2004年03月31日(水)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)



 五才の子供が何でも自分でやりたがった。自分でやらないと気がすまなかった。オモチャが壊れて自分で、いじり回していたが、子供には無理と父親が修理してやろうとすると、「嫌だ。自分でする」と拒否した。ところがしばらくして、どうにもならないとわかると観念して父親に助けを求めて来た。そのオモチャは再び元に戻り、楽しそうに遊び始めた。私達はどうだろう。悩みが来た時、自分で解決しようとする。肉はどこまでも自分の力でしたいし、それを誇りたい。しかし、ますます事態は悪くなる。どん底に来て神に助けを求めるのだ。神は助けようと待っていて下さる。最初から神に頼り、神と共に事に当たれば、どんなに祝福だろう。あなたはどうか。
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困った事態が起こると、とりあえず自分で考える。どんどん思考を巡らせて行き、行き詰まると「神様!」だ。主を離れて私達は何もすることができないのだ。このみ言葉を今日、一日覚えていよう。


2004年03月30日(火)

『蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか』(創世記3:1)



 サタンは疑いを心に吹き込む。言われたのは本当?アダムとエバはそれまで決して疑った事がなかった。しかし、サタンは巧妙に疑いを心に起こす。巧妙なサタンの策略だ。ある程度納得が行きそうな、もっともな事を持って来て、巧みにその中に事実ではない偽りを入れて、疑いを織り込む。ある一部分納得が行くので、全体的にだまされてしまう。サタンが心に植えつける疑いに警戒せよ。心を見張っている必要がある。特に、神と御言葉に対する疑いを吹き込んでくる。「悪い者が放つ火矢」だ。あちこちから飛んで来る。神の愛を疑わせ。真実を疑わせ、神を信じる事を止めさせようとする。サタンから来る疑いの誘惑をよく見分けなければならない。
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ある程度納得させられてしまう弱さは誰の中にもある。だから警戒しなければならない。まとわりつくサタンを覚えていよう。意識しているだけでも守られる。


2004年03月29日(月)

「彼らは、しみや傷のようなもので・・その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し」(Uペテロ2:14)



 偽教師が現われ、主の羊の群れの中に入り込んで、多大な害毒をもたらすと警告されている。何を信じているかは大切。真理と聖潔な生活が結合しているように、偽りの教理と不道徳な生活も同様。好色、肉欲、貪欲・・。<誘惑する>原語の意味は<えさで釣る>。警戒が必要。最も最悪に満ちた危険な者は、隠された釣り針に美味しい餌をつけてくる者。心の定まらない者達が誘惑される。キリストにとどまり、御言葉に根ざし、御言葉が私達のうちにとどまっていない時、誘惑に身をさらす事になる。誘惑は止める事が出来ない。それは天に帰る時まで来る。この地上では最後まで戦いだ。心に御言葉がとどまっている時、サタンを識別する事ができ勝利する。
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ふらふらと心が定まらない時は、サタンの格好の餌食となる。今週も守って下さる主を覚え、御言葉を砦にして多くの誘惑から守られますように。


2004年03月28日(日)

「だれでも誘惑にあったとき、神によって誘惑されたと言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません」(ヤコブ1:13)

ヤコブ書には誘惑と試練の違いが記されている。誘惑はサタンから来るもので、試練は神から来るもの。誘惑は私達の内なる欲望に、サタンからの餌が差し出され、乗って行く事によって来る。それは、私達の最も弱いところに誘惑的なものとして来るので、引き込まれて行ってしまう。誘惑は、立ち向かい、試練は、耐えるべきもの。そして、神は試練を「この上もない喜びと思いなさい」と言われる。試練は必ず霊的な祝福に変わるからと。なぜなら、試練は神に近づけ、祈りへと追いやるから。人は試練の時、神のもとへ行く。試練の中で、信仰を用い、忍耐を働かせ、成長する。最終的には、かの日にいのちの冠が授けられる。誘惑は拒否拒絶し、試練は受け入れよ。
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誘惑は神から離すためにサタンから来るもの。断固立ち向かい、拒否すべき。神からの試練は受け入れ、耐えるべきもの。試練は痛いけれど、悲しいけれど、大きな祝福。この世でも信仰の成長の恵みが与えられ、かの日にはいのちの冠が与えられる。


2004年03月27日(土)

『「ここまで来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と』(ヨブ38:11)

ヨブ記で、神から「お前はどこから来たのか」と聞かれたサタンは「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました」と答えている。地に対して、あらゆる策略を持って動き回っている、未信者を支配する、この世の神だ。しかし、神の許し無しに何一つできない。制限がある。ヨブの持ち物は許されたが、身には触れさせられ無い。試練に打ち勝つと、次に、身はよいが、しかし命はいけないと。私達に来る試練は神の制御のもと、量って送られてくる試練だ。「わたしのしもべヨブ」と言われたように、試練の中にある者に特別にあなたの名を挙げて、目を注いで下さる。「主が彼になさったことの結末」、試練にははっきり結末がある。延々と続くのではない。慈愛に富んだ主。
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サタンは凄まじい勢いで襲って来るが、どこまでも神様の許しの範囲内で制限付きだ。その背後に神の愛の御手があり、支配と主権がある。サタンさえ利用して、私達の益とし、きよめ、成長させて下さる。サタンさえ用いて、私達に良きこととして下さる。試練のまっただ中では、真っ暗闇が延々と続くように思えるが必ず結末がある。


2004年03月26日(金)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはなりません」(ヤコブ1:22)



 顔が汚れている時は手で幾ら触ってもわからない。しかし、鏡を見ると、一瞬にして汚れが判明する。そのように、御言葉は鏡だ。御言葉に向かうと、自分の内の汚れが映し出される。又、自分自身がそのまま映し出される。その時、御言葉を通して与えられる神の導きに従って行くなら、自分は変えられる。しかし、御言葉を聞くだけで従わないなら、自分をごまかして偽っていると神は言われる。御言葉に従う事をしないなら、すぐに忘れてしまって、自分が変えられる事も成長して行く事も決して無い。従って行く時にだけ変えられて行く。行いによって祝福される。御言葉を一心に見つめて離れないなら、従って行く事が出来る。従う事が鍵だ。大切。
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主が罪の現実を示して下さらなければ何の成長もできない。御言葉に照らされ示されたなら従って行こう。ただ聞くだけの者とならず。


2004年03月25日(木)

『主が来られ・・「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた』(Tサムエル3:10)




 「お話しください。しもべ聞いております」の態度は難しい。日常生活でも聞くことは難しい。話すほうが心地良いし、楽だからだ。神の御声を聞くにも訓練がいる、神のお心を知るためには、どうしても御声を聞く事が必要だ。日常生活の中でも静かな細い御声を聞こえてくる。「今、祈りの時を持ちなさい」「親族に手紙を書きなさい」「励ましの電話をかけなさい」「今、証しをする時です」「悩みを聞くために時間をとってあげなさい」生活の中で折々に神の御声が聞こえて来る。あなたには今、何が語られているか。その示しをないがしろにしていないか。御声を聞いたらすぐに従おう。行う事によって祝福される。神は語り続けれ折られる。耳を済ませ。
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心を神様に向けて「聞きます」の態度は、「従います」の態度だ。そのように祈るなら神様は必ず御声をかけてくださる。聞きっぱなしではなく、御声を聞いたらすぐ従おう。


2004年03月24日(水)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5:16)

主イエスを信じ、聖霊が内住されると、新しい性質と古い性質の二つの性質が内にできる。そして、生まれつきの罪の性質――肉は、御霊と争う。それで神に喜ばれる事ができない。自分の内には肉の行いがある。自己中心、妬み、敵意、偽り、怒りがある。神に従う事はできないし、どうすれば良いのか。答えは「御霊によって歩みなさい」だ。クリスチャン生活は御霊によらなければ不可能だ。自分の力では決してできない。自分自身を御霊に明け渡して、御霊の導きに従っていくこと。しょっ中失敗するかも知れない。その時は悔い改めて、また、御霊に従って歩めば良いのだ。御霊に導かれて歩む時、ますます御霊に支配されて行く。信仰生活の鍵は「御霊によって」。
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何度も何度も挫折して経験する。自分の力で歩むと失敗する。自分の判断、自分の知恵、そして自分でみこころを行なおうとすると、行く手が遮られて不可能、迷路に迷い込む。「出来ません」と神様に頼る時、混迷から脱出して、御霊の力を経験する。


2004年03月23日(火)

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)




 とっさの不意の出来事が起きた時、パニックになり右往左往する。何とか事態を処理しようと、立ち回り走りまわる。一段落した時、祈りを思い出す。そんな経験がないか。製糸工場で、糸がからみ工員が四苦八苦してほどいている内にますますからみどうにも出来なくなった。そこで、工場長を呼んだ。その時、工場長は、あなたはまず私を呼べ、あなたのすることはますます事態を悪くする前に、すぐに私を呼ぶ事だ、と言った。私達も同様だ。まず自分の力でやってみて、出来なかったら神をお呼びするのではない。まず、最初に、神をお呼びするのだ。事態の中に来ていただいて働いていただくのだ。あなたの日常はどうか。「わたしを呼べ」との主に呼ばわろう。
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日々の生活すべてに神様が同伴されているのに、私達は古い習慣から抜け出せない。今日、平安の時にこそ、しっかり神様を覚え神様と語りながら生きてみよう。


2004年03月22日(月)

『すると、仰せになった「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」(創世記3:11)



 善悪を知る木の実から取って食べて、罪を犯したアダムとエバに、神は悔い改めの機会を与えて下さった。「食べました。私が悪かった、ごめんなさい」と言う事が出来た。アダムがそう言えば、エバは「いいえ、先に食べた私が悪いのです」と言っただろう。しかし、アダムは更に悪い事にエバに責任転嫁をした。この女が悪いと。あなたが私のそばに置かれた、と神が悪いと言わんばかりだ。エバは蛇が悪いと責任転嫁をした。だました蛇が悪いのだと。蛇を造った神が悪いと言わんばかりに。自分の犯した罪を認めない。姦淫と殺人を犯したダビデであったが「私は主に対して罪を犯した」と自らの罪を認め悔い改めた。罪赦される恵みは何と幸い。
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歳とともに言い訳や責任転嫁の方法をうまく身につけて行くのではなく、クリスチャンは、ますます、自分の罪に対して敏感で、神様に対して正直でなければならない。


2004年03月21日(日)

『罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない』(詩篇36:1)

罪は人の心に語りかける。巧妙に語りかける。創世記に
記されている通りだ。サタンは本性を隠して、エバに近
づき、語りかけた。語りかけに応じてしまったのが、ま
ずの間違いであった。拒否し拒絶し無視すべきだった。
サタンは、神が罪だと言われたものを、欺いて、良いも
のに見せる。エバは善悪を知る木の実を見た時、大変
良く、慕わしく、好ましく見えた。魅力的な美しい、
素晴らしいものに見える。惑わされるのだ。軽んじな
いで侮らないで、常に警戒し、祈って備えている必要
がある。それほどサタンは巧妙で狡猾だ。罪は、神の
御声に心に払わさず、神に対する恐れから遠ざける。
神の恵みにより罪に打ち勝つことができる。神に拠
り頼め。
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サタンは私達を惑わす。目をくらませる。罪が無邪気な、
罪でないものに見えるのだ。又、素晴らしく魅力的で、
どうしても手に入れたいものに映る。サタンの策略だ。
語りかけてくる声に警戒し、常に祈っている必要がある。






2004年03月20日(土)

『見よ。私の身から出た私の子さえ、私の命をねらっている。この・・としてはなおされのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから」(Uサムエル16:11)



 サウル王の一族のシムイがダビデに盛んに呪いの言葉を吐き、石を投げつけた。サウル王に代わって王となったお前は出て行けと、血まみれの男、よこしまな男と、悪態をついた。家来が殺そうとした時、ダビデは止めた。彼は、ウリヤに犯した血まみれの罪を自覚していた。主が彼に言わせられたのだと、その背後に主を見ていたからだ。そして、呪いに代えて、しあわせを報いて下さる神に信頼を置いていた。全幅の信頼を神によせていたので、目の前の厳しい事態を受け止める事ができた。いつも状況でなく、状況を支配しその背後におられる神を見続ける事だ。神を信頼せよ。
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状況の意味をいつも神様に聞いていくなら、神様は、私達に今置かれていることの意味を教えて下さる。ただ状況の波にもまれてしまわず、全幅の信頼で神様に尋ね求めよう。


2004年03月19日(金)

『彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください」』(詩篇34:5)



 詩篇三四の背景は、ダビデがサウル王に負われ、逃れるため、敵であるアキシュ王の元へ。」王の家来により身元が割れ、身の危険を感じたダビデは、自らを守るために、気違いの振りをした。どんなに恐れ、不安で、孤独であった事だろう。しかし、その真っ只中で「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」と主を賛美したのだ。「主を求めると、主は答え、すベての恐怖から救い出して下さった」「悩む者が呼ぶと主は聞かれ、すべての苦しみから救われた」どんなに厳しい試練があっても神を見上げ信じて受け止める時、「主のすばらしさを味わ」う機会とされる。主を信頼するか、心頑なにするか、自分自身の態度だ。
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直面する問題の中には、すでに主はおられる。私達が主を仰ぎ見られた時に解決が見える。主が耐えて行く忍耐を与えられ、平安の中に守っていて下さる。信じて委ねよう。


2004年03月18日(木)

「私は黙っていたときには、一日中、うめいていて、私の骨々は疲れ果てました。それは御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひかりでかわききったからです」(詩篇32:3)



 ダビデは人妻であるバテシバとの姦淫の罪を犯し、その夫ウリヤを計略の末巧く殺害した。恐ろしい二重の罪を犯してしまった。預言者ナタンに面と向かって断罪されるまで表向きは普通にしていたようだ。しかし、その罪を隠して生きる事は、大変な苦しみであった。御手が、神が、罪である事を心の奥に示し、教え、圧迫しておられた。罪を黙ったまま持ち続けているのは苦悶の日々だ。経験があるだろうか。すぐそばに救いがある。神に罪を告白する事だ。ダビデは自らの罪を認め、告白した途端、すぐ神は赦しの手を述べて下さった。赦しがすでに備えられている。認罪を妨げるのは自我かプライドか。罪赦される喜びがそこにある。
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ダビデのような大きな罪でなくとも、御霊様から示されている罪はないだろうか。そのままにして神様との交わりはできない。抵抗せず神様のもとへ行き告白しよう。


2004年03月17日(水)

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い」(エペソ4:2)

 聖書の中には、「互いに」という事葉がよく出てくる。「互いに
愛し合い」「互いに従い」この「互いに」がとても大切である。受
ける事と与える事この二つが相互になされて、キリストのからだは
建て上げられて行くし、互いの対人関係も築き上げられて行く。結
び目がしっかりと結び合わされる事も言っている。結ぶためには、
二本のひもが必要だ。二本のひもが結び合わされるとは、与える事
と受ける事を現している。あなたは与える事と受ける事、この二つ
のバランスが取れているか。ある人は与える事が出来ても受ける事
が難しい。プライドが許さない。ある人は与えようとはせず、貰っ
てばかりいる。健全に成長するため自分を振り返ってみよう。
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互いに、与える事と、受ける事によって、からだが建て上げられて
行く。助けが必要な時は、率直に話して助けてもらう事が必要だ。
それを通して、助ける側も祝福とされる。与える喜びと受ける喜び
を経験する必要がある。今日、どう実践して行けるだろうか。


2004年03月16日(火)

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに、与えることのできる方です」(Uコリント9:8)



 ある婦人が職場の同僚への誕生日プレゼントについて祈っていた。ふさわしい良い贈り物ができるようにと。すると、聖霊が先日自分用に買った、お気に入りの飾り物を贈るようにと促された。しかし、自分の大切な物を手放すのは嫌で、別の贈り物でお茶を濁してしまった。数日後、海外旅行から帰った伯母が、素晴らしい飾り物のおみやげをくれた。ショックであった。聖霊の御声に従えなかった事を恥じた。この事を通して、今後、御霊の導きのある時には、神が求められる時には、従順に従いたいとの決心が与えられた。神は良いわざに溢れる者とするために溢れる恵みを与えて下さるお方なのだ。
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神様はあらゆる恵みを準備していて下さる。聖霊様の促しは、いつも自分自身の事しか考えられない私達の思いを神様に向けて下さる。聖霊様の促しを大切に。


2004年03月15日(月)

「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」(ローマ12:20)




 自分を批判し、敵対して来る人にどういう反応をするだろうか。十倍にもして仕返しがしたいと思うのが生まれつきの罪の性質だ。巧妙に違う形で報復しようとするかもしれない。しかし、神は決して報復するな、と言われる。報復は争いの連鎖を産み出すばかりだからだ。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われる。自分を攻撃し、立ち向かってくる人への態度はどうか。これによって、どれほど成長しているか、どれほど主に従っているかがわかる。生まれつきの自分には出来ない。いくら頑張っても不可能だ。しかし、神に自分を明け渡して、聖霊の導きに従う時に、可能になる。これは聖霊の力だ。御霊の与える柔和の実だ。
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自我のおもむくまま、感情に従っても真の平安がない事は十分に知っている。自我の奴隷ではなく御霊に従おう。祈って十字架を見上げよう。



2004年03月14日(日)

「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです」( I ヨハネ3:6)

罪の事を思う時、私達は罪の結果を恐れている。人前に恥であるし、
不名誉な事だ。だから、罪の結果は何とかしたいし、赦されたい。
しかし、心の底では罪から離れたくない。罪を憎んでいない。愛し
ている。誘惑とは本来甘いものだ。自らの願望と合致しているので、
乗って行ってしまう。私達は悪い習慣を止めたいと思っている。い
つも、その行為を悔い改め、赦しを求める。しかし、その行為を決
して止めようとはしない。肉には心地良いのだ。きっぱり断ち切り、
罪と認め、それに背を向け、きっぱり捨て去る事だ。罪をもて遊ん
でいると、やがて罪に飲み込まれてしまう。
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肉の性質は罪を憎んでなどいない、むしろ愛している。誘惑は心地よく、甘い。そこに浸っていたい。誘惑が苦ければ、誘惑になどならない。罪を悲しみ、憎む、新しい性質が与えられている。罪を離れること、御霊によって可能だ。


2004年03月13日(土)

『すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい」・・イエスは五つのパンと二匹の魚を取り・・それらを祝福し・・』(マタイ14:19)



 ストラディバリウスというバイオリンを聞いた事があるだろうか。素晴らしい最高のバイオリンと言われている。一つ一つの部品は手作りで細部まで成功に出来ている。いくら完璧で美しくても、その楽器だけでは、それだけだ。その楽器が真価を発揮するのはいつか。それは有能なバイオリニストの手に握られ、演奏される時だ。名手の手によって生きる。私達も同様だ。神が私達一人一人に与えて下さった賜物は神に握られる時、最高に輝く。私達に出来る事は、全能の神に全く明け渡す事だ。その時、あなたは最高にあなたらしく生き生きと輝いて生きる事が出来る。自分自身を余すところなく明け渡す事が必要だ。主のもとへ持って行け。
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有限の自分が自分自身をはなさないので、神様の無限の祝福が受けられない。いつまでたってもジレンマは続く。明け渡せますように。


2004年03月12日(金)

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)




 この世の一般的な考え方では、人の過失に対して、その人の責任を問うのでなく、親の育て方が悪かったから、環境が悪い、社会が悪いと、環境と人のせいにする。しかし、神の御言葉は、はっきりと個人の責任だと言っている。すべての人は自分の罪に対して責任がある。私達は環境の犠牲者ではない。環境に責任転嫁することは出来ない。罪を犯した者は、死の宣告を受けている。しかし、キリストに拠り頼むなら、罪は赦される。この恵みは、自らの罪を認める者にだけ与えられるものだ。自分の罪を真正面から見て、認めることだ。そうする時、神のあわれみと赦しが自分のものとなる。あなたの失敗を人のせい、環境のせいにしていないか。
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神様が問うておられるのは、自分自身の罪だ。すでに罪には神様の解決も添えて与えられている。辛い環境が喜びに変わるのは、自分の罪から真に自由になる時だ。


2004年03月11日(木)

「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです・・各自、自分の食べる分だけ・・集めよ」(出エジプト16:13)


 ある人が、毎朝デボーションを持っていた。ある朝祈ろうと、神に向かった。ところが、気力が湧いてこない。毎日、同じ言葉、同じ祈り、なんだか飽きて来たのだ。気分が乗らなかった。神もっきっと飽き飽きしておられるだろう。正直に気持ちを告げた。「私は毎日毎日同じ事を祈っています。あなたはどう思っておられるのでしょうか。飽き飽きしておられませんか。私はあなたとの時間を無駄に使っているだけなのでしょうか」その時、はっきりと御声が聞こえた。「私は、日毎にマナを与えます」その時、祈りによって自分の魂が養われている事がわかった。毎日、祈る時心に平安がくる事も気づいた。祈る度に神は天からマナを降らせて下さるのだ。
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昨日、御霊に満たされたといっても今日は、また恐れや不安が襲ってくる。世に出て行く前に、朝毎に神様と交わり、祈り神様の御力によってゆるぎないマナを受けて出かけよう。


2004年03月10日(水)

「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」(ガラテア5:17)

私達クリスチャンには、二つの性質がある。生まれつきの罪を犯す、古い性質と主イエスを信じて新生した新しい性質だ。この二つの性質がしばしば激しい戦いを引き起こす。新しい価値観と古い価値観が絶え間無い衝突を起こす。自分自身を主に献げずに、自我に仕えるなら、二つの方向が引っ張り合う事を経験する。新しい性質は神に従おうとするが、従う事ができない。誰も二人の主人に仕える事はできないと、主が言われた通りだ。肉に従うなら自我がますます王座に座る。自分で戦うなら、どんどん泥沼状態になるばかりだ。主に全く明渡すことだ。御霊に従い、御霊に支配される事、それが二心を避けるただ一つの道だ。
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鍵が御霊に導かれて歩むことだ。自分を明け渡して行くなら、御霊に支配される。すると、自然に新しい歩みができるようにされる。信仰の歩みは、歯を食いしばって頑張るのでは断じて無い。自分の頑張りではなく、神に信頼して行くこと。


2004年03月09日(火)

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せられた。わたしはあなたに尋ねる・・自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(ヨブ40:8)



 ヨブは神を恐れ、貧しい人を助け、良い行いに励む良い人であった。しかし、彼は自分自身を良い人だと思い良い人格を強調し、自分を義とする過ちを犯していた。彼に次々と大きな試練が臨み、子供達がなくなり、財産を失い、自らも悪性の腫瘍で苦しんだ。その時、友人が来て、ヨブに罪があるからだと非難した。だが、ヨブは自らの潔白を主張し続けた。ついに神が、ヨブに現われ語られた。神が語り終えられた時、ヨブは言葉を失いへりくだった。自分を義とする態度は消え失せた。彼は自分が無知であった事を認め悔い改めた。なぜ、どうして?と思う時は、罪のない御子が十字架で命を捨てられた事を思い起こす必要がある。私達のつぶやきは止む。

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なぜ?どうして?その後には、こんなに頑張っているのに…と続く。
確かに神様を恨みたくなることもあるが、今わからなくてもそこに必ず神様のご意志があること覚えよう。へりくだる事を学んでいるのかもしれない。





2004年03月08日(月)

「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべてのあふれる悪を捨て去り」(ヤコブ1:20)



 送電ゲームという子供の遊びがある。輪になって手をつなぎ、電流を隣に送り、渡して行き、鬼が発電所を当てるゲームだ。これと似た事が日常生活で行われている。自分のイライラ、不機嫌、怒り、欲求不満を隣の人になすりつけて、渡すのだ。つまり、人に当たって、ストレスを発散させる事だ。それは受けた人に嫌な思いをさせ、不愉快にする。家族中に伝染し、害毒を流す。家族から喜びと潤いを一瞬にして奪い去り、暗たんたる気持にさせてしまう。自分の不機嫌を周囲にぶつけるな。喜びや潤いの同様に伝染して行く。喜びを隣の人に渡すなら、どんなに祝福だろう。私達は今日も周囲にどのようなものを伝染させているだろうか。
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自分が発するものは、口に出さなくても伝わっている。
内にある怒りや苦い思いを一時もためておかないよう、悪臭を放たないよう神様に対処していただこう。


2004年03月07日(日)

「しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は・・私たちを慰めてくださいいました」(Uコリント7:6)

パウロはすべてが順調に行っていて、何の問題もない振りを決っしてしなかった。自分の苦しみや恐れを率直に言い表した。正直に辛い苦しい気持を述べている。「さまざまの苦しみに会って、外には戦い、内には恐れ」苦しい経験や気持を率直に語ることによって真実な証しが出来た。それで、人々はありのままを話しても大丈夫だと思えた。弱さを出すことが出来た。私達が率直で正直あるほど、人々を助ける事が出来る。恐れや弱さを出してもよいと、自由な分かち合いの交わりが可能になる。私達がありのままで真実である時に、周囲の人々は、神が苦しみの時に、どのように必要を満たして下さるかを知り、神を信頼するようになる。
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神様はありのままの、素直な、率直な、正直な気持ちを受け止めて下さる。まず神様に受け止めてもらえるからこそ、人の前でも率直に弱さが出せる。そして、主の御霊のあるところには自由があり、素直な正直な気持ちが出せる。






2004年03月06日(土)

「実を結ばない暗闇のわざに仲間入りしないで、それをむしろ明るみにだしなさい」(エペソ5:11)

妻子ある男性と不倫に陥った知り合いの女性がいた。そういう場合はどう接すればよいのか。愛を待って接するが、しかし、その行為は是認できない。神はその行為は罪だと言っておられると語った。バプテスマのヨハネは、へロデ王に、ヘロデヤを妻とする事は不法だと告げた。なぜなら、ヘロデヤはヘロデと結婚するために、自分の夫と離婚したからだ。ヨハネは丁寧だが、断固とした態度で罪を指摘した。罪の内にある人に親切であるべきだ。しかし、神の前に罪であり、悔い改めないなら重大な結末を刈り取る事は、いつもはっきり示すべきだ。真の親切とは、警告し、救い出す事だ。愛を持って、真理を告げるべきだ。
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神は私達を常に受け入れ、変わらないご愛で愛して下さっている。行ないが悪い事を指摘して下さり、行ないを悔い改めるよう導かれる。しかし、その間も私達を愛し続けていて下さる。罪に同意する事は出来ない。愛しているゆえに、祈り心と愛を持って、他の人の罪を指摘する。


2004年03月05日(金)

「あなたがたは、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです」(エペソ4:25)



 ノーをはっきりと言うことは必要だ。ある人がヘルパーをしていた。一人住まいのお年寄りの話し相手、家事をしていた。段々親しくなり、相手の要望もあり個人的にも時間を使い出した。しかし、段々自分の時間が取れなくなり、支障をきたすようになり非常に悩んだ。その時、牧師から助言を受け、自分に出来る事、出来ない事をきちんと相手に伝えた。相手は気持ちよく受けとめてくれ、更に良い関係が築き上げられて行った。互いがよく知り合い、良い関係を築くために、自分の弱さや限界を相手に知ってもらう事が大切だ。その時、互いの間に理解と愛が生まれる。互いに重荷を負い合える。理解し合うため、自分の事を真実に語る事が必要。
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それぞれの者となるためには、わかり合う必要がある。きちんとノーと言える事が相手に対して誠実なことだ。よく祈って言うべき時にはノーを言おう。うわべの付き合いから進展させてくださる。


2004年03月04日(木)

「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ12:34)


 聖書の御言葉は「互いに」という事をよく言っている。互いに愛し合い、互いに従い合い、互いに同じ思いを持ち・・一方的でなく、相互の関係を御言葉は言ってる。愛する事においても「互いに」だ。与える事はできるが、受ける事が出来ない人が時々いる。助ける事が良いが、助けてもらう事が苦痛で出来ないのだ。ある人が目の病にかかり、その期間、人の助けを受けなければ、何一つする事が出来なかった。何をするにも人の助けを必要としたのだ。しかし、周囲の親切を通して、神の大きな愛を体験し依存しなければ生活できない中で、ますます神を知り、神を近く感じ、頼れば頼るほど、神がはっきり見えてきたのだ。受ける事は大きな恵みだ。
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愛を受ける時には、相手に気を使わしてしまったような、申し訳ないような気がする。互いに気を使い合う…ではなく、愛し合うとは互いに相手を完全に信頼し、素直に心から喜んで受けたらいいのだ。




2004年03月03日(水)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)

ある婦人が頑張って、頑張って生きて来た。妻としても母としても完璧を目指し、仕事もしていたが、有能でありたいと、仕事にも身を入れ、懸命に働いた。努力は報いられて職場からも認められ評価も得ていた。そんな時、突然の病に倒れた。病は長引き、ベットで何一つできない状態に陥った。今までの生活との余りの落差に落ち込んだ。自分の能力が使えないまま、失望と落胆の中で、今までずっとにいて共に歩んでいて下さった神様を初めて身近に感じた。今までもずっと一緒にいて下さったが、自分は神に全く頼らず、自分の力で歩んでいたことに気づかされた。自分の力が奪われて初めて、神との親しい交わりを経験した。神に頼る事を初めて知った。
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自分の力で歩んでいる時、神様が全く必要無い。ずっとそばにいて下さるが、神様に向かって「結構です」と何もさせない。無力の時が一番神に近い。無力の時に初めて神に頼る事を知る。心砕かれる時が、喜びと安らぎに満たされる時。


2004年03月02日(火)

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばをはなし、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)



 日常生活の中で、余りに多忙でイライラする時、思い通りにならない時、家族や周囲に当たっていないか。当り散らして、ストレスを発散する。きつい言葉や態度で、相手を傷つける。悪い言葉とは、人を傷つける言葉だ。又、身近な者は相手に何を言えば怒るかを、どう言えば傷つくかをよく知っている。その言葉を発する事だ。人を傷つける言葉をいっさい口から出してはいけない。言葉は人を殺しもし、生かしもする。自分の事だけを喋り続け、相手の言うことに耳を傾けないなら、まず、人に恵みを与える事はできない。よく聞く時に、聖霊がふさわしい慰めの言葉、励ましの言葉を与え、人に恵みを与えるために用いられる者とされる。

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なにげなく口から出す言葉を、今日からは意識してみたい。
自分のための言葉でなく、相手を建てあげるための言葉、必要な言葉
だけが私の口から出てきますように。


2004年03月01日(月)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」(エペソ4:26)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」(エペソ4:26)


 怒ること自体は罪ではない。正しい怒りがあり、イエス様も怒られた。宮きよめなど、縄を鞭にして牛や羊を追い払い、両替人の金を散らし、台をひっくり返された。聖なる宮が商売のために使われている事に怒られた。罪に対する怒りがある。しかし、自我から出る怒りがある。自分の思い通りにならないと、不機嫌になり、イライラして周囲に当り散らす。それは伝染して、周囲も不愉快になり、怒りっぽくなる。怒りはその日のうちに解決すべき。悪魔に機会を与えてしまう。自分の怒りは自分に責任がある。相手があったとしても、怒ったのは自分なのだから、それを認めて、悔い改め、又、相手に害を与えたなら謝り、相手に思いを告げる事も大切だ。
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怒りは悪魔に足場を与える。怒りで自分をコントロールできなくならないうちに、怒りは静めなくてはならない。神様にその怒りをうちあけ、自分の心をよく吟味し、しっかりコントロールしていこう。