2004年07月31日(土)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私達は何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません」(Tテモテ6:6)

すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならないとあるように、貪欲は罪だ。貪欲の罪により平安と満足を奪われてしまう。欲しい物と必要な物は別だからだ。それを混同すると、次ぎから次ぎへと持てば持つほど欲しくなる。欲望とはそういうものだ、私達の生きている目的は物を貯める事ではなく、神を知る事だ。これをいつもしっかりしておかなければならない。貪欲から他の罪へと発展して行く。ダビデは他人の妻を欲しがった事から姦淫、盗み、殺人へと発展した。貪りは偶像礼拝である。この世の富や物で心の満足を、幸せを得ようとする事だから。貪欲は貪欲を生み、決して満足する事はない。主にのみ真の満足がある。
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貪欲の欲望は際限がない。求めても求めても、決して満たされることがない。欲望とはそうだ。神により初めて心の満たしを経験する。何においても得られなかった、満ち足りる平安を存分に味わう。的はずれの方向に満足を求めるても絶対に与えられない。心に満たしがない時、他のいっさいでなく、神に求めよう。



2004年07月30日(金)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Uコリント12:9)



 パウロには「肉体のとげ」が与えられていた。このとげさえなければ、もっとよく主に仕える事ができる。この障害を取り除けて欲しいと、切なる願を主に献げた。パウロはこの事を自分で何とかしようとせずに、主に頼み祈ったのだ。主はその答えとして、とげを取り除くのではなく、この厳しい苦しみに耐えられるように恵みを与え強めて下さった。それがある事により、神に頼り、よりよく神のために働け、栄光現われるというのが神のお考えだった。私達にも、これさえ無ければ、こうで無ければ、もっと自由にもっと神のために働けるのにと思うそのところにこそ、神が特別に共におられ、臨在でおおって下さる。弱さ、無力は神の栄光の現われる所。
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もっと積極的な性格であったなら、もっと若かったなら、もっと才能があったなら…不満に思うそこの所を具体的に祈ってみよう。自分の中のゆらいでる所に神様の力が満ち、神様が共におられることをその中で知る。


2004年07月29日(木)

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生みだし、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ4:3)


 苦しみや悲しみに会う時なぜ、こんな事に?と思う。しかし、神の与える苦しみであり、試練なのだ。真珠が出来る過程はよく聞くところだ。砂などで傷ができ、そこに内側が反応して、あの真珠が作られるのだ。傷を治そうとする分泌物が傷に集中してそれがあの綺麗な真珠になる。傷が発端なのだ。傷が真珠となる。あなたの信仰生活を振り返る時、一段階々の成長は傷によるのでななかったか。傷が発端となり、あなたは成長したのではないか。ヨセフは兄弟から奴隷として売られたのが発端だった。ヨセフはどんな苦しみの中でも心を屈折させる事なく神を信頼していたので、苦しみは彼を成長させるのみであった。傷が真珠となった。苦しみは祝福。
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試練を通らなければ信仰の成長はない。自分の思い通りにならないところを通る事によって自分の足りないもの、また捨てなければならないものを示され、神様を近く知って行く。子供のままの信仰から成長させられて行く。


2004年07月28日(水)

「さあ、あなたがただけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」(マルコ6:31)

あなたは疲れていないか。あまりに多忙過ぎて心身ともにクタクタになっていないか。主は休息が必要だと言っておられる。精神的にも肉体的にも許容量がある。それをオーバーすると当然ストレスとなって、ひずみが出てくる。主も消耗された。悪霊を追い出し、説教し、教え、癒し、霊的にも精神的にも身体的にも大変な消耗だ。それをご存知の主は弟子達にも休息の必要を感じられた。働きは重要であるが、ひとまず横へ置かれた。あなたは今疲労していないか。休む事は必要だ。静かに主と共に静まり、主と交わり心満たされ、新たな力が与えられるために。静かな時間は優先順位を正してくれる。あなたの優先順位は狂っていないか。少し止まって点検しよう。
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休むことはみこころだ。罪悪感を感じる人があるが、必要だから主が与えられた。弟子達は四六時中人に囲まれ、食事の暇さえなかった。ストレスになる。主は心身、霊的、すべに配慮をして下さるお方。疲れ気味なら、本末転倒にならないよう、主との静かな時はどうしても必要。新たな力が与えられる。


2004年07月27日(火)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです・・私たちはみなおおいを取り除かれ・・栄光から栄光へと変えられて行きます」(Uコリント3:16)





 あるバレリーナがいった「練習を一日休むと自分が気づく。三日休むと周囲が気づく。五日休むと観客が気づく」と。毎日毎日の積み重ねがいかに大切であり、力であるかと。私たちも同じだ。毎日毎日の主との交わり、地道なデボーション、その積み重ねによって主と親しくなって行く。人格と人格の交わりを通して、主に似た者へと変えられていく。主のお心を知り、お心に触れて行く。毎日毎日少しづつ、少しづつ。主の交わりから少し遠のくと霊の感覚が鈍ってくる。この世に流されて気づかない。気づかないので、どんどん流されて行く。知らぬ間に主から離れてしまっている。今曇っていないか。交わりによって曇りが取れ、神を見る。
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日ごとに主との交わりがなければ、昨日の確信も平安も今日は消えている。それほど世の勢力はすさまじく私達は弱い。今日もしっかり御言葉で心みたし、与えられた御言葉をしっかりと握って出て行こう。


2004年07月26日(月)

「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」(伝道3:7)



 あるクリスチャン婦人がいつも言いたい事を言っていた。嫌味や鋭い皮肉はお手のものであった。夫に棚作りを頼んだ時、夫は面倒で気が乗らなかった。君の親族に大工がいれば良かったのにと言った。腰の重い夫にムッとした妻は「次ぎの旦那は大工にするわ」と言おうとした。その時初めてこの言葉は夫の益になるかと考えたのだ。夫を生かし建て上げるだろうかと。今まで何も考えず思った事を口にしていた事に初めて気づいた。口に何のかせもなく言いたい放題だったと。私達も言葉で慰められたり、力づけられたり、引き上げられた経験があるだろう。益にならない言葉を口から出すよりも黙する方が良い。非難、中傷、愚痴、怒りが出そうな時、黙せ。
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口から出すものが人を汚すとイエス様も言われた。心にある思いをすべて良いものにできない。せめてその時に黙っていよう。出てしまった言葉は飲みこめない。


2004年07月25日(日)

主は彼に仰せられた「あなたの手にあるそれは何か」』(出エジプト4:2)

イスラエルの民をエジプトから導き出す、リーダーとして、神からモーセが召し出された。しかし、モーセは尻込みした。イスラエルの人々にすら受け入れられるかどうかわからない。その時、主はモーセの手にある杖を通して奇跡を現わし、神の力を示された。杖そのものに力はないが、神の御手に握られる時、力ある道具となるのだ。ダビデは手にある石投げでゴリアテを倒した。あなたの手にあるものは何か。あなたの手に与えられている杖を使え。それを用いて、主がみわざをなし、主の栄光を現して下さるのを見るだろう。あなたの手にあるものを神に献げよ。神の力を与えてきよめて用いて下さる。主のために人々の祝福として用いられるのは何と幸い。
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神は手の中に無いものではなく、手の中にあるものを用いて下さる。自分の手の中には何があるだろう。もてなし、料理、大工仕事、器楽、色々な技術、事務能力、運動能力話すこと、耳を傾ける事、励ます事・・様々だ。それ自体に力は無いが、神の手に握られるなら、神の栄光と力を現わすために用いられる。



2004年07月24日(土)

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(Tコリント3:6)

こんな証しがあった。お菓子作りの好きな婦人、いつものようにケーキを焼こうとした時、ふと気がついた。ケーキを焼くといっても自分が焼いた事は一度もないと。焼いてくれるのはオーブンであって、自分は材料を混ぜ合わせるだけだと。しかし、素晴らしく美味しいケーキが出来上がる。神はこの事を通して語られた。親族を導きたくてずっと祈り続けていた。教会にも来てくれるが、なかなか信仰を持つまでに至らない。ガッカリしていた時だった。自分がケーキは焼けないように、自分は誘えても、クリスチャンにはする事は出来ないと。はっきりわかった。しかし神には出来る。不可能は一つもない。自分に出来ることは、家族のために祈り証しし愛の行いという材料を混ぜ合わせること。後は神に委ねていれば良いのだと。
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愛する家族のために、神を信頼して、自分に出来ることを行おう。証しや祈り、愛の行ない。後は、神のされる事。救って下さるのは神、悔い改めと信仰を与えて下さるのも神、これは自分には一切出来ないこと、お委ねしていよう


2004年07月23日(金)

「あなたがたの以前の生活について言うならば・・古い人を脱ぎ捨てるべきこと・・新しい人を身に着るべきこと」(エペソ4:22)


 ある人がかなり古びた壁紙を張り替える事にした。今の壁紙の上に壁紙を張れば良いと、彼女は考えた。しかし、夫は反対した。壁紙の継ぎ目のひびを見せて、まず壁紙をはがし、しっくい面を出し、ひび割れを補修する必要があると。信仰生活も同様だ。根底に有るひび割れや罪が問題で、それを放っておいて、過去をごまかし、表面を綺麗におおっても、根本的には何も変わらない。ひびや傷を主の御前に持ち出して対処して頂く必要がある。神は根底から新しくして下さり、心の奥のひび割れも傷もきれいに癒して下さる。ごまかしておおうのではなく、はっきりと主の御前に持ち出すのだ。神は根底から新しくしてくださる。表面的でなく内側も奥底も全く新しく。
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一部は委ね、一部は自分で握っていては新しい人を身に着けることはできないと神様は言われる。すべてを神様に委ね開放しているだろうか。すっかり脱ぎ捨てる事に同意しているだろうか。


2004年07月22日(木)

「私たちをあなたがたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です」(Uコリント1:21)



 何の働きもなしに、神の一方的なプレゼント、恵みによって救われる。ところが救われた途端、恵みは吹っ飛んで、自分の力で良い行いを始めるのだ。救いは恵みだが、その後のクリスチャン生活は自分の努力であり、頑張りにかかっていると勘違いし、懸命に頑張る。頑張っている自分は辛くしんどいので、他人が努力していないと批判しさばく。ギスギスしたとげとげしいおよそクリスチャンとはほど遠い冷ややかな空気を周囲に漂わせる。しかも、自分は正しいと思い込んでいる。自分の力での信仰生活は必ず挫折しひずみが出る。自分の力が虚しくされ、聖霊の力によって歩む時、平安と喜びが来る。神に信頼し神と歩調を合わせて歩む歩みは喜びの生活だ。
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自分の力で頑張っているときと、聖霊の力によって歩んでいるときは、心の状態がまったく違う。心に平安が無く愚痴っぽくなっているなら、御霊に満たされているときのいきいきとした喜びをもう一度思い出そう。


2004年07月21日(水)

「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」(ヤコブ4:2)

祈りについては、何よりまず祈りを実践しなければならない。幾ら学んでも、祈らなければ何も始まらない。そして、次に、願わなければならない。祈りが答えられたか否かに、何の関心も無い人がいる。祈りそのものが重要で、答えなど全く期待していない。その祈りには「願い」が無い。一つの祈りも答えられず、何年間も平然と祈り続けているなら、立ち止まった方が良い。祈りに欠陥がある。願いとは具体的に、的を定めて祈る事だ。あなたの祈りは具体的か。パンを三つ下さいと。具体的でなければ、答えられたかどうがかわからない。あなたの祈りは答えられているか。祈りと答えをノートにつける事は良いことだ。語られる御言葉や状況、起こる事をどんどん書き留めて行くのだ。神のお心がわかるし、どう祈って行くべきか方向がわかるし、どんなに祈りが答えられているかに驚く。
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願っているか、答えを期待しているか、具体的か、答えられているのか、自分の祈りに欠陥が無いか、立ち止まってよく考えてみよう。祈りそのもので自己満足している場合もある。的を定めて、状況の変化もよく見ながら、神のお心を悟りつつ祈ろう。祈りが楽しみとなる。


2004年07月20日(火)

「彼はおのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた」(マタイ25:15)


 主人がタラントをあずけて行ったが、それぞれ額が違っていた。これは神のみこころと深い配慮のもとに与えられた才能と機会は皆異なるという事だ。隣の人と同じではない。皆が完全に異なるので、ライバルがいない事になる。そこに競争が全く意味をなさない。これは何と平安な人生だろう。人は皆、人との比較で汲々と生きている。優越感と劣等感の間を行ったり来り、高ぶり恐れ落ち込む。与えられたタラントをないがしろにして、人ばかり見ていないか。人を羨み、人を妬み、人のようであればよいのにと、比較の中に生きていないか。そうではなく自分に与えられたタラントに目を留めよ。それを活用し増やす事だけを考えよ。それがあなたに与えられた働きだ。
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本来おのおの特別なご計画のもとに与えられているタラントを、神様のみこころを離れ、比較の対象としているとは何と愚かなことだろう。もっと自由にのびのびと自分に与えられた賜物で仕えて行くことを祈ろう。





2004年07月19日(月)

「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです」(マタイ20:1)




 ユダヤは、八、九月がぶどうの収穫期だ。しかし、九月から雨期に入るので、それまでにすべて収穫し終えておく必要があった。それで猫の手も借りたい忙しさとなる。この主人は早朝から三時間おきに労動者を雇う。収穫を完了させる事と、又、できるだけ多くの人に仕事を与えたいとの配慮がある。それで終業間際にも雇い入れた。朝から労苦したものと同一賃金であった時、文句と抗議が出た。今まで気づかなかったが、自分の内にある嫉妬、冷酷、非情、愛の無さ、自己中心、怒りが噴き出したのだ。普段から内側にあるが何も起こらなければ決して出て来られないものだ。ある状況により自分自身の本性があらわになる。私達の奉仕、日常生活の動機、態度はどうだろう。
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自分にとっての恵みや祝福は何も変わっていないのに、人を見ては妬み、自分が正当だと思えば、神様の権威を自分の側から判断して不平不満をつのらせる。人との比較の中で何かをしようとせず、常に変わらぬ恵みを持って愛してくださる神様だけを仰ごう。



2004年07月18日(日)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)

一人の女性にレントゲン検査の結果、胃に腫瘍が見つかった。良性か悪性か検査の必要が生じた。その1日はとてつもなく長く感じられた。恐れ、不安、思い煩いで心が混乱していた。もし、癌であれば・・の恐れで、どうにかなりそうだった。神に助けを求めて、不安の一つ一つを具体的にすべて告げた。すると、静かな包み込まれるような平安におおわれた。主ご自身による、主の平安を体験した。心静め、これからの人生の事を、残された時間の事をじっくり考えた。腫瘍が悪性であれ、良性であれ、残された人生を、優先順位を変えて生活する事を決心した。今までの生活が、自分中心で神様が二の次である事がわかった。神第一の生活に方向変換を定めた。あなたの今の優先順位はどうだろう。
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私達の方向が違っている時、主はしばしば、事を起こして、正しい方向に変換させられる。何が一番大切なのか、今自分はどこにいて、どこへ向かっているのか、立ち止まってしっかり見定めるために。環境によっても語られる、神の御声に耳を傾けよう。



2004年07月17日(土)

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥が来て食べてしまった」(マタイ13:4)

農夫が種を蒔く時、全部が結実するとは限らない。4つの結果が出ている。1つ目の土地は、全く種が落ちずに二つ目の土地は芽が出たが、根を下ろそうとすると、岩地にぶつかり枯れてしまった。3つ目は芽が出たが、いばらが伸びて芽を枯らしてしまった。4つ目の土地だけが100倍の実を結んだ。御言葉は、時として全く受け入れない人にも語られる。すべての人が救われるとは限らない。自分の強い思い、価値観があると御言葉が入らない。はね返してしまう。又、自我は自分の生活を乱されなくないし、自分は決して変わりたくない。好きなように、思い通りに生きたい。神を認めるなら、従わなくてはならないのが嫌だ。又、思い煩いや、世への過剰な気遣いは御言葉をふさぐ。これらは決して実を結ぶ事がない。私を変えて下さい、御言葉に従おうとの態度がある時、実を結ぶ。あなたはどの土地だろう。結実は御言葉を聞いた土地にかかっている。
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御言葉が落ちる土地が問題であり、枯れるか、豊かな実を結ぶか、この大きな差が聞く態度で決まる。それは自分の側に責任がある。真剣に御言葉を聞き、受け入れ真実に従おうとの姿勢がある時必ず成長する。自分の態度はどうか、何か妨げはないか、御霊に探って頂こう。


2004年07月16日(金)

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたはなにもすることができないからです」(ヨハネ15:5)

神により、神の喜びのために、人は創造された。神との交わりが喜びであり、それによって心満たされた。神をお喜ばせするために創造された事を知っていて、彼の関心は神の愛に応答し、みこころを行なう事であった。神への依存が喜びであり、すべての必要は神によって満たされた。ところが「目が開け、神のようになり、善悪を知る」と、サタンから誘惑され、神から独立する事を選んだ。心の王座に自分自身を据えた。心の中心に神ではなく、自分を置いた。それ以来、人は高慢で砕かれない者となり、神を認めない者となった。善悪を知るというのは、知識が無かったのが知るというのではなく、自分が善悪の基準となる事だ。つまり自分を神の地位に置く事だ。サタンの誘惑の本質は、神から離れ独立し、自分を神とする事だ。サタンは、今も神に頼らないで、自分の力で生きるように絶えず巧妙に誘惑している。
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自分の判断、自分の力でする事は、主を離れている事。すべてが無で虚しく、何の実も結ばない。自分の力で行なう事は、自分を神とする事だ。今日も、心して主に祈って、頼って、主と話しながら、生き生きとした交わりの中で、一つ一つのなすべき事を行なおう。一つ一つ主と共に行って行く事、それが喜びであり大きな祝福だ。


2004年07月15日(木)

「彼の信仰は、彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされたのです」(ヤコブ2:22)

ある時、小学生の子供がフルタイムで働いている母親のために、夕食を作った。母親に言われたのでなく、風邪でしんどそうに、辛そうに出勤した母親を思いやっての事だった。帰宅した母親を喜ばせたかったのだ。これは強いられでなく、又、母親の愛を得ようと、母親に気に入られようとしたためではない。母親を愛し、気づかったゆえに、そうしたかったのだ。言われて嫌々したのではない。これは私達が主に従うゆえに、良い行ないをする理由だ。神の愛を得るためにでなく、愛されているから、嬉しいから感謝のゆえに良い行ないをする。愛をもらいたいがためでなく、私達の気持ちを、愛を感謝を表わすためだ。あなたはどちらだろう。
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もし、愛して欲しいから、愛を貰いたいから主に従っているなら、すでにキリストから離れ、恵みから落ちている。もうすでに100%完璧に愛されている。だから、愛に応えたいから従うのだ。これが恵みと律法の違いだ。今日も、完全に愛されているって何と喜びで祝福!「神様有難う」から出発。


2004年07月14日(水)

「みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです」(ルカ21:4)

貧しいやもめの、2レプタの献金は大きな励ましとして、今日もずっと用いられている。主は献金の額ではなく、献げる心を見ておられる。彼女は感謝が溢れて、その感謝の気持ちを献金として表した。神が生活を顧みて下さる。全必要を与えて下さると信頼していたので、生活費のすべてを溢れる感謝と共に献げた。私達の献げる態度はどうだろう。嫌々か、強いられてか。神は喜んで献げる者を愛して下さる。神のして下さった事を、そのご愛をよく考えるなら、感謝が満ち溢れて来るはずだ。大金は無くとも、持っているものを献げられる。時間、賜物、労力、小さいかも知れないが、主はその献げものを喜んで受け取って下さる。真に富んだ者とは、天国へ行って初めてわかるだろう。
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主は何をして下さったのか。十字架のあの言語に絶する苦しみは誰のためだったか。主は私のために何もかもを、ご自身を捨て、すべてを捨てて下さった。その愛をよくよく考える時、色々な形で感謝を表したいと思う。その感謝の心を見て下さるとは、何と幸い。



2004年07月13日(火)

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4:26)

感情を殺し、無感情になるのがクリスチャンではない。むしろ、御霊に支配されて成長して行くなら、生き生きと感情が豊かになる。より人間らしくなる。聖書は怒りを禁じてはいない。正しい怒りがある。罪や悪に対しては怒らなくてはならない。主も怒られた。宮で商売がなされているのを見て、細縄でむちを作って、羊や牛を追い出し、台をひっくり返し、怒りを表された。又、自分が他者からコントロールされようとする時、抗議すべきだ。自分を守るために必要だ。しかし多くの場合、怒りは自分の底にあるプライドや高慢、虚栄心に触れるものであり、感情的なものである。ムッとする場合を考えてみればよい。正しい怒りか、自我に触れる怒りか冷静に考える必要がある。怒りを翌日に持ち越してはならないのは、悪魔に付け入る隙を与えるからだ。怒りを置いておくなら、悪魔に足場を与え、がんじがらめにされてしまう。人を赦さない時、どんなにサタン的になるか、皆、経験あるところだ。サタンは、赦さない人の舌や態度を用いて、周囲に害毒を流す。心にある怒りを神に告白し、捨てる事ができるよう助けを求めよう。
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正しい怒りと、プライドや高慢に触れる自己中心な罪の怒りがある。日常の多くは後者だ。腹を立てたり、カチンときたり、傷つけられたと怒るその底に、人に見せない隠されたプライド、高慢、虚栄心がある。そこに触れるのだ。自己中心を砕くための神の取り扱いかも知れない。心静めてまず祈ろう。


2004年07月12日(月)

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のために、さばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」(ルカ18:7)

失望しないで、いつでも祈るべきである事を、主は教えられた。やもめの例えで裁判官のもとに、ひっきりなしに来るやもめが、余りにうるさいので、裁判をする事にした。ある種の祈りは、祈り続ける必要がある事を教えている。私達の祈りはどうか。一度きりか。突然思いついては祈り、祈った途端忘れ、翌日には祈った事すら忘れている。つまり実際には何も求めていない。私達は真に重荷のある事、本当に必要な事だけ祈り続ける事ができる。ある人が、自分の家族の救いを祈るが、見えるところは何の気配もなく、答えられているように感じない。しかし、やもめのように、神を困らせるほど祈ったことがない事に気づき、昼夜と祈り始めた。やがて両親共に救われた。失望しないで祈り続ける事が必要。
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しばらく祈って答えがないと、すぐ諦めてしまっていないか。あの祈り、この祈りへと、次々祈りが飛んで行く。何を祈ったかさえ覚えていない。失望しないで、忍耐もって祈り続ける、その祈りを神は喜んで下さる。そんな祈りを始めよう


2004年07月11日(日)

「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」(詩篇66:18)

祈っても、幾ら祈っても、聞かれない経験があるだろうか。それは妨げがあるからだ。「罪」は祈りを遮断する。あれして下さい、これを下さいと要望ばかり掲げて、神があなたにせよと言っておられる、みこころを拒否したり、なおざりにしていたなら、祈りは聞かれない。あなたの中に不従順はないか。不義とは、罪とわかっていて、捨てようとしないものの事だ。弱さは罪ではない。しかし、罪とわかっていて捨てようとしないなら、それは弱さ以上の事で、故意にという事だ。捨てる事が出来ないと、まず正直に神に告白し、助けを乞う事ができる。あなたの心にしっかり握り締めて、心から愛している罪はないか。まず神に告げる事から始めよ。助けが来る。
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罪とわかっていて、示されていて、捨てようとしないなら、祈りが聞かれない。罪は祈りをさえぎってしまう。心をよく探ることは有益だ。祈っても祈っても聞かれない時、心が正直でなく、偽っていることがある。建前に本音が隠れている。


2004年07月10日(土)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」(ヤコブ4:3)

神は求めよと言って下さっているが、悪い求め方をしてはいけない。悪い求め方というのは自己中心に、自分の欲望のままに求める事だ。神のみこころにそった祈りは、必ず答えられるのであって、自分の欲望が何でもかんでも叶えられるのではない。又、気まぐれに必要でもないものを、求める事も差し控えるべきだ。神は必要を与えて下さる。必要なものは天地がひっくり返っても必ず与えて下さる。悪い求めとは、分を越え、必要を越えて求める事だ。神は軽薄な祈りには答えられられない。その時の感情で、好みのまま祈り、翌日には何を祈ったかさえ覚えていない。そんな祈りが多くないか。心の真の願いは祈り続ける事ができる。決して忘れたりしない。幾ら時間をかけても祈り続けられる、それがあなたの真の心の願いだ。必要を見極める事が大切。
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神のみこころに適った祈りが答えられる。目に見える、ストレートにわかる自我の欲望はわかるが、自分でも無意識なものは、祈っているプロセスの中で、御霊が教えて下さる。動機に光が来て、自分でも全く気づかなかった自己中心に気づかせられる。神のお心を求めて行くと、かなった祈りに行き着く。
 


2004年07月09日(金)

「求めなさい。そうすれば与えられます・・たたきなさい。開かれます」(マタイ7:7)


 ある人が「あなたに祈りは答えられてますか」と聞かれたら、驚いた。その人にとれば祈りに意義があり意味があり、答えられる事は考えた事も無かった。祈る事で満足していた。自分の祈りを調べてみると、漠然とした抽象的な祈りで答えなど全く求めていなかった。神の御前に多くの言葉数を発して祈っていたが、実際には何一つ「求めて」はいなかった。主は求めよと言われている。求めるなら与えられると。そのためには答えられたら、はっきりとわかる祈りでなければならない。具体的な明確な祈りである事が必要だ。全世界の人が幸せになるように式の祈りは答えられたかどうか全くわからない。あなたの祈りはどうか。答えられているか。具体的か。
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祈りは神様との直接的な交わりだ。答えを期待せずに話しつづける会話に何の意味があるだろう。必ず聞いて下さり、必ずわかるようにその答えも与えて下さるから、祈りつづける事ができる。


2004年07月08日(木)


「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)


 すべての人は平等で基本的人権を有する。これには誰しも同意するだろう。しかし、すべての人生が同じわけではない。皆、全く異なる人生が与えられている。不公平は至る所に見られる。大酒飲みが長生きしていて、摂生に摂生を重ねている人が早死にしたりする。ある人は資産家に生まれ、ある人はどんなに働いても貧しかったりする。ある人は病に次ぐ病で一生を送り、病気をした事のない健康な人もいる。人は皆異なる。あなたの目はどこを見ているか。人を見ているなら優越感と劣等感を行ったり来りだ。人は一切関係がない。あなたの見方を変えよ。人生の不公平はしばらくの間だけ。天で永遠の喜び、完璧な公明正大が待っている。目を神に向けよ。
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私達は弱く、いつも周囲の人によって自分の位置を確認してしまう。
周囲の人の状況は、私に何の関係もない。私は主を見つめ、主に従って行く…今日も一日自分にメッセージしていよう。



2004年07月07日(水)

「もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ・・豊かな養分をともに受けているのであれば」(ローマ11:17)

この世界では、人が悪いのは、親が悪い、生育歴の問題、環境の問題と言われる。人を愛するためには自分を愛さなくてはならない、それが出来ないのは親の育て方が悪かったから。しかし、聖書では問題は全く別のところにあると言う。エバが木の実を食べて罪を犯したのは、自分を愛さなかったからか。アダムも罪を犯したのは自分を受け入れなかったからか。そうではなく、私たちの根本的な問題は「罪」である。親の育て方でなく、自分の根本的な「罪」の問題だ。人は皆、自分が罪人である事を認めなければならない。他に責任転嫁してはならない。十字架上で罪は解決され、私達はキリストにつぎ木されたのだ。何と言う恵みであろう。キリストから養分が流れ来る。完全に新しい者とされたのだ。
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人のせい、環境のせいではない。神は、問題は「罪」だと言われる。人のせいにしているなら何の解決もない。人は尊厳ある存在であり、犯した罪に責任がある。自らの罪を認め、悔い改めるなら、赦され新たにされる。「良くなりたいか」と主は問うて下さり、癒して下さる。人のせいにしていないで、主に求めよう。


2004年07月06日(火)

「あなたに神、主が・・荒野であなたを歩ませられた全工程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み・・あなたの心のうちにあるものを知るために」(申命記8:2)


 人は何の問題もなく順調な人生を送っていると、自分の信仰の土の深さがどの程度であるのかわからない。ところが、ある日試練が来て、信仰が試されると、自分の土の深さがあらわにされる。ある男性は息子に癌が発覚した。どうして神は息子に癌を許されたのか、怒りが湧き上がって来た。神はおられるのか、愛して下さっているのか。その時彼は自分が「薄い、土の浅い岩地」である事を思い知った。そんな折従姉が娘を亡くしたが、堅く信仰に立っているのを見た。神にはご計画があり最善以下の事はされないと神の愛を信じ切っていた。その従姉に深く励まされて神を信じて行こうと思えた。薄い岩地がしっかり根を下ろす土地へと変化した。
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順境の中ではわからなかった不信仰に気づくことも試練のなかにあればこそ。そして、右往左往しながらも試練の中で共にいてくださる神様をまた知る。試練がなければ信仰を試す事もなく、自分の不信仰にも気づかない。



2004年07月05日(月)

「悪魔のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい・・彼は偽り者であり・・また偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)


 悪魔の特徴は偽りであり、偽りの父であり、最大の武器は偽りだ。それを人に対して使う。悪魔は大嘘つきだ。エデンの園でまずエバを騙したその策略は巧妙だ。別に善悪を知る木の実を食べても大丈夫だと示唆した。「決して死にません」と。そして、神にはそれを食べられたくない、何か下心がると偽った。それを信じ受け入れたところに悲劇が生じた。サタンは同様に今も偽りを発信している。少しぐらいの罪は大丈夫、自分の内側など気にかけるな、楽しければ良い、神は愛してなどおられない、神は不公平だ。神は意地悪だと偽る。あなたは悪魔にひっかかり、騙されていないか。偽りの思考を吹き込み、行動へと駆り立てる。常に御霊に拠り頼もう。
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これくらいは大丈夫と小さな嘘をつきそうな時、イライラとしたり、妬みやひがみの感情に襲われて何もかも嫌になってしまう時、少し冷静になってサタンを意識してみよう。偽りを吹き込まれてはいないか。


2004年07月04日(日)

「もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」(ローマ11:6)

働いて得るのは「報酬」だ。会社で仕事をし、給料を貰う。これは時間と労働力を提供して、当然得る報いだ。しかし、働かないのに、時間も労力も提供していないのに、給料を貰うなら、これは「恵み」だ。無代価だ。恵みとは、受ける資格の無い者に無条件に与えられる事だ。それゆえ、神に受け入れてもらおうと、何かをする瞬間に、恵みはもはや恵みで無くなる。神のために自分が何かをする事が律法だ。私達が何一つ持たない虚しい罪人である事を認めて、神のもとに来る時に、私達を満たそうと勢いよく流れ込んで来る、それが恵みだ。水が低い方へ低い方へ流れるように、恵みは低い所へ流れ込む。自分の内に何も無い事を、神の御前に認める事が、大きな祝福を受ける道。
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自分の力で頑張ってしまう。出来なければ、もっと頑張ろうとする。もう少し頑張ればうまく行くとの、サタンの誘惑であり欺きだ。出来ない自分を認めたくなくて、ますます肉に進む。自分で出来ると思っている、自分の力を捨てたくない自我に行き着く。それを神の前に認める時、恵みが流れ込む。


2004年07月03日(土)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」(ルカ15:28)

息子が戻った時、父は大喜びだった。盛大な祝宴を開いた。畑仕事をしていた兄が、くたくたに疲れて空腹を抱えて戻った。すると、楽しげな音楽に踊る笑い声が聞こえて来た。イライラしていた兄は弟息子が帰り、パーティを開いていると聞き、怒り心頭に達した。自分は毎日毎日一生懸命に働いているのに、この道楽の放蕩息子のために馬鹿騒ぎをしている。弟の顔を見るのも嫌だった。怒りと嫉妬が爆発した。父はどちらも可愛い。兄をなだめる。兄の高慢、妬み、冷酷、非情の本性はこの時暴露された。外側、真面目な生活をしていても心の中は冷酷冷淡。私達の心はどうだろう。神は外側でなく心を見られる。自らの本当の姿を知り、神に変えていただこう。
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父の一番近くにいながら、心は遠く離れていて、何の喜びもなく不平不満で一杯。父の心が、愛がわからない。教会の中にいながら、御父から遠く離れている。正直に自分に向き合い、心の底にある妬み、虚しさ、怒り、喜びの無さを認めて、ありのままの気持ちを神にぶつける事だ。そこから初めて神との生ける交わりが生じる。


2004年07月02日(金)

「それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた」(ルカ15:15)


 湯水のごとく財産をどんどん使い、やがてすべての財産を使い果たした。それまで、彼では無く彼の財産目当てで取り巻いていた人々はすべて去って行ってしまった。人の本性も見る事になり孤独を味わった。彼が憧れた歓楽、快楽の世界の虚しさを知り精神的にも肉体的にも飢えを経験した。しかし、すぐには父の元へ帰れない。プライド、体面、体裁が帰らせないのだ。まだ余力があり、自分の力で何とかしようと、ある人の元に身を寄せた。しかし、豚の餌すら与えられず、どん底まで行った時に、このままならここで飢え死にすると思い、ギブアップし、自分の無力を認め、父の元へ帰る事を決心した。この悲惨は自らの罪の結果であったが父は尚も憐れみ深い。
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間違っていたと気づいても、素直に帰れない。とことんまで自分の力を頼るのは、謝りたくない、頼りたくないという自我だ。神様はその自分の本当の貧しさ、乏しさに光を当て、満たしてくださる。


2004年07月01日(木)

「弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」(ルカ15:13)


 弟息子は父のもとが窮屈に感じていた。好き勝手をする事が自由だと勘違いしていた。そのために家を出たかった。父は心を痛めた。しかし、身体だけ家に縛っても無駄だとわかっていた。その心が父から離れてしまっていたから。父は彼が苦しい経験を通って自分の間違いを自分で悟る事を待つ方を選んだ。あえて息子のしたいようにさせてやった。一人の女性が若い時、みこころでない事をわかって未信者と結婚をしてしまった。何不自由無い生活だったが、平安の全く無い日々だった。十数年を経て、転勤先のすぐ近くの教会があった。思わず飛び込んだ。渇き切った心に昔の全き平安の記憶がよみがえった。悔い改め御父のふところに抱かれた。
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私達は自分で気づく事が大切だ。今、霊的な飢え渇きに乏しいなら何も心配せずに神様のもとへ帰ればいい。神様はいつまでも待っていて下さる。