2004年04月29日(木)

「さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました」(Uコリント7:5)


 信者であっても未信者であっても、人生において等しく試練はある。神を信じなくても苦しみはある。信じる者に、神は試練をどんどん送られる。パウロは自分の苦しみ悩み辛さを率直に表した。それゆえ、苦しみの中でどのように神が助けて下さるのかを人々は見る事が出来た。「少しの安らぎもなく恐れ・・」「気落ちした者を」と正直に率直な気持を分かち合った。それは人々の助けになった。また、自分達も正直に話して良いのだと感じさせた。何の問題もない振りをするのは、人生に起こる悲しみや苦しみは神のみこころではないと言っている事になる。ありのままでおれば、周囲の人々も神が必要を満たし導いて下さるお方と知るようになる。
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いつも平安な振りをしているなら私達の信仰を証しすることも出来ない。弱い私達が苦しみや恐れの中で神様に頼って行く時、人は神様の栄光を見る。


2004年04月28日(水)

「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコブ3:8)

学校の役員会で、欠席した人々への悪口と非難が集中した。それが漏れてしまい、またたく間に広がり、怒り、猜疑心、敵対心で大嵐が吹き荒れ、もめにもめた。誰も舌を制御できない。話したくてうずうずしている。肉欲から湧き出した言葉は、死の毒に満ちている。噂話や悪口は肉欲に大きな誘惑だ。ある人が「電話で、相手が、自分自身も普段から良く思っていない人の悪口を言い始め、同意しようとするところに、ちょうどキヤッチホンが入って、我に返えて、守られました。神様でした」口から出した言葉は取り戻せない。自制せよ。口を聖霊にコントロールして頂く必要がある。小さい火が大きい森を燃やす、大火事を引き起こさないために。口を自制せよ。
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噂話や悪口は、その対象になった人を深く傷つける。愚痴や不満は周囲の雰囲気を壊し、害毒を流す。心にある事を口が語る。心にある事は必ず出て来る。口以前に、まず心が問題だ。心を神に明け渡し、聖霊に支配して頂く必要がある。すると良いものが口から出る。


2004年04月27日(火)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ・・」(ローマ12:2)



 道路を走っていると「この先通行止め」との表示が見えた。その先で工事が行われていた。ところが「通行止め」と書かれているにも関わらず、どんどん車は進行して行った。どうしようか迷ったが、帰途への近道だった。進もうとすると、前の車がバックして来た。信仰面でも同様だ。神は警告を与え、その道を行ってはいけないと言われる。しかし、私達は無視する。肉のために蒔くなら必ず刈り取りがある。問題を自分で作り出してしまう。どんな時にも、神の導きに従うのが一番の安全だ。右に行くのも左に行くのも、これが道だ。これに歩めと必ず導いて下さる。自分の思いや世の価値観によらず、警告をしっかり聞き入れ、神の導きに従うのが最大の祝福だ。
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この世に調子を合わせるつもりはなくても、いつのまにかこの世の流れに添ってしまう。流れに逆らうには、力強く逆の方向へ泳ぐしかない。みこころに意志を向けこの世に影響されず、みこころを選ぼう。


2004年04月26日(月)

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)


 ある人が胃の手術を受けた。合併症も併発し、大変な痛みと苦しみであった。しかし。しばらくして手術の不備が発覚。再度、手術が必要になった。なぜ、どうして、神はこのようにされたのか。心が騒ぎ、祈ると「恐れないでただ信じていなさい」の御声が臨んだ。御心に従い、神を信頼しようと決心した。すると、平安が心に広がり、不安も恐れも不満も失せて全き平安に心が満たされたのだ。その時気づいた。再度の手術は、それを通して神への信仰と信頼を大きくするためであり、そこを通る必要があったのだと。信仰を成長させて下さり神が近くなった。すべてが私達のためであり益であり、試練は仮面をかぶった祝福だ。神は愛して下さっている。
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なぜ、こんな事が自分に起こるのだろうと思う時、神様からの特別なご計画を信じよう。みこころを求めて祈ってみよう。神様が与えて下さるものはすべて恵みだ。そこに、はっきりとした神様のメッセージがある。


2004年04月25日(日)

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:9)

ナイアガラの写真を見た。その水量の莫大さに豪快さに驚く。実際に見るなら更に壮観だ。どの場所からでも、そのとどろきと共に恐ろしいほどの豪快な眺めだ。ところがジェット機で滝の上を飛ぶと小さな点、川は細い線のようで、ちっぽけなもに見えた。視点によって見え方が全く違う。問題の糸口が見つからず深い苦悩の中にあった、ある人が行き詰まって、静かに御言葉に向かい祈ろうと都会の真中の一番高いビルの最高階の喫茶室へ行った。落日は絶景で創造主である神をすぐそばに感じた。偉大な神を思い問題が小さな事に見えた。途端に御言葉が臨み難問が解決へと導かれた。問題に押しつぶされそうになる時、神の視点から問題を見直せ。
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問題を下から見上げるなら、とてつもなく大きなものに、巨人に見え、自分が問題におしつぶされそうになる。しかし、頂上から問題を見下ろすなら、小さな事に見え、対処できる。神と共に神が見ておられるように、問題を見ることだ。そのために祈りが一番大切。


2004年04月24日(土)

「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(エペソ1:19)

「信ぜよ、信ぜよ、神はすべて成し給う」という賛美があるが、すべてを成されるのは神である。私たちはその神を信じている。信仰生活で大切な事がある。それは信仰の対象である。よく陥る落ち込みが、自分は信仰が薄い、信仰が足らない…。しかし、自分の信仰の量でなく、対象が重要だ。あなたはなぜ電車に乗るのか。それは電車に乗れば行きたい駅に着くと信じているからだ。それは電車を信じているのであって、自分の信仰の量を信じているのではない。私達は自分を信じている神をもっともっと知ることが大切だ。そうすれば信じるに足る方だとますます確信が増す。その方ご自身への信頼が増す。椅子が壊れないと信じているから座る。それほど自然になる。
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自分の信仰を信じるのではなく、神ご自身を信じるのが信仰だ。しばしば勘違いして、自分の信仰を量ろうとして更に落ち込んでしまう。神がどれほど信頼に足るお方であるかは、信仰を働かせてみて初めて知れる。その信頼は更に増して行く。


2004年04月23日(金)

「しかし今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」(ヨブ23:10)



 ヨブは神様に従順に従う立派な人だった。貧しい人を助け、あるいは子供達が罪を犯したかもしれないといけにえを献げ、悪にも反対していた。子供達を失い、持ち物を失い、自分自身の身体も打たれた。友人が来てこれら一連の災いはヨブに罪があるせいだと非難した時、ヨブは自分の潔白を主張し続けた。そして、最終的には神が直接語りかけられた時、ヨブは言葉を失いへりくだった。ヨブの間違いは自分を義とする態度であった。何もわからない無知なまま語っていた事を見せられ悔い改めた。神は「自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」と言われた。自分を義とする態度を良く御霊に照らしていただこう。
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本当の自分の姿は、霊の目によって見せられなければわからない。いつも心低くされて、自我ではないか、自分を義とするところがないか、御霊様に尋ねて行かなくてはならない。


2004年04月22日(木)

「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし真理を行う者のは、光のほうに来る」(ヨハネ3:20)



 罪を犯している人々に時々出会う事がある。私達はそんな時、どうすれば良いのか。互いの結婚相手を裏切り、不倫をしている人々に接する事がある。また、結婚をしていないのに不品行にある男女に出会う事がある。丁寧に親切に接するが、しかし、彼らのした事や、今してる事を是認するわけではない。神はそれらの行為を罪だと言っておられる事を話した。バプテスマのヨハネは、はっきりとへロデ王が、ヘロデヤを妻とする事は不法だと王に告げた。ヨハネは丁重だが罪に対しては妥協のない断固とした態度だった。罪にある人々に親切であり、且つ、罪には重大な結果が待っている事はっきり語る事は愛だ。真の親切は警告し、神を示し、救い出す。
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この世の常識であっても神様が罪と言われるなら私達は光を示さなければならない。愛を持ってノーと言おう。闇の中で神様の光を放つのは、私達の使命だ。


2004年04月21日(水)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)

多くのクリスチャンの日々の信仰生活には、数々の心配があり思い煩いがあり落ち込みがある。神は平安を与えると言っておられるが、平安どころか、心は思い煩いで混乱している。担い切れない重い荷物を自分で背負って、沈み込んでいる。「立ち返って静かにし、落ち着いて信頼すること」を学んでいないからだ。信頼は日毎の交わりから来る。頭ではなく、実際に神に霊が触れる事によってだ。神は人格のお方。ゆえに人格と人格により、その交わりとともに、信頼関係は深められて行く。そして、更に委ねる事が出来るようになる。走り回り立ち騒いでいないか。今一度、立ち返って静かに信頼しよう。力を得る。
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静かに信頼する事が難しくて、肉は立ち騒ぎ、動き回ろうとする。自分を救おうとするからだ。すると、ますます神から離れてしまう。神は、神を信頼する事を喜ばれる。どんなに困難な状況の中でも、恐れずに、落ち着いて神を信じよう。



2004年04月20日(火)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)



 こんな面白い記事があった。「こうすればあなたは確実に惨めになれる」というものだった。「自分の事だけに集中せよ。自分の事だけ話し、自分への賞賛を期待し、自分の得になる事だけを行え。自分より能力のある人を妬め。人の自分への失礼な言葉と態度に極めて敏感であれ。批判されたらやり返せ。決して誰も信じてはならない。頼るのは自分だけだ。自分の思い通りにならなかったらすねてひがめ。他人の悪を根に持ち続け復讐せよ。自分のためにのみ生き、他人のためには何もするな」惨めになろうと思えば自分を世界の中心に据える事だ。しかし、喜びは自分に死んで神を喜ばせようとする時に初めて経験する。
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誰もみな自分、自分でこの世は回っている。その中にあって自分に死んで、傲慢から守られるようにと祈る私達を、主は今日も憐れみ助けて下さる。


2004年04月19日(月)

「あなたがたは、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」(エペソ4:25)



 自分がコミュニケーションをしている相手の事が良く理解できて初めて良い交流が生まれる。育った環境が違うし、価値観、考え方も違う。悪気が全くなく誤解が起きてしまう。ある人は外出好きでしょっちゅう相手を連れ出していた。ところが相手は外出嫌い。苦痛で仕方が無かった。我慢して付き合っていたが、段々辛くなって来た。きちんと相手に伝えた時、「え?そうだったの。言ってくれれば良かったのに」と、相手に理解が生まれ良い関係が続けらレた。自分の弱さや限界を相手に知ってもらう事は大切。その時、相互に理解と愛が生まれ、重荷を負い合える。特に、夫婦は自分の気持ちを「語る」事が大事。相互理解が深められる。
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本当の自分を理解してもらうためには、痛みがともなうことがある。ただ我慢していた方が楽な気もする。しかしその関係はいつまでたっても、そこまでだ。もう一歩進んで深く理解し合うように真実を語ってみよう。


2004年04月18日(日)

「まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました」(詩篇116:8)

信仰生活において、すねる事は大変危険だ。ダビデは危うく足をすくわれるところであった。彼は常に敵に付け狙われ、追い回され、悪意と偽りで彼を落とし入れようとしていた。孤独と恐れの中で、誰も信じられないと思った。すねる事は霊性への攻撃だ。神と人との関係を壊す。すねると、最も良いものさえ屈折してしか見る事が出来ない。最良のものさえ歪めて取ってしまう。どうしようもない。すねるとは闇の世界だ。すねる事は信仰の健全な歩みを損なう。霊性を破壊してしまう。すねると不幸と災いしか見えない。敵の攻撃に自分をさらす事になる。信仰の歩みに大きな影を落とす。あなたの態度はどうか。すねる事に十分気をつけよ。サタンに足場を与えるな。
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すねる、いじける、心を屈折させる、これは神様に背を向けて、自分に閉じこもることだ。偏狭な思い込みで決めつけてしまう。こうなるとサタンは自由に働ける。ますます追い詰められる。そうではなく、神様に正直な気持ちをすべて打ち明けるのだ。否定的な感情も思いも神様にぶつけることだ。必ず導かれる。





2004年04月17日(土)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです」(ヤコブ1:14)

罪に陥って行く人々を見る時、「なぜこんな事が!」と思う。他人から見れば何でこんな誘惑に乗るのか、理解できない。「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」とあるように、サタンはそれほど巧妙で狡猾だという事だ。サタンは姿を変えてやって来る。「お前の人生をめちゃめちゃにしてやる」と言っては来ない。親友の顔をして近づいて来る。「あなたに喜びと幸せを与えますよ」と。私達の罪の欲望に餌を持って来て釣り上げる。誘惑は私達の内にある欲望に合致するので騙される。また、サタンは半分の嘘に半分の真実を混ぜて来るので、なかなか見抜けずだまされてしまう。祈りの生活によってサタンの偽りを見抜くことが出来る。
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もろにサタン的ならすぐわかり、誰も騙されない。それで光の天使に偽装して来る。つまり、まさに神様に化けて来る。あたかも神からのものであるかのように、導きであるように欺く。隠れた肉欲を突いてくる。しかし秩序や結ぶ実によってわかる。今、誘惑されていないか。




2004年04月16日(金)

「かえって人目にかくれたユダヤ人がユダヤ人であり・・その誉は人からでなく神から来る」(ローマ2:28)

「かえって人目にかくれたユダヤ人がユダヤ人であり・・その誉は人からでなく神から来る」(ローマ2:28)


 私達には誰しも肉の欲望がある。人に見られたい人に評価されたい、認められたい、人の賞賛が欲しい、自分をよくアピールしたい、よく思われたい・・。これらの肉は様々な形をとって現われる。肉の欲望は、それが満たされると、ますます増長して行く。高慢になり虚栄心は膨らんで行く。しかし、隠れて事を行う事は、深いそのような肉欲が断たれることになる。隠れて行うことはよいことだ。肉欲に機会を与えない。人前でなく、神の御前に生きるようにさせる。隠れた奉仕をさよ。一つ一つを神は見ておられる。隠れて祈れ。隠れた祈りに神は報いて下さる。隠れた祈りの答えは何という喜び。
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隠れているものを神様は見られる。隠れた心、陰れた行い。人前ではなく隠れたところで真摯に神様とつながり、みこころに歩めますように。


2004年04月15日(木)

「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」(Uコリント10:18)

「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」(Uコリント10:18)

 持って生まれた罪の性質を愛し、自分の事だけを求めて行く。自己顕示欲があり、人に認められたい、人からの賞賛が欲しい。場の中心でないと気が進まない。人の話しは聞かず、自分ばかりが話そうとする。場を仕切りたがる。自分を主張したいのだ。しかし、神は正反対だ。自分に死ぬ事を求められる。人からの評価で動揺する事はない。神にすべてをお任せしているからだ。人が自分よりも人気があり、賞賛され認められていても、動じないで平安でおれる。神が最善をしてくださる事を信じているからだ。人の成功も喜べる。神が自分にも良くして下さる事を知っているから。
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神様が守って下さり、すべて良くして下さるのに、いつまでも自分で自分を守り自分を生かしてしまう。主が推薦して下さること覚え、自分を手放せますように。


2004年04月14日(水)

「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩むものはだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです」(Tヨハネ3:6)


 悔い改めとは、罪に背を向けて方向変換して、今後は神に向かう事だ。救いは悔い改めから始まる。神を愛するとは、罪を憎む事、罪に対する考え方が変わる。今まで戯れ、親しんで来た罪を、断固とし、拒絶する事。それがイエス・キリストを信じる事だ。天に行くまで、罪は告白し、きっぱりと捨て続けなければならない。悔い改めは生涯続いて行く。救われる以前は、罪を愛していた。罪は心地良く甘いものだ。罪をもてあそんでいた。しかし、キリストを受け入れた時、罪に対する認識と態度が変えられた。神が罪を憎まれるので、私達も罪を憎む。神と罪が相入れないものなので私達も罪を離れる。キリストがきよいお方なので私達も聖さを求める。
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天に帰るまで罪との戦いだが、弱さに甘えて罪を憎みきれずにいるのではないか。
主が憎まれるほどに私達も罪を憎んでいるだろうか。今日も聖なる主を見つめていよう。


2004年04月13日(火)

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7:3)


 ある青年会で「赦し合うこと」について学び、その後、色々な体験や思う事を話し合う時を持った。みなが、自由に語り合っていたが、その内、意見の相違が出て来て、議論になった。その相違は互いの反発を招いてしまい、言い争いに発展してしまった。みなが気まずい思いでその会を終えた。神は赦し合う事について、実地訓練されたのだった。赦し合う事について語り合いながら、実際は裁き合っていたのだ。互いに自分の本当の姿があらわにされたのだった。私達は抽象的に観念的に愛する事、赦す事を思い、語るのは簡単だ。だが実際の生活が重要だ。自分の本当の姿を知り、弱い私達を導いて下さる御霊の助けを知る。
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頭で十分わかっている事と現実とはずいぶん違う。自分には甘く、とかく人のことならすぐにわかる。自分の弱さをいつも覚えて、互いの弱さにこそ寛容であれるように。


2004年04月12日(月)

『モーセは言った。「なぜ柴が燃えていないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう』(出エジプト3:3)


 モーセがホレブにやって来た時、柴の中に炎を見たが、燃えているのに、柴は焼けつかなかった。不思議に思い、よく見ようと近づいた。神はあたかも、「やっと私に注意を向けたか」と神が言われたかのようだ。神は、そこでモーセに重大な事を語られた。同様に神は私達にも語りたいと思っておられる。ところが、私達の注意はどこにあるだろう。世の事に夢中で、心が神に無いか。まるで注意散漫か。神は語るためにまず注意を引かれる。心が神に焦点が合った時に語り出される。あなたはどうか。仕事に学業に趣味に、愛するものに心を奪われていないか。あなたの状態はどうだろう。もっとよく見ようと神に近づく必要がないか。その時、御声が聞こえる。
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神様の御声はみなに平等に語られているが、他のものに気を取れれているとずっとわからない。教えられないで、何も聞かないで生きて行くのなら、なんと虚しいことか。


2004年04月11日(日)

「そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです」(使徒27:24)


老齢で妻を看取った夫が、明確な決断を迫られた。敬虔なクリスチャンである妻のゆえに教会へ一緒に行ってはいたが、中途半端な名前だけの信者だった。妻の死後、真剣に神に向かい始めた。神を求めた。物質的な物はもはや全く重要ではなかった。残りの人生をどう過ごすかを思い巡らせ、神に立ち返り、神と共に、神に用いられる余生でありたいと決心が与えられた。ある婦人は姑が愛情深いクリスチャンだった。その姑が亡くなった時、彼女の人格、彼女から受けた愛のゆえに、神を求め始め、救いに入れられた。一粒の麦は、地に落ちると豊かな実を結ぶ。愛を周囲にまくなら、魂の救いを刈り取る。祈りと愛の行いを持って、親族の救いのため仕えよう。
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敬虔な舅さんが亡くなった、息子の嫁である未信者の婦人。愛情注いでくれた舅の素晴らしい人柄に、どうしても舅の愛した所に来たかったと、涙ながらに来会。求道を始められた。生きた証しに触れた。親族に仕えて行けるように。


2004年04月10日(土)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴なわれます」(詩篇23:2)

それでなくとも、ストレスの多い世の中で、心がストレスで、一杯になった時はどうすれば良いのか。休む暇もない多忙の一日の終わりには、身体はクタクタに疲労し、神経はすり減り、消耗しきってしまう。静かな音楽で心を休めようとするが、その音楽さえ、音が煩わしく疲れてしまう。相当疲労しているのだ。主は、こんな精神的ストレスを受けた時は、どうされたのか。悪霊を追い出し、病人を癒し、群衆は常に群れをなして押し寄せる。心身が消耗しきってしまわれただろう。主はいつも一人になり御父に祈られた。これが解決法だ。静かな場所で一人になって、心を天に向けて祈るのだ。御霊に触れて、心身共に癒され新たにされる。実行せよ。
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主はよく群衆から離れ、弟子達からも離れ、一人になられた。一人きりになり、御父と交わられた。ストレスのある時は、あるがまま受け止めて下さる神様に、心の内のすべてを打ち明けよう。神に知って頂き、神の霊に触れると心が新たにされる。生き生きとしたものが出て来る。息を吹き返す。


2004年04月09日(金)

「ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」(ヤコブ5:11)


ある奥深い山中の保養施設に向かう途中、真っ白な霧におおわれてしまった。四方八方全く何も見えない。ただ真っ白。危険なので脇に寄る事も出来ずただ目を凝らして前方を凝視し、そろりそろりと祈りながら目的地まで走った。無事到着した時は神に感謝した。私達は試練の時にこれと同じ状態を感じる。濃霧の中で、先が何一つ見えないように思える。苦しく辛いばかりで、何もどうにも出来ないと感じる。しかし、誰しも経験するが、霧が少しづつ晴れて来る。トンネルは時が来たら、必ず出るし、試練は乗り越える。そして、試練の真っただ中で、常に神は共におられる。試練には必ず結末があり、試練を通してもあわれみに満ちたお方である事を知る。
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試練の中で、自分を苦しめるのは自分だ。結末をあれこれ思い煩い疲れ果てる。結末は神様の最善がなさされると、いつも神様を覚えて行くなら恐れはない。


2004年04月08日(木)

「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)


 ぶどう園で働く労務者の記事が出て来る。朝早く出かけた労務者は一日一デナリの約束で働いた。九時と一二時来た人達は「相当のもの」との約束で働いた。五時にも仕事が無くて立っている人々を招いた。そして、全員が等しく一デナリの報酬をもらった。それを見た、朝から暑さの中で一日労苦した人々が不満をぶつけた。最後の人達は一時間しか働いていないのにと。これは、私達の信仰生活も同様だ。人を見て人と比較した時に、不平と不満で一杯になる。もし、自分に与えられたものだけを見て、満足するなら感謝に溢れ、幸せな人生を過ごせる。比較は人を不幸にし、落ち込ませるばかりだ。神と自分の関係だけを見て、その関係を深める事だ。
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自分と神様…この関係だけに焦点を合わせて行くことが大切だ。サタンはいつも環境や人を見せてくる。人は私に何のかかわりもない、神様に従うといつも自分にメッセージしていよう。



2004年04月07日(水)

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(ヨハネ1:9)

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。光は輝いている。問題と悩みの中に、暗黒の世界のまっただ中に輝いている。すべての人を照らしているが、、気づかない人もいる。この光は人を根底から変える力がある。光は照らし出す。心の暗闇を、醜いところ、汚れたところ、罪を照らし出し、私達を造り変えて行く。大きな力だ。暗闇には二つの場合がある。光が無い事と、見えない事によってだ。見えないと、どんなに光が輝いていても見る事ができない。まっ暗闇だ。心の目が罪によって暗くなっているなら、光があるにも関わらず、見えない。主イエスを受け入れる時、心の目が開かれる。光が闇の中から輝き出よ、と言われた神は、私達の心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせて下さるのだ。
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常に主は、私達の心を照らして下さっているのに、光はあるのに、自我に曇らされて、目が見えない。自分の欲望、自己中心、自分の思いが強いと、全く見えなくなる。自分の思いを捨て、自分を明け渡して行くなら、光が照り出し、さやかに、神が、みこころが見えるようになる。


2004年04月06日(火)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴言27:5)


 対人関係の中で、その意見に反対の場合がある。ところが、意見に反対されると、自分が否定されたと思ってしまう人がいる。そうではなく、仲の良い事と反対意見を自由に表現しあう事は両立する事だ。ひたすら和を保つ事が良い人間関係だと思っている人がいる。しかし、真に相手を愛し、思い、気遣うなら双方の間に波風が立つ事を避けられない。面と向かって、本当の気持を話し合えるなら、更に理解を深め合い、相互の関係を深めて行く事ができる。また、もし相手が間違っているなら、はっきりと指摘する必要があるかもしれない。悪い言葉をいっさい口から出しては行けないが、出しさえしなければ、黙っていれば良いのではなく、真理は語らねばならない。
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真に相手を思うなら、愛を持って踏み込んだ意見を言い合う時も必要だ。互いが忌憚なく語り合い、また許し合い、成長して行ける友人は本当にたいせつだ。


2004年04月05日(月)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:23)


 ある教会ではクリスマスにいつも老人の訪問をしていた。その後、ホームの事務所から、もっとお話しを聞きたいという老人の連絡があった。教会から定期的にその人を訪問し、話相手になり、語り合い、御言葉をお話した。しばらく後、その人はキリストを救い主と信じ、救われた。そしてなんとその後、癌で亡くなったのだ。神が行けと言われた時、すぐに訪問を実行した事により、その人は救われた。神の御声に耳を澄まし、せよと言われた事をすぐに実行する事はなんと重大な事だろう。もし、時を逸していたらどうなっていただろう。神が示された事をすぐ実行に移せ。あなたはなおざりにしている事、ぐずぐずしている事は無いか。今すぐに従え。
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御言葉を聞いているのに実行せず先延ばしにするなら、聞いていないのと同じだ。御言葉の種は芽を出さずに枯れてしまう。実行できるように祈り行おう。


2004年04月04日(日)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはなりません」(ルカ10:42)


ある婦人、早朝に目覚めるや、すぐ電話が鳴った。その日の仕事に関する急な連絡だった。引き続き、打ち合わせの電話が入り続け、大急ぎで支度し、出勤した。帰宅後は家事に追われ、疲れ果てて就寝した。神との交わりを持たないまま生活するなら、何かが失われて行く。マルタとマリヤはどちらも主イエスを愛していた。それぞれの方法でイエスに愛を表した。主はマルタのもてなしを非難されたのではない。ただ、マリヤの御言葉を聞こうとする態度を、無くてはならぬ唯一のものと言われたのだ。他人へのもてなし、他に仕える事は、無くてはならぬ唯一つの事がおろそかになるなら、完全ではない。本末転倒になってはならない。
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生きて行く上で、どうしても必要なことは一つだけと言われた。その一つを、生活で第一に大切にするなら必ず豊かに祝福される。日々の生活に喜びが来て、神がわかる。頭でわかっている事を、実行する事が大切。意志で選び取る事が必要。


2004年04月03日(土)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)

ある、神を信仰している敬虔な両親の娘が病で亡くなった。周囲の心ない人々は、信仰しているのに、どうしてこういう事が起こるのか、神が愛であるなら、なぜなのか、神は全能ではないのかと、疑問を投げつけた。しかし、両親は答えた。娘の事で、神を非難した事は一度もない。娘は今、天の御国におり、御父に抱かれて安らぎの中にいる事に慰められている。娘の長い闘病生活を通して、家族は一つになり、家族の互いの関係は深められ、固い絆で結ばれた。そして家族が試練の中で神に近づき、神を更に深く知る者とされた。深い悲しみと苦しみを通ったが、神は耐える事の出来る恵みを与えて下さった。神は耐えられない試練は与えられない。
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苦しく、辛い状況が起きた時、神に焦点を合わせるか、自分を見るかで、天と地ほどに違って来る。自己中心からは、自己憐憫、屈折、愚痴、不満しか出ない。神の見方に立つ時、周りに神の栄光を輝かせる。必ず苦しみに会ったことは幸せだったと言える。


2004年04月02日(金)

「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」(マタイ6:8)

異邦人の祈りの特徴は、くどくどと祈る事。同じ言葉を、ただただ繰り返し、言葉数で効果を得ようというものだ。では、私達はなぜ繰り返しが不必要なのだろうか。神がすでに私達一人一人に必要なものを知って下さっているからだ。あなたの全てを親しく知っていて下さっている。又、くどくどと祈らないのは、神の愛を信じているからだ。神と労使関係にあって、交渉次第というのではない。神とは信頼関係にあるのだ。信頼とは神の御言葉を信じ、御言葉の約束に立つことだ。そして、神は言葉数ではなく、その心を見て下さる。信頼しているから、信じているから、願い、求めるのだ。神はその願いに答えて下さる。そして、更に神との関係が深められて行く。
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言葉数で、力で、恵みをもぎ取ろうとする態度は的はずれだ。言葉数の問題ではない。神とはそういう関係ではない。信頼で成り立っている関係だ。どんな時も、愛していて、心を知っていて下さる。最善をして下さり、常に最も良いものを与えて下さる。それを信じているから、求めて行く。


2004年04月01日(木)

『イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」』(ヨハネ21:17)



 ペテロが三度主を否んだ後、主は十字架にかかられ死なれた。その後、主はよみがえられ、弟子達に現われた。そして、イエスを知らないと三度否んだペテロ、主に合わさる顔がない。そんなペテロにイエスは事実を明らかにしつつ、回復の時を与えて下さった。主を愛していますと、言えるように機会を作って下さった。主に顔向けも出来ないペテロの、その心の内のすべてをご存知で、「あなたはわたしを愛するか」と問いかけて下さった。ペテロをどんなに深く愛しておられたことだろう。わたしがかかった十字架はまさしくあなたのその罪のためだと言われたかった。なすすべもなく、一度捨てた網を取り上げ漁に戻るペテロ、その彼に「私の羊を飼いなさい」と主の働きへ。
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醜く、主に顔向けできない罪のためにイエス様は十字架にかかって下さった。受け入れがたい本当の自分をしっかりと認め、それでも愛して下さっている主に従っていこう。