2003年11月30日(日)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい・・あなたがたですは主キリストに仕えているのです」(コロサイ3:23)

状況がうまく行かない時、思うようにならない
時、どうすれば主に仕え続ける事ができるのだ
ろう。人のためにだけでは仕え続ける事はでき
ない。また、人によく思われたいとの動機では
仕えられない。人への奉仕の力も全く失せてし
まう。すべてが暗礁に乗り上げたように感じる
時、何が前に進ませてくれるのだろう。
ペテロが主を裏切り、失敗し、何の力も無くなっ
た時、主は再びペテロを回復させ立ち上がらせ
て下さった。それは「あなたは私を愛するか」と
いう問いであった。
主に仕え続ける事のできる唯一の動機は、力は
イエスを愛する愛なのだ。他の何をもてしても役
立たない。主を愛する愛のみが私達を引き上げ
仕え続けさせてくれる。


2003年11月29日(土)

「悪魔は・・彼のうちには真理がない・・彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしている・・なぜなら彼は偽り者でありまた偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)

詐欺にあった事があるだろうか。恵まれない
子供達への募金として、実は新興宗教の詐欺
だったり、高級ブランド商品が偽物だったり、品
質の良い品物をバーゲンと称するが、実はバー
ゲン用に作られた粗雑なものであったり、様々な
偽りが横行している。悪魔も同じだ。
巧妙にだます。罪には一瞬の快楽があるため罪
の楽しみに誘う。しかし、その罪には苦い刈り取
りがあり、苦しみがついて来るが、それは隠す罪
は素晴らしくて、魅力的、麗しいものに見える。
しかし、その背後にサタンが潜み、企みと欺きが
ある。サタンは偽り者、嘘をつき騙す者。
神の御言葉によって私達はサタンを見破る事が
できる。神を知り御言葉を知るほど、悪魔の嘘を
見破れる。


2003年11月28日(金)

『あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力がこの富を築きあけたのだ」と言わないように気をつけなさい』(申命記8:17)


 神様が言われる通り、試練は良いものだ。
試練の時は様々な事を考えさせられる。歩み
を振り返り、軌道修正の必要を考えたり、自
分のあり方を考えたり、試練を通してきよめ
られるのは真実だ。反対に何もかもが順調で
うまく行っていると、恵みが恵みでなくなり
当然になってくる。罪の性質があるため、与
えられて当然、感謝が失せ、何もかもが当た
り前になる。成功が続くと、高慢になり自分
の力で得たように錯覚し、神を忘れ神から離
れてしまう。人間は罪深いものだ。
何一つ持たずにこの世に来て、何一つ持たず
にこの世を去る。与えられた富、時間、才能、
家族、良きものすべて神からの賜物だ。
神に感謝を献げて行く時、高慢から守られる。


2003年11月27日(木)

もし、あなたの敵が飢えていたなら、彼に食べさせなさい・・あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:20)


 争いは争いを生むばかりだ。否定的なものから
何の良いものも生まれはしない。しかし、争いと
憎しみの悪循環に陥るものだ。夫婦間で、友人間
で、学校で、職場で、表面的には繕っているが根
深い確執があったりする。あなたはどうだろう。
不自然でギクシャクしている相手がいるか。
神のみこころは、自分に関する限り、すべての人
と平和を保つことだ。
憎しみからは憎しみしか生まれない。
神はその確執を終わらせることを望んでおられる。
愛と寛容、親切を持ってだ。
敵に食べさせ、飲ませ、愛情を示すことを通して
だ。そうする時、神がそこに働いて下さり、相手
の心に強烈なインパクトを与えて行く。
聖霊が助けて下さる。


2003年11月26日(水)

「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」(マタイ26:42)

主イエスは十字架につかれる前に祈
られた。その祈りは最初は「できますな
らば、この杯をわたしから過ぎ去らせて
ください」だった。
しかし、わたしの願いではなく、みこころ
の通りにと祈られた。祈りが変わって行
き、飲まずに済まされぬのでしたら御旨
の通りにと。十字架を負うとは、自分の
願いを捨てて神のみこころに従う事だ。
主が父のみこころに従って行かれたよ
うに。自分の思い通りにならない状況を
受けいれる事だ。
自分を捨てて日々自分の十字架を負い
わたしについて来なさいと言われたよう
に、それは日々の事だ。日毎に自分の
思いを捨て、みこころを行い、自分の思
いとは違う状況を受け入れ続ける事。
そこに真の平安を見出す。


2003年11月25日(火)

「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(ローマ6:13)


 ある女性に筋力が萎縮して行くという難病が発病。
手足の動きがとれず、人の手を借りなければ、日常生
活が出来なくなった。有能な女性で、責任感が強く、
テキパキと仕事をこなし、なんでも良く出来る人だっ
た。病を患った今、「自分の思い通りにならない」事
を教えられている。多くの事を思い通りに出来なくな
った今、神に委ねることを学ばせられた。
身体が動かず、イラ立つのも、それを主に委ねるのも、
自分の選択だという事がはっきりとわかった。
どちらを選ぶかは自分だと。自分が自分の主になって
イライラするか、それとも主に自分を明け渡し平安で
いるか、自分次第だと。神に自分自身を全く明渡す時、
真の自由と平安を経験する。


2003年11月24日(月)

「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)

 対人関係は難しい。特に不幸な結婚生活は、
とりわけ辛く苦しい。結婚生活は天国にもな
り地獄にもなる。相手の欠点ばかりあら捜し
し、相手の非を責め、相手に要求しているば
かりでは、幸せな結婚生活は到底望めない。
自分はどうなのか。
良い人間と思っていた自分が決して良い人間
などではないと聖霊様は忍耐深く教えて下さ
る。思いやりがあると思っていた自分がいか
にわがままで自己中心であるかを見せて下さ
る。情深くも寛容でもないし、自制心もない
者だと。相手ばかり責めていた自分こそ変わ
る必要がある事を。私達が変わろうとするな
ら、聖霊様は臨み、キリストのかたちへと変
えて行って下さる。
自分が変わる時、相手も変わる。


2003年11月23日(日)

「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:13)

パウロは後ろのものを忘れ、目標を目
ざして一心に走っていると言った。
過去の恵みを数え、霊的教訓をしっかり
覚えておく事は大切であるが、過去の失
敗や過失をくよくよ思い煩う必要は無い。
パウロは過去の成功も失敗も忘れ、前を
見る事を選んだ。神からの栄冠を得るた
めに、ひたむきに前のものに向かって進
んだ。失敗にくよくよしているか。
パウロが模範だ。罪は告白するなら、神
は深い海の底に沈めて下さり、忘れて下
さる。二度と思い出さないと言われる。
過去の過失に捕らわれる必要が無いとい
う事は、何という恵み。常に前に向かっ
て前進するように励ましていて下さる。
今足ぶみしているか。後ろのものを忘れ、
前進しよう。


2003年11月22日(土)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)

人は蒔いたものを刈り取る、これは法則だ。
法律上の罪を犯せば、罰を受け刑務所へ行
く事になる。信仰の世界も同じだ。
一瞬の罪の快楽に身を委ねて、神の恵みを
捨ててしまうなら、苦しい刈り取りがある。
荒野で民が水が無いと文句を言った時、神
はモーセに岩に命じるよう言われた。
しかし、モーセは怒りで岩を二度杖で打っ
た。それゆえ約束の地に入る恵みを失った。
神に忠実に従ったダビデは情欲の誘惑に身
を委ねたため、名声に傷をつけ、神の評判
に傷をつけ苦しい刈り取りをしなければな
らなかった。あなたに誘惑の手が臨んでい
るか。誘惑に身を委ねてはならない。
主に頼れ。御言葉に立て。誘惑と戯れては
ならない。すぐに餌食になってしまう。


2003年11月21日(金)

「耐えず祈りなさい」(Tテサロニケ5:17)


 ある人が不眠症で悩んでいた。ウトウトと
しては夜中の二時三時に、目が覚め頭は冴え、
眠れなくなってしまうのだった。そんな時、
眠ろうとして焦ったり、様々な余計な考えが
頭に浮かんだ。目の前にある心配事、又、全
く起こり得ない事まで思い煩い、不安になり、
心が乱れるのであった。
そんな時「ああ、私は床の上であなたを思い
出し夜ふけて私はあなたを思います」の御言
葉を示され、この何の妨げも無い静かな時間
を祈りの時にすればよいと気づかされた。
昼間は仕事に終われ祈りの時間が持てないで
いた。不眠の時を神と交わる時間とした。
悩みは去り神との幸いな静思の時とされ、心
の思い煩いを神に語り、委ねる時となってし
まった。


2003年11月20日(木)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(ルカ5:4)


 主はペテロに、沖へ出て魚をとりなさいと
言われた。言われる通りに、沖に漕ぎ出し魚
をとった時、網が破れそうなほどの魚が取れ
た。私達は沖に乗り出すのが恐くて、岸辺に
とどまっている。だから、犠牲も払わなくて
よいが、恵みの深さもわからない。
自分は自分の思い通りにしたいが、神は献げ
るよう望んでおられるのを感じた事があるだ
ろうか。自分は握り締めていたいが、神が手
放すよう導いておられると感じた事があるか。
自分は留まりたいが、神は前進せよと命じて
おられる事はないか。神は私達が今の場所で
とどまっていないで、沖へと漕ぎ出すよう、
神に身を委ねて手放すよう望んでおられる。
あなたも神は御声をかけておられないか。


2003年11月19日(水)

「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:24)

フィギュアスケートのジャネット・リンが
演技中にジャンプで失敗して、転んで尻もち
をついてしまった。見ていた人もヒヤッとし
た。すると、次の瞬間、素晴らしい笑顔でニ
コッとほほ笑んで、立ち上がり最後まで見事
な演技を続けたのだ。観衆から割れんばかり
の拍手だった。途中で放棄せず、諦めもせず、
心をこめて最後まで滑り続ける事で神の栄光
を現わした。私達も信仰生活の中で、主に従
って行く時に、挫折があるかもしれない。
入試や就職試験の不合格、愛する者との別離、
倒産、罪ゆえの失敗がある。
しかし、転んでも、もう一度立ち上がる事が
できる。そしてその時、信仰が更に確かなも
のとされる。何があっても再び起き上がれる。


2003年11月18日(火)

『「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」そして、その通りにすると・・網は破れそうになった』(ルカ5:5)


 ある冬に長距離ドライブをした時のこと、
その地方に大雪警報が出ていた。しかし、見
たところ全く雪になりそうにないので、どん
どん進んで行った。すると、あ案の定、予報
通りに吹雪になり、もう視界が遮られるほど
になった。危険なので、その地で宿泊した。
私達も信仰生活において見えるところと御言
葉、神の言われることが異なる場合がある。
その時は、どうすれば良いのか。
ペテロがしたように、状況と主の言われる時
が正反対でも、主の言葉に従うことだ。
見えるところでなく、御言葉に従え。そうす
るなら、神のみわざを見る。主の言われるこ
とが自分の思いと反する時も、御言葉に従う
なら、正しい道に導かれる。


2003年11月17日(月)

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であた・・この人のほうが、前の人よりも、義と認められ、家に帰って行きました」(ルカ18:10)


良い行いとは、行いそれ自体が良いという
意味ではなく、動機が正しいと良い行いに
なる。祈ること自体は良いことだ。
しかし、もし人に見せるために祈るなら、
人から賞賛を得るために祈るなら、その祈
りは間違っている。ある時、二人の男が祈
るために宮に来た。一人はパリサイ人で、
一人は取税人だった。二人とも祈ったが、
一人は義とされて帰り、一人は罪のまま帰
った。正しい行いは、正しい動機でなされ
る時だけ正しいのだ。それ自体は良くも悪
くもない行いが沢山ある。愛を持って成さ
れれば正しいし、自己中心な動機で成され
れば間違っている。その行い自体ではなく、
動機によって良くも悪くもなる。
私達の動機はどうだろう。


2003年11月16日(日)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:14)

ある人が蛇をペットに飼っていた。
最初は二十〜三十センチだったのが、どんどん
大きくなり、何と二〜三メートルにまでなったのだ。
ある日突然飼い主に飛びかかり窒息死させてしま
った。罪はこの蛇のようだ。
最初私達の生活に入ってくる時は無邪気な無害な
ものに見える。しかし、罪は成長するのだ。
大きくなり熟してくると、逆転し私達を支配し始める。
飲酒、ギャンブル、悪い習慣、嫉妬や憎しみ、すべ
てそうだ。捕らえられ、それから逃れられなくなる。
それの奴隷になってしまう。霊的な死へと進んでし
まう。小さな罪に気をつけよ。いつまでも小さなまま
では決して済まない。罪と戯れるな。


2003年11月15日(土)

すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみ「ながら立ち去った。なぜならこの人は多くの財産を持っていたからである」(マルコ10:22)

富める青年は良い行いに励んでいた。
忠実に教会に出席し、聖書を読み祈りをして
いたであろう。人々から尊敬され、良い評判
を得ていた。しかし、彼には妨げとなるものが
あった。富みへの執着だった。
財産を貧しい人に与える事が救いになるので
はない。しかし、財産のために、主に従う事を
捨て、主のもとを離れ去り正しい人生を破滅さ
せてしまった。偶像や執着するもの、妨げにな
るものは個々によって異なる。
ある人はプライド、名誉欲、ある人は虚栄心、
妬み、であるかもしれない。私達を妨げるもの
を捨て去って、主イエスに従う事が必要だ。
あなたはあなた自身、将来、所有物をすべて
主にお委ねしたか。主に従うために、あなたの
妨げとなっているものは何だろう。


2003年11月14日(金)

「人から出るもの、これが人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人・・」(マルコ7:21)


試練の時、困難の時、私達の内側にあるものが
外にこぼれ出る。批判されたり誤解されたり、
敵対された時にどう反応するだろうか。
寛容と親切と柔和な態度だろうか。尚も優しい
言葉が口から出るだろうか。それとも腹立ち、
怒り、復讐、攻撃の反応か。
聖霊に導かれ、聖霊により頼んで生きているな
ら、御霊に導かれた反応が出て来る。
外部からの圧力は信仰のテストだ。どれほど成
長して来ているかのテストだ。
いつも私達の内側にあるものが出て来る。
もし、聖霊に満たされ、主の愛で心が満たされ
ているなら、そのような反応が出る。試練の時、
悩みの時私達の人格が現われる。本当の姿が、
本性が現われる。主に明け渡して、従って行く
なら、日毎に成長して行くはず。


2003年11月13日(木)

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)


 富める役人は、富みが偶像となり、正しく見えなく
なり、イエスのもとを離れ去った。
太陽に向かい十円玉を目の前に置くと、あの大きな太
陽が見えなくなる。偶像は大きな力があり、真の神を
見えなくしてしまう。鏡と普通のガラスは、同じガラ
スだ。しかし、見えるものは全く違う。ガラスは向こ
うが見え、鏡は自分が見える。あなたは鏡の前にいる
か。窓ガラスの前にいるか。鏡なら自分自身が見える
だけだ。一生自分だけを見て、自分の事のみで自分だ
けを喜ばせて終わるのか。窓から向こうが見え、神を
見、神に従い、人々の必要を見て、人々に仕えて行く
のか。心に偶像があると、すべての事が歪み、正しく
見えなくなる。神と富とに仕えることは不可能。


2003年11月12日(水)

「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。妻たちよ。あなたがたは主に従うように、自分の夫に従いなさい」(エペソ5:21)

結婚関係や対人関係に必要なものは何
だろうか。それらの関係が放っておいてう
まく行くはずはない。勝手にうまく行くなど
考えられない。、もし、私達が心の深い所
のニードを人が満たしてくれるなどと思っ
ていたら、大きな勘違いだ。
相手に不可能な要求をしている事になる。
結婚相手もどんなに近い友人もそれを満
たす事はできない。私達の心の最も深い
部分は神にしか満たす事はできないのだ。
それを知っている人は良い対人関係を築
いて行ける。結婚には努力が必要だ。
互いに従い合い自分を捨てて行く事だ。
罪の性質は自己中心で、わがまま。
放っておくと自分勝手な道を行ってしまう。
相手の益を計り合い建て上げる為ために
は努力が必要。


2003年11月11日(火)

「・・またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです」(使徒26:20)


子供の頃、兄弟喧嘩をした事がないだろうか。
親がいつも間に入り、喧嘩を止め、双方に頭を
下げさせ「ごめんなさい」を言わせたのではない
か。しかし、納得が行かないので、親の手前、
仕方なく互いに謝るが、親がいなくなると、又
喧嘩を始めた事があったかもしれない。
強いられた謝罪は心に何の変化も起こさず形だ
けで何の役にも立たない。私達の神への悔い改
めはどうか。
もし真に悔い改めるなら、必ず事態や心に変化
が生じる。悔い改めにふさわしい実を結ぶよう
になる。生活が変えられ、自分自身が変えられ
て行く。だが「口先で近づき、唇であがめるが、
その心は遠く離れている」なら何一つ変わらな
い。私達はどうだろう。


2003年11月10日(月)

「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいます。耳を傾けて・・」(詩篇10:17)


 デボーションで聖書を読んでいた時、又、礼拝
メッセージの中で「あ、祈りの答えだ」「これが
知りたかった事だ」「これこそ祈り求めていた導
きだ」と思った事があるだろう。
まさに神が祈りに答えて下さり、導きを与えて下
さったのだ。ある人が学び会で、ずっと祈り続け
ていた指針を得た。何週間も思い悩んでいた事の
解決を得た。神からの答えだった。
神は私達を良く理解し、すべてをご存知で導いて
下さる。この神の導きがあるというのは人生途上
でいかに感謝な事だであろう。神はあらゆる事を
通して語られる。しばしば主に在る兄姉の言葉を
通して答えを与えられる。耳を澄ましていよう。
メッセージから、学びから、交わりからデボーシ
ョンから主の御声が聞こえて来る。
心に留めていて下さる。


2003年11月09日(日)

「心を尽くして主により頼め・・あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5)

日々のスケジュールはどのように決定
しているだろうか。朝の祈りの中で主に
委ねて行く時、良い知恵が与えられたり、
調整が与えられたり、又、その日の中で
不安な事態には平安を与えられたりする。
まず、一日の初めにスケジュールについ
て祈るのは良い事だ。その祈りは働いて
主がその日のなすべき事に道を備えて下
さる。一日を終える時、ハードな一日を
主が導いて下さった事、苦手な対人関係
の中に働いて下さった事、過重な仕事を
助けて下さり成し遂げられた事、様々な
みわざを見る。祈りは大きな力だ。
祈りによって、主と共に働き、学び、労
する事ができる。主のご愛と配慮を知る
事ができる。スケジュールについて祈り、
一日を始めよう。


2003年11月08日(土)

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」(マタイ6:7)

 この世の宗教では、同じ言葉を繰り
返して祈るのが常套手段だ。
しかし、私達に繰り返しは必要無い。
なぜなのか。御父は私達に真に必要な
ものを知っておられるからだ。すでに
ご存じでいて下さるから大胆にみここ
ろに適った祈りをする事ができる。
次には神との信頼関係にあるからだ。
神は御父であり、アバ父、お父ちゃん
と近づく事ができる。
恐れや不安はなく、神の愛を信頼して
いる。最善を成し遂げて下さると信じ
ている。また、信頼しているので、神
の約束に立つ事ができる。
祈りは神の約束を見つめ、信頼によっ
て求め、神の約束を手に入れる事だ。
ゆえに祈る必要がある。願わないから
得られないとの御言葉の通りに。
しかし、くどくど祈る必要は無い。


2003年11月07日(金)

「ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです」(使徒20:23)


 「あなたがたは、世にあっては患難が
あります。しかし、勇敢でありなさい」
御言葉は信仰には苦難があると言ってい
る。一般的な考えとして、キリストを信
じるなら、神に祝福され順風満帆な人生
を歩み、めでたしめでたしで終わると思
っている。そのため悩みや困難が来るや、
つまづいてしまう。
どこに問題があるのか。御言葉を正しく
理解していない事にある。不都合な事、
悪い事が起こるや、なぜこんな事が?神
を信仰しているのに、と言う失望と不幸
で混乱する。しかし、神は愛する者を懲
らしめ、受け入れるすべての子にむちを
加えると言っておられる。
私達の益のため、聖めるために懲らしめ
られる。耐えられない試練は与えられな
い。試練は仮面をかぶった祝福。


2003年11月06日(木)

「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません・・恐れることはありません。あなたがたは雀よりもすぐれた者です」(マタイ10:29)


 ある人の証だ。非常な経済困窮に陥り、
あまりの心配と不安に眠れなくなった。
気を落ち着けようとするが、どうにも出
来なかった。頭は冴え渡り悪い方へ悪い
方へ考えが回って行く。主よ、どうすれ
ばよいのですか、と祈り続けた。
一つの賛美が示された。「一羽の雀さえ
主は守り給う。主は我さえも支え給うな
り。声高らかに歌わん。一羽の雀さえ主
は守り給う」眠れない明け方の前に小鳥
がさえずるのを聞いた。
夜が明ける前にさえずっている。まだ暗
い中で賛美する事を覚えさせられた。
私に目を留め、私を愛していて下さる主
は決して見捨てられず、経済的必要を備
えて下さると信じた。
神は祈りに答え励ましを与え必要を満た
して下さる。


2003年11月04日(火)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはなりません」(ルカ10:42)


 ある婦人、早朝に目覚めるや、すぐ電話がなった。
その日の仕事に関する急な連絡だった。
引き続き、打ち合わせの電話が入り続け、大急ぎで
支度し、慌しく出勤した。
帰宅後は家事に追われ、疲れ果てて就寝した。
神との交わりを持たないまま生活するなら、何かが
失われて行く。マルタとマリヤはどちらも主イエス
を愛していた。それぞれの方法でイエスに愛を表し
た。主はマルタのもてなしを非難なれたのではない。
ただ、マリヤの御言葉を聞こうとする態度を無くて
はならぬ唯一のものと言われたのだ。
他人へのもてなし、他に仕える事は、なくてはなら
ぬただ一つの事がおろそかになるなら、完全ではな
い。本末転倒になってはならない。


2003年11月03日(月)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)


 ある、神を信仰している敬虔な両親の娘が
病で亡くなった。
周囲の心ない人々は、信仰しているのにどう
してこういう事が起こるのか、神が愛である
なら、なぜなのか、神は全能ではないのかと、
疑問を投げつけた。しかし両親は答えた。
娘の事で神を神を非難した事は一度もない。
娘は今、天の御国におり、御父に抱かれて安
らぎの中にいる事に慰められている。
娘の長い闘病生活を通して、家族は一つにな
り、家族の互いの関係は深められ、固い絆で
結ばれた。
そして家族が試練の中で神に近づき、神を更
に深く知るものとされた。深い苦しみを通っ
たが、神は耐えることの出来る恵みを与えて
下さった。
神は耐えられない試練は与えられない。


2003年11月02日(日)

『だから、彼らの真似をしては行けません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いておられるからです』(マタイ6:8)



 異邦人の祈りの特徴は、くどくどと祈る事。
同じ言葉をただ繰り返し、言葉数で効果を得
ようというものだった。
では、私達はなぜ繰り返しが不必要なのだろ
うか。神がすでに私達一人一人に必要なもの
を知っていて下さっているからだ。
また、くどくどと祈らないのは、神の愛を信
じているからだ。
神と労使関係にあって、交渉次第というので
はない。神とは信頼関係にあるのだ。
信頼とは神の御言葉を信じ、御言葉の約束に
立つ事だ。そして、神は言葉数でなく、その
心を見て下さる。信頼してるから、信じてい
るから、願い、求めるのだ。
神はその願いに答えて下さる。そして、更に
神との関係が深められて行く。


2003年11月01日(土)

『イエスは三度ペテロに言われた「ヨハネの子シモン。あなたは私を愛しますか」』(ヨハネ21:17)

 ペテロが三度主を否んだ後、主は十字架
にかかられ死なれた。
その後、主は甦られ、弟子達に現われた。
そして、イエスを知らないと三度否んだペ
テロ、主に合わせる顔が無い。
そんなペテロにイエスは事実を明らかにし
つつ、回復の時を与えて下さった。
主を愛していますと、言えるように機会を
作って下さった。
主に顔向けも出来ないペテロの、その心内
のすべてをご存知で、「あなたはわたしを
愛するか」と問いかけて下さった。
ペテロをどんなに深く愛しておられた事だ
ろう。わたしがかかった十字架はまさしく
あなたのその罪のためだと言われたかった
なすすべもなく、一度捨てた網を取り上げ
漁に戻るペテロ、その彼に「私の羊を飼い
なさい」と主への働きへ。