2003年10月30日(木)

『これを聞いて、イエスは驚かれ・・言われた「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません』(ルカ7:9)


 百人隊長のしもべが病気で死にかけていた。
しもべを送り、イエス様に来て頂きたいと願っ
た。そのしもべは、百人隊長のことを、この人
はあなたにそうしていただく資格のある人だと
願った。しかし、イエスが驚かれたのは、その
百人隊長の人柄や功績ではなく、その態度だっ
た。主が近くに来られた時、家に来て頂く資格
はない。御言葉を聞かせて下さいと願った。
彼は隊長であるゆえ指揮系統の力を理解してい
た。人が命令で動くのだから、主なら尚更では
ないか。主はそのへりくだりと信仰を驚き喜ば
れた。私達も、どのような状況であれ、御言葉
が与えられている。
主の口から語られる御言葉を受け取る時、それ
は必ず成就する。試練の時こそ主の言葉の力を
知る時だ。


2003年10月29日(水)

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)

ある男性が救われて、責任ある仕事に加えて、
教会でも一生懸命に奉仕した。段々、時間的に
も体力的にも、ハードなため疲れて来た。
熱心にしていたが、やがて行き詰まって来た。
自分の力で懸命に頑張って来たのだった。
牧師から導かれ、神のみ前に静まる時を待った。
聖書を読み、よく祈った。御言葉を味わい、祈
り続けた。疲れ果てて倒れた心に、牧師は「何
もしなくてよい。神様のもとにとどまり続けよ」
と導いてくれた。牧師に導かれ祈りと御言葉に
浸る中で神にいかに愛されているかを知って行
った。今までの働きがいかに神から離れ、独自
にしていたものかが見えてきた。
すると、安らぎの中で働きが導かれる事を体験
した。


2003年10月28日(火)

『「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである』(マルコ6:31)


 多忙で疲れ果てていないか。様々な日々の仕事や
活動でストレスを受けていないか。
また、家の中でも家事、育児、介護でクタクタにな
っていないか。弟子達も同じことを経験した。
常に群集が主のもとに集まった。人々は癒しのため、
教えを聞くために入れ替わり立ち代り主のもとへ来
た。弟子達も食事をする暇もないほどだった。
主は彼らに休息の必要を感じられた。必要な働きは
目の前にあったが、一旦脇に置かれた。
多忙を美徳と考え、休む事に罪悪感がないか。
主は休むよう命じられた。静かな時間は必要だ。
主と交わり、生活の優先順位を見なおし、活動を整
理する必要があるかもしれない。
あなたは活動をしばし止めて主と交わる必要がある
のではないか。


2003年10月27日(月)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)


 神には私達一人一人の人生に対して、明確な
ご計画がある。ジグソーパズルのようだ。
パズルを完成すると、素晴らしい絵が現われ作
品になるが、一つ一つのピースを見ていると何
がなんだかわからない。しかし、神は完成した
作品を見ておられる。
そして、神はその時、その時にぴったりのピー
スを渡して下さる。ところが、私達の側から見
れば、もっと違うピース、別のピースが欲しい
のだ。しかし、神の下さるピースが実は最善で
ありぴったりはまるものだ。
一つ一つ神はピースを与え完成させて下さる。
今、与えられているピースは自分の思っている
ものと違うかもしれない。しかし、しっかり受
け取り、受け入れるなら、神のみこころが成し
遂げられて行き、あなたは形造られていく。


2003年10月26日(日)

「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです」(ローマ14:4)


 主に在る私達は変えられて行く。
必ず変わる事ができる。自分自身なかなか変わら
ない、成長がないと感じて失望するかもしれない。
しかし、変わろうとする魂を神は必ず導かれる。
変わりたいとの心は御言葉を聞くための最良の土
壌だ。良い土地には御言葉がよく入り、必ず実を
結ぶ。反対に変わろうとの心がなければ御言葉が
入らないし悟れない。また、神は周囲の人達をも
変えて下さる。それゆえ決して批判的態度を取る
べきではない。批判は相手の心に反発を起こして
良い方面へ変えはしない。
人は人の心を変えることはできない。自分の心を
変えるのみだ。私を変えて下さいとの態度で神に
向かうなら間違いなく成長して行く。


2003年10月25日(土)

「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください」(マルコ14:36)


 ある人に深刻な悩みの事態がおこり、
ひたすら祈り続けた。
周囲にも祈りを依頼して祈ってもらっ
た。しかし、事態は一向に変わらず、
祈りの答えが見えない。募る苦しみと
辛さで、「神様、本当に聞いていて下
さるのですか」と叫び祈った。
神は真実であられ聞いて下さっている
ことは知っていたが、状況は全く変わ
らず何もどうにもならなかった。
しかし、祈りの中で自己中心な祈りで
ある事に気づかされた。自分の思い通
りに事態がなる事を求め、思い通りの
答えが欲しかったのだと。
主の祈りとなんと異なっていることか。
自分の思いしかないので、何も見えな
かったのだ。自分の思いを捨て、みこ
ころ通りにと委ねた時、平安に満たさ
れ事態も導かれて行った。


2003年10月24日(金)

「もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものはなんでも神からいただくことができます」(Tヨハネ3:21)


 「なぜなら、私達が神の命令を守り、神に喜ばれる
事を行っているからです」と続く。
祈りについて主イエスは教えて下さっている。
求めよ、そうすれば与えられる、と言われている。
主は求めるなら与えられると教えられた。
しかし、それには条件がある。神に喜ばれる事を、神
のみこころを行う事だ。神の言われる事は聞かないで、
従わないで、無視したり、なおざりにしていて、自分
の求めばかり要求しても聞かれるはずがない。
また、人を赦さないなら、祈りは聞かれない。
自分の内にある罪が祈りが答えられる障害となる。
祈りが聞かれないと感じるなら、条件を満たしている
か、自分の内に妨げがないか探る事が必要だ。
とがめが無いなら祈り続けよう。


2003年10月23日(木)

「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました」(ガラテヤ2:11)


 他人を傷つけてまで自分の名誉やプライドを
守ることは間違っているが、どうしても譲れな
い場合がある。
正義や真実、神のみこころや正しい教理が曲げ
られる時に黙っている事は間違っている。
ペテロはユダヤ人の律法主義者達がやって来た
時、偽善的行動を取ってしまった。
それらの人を気にして、真理からそれ、異邦人
をつまずかせてしまった。
パウロはこの時、福音の真理を守ろうとした。
その動機は自分を守るのではなく、真理のため
だった。無意味な争いは避ける必要があるが罪
の状況を黙認している事は間違っているという
事だ。抗議をする動機が自分の肉欲を満たすた
めか、それとも真理のためかだ。
真理のためなら、明確にすべきだ。


2003年10月22日(水)

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと、敵対心があるならば、誇ってはいけません・・そのような知恵は上から来たものではなく」(ヤコブ3:13)


 何かの争いが生じた時、問題自体でなく、
その心の奥にある動機が問題だ。
相手に対する羨望や嫉妬、敵対心がまずな
いかどうか。それが問題を起こしてしまう
ことがある。表面的な問題でなく、心の奥
にあるそのようなものが問題を複雑にする。
もし心の中にある動機が正しいなら、穏や
かに問題に向き合い、相手に向き合い、解
決する事ができる。動機が正しくないなら、
その動機は肉、地、悪霊からのものだ。
それらに動かされて行くなら神のみこころ
と反対の方へ向かう。そして、破壊的な実
を結んでしまう。今、対人関係でトラブル
があるか。トラブル以前に相手への妬みや
敵対心がないか。あなたの動機と態度をよ
く探る必要がある。上からの知恵は「純真」


2003年10月20日(月)

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)

主がよみがえられた後、使徒達が集っていた中に、
突然現われ、彼らの中に立ち「平安があなたがたに
あるように」と言われた。その同じ主が、私達が
持っている集会の、まっただ中におられることを、
あなたは本当に信じているか。主が十字架にかから
れた後、失望落胆して故郷に向かっていたエマオ
途上の弟子達。そのところで共に歩き、語りかけ
信仰を奮い立たせられた主。この主が、私達の交
わりのまっただ中におられるから、どのような
状態で集ったとしても、集会の中で、励ましを
受け、引き上げられ、新しくされて、帰ること
ができる。すべては、よみがえりの主が交わり
の真っただ中に、ご臨在されるゆえ。集会の中
に、交わりの中に、主ご自身がご臨在し、働かれる。


2003年10月19日(日)

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と、
エレミヤ17:9にある。古い性質、生まれながらの
罪の性質は陰険で、どこまでも自己中心だ。しかし、
救われた私達は、聖霊の内住があり、新しい性質が与
えられている。新しい性質は、神を喜び、罪を悲しみ、
神に従おうとする。「その人は新しく造られた者」だ。
私達は日々、変えられて行く。変わることが出来る。神
のみこころに、一歩一歩従って行く時、変えられる。従
わないなら、変わりようがない。いつまでたっても、わ
がままなクリスチャンのままだ。信仰生活は選択だ。御
霊の導かれる道を選び取るか、サタンの誘う肉の欲を選
ぶか、私達はロボットでなく、自由意志を与えられてい
るので、瞬時、瞬時の選択だ。あなたの選択にかかって
いる。そして、あなたの選ぶ実を刈り取る。


2003年10月18日(土)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ8:34)

○○は私の十字架だ、と言ういいかたがあるが、
「自分の十字架を負い、そしてわたしについて
来なさい」とはどういう意味なのだろう。
自分の重荷を自分が負うことか。
主の言われる十字架を負うとは、自分の思いを
捨て、自我に死に、神のみこころに従って行く
ことだ。自分の思いを通すのでなく、神の御旨
を選び取り、それを行って行く事だ。
これは相手がこうであれば、ああであれば、と
の思いを捨てることだ。非難されたり嘲られた
り、悪く言われても甘んじて受ける事だ。
相手を受け入れ、状況を受け入れる時、そこに
平安がある。戦いと葛藤が終わり、平安を得る。
十字架を負って従う事が真に平安の道だ。
私達の思いを捨てて、神の御旨に従おう。


2003年10月17日(金)

『イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」・・「わたしの羊を飼いなさい」』(ヨハネ21:17)

私達が行き詰まってしまう時、また、困難な中
で働きを続けなければならない時、私達を支え、
前進させるものは何だろうか。
「わたしの羊を飼いなさい」他の人々に仕える事
はみこころだ。神の子供達を愛し、必要に応えて
行くことは良いことだ。しかし、人と人との関係
は問題も伴なう。誤解や様々なあつれきが生じる。
仕えようとするが、挫折するかもしれない。
人を愛そうとするが出来ないので倒れてしまう。
人への愛は根本的な力とはならない。私達を根底
から動かして行くものは何か。
「あなたはわたしを愛しますか」主への愛だ。
困難の中で、ただ主への愛だけが私達を支え、動
かし奮い立たせてくれる。
動機が主への愛なら、どんな中でも立って行ける。


2003年10月16日(木)

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)

こんな例えがある。小さな子供がビンに
手を突っ込んで、菓子をしっかり握っている。
そして狭いビンの口から手が出ないと大泣き
している。握っている物を放せば、手が抜け
と言っても決して手放さない。しかし、手の
中の物を放した時、ビンから手が抜けた。霊
的にも同じだ。あなたが放せないで握り締め
ている宝は何か。富、自分の計画、プライド、
この世での成功、名誉、地位、愛する人・・。
太陽の前に十円玉を置くと、小さな十円玉が
あの大きな太陽を見えなくしてしまう。隠し
てしまう。あなたは十円玉で神が見えなくな
っていないか。自分の内にある、握り締めて
いる宝、偶像は何か。それを手放す時真に神
を見る。


2003年10月15日(水)

「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」(詩篇141:3)

日常生活で、私達はどんな会話をしている
だろう。
時には有益な意見を語り、アドバイスをする
だろう。しかし、大部分の会話は虚しい言葉
なのではないか。俗悪な噂話はないか。
陰での悪口はないか。当事者がいない場での
噂話、陰口はフェアではない。
なぜなら、その人が反論できないからだ。
また、それは噂話の当事者をどんなに傷つけ
る事だろう。
「偽りを捨て・・真実を語りなさい」私達の
口から真実の言葉だけが出るべきだ。
偽りの言葉は明白な嘘は勿論の事、自分の都
合の良い言葉のことだ。人にある事柄を伝え
る時、正確な事実を伝えるのでなく、自分の
主観を入れた自分の都合の良いように変えて
伝えるのは偽りの言葉だ。
私達の言葉は真実であり事実に正確であるべ
きだ。唇を守れ。


2003年10月14日(火)

「私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私のとがを、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください」(詩篇51:2)


 きれいに澄みきった川の中へ足を入れ
ると、その箇所の砂をすくい、水を濁し
てしまう。済んだ水を濁してしまったと、
見ていると、上流からの水が再び濁った
水を洗い流し、澄んだ水に変わって行っ
た。私達の霊的生活も同様だ。
心は様々の汚れで濁り、泥まみれになる。
怒り、妬み、高ぶり、虚栄心・・濁った
泥水をきれいに澄ませるごとく、神は私
達の心をきよめてくださる。
愛のない冷ややかな態度、人々への無関
心、自己中心、わがまま、生活の中に大
手を振って、まかり通っていないか。
それらの罪を告白し、悔い改めよ。
濁った心、悶々とした平安のない心、そ
こに神の恵みの澄んだ水が流れ込む。
きよめられる。濁った心が新たにされる。
罪を告白せよ。


2003年10月13日(月)

「彼の容貌や背の高さを見てはならない・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(Tサムエル16:7)


人は自分が自分であることを失うと立ち
行けない。ある人は自分の価値を試した
くて、がむしゃらに努力を続けた。
しかし、高い目標には到達せず、いつも
挫折ばかりで自分は失格、だめだと、失
望落胆、自身喪失を繰り返していた。
しかし、聖書を読み進む内に完璧な人は
いない事に気づいた。
あの信仰の人アブラハムは嘘をつき、ヤ
コブは策略を巡らし狡猾に人を欺き、モ
ーセは召しに尻ごみし、ダビデは姦淫と
殺人を犯し・・。しかし、信仰の人とし
て、皆、へブル十一章に名を連ねている。
神は信仰を見て下さっている。
神の見方は私達とは違う。
無力で神に全面的に頼る者を喜ばれる。
何も出来ずとも信仰を祝福して下さる。
神は心を見ておられる。


2003年10月12日(日)

「あなたには欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります」(マルコ10:21)

金持ちの青年は名声、良い評判、この世的
な良きものを手にしていた。
私達もクリスチャンとしての見かけは同様か
も知れない。忠実な教会出席、奉仕・・良い
クリスチャンに見えるかもしれない。
しかし、心の中はどうだろう。
人目につかない部分で執着しているもの、偶
像がないだろうか。肉の欲望、世の快楽、名
誉欲、虚栄、人知れぬプライド、密かに隠し
ている妬み、高ぶり・・それらは主に従う事
を妨げてしまう。青年に、主は、妨げているも
のを指摘された。彼は富みへの執着、所有欲
のゆえに正しい生活を破滅させてしまった。
主は妨げているものを私達にも指し示して下
さる。あなたに今、示されている事があるか。
それに従え。主を失うほど愚かな事は無い。



2003年10月11日(土)

『毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに・・安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要なものを与えないなら何の役に立つでしょう』(ヤコブ2:15)

私達が鏡を見ると何が映るだろうか。
自分自身だ。自分自身が見えるだけだ。窓
ガラスだったらどうだろう。ガラスから外
が見え、外の風景が見える。
同じガラスでもまったく違う。私達は鏡に
囲まれた世界に住んでいるだろうか。
どこを見ても自分だけで周囲の必要が全く
見えない。それとも窓ガラスの世界か。
周囲の必要をいつも見て、仕えようとして
いるか。金持ちの役人は富への執着で、
主イエスのもとを去った。主は悲しんで見
つめておられた。富を手放す事が出来な
かった。富か主か、私達の心がどこにあ
るかだ。自分の必要しか見えていない事は
要注意だ。容易に自己中心に陥る。
あなたは周囲の人々の必要が見えているか。


2003年10月10日(金)

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」(エゼキエル36:26)


 春に開花する球根を秋に植えた。
雪が続く冬の季節には、土は固く凍りつい
ている。地面は凍りついているが、その下
には球根が土中深く埋まっている。
私達の心はいかに似ている事だろう。硬く
凍りついている。愛せない人がいる。
実は愛せないのではなく、硬い強情な凍り
ついた心があり、愛したくないのだ。
愛する事を拒否し、自我を貫く。
私達の内には聖霊がおられ無限の可能性が
ある。主は私達を通して敵をも愛される。
心が問題だ。それを妨げるのが強情な自我。
しかし、主は助けて下さって、強情な頑固
な心を溶かして下さる。聖霊にあなたの心
を明け渡すなら、そうして下さる。
硬い凍りついた土のような心を柔らかい愛
の心に変えて下さる。


2003年10月09日(木)

「あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。恐れてはならない・・共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である」(申命記20:4)


 戦いに臨む時、祭司が進み出て民に告げ
なければならなかった。神が共にいて下さ
っているならば、民は何の恐れる必要もな
いからだ。私達もなすべき事が余りにも多
い時、そのプレッシャーで押しつぶされて
しまう。イライラし、また思い煩いに飲み
込まれてしまう。
主婦は小さな子供の世話に追われ、家事は
山積み、サラリーマンは仕事に追われ、残
業、残業、幾ら働いても終わりのない仕事
・・これらのストレスで私達は圧迫され押
し倒されてしまう。しかし、私達は自分で
戦っているのではない。いつもそばに主が
おられる。あなたの大きなストレスになっ
ている重荷は何か。主に委ねよ。
主がすべてを成し遂げて下さる。


2003年10月08日(水)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)

いっさい思い煩うなとは神の命令だ。
延々と思い煩っている人々がいる。信じられ
ないかもしれないが、自己憐憫の中が心地よ
いように、思い煩いが好きなのだ。
思い煩っていると安心し、思い煩いが無いと
不安。思い煩いの強い人は良くわかるだろう。
いつも選び取っている。
しかし、神は思い煩うなと言われる。
感謝には大きな力がある。感謝は信仰を湧き
上がらせ、思い煩いは不信仰へと落ち込ませ
る。感謝は翼をかって神のもとへかけ上る。
思い煩いと感謝は同居できない。
感謝をもってすべての心の内を神に打ち明け
、願い事は神に告げよ。願う事をすべて与え
られるのではない。
しかし、神の平安によって心と思いが守られ
るとの約束が与えられている。


2003年10月07日(火)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)


ある人の証だ。御言葉にあるように、どんな
状況やどんな立場であったとしても、そこで
最善を尽くす事を願っていた。彼は夏休みに
遠方の観光地でバイトした。
旅行を兼ねて楽しみにしていたが、彼の夏休
みの仕事はジャガイモむきと皿洗いだった。
彼には選択が出来た。バイトを辞めて帰って
楽をする事と、そこで惨めになる事を。
しかし、彼は御言葉に従う事を選んだのだ。
そこで神に従って、正しい態度で神に仕える
事だ。そこにとどまって、全身全霊でジャガ
イモむきと皿洗いをする決心をした。
それは真に「主のために働く」事を意味した。
彼にとってその夏休みは更に成長の時とされ
祝福された。状況は問題ではない。
そこで主に仕える事だ。


2003年10月06日(月)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ33:3)


 ある時、甲羅のある虫がひっくり返っていた。
足をもがき、何とか元に戻ろうとするが、幾ら
もがいても、どうにもならない。
私達が罪と戦う時、問題に悩む時も同様だ。
私達には何の力もない事を知る。ひっくり返っ
て、なすすべなくもがいている虫のようだ。
自分の力で何とかしようと動き回る時、ますま
す泥沼に入り込んで行く。そして自分の無力に
落胆するばかりだ。そんな時、私達のするべき
事は「私を呼べ」だと神は言われる。
神を呼ぶことだ。まず第一にすべき事は神を呼
び求める事だ。「そうすれば、わたしは、あな
たに答え」自分の力で臨むなら救いはなく、ま
すます事態を悪くする。しかし、神を求めるな
ら、その問題に神が介入して下さり、私達を導
いて下さる。


2003年10月05日(日)

『彼に言われた。「よくなりたいか。」・・「起きて床を取り上げて歩きなさい」するとその人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した』(ヨハネ5:6)

心臓を手術した男性、大手術の後、日常生活
に支障をきたした。体力は落ち、以前していた
事が出来なくなった。運動はもちろん、日常生
活も注意が必要だった。出来ない沢山の事を思
う時、気が滅入った。息消沈し落胆した。
心が暗くなっていった。神に目を上げた時、
「出来ない事」ではなく、「出来る事」に思い
を向けるよう示された。そして、感謝するよう
に導かれた。生かされている事、家族が与えら
れている事、手術が成功した事、歩ける事、教
会生活、信仰の友、食べたり飲んだり、読書出
来る事、祈れる事、一つ一つを感謝した時、心
が変えられた。日々の生活に幸せを感じ、心が
癒されたのがわかった。感謝した時、心が一変
した。神のみこころに従う事だ。



2003年10月04日(土)

「あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、わたしをささえてくださいます」(詩篇63:7)

ある婦人が離婚の苦しみ、辛さ、悲しみを
通った。離婚調停は大変な精神的負担だった。
子供の事、親に心配をかけたくない事、心は
思い煩いや苦しみで張り裂けそうだった。
御翼の陰が避け所であった。そして、真に守
って下さった。気も狂わんばかりの状況の中
で、御翼の陰は平安そのものであった。
「私のたましいは、あなたにすがり、あなた
の右の手は、わたしをささえてくださいます」
神によりすがる時、神は真実に支えて下さる。
御言葉は生きる力となり命となる。
御言葉を食べて生きる事を実感させられる。
状況は荒れ狂う大嵐だが、主のもとは憩いと
安らぎ。彼女に真実な神を見た父親が主を信
じた。主に従い続ける時、必ず万事が益に。


2003年10月03日(金)

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼と共に道を歩いておられた」(ルカ24:15)


 イエスが十字架にかかられた後、弟子達は真っ暗
な夜を過ごした。
なすすべなく故郷に戻るエマオ途上の二人の弟子達。
何をどうすればよいのか。イエスはそんな弟子達を
助けるために現われ、よみがえりを信じない不信仰
を示された。そして、御言葉を語り、解き明かして
下さった。弟子達の心は信仰が湧き上がり内に燃え
た。私達も真っ暗な夜を通る。
失業や倒産、愛する人との別離、結婚の破壊、入学、
病気・・信仰が弱る時、主が近づいて下さり、もう
一度信仰を奮わせ引き上げて下さった。
いつも主がそうして下さったから今も信仰が保たれ
ている事を知る。私達が弱る時、慰め手や励まし手
を送って下さるのは主。


2003年10月02日(木)

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ7:12)


仕事をしている婦人が残業で帰宅が遅くなった。
夫と待合せ、くたくたになり帰宅した。
帰りは夕食の心配が頭をよぎった。子供たちも夜
のスケジュールがあり待っている。
予定外に仕事が遅くなったため、帰りに買い物の
時間も無かった。何を作ってよいか頭にも浮かば
ない。冷蔵庫の材料も無かった。
突然、隣家の主婦がやってきた。「ちょうど今か
らバーベキュウをするところだけど、ご一緒にい
かが?」ご馳走と素晴らしい交わりは身も心も潤
してくれた。どんなに感謝した事だろう。
彼女にとって、その週最大の祝福だったのだ。
神の愛を具体的に現すために、あなたは何が出来
るだろうか。どんな小さな事でも相手にとれば、
最大の事かもしれない。


2003年10月01日(水)

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから』(イザヤ41:13)

ある男性に突然脳腫瘍が発覚。単身赴任中で
家族とも離れていて、寂しさの上に大きな衝撃
で、打ちのめされてしまった。
なぜ自分にこんな事が起こるのか。信仰の試し
なのだろうか。精密検査を受け、即、手術とな
り家族と会う時間も無かった。不安と恐れで心
は一杯だった。家族と会えない寂しさが募った。
死ぬかもしれないという恐れに襲われた。
不安と恐れのすべてを神に打ち明け、神に拠り
頼んだ。神にすがった。
その時、恐れるなわたしがあなたと共にいる、
との御言葉を持って臨んで下さった。
神の臨在が恐れを平安に変えた。
平安の中で手術に臨め、手術は成功した。
神は心の叫びに、必要に必ず答えて下さる。
神が共におられるとは何という平安。