2004年05月31日(月)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません」(Tテモテ6:6)


 すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならないとあるように、貪欲は罪だ。貪欲の罪により平安と満足を奪われてしまう。「それは必要か」と神に問うなら守られる。欲しい物と必要な物は別だからだ。それを混同すると次ぎから次ぎへと持てば持つほど欲しくなる。欲望とはそういうものだ。私達の生きている目的は物を貯める事ではなく、神を知ることだ。これをいつもしっかりしておかねばならない。貪欲から他の罪へと発展して行く。ダビデは他人の妻を欲しがった事から姦淫、盗み、殺人へと発展した。貪りは偶像礼拝である。この世の富や物で心の満足を得ようとする事だ。貪欲は貪欲を生み決して満足する事は無い。主にのみ真の満足がある。
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貪っていると自覚しないで気がつくとすっかり物に心が奪われて神様から与えられているもの以上に自分の思いを優先させている。これは罪だ。一つ一つ「それは必要か」と神様に問いながら、貪欲から守られますように。


2004年05月30日(日)

「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ」(ハガイ1:7)


 害毒はすぐに周囲の広がる。悪は伝染病のようだ。しかし、不思議な事に聖さ勝手には広がらない。世を愛し快楽を求め世にまみれて生活しているクリスチャンがある日起きたら知らない間に聖霊に満たされていたなどあり得ない。聖さはオートマチックでは来ない。自ら神に求め、祈り、信仰と従順を通して与えられるものだ。ハガイは自分達は選民だから聖いと思い込んでいるイスラエルの民に、聖くなりたいのなら、まず自分を献げ、神に従って行かなければならないと語った。献身的な両親は助けになるが、彼らが子供を聖める事は出来ない。自分で求めなければならない。主の求めておられる事を知り従うなら聖くなって行く。従う事を選択しなければならない。勝手にはならない。
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自己満足、自分中心の生活の延長線上に神様からの聖さはない。自分の思い通りの生き方を目指していた歩みを、今一度、神様中心の生き方へと変えて行かなくては。私達の現状はどうだろう。



2004年05月29日(土)

『アブラハムは答えた。「イサク、神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた』(創世記22:8)


 私達の教会は独立した時からずっと赤字だった。しかし、そのつど特別献金をすると少し多い目に満たされた。誰も幾ら献げるか相談しないのに、常にそうだった。新会堂を建てた時も奇跡に次ぐ奇跡を見た。赤字があるが目の前の絶対必要な物は今まで100%満たされて来た。アブラハムは目に入れても痛くないほど愛するイサクを献げるよう求められた。どうして出来るだろう。しかし、イサクを得るまでの長い日々に信仰が練りきよめられ信じる者に必ず報いて下さる神を知った。彼は備えて下さる神を信じたのだ。私達も様々な試練の中で、決して裏切られず失望させられない神を経験しつつ信仰が成長して行く。神を信頼して行く時にどんなお方か知る。
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教会の一つ一つの試練が神様を知るための祝福の道となった。とうてい払うことなど不可能な必要経費は、神様に頼りつつ歩むと最後は大きな祝福と神様への賛美で終わった。この目で栄光を見た経験が、今も私の信仰を支えている。頼らなければ、備えられている祝福は何一つ見ることはできない。


2004年05月28日(金)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し・・御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Tヨハネ4:10)



 この世の価値観では、良い子だと受け入れられる。親は良い子であって欲しいと願い、子供も親を喜ばせるために良い子であろうと頑張る。しかし、心の奥では決して良い子でない事を自分が一番知っている。行動の動機は決して純粋ではなく自己中心、自分の欲望である事も知っている。良い子でなければ受け入れてもらえないと絶えず恐れがある。それで、神の愛に関しても同じように思ってしまうのだ。良い子なら愛され、うまくやれなければ愛を失うと。いつも恐れがあり不安なのだ。しかし、私たちが愛されたのは、愛されるに値するからではない。まず神がはじめに一方的に愛して下さったのだ。あなたの状態で、神の愛は決して変わらない。
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自分の内に少しでも良いものがあるから愛して下さっているのではない。私が私であるだけで、ただ惜しみなく変わりなく、今日も明日も愛し続けてくださる。霊の目を凝らしてこの神様のご愛をさらに知って行く者でありたい。


2004年05月27日(木)

「人はその口にするあらゆるむだな言葉について、さばきの日には言い開きをしなければなりません」(マタイ12:36)


 この御言葉によると、口から出す一つ一つの言葉に責任を負わなくてはならないという事だ。かの日に言い開きを求められる。一日に口から発する言葉についてそのように考えた事があるだろうか。ほとんど無いのではないか。無責任にたいした考えも無く、思った事を思うままに口から発していないか。よく心する必要がある。一度口から発した言葉だけは取り返しがつかない。言葉は人をひどく傷つける。感情にあおられて、感情のままに言葉を決して出してはならない。あなたの日々の言葉をよく点検せよ。むだな言葉はどうか。真実であっても言う必要の無い言葉は多い。その言葉はここで必要か、聖霊は導いておられるか。そうでなければむだな言葉だ。
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その重さを深く考えることなく口から出している言葉。口から出す前に祈ってみたい。祈るよりも先に口をついて出る言葉の多くはむだな言葉ではないだろうか。益より害のある言葉は口から出してはいけない。


2004年05月26日(水)

「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか」(箴言6:27)


 火遊びをしていて致命傷に至るのはよく聞くところだ。ある女性はとがめながらも妻子ある男性と付き合い、とうとう相手の家庭も自分の家庭も壊してしまった。火をふところにかき込んで着物が焼けないわけがない。その結果は明らかに目に見えている。罪と戯れてはならない。自分は大丈夫と思い、こんな小さな罪ぐらいと思う。しかしそれは欺きだ。害のないように欺かれているだけで、必ず死だ。きっぱりと罪を捨て、罪から離れよ。一番危険んな罪は勢いよく飛び込んで来るのではなく、少しづつ少しづつ知らぬ間に忍び寄る。それゆえ気づかない。罪を捨てよ。
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私達は火をふところにかき込んで自分で消せるほど強くはない。罪に魅せられやすい、こころもとなく弱い者だといつも自覚し光の中で生きよう。


2004年05月25日(火)

「たまたま、祭司がひとりその道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った・・同じようにレビ人も反対側を通り過ぎて行った」(ルカ10:31)

ある人が夜道で、塀に寄りかかってうずくまっている男性を目にした。どうも酔っ払いに見える。いや、そうでなく気分が悪いのかも知れない。どうしよう、一瞬様々な思いが脳裏を巡った。誰か後から来た人が対応するさ。面倒に関わるのは困る。時間もない・・出来たら関わりたくないのが本音だった。しかし、内なる感覚が道の反対側を通り過ぎる事にとがめを感じた。彼は聖霊に従って、立ち止まって対応したのだった。私達はどうだろう。目の前に立ちはだかった予定外の事態。時間を取られるのが嫌で、面倒な労力が嫌で、関わりたくなくて、反対側を通り過ぎてしまう。根にある自己中心だ。しかし、自分の思いでなく御霊は何と言われてるだろう。どうであれ御霊の導きに従おう。神の素晴らしいみわざを見る。
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主の指示を求めないで、自分の思いで、自分の判断で事を行なうと失敗する。失敗に失敗を重ね、自分の思いで動くと失敗するゆえに、御霊に従うようになる。関わりたくない思いが来た時、しかし、御霊はどう言われるか導きを仰ごう。キリストのお心に従おう。


2004年05月24日(月)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません」(詩編51:17)

子供の頃、よく経験があるのではないだろうか。兄弟喧嘩をすると、親が仲裁に入る。親は強制的に、双方に「ごめんなさい」を言わせて喧嘩終了にする。その「ごめんなさい」は強いられての謝罪だ。だから、親が見えなくなった途端、喧嘩再燃だ。「最初にやったのはそっちだ」。双方悪いと思っていない。強制された謝罪は、相手に対する気持ちも態度も何も変える事が出来ない。神に対する悔い改めも同様だ。口先だけの悔い改めは、心に何の変化も起こさない。この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れていると、主が言われた通りだ。した事の結果が悪かったと思うだけで、心が変えられる事は無い。「世の悲しみは死をもたらします」だ。しかし、聖霊に導かれた悔い改めは心が変えられる。それは態度と行ないとなって表われ出る。必ず悔い改めにふさわしい実を結ぶ。
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悔い改めとは、単なる後悔ではなく、深い罪の認識であり、180度方向変換することである。聖霊の光の照らしに、うながされ、応答することであり、頭の中、口先だけの事ではなくて、全人格におよび、心と態度、生活が変えられて行くことだ。


2004年05月23日(日)

「外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から取り除きなさい」(Tコリント5:13)

この世の中には裁判所があり、犯罪は正しく裁かれる。犯した罪を償うため、刑務所で服役する。キリストの御名を汚す教会員に対して、御言葉は断固正しい処置を取るべきと告げている。その本人のためであり、教会のためだ。神の御名が世の人の前に汚される事になるからだ。御名が侮られ、軽んじられる事になる。クリスチャンは自分のした事の責任を取るべきだ。もし、罪を犯してしまったら、はっきりと自分の罪を認め、告白し悔い改めるべきだ。その時、主イエスの十字架で流された血潮はすべての罪から私達をきよめ、赦される。もし、罪が無いというなら、神のみことばも私達の内に無い。もし、兄姉が罪を犯していたら愛を持って訓戒すべきだ。
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罪を犯してしまうが、罪を認め悔い改めるなら赦して下さる。御霊が罪を示しておられるのに、罪を認めないなら、真理は私の内にない。又、御霊を偽り者とする事になり、みことばはもうない。恐ろしい状態に陥る。御霊の示しに敏感であろう。過ちから救われる。あわれみは尽きず豊かに赦して下さる。



2004年05月22日(土)

「神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです・・器官は多くありますが、からだは一つなのです」(Tコリント12:18)

沢山あるピアノが、もし一つの音叉で調律されていたとすれば、それらのピアノは同じ音を出す。同様にクリスチャンが皆、キリストに目を向けると一致する事になる。一致の秘訣は皆がキリストを仰ぎ、そのみこころを求める事だ。横を一致させようと駆け巡ると、神抜きの人間的なものになる。私達は必ず皆異なっている。嗜好も意見も考え方も皆違う。それを一致させようとすると必ず争いになる。皆が自分が正しいと自己主張を始めるなら、分裂は必至だ。教会のトラブルメーカーとなる。教会には互いの相違があるが一致がある。それは皆が自分の思いを捨てて、みこころを求め、神と一致しているからだ。あなたはキリストと調和しているか。あなたと神との関係が一番の問題だ。あなたと神との不調和が、教会にトラブルを巻き起こす。
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主は一つ、みこころも一つ、だから皆が御旨を求めるなら必ず一致する。自分の肉の思いと自己中心が分裂を引き起こす。その元は自分と主との関係だ。これが正しければ、間違いも正される。これが歪むと、見方、行動に歪みが生じ自分が正しいと思い込んで、且つわからない。主を仰ぎ、主と調和を保とう。


2004年05月21日(金)

「いなご、ばった・・わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう」(ヨエル2:25)

ヨエルの時代に、神はいなごの大群によって、神から離れた生活から立ち返るよう、神を求めて生きるよう、神への叫びを起こされた。神から離れた生活をしているなら、神は痛みや試練を送って、神に立ち返るようにされる。これは愛であり大きなあわれみだ。数々の犯した失敗を悔やんでいるか。悔やんでも悔やみきれない失敗をしてしまったか。その事をも心から悔い改めて、信仰に立ち、神にお委ねするのだ。神の尽きないあわれみはそれすら益と働かせて下さる。自己中心で頑なな心が犯してしまった過ちを神は赦して下さり、尚も償って下さる。心を尽くしてわたしに立ち返れとの神の招きに応じよう。あなたがどうであれ、神のあなたへの愛は変わる事がないのだ。
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自分勝手に歩む者に、いなごを送って、神のみこころの中に立ち返らせて下さるのは神の愛だ。悔やみきれない失敗を赦し、又、過去の傷をも償って下さる。何というあわれみだろう。神はもろ手を広げて受け入れて下さっている。神に問題はない。問題はいつも私達の側の心の態度だ。


2004年05月20日(木)

私の身に起こったことがかえって福音を前進させることになった」(ピリピ1:12)

パウロとシラスは信仰のゆえに、迫害に会いピリピの牢獄に捕らえられた。何も悪い事をしていない。薄暗い牢獄で足かせをはめられ、むち打たれた身体は激しい痛みが襲った事だろう。神に従っているのに、なぜこんな事が?と疑いや不満で気落ちしただろうか。いや、彼らは現実を受け入れ、神に祈り賛美したのだ。結果的に看守家族が救いに導かれた。私達は信仰生活の中で様々な試練に会う。病や経済的危機や離別、倒産、対人関係のあつれき、その時、自己憐憫やすねたりひがんだり、心の屈折に陥るのはたやすい。しかし、困難の中で、尚も神を信じ賛美して行く時、神の栄光を現わして行く。肢体不自由の中で、厳しい環境の中で、尚も神を信じて喜んで賛美している人々がいる。生きた証しは人々の心に響く。自己憐憫で終るか、神の栄光か、あなたの選択にかかっている。
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こんな事がなぜ?と思う事が起こるが、結果的に、証しになり、福音を前進させる事になる。もし、事態の背後におられる神を認めて、心を屈折させる事なく、信仰持って受け入れて行くなら。サタンに耳を貸す事なく、信仰的態度を選び取って行けるように


2004年05月19日(水)

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Tコリント1:27)

私達は、思うだろうか。もっと有名であれば神様のために力を発揮できるのではないか。アイドルがコンサートに20万人も集める。名があり影響力があればと。平凡な無名な者に何ができようかと。しかし神のわざは平凡な人々によって成し遂げられるのだ。モーセは口下手、ヨハネやペテロは漁師、ヨセフは大工でマリヤは田舎娘だった。現在も同様で、神の大きなわざを行うのは平凡な人々だ。ある学生はクラスで多くの人々を救いに導き、ある0Lは職場の全員に証しした。私達もそれぞれ遣わされ場で、隣人の救いのために用いられる。こんな私をなぜに?「強い者をはずかしめるため」だ。神の力が現されるためだ。神は平凡な人を、あなたを用いられる。遣わされた場で、示された事を行って行こう。
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自分など何も出来ないと思うか。ペテロはイエス様に会った時、「岩」にすると言われた。逃げ去り、裏切ったペテロは後の働きのリーダーとされ、不動の信仰者に変えられた。神には何でも出来る。神があなたを御手に握って、みわざをされる。


2004年05月18日(火)

「・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(ヘブル12:10)

ヤコブは兄のエサウをだまして、長子の権を奪い取った。そのため兄の怒りを買い、家を出なければならなくなった。野宿の不安な夜、ベテルで神に出会う経験をした。これからどうなろうと、決して捨てないとの約束を得た。神は一旦手に握ったヤコブを、決して捨てないで最後まで導かれる。私達も同様だ。ヤコブは叔父のラバンのもとに身を寄せる。狡猾なヤコブはここでも計算を働かせるが、更にうわてを行くラバンに何度もだまされる。自分がエサウにした同じ事を、今度は我が身に受ける。自分がした事は、訓練となって自分に返る事を悟る。苦しみと辛さの中で狡猾なヤコブは砕かれて行く。試練とはそれに会う人を裸にすることだ。試練の中で、裸の自分が出て来る。本当の自分がどんなものか、そして本当は何を求めているかがあらわにされる。地位、名誉、富、人からの賞賛・・。試練を通して聖められる。
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試練の時に、普段は絶対に現れない、平常は潜んでわからない自分が出て来る。そして、まず本当の自分を知らない限り、聖められようがない。醜い、どこまでも自己中心な自分を認める事を求められる。その時、神のみわざがすでに始まっている。このような者が、キリストのかたちに変えられて行く。


2004年05月17日(月)

「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」(ルカ19:6)

ザアカイは人々から嫌われていた。ユダヤ人でありながらローマの手先として働き、税額に上乗せして請求し、私腹を肥やしていたのだから。それは罪であった。富が自分に幸せを与えてくれると信じたが、幻想であった。莫大な富を手にしたものの喜びも心の満たしもなかった。イエスという方なら何とか出来るのではと求めたのだ。その切なる求めは木に登る行為になって表れた。主はその心のすべてをご存じであった。「ザアカイ」と名を呼ばれ、「あなたの家に泊まる」とは、あなたをありのまま、そのまま受け入れますよと言うことだ。罪まみれのザアカイを受け入れて、決して裁かず、この気持ちを受け止め、愛して下さるお方に出会ったのだ。虚しい心は大きな喜びで満たされた。その結果、富は問題でなくなり、償いのために財産を用いた。富のために主のもとを去った金持ちの役人と正反対だ。今日もあなたの心をご存じだ。大喜びでイエスに会っているか。
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急いで下りて来て大喜びで、イエス様を迎えたザアカイ。急いで大喜びで、日々イエス様に出会っているだろうか。ザアカイのような熱意で出会っているだろうか。主は求めに答えて下さるお方。交わりを喜んで下さるお方、心を喜びで満たして下さるお方だ。


2004年05月16日(日)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』ということばを聞く」(イザヤ30:21)

ある時、用を済ませるのに、ちょうど厳しい試練にあった姉妹の家のそばを通った。訪ねなさいとの聖霊の促しを感じた。しかし、相手にも都合があるし、突然は良くないのではとの思いも来る。が、強い促しを感じるので、ドアをノックした。すると、励ましが欲しくて、今祈っていたところだと言った。祈りの答えだと大変感謝され、主の御名を崇めた。ある時は、帰省の途上、旧知の方を訪ねよとの思いが来た。しかし、時間も無いしどうすべきか祈りつつ運転していると、矢印以外侵入禁止の道に出てしまった。その矢印は、まさにその方の家の方角だった。御霊の導きを感じ、訪ねた。大変喜ばれ幸いな時とされた。その方はその後突然天に召され、それが最後の交わりだった。知るよしも無かった。御霊は色々な方法で導いておられる。促しに従おう。
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御言葉を与えたり、メッセージや、人の助言を通して、又、印象や思いを与えたり、環境を開いたり、閉じたりして、御霊は自由に様々な方法で導かれる。祈りがある時、それがわかる。導きがわかるのは嬉しいことだ。わかった時、すぐに従おう。ぐずぐずしていると必ず従えないし、促しが消える。


2004年05月15日(土)

「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)

ある女性がどうしても職場の同僚を愛する事が出来なかった。態度や言動で心に傷を受けていて嫌なのだ。しかし、心に平安は全く無く、自分も苦しく心は重かった。それで神にずっと祈り続けていた。すると、しばらくして社員旅行があり、宿泊が二人一組で彼女と同室になったのだ。心からうち解けて話す機会が与えられ、彼女が生い立ちを話してくれ、その大変な境遇を知り、彼女に悪気が無かった事、つい、人に敵対的な態度になってしまう事が理解できた。結局、職場で一番心の通い合う仲とされた。しかし、これは女性が自分を変えて下さいと、神に願ったその答えだったのだ。自分を変えて下さいの祈りは聞かれる。この姿勢は大きな祝福の第一歩だ。
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苦しい時は、状況が変わるように、環境が変わるように、人が変わるようにとの発想しかない。状況さえ変わればすべては解決すると思う。しかし、一向に祈りは答えられない。神のみこころは状況でなく、私自身が変えられる事だ。状況の中で、砕かれ学ぶ事だ。



2004年05月14日(金)

「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ感謝しなさい」(エペソ4:4)

悪い言葉をいっさい口から出してはいけないとも、書かれている。人の徳を高める言葉を語れと。悪い言葉、無益な言葉とは何だろう。まず言葉は真実でなければならない。なぜなら偽りはサタンから出ているからだ。偽るなら、サタンに用いられる事になってしまう。特に人からの言葉を次の人に伝達する時にサタンの誘惑が来る。そこに自分の主観を加えるのだ。聞いた事を自分色に好悪の味つけをし、足したり引いたりして自分の思うように変えて伝える。これは偽りだ。伝える時は正確でなければならない。嘘ではないが真実でもない灰色も偽りだ。その動機はクリスチャンだから嘘は言えないが、自分に都合の良い事を言いたいのだ。語る時、愛があるか。悪感情がある時、思いが口に出てしまう。あなたの普段の言葉はどうか。チェックしよう。一度口から出した言葉だけは取り返す事が出来ない。人を深く傷つけてしまう。謝罪が出来るのみだ。唇を見張り、よく気をつけよう。
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心に満ちていることを口が語る。口が語るのは、必ずまず心にある事だ。いや別に心に無い、いい加減な事を語ってるという人がいるが、それは心がいい加減という事だ。口でなく心の問題だ。人が語る事は心を表明している。心を聖霊に明け渡し支配される時、人を生かし恵みを与える言葉が口から流れ出る。


2004年05月13日(木)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)

赦せない相手がいると、結局一番苦しむのは相手ではなく、赦す事のできない自分自身なのだ。自分自身が一番苦しい。傷つけられた根深い恨み、激しい怒りや憎しみ、これらは自分自身を傷つける。これらの激しい感情は心だけでなく、身体をもむしばみ、病を引き起こす。憎しみでがんじがらめにされている相手が、目の前にいる時もいない時も、関係なく、心がずっと相手に拘束されている囚人状態だ。神はその苦しみから解放したいと願っておられる。唯一の道が赦す事なのだ。決して赦したくない心を神はご存じだ。赦したくない、憎んでいる心をまず認め、神に申し上げ、助けを求めるのだ。自分の無力を認める時、神が成し遂げて下さる。
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赦せない心はどうにもならない。しかし神には可能だ。赦そうとしない自分の頑固で強情な意志を認め、悔い改めて、赦そうと意志を向けて行く時、神が赦す力を与えて下さる。自分には出来ないが、神が与えて下さる。




2004年05月12日(水)

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(Tペテロ4・10)

所有と管理は異なる。所有は自分のものであり、管理とは人のものの運用を委ねられている事だ。所有なら自分の自由にして差し支えないが、管理は所有者に管理報告をしなければならない。神がこの世界で私達に賜物を与え、管理を委ねておられるのだ。管理者なのだ。いずれ天に帰り報告しなければならない。あなたは任された賜物をどう用いているか。大事な事だ。ある人が世界中の有名なバイオリンを二百数十種収集していた。宝の持ち腐れだ。それらがバイオリニスト達の手にあればどんなに美しい音色を奏で、人々に喜びを与える事だろう。どんなに有効に用いられる事だろう。あなたに任されたものを有効に主に喜ばれるよう管理しているだろうか。
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有名な素晴らしいバイオリンは、訓練を積んだ巧みな演奏者の手にある時、最高の音色を奏でる。私たちの賜物も最高の演奏者であるイエス様の手に握られる時、最高の音色を奏でる。自分自身をイエス様に献げて、用いて頂こう。主に献げる時初めて、本来のあなたの音色が十二分に発揮され、人々をも祝福して行く。


2004年05月11日(火)

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣り人に対して真実を語りなさい・でも罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4・25)

子どもの頃はよく兄弟喧嘩をしただろう。ストレートに怒りも表わし大喧嘩をするが、いつの間にか元に戻っているものだ。しかし、大人になると、これが巧妙になる。露骨には表わさない。しかし、対人関係で非難や批判、中傷に傷つく。又、相手に悪意はなくとも相手の言葉、態度に傷つく事もある。怒りが湧いてくる。神はその怒りを翌日に持ち越してはならないといわれる。その日の内に解決しなさいと。それにはどうすれば良いのか。自分を傷つけた相手に率直に話す事だ。自分がこうこうで傷ついたと。勇気がいるかも知れないがそうする時、怒りがなくなるのだ。神が真実を語るように言われており、黙っているのではなく「語ら」なければならない。
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ある人が全く言われのない非難をされ、苦しみ悩んだが本人に面と向かってその事を話した。すると、その時から非難は止み、謝られた。時に、はっきりと相手に言う事が解決の道だ。もし信頼関係を深めたい相手なら、尚更その事が必要だ。


2004年05月10日(月)

「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」(コロサイ4:5)

郊外をドライブしていたら、御言葉が記されてある小さな看板が数カ所に取り付けてあった。「神は愛です」「わたしは世の光です」等の。近くの教会が証しのために、取り付けたのであろう。教会の看板もそうだが、看板を掲げるとその内容、実際がアピールとなり鮮明となる。私達も同様だ。クリスチャンは歩く聖書と言われるが、私達の看板には偽りが無いだろうか。人々は聖書を手に取って読まないが、あなたには関心を持って見ている。あなたの態度、言動、行動、考え方、価値観、それは彼らにとれ聖書そのものなのだ。彼らはあなたによって聖書を読む。あなたが日々人々の前に描いているのは、どんな聖書だろう。神は愛か。神は世の光か。人々はあなたを見ている。
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人々は聖書は読まない。私達が歩く聖書だ。今日も聖霊の助けによって、ぶどうの木であるイエス様にしっかりとどまって歩もう。そこから霊の喜びが来て、主によって生かされる。主との生き生きとした交わりの中で生きる時、自然に証しとされる。すべてのエネルギーも力も愛も知恵も言葉も、主から来る。


2004年05月09日(日)

「キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」コロサイ2:7

信仰生活が上へ上へと大きく伸びて成長して行くためには、何よりも根が大切と何度も教えられているところだ。豊かな実を実らせるために、根がしっかりしていないなら不可能だ。大木を伐採する時、その根の深さに驚かされる。迷路のように入り組んだ太い根が一面に張り巡らされている。地面奥深く隠れている。あなたの人に隠れた生活はどうだろう。見える所がすべてか。成長して行く人は必ず人に見えない隠れた生活を大切にしている。神との交わりは毎日毎日の地面の下の地道な事だ。誰も見ていない。それを忠実に続けるなら、根をしっかり張り、必ず大きく成長して行く。人に見える働きは賞賛も得られ、心地良いかも知れない。しかし、一番大切なものは人に隠れた根の部分だ。
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デボーションが何より大切だとよくわかる。根が下へと深く根ざさなければ、上への成長は不可能だから。出来ない時は落ち込むのでなく、自分の力で持とうとするのでもなく、神様に出来ない事を、選ぼうとしない自分をありのまま申し上げて、助けを求めよう。


2004年05月08日(土)

「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。わたしはあなたに尋ねる・・自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(ヨブ40:8)

ヨブは神を恐れ、立派な信仰者だった。良い行ないに歩む善い人であった。サタンの提案で神が苦難を許されたので、ヨブのもとに次々と苦難が臨んだ。余りの凄まじさに慰めに来た友人達すら言葉を失うほどだった。ヨブは自分がなぜこんな苦しみに会うのかがわからなかった。自分は義しいのに納得が行かなかった。自らを義とするヨブに神は臨まれた。直接苦難の原因については何も答えられず、全能であるご自身が創造した自然界の測り知れない偉大さを見せられた。しかし、その時ヨブは悔い改めたのだ。納得行ったのだ。苦しみの中で、苦難の理由を理路整然と綺麗に説明されたとして、それで従って行けるものだろうか。神と私との関係はどこまでも「信頼」関係なのだ。神を信頼して従って行く時、どのような状況の中でも満足が来る。
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神とは取引きの雇用関係では決して無い。そこには取引きがあるだけで心がない。愛と信頼の領域が支配する関係だ。その信頼関係を見失うと真っ暗闇に陥る。何も見えない。的がはずれるからだ。神は信頼を求めておられる。答えを持ち、明日をご存じの神に信頼してついて行きたい。


2004年05月06日(木)

『しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます』(マタイ15:27)



 カナン人の女が悪霊につかれた娘の癒しを願った。しかし、主は一言も答えられなかった。尚も女は叫び続けた。その求めに対して主は一見ひどく冷淡な応答をされた。異邦人はだめですと拒絶された。しかし、女は何とその主の御前にひれ伏したのだ。なんというへりくだりだろう。異邦人は犬とも言われ、女はその通りですと、真正面から受けとめ、自分の立場を受け入れ認めたのだ。その結果、素晴らしい祝福にあずかり、立派な信仰だと主の賞賛をも受けたのだ。ここから学ぶ事は、自分の醜い本性、頑なな自我、神に従おうとしない罪の性質、従いたくないわがまま、それらを真正面から見て、主の前に認める時、主は溢れるばかりの憐れみを注がれる。
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主よ、私は本当にそのような者です。どうか憐れんでください・・とへりくだり、すがりつく者を主はかえりみて下さる。主だけが癒し主、助け主と頼る者に主の憐れみは尽きない。



2004年05月05日(水)

「『ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません・・それをここに持って来なさい』・・人々はみな食べて満腹した」(マタイ14:17)

男だけで五千人、女子供をいれると一万人以上の人々のために、五つのパンと二匹の魚しか無かった。しかし、それは全く問題ではないのだ。全能の主がおられる。手持ちのすべてを主のもとへ信仰持って携える時、奇跡を成し遂げて下さる。それが無くても、主には奇跡が可能だ。しかし、用いられる事は何という恵みの特権だろう。薬物依存、非行でたむろしている若者達の救霊とフォローのために大きな取り組みがなされた。その施設建設の莫大な費用のために祈り始めた。一人の貧しい老婆がこれが私の所持金のすべてだと、五つのパンと二匹の魚だと一二万円を献げた。必ず主は全額を満たされると彼女は言った。その通りに必要はその後、見事に満たされた。主の事業が成し遂げられて行った。信仰を献げよう。
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自分の手の中にあるもの、持っているものを、主のもとに献げる時、奇跡をして下さる。主は受け取って下さり、主の栄光が現される。人々も満たされる。どんな小さなものでも問題ない。私達の生涯を献げるなら、主が握り、ご自身のために最大限に用いて下さる。


2004年05月04日(火)

『イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです・・もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです』(マタイ17:20)


 からし種を見た事があるだろうか。イスラエル旅行のお土産に貰った事がある。余りに小さくて驚いた。とても微小の点のようなものだった。主はこんな小さな信仰が山をも動かすと言われたのだ。弟子達が悪霊につかれた人から悪霊を追い出せなかった時に言われた言葉だ。信仰が薄いからだと言われた。祈りと断食が必要だと言われた。からし種の信仰とはどんな信仰なのだろう。いつまでたっても自分の信仰は薄いようにしか思えない。からし種の信仰とは、まず自分の無力を認める事。すべてを主に明け渡しお委ねする信仰だ。自分の無力を認めて、委ねる時、神の力が私達を通して現される。委ねるなら神の全能の力が働く。
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全幅の信頼で神様に委ねることが出来ないのは、祈りで気合いだけをいただいて、後は自分でやってみようと思っているからだろうか。本当は完全に自分が無力などと思ってはいない。神様の前に自分が出て行くなら何一つ変わることはない。


2004年05月03日(月)

「ところが、取税人は遠く離れて立ち・・こんな罪人のわたしをあわれんでください・・この人が義と認められて家に帰りました」(ルカ18:13)



 パリサイ人は他人々のようでない事を感謝しますと祈って、罪赦されぬ罪人のまま家に帰った。神は外側は見られない。心を見られる。その動機を見られる。自分は何事にも一生懸命に取り組み頑張って生きて来た良い人間と信じている人々が時々いる。外側は綺麗に形造っていても、その心の内はどうだろう。その人自身も外側を見ているだけであって、自分の内を見るならどうだろう。高慢、嫉妬、偽り、虚栄心、プライド、様々な欲。良い人などととても言えたものではない。サタンに欺かれてはならない。良いどころか、醜い陰険な罪人だ。それを認める時、取税人のように罪赦され、心を真っ白にされる。自分の内側を聖霊の光に照らされるよう祈れ。
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正直に自分の内側を見る事が出来ないのはなぜだろう。何かやれば少しはましになったとすぐに自己満足し高ぶる。へりくだって聖霊様の光によって現実を見つめる事できますように。高ぶりから守られますように。


2004年05月02日(日)

『イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」』(マタイ19:26)

多くの財産を持っていた若い役人がイエスのもとにやって来た。戒めはよく知っていたが、心の満たし、生き生きとした生きる喜びが無かった。それで、いのちを得るために何をすれば良いかと尋ねた。イエスは心の内のすべてをご存知であった。所有欲が、自我がそれらの妨げになっていた。主は肉欲から解き放ち、満ち満ちた喜びを与えるために、それを献げるよう告げられた。自由を与えるためだ。しかし、役人はイエスより富を選んだ。そして主のもとを去った。そうではなく、主のもとにとどまり、主に助けを求める事を願っておられるのだ。自分には富を手放す事が出来ない事を認め、主に助けを求める事が出来たのだ。主は祈りに答え、変えて下さる。
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役人は所有欲であったが、満ち満ちた喜びを妨げているものが一人一人違う。自分は神との間を妨げている欲望は何であろう。その妨げを献げる時、心が満ちる。献げる事ができなければ、その事を神に申し上げる事だ。






2004年05月01日(土)

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」(ヤコブ4:4)

誰しも経験するところだ。あなたも経験した事があるだろうか。主イエスを信じ救われて、神に従おうとする時、どうしても今までの友人とその価値観において、行動において、相容れないところが出て来る。主を愛するゆえにどうしても妥協出来ない線がある。世の友達と面白く楽しく戯れている中、霊的な力が失せている事に気づく。霊的に流され、時間が奪われ、神のための働きに支障が出て来る。はっきり離れるよう示されるかも知れない。あるいは友人の方から離れて行く事もある。寂しさと孤独を味わうが、しかし、神は主にある新しい仲間を与えて下さり、御言葉で養い、心を満たして下さる。主に従うゆえに払うべき犠牲がある事を覚えよう。
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世を愛するなら、霊的な力が確実に失せて行く。霊的食欲が減退して行く。古い性質が勢いを増して、自分で気づかない内に少しづつ神から離れる。サタンの働く世には凄まじい力がある。自分は大丈夫と思っていると、飲み込まれてしまう。世に流されていないか。気づいた時が立ち止まる時。