2003年11月30日(日) 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい・・あなたがたですは主キリストに仕えているのです」(コロサイ3:23)
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい・・あなたがたですは主キリストに仕えているのです」(コロサイ3:23)
状況がうまく行かない時、思うようにならない 時、どうすれば主に仕え続ける事ができるのだ ろう。人のためにだけでは仕え続ける事はでき ない。また、人によく思われたいとの動機では 仕えられない。人への奉仕の力も全く失せてし まう。すべてが暗礁に乗り上げたように感じる 時、何が前に進ませてくれるのだろう。 ペテロが主を裏切り、失敗し、何の力も無くなっ た時、主は再びペテロを回復させ立ち上がらせ て下さった。それは「あなたは私を愛するか」と いう問いであった。 主に仕え続ける事のできる唯一の動機は、力は イエスを愛する愛なのだ。他の何をもてしても役 立たない。主を愛する愛のみが私達を引き上げ 仕え続けさせてくれる。
2003年11月29日(土) 「悪魔は・・彼のうちには真理がない・・彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしている・・なぜなら彼は偽り者でありまた偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)
「悪魔は・・彼のうちには真理がない・・彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしている・・なぜなら彼は偽り者でありまた偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)
詐欺にあった事があるだろうか。恵まれない 子供達への募金として、実は新興宗教の詐欺 だったり、高級ブランド商品が偽物だったり、品 質の良い品物をバーゲンと称するが、実はバー ゲン用に作られた粗雑なものであったり、様々な 偽りが横行している。悪魔も同じだ。 巧妙にだます。罪には一瞬の快楽があるため罪 の楽しみに誘う。しかし、その罪には苦い刈り取 りがあり、苦しみがついて来るが、それは隠す罪 は素晴らしくて、魅力的、麗しいものに見える。 しかし、その背後にサタンが潜み、企みと欺きが ある。サタンは偽り者、嘘をつき騙す者。 神の御言葉によって私達はサタンを見破る事が できる。神を知り御言葉を知るほど、悪魔の嘘を 見破れる。
2003年11月28日(金) 『あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力がこの富を築きあけたのだ」と言わないように気をつけなさい』(申命記8:17)
『あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力がこの富を築きあけたのだ」と言わないように気をつけなさい』(申命記8:17)
神様が言われる通り、試練は良いものだ。 試練の時は様々な事を考えさせられる。歩み を振り返り、軌道修正の必要を考えたり、自 分のあり方を考えたり、試練を通してきよめ られるのは真実だ。反対に何もかもが順調で うまく行っていると、恵みが恵みでなくなり 当然になってくる。罪の性質があるため、与 えられて当然、感謝が失せ、何もかもが当た り前になる。成功が続くと、高慢になり自分 の力で得たように錯覚し、神を忘れ神から離 れてしまう。人間は罪深いものだ。 何一つ持たずにこの世に来て、何一つ持たず にこの世を去る。与えられた富、時間、才能、 家族、良きものすべて神からの賜物だ。 神に感謝を献げて行く時、高慢から守られる。
2003年11月27日(木) もし、あなたの敵が飢えていたなら、彼に食べさせなさい・・あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:20)
もし、あなたの敵が飢えていたなら、彼に食べさせなさい・・あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:20)
争いは争いを生むばかりだ。否定的なものから 何の良いものも生まれはしない。しかし、争いと 憎しみの悪循環に陥るものだ。夫婦間で、友人間 で、学校で、職場で、表面的には繕っているが根 深い確執があったりする。あなたはどうだろう。 不自然でギクシャクしている相手がいるか。 神のみこころは、自分に関する限り、すべての人 と平和を保つことだ。 憎しみからは憎しみしか生まれない。 神はその確執を終わらせることを望んでおられる。 愛と寛容、親切を持ってだ。 敵に食べさせ、飲ませ、愛情を示すことを通して だ。そうする時、神がそこに働いて下さり、相手 の心に強烈なインパクトを与えて行く。 聖霊が助けて下さる。
2003年11月26日(水) 「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」(マタイ26:42)
「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」(マタイ26:42)
主イエスは十字架につかれる前に祈 られた。その祈りは最初は「できますな らば、この杯をわたしから過ぎ去らせて ください」だった。 しかし、わたしの願いではなく、みこころ の通りにと祈られた。祈りが変わって行 き、飲まずに済まされぬのでしたら御旨 の通りにと。十字架を負うとは、自分の 願いを捨てて神のみこころに従う事だ。 主が父のみこころに従って行かれたよ うに。自分の思い通りにならない状況を 受けいれる事だ。 自分を捨てて日々自分の十字架を負い わたしについて来なさいと言われたよう に、それは日々の事だ。日毎に自分の 思いを捨て、みこころを行い、自分の思 いとは違う状況を受け入れ続ける事。 そこに真の平安を見出す。
2003年11月25日(火) 「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(ローマ6:13)
「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(ローマ6:13)
ある女性に筋力が萎縮して行くという難病が発病。 手足の動きがとれず、人の手を借りなければ、日常生 活が出来なくなった。有能な女性で、責任感が強く、 テキパキと仕事をこなし、なんでも良く出来る人だっ た。病を患った今、「自分の思い通りにならない」事 を教えられている。多くの事を思い通りに出来なくな った今、神に委ねることを学ばせられた。 身体が動かず、イラ立つのも、それを主に委ねるのも、 自分の選択だという事がはっきりとわかった。 どちらを選ぶかは自分だと。自分が自分の主になって イライラするか、それとも主に自分を明け渡し平安で いるか、自分次第だと。神に自分自身を全く明渡す時、 真の自由と平安を経験する。
2003年11月24日(月) 「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
対人関係は難しい。特に不幸な結婚生活は、 とりわけ辛く苦しい。結婚生活は天国にもな り地獄にもなる。相手の欠点ばかりあら捜し し、相手の非を責め、相手に要求しているば かりでは、幸せな結婚生活は到底望めない。 自分はどうなのか。 良い人間と思っていた自分が決して良い人間 などではないと聖霊様は忍耐深く教えて下さ る。思いやりがあると思っていた自分がいか にわがままで自己中心であるかを見せて下さ る。情深くも寛容でもないし、自制心もない 者だと。相手ばかり責めていた自分こそ変わ る必要がある事を。私達が変わろうとするな ら、聖霊様は臨み、キリストのかたちへと変 えて行って下さる。 自分が変わる時、相手も変わる。
2003年11月23日(日) 「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:13)
「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:13)
パウロは後ろのものを忘れ、目標を目 ざして一心に走っていると言った。 過去の恵みを数え、霊的教訓をしっかり 覚えておく事は大切であるが、過去の失 敗や過失をくよくよ思い煩う必要は無い。 パウロは過去の成功も失敗も忘れ、前を 見る事を選んだ。神からの栄冠を得るた めに、ひたむきに前のものに向かって進 んだ。失敗にくよくよしているか。 パウロが模範だ。罪は告白するなら、神 は深い海の底に沈めて下さり、忘れて下 さる。二度と思い出さないと言われる。 過去の過失に捕らわれる必要が無いとい う事は、何という恵み。常に前に向かっ て前進するように励ましていて下さる。 今足ぶみしているか。後ろのものを忘れ、 前進しよう。
2003年11月22日(土) 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)
人は蒔いたものを刈り取る、これは法則だ。 法律上の罪を犯せば、罰を受け刑務所へ行 く事になる。信仰の世界も同じだ。 一瞬の罪の快楽に身を委ねて、神の恵みを 捨ててしまうなら、苦しい刈り取りがある。 荒野で民が水が無いと文句を言った時、神 はモーセに岩に命じるよう言われた。 しかし、モーセは怒りで岩を二度杖で打っ た。それゆえ約束の地に入る恵みを失った。 神に忠実に従ったダビデは情欲の誘惑に身 を委ねたため、名声に傷をつけ、神の評判 に傷をつけ苦しい刈り取りをしなければな らなかった。あなたに誘惑の手が臨んでい るか。誘惑に身を委ねてはならない。 主に頼れ。御言葉に立て。誘惑と戯れては ならない。すぐに餌食になってしまう。
2003年11月21日(金) 「耐えず祈りなさい」(Tテサロニケ5:17)
「耐えず祈りなさい」(Tテサロニケ5:17)
ある人が不眠症で悩んでいた。ウトウトと しては夜中の二時三時に、目が覚め頭は冴え、 眠れなくなってしまうのだった。そんな時、 眠ろうとして焦ったり、様々な余計な考えが 頭に浮かんだ。目の前にある心配事、又、全 く起こり得ない事まで思い煩い、不安になり、 心が乱れるのであった。 そんな時「ああ、私は床の上であなたを思い 出し夜ふけて私はあなたを思います」の御言 葉を示され、この何の妨げも無い静かな時間 を祈りの時にすればよいと気づかされた。 昼間は仕事に終われ祈りの時間が持てないで いた。不眠の時を神と交わる時間とした。 悩みは去り神との幸いな静思の時とされ、心 の思い煩いを神に語り、委ねる時となってし まった。
2003年11月20日(木) 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(ルカ5:4)
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(ルカ5:4)
主はペテロに、沖へ出て魚をとりなさいと 言われた。言われる通りに、沖に漕ぎ出し魚 をとった時、網が破れそうなほどの魚が取れ た。私達は沖に乗り出すのが恐くて、岸辺に とどまっている。だから、犠牲も払わなくて よいが、恵みの深さもわからない。 自分は自分の思い通りにしたいが、神は献げ るよう望んでおられるのを感じた事があるだ ろうか。自分は握り締めていたいが、神が手 放すよう導いておられると感じた事があるか。 自分は留まりたいが、神は前進せよと命じて おられる事はないか。神は私達が今の場所で とどまっていないで、沖へと漕ぎ出すよう、 神に身を委ねて手放すよう望んでおられる。 あなたも神は御声をかけておられないか。
2003年11月19日(水) 「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:24)
「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:24)
フィギュアスケートのジャネット・リンが 演技中にジャンプで失敗して、転んで尻もち をついてしまった。見ていた人もヒヤッとし た。すると、次の瞬間、素晴らしい笑顔でニ コッとほほ笑んで、立ち上がり最後まで見事 な演技を続けたのだ。観衆から割れんばかり の拍手だった。途中で放棄せず、諦めもせず、 心をこめて最後まで滑り続ける事で神の栄光 を現わした。私達も信仰生活の中で、主に従 って行く時に、挫折があるかもしれない。 入試や就職試験の不合格、愛する者との別離、 倒産、罪ゆえの失敗がある。 しかし、転んでも、もう一度立ち上がる事が できる。そしてその時、信仰が更に確かなも のとされる。何があっても再び起き上がれる。
2003年11月18日(火) 『「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」そして、その通りにすると・・網は破れそうになった』(ルカ5:5)
『「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」そして、その通りにすると・・網は破れそうになった』(ルカ5:5)
ある冬に長距離ドライブをした時のこと、 その地方に大雪警報が出ていた。しかし、見 たところ全く雪になりそうにないので、どん どん進んで行った。すると、あ案の定、予報 通りに吹雪になり、もう視界が遮られるほど になった。危険なので、その地で宿泊した。 私達も信仰生活において見えるところと御言 葉、神の言われることが異なる場合がある。 その時は、どうすれば良いのか。 ペテロがしたように、状況と主の言われる時 が正反対でも、主の言葉に従うことだ。 見えるところでなく、御言葉に従え。そうす るなら、神のみわざを見る。主の言われるこ とが自分の思いと反する時も、御言葉に従う なら、正しい道に導かれる。
2003年11月17日(月) 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であた・・この人のほうが、前の人よりも、義と認められ、家に帰って行きました」(ルカ18:10)
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であた・・この人のほうが、前の人よりも、義と認められ、家に帰って行きました」(ルカ18:10)
良い行いとは、行いそれ自体が良いという 意味ではなく、動機が正しいと良い行いに なる。祈ること自体は良いことだ。 しかし、もし人に見せるために祈るなら、 人から賞賛を得るために祈るなら、その祈 りは間違っている。ある時、二人の男が祈 るために宮に来た。一人はパリサイ人で、 一人は取税人だった。二人とも祈ったが、 一人は義とされて帰り、一人は罪のまま帰 った。正しい行いは、正しい動機でなされ る時だけ正しいのだ。それ自体は良くも悪 くもない行いが沢山ある。愛を持って成さ れれば正しいし、自己中心な動機で成され れば間違っている。その行い自体ではなく、 動機によって良くも悪くもなる。 私達の動機はどうだろう。
2003年11月16日(日) 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:14)
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:14)
ある人が蛇をペットに飼っていた。 最初は二十〜三十センチだったのが、どんどん 大きくなり、何と二〜三メートルにまでなったのだ。 ある日突然飼い主に飛びかかり窒息死させてしま った。罪はこの蛇のようだ。 最初私達の生活に入ってくる時は無邪気な無害な ものに見える。しかし、罪は成長するのだ。 大きくなり熟してくると、逆転し私達を支配し始める。 飲酒、ギャンブル、悪い習慣、嫉妬や憎しみ、すべ てそうだ。捕らえられ、それから逃れられなくなる。 それの奴隷になってしまう。霊的な死へと進んでし まう。小さな罪に気をつけよ。いつまでも小さなまま では決して済まない。罪と戯れるな。
2003年11月15日(土) すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみ「ながら立ち去った。なぜならこの人は多くの財産を持っていたからである」(マルコ10:22)
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみ「ながら立ち去った。なぜならこの人は多くの財産を持っていたからである」(マルコ10:22)
富める青年は良い行いに励んでいた。 忠実に教会に出席し、聖書を読み祈りをして いたであろう。人々から尊敬され、良い評判 を得ていた。しかし、彼には妨げとなるものが あった。富みへの執着だった。 財産を貧しい人に与える事が救いになるので はない。しかし、財産のために、主に従う事を 捨て、主のもとを離れ去り正しい人生を破滅さ せてしまった。偶像や執着するもの、妨げにな るものは個々によって異なる。 ある人はプライド、名誉欲、ある人は虚栄心、 妬み、であるかもしれない。私達を妨げるもの を捨て去って、主イエスに従う事が必要だ。 あなたはあなた自身、将来、所有物をすべて 主にお委ねしたか。主に従うために、あなたの 妨げとなっているものは何だろう。
2003年11月14日(金) 「人から出るもの、これが人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人・・」(マルコ7:21)
「人から出るもの、これが人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人・・」(マルコ7:21)
試練の時、困難の時、私達の内側にあるものが 外にこぼれ出る。批判されたり誤解されたり、 敵対された時にどう反応するだろうか。 寛容と親切と柔和な態度だろうか。尚も優しい 言葉が口から出るだろうか。それとも腹立ち、 怒り、復讐、攻撃の反応か。 聖霊に導かれ、聖霊により頼んで生きているな ら、御霊に導かれた反応が出て来る。 外部からの圧力は信仰のテストだ。どれほど成 長して来ているかのテストだ。 いつも私達の内側にあるものが出て来る。 もし、聖霊に満たされ、主の愛で心が満たされ ているなら、そのような反応が出る。試練の時、 悩みの時私達の人格が現われる。本当の姿が、 本性が現われる。主に明け渡して、従って行く なら、日毎に成長して行くはず。
2003年11月13日(木) 「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)
富める役人は、富みが偶像となり、正しく見えなく なり、イエスのもとを離れ去った。 太陽に向かい十円玉を目の前に置くと、あの大きな太 陽が見えなくなる。偶像は大きな力があり、真の神を 見えなくしてしまう。鏡と普通のガラスは、同じガラ スだ。しかし、見えるものは全く違う。ガラスは向こ うが見え、鏡は自分が見える。あなたは鏡の前にいる か。窓ガラスの前にいるか。鏡なら自分自身が見える だけだ。一生自分だけを見て、自分の事のみで自分だ けを喜ばせて終わるのか。窓から向こうが見え、神を 見、神に従い、人々の必要を見て、人々に仕えて行く のか。心に偶像があると、すべての事が歪み、正しく 見えなくなる。神と富とに仕えることは不可能。
2003年11月12日(水) 「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。妻たちよ。あなたがたは主に従うように、自分の夫に従いなさい」(エペソ5:21)
「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。妻たちよ。あなたがたは主に従うように、自分の夫に従いなさい」(エペソ5:21)
結婚関係や対人関係に必要なものは何 だろうか。それらの関係が放っておいてう まく行くはずはない。勝手にうまく行くなど 考えられない。、もし、私達が心の深い所 のニードを人が満たしてくれるなどと思っ ていたら、大きな勘違いだ。 相手に不可能な要求をしている事になる。 結婚相手もどんなに近い友人もそれを満 たす事はできない。私達の心の最も深い 部分は神にしか満たす事はできないのだ。 それを知っている人は良い対人関係を築 いて行ける。結婚には努力が必要だ。 互いに従い合い自分を捨てて行く事だ。 罪の性質は自己中心で、わがまま。 放っておくと自分勝手な道を行ってしまう。 相手の益を計り合い建て上げる為ために は努力が必要。
2003年11月11日(火) 「・・またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです」(使徒26:20)
「・・またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです」(使徒26:20)
子供の頃、兄弟喧嘩をした事がないだろうか。 親がいつも間に入り、喧嘩を止め、双方に頭を 下げさせ「ごめんなさい」を言わせたのではない か。しかし、納得が行かないので、親の手前、 仕方なく互いに謝るが、親がいなくなると、又 喧嘩を始めた事があったかもしれない。 強いられた謝罪は心に何の変化も起こさず形だ けで何の役にも立たない。私達の神への悔い改 めはどうか。 もし真に悔い改めるなら、必ず事態や心に変化 が生じる。悔い改めにふさわしい実を結ぶよう になる。生活が変えられ、自分自身が変えられ て行く。だが「口先で近づき、唇であがめるが、 その心は遠く離れている」なら何一つ変わらな い。私達はどうだろう。
2003年11月10日(月) 「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいます。耳を傾けて・・」(詩篇10:17)
「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいます。耳を傾けて・・」(詩篇10:17)
デボーションで聖書を読んでいた時、又、礼拝 メッセージの中で「あ、祈りの答えだ」「これが 知りたかった事だ」「これこそ祈り求めていた導 きだ」と思った事があるだろう。 まさに神が祈りに答えて下さり、導きを与えて下 さったのだ。ある人が学び会で、ずっと祈り続け ていた指針を得た。何週間も思い悩んでいた事の 解決を得た。神からの答えだった。 神は私達を良く理解し、すべてをご存知で導いて 下さる。この神の導きがあるというのは人生途上 でいかに感謝な事だであろう。神はあらゆる事を 通して語られる。しばしば主に在る兄姉の言葉を 通して答えを与えられる。耳を澄ましていよう。 メッセージから、学びから、交わりからデボーシ ョンから主の御声が聞こえて来る。 心に留めていて下さる。
2003年11月09日(日) 「心を尽くして主により頼め・・あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5)
「心を尽くして主により頼め・・あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5)
日々のスケジュールはどのように決定 しているだろうか。朝の祈りの中で主に 委ねて行く時、良い知恵が与えられたり、 調整が与えられたり、又、その日の中で 不安な事態には平安を与えられたりする。 まず、一日の初めにスケジュールについ て祈るのは良い事だ。その祈りは働いて 主がその日のなすべき事に道を備えて下 さる。一日を終える時、ハードな一日を 主が導いて下さった事、苦手な対人関係 の中に働いて下さった事、過重な仕事を 助けて下さり成し遂げられた事、様々な みわざを見る。祈りは大きな力だ。 祈りによって、主と共に働き、学び、労 する事ができる。主のご愛と配慮を知る 事ができる。スケジュールについて祈り、 一日を始めよう。
2003年11月08日(土) 「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」(マタイ6:7)
「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」(マタイ6:7)
この世の宗教では、同じ言葉を繰り 返して祈るのが常套手段だ。 しかし、私達に繰り返しは必要無い。 なぜなのか。御父は私達に真に必要な ものを知っておられるからだ。すでに ご存じでいて下さるから大胆にみここ ろに適った祈りをする事ができる。 次には神との信頼関係にあるからだ。 神は御父であり、アバ父、お父ちゃん と近づく事ができる。 恐れや不安はなく、神の愛を信頼して いる。最善を成し遂げて下さると信じ ている。また、信頼しているので、神 の約束に立つ事ができる。 祈りは神の約束を見つめ、信頼によっ て求め、神の約束を手に入れる事だ。 ゆえに祈る必要がある。願わないから 得られないとの御言葉の通りに。 しかし、くどくど祈る必要は無い。
2003年11月07日(金) 「ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです」(使徒20:23)
「ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです」(使徒20:23)
「あなたがたは、世にあっては患難が あります。しかし、勇敢でありなさい」 御言葉は信仰には苦難があると言ってい る。一般的な考えとして、キリストを信 じるなら、神に祝福され順風満帆な人生 を歩み、めでたしめでたしで終わると思 っている。そのため悩みや困難が来るや、 つまづいてしまう。 どこに問題があるのか。御言葉を正しく 理解していない事にある。不都合な事、 悪い事が起こるや、なぜこんな事が?神 を信仰しているのに、と言う失望と不幸 で混乱する。しかし、神は愛する者を懲 らしめ、受け入れるすべての子にむちを 加えると言っておられる。 私達の益のため、聖めるために懲らしめ られる。耐えられない試練は与えられな い。試練は仮面をかぶった祝福。
2003年11月06日(木) 「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません・・恐れることはありません。あなたがたは雀よりもすぐれた者です」(マタイ10:29)
「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません・・恐れることはありません。あなたがたは雀よりもすぐれた者です」(マタイ10:29)
ある人の証だ。非常な経済困窮に陥り、 あまりの心配と不安に眠れなくなった。 気を落ち着けようとするが、どうにも出 来なかった。頭は冴え渡り悪い方へ悪い 方へ考えが回って行く。主よ、どうすれ ばよいのですか、と祈り続けた。 一つの賛美が示された。「一羽の雀さえ 主は守り給う。主は我さえも支え給うな り。声高らかに歌わん。一羽の雀さえ主 は守り給う」眠れない明け方の前に小鳥 がさえずるのを聞いた。 夜が明ける前にさえずっている。まだ暗 い中で賛美する事を覚えさせられた。 私に目を留め、私を愛していて下さる主 は決して見捨てられず、経済的必要を備 えて下さると信じた。 神は祈りに答え励ましを与え必要を満た して下さる。
2003年11月04日(火) 「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはなりません」(ルカ10:42)
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはなりません」(ルカ10:42)
ある婦人、早朝に目覚めるや、すぐ電話がなった。 その日の仕事に関する急な連絡だった。 引き続き、打ち合わせの電話が入り続け、大急ぎで 支度し、慌しく出勤した。 帰宅後は家事に追われ、疲れ果てて就寝した。 神との交わりを持たないまま生活するなら、何かが 失われて行く。マルタとマリヤはどちらも主イエス を愛していた。それぞれの方法でイエスに愛を表し た。主はマルタのもてなしを非難なれたのではない。 ただ、マリヤの御言葉を聞こうとする態度を無くて はならぬ唯一のものと言われたのだ。 他人へのもてなし、他に仕える事は、なくてはなら ぬただ一つの事がおろそかになるなら、完全ではな い。本末転倒になってはならない。
2003年11月03日(月) 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)
ある、神を信仰している敬虔な両親の娘が 病で亡くなった。 周囲の心ない人々は、信仰しているのにどう してこういう事が起こるのか、神が愛である なら、なぜなのか、神は全能ではないのかと、 疑問を投げつけた。しかし両親は答えた。 娘の事で神を神を非難した事は一度もない。 娘は今、天の御国におり、御父に抱かれて安 らぎの中にいる事に慰められている。 娘の長い闘病生活を通して、家族は一つにな り、家族の互いの関係は深められ、固い絆で 結ばれた。 そして家族が試練の中で神に近づき、神を更 に深く知るものとされた。深い苦しみを通っ たが、神は耐えることの出来る恵みを与えて 下さった。 神は耐えられない試練は与えられない。
2003年11月02日(日) 『だから、彼らの真似をしては行けません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いておられるからです』(マタイ6:8)
『だから、彼らの真似をしては行けません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いておられるからです』(マタイ6:8)
異邦人の祈りの特徴は、くどくどと祈る事。 同じ言葉をただ繰り返し、言葉数で効果を得 ようというものだった。 では、私達はなぜ繰り返しが不必要なのだろ うか。神がすでに私達一人一人に必要なもの を知っていて下さっているからだ。 また、くどくどと祈らないのは、神の愛を信 じているからだ。 神と労使関係にあって、交渉次第というので はない。神とは信頼関係にあるのだ。 信頼とは神の御言葉を信じ、御言葉の約束に 立つ事だ。そして、神は言葉数でなく、その 心を見て下さる。信頼してるから、信じてい るから、願い、求めるのだ。 神はその願いに答えて下さる。そして、更に 神との関係が深められて行く。
2003年11月01日(土) 『イエスは三度ペテロに言われた「ヨハネの子シモン。あなたは私を愛しますか」』(ヨハネ21:17)
『イエスは三度ペテロに言われた「ヨハネの子シモン。あなたは私を愛しますか」』(ヨハネ21:17)
ペテロが三度主を否んだ後、主は十字架 にかかられ死なれた。 その後、主は甦られ、弟子達に現われた。 そして、イエスを知らないと三度否んだペ テロ、主に合わせる顔が無い。 そんなペテロにイエスは事実を明らかにし つつ、回復の時を与えて下さった。 主を愛していますと、言えるように機会を 作って下さった。 主に顔向けも出来ないペテロの、その心内 のすべてをご存知で、「あなたはわたしを 愛するか」と問いかけて下さった。 ペテロをどんなに深く愛しておられた事だ ろう。わたしがかかった十字架はまさしく あなたのその罪のためだと言われたかった なすすべもなく、一度捨てた網を取り上げ 漁に戻るペテロ、その彼に「私の羊を飼い なさい」と主への働きへ。