2004年09月30日(木)

『私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」』(詩編16:2)

ヨブは大変な試練に会った。それには舞台裏がある。サタンが神のもとに来て「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」と中傷したのだ。この意味は、ヨブが神を敬っているのは、得るものがあるから、祝福の副産物があるからだと。それで、神はサタンに条件付きでヨブを試す事を許された。神がヨブを信頼し、見込んでおられたからだ。三浦綾子さんは、生存中、次から次と病気の人生だった。しかし、「私は神様に特別にひいきされている」と信仰的態度でそれを受け止めた。 病気は、綾子さんを神に更に近づける事しか出来なかった。私達が次々と苦しみや悲しみに会い、富も、健康も、家族も友も何もかも無くした時、何が残るのだろう。何もかも無くしたとしても、神が残る。そして、人は苦しみや悲しみに練られきよめられて行く時、神がすべてとなり、ご利益があるからでなく、神が神であられるゆえに愛して行くようになる。
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「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし、神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地」苦しみ悲しみで自分自身が尽き果てる時に、神がすべてであられると初めてわかる。試練は痛いが、何にも変えられない大きな恵みをもたらしてくれる。


2004年09月29日(水)

「私は、わたしを尊ぶものを尊ぶ。私をさげすむ者は軽んじられる」(Tサムエル2:30)

祭司エリの二人の息子が、神へのささげ物を軽んじて扱い、ささげ物を力づくで奪い、主をさげすんだ。又、天幕の入口で仕える女達と寝て、神を侮った。神は無名の神の人を遣わし、罪を指摘させた。このような神を侮るひどい行為によって、神は彼らが一日の内に死ぬと言われた。彼らの罪は、主の前で非常に大きかった。主は、その人の主への態度で、恵みを与えたり、差し控えられたりする。態度が大切だ。いじけた者にはそのように、まっすぐな者にはそのように応答される。素直な心で神に従うなら、神はあなたを喜ばれ、必ずあなたを大いに恵まれる。すべては私達の態度だ。二人の息子は死んだ。神は聖いお方だ。自らの蒔いたものは必ず正しく刈り取る。厳しい苦しい訓練となって返る。神を畏れよう。今、神に喜ばれないものがあるなら、きっぱり捨て離れよう。そして、自分の欲望のためではなく、御霊のために蒔いて、永遠のいのちを刈り取ろう。
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自分の自我や罪深さを甘く見てはならない。又、神は決して甘いお方ではない。神は侮られる方ではなく、蒔いたものは正確に刈り取る。これは原則だからその通りに作用する。罪を認めない時、神は必ず罪を指摘する人を送られる。悔い改めて正しい道に戻ろう。


2004年09月28日(火)

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言16:9)

私達は計画を立てるが、全く別の道筋に導かれる事を経験する。ある人は教員へと進む途上で、突然伝道者の召しを受けた。ある人は、牧師になりたいと、神学校へ入学。ところが卒業時には、神学校で教える教師に導かれた。ある女性はライフワークを持ち、生涯仕事をしたいと思っていたが、結婚を与えられ、夫に仕え子供を育てるように導かれた。どのような時にも、もし私達が主に信頼をしているなら、例え計画が変更になったとしても、失望したり、パニックになる事はない。最終的に御旨を定めて導かれるのは神だからだ。そしてその御旨は私達の思いと違ったとしても最善であるから。しばしば、神の思いは私達の思いと異なり、神の道は私達の道と異なる。しかし、神の思いは私達の思いよりも遙かに高い。計画に変更がある時、信頼し委ねよう。最終的に主のご計画が成し遂げられる。
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ヤコブは騙した兄のエサウに会う時、恐れ怯えて思い巡らし、自分の力で出来る限りの画策をした。しかし、ヤコブが肉の力を全面的に砕かれた時、神が見事に解決を与えられた。私達の道を成し遂げられるのは神、自分の思いを明け渡そう。


2004年09月27日(月)

「すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」(ルカ15:28)

放蕩して戻って来た弟に、兄は腹を立て、むくれた。自分勝手に好き放題をして、それで帰って来て宴会とは何事か。自分は戒めを破ったことは一度もないと言った。しかし、そんな事はあり得ない。自分の罪がわからない。まず隣人を愛せよの、弟への愛がない。子山羊一匹もらった事がないなど、父が良くしてくれた事がないなどあり得ない。自己中心で、自分には甘く、人は裁き、自分の事も父も弟をも正しく見る事が出来ない。物事を自分中心にしか見られない。不満を隠し、うわべだけ、形だけで仕えていた。それが弟の帰宅で爆発、本性があらわになった。父の一番近くにいながら、その心は父から遠く離れていた。結局弟と同じだ。父の愛がわからない、感謝がなく、喜びがない。これは私達の姿でもある。しかし、父は、わたしのものは全部お前のものだと、兄への深い愛を優しく表明。
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自己憐憫、自己中心、自己愛に陥ると、神のお心が全くわからない。祝福が全く見えない。砕かれた、へりくだった心でいる時、神の愛と憐れみが溢れ流れ込み、心が感謝と喜びで溢れる。私達の居場所で天と地ほど違う。自分の内に兄の姿を認め、弟のように悔い改める時、神の愛に触れ、愛がわかる。


2004年09月26日(日)

「神は、みこころのままにあなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2:13)

ある牧師が学生の伝道に重荷を持ち、早速、志を立て懸命に労した。しかし、働けど、働けど、なかなか伝道は進展しなかった。どうした事かと悩み悶々とした。その時、自分で志を立てて、自分で一生懸命努力するなら、神が実現させて下さると思っていたが、そうではなく、志も実現も、共に神から来ると気づかされた。何でもかんでも自分で志を立てて、自分で思ったように突き進むのではない。家を建てる時、どうしても必要な物がある。それは設計図だ。設計図がないなら家が建設される事は不可能だ。神は設計図である、「志」を与えて下さる。それは神から来る。そして、それを完成する力も神が与えて下さる。神からの志である事が大切だ。あなたの思いは、神からの志か。
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肉の思いは自己中心だ。自分の損得、自分を守る事、自分の名誉、体面にピリピリしている。しかし、そんな自分の思いを明け渡して行く時、神はみこころにかなった志を心に与えて下さる。そして、それを実現する力も与えて下さる。まず自分の思いを神に明け渡そう。



2004年09月25日(土)

「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです」(ルカ10:41)

「心配」とは思い煩う事であり、原語の意味は「分裂する」だ。様々な事を心配するとは、心があちこちに分裂する事だ。心が乱れて、一事に集中できず、結局何も出来なくなる。私達が思い煩っている時はそういう事だ。マルタは、主のために、主に喜んで頂こうと一生懸命だったに違いない。しかし、主を喜ばせたいとの思いの真っ只中で、不平不満、愚痴、周囲への腹立ち、非難が爆発し、その非難は主にまで向かった。何もしていない妹を見て腹を立てたのだ。しかし、マリヤは何にもしていないのではなく、主のお言葉を一言も漏らすまいと、真剣に全身全霊で聞き入っていたのだ。主のお心を知る事が、何にもまして一番大切だ。もし主が家事をするように言われたら、マリヤはすぐにそうしただろう。自分の思いを、何でもかんでも行なう事でなく、まず主のお心を聞く事、これが最重要事だ。私達はどうだろう。
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仕事も勉強も家事も決して悪くない、良いものだ。良いものによって、
最も良きものが圧迫される。良いものなので気づかない。時間には絶対量がある。優先順位をしっかり保たないなら、最も大切な事が後回し、後回しになり、今日も流され、人生流されたままで終わる。第一のものを第一に。主との交わり、これは選択しない限り持てない。




2004年09月24日(金)

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません・・神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:16)

ある人が新生した時、神に赦されたと同様、人にも赦されたいと強く願った。それで、心に浮かぶ罪を悔い改め、具体的に一人一人にも謝罪した。心に傷をつけた相手、喧嘩した相手、盗みをした先の店主、物品に傷をつけた持ち主・・思い出す人達に対して、謝罪し、遠方の人々には手紙で謝った。感謝な事に、全員が快く罪を赦してくれたのだった。「正直に話してくれて有難う」「あなたみたいな人初めてだ」と。救いの証しをする機会にもされた。そして、何よりも素晴らしかったのは、すべての謝罪を終えた瞬間、心に大きな喜びが満ち満ちた事だった。神にも赦され、人にも赦された大海のような平安は、何ものにも変えられなかった。初めての経験であった。勇気は要ったが、神の赦しを全身全霊でかみしめ味わえた。
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「ごめんなさい」を神は喜ばれる。悔い砕かれた心は神に一番近い。特に、人への謝罪はプライドゆえに大変難しい事。親切でごまかしたり、善行でチャラにしようとする。神はそんないけには喜ばれないと。真実に本気で向かう者に、神も本気で受け止め向き合って下さる。ご自身を現して下さる。


2004年09月23日(木)

「風も見ず大雨も見ないのに、この谷には水があふれる・・これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される」(U列王3:17)

ヨラムが王になった時、モアブ王がそむいた。それでヨラムはヨシャパテとエドム王と共に戦いに出た。荒野を行ったので、軍勢も家畜も飲み水が無くなり、戦闘どころでは無くなった。水が無いのは致命傷だ。預言者エリシャがいる事を知り、彼のもとへ行った。エリシャは、この谷にみぞを掘れ、谷に水が満ちて、皆が飲み、主はモアブをあなた方の手に渡されると言った。そして、これは主の目には小さな事だと。民はエリシャの言葉に従って、水が全く無い所にみぞを掘った。理性ではばかげているが、従った。すると、神が奇跡を起こされた。そして、不可能に見えたのに、モアブに対して大勝利した。人間の目には断崖絶壁状態に見えても、神には小さな事なのだ。神に不可能はない。今あなたに問題があるか。神は小さな事と言われる。神に頼り、神の示しに従順に従うことだ。考えられないみわざを見る。
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どんな絶体絶命の危機も「主の目には小さなこと」だ。何と力強い。常に主の側で、主の見方に立とう。水が血に見えてモアブは敗退。水は味方にも敵にも効力を発揮。一方的な主の力により敵は打ち破られた。「みぞを掘れ」御言葉の通りに従うなら奇跡を見る。


2004年09月21日(火)

「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた」(創世記39:2)

私達は物事がうまく行けば、「主が共におられる」と思っていないか。危険から奇跡的に助かったり、ラッキーな事ばかり起こったり、しかし、そうではない。ヨセフは試練の連続だった。兄達から妬まれ、隊商に売られる。しかし、主を見上げていると、エジプトで王に認められ全財産を任された。が、又、試練が臨み、王妃ゆえに無実の罪で投獄された。しかし、その時も「主はヨセフと共におられた」。どんなに絶望と落胆の中にも、神は共に折られる。これは決定的な事だ。主が絶望的な現実の中に共におられるのであれば、どんな状況にも耐えられる。これはヨセフにとっても私達にとって勝利だ。どんなに過酷な中にも主は共におられる。これは大きな慰めであり力だ。やがてヨセフは牢獄から出され総理大臣となりエジプトを支配する。最終的には何もかもが最善とされ、大飢饉の中、家族を引き取り、命を救う事になる。神は「共におられる」。過酷な状況の中に働いておられる。神を信頼せよ。
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順境も逆境も、等しく共におられる主。何と嬉しい事か。しかし、私達の側はどうだろう。主と共にいたいのだろうか。助けが欲しい時は共に、自分の思いを通したい時は、困るのでは。主は永遠に変わられない。常に共におられる主を、曇って見えなくしているのは自分自身。今日、焦点を主に当てて、主をしっかり意識して生きよう。


2004年09月20日(月)

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てるものは、あわれみを受ける」(箴言28:13)

罪は必ず告白しなければならない。そうするなら赦される。罪は神と私達の間を断絶させる。エデンの園で、罪を犯したアダムが神から隠れたように。神はアダムに悔い改めの機会を与えられたように、悔い改めに導いて下さる。しかし、アダムは悔い改めを拒否し、エバに罪の責任転嫁をした。私達はそうであってはならない。又、口先だけで罪を認めても、それは悔い改めではない。罪の結果が恥なので不名誉な事なので、結果が悪いと思うだけだ。決して認罪による悔い改めではない。光の中を歩まない限り、罪はわからない。認識不可能だ。聖霊によるものだからだ。隅々まで光に照らし出してもらい罪を認めようではないか。豊かに赦される。
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結果が恥ずかしく、体裁悪いので悪いと思うだけなら、それは聖霊による悔い改めではない。本当は心の底では悪いとは思っていない。体面が、人前が悪いだけだ。聖霊の光がある時、神が見ておられるように自分を見ることができる。光によって真の悔い改めが与えられる。



2004年09月19日(日)

「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ・・地に導きいれることはできない」(民数記20:12)

民のつぶやきに、モーセは杖で二度岩を打って、水を出した。これは大きな罪であった。なぜなら、岩はキリストを表わし、神はキリストを一度打たれた。しかし、それを二度打つ事は、一度目のキリストの尊いあがないを否定する事になるのだ。それゆえ、モーセが乳と蜜の流れる地、カナンに入る事を許されなかったほどの罪だった。モーセは水を出すために、岩に命じるように言われた。それを打ったのだ。打てとは言われなかった。神への不従順は不信仰であり、不従順は大きな罪へと発展する。今、あなたの生活に故意の不従順はないか。御霊の促しを無視したり、なおざりにしている事はないか。心と生活をよく点検してみよう。神に従う事は大きな祝福と喜びをもたらす。今、目の前に示されているみこころに、すぐに従おう。
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みこころに従う事は素晴らしい祝福。従うと平安と喜びが来て、周囲にも神の栄光を現わして行く。御霊に示されていながら、なおざりにしている事があれば、今すぐに従おう。すぐに従わなければ、ぐずぐずしていると、肉が妨害して、必ず従えなくなってしまう。


2004年09月18日(土)

「御国の言葉を聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです」(マタイ13:19)

道ばたの固い土地に種が落ちると、はじき返す。土地とは心だ。御言葉を聞く時は、心が開いていないなら無益だという事。心に自分の思い、偏見、既成概念があるなら、はじき返して入らない。半分は語る側の責任であり、後の半分は聞く側の責任だ。聞く態度のある心に、種が落ちる時にのみ結実する。心閉ざした聞き手には、誰であっても語るすべがない。種が心に植わらない限り、結実は不可能だ。御言葉を心に受け入れない限り、まず救われようがない。が、救われた私達は日々御言葉をどのように聞いているか。都合の良い御言葉を選び取って、耳の痛い言葉は退けているか。耳をふさいで聞こうとしないか。それなら道ばたと同じだ。自我がますます固くなり、成長は決して無い。もし成長したいなら、どんなに痛くとも、心砕いて御言葉をしっかり受け止めることだ。
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快い、都合の良い御言葉を選び、自分の思いを通して行くなら、自我をますます増長させる。痛い御言葉こそ、聞く必要のある御言葉。痛いという事は何か心にあるという事。だから痛い、聞きたくない。痛い言葉にしっかり耳を傾け、向き合おう。光で照らされ、きよめられて成長して行く。


2004年09月17日(金)

「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:8)



人を意識して体裁を意識して祈ってしまう事があるかも知れない。人を意識すると、祈りの言葉が良いか悪いかに心が集中して行き、神への意識から心がそれてしまう。薄っぺらな言葉となり祈りでなくなってしまう。祈りとは心の深みから出た真実な言葉であって、人に印象が良いかなど関係がない。神に答えを期待して人に向かってでなく、当然の事であるが、神に向かって祈るべきだ。祈りの中で、あたかも神がご存知でないかのように、状況を延々と説明する人があるが、その必要はない。祈りはメッセージではない。神はすべてご存知だ。どれだけ真実な祈りができるかは、私達の内側で、どれだけ深く必要を感じているかにかかっている。
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祈りを聞いていてくださる神様を、しっかりと意識して祈ろう。より頼むべき方は神様お一人だ。祈りに答えてくださり私達の必要を満たされる神様に心のすべてをうち明け祈ろう。


2004年09月16日(木)

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(使徒3:6)



 あるアイドルが語った。自分は地位も名誉も富も人々からの賞賛や羨望も何もかも手に入れた。しかし、自分は全く幸せではなかった。満たされてはいなかった。自分は単なる操り人形で、毎日朝から深夜までただ人形のように言われる通りに動かされていただけだ。この虚しさは言い表す事が出来ないと。何もかも手に入れても決して心に満足は来る事がない。頂点に立つ人がしばしば自殺までしてしまうのはなぜか。何が欠けているのか。それは他でもない神との個人的な関係なのだ。その心の空洞は神にしか満たす事が出来ない。神に会えた事を心から感謝し、この救いを伝えよう。もし知らなかったら、私達もどうなっていたかわからない。ただ感謝のみ。
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私達が持っている主にある希望や平安を、まだ知らない人々に伝えなくてはいけない。心の中にある虚しさからの開放のよろこびは、私達にしか語れないのだ。


2004年09月15日(水)

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。神を待ち望め」(詩篇42:5)

記者は自分に向かって独り言を言い、メッセージしたのだ。彼は遠方にいて、エルサレムの神殿に行けなかった。彼は落ち込んだが、その気持ちをそのまま素直に神に告げ、神の真理を口で言い表した時、彼は励まされ助けられた。私達も落ち込む時、自分にメッセージする事だ。「神は私たちを愛し慈しんでおられる。神にはご計画があり、今の事態も益となる。祈りは必ず答えられ、神は決して私を捨てられる事はない。神は真実であられ、私をみこころへと導かれる」自分で自分にメッセージする時、引き上げられ強められる。不信仰に陥りそうな時、しっかり自分にメッセージせよ。意志を信仰へと、神へと向けて行くのだ。口に出して語る事には、不思議な力がある。信仰が確かにされる。心が新たにされ強められる事を経験する。自分の心に語れ。そして、真理を口に出してはっきり言え。
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不信仰に、落ち込みそうになる時、御言葉の真理を口に出して言い表す事は力がある。自分の内で確かにされる。神の真理を、自分が自分にメッセージする事は大きな力だ。信仰生活で意志はとても大切。不信仰に立ち向かい、意志を神様に向けて信仰を選び取って行く時、自分が変えられる。


2004年09月14日(火)

それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」(Uコリント4:11)


 多くの未信者にとっては、主に出会うのはクリスチャンによってだ。周囲にいるクリスチャンによって信仰や神や聖書を知る。聖書を決して読みはしないが、クリスチャンには注目している。クリスチャンの生活が、未信者にとって生きた歩く聖書そのものなのだ。あなたは日々、どのような聖書を表しているだろう。人々はあなたのうちにキリストを見ているか。キリストを示すどころか、つまずきになっていないか。私達自身を見るだけで、決してキリストを見る事が出来ないか。神は私達の人格を通して人々がキリストを見る事ができるようにと願っておられる。あなたは生ける証人、生活に主が現れて下さるよう自分自身を主に明け渡せ。
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様々な人々と直接関わっている私達が、イエス様の香りを放っていけますように。今日も、遣わされておる所で、神様の栄光が表されますように。


2004年09月13日(月)

「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」(ヤコブ1:8)



 私達には二つの性質がある。生まれつきの罪の性質。激しい葛藤を経験する。神を喜ばせ、神に従おうとする心と、自分を大切にし自分の思いを通そうとする心、しばしば神に反抗する自我が勝つ。二つの性質は相互に引き合う「誰も、ふたりの主人に仕える事は出来ません。一方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです」あなたが選択するどちらかが、あなたを支配してしまう。どちらも選ぶ事は出来ない。キリストが自我か、両立はない。葛藤で、がんじがらめになっているか。秘訣は御霊だ。御霊に導かれて従って行くこと。御霊に満たされるなら肉体に勝利できる。自分の力、自分の思いを明け渡せ。
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その時には瞬間の選択であっても、選択の結果は後になって、より主に似た者へと変えられているか、いつまでたっても変わらない古い自分のままか、大きく違っていく。御霊に満たされ、みこころを選んで行こう。


2004年09月11日(土)

「あなたの施しが隠れているためです・・隠れた所で見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます」(マタイ6:3)


 ある人が夏休みにバイトをした。それは高原のホテルで、夏中、来る日も来る日も朝から晩までジャガイモの皮むきの仕事だった。誰からも見られず、誰からも誉められもせず、黙々と働き続けた。すぐに大変な苦痛となったが、そこで逃げずに祈りによって、ジャガイモむきを神への礼拝行為として献げ神を賛美しつつ祈りつつ仕事をした。その夏は大いなる祝福と成長の時とされた。私達は人前で仕える時は生き生きとする。幾らでも喜んで仕える。しかし、誰の目にもつかない隠れた地味な働きだと、すぐに飽きてしまい続かない。面白くも楽しくもないのだ。しかし、私達は人に見せているのではなく、何をしようと神に仕えているのだ。神が見ておられる。
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自分のする行いの一つ一つは、人の目を気にしてするのではなく、神様の御前にある事を覚えて行かなければならない。信仰が成熟し、自由な大人のクリスチャンとして歩めますように。


2004年09月10日(金)

「神が、あなたがたを完全にし、堅く立たせ、強くし不動のものとしてくださいます」(Tペテロ5:10)




 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加えられる。天の御父が、私達の行く手に送られるもの、私達の人生に許されるものは、すべて「私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして」のものである。陶器に塗られた絵の具は焼き付けられる。焼き付けないと、簡単にこすれ落ちてしまう。何度も火の中を通し、塗りつける。神様の私達への取り扱いも同じである。神が私達を造り上げるやいなや、苦しみ、悲しみ、傷みという炉の中に入れられる。何のためか。炎によって主イエスの人格が、私達の人格に練り込まれるためであり、焼き付けられるためである。あなたは今、苦しみの炉の中にいるか。天の父はあなたを愛している。もしそうでなかったら、あなたを無視されたであろう。必ずあなたを強め、不動の者として下さる。信ぜよ。神の道が理解できなくても、神を信頼せよ。あなたの人格は宝石のように苦しみによって研がれ、磨かれる。
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苦しみに会うと、寸暇を惜しんで祈り、御言葉を常に手元において、みこころをたずね聞く。御言葉の一つ一つが心に染み入り足もとの灯火となって行く道を示される事をいつも、いつも経験する。



2004年09月09日(木)

「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになった」(ピリピ1:12)




私達は、人生の中で様々な困難に出会う。神を信仰すれば万々歳で、その後の人生すべてうまく行くなどとは聖書は全く言っていない。信仰生活とは順境の時も逆境の時も、同じように神と共に歩む事だ。そして、困難や苦しみこそが私達を成長させる。神が恵みと力を現される機会となる。一つ一つの意見不都合な出来事が実は証しの大きな機会となり福音の前進として用いられるのだ。神はそのように働かれる。私達が信仰に立ち、神に委ねているなら、必ずそうなって行く。反対、病気、倒産、様々な妨げ、そのような中で返って主のみわざが現れ、証しとなる事が多くの人が経験するところだ。今、不都合かあるか。人の窮地は神の好機だ。神に焦点を置け。
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どのような状況の中でも神様は働かれる。だから目に見えるところにではなく、生きておられる神様に信頼して安心して今日も示された事を行っていこう。


2004年09月08日(水)

「わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです」(ヨハネ8:29)

人々は多忙で、いつもイライラしている。時間に追われて、すべき事が多過ぎるのだ。心身ともに圧迫され押し潰されそうだ。過労で疲れ果てている。主はどうであられたのだろう。常に迫り来る群衆に教え、愛のわざをなし、癒し、悪霊を追い出された。どんなに心身共に消耗された事だろう。しかし、主は何もかもに手をつけ疲れ果てるような歩みをされたのではない。また、目の前の事柄すべてに手を出されたのでもない。朝毎に御父と交わり、その御旨を求め、常に父のみこころを行われた。あなたの多忙はどうか。御父のみこころか。自分で取り込んで忙殺されているか。疲れ果てているなら問題だ。神の御心と優先順位の再確認が必要だ。
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主は、目の前の事にすべて応じられたのではなく、みこころを行われた。時間も体力も精神力も許容量があり、絶対量がある。日々目前の事に忙殺されて、御父と交わる時間すら無いなら、みこころではない。生活をよく点検してみよう。



2004年09月07日(火)

『あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい』(ヨハネ15:7)


 ある人が失業した。次ぎの仕事を祈り求めつつ、捜すがなかなか無く、どんな仕事でもと面接を受けるが次々と不合格だった。全く当てが無く、追い詰められ、絶望的な、神から見捨てられたような気持ちになった。気力も失せて来て、忍耐が与えられるよう祈った。もうだめだと、神のもとにすべてを投げ出した時、何と自分の賜物に適した素晴らしい仕事が与えられたのだ。その場でひざまづいて心から神に感謝した。この経験を通して、神はどんな祈りも聞いていて下さって、心のそこの切望をご存知である事を知った。時期も内容も、自分の思い通りでは全くないが神のご計画通りのものを与えて下さる。時期も神の時を待たなければならない事を学んだ。
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神様が最善のものを、最善の時に与えて下さる。この確信があるから私達は何時も祈り求める事ができる。与えられるまでの心細い私達の弱さもすべて知っていてくださる。


2004年09月06日(月)

「見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂きは天に向けて立てられている。その頂きは天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」(創世記28:12)


 ヤコブは夢の中で、はしごが天から下り、地に立つのを見た。そのはしごを御使いが上り下りしていた。ある人々は神を近く体験できたらどんなに良いだろうと思う。しかし、私達も神と近く交わる事が出来る。天にはしごがかかっている。祈りによって、はしごを上り、はしごを下って来る祈りの答えを受け取る事が出来る。御言葉を通して、神のお心を知る事ができ、神に語る事ができ、私達も神の御臨在を味わう事ができる。神との交わりという素晴らしい天の門が開かれ、祈りの答えを受け取る事ができる。何という恵みだろう。あなたはこの神と直接交われるという特権を感謝し常に使っているか。心底味わっているか。この恵みの大きさに気づかずにいるか。
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御言葉の中から神様のみこころを尋ね知ることができ、祈りを通し天からの恵みを地の下ろすことができる。そして、日々生きておられる神様を近く知っていける。私達は神様から遠く離れてはいない。


2004年09月05日(日)

『「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです』(Uコリント4:6)

昔大掃除をしたものだ。家具を全部外に出し、畳も上げ日に干した。掃除した家具も綺麗に拭き、必要な物は再び納め、不必要な物は廃棄した。神は私達がきよめを求める時、心の中を陽に当てて下さり、何が必要で、何が不必要かを示して下さる。聖霊の光のみがそれを正しく教える事が出来る。あなたの行動とあなたの心の内を、常に神の光の中に置け。間違っていれば教え導いて下さる。神の光がない限り、常に自分は正しい、何の間違いもない。万事これで良い、問題なしと思い込む。それは暗闇の中にいるからだ。何も見えない。自分の間違いがわかる時、光の中にいる。光が照らし出すからだ。あなたはどうか。自分は正しく、相手が悪いか。それが暗闇。
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光があるから、闇がわかる。御霊が教えて下さるから、罪がわかる。闇の中にいると、罪がわからない。罪がわかるのは、御霊の光がある証拠。照らし出された罪には、すでに赦しが用意されている。罪がわかる事は大きな恵みで感謝なこと。


2004年09月04日(土)

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(Tヨハネ15:12)

あるクリスチャンが職場で証しに励んでいた。どんどんキリストの愛を伝えて行った。その中で、一人の女性が彼女にあらわに敵対して来た。意地悪で攻撃的だった。辛くて悲しくて、悶々と祈りの日々を送っていた。尚も執拗に非難と悪口を浴びせられた。辛くて泣きながら祈っていると、神は感情を横に置いて、親友のごとく接しなさいと言われた。嫌々ながら渋々ながら、神に自分を明け渡し、彼女を親友の一人に加えた。彼女の態度に関係なく、祈り、親切と誠意を尽くし、神の助けによりそれを続けた。すると、彼女が変わり、心開いて来た。とうとうある日、複雑な家庭環境、不幸な生い立ち、今の悩みを話してくれたのだ。神は祈りに答えて、彼女への愛を与えて下さった。
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観念的、抽象的なら幾らでも愛せて、全世界でも愛せる。目の前の難しい一人の人を愛する事で、信仰は試される。自分には出来ない事を認め、自分を明け渡して、意志の愛を神に向けて行く時、神は愛を与えて下さる。聖書の愛はすべて意志の愛。


2004年09月03日(金)

「羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」(ルカ15:4)


ジグソーパズルをした事があるだろうか。素晴らしい見事な風景が完成するのに、一つのピースが足らなかった。その一片が無ければ完成できないのだ。他のどれであってもだめなのだ。間に合わない。神は九十九匹の羊をおいて、一匹を捜し求められる。その一匹の羊とはあなただ。神はあなたを捜され、あなたを求めておられる。あなたを愛し、あなたを御腕に抱かれる。あなたで無ければならない。あなたは神のもとから離れているか。身体は教会にいても、身体は礼拝堂に座っていても、心はどうか。神から離れてさまよっていないか。神は心を見られるお方。もしあなたが神から離れているなら、神の方からあなたを求めご自分の御腕に抱きしめられる。
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神様の目から見る私達は自分で思っているよりずっと尊い者。すべての人に神様の愛は注がれている。たった一人の自分のために神様はいつも働かれる。


2004年09月02日(木)

「・・しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイ26:39)


神は「求めなさい。そうすれば与えられます」と言って下さっている。しかし、もし二才の子供が母親と同じように料理がしたいと包丁をねだったら与えるだろうか。決して与えはしない。それが子供には危険だからだ。神も同様だ。
私達は自分の側しか見えないし、目の前の事しか見えない。これは絶対であり最善と思う。しかし、神は私達のすべてを見通しておられ、それを今持つと高慢になって滅びる事をご存知だ。それで与えられない。私達は自分を知らない者だ。神が与えて下さるものが常に最善。一見、不都合に見える事も最善。それによって砕かれ、練られ間に合う、有用な器と整えて下さる。神のみこころが最善。みこころに自分を合わせて行く事が最善。
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みこころが最善だ。自分の願いは、ただ肉が喜ぶだけのものかもしれない。神様のみこころがどこにあるのか、みこころに従えるようにと、常に祈り求めて行かなければならない。


2004年09月01日(水)

「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」(ピリピ3:13)

ある人が一人でいた時に、突然、過去の大きな罪が思い出された。驚き慌て、動揺した。罪意識に襲われ圧倒されそうになった。神を求めて祈った。すると、その罪はすでに告白し、神に完全に赦されたものだとの深い平安に包まれた。サタンの放つ火矢だ。思いに突然昔の出来事を吹き込んで来る。平安を奪い、信仰を崩そうとのサタンの策略だ。御言葉にしっかり立って立ち向かうなら、サタンは逃げ去る。赦された罪を、再び悔い改める必要はない。何度も悔い改めるのではなく、神の驚くばかりの恵みによって、赦された事を感謝すべきだ。どんなに感謝があふれる事だろう。前進しようとする足を引っ張るサタンの計略をよく識別して、過去でなく前を見て進もう。
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サタンが一番弱い所に、常に火矢を放って来る。特に、ふいにすでに悔い改めた罪について攻撃してくる。しかし、もう赦されている。神は真実で正しいお方ゆえ感謝すべきだ。御言葉に立ってサタンに立ち向かおう。