2003年09月30日(火)

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)


 カレブの娘アクサは嫁ぐ時に、父カレブに
「どうか私に祝いの品を下さい」と求めた。
それにより父親から上の泉と下の泉を与えら
れた。彼女が恐れずに大胆に求めたがゆえに
手に入れる事ができた。
「あなたがたのものにならないのは、あなた
がたが願わないからです」のように、求めな
かったために、どれほど多くの霊的なまた、
物質的な富みを受け損なっている事だろう。
「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、そ
れを満たそう」鍵は求めが神のみこころにそ
っている事。
神のみこころは列車、祈りはレール、列車は
レールがしかれてこそ走れる。
みこころがわかっても、求めなければ受け取
る事はできない。みこころと祈りが必要。
みこころと祈りが必要。必ず与えられる。


2003年09月29日(月)

『ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた「あなたは年を重ね老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている』(ヨシュア13:1)


 高齢になり身体を悪くし車椅子生活をしている
女性、若い時は働き詰であった。四人の子供を育
て仕事もしながら、教会の奉仕をバリバリこなし、
婦人達を導く奉仕をし、聖歌隊で賛美もし、人々
を訪問し、病人を見舞った。今、自由に外へ出る
事すら出来なくなった。しかし、何か主のお役に
立ちたい、何か主のために出来る事を示されるよ
うに祈り続けて、祈りの答えを待った。
電話が鳴り教会の祈りのチェーン発足の代表とな
ってもらえないかとの依頼が来た。
その後、知り合いの婦人が訪ねて来て、一緒に祈
って欲しいと願った。主は祈りに答え可能な奉仕
を与えられたのだ。
どのような状況であれ、主に仕える事を望む魂を
主は用いられる。


2003年09月28日(日)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)

人生途上、私達の思い通りに行かないこと
は多い。パウロは小アジアへ進もうとした時、
聖霊が禁じられた。阻止されたのだ。
それで、ムシヤに行き、ビテニヤに行こうと
したが、またしても阻止された。
それでトロアスへ行くと、マケドニヤへ渡る
ように導かれた。ここで神の導きを確信でき
て前進した。パウロでさえ自分の思い通りでは
なかった。私達は自分の計画通りに行かないと
失望落胆し、無気力になったり、又、反抗的に
なったりする。しかし、その必要が無い。神は
常に私達のために最善のご計画をお持ちだ。門
が閉じられたら、それを受け入れ、開かれた別
の門を通って歩めばよいのだ。私達の思いと異
なり、実はそれは最善。神は常に最善をして下
さる。


2003年09月27日(土)

「あなたがたはこのおびただし大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである」(U歴代20:15)

ヨシャパテ王は、敵のおびただしい大群が
攻撃して来るのを聞き、到底立ち向かえない
事を見て、主に助けを祈り求めた。
その時、主の霊が臨んだ。ヤハジエルが言っ
た。この戦いはあなたがたの戦いではなく、
神の戦いだ。しっかり立って動かずにいよ。
主の救いを見よ。王は賛美する者達を任命し、
賛美の声をあげた時、奇跡が起こった。伏兵
により敵が打ち負かされた。賛美により、民
は神を見上げ救いを信頼したのだ。人生の戦
いは私達の戦いではなく神の戦いだ。
私達に代わって戦って下さる。私達は忠実で
いる事、主に仕え続ける事、常に主に従い、
主を信頼する事だ。その時、主が戦われ勝利
は私達のものとなる。




2003年09月26日(金)

「あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」(ヨハネ15:7)


 晩秋になると、枯葉が舞い、庭に道端に多くの
枯葉が落ちる。枯れ葉や枯れ枝の掃除が大変だが
「実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」
と重なる。私達は御霊の実を結んでいるだろうか。
「多くの実を結び・・父は栄光をお受けになる」
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、
誠実、柔和、自制。この実はどうすれば結べるのだ
ろう。一生懸命に頑張れば良いのか。答えは否。
主に留まる事、枝はぶどうの木につながっているだ
けで養分が流れ豊かな実を結ぶ。
主に自らを明け渡し生き生きとした交わりの生活に
よってだ。その時、主の御思いが自分の思いとなり、
願いが一致するので、祈り求める願いが叶えられる。
主にとどまれ。


2003年09月25日(木)

「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分のために寄せ集め」(Uテモテ3:3)


 ある人が信じた初めの頃、自分勝手な聖書の
読み方をしていた事に気づかされた。
好きな箇所だけ読むのだ。痛い聖句、心刺され
る箇所、嫌いな箇所は決して読まずに飛ばすの
だ。だから、聖書は何も自分を教えはしなかっ
た。矯正される事も、教えられる事も、指針を
与えられる事も、正される事も罪を示される事
も、何も無かった。自己中心に御言葉に向かっ
ていた事に気づかせられ、悔い改めた。
今、御言葉は語りかけてくる。
心を開いて、十分に神のお心を知ろうと祈り心
で向かう時、教えられ、戒められ、矯正され、
導いてくれる。私を変えて下さいとの態度で望
む時、私は変えられる。どういう読み方をして
いるか、又、態度はどうだろう。


2003年09月24日(水)

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」(Tヨハネ2:15)

イスラエルの民が出エジプトを果たす時、エジプト
は彼らの願いを聞き入れ、彼らは金や銀の飾り、
着物を手に入れた。しかし、モーセがシナイ山で
律法を受け取っていた間、彼らは何とその金を使
って、金の子牛を作ったのだ。そして、その偶像を
拝んだのだ。私達も容易に持ち物が偶像になっ
てしまう。又、現代は多くの快楽がある。楽しみ
で満ちている。神は私達に楽しみを豊かに与え
て下さるお方だ。しかし、それに溺れ、偶像化し
てしまう事は罪だ。神が与えて下さった物質的
祝福をよく管理し、神に喜ばれるために用いて
いるか。それとも、その奴隷になり、富に使われ
ているか。富を賢く使え。時間や賜物も賢く
使え。天に宝を積むことをしっかり考えて。


2003年09月23日(火)

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません」(Tコリント10:13)

試練、苦しみが私達を襲う時、二つの反応
ができる。一つは怒り、敵対心、又すねたり、
ひがんだりして心を屈折させる事だ。
二つ目は神を信頼して神に拠り頼む事だ。
全く異なる二つの反応ができる。
試練が来た時、自分に焦点を当てると自己中
心になり、自己憐憫に陥る。
自分を中心に考えて行くので神のみこころか
ら離れて行く。反対に神に焦点を当て、神を
中心に考えて行くなら、試練を正しく受けと
めて行くことができる。そして、試練を通し
て必ず成長が与えられる。
試練毎に一段階一段階霊的に成長して行く。
試練を正しく受けとめ成長する事か、それと
も怒り、すねて、自己憐憫に陥り、心を屈折さ
せ、ますます自我を増長させて行くか、私達
は選択する事ができる。


2003年09月22日(月)

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」(ピリピ2:4)

私達が互いに仕え合う事の中に、他人の
事に耳を傾ける、聞くという事がある。
他人の思い煩い、心配事を聞く事は仕える
ことなのだ。聞くことは相手が大きな決断
をする助けになったり、必要な祈りを知る
事になる。相手は心の内を話す事により、
自らの心を知り、整理できるのだ。
どう祈ればよいかがわかってくる。
真の問題点が何なのかが見えて来る。
誰かに聞いてもらうことは大きな助けにな
る。自分自身が助けられた時の事を考えて
みよ。誰かが時間を割いて自分の問題を聞
いてくれて、適切な指針を与えてくれた事
だろう。周囲に問題を抱えている人は多い。
あなたの家族、親族、友人達、あなたは愛
を持って耳を傾ける事ができる。そして彼
らを主に近づける事となる。


2003年09月21日(日)

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43:25)

日常生活の中で、罪意識を感じる事がある。
「神のみこころに添った悲しみ」があり、聖霊
が罪に気づかせて下さり、悔い改めへと導い
て下さるものだ。しかし、罪を悔い改めた後
も、なおも自分はだめだと思い、自分の罪な
ど赦されないと思うならどうだろう。
赦された感じがしないと、何度も何度も悔い
改めたらどうだろう。
神はキリストの十字架の贖いにより完全な罪
の赦しを宣言しておられる。
罪を言い表すならその罪を赦し、二度と思い
出さないと言われる。
漠然とした罪意識、常に自分はだめだという
思い、それはサタンから来る攻撃だ。
聖霊は、はっきりと罪を指し示し、悔い改め
に導かれる。無罪放免だ。サタンの罪意識に
惑わされていないか。


2003年09月20日(土)

「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました・・これを私からさらせてくださるようにと、三度も主に願いました」(Uコリント12:7)

一人の男性が神の召しに答えて神学校へ入学
しようとしていた。彼は重度身障者であった。
神の恵みは十分であった。
彼はそれ以上だと言う。誰も知り合いのいない
土地へ旅行した事もある。不思議なように、行
く先行く先で助けが与えられた。
神の助けを確認できた有意義な旅だった。
神は常に新たなチャレンジの門を開かれた。
信仰によって一つ一つやり遂げる事が出来た。
何度も何度も肉体のとげである障害さえ無けれ
ばと思った。
しかし神の答えは常に「わたしの恵みはあなたに
十分である」であった。
御言葉の通りに、神の御力は弱さのうちに完全
に現された。こうでなければよいのに、と思う
あなたの、その所にこそ神の力が現われる。


2003年09月19日(金)

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい・・主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」(詩篇127:1)

小さな時から育てられたこの世の価値観は、
頑張れ、頑張れ、懸命に頑張る事は美徳だっ
た。頑張りさえすれば、その努力は必ず報わ
れると。しかし、神は自分の力で努力するの
ではなく、信仰もって神と共に働き、そこに
安らぎを与えて下さったのだ。
また、幾ら頑張っても御旨にそっていないな
らすべてが無駄だ。ある父親は仕事人間で、
仕事第一、何もかも犠牲にして働き続けた。
結婚が家庭生活が破綻寸前だった。
何もかも失いかけた時、神が介入された。
妻と子供が神の大切な賜物である事に気づか
せられた。優先順位を正し、神を第一に、家
庭を大切に生活し始めた。
家族の心が癒されて行った。今、大きな安ら
ぎに守られている。あなたの優先順位はどう
か。


2003年09月18日(木)

「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください・・主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう」(ヨシュア14:12)

指導者ヨシュアのもと、イスラエルの民は約束
の地カナンに入り、カナンの地を占領して行った。
その時、カレブが進み出て言った。
45年前、自分は、ヨシュアと共に斥候で出て行
った。他の者達は民の心をくじいたが、自分は主
に従いとおした。その時、神は約束して下さった。
あなたの踏み行く地はあなたの相続地となると。
その約束の山地を今、私に下さいと。
ヨシュアはへブロンを与えてカレブを祝福した。
私達も主に良きものを大胆に求めよう。
あなたに今、主が与えようとしておられるものが
あるか。臆せず大胆に受け取ろう。
新しい進路か。また神の約束を時が伸びても忍耐
して待とう。神の時、機が熟する時が必ず来る。


2003年09月17日(水)

「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Uコリント9:6)

 この世では、富が増加すればするほど、
更に欲しがり、蓄えようとする。
貯蓄して安心を得ようとする。しかし、
金持ちの例えの箇所で、神無しの人生設
計、生活の愚かしさを教えられている。
物だけに執着して、自分の魂に目を留め
なかった愚かさだ。貯蓄がなくなってく
るとどうするか。
支出を抑え、何とか貯蓄しようとする。
しかし、神の言われる事は正反対。
もっと与えて、もっと献げよと、そうす
れば豊かになると。神の原則は明快だ。
豊かに与える者は豊かに得る。
少ししか与えない者は貧しくなる。
世の価値観と正反対だ。与える時、与え
る人をますます豊かにする。
どんどん与えよ。あなたは豊かになる。
多く与えれば、もっと与えられるように
なる。


2003年09月16日(火)

「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのぺリシテ人の手からも私を救い出してくださいます」(Tサムエル17:37)


 巨人ゴリアテを前にダビデは、生ける神の陣を
なぶったと戦いを挑む。かぶととよろいは、大き
すぎて歩けない。ダビデはよろいを脱いで、五つ
の石を取った。「この戦いは主の戦いだ。主はお
まえたちをわれわれの手に渡される」熟練の戦士
ゴリアテを前に無謀とも思えるこの行動。
しかし、信仰による行為だった。全能の神を信じ、
ダビデは立ち向かったのだ。周囲の人々は嘲笑った
かもしれない。われわれが打ち負かせない相手に、
石ころでどうして倒せようか。
しかし、ダビデは神を信じた。そして、見事に勝利
を得た。私達がゴリアテに見えるような、自分では
不可能に見える事柄に当たる時「信仰」を用いるこ
とが出来る。主の戦い。


2003年09月15日(月)

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます」(Uコリント3:18)


 一人の男性が職場で議論から言い争いになって
しまった。きつい言葉が飛び交い、後味の悪い思
いで帰宅した。腹が立って仕方がなかった。
そんな精神状態のなので家族ともうまくいかず、
ギクシャクしてしまった。
皆が自分勝手なことばかり言う、自分に敵対して
来る。怒りが込み上げる。皆が寝静まり、一人に
なって静かに考えてみた。神の御前に心を静めて
いた。すると、聖霊の御声が聞こえた。
「自分勝手なのはあなたの方ですよ」よくよく反
省してみると、思い当たった。自己中心な態度で、
自己主張をしていたのは自分だ。
自分の頑固、頑なさが争いを引き起こしていた。
何の証しにもなっていない自分本位な態度を悔い
改めた。心に平安が来た。


2003年09月14日(日)

『「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません」すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい」』(マタイ14:17)

自分は大した才能も無いし、取柄も無い。
役に立ちそうもない人間だと感じた事が
あるかもしれない。
特に有能な人々の間にいたりしたら、落
ち込んでしまうかもしれない。
しかし、有名な五つのパンと二匹の魚の
奇跡を覚えているだろう。少年の小さな
弁当を用いて主は男だけで五千人、女と
子供をいれるともっと多くの人々を満腹
させられた。ここで言える事は、私達は
五つのパンと二匹の魚を全ての人が持っ
ているということだ。
主に用いて頂ける何かを持っている。
あなたの五つのパンと二匹の魚は何か。
あなたは取るに足らないものと思ってい
るだろう。しかし、主はあなたを必要と
して下さり、それを献げるなら、あなた
を人々の満腹のために用いられる。


2003年09月13日(土)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23)

罪は気がつかない内に、少しづつ、少しづつ
私達を神から離して行く。世の快楽に心が向い
てしまい、少しづつ霊的な事柄への食欲が失せ
て行く。祈りと御言葉から離れ、教会と兄姉の
交わりから離れ、それも少しづつ離れて行くの
で欺かれて本人も気づかない。
そして、気づいた時には罪の深みにはまってし
まっている。自分で自分の姿はわからない。
それゆえ神は言われる。神に私達を探って頂く
必要があると。私達に罪があるかないかを絶え
ず調べて頂く必要がある。
祈りと御言葉から遠ざかっているなら要注意。
霊的食欲が失せているなら要注意だ。
この世の勢力は凄まじい。快楽への誘惑は非常
に強い力がある。
絶えず、神の御前で自らを点検して頂こう。


2003年09月12日(金)

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)

 ある婦人の証しだ。ロビーを通った時、椅子に
かけた高齢の婦人が「あの、すみませんが」と声
をかけて来た。がやがやしていたが、しっかり聞
こえた。しかし、聞こえない振りをして通りすぎ
た。時間に追われて、関わりたくなかったのだ。
夜、寝る前に主との交わりの中で気づかされた。
あの高齢の婦人は何か尋ねたかったか、助けが欲
しかったに関わらず無視した。
あれは主だったのだ。
友に慰めの手紙を書きなさい、親族に電話をして
交わりなさい、寂しい老婦人に声をかけなさい、
周囲の私達を必要とする人々を通して私達は試さ
れている。
「この最も小さい者たちのひとりにしなかったの
は、わたしにしなかったのです」聖霊の促しに従
えるように。


2003年09月11日(木)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」(ヨハネ5:25)


 「聞く者は生きる」よく子供達が、親から用を
言いつけられるのが嫌で、下校すると、ランドセ
ルを置いてすぐに遊びに出て行ってしまうものだ。
それも親の目の届かない少し遠くで遊ぶのだ。
すると親の用から免れ自由に遊べる。私達も神に
対して同じような心理が働いていないか。
好きでない事、自分の嫌いな事をせよと言われる
のが嫌で、わざと神から少し身を離す。
みこころを聞きたくないので、聞こえないほどの
所に身を置く。それは気楽な生活に見えるかもし
れないが、本当の喜びも平安も無い。
真の満たしもない。心はよく知っている。
神に近づく事が真の幸せだ。みこころを行う事が
真の喜びと充足、満たしを得る道だ。
あなたの心はどうだろう。


2003年09月10日(水)

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ4:16)

肉の行いと御霊の実が記されている。
肉の行いは不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、
魔術、敵意、争い、そねみ、憤り・・
御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、
善意、真実、柔和、自制・・。
無私の無条件の愛、内から泉のごとく湧き
上がる喜び、神に委ねて安らかな平安、何
があっても穏やかに受けとめる寛容、情け
深く相手の実になる親切、真のへりくだり
である柔和、生まれつきの罪の性質、肉の
衝動を押さえる自制。
肉の性質には、自然な肉の行いを、御霊の
実に変えて行く事は人間の力では不可能。
鍵は「御霊によって」御霊に自分を明渡し
て行く時、私達の内に働いて、御霊は実を
実らせて下さり、私達を成長へと導かれる。
「御霊によって」


2003年09月09日(火)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)


 小さな二人の子供を抱えて、夫を亡くした婦人。
途方に暮れた。どうやって小さな子供を育てて行
けば良いのか。不安と思い煩いに打ちのめされた。
思いのすべてを神に打ち明け、数週間ただただ祈
り続けた。住まい、仕事、これらの重荷を祈りの
中できっぱり主に委ねた。
すると、思い煩いから開放された。
主が重荷を負って下さる確信が来た。二十年経っ
た今、神の真実を見せられている。住居、仕事、
保育園、経済的必要のすべてが備えられ、子供達
は信仰持ち立派に成長した。神は委ねたすべての
重荷をご自身が負って下さった。
私達は一人で重荷を背負う必要はない。
「日々、私たちのために重荷をになわれる主」
人生の重荷、日々の重荷、主は負って下さる。


2003年09月08日(月)

「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする今、もうそれが起ころうとしている」(イザヤ43:18)


 私達は誰しも失敗するものだ。しかし、神は
罪を赦して下さる。そして回復させて下さる。
ペテロは主を裏切るという大罪を犯してしまっ
たが、主は赦し、回復させ、ペテロを教会の指
導者として立てて下さった。
ペテロは辛く苦しい学びであったが、これを通
して高慢が砕かれ、徹底的にヘリくだらされた。
神が赦し回復させ修復して下さるなら、より強
く愛深く成長した者へと造り変えて下さる。
人間関係の壊れを経験しただろうか。あの言葉
さえ発してなければ、あの行き違いさえなけれ
ば・・と後悔してもしきれない。
しかし、神に頼るなら、その問題を神のもとへ
携え行くなら神は修復して下さる。
そして以前よりも更に堅く建て上げて下さる。


2003年09月07日(日)

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(詩篇119:130)

みことばの中に、素晴らしい真理、恵みが詰まっている。みことばを通して、神の愛の高さ広さ深さ、全能の御力、あらゆる霊的真理、神のご計画とご目的、あらゆる事を知る。光は聖霊だ。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる。聖霊の助けによって、私達は霊的な事柄を理解する。聖霊によらなければ、何一つわからない。神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知らないからだ。私達は御霊により、聖書から神のメッセージを聞く事ができる。神のみ思い、お心を知る事ができる。もし、神のみこころがわからないなら、御霊に拠り
頼む必要がある。生まれつきの頭や能力では、何一つわからないからだ。御霊はあなたに御言葉を理解できるよう助けて下さる。御霊に頼れ。


2003年09月06日(土)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)

私達は今日という日を、しっかり生きる事をしていない。
明日を思い煩い、1週間先を思い煩い、今日1日をつぶ
してしまう。1年先を煩い、果ては退職後、老後を煩い、
今の時を暗くしてしまう。又、過去をくよくよと後悔し
嘆いて、今の時を無駄にする。神は未来でも過去でも
なく、今を生きよと言われている。今日1日を精一杯
生きる事がみこころだ。過去の過失や失敗は神に委ね、
未来も神にお任せして、この1日だけを考え、1日を生
きること、神と共に喜び生きられるようにして下さっている。
未来を知りたい願望が強い。しかし、もし予め起こる事
がわかっていたら、私達は恐怖と不安で立ちすくんでしま
う事だろう。だから、未来を神の御手の中に隠し、私達
の心を守っていて下さるのだ。私達が1日1日を神に信
頼して平安に生きれるように。


2003年09月05日(金)

「しかし、今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」Tコリント15:20

私達は人生の中で真っ暗な夜を経験する。弟子達も真っ
暗闇を経験した。自分達の慕わしい師であり、極みまで
愛して下さったお方が十字架につけられ、亡くなってし
まったのだ。何の望みも失せ、前も後ろも真っ暗闇状態
であった。私達も人生で経験する。受験に落ちた時、就
職試験に落ちた時、倒産の時、離婚や離別の時、私達は
先も見えず、真っ暗な中で失望落胆し、どうしてよいか
わからない。しかし、真っ暗闇の死の中から主はよみが
えられたのだ。死を征服し、罪を解決し、輝かしい勝利
を持って。よみがえりの主は、必ず私達の問題を解決し
て下さる。乗り越えさせて下さる。ここに希望がある。
真っ暗闇のままではない。必ず光に導かれる。神を信頼
し続けよう。よみがえりの主が答えだ。


2003年09月04日(木)

「・・彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに」(U列王5:11)

          
らい病のナアマンは癒しを求めてエリシャのもとを訪ねる。
エリシャがうやうやしく患部に手を置き、祈り、癒してく
れると思っていた。ヨルダン川に身を浸すなど、プライド
が許さず、エリシャの言葉に従わなかった。しかし、しも
べ達の助言に今一度思い直し、エリシャの指示通りに
し、神の命令に従った。すると、奇跡が起こり癒された。
あなたの思いがあるだろう。しかし、あなたの思いを脇
に置き、神の導きに従う時、みわざを見る。特に、耳
に痛い事ほど、あなたにとって聞く必要のある事だ。
みわざを妨げているのが、自分の思い通りにしようとの
頑固な意志だ。日常で、自分の思いを置いて、神の
み思いに自分を従わせるなら、癒される。きよめられ
成長して行く。


2003年09月02日(火)

恐れのある日に、私は、あなたに信頼します・・私は神に信頼し、何も恐れません」(詩篇56:3)



 信仰生活で、時々真っ暗に感じる事がある。
トンネルの中にいて、出口も見えず、ただ真っ
暗闇。飛行機で濃霧の中に入ると何も見えない。
パイロットはただ計器類に信頼して飛行を続け
る。試練のまっただ中で、何がどうなっている
のか全くわからない事がある
どこへ向かっているのかもわからない。神を感
じる事も出来ないような暗闇だ。
しかし、真っ暗闇の中でただ神を信頼し続ける
事だ。必ず出口に導かれる。信頼し続ける事が
難しく自分で動き回ってしまう。自分の力で何
とかしようと、解決を計ろうとしてますます泥
沼に落ち込んでしまう。真っ暗闇の時は静かに
神を信頼し続ける事だ。神は信頼を求めておら
れる。神に焦点を当てるなら見えて来る。


2003年09月01日(月)

「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす」(箴言15:1)


 私達の古い性質は、相手に不親切に扱われ
た時どうだろう。不親切な人にも親切な人に
も親切に応対する事は出来ない。怒り、腹を
立てる。人に傷つけられた時、柔和に対応す
るのは不可能に近い。しかし主は言われる。
報復するな、復讐するな。敵が飢えたなら彼
に食べさせなさい。乾いたなら、飲ませなさ
い。悪に負けるな、かえって善をもって悪に
打ち勝て。優しい人々に囲まれて何もない平
穏な環境にいる時には、自分の本当の姿は何
一つわからない。あらわにされる事はない。
しかし、横暴な不親切な相手を置かれた時、
試される。自らの姿があらわにされるのだ。
親切な人に囲まれ平穏無事なら、やって行け
るだけのクリスチャンだろうか。
成長して行く事はみこころ。