2004年02月29日(日)

「機会を十分に生かして持ちなさい。悪い時代だからです」(エペソ5:16)

機会を十分に生かせと、パウロは言った。悪い時代だからと。悪い時代は光を輝かせるチャンスだ。周囲が暗ければ暗いほど光は輝きを増す。伝道し、証しをするチャンスだ。神はすぐに裁かれないので、悪がはびこるかもしれない。苦しみがもたらされるかもしれない。しかし、ヨセフの例が明らかなように、たとい人が悪意から陥れたとしても、神はそれをも良き事のための計らいとされる。益とされる。相手の悪意からすら益を産み出されるのだ。すべての背後に、神のご計画がある。悪を恐れる必要は無い。闇の中にこそ光は輝く。人々の自己顕示、自己主張、自己防衛、そんな中で神は先頭に立って進まれ、光を輝かせられる。神が働こうとされている機会に出くわしているか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
真っ暗闇の中にこそ、光がますます輝きを増す。光を輝かせる機会が沢山ある。非難される時、敵対される時、悪口を言われる時、理不尽な目に会う時こそ、キリストの光を現わす機会だ。自我に死んで、キリストのお心を現わそう。





2004年02月28日(土)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ33:3)

心に悩みがある時、解決が必要な時、進路の導きが必要な時・・色々な時にぴったりのメッセージやデボーションでの御言葉、兄弟姉妹からの助言を受ける。自分が求めていた答えであり、指針でありパズルがピッタリはまるように、見事に問題が解き明かされた経験があるだろう。それは、神が私達に関与して下さっている事だ。私達に目を留め、手を差し伸べて下さっていると言う事だ。何と嬉しい事だろう。悩み問
題が押し寄せる時、神に祈れ。神のところへ持って行け。日常の様々な事から答えを下さる。説教だったり、ある人の証しだったり、学びを通して、交わりを通して、どこからからでも神は語られ、答えが来る。祈り、耳を澄ましていよう。
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神は求めるなら、答えて下さる。何がどうなっているのか、わからない暗闇の時も、祈り続けるなら、もつれた糸が解きほぐされるように、解き明かして教えて下さる。神が教えようとして下さったこと、砕こうとして下さった自我がわかる。


2004年02月27日(金)

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(ヨヘネ15:2)



 私達は最初、主に出会い救われた時、喜びに溢れる。神の愛の素晴らしさを始めて知り、救いの喜びと平安を経験する。信仰生活を送るうちに、そのうち段々、自分の内に変えられなければならない癖や古い習慣に気づく。自分の内のプライドや嫉妬、虚栄心や自己憐憫に気づく。根強いこれらの古い性質を、神は少しづつ少しづつ刈り取って下さる。焦ることなく、神に自分を委ねていると、祈りや御言葉を通して神は導かれる。また、様々な状況を起こされ、環境の中で試練を与え、導かれる。痛い、辛い、苦しい事を正しく受けとめるなら、余分な不必要なものを砕かれる。痛みを受け止めよ。それを通して神は造り変えて下さる。
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実を結ぶ者とされるために神様は私達の刈り取るべきところを知らせて下さる。しかし私達は古い自分をつかんで放せない。放せないからいつも苦しい。神様の刈り込みにすべて任せて行けますように。


2004年02月26日(木)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり」(エレミヤ29:11)


 
 ある婦人が、自分の生涯も、自分の所有物も、自分の心もすべてを神に明け渡したいと、献身した。生涯みこころのままでよいと、神に同意した。その直後の事だった。夫が倒産したのだ。自分が献身したからか?神に祈っていた時、神のお心がわかったいや、そうではなく、夫の倒産をすでにご存知の神は、それに備えようと、献身の恵みを与えて下さったのだと。恵みは素晴らしく貯えも無く収入も無くなったが、信仰与えられ、心が主の平安で守られた。夫を励まし助けるために用いられたのだ。信仰の通りにしばらくして職が与えられた。厳しい試みであったが、通った後、強められたと感じた。神のなさる事に間違いは無い。
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神様はいつも最善をして下さる。さまざまな試練の取り扱いの中で、また振り
帰ってみて、その時に神様が働かれている事を知る。感謝だ。


2004年02月25日(水)

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終える・・」(使徒20:24)

ある学生のクリスチャンが成績が思うように伸びず、悩んでいた。級友達は皆よく出来る。劣等感に落ち込んでいた。自分はだめだと気落ちしていた。そんな時、学校行事でマラソン大会があり、神に祝福を祈って参加した。その日は体調が少し悪く、やはり途中から不調になり、どんどん抜かれて行った。やっぱり自分はだめだと、がっかり落胆していると、神が語りかけて下さった。あなたは人との競争を走るので
はない、私が与えた人生のコースを走り抜くのだよ、と。自分は神ではなく人ばかり見て、人との比較の中で生きている事に気づかされた。人と比べて落胆し、また、優越感に浸り、全く的はずれな生き方だ。横ではなく上を見上げ、私の行程を走るのだ。
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常に人と比較して、優越感と劣等感の間を入ったり来たり、人がどう思うかが絶えず気になり、心では人の賞賛を求めている。人が神であり、平安も確信も無い。神が与えて下さった私の行程がある。私へのみこころに従うこと、神と私で見て行く時に喜びと安堵を経験する。




2004年02月24日(火)

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵対することがわからないのですか世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」(ヤコブ4:4)

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵対することがわからないのですか世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」(ヤコブ4:4)


 欲しがっても自分のものにならないと人殺しをし、羨んでも手に入れられないと争い戦う。自己中心、自分を守ろうとする事は邪悪な行いの原因だ。自分の欲求が満たされないと、プライドが傷つく。プライドが傷つくと、自己防衛の態勢に入り、相手に仕返しするのは正当だと思うようになる。しかし、それはとりも直さず、神に敵する行為だと言う。相手の人間でなく神を敵に回すことになるのだと。信仰の正反対だ。何か問題が起こり、いら立ったり、怒ったりしている時、自分の内側の何に触れているのか。プライドか虚栄心か嫉妬か、聖霊に心を照らされて、正しく導いていただこう。神を信頼して生きていく時、<互いの栄誉>ではなく神からの栄誉を求め出す。
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世の中からの栄誉を欲しがっているかぎり、際限なく心は乱される。人と競うのではなく神様の側に立っていよう。自分ではふらついてしまうが決心して選べば神様が守って下さる。


2004年02月23日(月)

「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです」(ヤコブ3:16)



 喧嘩や争いが起こる時、争いそのものより、見えない心の奥底に隠されたものがある。人目には隠した動機がある。人知れずある人をねたましく思っていたり、又、日頃から敵対心を抱いている相手があったりすると、心の底に対立がすでに生じているので、何かのきっかけがあれば、争いや問題を引き起こしてしまう。まず心の中にあったものが表面化したわけだ。起こる表面的な問題や争いを解決しようとするなら、心の中にある原因を探る必要がある。ねたみや敵対心という心の中の罪が問題なのだ。それを神様に対処していただく必要がある。心に悪い思いがあるなら必ず態度や行動に現われてくる。問題が起こる時、自分の行動の動機を聖霊様によく点検して頂こう。
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人知れず持っているかくれた罪は、きっかけ次第で大手を振って表に出てくる。被害者のようで実は加害者であったりする。罪は複雑にならぬうちに気づけるように、そして神様に明け渡そう。


2004年02月22日(日)

「主はその愛するものを懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい」(ヘブル12:6)

神は人生の中で試練を与えられる。時に、わけがわからず、どうして?なぜ?と戸惑う事もある。神は益として下さるが、目の前の事態がどう益になるのかがわからない。見えるところだけを見て、状況を見ている限り、理解が出来ない。しかし、そんな時は、神に焦点を合わせる事だ。神はどのように見ておられるのか。神のお心は?御言葉はどう言っているのか。そして、祈りによく時間をかけることだ。神の御声に耳を傾け、神と交わる事によって、神のお心がわかってくる。神に焦点を会わせて見出すと、新たな視点に立てる。状況を信仰の目で見る事が出来る。神からの試練として受け入れる事が出来る。そして、多くの事を学ぶ事が出来る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
試練は痛いが多くの事が学べる。振り返ると必ず感謝!試練でしか学べない事が沢山ある。神様に焦点を合わせない限りわからない。自分を中心に見ているなら自己憐憫と愚痴、不満のみ。何も学べずただ痛いだけ。そうありたくない。神様を知りたい。


2004年02月21日(土)

「この民は、口先でわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」(マタイ15:8)

小さな頃、兄弟喧嘩をした経験があるだろうか。親が
介入して来て、双方に「ごめんなさい」を強要して、
無理やり言わされた事はないか。親に叱られるのが恐
いので、しぶしぶ「ごめんさない」を言い合う。しか
し、親の姿が見えなくなった途端、又、喧嘩。口先だ
けの謝罪は心と態度を変えることは出来ない。私達が
悔い改める時、心で悔い改めず、口先だけならこれと
同じだ。真の悔い改めは態度と行動の変化を生む。口
先の悔い改めと、心からの悔い改めの相違だ。あなた
の生活は、悔い改めにふさわしい実を結んでいるだろ
うか。聖霊に導かれた悔い改めは、必ず私達を変えて
行く。そして、成長へと導かれる。


2004年02月20日(金)

「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は右に行こう」(創世記13:9)


 アブラハムとロトの牧者に争いが生じてきた。土地が狭かった。
それで、アブラハムは、まずロトに選ばせた。ロトが選んだ残りの方を
自分は取ろうと。アブラハムはなぜそのように寛大になれたのか。それ
は神を信頼していたからだ。自分で、自らの得になるように行動するの
ではなく、何もかもを神に任せて、神の支配を信じたのだ。ロトは見た
目に最良の土地を選んだに関わらず、神はアブラハムに、あなたが見渡
しているこの地全部を永久にあなたに与える、と言われた。
神を信頼して、自分のすべてを委ねて生きる人は、自分の利益に固執し
ない。ただ神を信頼するばかりだ。神が与えて下さるもので満足してい
る。何という平安。自分で自分を守っているか。



2004年02月19日(木)

「恐れてはいけません・・まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子供たちのために・・」(T列王17:13)



余っている物を与えるのは簡単だ。自分は全く痛まない。余分に
ある物だから。そして、沢山の物を持っている時は、神を信頼す
る必要がない。やもめは正反対の状態だった。飢餓のまっただ中
で、食糧がそこ月、最後の一握りの粉でパンを焼き、子供に食べ
させて、死のうとしていた。エリヤはその最後の粉を求めた。
まず自分のためにパンを焼くようにと。そうするなら、かめの粉
は尽きる事がないと。やもめはそのように従った。子供に食べさ
せて死のうとしていた最後の粉を献げた。すると、奇跡が起こり、
飢餓のまっただ中で、かめの粉が尽きる事はなかった。神の御声
を聞いたなら、従え。そこに奇跡が待っている。生ける神を知る。
神を信頼せよ。


2004年02月18日(水)

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、屈辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Uコリント12:10)

弱さこそが、神がご自身の御力を現す事の出来る土壌だ。だから、パウロは自分の弱さを誇ると言った。弱さの中で神に拠り頼む時、その弱さが主の臨在でおおわれるということだ。何という恵みだろう。だから、弱さは何の障害でも問題でもない。神の力が働く大きな恵みだ。それゆえ、私達のする事は、神の御声に応答し、従う事だ。それがすべてだ。自らの力量は何の問題もない。どんなに不完全で、弱くて、何の取柄もない者であっても、何の問題もない。神はすべてご存知で召し出しておられる。必要な力はすべて神から来る。今、新しい領域に前進するように導かれているか。神は用いて下さる。勇気を出して一歩前に進もう。



2004年02月17日(火)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(Uコリント12:9)




 就職試験の時、わたしはあれが出来ず、これが出来ず、何の
取柄もないといえばどうだろう。不合格は間違いない。
しかし、神の世界では正反対だ。弱い事が用いられる条件だ。
弱さは謙遜へと導いてくれる。逆に強さは気をつけなければ高
慢への誘惑となる。モーセがもし弁の立つ人だったらどうだろ
う。自らの弱さのゆえに神に頼る必要など無く、自分の力で行
けたかもしれない。弱さは最大に恵みだ。謙遜にしてくれるし、
神に拠り頼める。そこに神の力が働く。言語障害のある説教者
のメッセージを聞いた事がある。集中してよく聞かないと聞き
取れない箇所があるが、しかし、聖霊がすばらしく働かれ、人
々の心に訴え大きな恵みと祝福を人々に与えていた。




2004年02月16日(月)

「あなたがたが断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか・・食べるものも飲むものも、自分たちのためではなかったか」(ゼカリヤ7:5)


 ベテルの人々は七十年間忠実に第五の月と第七の月に断食
していた。一人の従者が、これらの断食を続けるべきかどう
かを尋ねるために、エルサレムの祭司達のもとへ来た宮は再
建の途上で、この事について神の御心を求めていた。
その時、神は「あなたがたは、わたしのために断食したのか。
自分達のためにではなかったのか」と答えられた。私達が神
のために何かをする時、奉仕であれ善行であれ、献げる事で
あれ、その動機はなんだろう。自分の栄光と賞賛のためか、
自己満足か、義務感か。神はご存知だ。その事はわたしのた
めにしたのか、それとも自分のためかと、問われている。
動機をよく探ろう。




2004年02月15日(日)

「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる」(箴言5:21)

ある人がカウンセリングのセミナーに誘われた。気は全く乗らなかったが、友人に強く誘われ、押されて参加した。実は今の状況に行き詰まりを感じ悩んでいた。そのコースの中で、生い立ちを書き綴るという時間があった。家族との思い出、楽しかった事、悲しかった事、嬉しかった事、悲しかった事と、次々思いがよみがえった。その中で、癒されない心の傷にぶち当たった。その傷を、はっきり認め正面から見つめ直して行った時、心が癒された。安らかな気持ちになれた。無意識に横たわっていた数々の傷や不満を書き連ねているうちに心が解放されて行った。悩んでいた心が癒された。主はすべてをご存じで、様々な配慮を備えていて下さる。その配慮は私にとって完璧だ。


2004年02月14日(土)

「だれが人に口をつけたのか・・このわたし、主ではないか。さあ、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」(出エジプト4:11)

モーセはパロの娘に拾われ、王家で育った。自分の中にヘブル人の血が流れているのを忘れなかった。ある時、ヘブル人を助けるために、エジプト人を殺してしまった。遥か彼方の地に逃れ、妻をめとり羊飼いとして長い間過ごした。時満ちて、神はモーセに民をエジプトから救い出す指導者として召し出された。モーセはとんでもないと尻り込みした。この自分がどうやって、そんな大それた事をするのかと。しかし、神が共にいる事、必要な力を与える事を約束された。神が召し出されたのなら、すべて神が責任を持って、必要な力を下さる。何か新しい仕事か、分野に導かれているか。恐れと不安を覚えているか。神が導かれているのなら、必ずできる。


2004年02月13日(金)

「互いに忍び合い、誰かほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)



 対人関係の中で、赦せない思いになる事があるだろう。理不尽な
仕打ちを受けたり、どう見ても相手が悪いと思える時、自分の怒り
が正しいと感じてしまう。イエス様も正当な怒りを持たれた。
宮で商売をしている人達を追い出された。律法学者達に怒りを発せ
られた。しかし、主はご自身を十字架につけた人々を赦された。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているか自分でわか
らないのです」と。人間関係の中で、もめ事は起こるものだ。
皆を好きになれるわけではない。しかし、不満があっても互いに赦
し合うよう命じられている。神が私達をまず赦して下さったのだか
ら。赦せない思いはその人本人を一番苦しめ、がんじがらめにする。




2004年02月12日(木)

「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、わたしのしもべは必ずいやされます」(ルカ7:7)



 百人隊長のしもべが病気で死にかけていて、百人隊長は使いを
送って、イエスに助けを求めた。使いの人々は、その資格のある
人だと功績を述べ、熱心に助けを願った。しかし、主が心を動か
されたのはその功績でなく、へりくだった態度であった。
主を家に迎える資格などないと言った。そして驚くべき事を言っ
た。御言葉をください、そうすれば癒されると。主はこの信仰を
人々の前でほめられた。慈しみ深く、愛に満ちた主は、私達の能
力や功績や、善行、富のゆえに動かされるのではない。
愛深い主が動かれるのは私達のニーズだ。必要を主のもとに携え
行く時、主は喜んで助けて下さる。あわれみの主であるゆえに。
あなたの必要を常に主のもとへ携え行け。


2004年02月11日(水)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」(マタイ7:25)

普段何もない時は、基礎の違いなど関係無いが、大地震の時には、その差が歴然とする。基礎工事がしっかりしていれば、倒れないが基礎がもろいと崩壊してしまう。絵を見るようにわかりやすい。神は御言葉を聞いて従う人は、堅い基礎の上に家を建てた人だと。聞いても実行しない人は、もろい基礎の上に建てた家だ。私達は自分の信仰生活に、どんな家を建てているだろうか。地震や嵐とは、人生に必ずやって来る厳しい試練だ。その試練の時に、神に従い続けている人は決して倒れないと。しかし、形だけの、頭だけの、理屈だけの信仰なら、試練に直面した時にもろくも崩れ去る。私達はどうだろう。今、従うよう示されている事はあるか。聞くだけでなく、実行しよう。神が助けて下さる。


2004年02月10日(火)

「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません」(ヤコブ1:13)


 「誘惑」は悪魔から来ると神は言明しておられる。
そして、「試練」は神から来る。試練に耐える人は幸いだと。
誘惑は抵抗すべきものであり、試練は耐え忍ぶべきものだ。
シャデラク、メシャク、アベテ、ネゴは金の像を拝まなければ、
火の燃える炉に投げ込まれるという時も、神は救い出して下さ
る、もし、そうでなくとも偶像礼拝はしないと堅く立った。
神は誘惑が来る事を許される。肉の欲望に働いて来る。快楽や
安楽、虚栄心やプライド、嫉妬心、または思い煩い、不安、心
配に働きかけて来る。誘惑にノーという事だ。
みこころにしっかり立つなら、神が必要な力を下さる。
神はサタンさえも利用して私達の信仰を成長させて下さる。


2004年02月09日(月)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(Uコリント12:9)

 
 一人の婦人、二人の子供を育てながら、仕事も持っていた。
しかし、働く事は喜びがあり、懸命に働いた。家事も育児も懸命
に励んだ。しかし、ある時、過労で倒れてしまった。
回復するまで、十分休息を取らねばならなかった。子供達の世話
をすべて人に任せる必要が生じた。
じつはこれらが非常に辛い事であった。自分で出来ないという事
が彼女にとれば非常に苦しい事であった。自分が出来ない事を認
め、他の人に認めるるということは、心砕かれる事であった。
弱さを認めなければならなかった。しかし、自分の弱さを認める
時、神にすべてを委ねる中で、今まで経験した事のない安らぎを
味わった。


2004年02月08日(日)

「神は、みこころのままにあなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ2:13)


職場で、同僚とちょっとした行き違いがあり、ギクシャクしてしまった。気まずく双方で避けるようになっていた。全く言葉を交わさない状態が続いた。平安が無く、祈っていると、ある朝、こちらから誠意を持って話しかけるべきだとの思いが来た。しかし、いや、気まずくなった最初の原因を作ったのは、相手であり、相手からそうすべきだ、私はしたくない、との思いがかぶさってきて、かき消されそうになった。神からの思いと、肉の思いであることがわかり、神の御声に従おうと決心した。翌日、そのように従ったら、双方の間にの、わだかまりが全く消え失せ、前にも増して心の通い合いを経験した。あなたは聖霊を妨げている対人関係が無いか。聖霊は和解に導いて下さる。


2004年02月07日(土)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)

信仰生活の中で、皆が様々な試練を通っている事だろう。ダビデは「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と、苦しみに会った事は幸せだったと言っている。後になると、必ず多くの学びができ、良かったと言える。試練は霊的に私達を成長させ、豊かにする。そして、試練のまっただ中で、神がいかに真実であられ、慈しみ深い方であるかを知る。神の真実が実証されるのは試練においてだ。試練は、私達を御子のかたちに少しづつ造り変えてくれる。頑なさ、強情やプライドが砕かれる。御言葉に耳を傾けるなら、神は何を教えようとされているかがわかる。試練を受け止めるなら、必ず成長する。あなたは今、試練があるか。耐え忍べ。私達の心からの願いは「霊的成長」であるはずだから。


2004年02月06日(金)

「わたしが来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)


神によって人はすべて平等に造られたが、この世の人生では
公平でない事は誰しも思うところだ。どんなに大食家でも、
大酒飲みでも、ヘビースモーカーでも長生きする人もあれば、
赤ちゃんが病で死んだり、小さな子供が事故で死んだりする。
資産家の子供に生まれついた人もいれば、どんなに汗を流して
働いても貧しい人もいる。ペテロが殉教すると言われた時、
ヨハネの事が気になった。ヨハネも殉教せねば不公平だと思っ
たかもしれない。しかし、イエスの答えは、わたしについて来
なさいだ。横を見るのではなく常に上を見上げる必要がありそ
うだ。不公平が気になるなら、神の応答は「わたしに従いなさ
い」だ。横を見ると焦るが、上を見ると平安だ。


2004年02月05日(木)

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです」(Uコリント12:10)

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです」(Uコリント12:10)

 この世界には、魅力的なものが多くある。自然や美術、音楽、美味しい食べ物、スポーツ、映画や劇場、趣味のサークル・・様々な楽しみがある。それらにより快適な心地よい時と気分が与えられるかもしれない。しかし、それらは完全な心の満たしを与える事はできない。次々とそれらを求めて行っても、絶対に真の満足はやって来ない。常に心は不満だ。クリスチャンでも、神から離れた行き方をすると、心が満たされない。主との親しい交わりの中で、主と共に歩み、主のために生きることだ。


2004年02月04日(水)

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」(ヨハネ4:13)

以前一人の青年が証しした。中学生の頃、ギターが欲しくて欲しくてたまらず、親が誕生日のプレゼントにしてくれる事になり、指折り数えてその日を楽しみに待ちわびた。誕生日当日は、授業も全く耳に入らず、ひたすら下校の時刻を待った。喜び勇んで帰宅、いよいよ念願のギターが手に入る。そわそわして、父親の帰宅を待った。そして、その心から求めたギターを手にした途端、なぜか心が萎えたのだ。あんなに欲しかったのに、待ちに待ったのに、心の糸がプツッと切れたように、虚しさで一杯になった。ギターがどうでもよくなった。何をしても満足がなく、やがて彼は神に出会って、心満たされた。仕事、趣味、結婚、富、旅行、あらゆる事で人は心を満たそうとするが、決して満たされない。神に帰り神との交わりのみが心を喜びで溢れさせる。あなたが渇いているのは、神と間遠くなっているためだ。


2004年02月03日(火)

「愛する人達。自分で復讐してはいけません・・もしあなたの敵が飢えたなら彼に食べさせなさい・・かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:19)




 ダビデは王のサウルに常に忠実に仕えていた。琴が
巧く琴によってもサウルを慰め助けていた。ところが、
サウル王はダビデに対する嫉妬の余り、彼を見る目が
歪み、何とダビデに対する殺意を抱き殺そうとするの
だ。ダビデに向かって二度も槍を投げつけた。
だが、ダビデにサウルを殺す機会がやって来た時、決
して手をかける事はしなかった。これを知った時、サ
ウルは声を上げて泣いた。私達も私達に悪意を持ち、
嫉妬を抱き、攻撃的な態度で向かってくる人と付き合
わなければならない場合がある。職場の同僚だったり
上司だったり近所の人だったりする。
しかしダビデは模範だ。復讐しない事は大きな証しだ。
神を現す大きなチャンスだ。神に従おう。


2004年02月02日(月)

「絶えず祈りなさい」(Tテサロニケ5:17)

「絶えず祈りなさい」(Tテサロニケ5:17)


 ある中年の女性が大変ハードな仕事をこなしていた。
仕事はきつく、ついに過労で体調を崩してしまった。
病院通いと休息の後、回復したが、医者から運動の必要
があり毎日のウォーキングを命じられてしまった。
それでなくとも無い時間を取られる事に抵抗を感じたが、
神はこれを素晴らしい時にして下さったのだ。
日々のウォーキングを神との交わりの時にした彼女は、そ
れ以来変わった。余りの忙しさに世に流されてしまってい
る自分に気づき、何よりも神との交わりを生活の最優先に
置いた。生活に秩序が生まれ、心に喜びが来た。
喜びは神との交わりから来る事を経験したのだ。
病気は祝福に変えられた。あなたは優先順位が狂っていな
いか。点検しよう。


2004年02月01日(日)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)

冬の寒い日にスリップした経験があるだろうか。太陽が射す所は、
前夜の雪も溶けているが、日陰に入った途端、スリップして車が
スピンしたという事をよく聞く。陽が射していると、氷が見える
ので慎重に警戒して運転するが、暗くて見えないと、とっさの事
でブレーキを踏んでしまって失敗する。サタンの誘惑も同様だ。
慎重に警戒している時は、むしろ安全で、無防備で何の警戒感も
無い時が一番危険だ。スピンして制御が効かないように、突然サ
タンの罠にはまり、自制が効かず、破滅に至ったりする。小さな
誘惑から来る。祈りや御言葉から少しづつ遠ざかる。そして、神
との交わりが薄くなった時が最も危険だ。神との交わりが何より
の力だ。