2004年01月31日(土)

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:11)

夫婦間に問題が生じ、不本意ながら離婚を通った女性。誕生
日を迎えた時、涙がこみ上げた。様々な思いが募り、又、離
婚という事で自分を責め続けていた。耐え切れずに神に呼ば
わり、心の打ちのすべてを打ち明けた。その日の神は優しく、
しかしきっぱりと言われた。いつまで過去の失敗で自分を責
めるのか、と。罪をおおって下さった神の愛と赦しを受け取
ったのだ。過去にばかりこだわり、後ろ向きに生きていたの
が、未来を見て前に進む事が出来るようにされた。神の赦し
が用意されているのに拒んでいないか。私達の失敗や過失を
おおい尽くす、神の愛と赦しをあなたも受け取っているか。



2004年01月30日(金)

「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」(ローマ4:21)




 約束は信頼関係の中に成り立つ。親は子供に約束する。
子供は親が約束を守ってくれる事を信じている。
この世の親は弱いので、時に子供との約束を忘れたり、破
ってしまうが。夫婦関係も互いに誠実である約束を守り合
う事によって成立する。それが時に破られると、相互に深
い傷を負う事になる。弱い人間はなかなか約束が守れない。
しかし、神は違う。私達は真実でなくとも、彼は常に真実
である。彼にはご自身を否む事が出来ないからである。
アブラハムはその真実な神から約束を与えられた。
子孫を与えると。環境的には不可能な状況であった。しかし
彼は望み得ない時に、望みを抱いて、その約束を握り信じた。
神は決して裏切られず、果たされた。


2004年01月29日(木)

「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」(エペソ5:16)


 機会を十分に生かせと、パウロは言った。
悪い時代だからと。悪い時代は光を輝かせるチャンスだ。
周囲が暗ければ暗いほど光は輝きを増す。伝道し証しを
するチャンスだ。神はすぐに裁かれないので、悪がはび
こるかもしれない。苦しみがもたらされるかもしれない。
しかし、ヨセフの例が明らかなように、たとい人が悪意
から陥れたとしても神はそれをも良き事のための計らい
とされる。相手の悪意からすら益を産み出されるのだ。
すべての背後に、神のご計画がある。悪を恐れる必要は
ない。闇の中にこそ光は輝く。自己顕示、自己主張、自
己防衛、そんな中で自己に死んで行くなら神の光が輝く。
一つ一つの機会を逃さず、十分に生かして神に従おう。


2004年01月28日(水)

『だれが人に口をつけたのか・・さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう』(出エジプト4:11)

モーセはエジプトのパロのもとで育てられた。しかし、
仲間へブル人を守ろうと人を殺してしまい遠い地に逃
れた。一介の羊飼いとして長い時が経過した後、神は
モーセを民をエジプトから導き出す指導者として召し
出された。彼は尻込みしたが神は共にいることを約束
されたこんな力強い保証があろうか。ある婦人は子供
が手を離れた時、キリスト教施設で働くよう導かれた。
能力があるのか、出来るのか不安だったが、彼女の夫
が励ました「神が召されたのなら必要な力は与えられ
るよ」モーセは出エジプトを果たした。確かに神が導
かれたのなら、すべての必要は備えられている。先頭
に立って進まれる。何か、神から、せよと示されてい
るか。


2004年01月27日(火)

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのために、とりなしてくださいます』(ローマ8:26)



 試練が余りにも厳しい時、打ちひしがれてし
まって、どう祈ればよいかもわからない。
言葉が見つからないのだ。又、心が混乱してい
る時も、どう祈ってよいかがわからない。
心が整理できないから。しかし、このような時
にも、心配はない。主は私達の心をご存知でい
て下さるからだ。気持を言葉で言い表す事が出
来ない時も、主は私たちの言わんとしている事
をわかっていて下さる。
そして、御霊はそんな私達のために執り成して
下さるのだ。余りの苦しみや悲しみゆえに言葉
を発する事が出来なくても、主と心を通い合わ
せる事が出来るという事だ。なんと感謝な事だ
ろう。だから、どのような状況でも、神に近づ
け。答えて下さる。


2004年01月26日(月)

『「父がすいぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」という・・どうしたことか・・罪を犯した者はその者が死ぬ』(エゼキエル18:2)


 スーパーで万引きをする人が、自分でもわからないが
勝手に盗んでしまうのだと言った。強い衝動が来て、手
が勝手に動いてしまうと。しかし、これは偽りだ。
神は人間に自由意思を与えておられる。意志が与えられ
ているのだから、自分の罪に対して責任がある。
イスラエルも同様の言い訳をしていた。
自分達の罪は先祖のせいだと言った。しかし、神は、は
っきりとそうではないと言明された。悪い父親のために、
子どもが罰されることはないし、子供の罪のために、父
親が罰されることもあり得ない。自分の行いの責任は自
分にあると。弁解も言い訳も止めて、はっきりと自分の
罪を認め、告白する時、赦しの恵みにあずかる。
それが責任を果たす事だ。



2004年01月25日(日)

「私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです」(詩篇119:47)

 あるクリスチャンが聖書通読を日課にしていた。
一年で旧約を通読する事を目標に、日々励んでい
た。ある時、来客が続き大変忙しい数日を過ごし
た。宿泊の世話をし、食事を整え、歓談の相手を
し、掃除に買い物、自分の時間など全く持てなか
った。イライラしている自分を見出した。通読の
時間を奪われ腹を立てていたのだ。主が心を照ら
し出して下さって感謝だった。何のための通読か。
通読のための通読になってて、動機が間違ってし
まっていた。御言葉に照らしだされ、神のお心を
知り、自分が変えられて行くように、神のメッセ
ージを受け取る事が目的でなければならない。そ
うするなら神のお心に触れ、新たにされ、造り変
えられる。


2004年01月24日(土)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)

 ガラスを作る行程を見たことがあるだろうか。高
温の熱い炉の中に溶けたガラスを棒の先につけてク
ルクル回しながら形を造って行く。隣のショップで
出来た製品を販売していた。一つ一つが形も色合い
も皆異なって美しい。数百数千種類のガラス細工が
あるが、皆微妙に違う。それぞれが綺麗で、見事だ。
私達も同様に神の御手で造られた。一人一人が独自
で独特な作品だ。同じ物が一つとしてない、各自が
神の素晴らしい作品なのだ。一人一人がユニークで
かけがえがない。神の御手の中でそれぞれの賜物が
最大限に開花され、一人一人が神の栄光を現してい
く。遣わされた場所で神に従え。この世界であなた
だけにしか出来ない働きがある。独自の存在。


2004年01月23日(金)

「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:24)



 小学生の頃、放課後によく校庭で遊んだものだ。
ドッジボールや、キックボールをして。高い棒柱を上がる
競争をして、途中で手が滑ってしまった。勿論競争には負
けたが「手が滑ったのだから今のはファウル。もう一度や
って」「もう一度なんて無いよ」と言われた。
感謝なことに信仰の行程はこうではない。神はもう一度や
り直させて下さるのだ。失敗し、挫折し、倒れる時、神は
何度も何度もやり直しを認めて下さる。
常に新しく生きる機会を下さる。失敗しては、悔い改め、
もう一度立ち上がらせて下さる。それゆえ私達は失敗して
もまっさかさまに倒れはしない。常に立ち直る機会を下さ
っている。神の憐れみは日毎に新しい。


2004年01月22日(木)

『イエスは・・「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた・・そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった』(ルカ5:4)


 
夜通し働いて、一匹の魚もとれなかったペテロは心身共
に疲れ果てて、ヘトヘトでクタクタだった事だろう。
そのペテロがもう一度漁をせよと言われた時、心中どうだ
ったろう。面倒で、しんどいと思っただろうか。
プロの自分が漁をして獲物が無かったのに、との思いがあ
っただろうか。しかし、確かな事は大漁の奇跡が待ってい
た事だ。ペテロは自分の思いを置いて、主の言葉に従った。
すると奇跡を見た。私達も働きが徒労に思える時、何の実
も無いと疲れる時、主は深みに漕ぎ出せと言われる。
主に信頼してそのようにするなら、主のみわざを見る。
主の示される御言葉に従うなら大きな祝福を刈り取る。
あなたも一歩前進を言われていないか。


2004年01月21日(水)

「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように」(申命記32:11)

 親鷲は、ひなに飛ぶ事を教えるために、わざとひ
なを巣から突き落とす。ひなは真っ逆さまに落下、
しかし、地面に追突する前に、親鷲がひなの下に入
り込み、羽に乗せて巣に連れ帰る。これを何度も繰
り返す中で、ひなは飛ぶ事を学ぶ。ひなは最初大変
な恐怖に違いない。しかし、親鷲の守りと支えの中
で、自分の翼を使う事を学ぶ。そして、大空を駆け
上る事が出来る。もし、ひなが恐れて巣の中に留ま
り続けたらどうだろう。翼は使われる事なく、大空
を知らないままだ。私達も自己満足という巣にとど
まっていないか。神が新しい世界に導き出そうとし
ておられるのに、恐れてて躊躇していないか。神に
従って、自己満足の巣から出て、はばたこう。


2004年01月20日(火)

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから』(イザヤ41:13)


 鬱の病を持つ婦人、神に出会い、神に助けを求めた。
極度の不安と恐れで、家から出られず、人にも会えず、
家事もできなかった。
しかし、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」との
御言葉を握り、神に信頼を置き、必要な事をして行っ
た。すると、少しつづだが、出来なかった事が出来る
ようになった。神への信頼がさらに強まり、一つ一つ
の行動を祈りつつ、神に頼ってやって行った。
その中で少しずつ鬱の症状が軽くなって行った。勿論、
神は薬も用いられるが、神に頼る事が大きな心の平安
をもたらした。神への信頼は喜びをも、もたらし、希
望へと導く。神は助けて下さる。あなたの右の手を取
っていて下さる。




2004年01月19日(月)

「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた」(マタイ25:4)



 十人の娘のうち、五人は賢くて、五人は愚かだった。
その違いは予備の油を持っていたかどうかだった。
花婿が来た時、賢い娘達は予備の油で迎える事ができた。
愚かな娘達はいざ花婿が来た時にはもう燃え尽きて油が無
かった。分けてくれと願ったが、分けるまではないと断ら
れた。
最初この箇所に出会う人は「分けてあげれば良いのに」と
思う。しかし、利己的なゆえに分けなかったのではない。
花婿のために、本来の役目を果たすため、神の働きのため
だ。容量以上の人助けのために、神のみこころをそれては
本末転倒だ。要請のすべてが必ずしも神のみこころではな
い。神から召されている働きをしっかり見分けて断らなけ
ればならない要請も見分けられるよう。


2004年01月18日(日)

「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた」(マタイ25:4)

 10人の娘の内、5人は賢くて、5人は愚かだった。
その違いは、予備の油を持っていたかどうかだった。
花婿が来た時、賢い娘達は予備の油で迎える事ができ
た。愚かな娘達は、いざ花婿が来た時には、もう燃え
尽きて油が無かった。分けてくれと願ったが、分ける
まではないと断られた。最初この箇所に出会う人は「
分けてあげればよいのに」と思う。しかし、利己的な
理由で分けなかったのではない。花婿のために、本来
の役目を果たすため、神の働きのためだ。容量以上の
人助けのために、神のみこころをそれるなら、本末転
倒だ。要請のすべてが必ずしも、神のみこころではな
い。神から召されている働きをしっかり見分けて、断
らなくてはならない。要請も見分けられるように。


2004年01月17日(土)

 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)

 もしキリストがこの世界に来て下さらなかったら、
私達は闇の中に置かれたままだ。闇の最大の特徴は、
それが闇であることがわからない事だ。光があって初
めて闇であることがわかる。家が暗いと、ほこりだら
けでもわからない。何の問題もなく、きれいに見える。
しかし光が射すとほこりまみれであることがわかり、
綺麗に掃除することができる。私達の内側も同様だ。
万事問題無しと、自己満足に陥っているなら、真の状
態、ほこりまみれの状態が何一つわからず、何の成長
もない。主は私達を愛しておられるので、必ず汚れや
罪を照らし出して下さる。心の底ではわかっているが、
見ない振りをしているか。逃げて避けているか。真正
面から直面して、認める時、平安が来る。成長がある。
信仰に前進して行く。


2004年01月16日(金)

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(Tサムエル16:7)



 良い子で頑張って来たある女性は、勿論罪人である事は認
めるが、そんなにひどい罪人ではないとしか思えなかった。
よく勉強したし、小さい頃から母の手伝いを一生懸命にした
し、友人達にも親切に接して来た。皆からも良い子と言われ
続けた。外側で自分も欺かれてはならない。
内側は罪だらけだ。怒りを沸騰させ、人を憎み、外側は良い
子でも内側は罪だらけだ。聖霊の導き、促しを何度無視した
事だろう。なおざりにし、従わない不従順、不平不満、まし
な罪人などと、とんでもない。神は外側は見られない。
あなたの心を見ておられる。この汚れた心をきよめて下さる。





2004年01月15日(木)

「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコ14:36)



 ある人がある時、非常に困難で重要な問題に直面した。
それについて祈り続けた。しかし、何の答えもなく、尚も
祈り続けた。祈りの手応えが感じられず、神に届いていな
いように思えた。なぜ?どうして?愛して下さっているの
はわかっているが、事態が真っ暗なままで、何の進展も無
かった。祈り続けていた時、自分の思い通りになるように、
自分中心に求めていた事に気づかされた。
その時から祈りが変わった。自分の思いでなく、神のみ思
いがなるように神のみこころがなるようにと変えられた。
その時、まず自分の心が変えられ、思い煩いが消えた。
神は最善をして下さるとの平安に満たされた。
そして事態は解決に導かれた。



2004年01月14日(水)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:24)


 高齢の独り身の女性が、施設に入らず、自分の家で生活を
している。一日の生活についてよく考え、一日単位で生きる
事に決めている。明日は思い煩わず今日一日を生きる事に心
を定めるのだ。必要な買い物、支払い、掃除洗濯を一つ一つ
祈りながら主の助けと支えの中で行って行った。
そして、何よりも尊い重要な奉仕を行なう。執り成しの祈り
だ。これが彼女の一番大切な仕事だ。毎日多くの時間をこの
祈り献げる。牧師のため、教会の働きため、病気の兄弟姉妹
のため、海外宣教師のため、祈り続けた。これが彼女にとっ
て神様が与えて下さった残された生涯の働きだと確信してい
る。一日一日を神に頼りつつ生活し、祈る事で喜びで満たさ
れている。


2004年01月13日(火)

「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(ルカ24:30)


 エマオの途上の物語は有名だ。十字架で死なれた
イエスを見て、失望落胆した弟子達がとぼとぼと郷
里へ向かう。そこへイエスが近づき話しかけられる。
彼らにはイエスだとわからない。イエスは御言葉を
さながらで解き明かして下さる。弟子達はなぜか心
が燃えて来るのを感じる。
しかし、尚、それがイエスであるとはわからない。
目が開かれる必要があったのだ。感謝な事に、主は
弟子達の目を開いて下さったように、いつも私達の
目も開こう開こうと働いて下さるのだ。
この主の働きがあるから、私達は悟ることが出来る。
聖霊によって発想の仕方、物の見方、考え方が変え
られる必要がある。でなければ霊の事は決してわか
らない。求める者に与えて下さる。


2004年01月12日(月)

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」


 ある人は深酒を止められないでいた。クリスチャンになって
この習慣を止めたいと何度も断酒した。しかし、誘惑が来ては
又すぐに元に戻ってしまった。祈り続けて、少しの間は断酒で
きるが、どうしても又、手をつけるのだった。
その戦いに悶々としていた時、御言葉から「汚れた霊が人から
出て行って・・休み場が見つからず、出て来た自分の家に帰ろ
うと、帰る家はあいていた」断酒して「あいている領域」があ
る。空いている所がそのままになっているのが問題だと気づか
された。そこを御霊に支配していただくこと、御言葉で、祈り
で、賛美で満たす事だと教えられた。それを生活の中で実行し
て行った時、誘惑に打ち勝つ事が出来たのだ。


2004年01月11日(日)

 「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Tペテロ2:23)

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって
悪に打ち勝ちなさいと言われる。敵を愛せよと言わ
れた主は、非難や攻撃、迫害し傷つけて来る人々を、
すべての事を正しくご存知である御父に委ねて行か
れた。そして、心安らかにおられた。敵を愛し祈る
代わりに、何倍もの報復をし、非難し、攻撃に向か
って行く。証しを台無しにしてしまう。自分を愛し
てくれる人を愛するのは簡単だ。誰にでも出来る。
しかし、敵対する人に出くわす時、私達は試される。
それは私達の成長の機会だ。祈りを学び、愛する事
を学び、仕えることを学ぶ事ができる。人格が練り
きよめられ、一段階成長する。自分にできない事を
まず認め、祈りによって神により頼むなら、学べる。


2004年01月10日(土)

『神には約束されたことを成就する力があることを固く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです」(ローマ4:21)

様々な事柄は約束から成り立っている。夫婦の間は貞
節と誠実を互いに守るという約束の上に成り立っている。
国家間の安全も安全保障条約の約束の上に成り立ってい
る。人間同士の約束は、時に破られる。夫婦間の約束は
破られ、離婚に至ってしまう。国家間の約束は破られ、
戦争になる。しかし、絶対に約束を破られない方が一人
だけおられる。アブラハムはその神の真実を知った一人
だった。望み得ない時に望みを抱いて信じた。一見不可
能な現実を見ても、その信仰は弱らず、ますます神を信
じた。約束を成就する力があることを。そして彼はその
約束の子イサクを得たのだ。神の約束を通して現実を見
るなら、どんな時にも希望がある。約束は必ず成就され
る。


2004年01月09日(金)

『私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます・・あなたの道に私の目を留めます』(詩篇119:14)


私達は神のみこころに歩みたいと思っている。そして、
神の導きを求めると言う。しかし、その導きを求める
ために、主の御前に決して静まろうとしない。
御言葉を開いて神が教え、導き、語りかける御声に耳
を澄ます時間をとろうとしない。神の導き、答えも知
りたいが、神のとの交わりの時間を取るのが面倒なの
だ。神の答えを得るために、祈る時間を取らない。
多忙との理由と言い訳で一生が過ぎてしまう。神は語
らせる時間を取る者に御言葉から語りかけて下さる。
神に時間を提供しなければ、何も始まらない。
目の前の事に追われて本末転倒になっていないか。
神は、祈り御言葉を開いて聞こうとする者に導きを与
えて下さる。


2004年01月08日(木)

『主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに私はあなたのために備えをし、見張りをいたします』(詩篇5:3)




高齢の、長年、主と共に歩んできた一人の婦人は、
早朝に起きて、主と交わる事を日課としていた。
それは彼女の一番の喜びであった。朝のはじめは
主と共に一人だけでおるのが好きで、長い間の習
慣でもあった。主との交わりなしには、一日のす
べてが狂ってしまうと言う。高齢であるに関わら
ず、身体は元気で、まだ多くの仕事をこなしてい
た。家事や菜園の世話に庭の手入れ、多くの雑用
があった。しかし、彼女はいつも微笑んでいて、
焦っているようにも見えなかった。いつも平安で、
肯定的で、前向きの秘訣は、朝まず主との交わり
の一時にあった。優先順位が狂うと、すべてが狂
ってくる。あなたの今日の優先順位はどうか。


2004年01月07日(水)

 『イエスは彼らに言われた『わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です』(ヨハネ4:34)

主はみこころを行う事が食物だと言われた。
又、私はみこころを行うことを喜びとします、
とも言われた。私達がみこころを行うときの
態度はどうだろう。まずみこころを真剣に求
めているだろうか。都合の悪い、好きでない
御旨ならどうだろう。御旨がわかっていても、
聞いていない振りをしたり、又、なおざりに
したり、嫌々従っているだろうか。ぐずぐず
と中途半端にするので、喜びも気力も失せて
しまう。もし真剣に神のみこころを行おうと
していたら、どんなに祝福だろう。神のみこ
ころを行おうと願うなら、その人には、この
教えが神から出たものかが・・わかるとも言
われる。御旨を行うなら神ご自身がわかると。
神を親しく知って行く。


2004年01月06日(火)

『互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい』(ガラテア6:2)



 霊的にダウンしている人や、困難、悩みにある人、許容量オーバー状態にある人々に対応する時、励まして、しばしば失敗する事がある。責められていると感じてしまうのだ。出来ない状態で、尚頑張れと言われていると。またさばかれていると感じてしまう。ダウンしている時はそんなふうに取ってしまう。そんな時は実際的に荷を軽くしてあげるのは良い事だ。育児で疲れ果てた母親に、子守りをかって出たり、体調の悪い主婦のために、家族に食事を差し入れたり、精神的過重状態にある人に聞き手に徹して話を聞く。あなたを必要としている人に、あなたが出来る事はなんだろう。実際的なことで助け、荷を担おう。それが励ましとなって、心が慰められる。


2004年01月05日(月)

『イエスは答えて言われた「この水を飲むはだれでも、また渇きます。しかしわたし与える水を飲むものはだれでも決して渇くことがありません』(ヨハネ4:14)

 この世界には、魅力的なものが多くある。
自然や美術、音楽、美味しい食べ物、スポー
ツ、映画や劇場、趣味のサークル・・様々な
楽しみがある。それらにより快適な心地よい
時と気分が与えられるかもしれない。しかし、
それらは完全な心の満たしを与えることは出
来ない。次々とそれらを求めて行っても、絶
対に真の満足はやって来ない。常に心は不満
だ。この世の楽しみの井戸から幾ら飲んでも
必ず渇く。クリスチャンでも神から離れた生
き方をすると、心が渇いて満たされない。し
かし、決して渇かない水がある。主との親し
い交わりの中で、主と共に歩み、主のために
生きることだ。そうするなら、渇きは癒され、
心に溢れる喜びが沸き上がる。満足がある。


2004年01月04日(日)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)

あるスーパーのレジの女性店員がいつもにこやかで、明るくて親切で、生き生きとしていた。無愛想でつっけんどんな態度は見た事がなく、いつも笑顔で対応していた。ある時、レジが混む中、老婦人のお金が足らなかった。すると、彼女は嫌な顔一つせず、丁寧に親切にテキパキと控えればよい品物や値段を提示した。余りの感じ良さに、老婦人は次回の買物でも礼を述べ、なぜいつもそんなに嬉しそうなのかと尋ねた。クリスチャンである旨を伝え、簡単な証しができた。「主に対してするように心からしなさい」彼女はこの御言葉を実行していたのだ。彼女の行ないは毎日の大勢の人々への証しになった。主と共に歩み、御言葉に生きるなら力強い証しとなる。


2004年01月03日(土)

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣り人に対して真実を語りなさい」(エペソ4:25)

時々、親はイライラして子供を叱りつけてしまう。教育上の叱責ではなくて、自分のイライラを叱責にかこつけて発散させている事がある。私達は完全ではないのだから、必ず失敗するものだ。しかし、失敗をした時悔い改めて、相手にも謝るなら、それは神の前にも、人の前にも真実だ。間違った時には、悔い改める事ができる。
子供は親の口先だけではない、行動を伴った言葉によって教えられて行く。態度が真実であり、言葉が真実であるべきだ。子供にも、又、すべての対人関係においても、真実である事が何よりの証しだ。常に正直であり、自らの現実の姿を認め、神の御前に立つなら、真実である事ができる。正直にありのままの自分を認めることだ。


2004年01月02日(金)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)

よく聞く話だ。コップに水が半分入っているのを見た時、一人は、
まだ半分もあると思い、もう一人はもう半分しかないと思う。物
事を肯定的に考えようとするプラス思考は良いことかも知れない。
人生を楽観的に見れるかも知れない。しかし、御言葉は、聖霊の
与える喜びは心の奥底から湧き上がると言っている。泉のようだ。
底がない。幾らでも絶える事なくどんどん湧き上がる。内側から
だ。つまり外側によらないという事だ。ハピーな事、ラッキーな
事があると人は喜ぶ。しかし、外側に何の良い事がなくとも、主
に在って喜べるし、喜びが与えられるという事だ。何という幸い
だろう。単なるプラス思考や楽観主義でなく、喜びは聖霊による
ものだ。


2004年01月01日(木)

「羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」(ルカ15:4)

ある青年のリーダーが一人の非行に走った少年を導いていた。
彼は反抗的で屈折していて、手を焼いた。どうにも出来ない
と感じ、しばらく遠のいていた。そんなある時、大切な小物
をなくしてしまい、家中を隅から隅まで、何度も何度も捜し
続けた。家具の下や裏や、ありとあらゆる所を捜し回った。
大事な持ち物を捜す真剣さと熱心さを思った時、主のお心を
思った。主はどんな思いで一匹の羊を追いかけておられる事
だろう。遠のいていた少年への主のお心を思った。大切な主
の魂だ、諦めかけていたその少年を再度主のもとへ導く事を
忍耐を持って続けた。やがて彼は主を受け入れた。私達も神
のお心にあずかれるように。