く普通の人だった。
主は普通の人を召されるのだ。それは神の
力が現されるためだ。どのように人を漁る
漁師に、有能な働き人に変えられるかを見
せたかったのだ。神は平凡な人々を用いら
れる。あなたを通して、神のみこころを成
し遂げられる。神はあなたを用いられる。
---------
自分の力ではなく主がして下さる。私達の
する事は、やはりただ安心して素直に従っ
て行くことしかない。



2003年08月03日(日)

「すべてはあなたから出たものであり・・御手から出たものをあなたにささげたにすぎません」(T歴代29:14)

天にあるもの、地にあるものすべて神のものだ。
私達は豊かな物質社会の中で生きているので、
勘違いしてしまう。自分に与えられている富は
すべて自分のものだと。しかし、本当の所有者
は神だ。私達はその管理を任せられている管理
人だ。もし、自分が所有者なら、その必要は無
いが、所有者がいる以上、管理人は任せられた
富についての会計報告を出さなければならない。
管理人なら、任されたものを上手に巧く管理す
る責任がある。神の御国のために、救霊のため
に蒔いて、永遠への備えもできるし、この世の
快楽、自分の欲望のために無駄使い、浪費もで
きる。神は喜びと楽しみをも与えて下さる。富
をすべて、神の御前に差し出し、どう使うべき
かを祈れたら、あなたは大丈夫だ。


2003年08月02日(土)

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10:10)

山登りを経験するとわかるが、頂上に立った時
の素晴らしさは言葉に表わせない。それが味わ
いたいために、山登りがやめられない。頂上に
達した時の喜びによって、それまでの労はすべ
て報われるのだ。クリスチャン人生はどうだろう。
地獄から天国に移された。しかし、それだけでは
ない。主に従う目的は単に永遠の滅びから、免れ
るためだけではない。わたしが来たのは、羊が命
を豊かに持つためだと言われた。私達に与えられ
ているのは、生き生きと満ち溢れた人生だ。天国
へ行けるだけでなく、毎日の生活に主を体験して
行く歩みだ。山の頂上の素晴らしさに、喜びに満
ちるように、日々主の愛や配慮、導き、助けを体
験する生活だ。天国へ行けるというだけで満足す
るのでなく、日々主の豊かさを味わおう。


2003年08月01日(金)

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあるというので、聖書を調べています。その聖書が私について証言しているのです』(ヨハネ5:39)

 「それなのに、あなたがたは、いのちを
得るためにわたしのもとに来ようとはしま
せん」クリスチャンに教理に関する質問を
したら、ほとんどが良い点を取るだろう。
しかし、主はあなたはどうか、あなたは私
に従って来ますかと問われる。
命をかけて私を信頼して来ますかと。
つまり主は『あなたは聖書についての試験
なら、正しい答えが出来、良い点が取れる
でしょう。しかし、私に「はい」と従って
くる事をしません』と言われた。
聖書を頭で理解し、神は真理であり正しい
と認める事と、神を信頼して従って行く事
は別だ。心が主に応答して行く時、初めて
自分が変えられる。あなたは頭の理解か。
心で受けとめ、理解に留まらず、行いを持
って従っているか。