2003年12月31日(水)

「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを静かに考えよう」(詩篇77:11)

主が与え、豊かに祝福して下さったこの1年が終ろ
うとしている。1年を振り返る時、様々な失敗や過
失が思い起こされるだろうか。この1年を静かに思
い返すのは良い事だ。又、思い起こすべきだ。恵み
の1つ1つを数えてしっかり神に感謝して終りたい。
感謝のいけにえをことさらに喜ばれる。癒された
10人のらい病人の9人でありたくはない。感謝する
ために主のもとへ戻った1人のようでありたい。又、
心に浮かぶ1つ1つの罪を主に打ち明け、悔い改めて、
新しい年を迎えよう。神は豊かに赦して下さる。罪を
海の深みの底に沈めて、もう思い出されることはない
のだ。何という憐れみだろう。思い煩いの1つ1つも
今日、神に委ねよう。1年間祈りの答えを溢れるまで
に与えて下さった主を思い起こそう。主とよく交わり
心新たにされて、新年を迎えよう。


2003年12月30日(火)

『「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」』(Uコリント12:9)


 青年のバイブルクラスを教えていた一人の
青年が、厳しい試練を通った。あまりに苦し
い状況に、打ちひしがれ、また、自分の内側
の罪や醜さも見せられ立っておれないように
感じた。クラスなど教える資格がないと感じ
た。何度も辞退しようと思った。
しかし、主の支えと助けにより、その苦悩の
時期を乗り越えた。自分には教える事が出来
ないと心底思った時、主が臨んで「とどまり
続けよ」と導いて下さったのだ。
そして、クラスの皆は、はっきりそれを感じ
た。その最も苦しい時期の彼は、今までで、
最も良い導き手だったと。
彼から恵み流れ出て、真に心に触れるクラス
だったと。私達がもうだめだと思う時こそが
一番素晴らしい恵みの時だ。
主が一番近く、主が臨んで下さるのだ。


2003年12月29日(月)

「偽善の律法学者、パリサイ人達。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるがその中は強奪と放縦でいっぱいです」(マタイ23:25)


 パリサイ人達は外側ばかり飾った。内側は偽善で
いっぱいだった。私達はどうだろう。
「振り」をしていないか。愛深そうな振り、霊的そ
うな振り、良い人そうな振り・・。
うまく演技をする事がクリスチャン生活だと勘違い
している。作り笑いをし、物腰を柔らかくしクリス
チャンらしく装う。しかし、人の目はだませても、
神を欺く事などできない。不可能だ。神は心の中を
すべて見通しておられる。神はうわべでなく、心を
見られるお方だ。自分の真の状態を認めて、神に拠
り頼む事を喜ばれる。愛深い振りをするのではなく、
愛のない事を認めて、神に頼る者を豊かに祝福して
下さる。振りをせず、神の御前で正直に自分の姿を
認める時、救いがある。


2003年12月28日(日)

「けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです」(マタイ23:3)

主は、パリサイ人になるなと言われた。言うこと
とする事に矛盾がある。立派な事を言うが、決し
て行ないはしない。特に子供を育てる時、子供は
大人の言う事とする事が違っていと、混乱してわ
けがわからなくなり、信頼する事ができなくなる。
私達の態度はどうだろう。私の言う通りにせよ、
しかし、する通りにはするな、だろうか。あなた
の言動は一致しているか。それが一番の証しだ。
言動の不一致は偽善だ。そこに偽りがあるからだ。
出来ない事は出来ないで、正直でありさえすれば、
神は豊かに祝福して下さる。正直を神は喜ばれる。
口先だけでなく真実な行ないをしよう。神が今日
あなたに求めておられる行ないは何か。


2003年12月27日(土)

「あなたのみことば、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口には甘いのです」(詩篇119:193)

この地上で一番に心満たされるのは、神との甘い交わりのひと
時だ。神は御声をかけて導かれる。御声を聞いて心満たされ、
力を与えられ、励まし慰められ、指針を与えられる。神との交
わりが豊かな一日が、心に喜びがある事は、誰しも経験する
ところだ。サタンはこの命の交わりから巧妙に離れさせよう
とする。それも悪い罪はストレートですぐわかるので、もっと
狡猾に、良い事によって。罪ではない合法的な事によって。
仕事や勉強、家事育児が多忙で主との交わりの時間が無い。
それらは良い事なので、気づかない。働き学ぶ事は立派な良
い事。油断していると、いつしか世の凄まじい勢力に飲み込
まれ、霊的食欲が失せてしまう。あなたは今、食欲が減退して
いないか。要注意だ。気づけて立ち止まれる事は聖霊の働き。


2003年12月26日(金)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(ルカ5:4)

 夜を徹して漁をしたペテロの収穫はゼロだった。
夜通し働いて、ヘトヘトの身体に何の収穫もなく
徒労に終わった空の網は、尚も疲労を増した。
そのペテロが「沖へ漕ぎ出し魚を取れ」と言われ
た時の心情はどうだっただろう。
夜通し漁をして一匹も取れなかったのだ。それに
身体はヘトヘトだ。しかし大漁の一歩手前にいた
のだ。ただ主が言われる通りに従うなら、どのよ
うな状況の中でも、主が働かれみわざを見る。
何の実もなく私達が疲れ果てる時も、思い通りの
答えがなくもう一歩もし進めないと思う時も、主
を信じて主の御声に従うなら豊かな実を収穫する。


2003年12月25日(木)

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです」(ルカ2:11)


 クリスマスシーズンは街は華やかだ。
クリスマスソングが至る所で流れ、イル
ミネーションきらめき、繁華街はにぎわ
う。人々はパーティーを開き、飲み食い
浮かれ騒ぐ。しかし、人々の心の中はど
うなのだろう。上っ面だけの付き合い、
心の底は虚しく満たされない。
何かを求めているが、何を求めているの
かもわからない。人は皆、孤独で寂しい。
それから逃げるために、様々な事に手を
出し、浮かれ騒ぐ。しかし心は満たされ
ない。すべての事が、的はずれているの
だ。すべての人に救い主が必要なのだ。
その救い主が今日ダビデの町でお生まれ
になったのだ。


2003年12月23日(火)

「主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった・・主ご自身があなたがたのために戦われるからである」(ヨシュア23:9)


私達の戦いを戦って下さるのは主である。
どんなに大きく強い敵であっても主がおられ
主が戦って下さる。何という幸いだろう。
しかし、私達はこの主を忘れ、すぐにうろた
え思い煩い不安にさいなまれる。
多くの仕事がいっ時に来ると、パニックにな
り、思い煩いで心が一杯になる。多大の責任
となすべき事が自分を追いかけてきて、倒さ
れそうになる。しかし、主が共におられ、主
がこのなすべき事を成し遂げて下さるのだ。
この戦いは主の戦いなのだ。主が一緒にいて
下さることを忘れるな。どんな山なす仕事を
もやり遂げることができる。
主と共に働くのだ。主は喜びと平安を与えて
力を与えて、助けて下さる。主の助けを知る。


2003年12月22日(月)

「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」(へブル13:14)


 あるクリスチャン作家が言った「この世界を
旅の通り道としてではなく、たましいを満たす
永遠の住まいにする事を求め、この地上に天国
を打ち建てようとするなら、私たちはすぐに幻
滅するだろう」旅行先でホテルに宿泊した経験
があるだろう。旅行中には旅行中の過ごし方が
ある。私達はこの世界が旅行中で、本当の家は
天国なのだ。仮の住まいだ。
永遠に照準を当てて、今日を生きるのだ。
天に宝を積む事を考えてそのような生活をする。
私達に任されている命、時間、才能、富、それ
らをよく管理して、主のみ心の通りに、主に喜
ばれるように使うのだ。
永遠に価値ある生き方だ。私達に委ねられたも
のを浪費するか、生かして使うか。私達次第だ。


2003年12月21日(日)

もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御御霊が、あなたがたの上にとどまって霊、すなわち神のくださるからです」(Tペテロ4:14)

ある人がキリスト信仰のゆえに就職試験
に落とされたことがわかった。
がっかりしそうになったその時一つの聖歌
を通して神は語られた。
「キリストには代えられません。世の宝も
また富も、このお方が私に代わって死んだ
ゆえです。世の楽しみよ去れ、世の誉よ行
け、キリストのは代えられません。世の何
ものも」賛美を通して突然わかった。
何も失ってはいないのだ。
永遠に報われる尊い宝だ。何かが起きた時、
何に焦点を合わせて見るかで、天地ほどに
違う。
目に見えない神を見、永遠を望み見るか、
目に見える状態を見て、地上のものに心を
奪われるかだ。あなたの物の見方はどうだ
ろう。目に見えるところだけか。





2003年12月20日(土)

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」(フブル12:7)

私達の益のため、ご自分の聖さにあず
からせようとして懲らしめ、訓練された
人々に平安な義の実を結ばせる。
苦しみや悩みに会うと、とっさには正し
く受け取れずに、いら立ったり、起こっ
たり、いじけたり、すねたりして心を屈
折させる。しかし、主は受け入れるすべ
ての子にむちを加えると、はっきりと言
っておられる。感情的になり、主がその
事を許し、与えておられる事を忘れる。
訓練を耐え忍んで行く時、神の意図がわ
かる。神がこの悩みの中で教えようとし
ておられるこ事がわかる。
大事な事を学び、信仰が成長し深められ
て行く。いつも主を信頼していなかった
事を悔いる。試練は仮面をかぶった祝福。
耐え忍ぶ時、良きものが見えて来る。


2003年12月19日(金)

「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました」(ヨナ2:7)

ニネベに行くように命じられたヨナ
は、自分の思いに従い、主の御顔を避
けて反対方向へ向かった。
主に従わなかったのだ。すると、主は
嵐を起こされヨナの乗った船は、難破
しそうになった。海に投げ込まれたヨ
ナは、魚に飲み込まれ、魚の腹の中で
悔い改めた。ヨナはみこころをそれた
が、神は尚もそれを憐れみ、ヨナを追
いかけて下さった。
そしてもう一度チャンスを与えて、ヨ
ナを用いて下さった。
私達も神のみこころをそれて、失望と
落胆の中にいるか。憐れみ深い神は、
尚も憐れんで下さり、次のチャンスを
与えて下さる。もう一度神に従う事が
できる。不従順を悔い改めて、神に従
おう。


2003年12月18日(木)

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)

エデンの園で、エバは蛇に誘惑されて、
神に禁止されていた木の実を食べてしま
った。それをアダムにも与えたので、ア
ダムも食べた。神は悔い改めの機会を与
えられ「食べてはならないと命じておい
た木から食べたのか」と問うて下さった。
しかし、アダムはエバがくれたから食べ
たと、エバのせいにした。
自分がした事の責任を取らず、妻に責任
転嫁した。罪の性質は自分が悪いと認め
ない。自分の非を認めたくない。
それ以外ならどんな事でもする。
「ごめんなさい」が言えない。罪を犯す
と、善を行って償おうとする。
罪に罪を重ねてしまう。自らの罪を認め、
告白するなら神は完全に赦して下さる。


2003年12月17日(水)

「・・だれも神の恵みから落ちるものがないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」(ヘブル12:15)

家庭菜園を作ったり、綺麗な花の種を蒔いた
事があるだろう。出来上がった野菜の収穫や美
しい花を見るのは楽しいものだ。
しかし、雑草抜きが大変で、絶えず雑草抜きに
追われる。育てた事のある人は経験があるだろ
う。雨が降ると雑草もどんどん育つのだ。
雑草の中には可愛い花をつけたものもある。
取っておきたいようだが、雑草をおいておくと、
肝心の作物や花を枯らすのだ。
養分がそちらに行ってしまう。雑草は抜かねば
ならない。私達の心に、敵意、嫉妬、憎しみ、
苦い思いが生えて来る時、そのままにしてはな
らない。抜き取らなければ実は結べない。
無害に見えるこの世への愛情や執着も抜き取る
必要がある。霊的成長を妨げられる。


2003年12月16日(火)

「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」(ルカ10:42)

最近、コンビニだけでなく、スーパー
マーケットでも二十四時間営業ができて
いる。人々は忙しく、二十四時間を目一
杯使っているようだ。私達の精力を使い、
欲望を満たすために追い立てられている。
この世の成功、賞賛、地位、名誉、果て
しがない。いつも私達は駆り立てられて
いる。何かをしていないと不安なのだ。
多忙だと安心する。動き回っていると心
が納得するのだ。何かをするために常に
追い立てられている。しかし、主は静ま
りなさい、座って私の声に耳を傾けなさ
いといわれる。忙しく動き回り、ますま
す仕事を増やし、思い煩いやストレスも
増すばかりだ。何が大切なのか。
主の御前に静まり、主と共におる時間を
取ろう。


2003年12月15日(月)

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには耐えず目をさましていて、すべての聖徒のために忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」(エペソ6:18)

ある人がある時、一人の姉妹のことが強く
心に思われた。姉妹の夫の会社が倒産し、小
さな子供達を抱えて大変なのではと。すると、
その集の婦人会で、その姉妹が親も病に倒れ、
大変な状況と胸の内の不安、思い煩い、恐れ
を涙ながらに語り、打ち明けた。その出来事
を通して、その時、その姉妹を強く心に思わ
せられたのは聖霊だと気づかされた。執り成
しの祈りをするように導かれていたのだと。
もし、あなたが本気で他の人のために祈る気
があるなら、聖霊は祈るべき人々を示される。
あなたは祈りのために用いられたいか。
自分をそのために献げるなら持ちいて下さる。
今日、誰のために祈るよう示されているか。


2003年12月14日(日)

「あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず・・かせぐ者がかせいでも穴のあいた袋に入れるだけだ」(ハガイ1:8)

バビロン捕囚の後、イスラエルの民はエル
サレムに帰った。しかし、神殿の再建とい
う重大な神のみこころをないがしろにして
いた。皆、自分の事に忙しくしていた。
種を蒔き、飲み食いし、稼いでいた。
しかし、第一のものを第一にしなければ、
何の実りもない。稼いでも稼いでも穴のあ
いた袋に入れるばかりだと。私達も生活に
虚しさを感じる事がある。懸命に働き日常
生活をするが、心が何も満たされない。
実りがないのだ。生活の多大な必要に追わ
れて、一番大切な神との交わりを後回しに
し、ないがしろにしているからだ。
生活の必要がどんなに大切であっても、神
との交わりに優先するだろうか。あなたは
どうか。穴のあいた袋に入れていないか。


2003年12月13日(土)

悪魔は・・真理に立ってはいません。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。彼は偽り者であり、偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)

私達は会話の中で巧妙な言い方をする
事ができる。言っている事は事実である
が、故意に少し隠して想像に任せたり、
全くの嘘ではないが、本当でもない灰色
の言い方をしたり、アブラハムがエジプ
トで妻のサラを王に妹だと言ったように。
嘘ではないが動機が間違っている。
真実をわざと黙っていて、後で都合が悪
くなった時、自分を正当化する道を作っ
ておいたりする。自分は言っていないと。
しかし、これらは偽り以外の何物でもな
い。詐欺商法などこれを巧みに使ってい
る。真実を事実を言っても動機が嘘をつ
く事なら何にもならない。すべて偽りは
サタンから来ている。サタンに欺かれて
罪を犯してはならない。
正しい動機で真実を語る者であるよう。


2003年12月12日(金)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)

「何も思い煩わないで」とも言っておられる。
そして、「明日のための心配は無用です」とも。
神を第一にしていれば、生活のすべての必要は
与えられると。私達は誰しも思い煩うものだ。
そして、将来に対する思い煩いは決してそうは
ならない。絶対にならないことを思い煩うとい
う愚かさを繰り返している。
私達の日々の不安や苛立ちの原因は何か。
対人関係、経済的な事、思い通りにならない物
事や人々、そのような事に気を取られてしまっ
て否定的な心で時間を過ごすのは何と愚かだろ
う。神に目を向け、祈り、御言葉を聞き、喜びと
感謝で日を過ごす事ができるのに。
恐れるな、思い煩うな、神を信ぜよと言ってお
られる主に、今日もしっかり目を向けよう。
心に喜びが宿る。


2003年12月11日(木)

『彼は言った「その人にあわれみをかけてやった人です」するとイエスは言われた「あなたも行って同じようにしなさい」』(ルカ10:57)


 ある人が強盗に襲われ半殺しにされた。
祭司が来たが反対側を通り過ぎた。次にレビ
人も同じようにした。彼らは関わり合いたく
なかった。自分にはすべき事があり自分の時
間、労力を奪われたくなかったし、面倒に巻
き込まれたくなかった。それで見てみぬ振り
をした。ところが敵であるサマリや人は状況
を見て取り見過ごす事ができなかった。
「かわいそうに思い」とは憐れみの心だ。
憐れみとは、同情心+行動だ。心で思うだけ
でなく実際に行ないが伴う。面倒を引き受け、
自分の時間と労力を献げた。
神の愛に動かされる時、私達も行いが伴なう
はず。良きマリヤ人である主が自分にして下
さった犠牲を思う時、敢えて自分も引き受け
たいと思う心。


2003年12月10日(水)

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり・・自分の宝は天にたくわえなさい」(マタイ6:20)

私達は見える世界にいるが、目に見えない
世界に生きている。それは神の国だ。
見えるものは一時的で、見えないものは永遠
に続く。どちらを見ているかで、私達の価値観
や信仰生活は大きく違ってくる。
天に宝を積むのか。地に宝を積むのか。富を
手にすると神の国のため福音のため、天に宝
を積む人もあれば、自分の欲望を満足させる
ために浪費してしまう人もいる。
夫婦がうまく行かない時、天を見て、自我に死
んで建て上げようとする人と、違う相手を捜そ
うとする人がいる。
困難や悩みへの対処も天と地ほどに違ってく
る。天を見ているなら主のゆえに喜んで忍耐
する。地の事だけなら不平不満怒りで一杯。
あなたは天を見上げているか、地の事だけか。
---------


2003年12月09日(火)

「ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道に歩いたのだったら。わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに」(詩篇81:13)


 神に従って歩めば幸せにすると言っておられ
るのに、イスラエルは神に従わず、自分勝手な
自分の思うままの道を歩んで行った。
それで神は、彼等を頑なな心のままに任せ自分
達の思い通りのままに歩ませられた。
神に従って歩むなら、満足と祝福を豊かに備え
て下さっているのだ。最良のものを与えて下さ
り、満ちたらわせて下さる。
あなたはどうだろう。神に従っているか。
自分勝手な自分の思い通りの道に歩んでいるか。
神を礼拝し、祈り、日々御言葉を食し、神のみ
こころの従って行くなら、私達の心を満たして
下さる。これらのものを拒むなら霊的栄養失調
になり、成長がない。神の言われる道に歩め。
必ず心に満足が来る。


2003年12月08日(月)

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません」(Tコリント10:13)


 人間には誰しも許容量がある。
それは人によって個人差があり、かなりの
プレッシャーに耐え得る人もいるが、人間
には必ず限界がある。限界を超えてしまう
と壊れてしまうのを神はご存知だ。
私達は困難や悩みに会う時、もうだめだ、
限界だ、耐えられないと思う。
しかし、神は私達の限界をご存知で、耐え
られない困難からは守って下さる。
だから、私達の前に来る試練は乗り越えら
れるのだ。試練や誘惑が来た時、神は私達
一人一人の能力と限界をご存知であること
を覚えよう。神は決して私達を見捨てられ
ない。失望落胆し、力尽きそうになる時、
絶対に見捨てず、逃れの道をも備えていて
下さっている神に拠り頼もう。
神は真実なお方。


2003年12月07日(日)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)

罪が赦されるなら、罪を犯してもよいのでは
ないか。善を現すために、悪をしようではない
かと言ってはいけないのか。
断じていけないと御言葉は言う。神は侮られる
方ではない。私たちは蒔いたものを刈り取る事
になる。罪は確かに赦されるが、傷跡は残る。
火の中に手を入れると火傷をする。
痛みはいつかとれるが、火傷の跡は残る。
告白する時、神は主イエスの十字架のゆえに
罪をきれいに赦して下さる。しかし、罪の結果
は刈り取る。精神的、肉体的傷を負うことにな
る。だから罪を軽く見てはならない。
罪と決して戯れてはならない。大きな痛手を負
う。罪には一瞬の快楽があるが、傷と後悔を残す。
罪の誘惑が来た時、神に頼り御言葉に立とう。


2003年12月06日(土)

「柔らかな舌は憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす』(箴言15:1)

調査機関がある調査をした。どのように
話しかけられたら、どのように応答するか
という実験だ。その結果、穏やかな優しい
口調で話しかけられると、穏やかに優しく
応答し、激しく怒鳴られると、きつい激しい
口調で対応するという調査結果が出た。
面談したり、電話だったり訪問先での応答
だったりどのケースにも一応に言える事だ
った。穏やかな舌はいのちの木とも記され
ている。どのように語るかで、相手の反応
を引き起こしてしまう。この御言葉に従うな
ら、多くの争いを避ける事ができる。
怒る人はひどい言葉を発してしまう。
それは相手をひどく傷つける。しかし、御霊
に導かれるなら、親切と温和、寛容で対応
できる。そこでせき止める事ができる。
柔らかに答えよう。


2003年12月05日(金)

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ6:7)


 神は祈りに答えて下さる。それゆえ求めよ
と言われる。神に求める事はみこころにかな
った事だ。しかし幾ら祈っても答えられない
祈りがある。
「願っても受け入れられないのは、自分の快
楽のために使おうとして悪い動機で願うから」
だ。動機はどうか探る必要がある。
また、「私たちが神の命令を守り、神に喜ば
れることを行っている」なら求める者は何で
も神からいただく事ができる。
「神の命令とは、私たちが互いに愛し合うこ
と」だ。あなたの祈りが聞かれないと感じて
いるか。神に喜ばれる事を行い、神に喜ばれ
る動機で祈っているか。自己中心な祈りをし
ていないか。心をよく探って、神のみこころ
にかなった祈りに導かれるように。


2003年12月04日(木)

『そこでピリポが走って行くと・・「あなたは、読んでいることがわかりますか」と言った』(使徒8:30)


 長年クリスチャン生活を送ると、多くの
クリスチャンが「習慣」に陥ってしまう。
習慣で礼拝に出席し、習慣で聖書を読む。
そこにはなんの感動もない。そうしていれ
ば心を安穏に保てるからかもしれない。
しかし、習慣なら何の意味もない。心が伴
なわないからだ。御言葉に自分が照らし出
されることもない。自分の真の姿を知るこ
とも、神を知って行く事もない。
霊とまことを持って主を礼拝し、自分の心
の内を照らし出されるように祈り、御言葉
を行おうとの真剣な態度で聞く時、必ず語
って下さる神に触れる。
漫然と聖書を読むのではなく、祈り心で御
言葉に向かおう。聖霊は必ずわかるように
助けて下さる。御言葉に生きる者となろう。


2003年12月03日(水)

『その時、カレブがモーセの前で、民を静めて言った『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから』(民数記13:30)

モーセは乳と蜜の流れる地、約束の地を
調べるため一十二人の斥候を送った。
十人は、ネルフィム人を見て、巨人に、自
分達はいなごのように見えたと恐れた。
現実ではなく、恐れと不安、思い煩いで誇
大妄想に陥った。しかし、カレブとヨシュア
の二人は賢く現状を見た。彼らは神を見
て、約束の地を見たので、だまされなかっ
た。神が約束を成就して下さること、神が
与えて下さった地であることを信じていた。
だから、是非とも上っていって占領しようと、
言う事が出来た。神は不安や恐れの不信
仰でなく、信仰に立つ人々を豊かに祝福し
て下さる。私達も信仰生活で悩み、問題と
いう巨人が目の前に立ちはだかる時、見
えるものに欺かれないで信仰に立とう。



2003年12月02日(火)

「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラリヤ6:2)

 ある主婦が小さな子供たちを抱え、家事と育児と
家業の仕事で疲れ果てていた。まだ授乳の末の子の
ため夜も何回か起き、睡眠不足と過労で心身ともに
倒れそうだった。そんな時に主にある友人達が善意
で様々な御言葉で奮い立たせようとしてくれたが、
返って、出来ない自分を責め、ますます落ち込むば
かりだった。こんな場合は、御言葉と共に実際的な
助けがどんなに役立つ事であろう。
子供を少しの時間見てあげるとか食事の一品でも差
し入れるとか、時間を取って、心の内の重荷を聞い
てあげるとか、少しでも重荷を軽くしてあげたらど
んなに良いだろう。それぞれ与えられた賜物と力に
応じて、重荷にあえいでいる人の荷を一緒に担う事
は何と祝福だろう。


2003年12月01日(月)

『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われた・・』(使徒20:35)



 どういうものが幸福感をもたらすかのアンケート
をまとめた機関があった。
それによると、夫婦がうまく行っている事、家族が
和やかであるという事、友人関係が楽しい事、自分
に価値があると感じる事、人生に目的があると感じ
る事、将来に希望がある事等の結果が出ていた。
御言葉によると、人に与えて行く時、自分も祝福さ
れるとある。幸福感はそこから来ると。
今日、あなたは周囲の人に何を与えることが出来る
だろうか。小さな事でよいのだ。
ちょっとした親切な行い、励ましの言葉、思いやり
の言葉、遠方の親戚や友に電話をかける事で良いの
だ。愛の行いは相手を励まし自分も喜びが与えられ、
御霊の実を結ぶ。あなたは何を与えるか。