2001年03月31日(土) 「偽善者たちのようにしてはいけません。彼らはすでに報いを受け取っているのです」(マタイ6:16)
「偽善者たちのようにしてはいけません。彼らはすでに報いを受け取っているのです」(マタイ6:16)
ある人がどこへ行くにも聖書を持っ て行く。それを見て、彼が自分の事 をとても霊的に見せようとしている と言う人がいる。しかし、彼は自分 が霊的に強いからではなく、自分を ひどく弱い事を知っているからそう しているのだと言う。彼は聖書を持 っている限り、その警告を思い出し 古い道に戻る事を考え直すだろうと 言っている。キリストは慈善的な行 為について話された時、人前で見せ びらかす事は間違っていると教えら れた。又、一方では信仰を人々の前 に見せなければならないと言われた この一見矛盾する事を理解する鍵は 「動機」だ。もし私達の願いが正し い事をする事であるなら、御霊に導 かれて行動している。しかし、単に スポットライトを浴びたいだけなら 動機は間違っている。あなたの動機 はどうだろうか。願わくは、私達の 行動が人の目に印象づけたいという 願いでなく、神を喜ばせるものであ るように
2001年03月30日(金) 「あなたがたは、自分に関する限りすべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)
「あなたがたは、自分に関する限りすべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)
隣家の住人は怒っているようだった。 何か彼女の気に障る事をしたらしい。 何か怒らせる事をしたかと尋ねたが、 何も答えてくれなかった。「何かあ なたの気に障る事をしたのなら、謝 ります」と言うと、その後は落ち着 いた。時々、どんなに一生懸命に良 い対人関係を持とうとしていても、 うまく行かない相手がある。これは 相手のある問題だ。神はある種の対 人関係における問題は解決しないか も知れない事をご存じだ。喧嘩する にも、仲直りするにも相手のある事 だ。こちらの側で、なすべき事をす べてして、なお且つ問題が起こるな ら、その問題は神に委ねよう。神に あずけよう。恨みつらみを隠し持っ たまま不機嫌な態度を相手に向ける のは良くない。善を持って悪に打ち 勝つ事に励み、愛をもって接し続け 祈り深く忍耐し、復讐せず、祝福せ よと神は言われる。神のみこころに 従い続けよ。解決しない問題は神に 委ねて平安でおれ。
2001年03月29日(木) 「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる」(しん言12:18)
「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる」(しん言12:18)
こんな皮肉っぽい言葉がある。 「石や棒は私の骨を砕くかも知 れないが、言葉は私を傷つける 事ができない」。これは皮肉だ が、本当は言葉の害の方が大き い。一言が長く続く傷をつけて しまう。子供同士が喧嘩して、 相手を棒で殴って傷つけてしま った。ところが親同士がその事 で大喧嘩を始めてしまった。そ の子達は恥ずかしい思いをし、 傷は更に深いものになってしま った。棒や石が与える傷は、時 間を経るなら癒える。しかし、 言葉は更に深い傷を作り、一生 続く傷みを引き起こしてしまう。 相手を害し損ない傷つける言葉 を注意するように、しん言は数 多く勧めている。12:17ー22 15:4、26:2。私達は常に祈るべ きだ。「私の口の言葉と私の心 の思いとが御前に、受け入れら れますように。わが岩、わがあ がない主、主よ」言葉は、骨を 砕く事はなくても、心を砕きう る。軽率な言葉を発する事が無 いように注意しよう。
2001年03月28日(水) 「私は主の激しい怒りを身に受けている…主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる」(ミカ7:9)
「私は主の激しい怒りを身に受けている…主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる」(ミカ7:9)
あるユーモア作家の言葉だ。「私が落ち込んでいた時、 ある人がこんな事を言った。『元気を出して!事態はもっ と悪くなるかもしれないのだから』それで私は元気を出 したが、その通り事態はもっと悪くなった」。 表面的な励ましが苦しむ人を助ける事は滅多にない。 ミカの時代、イスラエルの多くの人々は、疑いもなく何 か良い知らせを聞く事を望んでいた。支配者も無慈悲、 裁判官まで脅しに荷担していた。 民は悲惨な状況に、友人や親戚さえ信じられなかった。 預言者が明るい見通しを語る事を期待していた。 しかし、神の裁きがすぐそこに迫っている事を語らねば ならなかった。アッシリアが攻め込んで来るのだった。 状況は陰鬱だったが、ミカは裁きを越えて、民が神を 礼拝し、祝福される姿を見ていた。信仰の目を持つなら 今の暗闇を突き抜けて、その先の栄光を見る。 神を知る人は現実をしっかり見る、現実主義者だ。 しかし、希望に満ちた現実主義者だ。
2001年03月27日(火) 「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか」(ゼカリヤ4:10)
「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか」(ゼカリヤ4:10)
ある人が著書の中でこう言っている。 「神の目から見れば、小さい人も小さい場所も無い。 自分の事を小さいと思う人も、もしキリストに捧げ て全生涯を神の主権の元で生きるなら、神の恵みに よって、時代の流れを変えるかもしれないのだ」 自分の小さな働きが無意味だと思う事は、労働者も 学生も主婦にも良くある事だ。自分の努力が人目に つかない時、意味がないように感じるかもしれない。 主の宮の基礎工事の時、基礎はきつい仕事で、先を 見る信仰が必要だった。ゼルバベルの仕事が無意味 だと考える人がいたので、神は小さな事ではないと 励ました。神は彼らに石に石を重ね続ケゼルバベル の模範したがって欲しかった。 自分の力ではなく、御霊の力によって成し遂げられ なければならなかった。あなたは小さな者に見えるか。 神のための小さな事を大きく用いてくださるのだ。 あなたの召された働きの場は小さく見えるか。 その中に神がおられれば大きい。露のしずくも、雷鳴 と同様、神の働きをする。
2001年03月26日(月) 「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。」(詩篇105:17)
「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。」(詩篇105:17)
もし神があなたに大事な事をするよう、送リ出 されるとしたら、どんな扱いを期待するか。自動 車パレードのお偉方のようだろうか。 実際、私達が神に仕える第一歩を踏み出すと、望 みも夢も終わりのように感じられるものだ。しも べへの神の最初の取り扱いは、意図しておられる 最後とは似ても似つかないものが多い。 ヨセフは、神の私達への取り扱いが理解でき ない時の大きな励ましだ。「彼らは足かせで、ヨセ フの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中に入った。 彼のことばがその通りになる時まで、主のことば は彼をためした」と語っている。神に送り出され る時、得るより失う事から始まるかも知れない。 あなたは正しい事をしているのに、うまく行かず 囚われのヨセフの足かせのように、あなたを悩ま せるかも知れない。神が困難を送られたら、それ をやり遂げる力を求めよ。送り出された神は、計 画しておられるゴールに着くまであなたを支えら れる。時々わかりにくいが確かな計画をお持ちだ。
2001年03月25日(日) 「人はたとい全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。(マタイ16:26)
「人はたとい全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。(マタイ16:26)
ある雑誌に、優勝したプロバスケ ットチームのコーチだった、スポ ーツアナウンサーの生涯が載って いた。華やかなコーチ人生の間中 勝つ事に没頭していた。癌が発覚 した時、突然目が覚め、物事の見 方が全く変わった。今まで熱烈に 執着していた物や価値が虚しい事 に気づいた。自分にとってスポー ツはもはや何の意味も持たなかっ た。それまで、妻や子供達とほと んど一緒に生活していなかった。 自分は20年間トップレベルにい て、全米タイトルを勝ち誇り、5 0才過ぎたら辞めて、家族のため に時間を使うつもりだった。今で は真に愚かに思う。しかし、その 頃は、世界制覇しか眼中になかっ た。私達はこの世界の拍手喝采の 空しさやそれを得ても、家族の価 値や霊的なものを失う愚かさをわ かっているだろうか。まだゴール を定め直す時間はある。今すぐ方 向転換し、キリストのために生き る事を始めよう。決して虚しくな い、又、後悔の無い人生のために。
2001年03月24日(土) あなたがたは白く塗った墓のよう…外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです(マタイ23:27)
あなたがたは白く塗った墓のよう…外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです(マタイ23:27)
アメリカのある偉大な作曲家であり指揮者に同名の孫がいた。 彼は若い頃、招待指揮者として、多額の報酬を受け取っていた。 しかし、じきに良心にさいなまれ始めた。祖父の名のゆえであり、 自分の能力のゆえでは決して無い事をわかっていたからだ。 音楽家としてまだまだ、無知で未熟だった。 そこで彼は儲かるための演技をやめ、まともに稼いで生きる決心 をした。同様にあなたも自分以外の者に見せかけた事があるだ ろうか。霊的偽者なのに、献身的な振りをしたりする。 この自分をごまかすというのは誰にでもあることなのだ。 イエスが最も非難された罪はパリサイ人の偽善だった。 神を恐れる振りをしながら神のみこころに従っていなかった。 私達は見せ掛けだろうか。この問いは、祈り深く内側を探らせる ものだ。自分を隠しごまかす事は、神に対して大きな無礼である。 プライドが神の大きな恵みを遮っているのだから。
2001年03月23日(金) 『しかし、上からの知恵は第一に純真であり、次に平和、寛容、温順です』(ヤコブ3:17)
『しかし、上からの知恵は第一に純真であり、次に平和、寛容、温順です』(ヤコブ3:17)
人の持ち物や才能や要望をひどく妬ましく思うこと があるだろうか。ヤコブは「知恵」という言葉を 「苦い妬みと敵対心」を表すのに使っている。 そして、この種の知恵の源が悪だと、指摘して いる。そえは神から来たものではなく、地、肉 、悪霊に属するものだと。この種の知恵はいた る所にある。苦々しい嫉妬や競争、利己的な 野心は多くの会社や学校や教会の中で人間関係 を損なうものだ。これらは、常に「秩序の乱れや、 あらゆる邪悪な行い」へと通じる。キリストを信じ る私たちは、もっと高い知恵、神からくる知恵を 求めなければならない。これは、純真で平和で寛容 であり、哀れみがあり見せかけの無いものである。 神にこのような知恵を求めるべきだ。どちらの知恵 がより良いかは、疑いようが無い。 人の目には、まっすぐに見える道がある。しかし、 その終わりは死の道である。地、肉、悪霊からの 思いを識別しそれから離れよ。
2001年03月22日(木) 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです(エペソ2:10)
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです(エペソ2:10)
この世界の多くの人は、良い事をする事によって、 天国に行けると思っている。 よく故人について言われる。「もし誰かが天国に行く とすれば、きっと彼でしょう。こんなにすばらしい人 だったのですから」 しかし、パウロによると、救い は賜物であり、良い行いに基づいているのではない。 「神の作品であって、良い行いをするために(行いの ゆえにではなく)造られた」のであり、「神は私たち が良い行いをもあらかじめ備えてくださった」。 ある男性が臨終の床で言った。 「私は今、私のすべての良い行いと悪い行いを投げ捨 てる。そして、無償の恵みによって、天国へ行く」 救いは神の無償の賜物だ。しかし、イエスが私たちの 罪の罰を支払うために死なれた事を思うと、安いもの ではない。私たちは良い行いをするために救われたのだ。 無償の救いが与えられたのは、良い行いに歩むためだ。 私たちが良くなるために救われた。
2001年03月21日(水) 『主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません」(詩篇38:9)
『主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません」(詩篇38:9)
あなたは礼拝でメッセージを聞いたり、又、聖書の一節を 読んだ時、「これが聞きたかったことだ」「わかった」と 自分の問題を解き明かされたように感じる事があるだろう。 それは、神が語りかけ、手を差し延べて下さっているとい うことだ。ある人は教会の印刷物に載った、ある人の証し に心から感謝した。その人が通った経験を通して学んだこ と、教えられた事を記しているのを読んで、自分の思い悩 んでいた事が解決したのだった。答えが来たのだ。彼女は もう一度、神がどんな小さな問題をも、深くみこころにか けておられるかを知った。心の底にある言い表す事の出来 ない願いをも、ご存じでいて下さる。神はよく他の人の言 葉を通して語りかけられる。兄弟姉妹を通して、祈りの答 えが与えられる。求めに答えられる。主はいつも共におら れ、私達の人生の旅路に喜んで寄り添って歩み信仰を強め て下さる。
2001年03月20日(火) 『私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです』(Tヨハネ1:4)
『私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです』(Tヨハネ1:4)
ある年配の婦人が、友人の霊的状態について尋ねられた。 「そうね、彼女は今とても落ち込んでいるわ。自分が間 違った事をした時に、惨めに感じるだけの信仰 はあるのだけど、祈って悔い改めて、喜びを感じるほど の信仰は無いよのね」喜びの無い人々の多くは、救われ てはいるけれど、キリストに従ってはいない人のようだ。 罪を犯し続けているなら、神の愛の懲らしめと 大きな悲しみと損失とを招くことになる。聖霊が心に住 んでいるし、聖書を通して神のみこころも知っているので、 自分が神から離れている事について、未信者以上に惨めだ。 まず、神に罪を告白し、悔い改める事だ。御言葉を通し、 神のみこころを知り、聖霊の力によって神のみこころを行い、 神の光の中を歩むべきだ。喜びを持つには、イエスを信じ 従うべきだ。
2001年03月19日(月) 私たちの道を尋ね調べて主のみもとに立ち返ろう」(哀歌3:40)
私たちの道を尋ね調べて主のみもとに立ち返ろう」(哀歌3:40)
ある人が家庭菜園をしているが、長期の旅行に でかけたため、畑仕事が出来なかった。落ちつい た頃、畑を見てみると、もう草ぼうぼうになって いた。ソロモンが、ぶどう畑のそばを通った時、 いばらは伸び放題で垣根は壊れているのに気づいた。 彼はこう書いている。「私はこれを見て、戒めを受 けた」彼は畑を美しく実り豊かにする為には、 たゆみない注意と志と規律が必要である事を学んだ のだ。私達の霊的な生活も同じだ。注意と規律とが 必要とされる物事は沢山ある。もし忙しさや怠け癖 のために注意を怠るなら何かが崩れてしまう。 道徳的垣根には穴があく。小さな罪は忍び込んで来 て、いつしか大きなものになってしまう。義の実は、 不正のいばらによってふさがれてしまう。 あなたは最近、主をおろそかにしていないか。主の 御言葉、教会生活、祈り…今、立ち返るための一歩を 踏み出そう。手入れを怠った畑から学ぼう。
2001年03月18日(日) 「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)
「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)
しまむらさき貝は、五大湖の悩みの種。国中に 広がるその損害は今までに五十億ドルになると言う。 カナダの水力発電所はパイプを三キロに渡りふさいだ 三十トンの貝を取り除いた。 しかしこの貝には別の面もある。水から有害毒物 をこすのだ。一つの貝で二リットルの水をこす。 やっかいものだが、きれいにしてくれると言う相 反する現象は、詩篇にもある。記者は苦痛と苦し みの深い海の中から何度も何度も神に叫んだ。 しかし、そのやっかいな水こそ、彼を主に頼ら せるきっかけとなったのだ。私達を妨げる痛みは、 私達をきよめることも出来る。 その問題のなかで、神の道を学ぶ事が出来るのだ から。最善をご存じの神は、試みとして、時には 悲しみを送られる。 時に心が傷つくかもしれないが、更に深い知恵を 与えて下さる。 必ず「苦しみにあった事は幸せでした」と証しする 事が出来る。測り知れない学びを与えられる。 苦しみは、変装した祝福。
2001年03月17日(土) 「神よ。私を探り、私の心を知ってください」(詩篇139:23)
「神よ。私を探り、私の心を知ってください」(詩篇139:23)
家庭に不用品が山済みにある事だろう。ゴミと一緒くた になっているかもしれない。空のカンやビン、箱、もう 着れない衣類、使い物にならない物品類が整理すれば、 驚くほど出てくる事だろう。不用品は場所を占領し、活力 をそぎ、イライラを生み出す。霊的なゴミも同じだ。 未解決の争い、問題は心に積み重ねられ告白していない罪は 重なって層をなし、口に出していない祈りは心に散らかって いる。どうして一掃すればよいのか。 未解決の争いは、和解すべきだ。礼拝を捧げるより先に仲直 りする事が大事だ。告白していない罪は神様の前に告白せよ。 人に罪を犯していたら、相手に謝罪せよ。口に出していない 祈りは、あなたがたの願い事を神様に知って頂きなさいとある ようにきちんと神に申し上げる事。あなたは今ゴタゴタの中に いるか。その心の押し入れを神に向かって開け。 心のうちを探り、思いを知って頂き、きよめて頂く必要がある。 生活を秩序正しくするには、神を第一にする事。
2001年03月16日(金) 「わたしはイズレエルの血をエフーの家に報いる」(ホセア1:4)
「わたしはイズレエルの血をエフーの家に報いる」(ホセア1:4)
エフーはイスラエルの偶像礼拝がはびこっていた時の 精力的な王で、国からバアル崇拝を根絶やしにしようと 決心していた。エフーが首尾よくバアル礼拝の一掃を 果たしたので、神は彼の子孫は四代に渡ってイスラエル の王座につくと言われた。しかし、完全に喜ばれたので は、なかった。完全には従わず、ベテルとダンで偶像礼 拝を容認していた。そして彼の残虐行為を喜ばれなかっ た。数年後、神はイスラエル王国を滅ぼされた。 主の軍勢とサタンの軍勢は激しく戦っている。 神の招きに答えて真理と義のために戦おう。しかし、 大切な事は主を喜ばせ、主に栄光を帰する方法で、行う ことだ。エフーは偶像礼拝撤去の戦い自体は正しくても その方法が残虐を極めた。神は結果が良ければすべて良 しのお方ではない。結果が良いこと以上に、神の子達が ご自身を愛する事を望んでおられる。 方法やプロセスは神にとって大切である。
2001年03月15日(木) あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなさい (Tペテロ3:15)
あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなさい (Tペテロ3:15)
老齢の敬虔なクリスチャンがいた。息子にイエスを 信じるように勧め続けていた。有能で働き盛りの息子 には、なぜイエスを信じなければならないかわからな かった。説明してくれと父親に言った。 父親はほとんど教育を受けていなかったので涙と共に 語った。「私にわかっているのは、『わたしはある』 と言われた方だという事だけだ。私はお前を愛してい るので、お前にも主を知って欲しいのだ」。 キリストへの個人的な信仰を単純に心から証しをする 事が力図強い証しになる。私達が語る言葉は、イエス を主として従っている行動と結びついていなければ力 は弱い。へりくだった態度と神の前に曇りなき良心と 行いがなければならない。 良い生活と良い説明がかみ合わされる時、力強い証し となる。あなたの生活を通して証しをせよ。 最強の証しは、頭に納得させ、心に罪を悟らせる。
2001年03月14日(水) 「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」詩篇139:8
「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」詩篇139:8
あなたは今までに、神から逃げ出そうと思った事があるか。 または、あまりに状況が悪いので、自分が神を追い越してし まって、神が自分を見失ったのではと感じた事がないか。 詩篇139でダビデは「私はあなたの御前を離れて、 どこへ逃れましょう。」彼が天に上っても神はそこに おられ、よみに行ってもそこにもおられます。 よみとは、キリストの復活以前に、死んだ霊魂がいる場所 だった。神の畏るべき臨在についてじっくり考えていた時、 神には越えられない限界などない事に気づいた。 ダビデはその事に気づいて、はっとさせられ止まってしまった。 「私はよみに床を設けても<見よ>そこにあなたはおられます」 神の目から離れたところなどない。私達の経験する事で、神の 愛ある臨在を越えてしまうものはない。神が満ちていられる事を 知る事は、なんという慰めだろう。「神はどこにいる?」でなく 「いない所はあるか?」だ。
2001年03月13日(火) 神は、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者をえらばれたのです (Tコリント1:27)
神は、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者をえらばれたのです (Tコリント1:27)
私達がキリストを喜ばせたいと思うなら、 未信者の中で良い証しをしようと思う。良い模範 となる事は、弱くても強く見せ続ける事だと思っ ているクリスチャンがいる。彼らは弱さを見せる 事は証しを妨げるという思い違いをしている。 そのため、霊的に見せ掛けようとしたり、「張子の虎」 のようになる。良い証しをする事を求める時、神を示 そうとしているのか、自分を示そうとしているのかを 考えなければならない。 強さを求める時、神の力によってなのか、自分の力に よってなのかを考えるべきだ。未信者が主の元に導か れるのは全然弱くない振りをしている人によってか。 強い人々を見ると、未信者は、よく自分はあんな風に は、なれないと言う。しかし、弱い人を見るとき、もし キリストが助けてくださるなら私も出来るかもしれない と思う。素直に自分の弱さを認め、用いて下さるために 弱さを神に捧げようではないか。 誰かに生ける道を示すために用いられるように。
2001年03月12日(月) 「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわきおこるのです」ルカ15:10
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわきおこるのです」ルカ15:10
イエスは、約三年の短い公生涯において、 一対一で対応する事に、多くの時間を割かれた。 ガリラヤやユダで群集に向かって語られたり、 いつも多くの群集に囲まれていたが、老若男女に 一対一で向き合われた。カペナウムでは熱心に聞 く人々を中断して、屋根から降ろされた病人に向き 合われた。また、主を見る為に木に登ったザアカイ に目を留め、語りかけられた。また、他にも、多く の人々に個人的に教え導きご自身を信じるよう勧め られた。一対一でする証しは大きな力がある。 主は一人の罪人が悔い改める事を大きく喜ばれた。 私達の心に、誰かへの重荷を与え、私達を通して 働いて下さるように。その魂を、私達を通して 愛して下さるように。魂が神の元へ導かれるために 私達がしっかり自分の分を果たす事が出来るように。 一対一の交わりを通して、神は魂を救いに導かれる。 あなたに示されている人の為に祈れ。
2001年03月11日(日) 「あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに」詩編31:22
「あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに」詩編31:22
こんな実話がある。その日は彼の 結婚式であったのに、大嵐だった。 どしゃ降りで洪水となり、教会へ 向かう車は、浸水していた交差点 で、エンストしてしまった。通り 行く車を止めにかかったが、一台 の車が止まってくれたのは、ちょ うど時間ギリギリだった。花婿は ずぶ濡れで裸足で教会に走り込ん だ。20分後、彼は教会の通路を 歩いていたが、まだ髪は濡れたま まだった。ダビデを思い出す。危 機的状況を何度も経験した。状況 はどうにもならないように思えた。 しかし、最悪の時が結局はいつも 神をほめたたえる機会とされた。 何度も何度も信仰の試練によって 神の臨在と尽きない配慮とが証し された。私達も天国へ行くまで試 練があるだろう。しかし、ちょう ど良い時に、まさしく必要なもの を神は与えて下さると確信できる。 最も暗い試練の時、神の夜明けが やって来る。大きな試練の時、逆 巻く大波が押し寄せる時、いつも キリスト、魂の隠れ家を見い出す ことができる。
2001年03月09日(金) クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。
クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。
神はもっと罪を犯した人々に寛容であるべきだと思うか。 うそつきは、涙を流して、嘘がやめられないと言う。アル 中の人は、自分のせいではないと言う。ある人は同性愛者を 弁護して彼らに悔い改めよと言うのは「皮膚の色を変えよと 言うようなもの」だと言った。しかし、重大な事がある。 人がその行動を変えることが出来ない理由は変えられない のではなく、変えたくないのだ。だから、神が裁かれる時、 完全に正しい。あなたは罪深い行為や習慣から開放される 事が出来る。自分の罪と無力を神の前に認めよ。 イエスの赦しを完全に受け入れよ。誘惑に勝利させること の出来る聖霊により頼め。神はあなたの心を変える事が出来、 不可能を可能にすることが出来る。まず、あなた自身を神に 委ねよ。あなたを汚れからきよめたいと待っておられる。 信仰により完全な赦しを知り、真の開放に預かることが出来る。
2001年03月08日(木) 3月8日
3月8日
『あなたがたにこの永遠の命を伝えます。 すなわち、御父とともにあって、私たちに 現された永遠のいのちです』(Tヨハネ1:2) 1969年、アポロ十一号が月に近づいた時、 ニューヨークタイムズは、この偉業達成を素晴 らしいものにしたいと、ピューリッツァ賞受賞 者であるアーチボード.マクレイシュに詩を依 頼した。その日一面には次の言葉が載った。 「私たちにとっての驚異、及ぶ事の出来ない、 届き得ない憧れ、光を越えた光、私達の手は 暗闇の中であなたに届いた」。 使徒ヨハネは神の御子が地球を訪れた時の事を こう書いている。「初めからあったもの、私達 が聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また 手でさわったもの、すなわち、いのちのことば に就いて…あなた方に伝える」。 ヨハネはイエスに触れた。今日、私達も触れる 事ができる。肉体において主に触れたと同じ位 確実に信仰によって御子にしっかりとすがりつく 事ができる。人の手が実際に月に触れたように、 私達の信仰の手は主に触れる。
2001年03月07日(水) 「主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな」(しん言3:11)
「主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな」(しん言3:11)
聖書は私達に「自分の悟りに頼 るな」と警告している。これは 私達が判断を誤りがちであると、 意味している。そして、私達は 自分の間違いを指摘されるのが 大嫌いだ。過ちを正されるのが 嫌な余り、逃げたり、避けたり する事が人生の第一目標の人も いる。しかし、矯正をきちんと 受けるなら、多くの悲しみから 救われるはずだ。ある人が芝刈 機の刃を砥ぐために、はずそう とやっきになっていた。最大の レンチでもネジが動かないので、 1m以上もあるパルプを取手に かけて、てこにした。それでも だめで、大きな石でガンガン叩 き始めた。すると、隣人がネジ が反対回りだと教えてくれた。 反対向きに回すと、簡単に回っ た。同様にあなたも人生を間違 った方向に押し進めようとして いないか。天の父の矯正を受け 入れよ。自分の思いでなく、神 の知恵に頼れ。主はあなたの向 きを直し、あなたの道をまっす ぐにして導いて下さる。自分の 間違いを認めよ。
2001年03月04日(日) 「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて・・」 ルカ24:15
「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて・・」 ルカ24:15
私達の悲しみの時に、主はどう して下さるのでしょうか。エマ オ途上の弟子達は愛するイエス を失った。主は死んでしまった と思い込んでいた。なすすべも なく、とぼとぼと郷里へ引き揚 げる途上だった。二人で出来事 を語り合っている時、突然見知 らぬ人が、共に歩き始めた。二 人は気づかなかったが、イエス だった。何を話しているのかと 聞かれ、二人はイエスが十字架 にかけられた悲劇を語った。イ スラエルを救うはずだったと嘆 いた。イエスは悲しみに沈んで いる弟子達と共に歩まれた。悲 しみに沈む私達と共に歩んで下 さる。物語のすべてを話すよう に求められる。自分の悲しみを 分かち合う時、癒しが訪れる。 それは長い時間がかかるかも知 れない。しかし、イエスは日々、 私達を慰めるためにそこにおら れる。
2001年03月03日(土) 「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」しん言18:21
「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」しん言18:21
ある人が、非行に走り、問題を起 こした青少年の施設で働いていた。 少年同士の口論、喧嘩、陰口、す すり泣きを何度も経験した。特に、 新しく入って来る少年にひどかっ た。しかし、多くの生活訓練と矯 正の後、施設を出る間際の少年達 は、態度も言葉遣いも変えられて いた。励まし合い、思いやり合う 態度が育っていた。家庭に戻る準 備出来た青少年達は言葉の力を理 解できるようになっている兆候が はっきりと出ていた。そして、彼 らによって、自分の声や言葉にも 大きな力と妨げになる、どちらの 要素もある事を教えられたのだっ た。私達の言葉は祝福か、呪いか どちらの力もある。言葉によって 他人を助ける事も、深く傷つける 事も出来る。疑いや気力をくじく 言葉で、一人の魂を打ち砕く事も できれば、人を力づけ建て上げる 愛の言葉を語る事もできる。
2001年03月02日(金) 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します…私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(Tヨハネ4:18)
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します…私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(Tヨハネ4:18)
親友との間に、ちょっとした行き 違いが生じてしまった一人の婦人。 自分の態度を反省させられた。深 く愛している友人をなぜ傷つけて しまったのか。愛し心に留めてい るのに、愛は自分の行動を制御し てくれなかった。自分の心の内を 探っていると、古い隠れた恐れが ある事がわかる。その恐れから相 手を傷つける行動をしてしまった。 自分は子供の時、母親に捨てられ た。その後遺症と傷、恐れと苦痛 が神の愛よりも大きく自分の行動 を指令している事に気づかされた。 私たちも形は違うが様々な苦痛や 傷を経験する。しかし、その傷を 抱き続けるなら神の愛より苦痛が 私たちの人生を支配するようにな る。祈りの中で神に自らの恐れや 苦痛について語り、神に委ねて行 く時、神は癒して下さる。心を平 安で満たして下さる。いつでも気 づきを与えられ、現状を認め神に 頼る時、癒しが来る。
2001年03月01日(木) 「彼らは神を知っていながら、その神としてあがめなかったからです」(ローマ1:21)
「彼らは神を知っていながら、その神としてあがめなかったからです」(ローマ1:21)
ある新聞社が一つの新聞を作った。そ れは良いニュースばかり載せた。しか し、それは36ヶ月で廃刊になった。 本当は人々はよいニュースを聞きたが っていない。犯罪や悲劇等の悪いニュ ースの方が興味深く見え、好みに合っ ているのかも知れない。では、最良の 良いニュース、福音はどうだろうか。 なぜ、多くの人々は世界中で最も素晴 らしいニュースに目をそむけ、心を閉 じ聞く事を拒むのだろうか。私達は罪 があるので、神に対する恐れに満ちた 嫌悪感を持っている。私達は神に造ら れ、神に人生を満たしていただく必要 があるのに、新しく生まれるまで、神 を憎む者になっている。聖霊が神を憎 む者の敵意を打ち破り、彼らの心を捕 らえ、救いのメッセージに応答すると いう確信を持って、良い知らせを宣べ 伝えよう。これこそが、神があなたと 私にして下さった事なのだから。私達 の唯一の希望はイエスの良い知らせ。