2004年08月31日(火)

「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください」(使徒4:29)


 ペテロとヨハネが福音を宣べ伝えていた時に反対に会い、民の指導者達にイエスの名によって語ってはならないと脅され命じられた。しかし、彼らの使命は福音を語る事であった。人ではなく神に従うべきであり、自分の見た事を話さないわけにはいかなかった。どうすれば良いのだろうか。ペテロとヨハネは仲間のところへ行き、残らず話し、皆で心をひとつにし、神に祈ったのだ。「みことばを大胆に語らせてください」と。そして、祈ると一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出したのだ。あなたも証しする事を願っているか。反対に会い、困難に出会う時は、この事を思い起こそう。まず一番に神の祈るのだ。神は答え御力を現わして下さる。
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福音は、人の知恵や力に頼ってでは伝えられない。サタンの妨害や肉の思いが道をふさぐ。祈って、祈って、御霊に満たされて語ろう。時も心も備えられるよう。


2004年08月30日(月)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」(マルコ8:34)


 この世の宗教は成功と幸福を約束する。「家内安全」「交通安全」「商売繁盛」。不幸を免れたいがために信仰するので、失業、病気等不幸に会うとつまずいてしまう。しかし、私達はこの世の成功や安楽な生活が人生の目的ではない。救われた目的は聖くされる事。それゆえ次ぎから次ぎへと試練が来る。わがままで自己中心な者を聖くしていくために、造り変えるために様々な砕きを送られる。神からのものとして受け入れるなら、造り変えられていく。痛い、辛い、苦しい事を通して練りきよめられる。試練がなければ成長はない。又、はっきりと自分を捨てる事を求められる。自我に死に、神のみこころに従う事を。あなたの思っている事と異なるか。
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常に神様は試練によって、肉の部分を削ぎ落として下さる。そうでなければ変われない。成功と幸福によってでは、けっして主に近づく事も従う事も出来ない者だからだ。


2004年08月29日(日)

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話しなさい」(エペソ4:29)

コミュニケーションは難しいと、誰しも感じるところだろう。家庭内、職場、学校、近隣の対人関係で、一言が長年築き上げた信頼関係を見事に打ち崩す事がある。それで離婚や出社・登校拒否になったりもする。言葉は人を深く傷つける。身体の傷は残っても、痛みは消えるが、言葉の傷の痛みは消えない。よくよく気をつけるべきだ。パウロは悪い言葉を一切語ってはならないと言っている。反対に励ましの一言で、死にかけていた心が生き返ったりする。「よく出来たね」「素晴らしいよ」「あなたを誇りに思うわ」励ましはどんなに人を生かす事だろう。言葉に気をつけよう。不注意な言葉はないか。祈って語れ。そうすれば後悔する事はない。
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御霊の示しを言葉を発する時に感じるだろう。悪い動機での言葉は止められる。噂話や悪口には御霊の制止がある。御霊の導きに従うなら、口が神のみこころのために用いられる。口と言葉が神の栄光のために、人々の祝福のために用いられたい。



2004年08月28日(土)

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそいようにしなさい」(ヤコブ1:19)

人へのもてなしの中でも最高のもてなしは、相手の言葉に耳を傾ける事だ。信仰が御言葉を聞く事から始まるように、神への愛も神のお心を聞く事から始まる。人への愛も同様だ。耳を傾ける事は愛を表わす事だ。自分の意見を主張し、自分の思いを話したくてたまらない。会うなり、延々と喋る人達をよく見るだろう。それほど、人々は喋りたいのだ。人が話している時にも聞いてはおらず、次に自分が何を喋ろうかで頭が一杯だ。そんな中で耳を傾ける事は最大の奉仕だ。じっくり相手に耳を傾ける事で、愛を表わす事が出来るのだから。相手に愛が伝わり、証しの機会が与えられるだろう。
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神は繰り返し、繰り返し、「聞け」と言っておられる。まず神の御声を聞く事ができるように。すべてが、御言葉を聞くことから始まるのだから。人に耳を傾ける事は、愛の奉仕だ。相手に関心を向け、心と思いを集中し、時間と労力を献げる愛だ。神は豊かに祝福して下さる。



2004年08月27日(金)

『人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」』(創世記3:12)



 神が罪を犯したアダムに悔い改めの機会を下さったのに、自らの罪を認めずエバに責任転嫁した有名な箇所だ。姦淫と殺人の大罪を犯したダビデが罪を認めたように、罪に勝利するには自分の責任を認める事だ。これが大変に困難だ。だから、罪を犯した時、アダムのように人のせいにする。他人のせいにし、環境が悪いと環境のせいにし、神のせいにまでする。責任転嫁している限り罪に対して打ち勝てない。罪を犯すのは自分の欲に引かれ、おびき寄せられ、誘惑されるからとヤコブは言う。自分の肉欲が原因だ。自分を正当化せず、言い訳せず、自分の罪を認めよう。その時「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」との御声を聞く。罪は赦される。
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いい訳、言い逃れをしているとせっかく示されている罪を温存してしまう。そして同じ罪を繰り返す。気づける事が感謝、教えられる人が感謝だ。責任転嫁で成長の芽をつまぬよう。


2004年08月26日(木)

「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです」(ローマ12:20)


 ダビデは、かれに嫉妬したサウル王に狙われ、常に命の危険にさらされていた。ある時、ダビデにそのサウルに反撃するチャンスがあった。しかし、ダビデは神を畏れ、主に油注がれた方に手を下す事など出来ないと、親切を持って報いた。神を畏れ、神に焦点を合わせ、神の喜ばれる事を行おうとして行く時、神は力を下さる。敵対する人に親切にして、必ずその人の心をつかめるのではない。しかし、蒔いた親切の種は必ず時が来たら実を結ぶ。なぜ、そんな事が出来るのだろうと思う人が出て来る。その時は主を証しできる時だ。沢山の言葉より、聖書の説明より、一つの親切な行いが主の愛を伝える。親切の種を蒔き続けよう。特に敵対する人へ。
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悪に負けてはいけない。恨みや苦い思いで敵に向かうなら、それが本当の敗北だ。主のみこころを選び、主の愛を選ぼう。



2004年08月25日(水)

何事でも神のみこころにかなう願をするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(Tヨハネ5:14)

神は私達が祈る事を望んでおられ、祈りに答えて下さる。「求めなさい。そうすれば、与えられます」と祈るように勧められている。神には私達の祈りに答えなければならない義務があるというわけではない。しかし、神は喜んで答えて下さるのだ。必ず答えられる祈りがある。それは神のみこころに適った祈りだ。主も、この杯を過ぎ去らせてください、しかし、みこころのままにと、みこころにご自分をそわせて行かれた。みこころが最善だ。神の愛と知恵に満ちているからだ。神があなたのために決めて下さる道が一番良いのだ。だから、自分の思いがみこころと違っていたら、主のように神のみこころを選び取ろう。自分の思いより神の御旨。
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祈る中で、神が祈りを軌道修正して行って下さることを経験する。間違った動機に気づかされたり、自己中心な祈りに気づかされる。祈り続ける中で、自分の思いでなく、みこころは何かと求めさせられ、みこころへと自分が変えられて行く。



2004年08月24日(火)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」(ガラテヤ5:4)

 クリスチャンになり、自分では気づかずに自分の力で頑張っている時、神はそれをじっと見守られる。ある人は自分の力で懸命に頑張り、出来ないとなると自分を責めた。そしてもっと頑張ろうとした。しかし出来ない。尚も自分を責め、ノイローゼになりかけた。ある思い煩いの強い人は、仕事が続かず転々とし、そんな自分に否定的になりどんどん落ち込んで行った。どちらも底の底まで行った時にキリストに出会ったと証しした。神はどん底まで行く事を許された。しかしそこではっきりと主に出会い、信仰生活が変わった。自分の力が砕かれて、主に明け渡し拠り頼み、御霊によって歩む人生に変えられた。心に喜びが満ちた。初めて恵みが分かった。自分の力でなく、御霊によって歩め。
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やらなければとか、やるべきだから、との思いが自分を動かしてしているなら、行き詰まりただ辛いだけだ。主に身をまかそう。主によって強くされる。


2004年08月23日(月)

「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)


 キリストは「私は世の光です」と言われた。そしてすべての人を照らすまことの光だと。愛が冷え、不法がはびこるこの世界で、家庭崩壊は後を断たず、犯罪は増える一方、そんな中で誰しも世の光とされて輝きたいと願う。少しでも証しになればと思う。しかし、挫折や力不足を痛感するのではないだろうか。これは、ここを間違えてはならない。自分が世の光になるのではない。自分が神のために働くのではない。そうするならすぐに挫折するだろう。あなた自身を余すところなく明け渡すなら、神があなたを通して働かれるという事だ。私達を通して働かれる神の光に人々が触れるのだ。私達の出来る事は神に自分を明け渡す事。すると、神が働かれる。
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自分が良い行いをして行くのではなく、神様が自分を通して働かれる事をただ信じ受け入れて行く時、気づかないうちに私達は自由に世の光としての輝きを放っているのかもしれない。今週も明け渡して行けますように。


2004年08月22日(日)

『イエスは答えて言われた「神を信じなさい」』(マルコ11:22)

ある男性が証しをした。自営業がうまく行かず、とうとう倒産になった。家族を抱えてこれから先の不安に押しつぶされそうだった。それに追い打ちをかけるように、何と自分への突如の癌宣告。もう目の前が真っ暗になり、なすすべなくただ神を見上げて祈るばかりであった。その時に御言葉が与えられた「神を信じなさい」「心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」それまでぼんやりしていた神が突然鮮明になった。自分が全身全霊で神に拠り頼んだゆえであった。生ける神を初めて知った。それから事態が様々な方法で導かれて行った。癌も奇跡的に癒された。そして、苦難を通過した今、以前より遥かに神に近くされた。
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すべてに行き詰まり、何のなすすべもない時、心が神に叫ぶ。叫ばなければならないでなく、心が叫ぶ。そんな時、頭でなく、真に神に出会い、神を知る。人の窮地は神の好機会だ。試練を通して、神に触れ、神を知る。試練を恐れることはない。必ず神を知る機会だ。


2004年08月21日(土)

「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです」(ローマ15:3)

ある野球が大好きでチームの主力選手として、いつも大活躍していた男性が身体に不調をきたし、二度と野球は出来なくなった。しかし、野球をこよなく愛する彼はマネージャーとしてとどまり、精神面で選手達を励まし、慰め力づけ、又、自らの技術を伝え、大きな支えとなった。彼は野球をする事はなかったがチームの勝利への大きな貢献を果たした。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく」私達は自己中心だ。自分が一番可愛くて、自分が一番大切だ。しかし、「他の人のことも顧みなさい」他の人を成功させるために、あなたの人生を使いなさいと言っている。キリストは自分を無にして、仕える者の姿を取られたと。かの日には、そういう人が主から一番の賞賛を受けるだろう。
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自分に死ぬことなしに、他の人を顧みることはできない。一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままで、死ねば豊かな実を結ぶ。自我を主張して人生終るか、自らを主に明け渡して、豊かな実を結ぶかは自分の選択だ。



2004年08月20日(金)

「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:1)


 私達はよく落ち込む者だ。何でも無い事で落ち込んでしまう。人のちょっとした言葉や態度に傷ついてしまう。物入りが続くと経済的不安に襲われる。仕事や又、成績が思うように上がらないと気が滅入る。身体に不調を来すと思い煩う。本当に弱い者だ。詩篇を読むと、しょっ中出て来る。ダビデは孤独を感じ、恐れおののき、不安と心配でおかしくなりそうになり、しばしば疲れ果てて、重荷に耐えられず、様々な状況を経験した。しかし、彼の勝利の秘訣はすべて神のもとへ持って行った事だ。神に思いのすべてを率直にぶつけ受け止めて頂いたのだ。神に焦点を合わす事だ。落ち込んだ時には、必ず自分を、状況を見ているから、その目を神に転ずる事だ。
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目に見えるもので右往左往する弱い者であっても、私達には主イエス様がおられる。信仰を持って主を見上げよう。すべての問題を携えて主のもとに行き、うまず、たゆまず新しい一歩を踏み出そう。


2004年08月19日(木)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」(コ「ロサイ3:13)



 赦せない心ほど苦しいものはない。経験があるだろうか。昼も夜も憎しみで心が一杯で、それは絶えず自分が苦しく、自分の骨を枯らして行く。赦さない心で一番苦しむのは、憎しみの対象の相手ではなく、憎む本人なのだ。敵対心と恨みで、心を鬱積させ病気にまでなってしまう人々も多い。この解決の唯一の鍵は赦しだ。赦ししかない。相手を赦す事、それによって自分自身が開放され、自由にされる。深い安堵と平安を経験する。人を赦すとは、復讐する権利を神に渡す事だ。赦しとは感情ではなく意志の問題だ。赦す事を選び取るのだ。そうするなら聖霊が赦す力を与えて下さる。まず赦そうとする意志を神に向けて祈る事だ。神は助けて下さる。
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人を赦せない気持ち、怒りの感情があるなら、その自分をしっかり認める事が大切だ。その感情をまず神様に訴えてみてはどうか。互いに赦し合いなさいとの御言葉に素直に従えない自分をそのまま神様に対処して頂くことが、一番の近道だ。


2004年08月17日(火)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」(箴言3:5)


 冬の晴れた日に景色の良い山のドライヴを楽しんでいた。ところが、天気予報では行き先は大雪になるとの警報。しかし、晴天下あり信じられず、予報ははずれるとどんどん進んで行った。目的地に近づくと、何と猛吹雪になり全く前が見えない状態だった。結局運転不能でホテル宿泊となってしまった。自分のしたい事がある時、それを妨げる情報を受け入れることは難しい。弟子達が主が幾ら十字架で死に三日後によみがえると言っても理解できなかったように。自分の思いと違うので受け入れられないのだ。自分の思いが強いと失敗する。自分の経験や判断、自分の思いに頼る事は危険だ。心を尽くして主に頼り、主に聞いて行く時、みこころの中心を歩める。
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御霊は私達の目を神に向けてくださるが、サタンは自分を見させる。自分に従って行けばみこころから遠くなりますます迷いに陥る。一つ一つ主に頼り、たずね求めていこう。


2004年08月16日(月)

「まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、わたしのところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子供のために作りなさい」(T列王17:13)


 飢饉の中、ケリテ川の水が枯れた時、エリヤが次ぎに遣わされたのは、何と貧しい未亡人のもとだった。それも飢饉で食べるものがなく、最後の食事を子供にさせて死のうとしていた。何という所へ導かれたのだろう。その極貧のやもめはその最後の食事を神に献げるよう言われたのだ。そうするなら、飢饉が終わるまで、かめの粉と壷の油が尽きる事はないと。やもめは従った。すると、その通りの奇跡が起こった。神第一にする時、必ず必要は満たされる。しかし、信仰の選択が必要だ。自我はどこまでも目に見える所を見て損得に立ち、自分を守ろうとする。瞬間の選択だ。神を大切にするか自分を大切にするか。今日も神を選べるように。
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神様は、いつもどん底の死の淵にある者を、尽きる事のない希望、永遠の命へと逆転させてくださる。そのためには、神様のみ言葉をしっかりと受けとめ、まず一歩ふみだす事だ。


2004年08月15日(日)

「あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れたのか」(エレミヤ2:5)

新婚夫婦は誰が見ても微笑ましいものだ。そこに新鮮な愛があるからだ。自分の欲しいものを手に入れた時も同様だ。新車を買うと、絶えず磨きに磨いてピカピカにする。少し汚れても大変だ。常に洗車しワックスをかける。いずれにせよ、最初は熱い思いがある。しかし、時を経ると興奮は必ず冷めて行く。新車も古くなり夫婦も倦怠を感じる。しかし、神との関係では、神の側に何の落ち度も欠点もない。もし、神との関係が疎遠になっていたら、問題は必ずあなたにある。神の愛は不変で絶える事はないからだ。自らの心を探って、罪があるなら悔い改め、神に立ち返る時だ。世のものを追い求めて神から離れたか。今立ち返ろう。愛の御手が大きく開かれている。
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神を遠く感じるなら、問題は自分にある。神は常に変わらない愛で愛していて下さるから。そして、神は親しい生き生きとした交わりを切に願っておられる。受け止めようといつも両手を開いて待っておられる。もし妨げがあるなら悔い改めて神のもとへ行こう。


2004年08月14日(土)

「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコブ3:8)



 「人の口は心に満ちているものを話す」とあるように、自分の語る言葉は自分の心のうちにあるものだ。もし、人を傷つける意地悪な言葉が口から出るなら、それは心にあるものだ。そして、それは人を傷つけ、自分の内の悪を増長させる。逆に、悪い言葉をいっさい口から出さないなら、内の悪を殺す事になる。自分の舌を神に制御していただけるよう祈るなら助けて下さる。舌を制御することがどんなに難しいか誰しも経験するところだ。ヤコブは誰にも出来ないと言っている。舌で大きな失敗をしたことがあるだろう。しかし、「私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守って下さい」と神に頼るなら可能だ。取り返しのつかない失敗から守られるために。神に頼め。
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御言葉には、すべての人と平和を保ちなさいともある。一度出した言葉は、飲みこむことは出来ない。心のうちに悪い思いや苦い思いがある時、口から出る言葉は、悪意か偽善か。出す前にどうか祈れますように。


2004年08月13日(金)

「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになった」


 パウロとシラスはピリピの牢獄に捕らえられた。無実の罪の上に、むち打たれ、足かせをはめられた。薄暗い牢獄で、背中の傷は痛んだ。しかし、彼らはそこで賛美をし祈りをささげた。囚人達はその様子を見ていた。その従順によって看守一家が信仰に導かれた。米国のクリスチャン野球選手が、癌のため腕を切除し野球生命を絶たれた。しかし、彼は自己憐憫に陥る事を拒否した。彼はなぜこんな事に?ではなく、あなたの私へのご計画は何ですか?と問うた。彼のその態度は多くの人に感動を与えた。そして、福音を語る機会とされた。パウロは逆境は神の機会と受け取った。私達はどうだろう。不満か自己憐憫か、神の機会か。
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問題をチャンスに変えるためには、しっかり神様に目を向けていなければならない。目をそらすと、すぐに自分の感情や、状況に飲みこまれてしまう。この事から何を学べばいいのか、私の取るべき正しい姿勢は何か、神様に聞いていこう。


2004年08月11日(水)

「ああ主よ。私はことばの人ではありません・・私は口が重く、舌が重いのです」(出エジプト4:10)

神がはっきりと導いておられるのに、自分には出来ないと尻込みする事がある。モーセが言葉の人ではないと尻込みしたように。神が導いておられるのに、自分はふさわしくないと拒むなら、それは謙遜でなく、偽りの謙遜だ。なぜなら、それならもし、自分にそれをするだけの力量と才能があれば、自分はふさわしいと見る事になる。もし、モーセが雄弁さを持っていれば彼は進んで神の命令に従っていたであろう。しかし、神なしにはどんなに才能があっても役に立たない。神の導きがあり、神が共におられるなら、才能が無くとも、有能な働きができる。神が力を与えられるゆえに。自分に出来ないと導きを拒むのは謙遜ではなく不信仰だ。神を信じて前進せよ。
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才能の問題ではない。神がせよと言われるなら、必要な知恵も力も技術も与えて下さる。問題は、神が導かれているかどうかだ。神の導きを確信するなら、信仰によって前進すべきだ。私達はただの器であり、神が素晴らしく用いて下さる。従って良かったと必ず思える。


2004年08月10日(火)

「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた」(マタイ25:15)


 自分に与えられた賜物について今一度考えて見よう。神はすべてのクリスチャンに必ず賜物を与えておられる。賜物のない人は一人もいない。自分に与えられた賜物を主のために用いる責任がある。かの日に、あなたに与えられた賜物をどう使ったかと問われる。多くのクリスチャンは自分のタラントを地の中に埋めている。この世の事だけで生きるならそうしている事だ。あなたの手の中にあるものは何か。賛美の賜物か、楽器演奏か、大工仕事、料理、印刷、絵画、もてなし、あなたの手にあるものを神に献げよ。神のもとに持って行け。
神の御手に献げられたものを神は豊かに祝福して用いて下さる。賜物について責任がある。自分の賜物をよく観察しよう。
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何が自分の賜物か、何をもって仕える事ができるのかよく祈ってみよう。天に宝を積むのは今しかないから。今日、与えられた賜物を生かして神様の栄光を現せますように。


2004年08月09日(月)

「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます」(詩篇138:8)


 欠点や弱さはすべての人にある。 怒りっぽい、短気、嫉妬深い、虚栄心が強い、プライドが高い、人によって様々だ。忍耐がない、怠惰に走る、ひどく心配性・・しかし、その欠点のゆえに、主のもとへ行き、主に頼るなら、その欠点は大きな祝福になる。弱さの中でしか、なかなか神に頼れないからだ。落ち込むのでなく、欠点を受け入れ、認め、それを神のところへ持っていくのだ。人は自分の弱さを見たくないし、認めたくないものだ。目をそらせている限り、ずっとそのままだ。神はあなたの弱さの中に神の御力を現して下さる。恵みは十分だ。私達は土の器に過ぎない。しかし、土くれを通して神の栄光が現れるなら何という喜びであろう。弱さを認めよ。
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神の無限の力が、この土の器に溢れるから私達は失望せず祈ることができる。弱いところ足りないところを満たしてくださる神を覚えるなら、何も持っていないことは、大きな祝福となる。


2004年08月08日(日)

『人は言った。「あなたが私のそばにおかれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」』(創世記3:12)


駐車場で、ある男性が突然バックして、後続のゆっくり前進していた車にぶつけてしまった。何とその男性はぶつけた車の女性に怒った。出てきた彼女が悪いと。誰が見ても彼の後方確認ミスだった。エデンの園でアダムがした事と同じだ。エバに責任を転嫁した。私達の罪の性質は自分の罪を認めないで、他人のせいにする。他人に転嫁し、環境を与えた神のせいにすらする。私達が罪を犯すのは、自分の欲望に聞いていくからだ。私達が人のせいに、環境のせいにしていく限り、決して罪に勝利できない。「それをしたのは私です。」と自らの責任を認める事だ。そこから新しい歩みが始まる。弁解せず言い訳せず、自分の罪を認める時、変えられていく。
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自分の欲に引かれ、おびきよせられて誘惑される。一番弱い所だ。サタンは誘惑はできるが、私達の意志に触れる事はできない。ゆえに罪を犯すのは自分だ。自分を正当化せず、罪を認める時、赦しを受け、神のあわれみを豊かに味わう。


2004年08月07日(土)

「私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」(Tコリント10:14)

クリスチャンなら金の像や地蔵や形ある偶像は決して拝まないだろう。それは偶像礼拝だとはっきりわかるから。しかし、形の違う偶像はわかりにくい。仕事や趣味も偶像になる。地位、名誉も偶像だ。富も偶像になる。愛する人も偶像になる。神よりも愛情を注ぐ対象が偶像ということだ。神の栄光を求める、その心の底に神の栄光にかこつけて、実は自分の栄光を求めている自我がある。神第一と思っている心の裏側に自分の思いが第一であり、自らの思いを通して行く自分がいる。自分が神になっている。これは紛れもなく偶像だ。四六時中私達の注意を引き、心を奪うものも偶像だ。あなたの心に偶像は無いか。神にとって代わるものはすべて偶像だ。
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目に見えない、形のない偶像がわかりにくい。神より心を奪われているものは偶像だ。一番大きな偶像は自分自身かも知れない。神のためと言いながら、実は自分の栄誉を求め、自分の思いを通している。御霊に心の闇を照らされて初めてわかる。


2004年08月06日(金)

「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに徳を高め合いなさい」(Tテサロニケ5:11)


 米国での証しだ。一人の若い神学生が初めて教会で説教をした。彼は緊張するとどもる癖を持っていた。初めてで余りの緊張にしどろもどろになって、どもってしまい、何を言っているか自分でもわからなくなってしまった。散々たる結果に落ち込み失望落胆した。その時、一人の高齢の男性が彼を捕まえて言った「今日は有難う。君の主への純粋な気持ちにとても恵まれたよ。君の将来が楽しみだ。誰がどう言おうと僕は君を生涯応援しているよ。それを覚えていて欲しかったんだ」。落胆していた彼にとってどんなに大きな励ましと力になったか側り知れない。励ましの気持ちを伝える事は大切だ。御霊はあなたを用いて誰を励まそうとしておられるだろう。
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励ましの言葉をまっている人は必ず周囲にいる。祈ろう。ひとりひとりに対する言葉も神様が必ず与えて下さる。思いを行動に移そう。


2004年08月05日(木)

「キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです」(Tヨハネ2:28)


 近い内に友人が遊びに来る事になっていた。 どの日かまだ分からなかった。散らかり放題の家を掃除しなければと思うが、目の前の次ぎから次ぎの用を片付ける事で毎日が精一杯だった。気が落ち着かず焦っていた。ある日、時間が空いて大掃除が出来た。やっと心が落ち着きこれでいつ来られても準備万端であった。主イエスの再臨に対してどうだろう。神との関係は正しいか。みそば近く歩んでいるか。対人関係はどうだろう。修復すべき相手はいないか。証しすべき相手はいないか。福音を伝えるべき人はいないか。謝罪すべき相手はどうか。主が来られた時、門は閉じられ、時と機会は終わる。今ならまだ間に合う。解決すべき事、なすべき事はないか。再臨に備えよう。
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私達は本当に再臨を望み待っているだろうか。様々な心残りがあるのではないだろうか。その日を遅らせて下さっているのは、ただ神様の憐れみだ。ノアの日のように来るその日に備え、具体的に祈って行かなければ。


2004年08月04日(水)

『これはヨハネがヘロデに「あなたが兄弟の妻を自分のものとしているのは不法です」と言い張ったからである』(マルコ6:18)

バプテスマのヨハネは、ヘロデ王がヘロデヤを妻とするのは間違っているとはっきりと告げた。ヘロデは自分の兄弟の妻を妻としていたからだ。断固とした態度で罪を指摘した。身近に妻子を捨てて別の女性に走った男性がいる。又、その逆のケースもある。知人である彼らをそしりはしないが、しかし、彼らのしたことを認めていないし、間違っていると思っている。ある同性愛者が牧師のもとへ相談に来た。牧師は彼を軽蔑していないし愛しているが、神は罪だと言っているとはっきりと語った。私達は罪の中にいる人に対して、親切で丁寧であるべきだが、神が罪だと言われ、悔い改めを勧めておられる事を伝える事が出来る。神を彼らに伝える事が出来る。
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神は罪人を愛されるが、罪は憎まれる。それゆえ、私達は悪を憎む事なしに神を愛することは出来ない。愛するなら、相手の罪をはっきり指摘しなければならない時がある。罪である事、離れなければならない事、御霊に導かれるならはっきり言おう。


2004年08月03日(火)

『「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」


新聞やテレビで不道徳な行いをした伝道者が報じられていた。未信者の人々からのそしりと嘲りを受けていた。サタンの策略だ。主を信じるクリスチャンに過失を犯させて未信者に嘲りを起こさせてキリストのことを真面目に考えなくさせるのだ。神に選ばれて王となったダビデが罪を犯した。この事は、主の敵に侮りを起こさせた。わたしたちが罪を犯し、失敗する時、私達だけでなく、主の御名が嘲りの対象になってしまう。主イエスは私達に「試みに会わせないで、悪からお救いください」と絶えず祈るように教えられた。神の助けがなければどうなるかわからない私達だ。絶えず主に助けと守りを求めよう。
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クリスチャンは、他の人々をつまずかせてはいけない。絶えず祈り、御霊に従っている時にだけ、サタンの策略から守られる。私達が神様の証し人であることをいつも覚えていなければならない。


2004年08月02日(月)

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57:15)

 どうすれば惨めになるだろうか。それは自己中心になればよい。すべてを自分中心に考え振舞うのだ。自分の事だけを考え、自分の事だけを話し、人を気にする事だ。人の評価を求め、人の賞賛を期待するのだ。自分より才能のある人、人気のある人、好かれる人を妬むのだ。人の悪を執念深く覚え絶対に赦してはならない・・・こんな事をすれば確実に惨めになれる。そして、この反対をすれば喜びが来る。神は心砕かれて、へりくだった人と共に住んで下さる。自分の力で何も出来ず、神を必要とし、神に頼る人に祝福を惜しまれない。自己中心から悲劇は生まれ、神中心、神第一から幸せと喜びが来る。真の幸せは自己中心な自らを神に明け渡す事から来る。
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人のことを考えられず自分の事しか考えられない自分…それを素直に認め、そのところにこそ神様にすがればいい。自己中心に傾きやすい事をしっかり覚え、神様に祈り求めて行くなら変われる。


2004年08月01日(日)

「もし、右の手が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい」(マタイ5:29)

習慣がなかなか止められないとの悩みがある。アルコール、タバコ、薬物。アル中の人が病院に入り治療を受けて、退院する。最初しばらくは良いのだが少しぐらいなら構わないとの思いが来て、誘惑に負け、また、元に戻ってしまう。同じ事を繰り返す。少しぐらいならと言うところに巧妙な誘惑が隠れている。自分に捨てなければならない罪があるか。性的不品行、少しぐらいの嘘ならとの不正直、悪い習慣。自分をごまかしたり、偽ったり、曖昧にしていたり、中途半端にしているなら解決は不可能だ。その罪深い自分に真剣に徹底的に、逃げないで向き合う事だ。罪に真剣に向き合い、祈り、取り組め。主は勝利させて下さる。いい加減ならずっとそのままだ。
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自分の痛い所は、触れたくない。あいまいにしておきたい。避けたり、逃げたりして、突き詰めない。向き合わない限り、ずっとそのままだ。解決がなく霊的な成長もない。傷に向き合うなら、癒される。罪に向き合うなら、赦され回復される。いつもうずく所に向き合おう。