2004年06月30日(水)

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい・・互いに赦し合いなさい」(エペソ4:31)

ある人が心を深く傷つけられた相手を赦しているつもりだった。しかし、その傷を話していた時、感情が押さえ切れず涙がこみ上げ、大きく動揺した。「まだ赦してないんだね」と言われ「私は悪くなど思っていない」と答えた。自分はクリスチャンなのだからと思った。しかし、彼女の顔はひどく歪んでいた。心から赦していたら、そんなに感情的になるはずがない。自分に向き合った時、傷を思い返しては、反すうし、自分を傷つけ苦しんでいる事に気づいた。決して赦していないし、忘れてなどいない。そう思い込もうとしていただけだと。現実にしっかり向き合い、現実の自分を認め、神に助けを求めた。その後、彼女は全く癒され、笑いながらその事を話せる自分に気づき驚いた。
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自分はクリスチャンだから、赦しているつもりである場合が多い。あくまでも「つもり」であって、実際は異なるのだ。赦す事のできない、赦したくない自分を認め、正直に神の御前に出る時、神は癒して下さる。しかし、必ず真の自分の姿を認めることを求められる。



2004年06月29日(火)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)

 セミナーであるメッセンジャーが語った。「幸せ」は英語で「ハピネス」その語源は「ハプン」から来ていて偶然に起こる意味。幸せとは偶然が左右するもの。しかし「喜び」は御霊の実。幸せは環境依存の不確かなものだが、喜びは環境からでなく御霊から来る確かなもの。御霊に明け渡し、従うなら必ず与えられるもの。喜びが欲しくて自分の欲望を満たす事に躍起になっている人々がいる。しかし、ますます喜びは遠のき虚しさが心を占める。逆さなのだ。喜びは自分を捨てて、神第一に生きることから来るのだ。神を第一にして、神をお喜ばせしようとして、喜びが無かった人の話しなど聞いて事がない。肉の欲望、満足の的外れな歩みから神第一へ方向転換せよ。
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肉の満足で得る喜びと、霊的なものから来る喜びとの間に大きなギャップがある。まず神様に近づき、神様を第一にして行く時、この差がはっきりとわかる。環境はどうあれ、心の奥が神様に触れられて、本当に喜んでいるのがわかる。日々この連続でありたい。




2004年06月28日(月)

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにでなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイ26:39)



 フランク・シナトラの有名な歌「マイウェイ」を聞いた事があるだろうか。
ファンの心を強く捕らえ共感を与えたようだ。自分の一度限りの人生を自分の好きなように生きようという自己中心な生まれつきの性質に合致する。思い通りにしたいというのは根本的な罪の性質だ。誰にでもある。自分の好きな事だけして好きに暮らしたい。誰にも邪魔されたくない。「すべて心の決めたままに」との歌詞の通りに。しかし、神の世界は正反対だ。自分の意志を明け渡して、神の意志を自分の意志として行く。自己中心に自我に死ぬ事だ。肉の性質はどこまでも自己を主張する。自己崇拝、自己顕示、自分の賞賛。サタンと同じ性質。自分が神。これに死ぬ事が喜びと平安。
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自己崇拝、自己顕示、自分の賞賛が自分を最も不自由にしている事に気づかずどこまでも、心のおもむくままにを実践し、自分探しの旅に陶酔して行く。サタンの思うつぼだ。本当の自由は、全く自分に死んで行く事、もう自分を見ない事だ。


2004年06月27日(日)

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)

家族で登山をした。末っ子が、リュックサックを自分も嬉しげに背負った。途中でバテて来た子供は、父親がリュックを持ってやろうと言うのに聞かなかった。放すのが嫌で、どこまでもかついでいたかったのだ。やがてとうとう疲れてダウンした。父親は子供をそのまま背負って登った。結局父親の背にいる間も、子供はリュックを手放さず背負ったままだったのだ。これは私達の思い煩いの光景だ。神は思い煩うなと、思い煩いを手放すように常に言っておられる。ところが私達はしっかり握っている。絶対に放さない。そうすると、自分の力で歩む事になる。それでもし、うまく行くと、委ねないので栄光を自分に帰して、恐るべき高慢に陥る。良い事は一つもない。今すぐリュックを神の手に渡し、神に背負って頂こう。
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思い煩いの強い人は、思い煩いが好きなのだ。とんでもない、苦痛なのにと思うが、心の底をよく見るとわかる。そこにいたいのだ。思い煩いと共存していたい。しかし、サタンがそこに足場を得て、神への不信仰へと誘う。だが、その弱さは強みとなる。サタンの攻撃の度に、そこに信仰と置き換えるなら、思い煩う度に、逆に確信として深められる。


2004年06月26日(土)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)

ある婦人に娘がいた。優等生で、成績も良く、何の問題も無いまま、言う事をよく聞く良い子で育ってきた。それが成長した頃になって、異変が現れて来た。何か起こると感情のコントロールがきかず、怒り狂ったようになりわめき散らし暴走し、暴力も振るった。どうにもならず精神科に入退院を繰り返した。その中で統合失調症である事が判明した。優等生であった娘の将来への期待、希望がすべてくつがえされた。夫婦は祈りに祈ってこの現実を受け止め、受け入れようとした。尚も祈り、逃げないで目をそらさないでしっかりと受け止めた。一つ一つの目の前の導きを神に頼った。受け入れた時、不思議な平安が来た。主が共におられる事を感じ、大変な状況に関わらず、心に喜びが湧いた。主の平安に支えられ、歩み始めることができた。受け入れる事が鍵だ。
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受け入れ難い事を受け入れる事が、どんなに死闘か経験する。受け入れるとは、自分に死ぬ事だ。どんな悲惨な状況の中でも、御手をしっかり受け入れる時、平安と共に幸福感がある事も経験する。又、様々な人の人生にそれを見る。神様に全面降伏する事が平安の道だ。


2004年06月25日(金)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え・・」(エレミヤ33:3)



 ある男性が公共機関の支払いをきちんとしているのに、未納の督促状が来た。思わず怒りが沸騰した。しかし、妻が冷静に何かの事務上のミスよと言った。祈った後、連絡を取り調べてもらうとその通り機械の入力ミスだった。怒りを爆発させる事から守られた。ある人は、身に覚えの無い中傷をされた。巡り巡って自分の耳に入って来た。全くの濡れ衣なので、なぜそういう事を言うのか怒りが沸いたし深く傷ついた。この事に神に導かれて対応したいと祈った。すると神は本人と直接話すよう導かれた。導きに従った。すると、本人は罪を認め、謝罪した。全く心が癒え何の悪感情も無くなった。事態が起こる時、自分で対応すると感情に振り回される。すぐ神の元へ行け。
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自分の感情に負けてしまいそうな時には、すぐに神様を呼ぶ事だ。感情は自分を決して行きたくない方向へとつれて行く。強靭な精神を持っていない事を自覚し神様を頼ろう。


2004年06月24日(木)

「恐れのある日に、私はあなたに信頼します」(詩篇56:3)



 聖書の中に「恐れるな」という御言葉をよく見かけるが幾つあると思うか。三六五あるそうだ。一日一回、つまり毎日「恐れるな」と神は言って下さっている事になる。それほど人間が恐れる事をご存知なのだ。信仰は恐れを追い払い、恐れは信仰を追い払うと言われている。イラクでボランティアをしていて戦争に会い銃撃線や爆弾を経験したクリスチャンがあんな恐ろしい目に会った事はない。恐ろしかったと言った。命の危険がある時に、恐れを感じる事は別に罪ではない。誰でもそうだ。しかし、主が一緒の船の中で弟子達はうろたえた。その時主は信仰薄い者と叱責された。主よ、助けてくださいは正しい態度だった。恐れが来た時は、うろたえたままでなく、主を仰ぎ、主に頼り、叫べ。
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自分を見ているなら恐怖は次々と沸いて来る。弱い自分、劣悪な環境を見せられてしまうと私達はとたんに揺らぐ。そのような者である事を神様はご存知で「恐れるな」と手を取ってくださる。主を仰ぎまっすぐに立とう。


2004年06月23日(水)

「いちじくの木は花を咲かせず・・畑の食物を出さない。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」(ハバクク3:17)

ある農夫のその年の家計はさんざんだった。全面的赤字だった。野菜が何とかなればと思ったが、干ばつで作物がどんどん駄目になった。枯れて行ったのだ。雨を降らせて下さるよう、収穫を与えて下さるように神に祈った。しかし、干ばつは、ひどくなる一方であった。神はどう思っておられるのだろう。その時、ハバククを通して神は語られた。ハバククはどんな悲惨で暗黒の環境にも関わらず、神にあって喜ぶと言った。彼は状況ではなく神を見ていた。どんな真っ暗な状況の中でも神を信じたのだ。神は愛であられ、計画があられ、しようとしておられる事をご存じだ。環境が、見えるところがどうであっても、一番大切なものは、神との関係だ。神との信頼関係だ。状況を信じるのか、それとも神を信じるのか。
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環境は真っ暗であっても、喜べると言っている。状況でなく神を見る事によって。ハバククは空想の世界にいたのではない。無いものを有るものに空想したのでなく、不毛の現実をしっかり見た。現実を見た上で喜んだ。最善の計画をお持ちである神に焦点を合わせたからだ。これが信仰だ。


2004年06月22日(火)

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)



 ある宣教師の神学生時代の話だ。学校は厳しくて、きちんと授業料を納めなければ進級も出来ず、とどまる事も出来なかった。お金がなくて入学したがどうにかこうにかやって来て、とうとう払えなくなってしまった。ひたすら祈りに祈ったが、与えられなかった。どうにもならず、退学を決心した。荷物を整理し荷造りをした。友人が来て手伝ってくれた。すべてが終了した時、一通の封筒がぽんと置かれていた。事務的なものに見えた。「見ないのか」と聞くと、彼は「もう辞めるのに要らない、捨ててくれ」力なく言った。友人は捨てる前に開いてみた。すると、何とそれは無名の献金だった。その通知だったのだ。二人は喜んで抱き合った。必要満たされたのだ。
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私達には必要を満たし、祈りに答えられる生きた神様がいる。人知を遥かに超えたかたちで、手を差し伸べられる。その神を今日も覚えて感謝しながら歩もう。


2004年06月21日(月)

「すべてのよいことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことはしてもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません」(Tコリント10:23)


 この事はみこころに適っているのか、そうではないのか判断が難しい時は次のように考えるとよい。それは良心を通過できるか。良心のとがめはないか。理性を弱めるものではないか。それはますます神に近づけるか。それとも遠ざけるか。霊的な事柄の食欲が失せるくらいなら、それ自体は無害であっても、自分にとっては有害であり、罪なのだ。すべての事はしても良いが益となるわけではない。ただよく吟味しなければある種の娯楽は霊的食欲を減退させて行く。神から関心がそれ、食欲が失せて行くならよく気をつけよ。自分をしっかり守る必要がある。霊的成長に役立つ事を追い求めよう。
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神様の律法を心の中に書き記されている私達は、自由な判断のもとに行動できる。自己責任だ。果たしてこれからしようとしている事は、自分を霊的に高める事につながるのか否か、神様から遠く離れてしまう事にはならないのか、考えて行動しなければと思う。




2004年06月20日(日)

偽預言者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:5)

深酒の夫を持つ妻がいた。夫婦喧嘩が絶えなかった。酒量がどんどん増え、家計に響き、やがて給料を前借するようになった。毎日喧嘩になり妻は実家に戻ったりしていた。助けが欲しくて妻は教会を訪ねた。聖書を学ぶうちに光で射されるように自分の姿が見えた。夫を軽蔑し見下しさばいている自分の恐ろしく高慢な醜い姿が。恐れおののいて神に御前に悔い改めた。夫へのそんな自分の心がますます夫を酒へと追いやっていた事に気づいた。罪深いのは自分の方で、謝るのは自分だと、夫に心から今までの態度を詫びた。その時から夫が変わった。教会へも来てくれるようになった。相手を責める自分の内に、更に大きな梁がある。それに気づけるように。
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相手が悪いとしか見えない自分は暗闇の中にいる。要注意だ。光が無い状態だ。闇が目を見えなくして、自分が見えない。自分がどこへ行くのかがわからない。「自分が正しい」に立っている限り闇の中で自分の姿が見えない。梁に気づけるように。


2004年06月19日(土)

「信仰と正しい良心を保ち勇敢に戦い抜くためです。ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」(Tテモテ1:18)

車を降りる時、シフトを戻し忘れると、キイが抜けなかったり、ライトを消し忘れるとピーピーと警報音が鳴る。これらによって大事に至ることから守られる。同様に、私達の良心も、心が悪に傾いたり、誘惑に屈しそうになると警報が鳴る。何か間違った事に向かおうとすると、良心にとがめが来る。信仰生活で誰もが経験するところだ。誘惑に乗ってしまい罪を犯すと良心が痛み、とがめ、平安が失せる。罪を告白して、悔い改めると、赦され良心はきよめられる。良心をないがしろにし続けると霊的な破船に会う。良心は大切だ。良心に従えば従うほどますます敏感にされ、拒めば鈍感になり感覚が失せてくる。信仰生活に良心は非常に大切。警報に耳を澄ませ。
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良心は三角形みたいなもので、くるくる回っていて、三角の角が心に突き刺さるので痛い。罪を犯すと心に痛みが生じる。が、無視し、拒否し、なおざりにしていると、角が無くなり、丸になって行く。すると、痛みがなく何も感じなくなる。一線を越えても感じない、信仰の破船状態になる。良心に敏感であろう。


2004年06月18日(金)

「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44)



 趣味は楽しいが、それが仕事になると大変である事は経験するところだ。それで生活をするとなると厳しく甘いものではない。労働の厳しさはよく知っている。実は祈りとは労働の一面がある。楽な労働など無い。骨が折れ、気力を注ぎ労力を使い果たす。主は祈りが戦いのためのちょっとした準備、気休めのためではなく、戦いそのものだと示された。血の汗を流して苦しまれたのはどこか。本番の前にこんなに苦悶苦闘されるとは、いざ本番になれば大丈夫なのだろうかと思うかもしれない。しかし、主は「時が来ました。さあ行くのです」と御顔をまっすぐに十字架へと向けてたじろがず前進して行かれた。眠っていた弟子達は主を裏切って離れた。祈りの力をここに見る
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信仰を持って絶えず祈ろう。求めることが神様のみこころだ。すべてを明渡し祈る時、信仰もまた増し加わる。


2004年06月17日(木)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)


 ある敬虔なクリスチャンに、未信者の友人が聞いた。「神が愛であるなら、どうして苦しみがあるのか、、神が全能なら、なぜこの世は不正だらけなのか」「なぜ、あなたの子供は病気で亡くなったのか。神が助ける事はできなかったのか」そのクリスチャンは、友に答えた。「子供を亡くした事は大きな悲しみだが、神のせいではない」そして、その子と天国で再び会える特権と恵み、そして、子供の死が家族を一つにしてくれ、互いに思いやり合え、愛し合えている事を話した。神は無駄なものは何一つ与えられない。意味の無いものも無い。神は起こる事柄の一つ一つに計画と目的をお持ちだ。耐えられない試練も無い
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苦しみは、苦しみだけで終わらない。それを通してでなければ学べない事を神様が用意しててくださっている。すべてが自分の思い通りに行っていたなら、神様を求め祈ることも、祈られることも、試練の中での神様のご愛も、何も知り得ることが無かった。


2004年06月16日(水)

「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自身の聖さにあずからせようとして懲らしめるのです。すべての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく・・」(ヘブル12:10)

大木のそばにつるが生えているのを時々見かける。どんなに強風が吹いてもつるはしっかリしがみついて離れない風が強ければ強いほどますます、つるを木に押し付ける事になる。私達も同様だ。試練の時が神に一番近い。助けを叫び求めるからだ。今までの人生を振り返った時、厳しい試練の時は一番神に近かったのではないか。それゆえ、より神のもとに近づくように、嵐に会う事をお許しになる。順調に喜び持って歩んでいたのに突然、大きな試練に遭遇し、気がつくと嵐のまっただ中にいる事がある。トンネルの中は真っ暗に感じる。永遠に続くように感じる。しかし、試練には必ず結末があり、定められた「時」がある。神の時以上には延ばされる事はない。神は信仰を成長させ更に強くして下さる。
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試練は悲しく辛く、耐え難いと思う。しかし、「耐えられない試練はない」との御言葉に慰め励まされる。試練の「時」も定め、耐えられる「力」も与えて下さり、その中での神の慰め、励まし、ご愛はことさら心にしみ入り、真に神に触れる。その時は痛くて辛いが、後に通って良かったと必ず思える。


2004年06月15日(火)

「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」(マタイ19:22)



 金持ちの役人が主のもとに来て、永遠のいのちが欲しいと言った。主は役人の心の状態をご存知であった。もっと聖書を読み祈り善行を積めと言われたら喜んでしたことだろう。しかし、主は問題点を見抜いておられた。富への執着であった。それゆえ、そこから開放するために持ち物を売り払って貧しい人に施すよう言われた。彼は富を放せず、イエスのもとを去った。彼は部分的な献身をしていた。しかし全面的献身をする気持ちは無かった。結局主を離れることになってしまう。あなたはどうか。少しは献げるが、自分の所有の心の部屋を残しておく。誰も入れない。その結果は全き確信、喜び平安の欠如だ。中途半端は世の人よりもっと惨め。
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自分の中のイエス様に明渡せないところはどこだろうか。自分で思い煩い、これだけは譲れない、これだけは自分でやってしまいたいところ。ここだけは変わりたくないと大切にしているところはどこだろう。神様の大きな恵みを遮っているところを確認してみよう。


2004年06月14日(月)

『十二使徒は言った「私たちが神の言葉を後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません』(使徒6:2)


 マルタとマリヤの話しも有名だ。マルタは色々な事を心配した。「心配」の語源は「分裂する」だ。心配は心を分裂させる。「どうしても必要な事」を見えなくしてしまう。マルタは悪くはなく一生懸命であったが、どうしても必要な事に気づいていなかった。使徒達もその危険があったのだ。日常の雑務にどんどん手を取られ、多忙になって来た。使徒達はそれに気づき「祈りとみことばの奉仕に励む」事を選んだ。私達はどうだろう。良く考えてみよう。主と交わる事、御声を聞く事、これより重要な事が人生のにあるのか。本末転倒になっていないか。
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神様との交わりがなくて物事に振り回されるなら、いつかは疲れきってしまう。いつの間にか自分の力でやりくりしてしまうからだ。私達はいつも同じ間違いをしてしまうから、神様との正しい関係をまず選んで行こう。


2004年06月13日(日)

「私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません」(Tテサロニケ2:5)

パウロは「人を喜ばせようとしてでなく、神を喜ばせようとして語」った。真実であられる神は、私達の唇から真実な言葉が出ることを喜ばれる。へつらいとは何か。真実を曲げて、相手が聞く必要のある言葉でなく、相手が聞きたいと思っている言葉、相手に都合の良い言葉を語る事だ。人の歓心や賞賛を得るために、大げさな賞め言葉を言う。偽りの賞賛は罪であり、へつらいは罪だ。正直に賞める事が出来る時には、率直に賞めるべきだ。しかし、相手にこびを売るために賞める事は偽りであり、罪だ。偽りはサタンから出たもの。どんなに心地良くても、へつらいは罪だ。あなたの生活の中に、へつらいは無いか。御霊に探って頂き、捨てよう。
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へつらいは偽りの賞賛、罪だ。サタンから出たものだ。へつらいは罪である事を認め、御霊に照らされ、良心に聞き、へつらいは無いかいつも心を探っていよう。神に喜ばれる真実な言葉が、口から出るように祈っていよう。


2004年06月12日(土)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」(詩編5:3)

神の恵みにより、必ず新しい朝が巡って来て、与えられる。どんなに悔やみ切れない失敗をしても、神は新しい朝を下さる。あなたは日々の朝を、今日も朝をどのように迎えただろう。ああ、今日も1日しんどいと陰鬱にか、今日も同じ事の繰り返しと倦怠感でか。あるクリスチャンは言った「私への贈物をわくわくして開ける思いで、一日一日を迎える」と。私達には試練があり、ある時は辛い苦しい耐え難い思いで朝を迎える。しかし、その時こそ、主がいつもより手を固く握り締めて共に歩み、重荷を負ってくださる。最愛の人からの贈物を、わくわくしながら開けるように感動をもって一日の始めを迎え、この素晴らしい贈物である一日を、主に大きな期待を持って始めるなら何と幸いだろう。朝に祈りと信仰を献げ、今日も主に大きく期待しよう。
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可もなく不可もない日々に流されて、漫然と何の感動もなく、過ごしていないか。頭の中の神様で、実は離れて生活していたりする。この1日心新たに、信仰を主に向けて、主に期待して1日を見張ろう。生ける主は生活の細部にまで愛と配慮を散りばめて下さっている。一つ一つ発見しよう。


2004年06月11日(金)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:1)



サタンの目的はとにかく神から私達を離す事、離す事さえ出来たらどんな形でも良いわけだ。策略を持ってくる。「目を離させる」主から目を離すように仕向けて来る。この世の魅力的な心を奪うものを持って来て目をそらせる。世の快楽、楽しみを持ってくる。又、心配や思い煩いもサタンの格好の手だ。不安材料を思い巡らし、心煩わせ神から目をそらせる。人の賞賛を求める思いや、ねたみで、又、嫌いな相手がいて、人ばかりが気になる神から目が離れる。あなたはサタンのどの戦術にひっかかっているか。今、あなたは何を見ているか。あなたの心に絶えずあるものは何か。「あなたのさとしが私の思い」のように御言葉を心にとどめ続けるなら勝利する。
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サタンが自分の思いの中に来るものだと覚えるだけで、ずいぶん楽になる。気づけば、すぐに神様!だ。心がすーっとする。新鮮な聖霊様の息吹がまた心に溢れる。一日中この繰り返しだ。私達は弱いから神様から目を離さないで。


2004年06月10日(木)

「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」(Tコリント7:24)


 奥深い田舎に一人の青年がいた。一人の牧師の開拓伝導を通して救われた。
少年には将来の夢があった。神学校へ行き、牧師になる事だった。しかし、高校の時に、大病を患ったのだ。学業の一時停止を止む無くされ、療養生活を送った。ところが卒業後、再びぶり返した。彼は田舎にとどまって農業の仕事をする以外にない事を悟った。夢が破れ心は真っ暗だった。長い葛藤の末、彼は平安に満たされた。彼は農業の仕事につき、地道に誠実に働いた。礼拝に忠実に出席し、青年会の力の源になった。彼は青年達の霊的指導者となり、尊敬と信頼を得た。決して講談には立たなかったが、すばらしい霊的影響力を及ぼしたのだ。どうであれ御旨に従う事が一番だ。
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神様がおれと言われるならその場が祝福の場だ。行けと言われれば出て行き。いつも御声を求め、聞き従って行く姿勢で神様の前におりたい。


2004年06月09日(水)

「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれる時、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す」(箴言23:31)

蛇が火に取り囲まれていて、青年に助けてくれと言った。しかし、助けたら、お前は私に噛みつくだろうと答えた。絶対に噛みつかないと何度も約束した。それで、青年は蛇を救ってやった。すると、途端に蛇は襲って来た。約束したではないか!と言うと蛇は、噛みつくのは私の本性だからそうせずにはいられない、仕方ないと言った。酒も、諸々の誘惑も同様だ。その気にさえなれば、いつでも酒の力や悪い習慣など断ち切れると思っている。しかし、それは幻想だ。人を刺し、破壊するのは酒の本性だ。誰もそれに勝てない。だからそれを見てもならないと、最初から関わるなと警告しているのだ。自制力があるとたかをくくっているなら、あなたは刺し貫かれてしまう。心せよ。
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神は何もかもご存じで、幸せに歩める道をいつも指し示して下さっている。それに従うのが一番だ。神が関わるなと言われている事に、自分は大丈夫と高ぶるなら、結果は火を見るより明らかだ。火の中に、手をたとえ祈りながら突っ込んでも、必ず火傷する。


2004年06月08日(火)

「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも・・主に対するように、心からしなさい」(コロサイ3:22)



 あなたの立っている場所は聖なる地と言われたごとく、神が共におられるならどのような職業であれ、必ず満足があり、そこに自分の場所を見出す事ができて必ず幸せだ。何をしているのかではない。どのような場所かは、関係無い。神のために働くなら、嫌や苦痛な骨折り仕事ではなく、生き生きとしたものとされる。ある人は職場を神の宮とし、ある人は自分の店を祭壇とした。主婦は台所で主に献げて家族の糧を料理した。嫌で物憂い骨折り仕事か、そこを生き生きとした新鮮な場にするかは自分次第だ。その秘訣は遣わされたその場で、自分自身を全く主に明渡すことだ。真心を持ってそこで主に仕えるごとく仕える時、あなたの生活は変わる。日々は変わる。
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今日つかわされる場所で、神様にすべてを明渡していけますように。限られた自分の力を超て仕えていけますように。そして私達を通して、周囲にイエス様を現していけますように。


2004年06月07日(月)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:14)


 誘惑はすべての者に襲いかかる。どんな者にでもだ。「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し」とあるように、敬虔な者、最もきよい者も同様だ。しかし、誘惑はその者に意思によって魂の内に迎え入られた時だけ罪となるのだ。どんな誘惑も黙認されるか、歓迎されるのでなければ罪とはならない。罪とは誘惑に屈することだ。自分の側で誘惑に対する同意が無い限り、罪は入る事が出来ない。魂が害される事も出来ない。どんなに激しい誘惑でもそうだ。罪を犯す前に、誘惑に同意し、受け入れた結果である。誘惑に同意し、受け入れた結果である。誘惑は輝くように美しいものとしてやって来る。最も弱いところにつけ込んで。誘惑とも気づかない形で。
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誘惑は甘いから誘惑だ。自分の欲にぴったりとはまる。誘惑が来たなら、その場で神に告げ助けを求めよう。心に迎え入れてはいけない。同意するなら罪は熟す。


2004年06月06日(日)

「ですから、私達は、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16)

あのゴリアテに大勝利したダビデが、王の位につき、奢りや心の隙に誘惑が来た時、立ち向かう事ができなかった。誘惑に破れバテシバと姦淫を犯してしまった。あなたは今、大きな誘惑があるか。神に告げるのだ。又、罪を犯してしまったか。直ちに告白せよ。神に心の内を言い表せ。いつもどんな時にも、何でも神に話すのだ。大胆に恵みの御座に近づくのだ。すると折りにかなった助けを経験する。決して自分で処理しようとしてはならない。ますますサタンの思うつぼだ。自分でどうにも出来ないのだから。誘惑が来たら、神に告げ、神に助けて頂くのだ。神のもとへ速やかに行くのだ。鳥のように山に逃げよ。神のもとへ逃げよ。決して自分で処理するな。
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問題と戦っている時でなく、勝利を得た時に大きな誘惑にさらされる。神に助けを求めることが一番良いことだ。自分で何とかしようとすると、サタンの罠にますますはまり、身動きがとれなくなる。誘惑が来たら神を呼び、どんな時にも神に呼ばわるなら、必ず助けを経験する。




2004年06月05日(土)

「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」(出エジプト3:5)


 神の召しというものを思う時、何か劇的なものを連想するだろうか。ダマスコの途上のパウロの回心のような・・。しかし、私達は今いる場所に遣わされているのだ。今、あなたの立っている場所は聖なる地だと言われる。あなたの立っている所は台所か、学校か、職場か。主婦として、学生としてOLとして神があなたを遣わしておられる。あなたの召しはそこで神のために生き、栄光を現す事だ。平凡な日々に、全く同じ事の繰り返しに疲れて、変化も無く面白く無く、やりがいも無いとつぶやいているか。しかし、足の靴を脱げ。そこは神がおられる聖い地だ。今いる場で神に従い続けるのだ。栄光を現す器とされる。
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今、神様の許しの中で置かれているその場所をもう一度、聖なる地だと考えてみよう。日常のいつもの場所にも神様が愛されている人々がいる。そこが先に救いを受けた私達が神の栄光を現す聖なる場所だ。


2004年06月04日(金)

『主が「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話ください。しもべは聞いております」と申し上げた』(Tサムエル3:10)


 信仰生活は神のかたりかけによって導かれる。あなたも御声を知っているはずだ。「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」とあり羊は羊飼いの声を知っている。勿論耳に聞こえるのではなく、心に聞こえて来る。まず御声を聞くことが大切だ。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのち」御言葉は的確に私達の内面を照らし出し新たにされる。聖霊は私達がみこころを歩めるように常に助けて下さる。まず御声を聞く姿勢と時がないと何も始まらない。礼拝メッセージから、兄姉の証から、交わりからあらゆるところから神は語られる。耳を澄まし、あなたへの語りかけをしっかり受け取れ。
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神様の御声ははっきりとわかる。御言葉から、メッセージから、クリスチャンの交わりの中から。すぐにわかることも、何ヶ月も同じ事を示されてやっとわかることも。聞いたら従えるように、また祈ろう。


2004年06月03日(木)

「彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです」(詩篇109:4)



 ある男性が学生の時、盗みの濡れ衣を着せられた。全く身に覚えが無い事だった。別の生徒が偽りの証言をしたのだ。その噂は学校全体に広がった。中傷に対して、何もできず何の力も無かった。自分では無いと言い続ける事しか出来なかった。学校中を回って、自分は無実だと言いたかった。しかし、後に一人の生徒が自分が盗んだと告白した。ダビデも中傷の攻撃にあった。自分の権力を使って仕返しをする事もできた。しかし、神がその中傷する者を罰して下さるようにと祈った。私達も非難、中傷される時、やり返したくなる。しかし、中傷を中傷で報いるのではなく祈る事ができる。祈りによって、神に介入していただく方が遥かに優っている。祈りは力だ。
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私達には祈りがある。聞いていて下さる神様がおられ、今日もとりなして下さるイエス様がおられる。怒りに駆られて罪を犯すより、ひとつひとつ御前にうち広げて全能のお方に頼ろう。


2004年06月02日(水)

「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない・・真理を行う者は光のほうに来る」(ヨハネ3:21)



 時々、議論になると、真理がどうのではなく、相手を打ち負かす事に必死になる。自分の主張を通そうとする。だから、相手が真理を掲げてくると、真理を嫌うものだ。議論ならそれでも良いが、実生活でそれをするなら、永遠を決める大きな問題だ。あなたは真理をどう扱っているか。自分が間違っている時、自我はそれが明るみに出される事を拒むゆえにそれを恐れてキリストの元へ来ようとはしない。しかし、もし真理を愛するなら、それがどんなに痛くても犠牲が伴っても、自からの間違いを認める。これが光の中にいるという事だ。自らの罪を認めるなら、どんな時も光の中にい続ける事が出来る。真理を行う者(罪を認める者)は光のほうへ来る。
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光の中にいるために、不完全なままの今の自分のままで神様の前に立ち続ける事を忘れないようにしたい。完璧なふりでごまかすなら、簡単に闇の中に引き込まれてしまう。


2004年06月01日(火)

『イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです』(マルコ10:27)


 モーセがイスラエルの民を率いて出エジプトを果たしたが、パロの軍勢が追いかけて来た。しかし、行く手には紅海が横たわり、背後には軍勢が迫る。絶体絶命に陥った。もうだめだと思った時、神は紅海を分けて、道を作り民を通過させた後、紅海の水が元に戻り、軍勢を飲み込んでしまった。パウロとシラスは何の悪もしていないのに牢獄へ入れられ足かせで拘束された。しかし、足かせを解かれ扉も開かれた。パウロとシラセは自由の身とされた。私達は絶対絶命の全く望みの無い状況にぶち当たる。しかし、神は思いを遥かに超えた事をして下さる。道の無い所に道を造られる。神に出来ない事は何も無い。思うところを超えてされる。
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神様は無を有にされるお方。この方が私達の味方であるなら私達に絶体絶命はないのだ。神様のお力に制限をつけるのは、サタンの欺きだ。全き信仰を持ってこの方に頼ろう。