2004年10月30日(土)

「彼らがあなたがたに言うことはみな、行いなさい、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません・・」(マタイ23:3)

クリスチャンは偽善者だと言われ、反感を持つ。しかし、キリストほど偽善を憎まれ、偽善に反対さた方はいない。パリサイ人に向かって、「白く塗った壁、蛇ども、まむしの末」等と言っておられる。母親が陰で悪口を言いながら、本人の前では、にこやかに愛想を言う。すると、小さな子供は混乱する。二重のメッセージを送る事になるからだ。また、子供に、あなたの意思を尊重していると言いながら、本音は子供を親の思い通りにしたい。これも二重のメッセージだ。私達の内にある偽善は、周囲に反感を持たせ、キリストから離してしまう。私達は絶えず周囲にメッセージを送っている。あなたはどんなメッセージを送っているだろう。まず自分の内の偽善を認めて、正直である事だ。無いものは無いで良いのだ。その時、主が無いところに与え、満たして下さる。
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偽善とは役者という意味で、演じることだ。一番恐いのは、演じ続けていると、本当の自分がわからなくなり、演技の自分が自分だと錯覚して行く。信じ込むので光で照らされようがない。真っ暗闇だ。正直であるなら、光の中であり、いつも御霊に照らされ続ける。愛が無い、自己中心・・正直であり続けよう。


2004年10月29日(金)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)


ジュニアキャンプで部屋の交わりの時に、祈りについて証した時、疑いについての質問があり、スタッフは懸命に説明するがうまく答えられなかった。彼もわからなかった。スタッフは彼のために祈り続けた。次の予定へと進み、オリエンテーリングだった。山の中でグループに分かれ競った。その時、突然一人の女子が腹痛を訴えて苦しみ出したのだ。山中であり、どうする事も出来ず、皆で必死で神に祈った。輪になって心を注ぎ出した。すると、奇跡のように癒されたのだ。夜の集会であの彼が証した。神や祈りを疑っていたが、祈りを聞かれる神を目の当たりに見て、神がおられる事、祈りを聞かれる事を信じる事が出来たと。スタッフの祈りの答えだ。
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神様のなさるこが私達にとってベストなんだというのは、頼って、求めて行くとよくわかる。自分では思い浮ばないような結果が、一番美しい時に、すべて整えられて差し出されている事に気づき、このみ言葉がまた深くしみて来る。


2004年10月28日(木)

「わたしは・・万軍の主の御名によっておまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される・・この戦いは主の戦いだ」(Tサムエル17:45)


ゴリアテとの戦いで、ダビデは全面的に主に拠り頼み信仰によって、主の御名によって戦い、すべての栄光を神に帰した。私達の信仰生活でどんなゴリアテと戦うだろう。目の前に巨人が立ちはだかっているか。進路、将来の問題か。離婚の危機か、倒産、リストラ、経済的危機か、対人関係の悩みか。しかし、救われている私達にとって、これは私達の戦いではなく、神の戦いなのだ。この戦いは主の戦い、戦われるのは神。そうであれば、結果はどうであれ神に委ねる事ができる。なぜなら、神の戦いである以上、みこころを成し遂げて下さるのだから。目の前に立ちはだかる巨人であっても恐れる事はない。神が共におられ、神が戦って下さる。恐れるな。
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暗い戦いに見えても、神はいつも共におられる。戦いがなくなるのではなく戦いの中で私達自身にふれて下さる。慰めや力は与られ、疲れを癒して下さる。意気消沈せず、神を見上げ、すべてを委ねよう。


2004年10月27日(水)

『「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」・・そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった』(マルコ8:24)

部分的色盲がある。ある種の色だけが見えないのだ。健康な人には見えていて自分には見落としている色があるのだ。霊的視力も同様だ。自分が全く気づいていない盲目の部分があるのだ。自分の強い自我のある部分は見えない。プライドが強い人はそこが、虚栄心の強い人はその部分が、高慢な人はその部分が盲目だ。だから、人を傷つけていて、全く感じない事があり得る。人を見下し、さばいていてながら認識できない。主に癒された盲人は最初、人が木のように見えた。ぼんやり、ぼおーと見えたのだ。それで、もう一度主が両眼に手を当てると、今度ははっきりと見えるようになり、目の前の主が見えた。目を開いて下さるのは主。主の元へ行こう。ぼんやりした状態から、はっきりと見えるようにして下さる。
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片手間に見ていては、何も見えない。流されて、人生ぼんやりしたまま終わる。自分の内をじっと見つめるなら、罪がはっきりと示され悔い改めに導かれ、変えられる。「見えるか」でなく「何が見えるか」と問われる。人が木のようにぼんやり見える状態を正直に告げ、主を、自らの内を真剣に見つめるなら、はっきり見えるようにして下さる。


2004年10月26日(火)

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」


パズルをした事があるか。全部のピースが合わさって美しい模様を作り出す。しかし、そのピースはすべて形が違い、そのあるべき場所にはまらないと完成不可能だ。私達キリストのからだも同様だ。何と似ている事だろう。からだを築き上げるために、全部のピースが必要だ。一つ欠けても完成しない。全く異なった人々が異なった賜物をそれぞれに持ち、それぞれに相応しいぴったりの場所がある。他の誰であってもだめなのだ。その人でしか埋まらない。あなたはキリストのからだの中で自分の役割を自覚しているか。賜物は何かを言えるか。そしてそれを用いているか。与えられた賜物には用いて行く責任がある。賜物が発見できるよう祈りか必要。
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自分に与えられた賜物が何か知っているだろうか。キリストのからだの大切な器官として、一人一人に神様が与えていてくださっている賜物をよく自覚し、管理して、仕えていこう。


2004年10月25日(月)

「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます」(ルカ11:17)


独特な病気がある。免疫性の病だ。普通は外敵から身体を守るために免疫組織があるが、この病は間違って自分で自分の身体に攻撃するのだ。教会内も誤ると同じような状態になる。互いに慰め合い、励まし合い、仕え合い、徳を高め合うために兄弟姉妹がいるのに、互いに争い、喧嘩し、攻撃し合ってしまうのだ。一致しているべき教会内が不一致で荒れ狂う。不一致の原因は、いつも私達の内にある自己中心、自我だ。キリストがそうされたように、自分を捨てて相手を自分より優れた者として行く時に、そこに愛があり、一致がある。あなたの自己中心が教会の交わりや成長の妨げとなっていないか。自我を捨てて教会を建て上げる者とされるように。
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与えられた兄弟姉妹の事をいつも神様に感謝して行かなければならない。的外れの免疫組織が自分を痛めつけるのとは反対に、人に向ける攻撃は、そのまま自分に向けるべきだ。自分の内面をよく吟味し、自分中心の間違いに気づけるよう祈って行かなければならない。


2004年10月24日(日)

「・・さらにまさる道を示してあげましょう。・・その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい」(Tコリント13:13)

その前に霊の賜物についての説明があり、しかし更に優れたものが愛だと説く。愛は決して人に強制しない。愛はどこまでも自由で自発的なものだ。人に強いるなら、正しい事であっても反発を招くだけだ。ある学生がクラブでクタクタになり、帰りの電車内で眠り込んでいた。目の前で、頑固そうな老人が若者のくせに座ってと、嫌味を言っていた。余りに執拗なので、逃げるようにその場を離れた。もし、率直に老人が席を譲るよう頼んだら、快く譲っていただろう。その陰険なやり方に反発を感じた。神は決してこのようにされる方ではない。愛をもって、真っ直ぐな態度で私達に正しい事をするように導いて下さる。それで私達は神をお喜ばせしたいと素直に従って行ける。
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何を追い求めて生きているだろう。人は、心の底で追い求めているものが、あらゆる選択、行動に反映する。それが、人生と人格を形造る。名誉、富、体面、損得、人からの賞賛・・本音の自分を神に申し上げ、認めて行く時、変えられる。


2004年10月23日(土)

「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け、そうすれば、あなたがたは生きる」(イザヤ55:3)

子供の頃、わざと家から遠く離れた所で遊んだりするものだ。なぜなら家の近くだと、すぐ呼ばれ手伝わされるからだ。お使いや、家の片付け、掃除・・。だが、遠方だと呼ばれる事はなかった。しばしば、クリスチャンも同様だ。神は私達がみそば近くにいる事を喜ばれる。祝福したいのだ。しかし、私達は自分の都合の良い事、思い通りの事をしていたいので、神から少し離れた所に身を置くのだ。神の言われる御旨が自分の好きでない事だったら嫌なのだ。それで、わかっていて適当な距離を置く。あなたの今の状態はどうだろう。自分の好きな事をしていたいだろうか。しかし、気づかないうちにどんどん神から離れてしまう。心が虚しくなっているのに気づく。神に近くいる事が最高の幸せ。近づこう。
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肉はどこまでも自分の思い通りにしたいし、好きな事だけをしていたい。だから、御声が鮮明に聞こえない距離に身を置く。それで、神が、御旨が、わからないと言う。が、実はわかると困るのだ。従わなくてはならないから。自分自身の内側をよく点検してみよう。従う事は幸せの道だ。


2004年10月22日(金)

「主を待ち望むものは新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)


現代の人々は忙しい。主人達も会社で働きづめでクタクタになって帰宅するが、今の時代の主婦達も特に忙しい。妻、母、主婦として働きをこなすプロの曲芸師のようだ。家庭、教会、地域の活動、現代の人々は皆忙しい。時々、クタクタに疲れ果ててしまう。友人の婦人も妻として三人の子供の母親として、教会の婦人会での仕事、学校の役員、地区の役員をこなしていた。余りに忙し過ぎて、時々投げ出したくなる事があった。しかし彼女はもって行く所を知っていた。ある日、パニックになって、もうやって行けないと思った。彼女は「霊的応急処置」を始めた。彼女は書き始めた。「神は疲れ果てる事がない。神は力尽きる事がない。神は混乱しない。神はパニックに陥らない」そして続いた「神は力がある。神はリラックスしておられる。神は秩序がある。神のタイミングは完璧」神に近づいて行く時、彼女の心は軽くされ、新しくされ力を得た。
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疲れても意気消沈しても、主を待ち望むかぎり新しく力を得て歩むことができるから感謝だ。元気をとりなおしまた歩める。


2004年10月21日(木)

「私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています」(Uコリント12:10)


頑固な気難しい人が時々いるものだ。時々、行った事を曲解されて非難されたり、納得のいかない言われなき攻撃を受けたりする。また、職場には頑固で理不尽な上司がいるものだ。信仰も同様だ。信仰ゆえに悪口、中傷を受け、仲間はずれにされたりする。しかし、これらは主に在って素晴らしい機会となる。へりくだらされ、忍耐や愛する事を学ばせられる。そして主に拠り頼む時だ。今、あなたは理不尽な目に会っているか。パウロは信仰ゆえの迫害や侮辱、患難に甘んじていると言った。甘んじている、受けているとは驚くべき事だ。しかし、主の恵みは十分で、弱さの中にこそ神の力が完全に働くからだ。この神の力を経験する時だ。恵みは十分。
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あえて、主のために受けている苦痛、困難の中で、私たちに働かれる神様を知ることができる。その恵みを知っているから、更に力強く歩める。困難の時の経験が次ぎのステップにつながる。


2004年10月20日(水)

「汝ら静まりて、我の神たるを知れ」(詩篇46:10)

私達の失敗は、神に委ねきれないところから起こる。エレミヤ書には
「湧き水であるわたしを捨てて・・水をためることのできない、壊れた水ためを自分達のために掘った」とある。神を無視し、自分の力で自分のために水ためを掘る。これは神を捨てる事だ。神のご計画が成ると信じていれば、水ためを掘る必要はない。委ねきれないので、自分で解決しようとし失敗する。自分で自分の信仰も人生も何とかしようとして苦しむ。主を待つ事ほど難しい事はない。すぐに結果が欲しい。罪の性質は待てないので、自分でしようとする。しかし、主を待ち望む時は、人生における素晴らしい成長の時である。「待つ」ことの本質が神のへの「信頼」であるからだ。静まる事こそ、神を信じる事の表明だ。
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待つことほど難しいものはない。立って動く方が簡単だ。生まれつきの肉の性質は待てない、不安でたまらず何とかしようと動き回る。しかし、待つ事には大きな意味がある。主への信頼の時、信仰が根差す時、育まれる時、成長の時、本質的に神を知る時だ。大いなる祝福の時だ。


2004年10月19日(火)

「群れの模範となりなさい」(Tペテロ5:2)



子供は親の言うようにはせずに、親のするようにするとはよく言われている事だ。親は自らのしている事で、子供達に日々学習させている事になる。それは無意識の中にも日々積み重ねられ、大人になった時、日曜の様々なパタンで、親がしたと同じように行動し、親のような大人になって行く。実際の行動は大きな力がある。人生の苦難の時、悲しみの時、そこであなたが自分の思いでなく、自己憐憫に浸るのではなく、主に従って行くなら、後に続く人々に大きな模範を残す事になる。今あなたのしている通りに、後の人々は形造られて行く。困難の時、主を選び取る事が出来る。従順に主に従って行く事が出来る。あなたが従うなら大きな実を残す事になる。
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私たちが、何事にも主に尋ね、従って行こうとする姿を通して、確かな神様の姿を周囲に現すことができる。自分の生活を通して人に神様の栄光を現す者になりたい。


2004年10月18日(月)

「私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか」(ヘブル12:1)



マラソンランナーがある日目覚めたら金メダルを手にしていたという事はあり得ない。金メダルを取るためには、平常に訓練に次ぐ訓練を重ね、その厳しい訓練に耐え抜いた者が得る事の出来る栄誉だ。競技に出て優勝するためには、絶対に完走する事が必要だ。途中で競技を放棄したりストップてしまってはメダルは受け取れない。ゴールを目指して忍耐して走り続けなければならない。信仰のゴールも同様だ。しかし、これは初めから終わりまで自分の力ではなく、内に働くキリストの力によってのみ可能なのだ。今、競技の途中で挫折しているか。力尽きて倒れそうになっているか。神に自分には出来ない事を申し上げ、自分を明け渡すのだ。神が続けさせて下さる。
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スポーツ競技に必要な強靭な体力やトレーニングはクリスチャンにはいらない。だれでも、神様に目を向け、神様に助けを求めるなら、今しなければならない事を成し遂げる事が出来る。必要なのは、走る方法ではなく心のあり方だ。


2004年10月17日(日)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け・・エルサレム、ユダヤ・・および地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)

私達は誰しも主の証人になりたいと思う。御言葉によると、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき」だ。証人とされる鍵は聖霊だ。自分の力では決してない。聖霊によってだ。主が私のぶどうの木で、あなた方は枝、人がわたしに留まるなら豊かな実を結ぶと言われた。主と一つとなって、生き生きとした交わりがある時、聖霊が自由に働かれ喜びがあり、平安があり、自然に証しとされる。喜びは大きな証しだ。世は喜びを心のそこから欲している。しかし手に出来ない。喜びは御霊の実であるゆえに。喜びや平安を禁じる律法はない。罪を捨て、自分自身を明け渡して御霊に導かれるよう、御霊に満たされるように祈ろう。主の証人として用いて下さる。
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裁判でも証人とは自分の見た事、聞いた事、経験した事を証言する人だ。事実を見ていなければ証人ではない。頑張りではいっさいなく、自分自身がまず神の素晴らしさを知り、満たされる時、周囲に自然に証しとなる。御霊に満たされること、御霊に導かれる事を求めよう。


2004年10月16日(土)

「何事でも神のみこころにかなう願をするなら、神はその願を聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(Tヨハネ5:14)

最初は祈りがよくわからないので、何でもかんでも欲しいものを祈り求める。祈りの歳月を重ねながら学んで行く。その内、自分の快楽や欲、自己中心の祈りは叶えられないとわかってくる。自分の栄光と欲望のための祈りは、幾ら祈っても叶えられないからだ。祈りも実践の中で少しづつ学び成長して行くのだ。御父と親しくなるに従って、御父の求めておられるものがわかってくる。それを求めるようになる。ゆえに叶えられる。真の祈りとは神のお心を知り、そのお心にそって祈る事だとわかって来る。欲を捨て、自分を神のお心にそわせて行くから、祈りが叶えられるのだ。神の喜びが自分の喜びであり、神の満足が自分の満足だと経験して行く。神を喜ばせようとして、自分には喜びが無かったという人を聞いた事がない。
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自分の求めでなく、まず御父の私への求めが大切。私に何を求めておられるのか。御父のお心を求め、「主をおのれの喜びとせよ」。御父のお心に従って行く時「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」。まず、主のお心を求め行く時、自己中心な祈りをしないので、祈りが叶えられる。


2004年10月15日(金)

「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求められるものは何でも神からいただくことができます」(Tヨハネ3:21)


罪を告白し、神の御前に妨げがなく、良心にとがめが無ければ、大胆に御前に求める事ができる。神は求めよと言っておられる。祈りが聞かれる条件に不義がない事と、また、神のみこころに従順である事が大切。口先だけでなく行ないと真実を持って愛して行く時、心安んじておれる。自分の心にとがめがないなら、大胆に神に求める事ができ、何でも頂ける。それは神の命令を守り、神に喜ばれる事を行なっているからだ。私達の日常生活はどうだろう。拒否したり、なおざりにしたり、延ばし延ばしにしている御旨はないか。神に聞いていただくためには、自分自身も神に従順に従っている事が大切だ。心をよく探り点検しよう。今日、すぐに実行しよう。
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あれも欲しい、これも欲しい、だけの祈りならむなしい。神様とのなんの信頼関係も心の通い合った交わりもないからだ。神様を完全に信頼し、みこころに従わなければ、生きた神様を知る事はできない。




2004年10月14日(木)

「もしもわたしの心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」(詩篇66:18)


誰しも祈りの生活が導かれたいし、祝福されたいと願う。真に祈りの生活をしたいと思うなら、その一番の妨げは「罪」だ。生活の中に罪が入った途端祈れなくなる。外側の生活は人知れず出来るかもしれない。しかし、祈りの生活は破綻する。祈れなくなるのだ。祈りの生活に進めば進むほど聖くされる事を求めるのはそのためだ。祈りと聖い生活は正比例する。どんな罪もあいまいにしてはならない。神の御前に差し出し認めるなら赦される。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯した時、主に告白する前は、一日中うめいて骨々は疲れ果てて、骨髄は日でりで渇ききったと言った。苦しい煩悶の中にいた。告白した時赦された。祈りは罪は最大の妨害。罪を捨てよ。
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ストレートに祈れない時には、よく自分自身を見つめてみよう。御前に差し出せない罪がないか。告白するだけで赦され、もとの交わりに戻れる。そして今度は神様に拠り頼むという事を学べばいい。


2004年10月13日(水)

「もし、このような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いが起こるだろう・・あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」(エステル4:14)

ハマンの企みで、ユダヤ人が皆殺しの事態になった時、エステルは伯父モルデカイから王に執りなすように頼まれた。王妃とされたのは、この時のためかも知れないと。結果的に、エステルの執り成しによってユダヤ民族は救われた。エステルの従順によって、奇跡のみわざが起こされた。私達一人一人遣わされた場所で、なすべき働きがあり、みこころがある。今、あなたがいる場所に、あなたを遣わされたのは神だ。そこで、神がせよと言われるみこころを行なえ。あなたを通して、神が栄光を現され、みわざを成し遂げられる。もし、あなたが拒むなら、神は別な人を用いられる。しかし、あなたは祝福は逃してしまう。神に用いられる事は大きな喜びだ。今いる場所で、なすべき事を神に祈れ。神はあなたを用いて下さる。
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偶然は一つもない。「何でこんな事が」のすべての事柄、および「時」に御手がある。神が最善をなして下さるので、感謝して生きて行ける。私達の人生のどこにおいても、あらゆる状況の中に神を認めるなら、道をまっすぐにして導いて下さる。状況を見て振り回されず、神を認め、神を見ることだ。


2004年10月12日(火)

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」(Uコリント2:15)


ある人が、「自分は神を信じない。神はいない」と結論づけた。それは彼の自由だ。与えられた自由意志での選択であり、自らの責任であり、かの日に対しても自分の責任だ。しかし、残念な事がある。彼が出会ったクリスチャンは自分勝手で、わがままで、自己主張の強い自己中心的な人達で、自分は決してそうなりたくないと思ったというのだ。クリスチャンが周囲の人達をつまずかせてしまう事になる。未信者の永遠を思うと恐ろしい事だ。聖書を知らない人々はクリスチャンを見て、聖書を知るしかない。私達は歩く聖書だ。人々は私達を見て、どんな文章を読んでいるだろうか。私達には言論や行動に責任がある。よく祈って御霊に助けられて今日も歩もう。
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良い人間、模範的な人間にはなれないが、いつも神様をたよっていて、人の失敗も、自分が赦されてるから赦して、いつも永遠の希望があるから落ち込まず喜んでおれるなら・・・これだけでもずいぶん違う。


2004年10月11日(月)

「キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、みよ、すべてが新しくなりました」(Uコリント5:17)


青少年の非行の原因をその生育歴や親の育て方が悪いとするのは一般的だ。しかし、欠点のある親に育てられた者のすべてが非行に走るわけではない。それは責任転嫁だ。私達の内にある罪の性質が生来の性癖で、どんどん曲がった方向へと培われて来たかもしれない。しかし、新生して神の子とされる時、新しい性質が与えられる。キリストに接木されたのだ。接木された元の木であるキリストから新しい養分がどんどん流れ込む。全く新しい自分が誕生したのだ。何という恵みだろう。新しい選択が可能だ。古い罪の性質に向かう性向を拒否し御霊が導く神のために実を結ぶ方を選び取る。救われて新しく生まれた時、この選択が可能になった。御霊によって「出来る」
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私達の生き方は、今までの経歴には関係なく、主からの養分で日々造り変えられて行く。養分はすでに与えられているのだ。過去の自分に囚らわれてはいけない。


2004年10月10日(日)

「私の敵は、一日中、私を踏みつけています。誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」(詩編56:2)

人生の中で、厳しい悩みや問題に遭遇するだろう。暴風雨が荒れ狂っているような、何がどうなっているのか、わからないような、吹き荒ぶ大嵐を経験する不安と恐、怖、思い煩いで心はちぢに乱れる。大波に翻弄される。先も見えず、真っ暗なトンネルの中だ。しかし、そんな時こそ、御翼の陰を経験する、大嵐のまっただ中にあって、確かに平安で、穏やかで波一つ風一つなく、太陽が照る場所だ。辛く苦しい離婚を通ったある婦人が、気が狂いそうな暴風雨の中で、神がかくまって下さった御翼の陰を体験した。その避け所は大試練のまっただ中で、安らかだった。恐れのある日こそ、信頼すべき時、信仰を働かせるなら、その恐れが平安に変わる。ただただ、頼ればよいのだ。
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ダビデはサウル王から命を狙われ、「1日中」=絶えず、いつも、精神的にも身体的にもギリギリの危険と恐怖の中にいた。しかし、その時にダビデは神を避け所とした。恐れと不安は私達を更に神に近づける。ありのままを神に告げるなら、人のすべての考えにまさる神の平安と交換して下さる。


2004年10月09日(土)

「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか」(箴言6:27)

罪とわかっていて、少々ぐらいはとの態度は危険だ。自分の肉欲も楽しみたくて、少しぐらいと肉の欲望を満足させて行くと、古い性質の方が力を増して来る。私達には、新しい性質と古い罪の性質の二つが内にある。常に内側で戦っている。古い性質が改善されるのでは断じてなく、古い性質が衰え、もう一つの新しい性質がどんどん大きくなるのがクリスチャンの成長だ。故意に自分から誘惑に進んで行き、古い性質を増長させてはならない。罪に少しぐらいと妥協しながら、少しづつ少しづつ感覚が麻痺して行く。火遊びをするなら、やけどをする。今、少しぐらいと妥協しているか。きっぱり罪を捨て、罪から離れよ。さもないと、自分の方が罪に飲み込まれてしまう。
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自分の弱さをわきまえ、誘惑の力、罪の力を侮ってはならない。誘惑は必ず甘い。苦いものが誘惑になどならないからだ。自分の欲望と合致するので、誘惑だと気づかない。サタンが働いている。少しづつ妥協し、麻痺し、気がついた時には遅い。誘惑に気づけるよう祈り、意志できっぱり罪を捨てよう。


2004年10月08日(金)

「神のみこころに添った悲しみは、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」( II コリント7:10)

あるギャンブル狂の夫は、生活費まで持ち出すようになった。耐えられない妻は子供を連れて家を出た。すると、夫はギャンブルは止めると悔い改めた。しかし、妻子が戻るや、すぐにギャンブルに戻った。本物の悔い改めとは何だろう。世の悲しみとは、単に罪の結果が恥なので、自分の体面と面目がつぶれるので悪いと思うのだ。体裁が悪いので、人前を気にするだけで、罪意識が無い。それは決して人を心の底から変える事、方向変換させる事は無い。だから死をもたらす。しかし、聖霊に導かれた悔い改めは、自分しか見えない。自分の罪がはっきりと見えるだけだ。御霊により、真に自分が悪いと認識できる。
それゆえ、真に悔い改めるので、自分が180度変えられる。必ず実を結ぶ。
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自分が頭で、教理上、罪だと思うのと、御霊の光の中で見る罪は全然違う。御霊に示されると、いっさいの言い訳も弁解も無い。心底悪いのは自分、自分が悪いと思う。他人の事など思いも及ばない。御霊の照らしは痛くて辛いが大きな素晴らしい祝福。自分が変えられて行く。


2004年10月07日(木)

「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」( I ペテロ5:5)

作家の三浦綾子さんの夫の光代さんは、自分達への批判、非難、悪口が記された手紙をわざと目に見える所に貼っておいたそうだ。自分達が皆からの賞賛で、高慢になり、自惚れてしまう事がないように、いつも自らを戒めるためだった。運動選手達はいつも監督やコーチから手厳しく叱られ、常に怒鳴られる。それは痛いが、高慢になる事から守られ、更に上達して行く事が出来る。監督は成功がどんなに選手達を自惚れさせ、だめにしてしまうかを知っているからだ。信仰生活も同様だ。面と向かって批判や非難をされる時、痛いが高慢から守ろうとする神の取り扱いだ。又、今、厳しい現実に直面しているか。へりくだる事が出来るようにとの神のお心だ。高慢からの守りは神の恵みだ。
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水が低い方へ低い方へ流れるように、へりくだる者に神の恵みは注がれる。痛い、辛い、厳しい事態が起こる。それを通して神は私達を砕かれている。それは、高慢からの守りだ。それにより、へりくだらされる。へりくだる者に神は恵みを惜しまれない。


2004年10月06日(水)

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます」(マタイ6:19)

地上の宝は盗まれたり、傷物になるだけでなく、大きな危険がある。それは富に心が捕らえられ、執着する事によって、富が偶像となってしまうのだ。富が自分を守り、自分に喜びを与え、幸せにしてくれると錯覚してしまう。
富が神になる。それは偶像礼拝だ。二人の主人に仕える事はできないと言われたが、人間は誰しも富を愛している。富に頼り、持てば持つほどますます貪欲になる。富と神に仕える事は出来ない。富を愛し、執着すると神から離れて行く。誰しも欲望があり誘惑がある。富に執着の無い振りをするのではなく、心の底で富を愛している事を認め、神に拠り頼む事だ。神はそのような人を助け、富への執着から守って下さる。
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富があれば安心するのは、偶像になってしまっている証拠だ。神ではなく、富に依存している。若い役人は富を放せずに、主のもとから去った。富は誘惑だ。富を愛する自分の姿を認め、祈る時に必ず守られる。自分にも欲望があることをきちんと認める事が、守られる道。


2004年10月05日(火)

「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)

今日の考え方では、少年犯罪や非行があると、いつも親のせいにされる。親の
育て方が悪いと。又、何か不都合があると、社会や学校、環境のせいにする。
しかし、聖書は違う。どこまでも罪は、その犯した者の責任だ。人に、社会に
責任転嫁して行く事は、間違っている。
そこからは、何の解決もない。何の救いもない。神は豊かに赦して下さるお方
だ。すでに赦しが用意されている。
しかし、その赦しを受けるためには、自らの罪を認めなければならない。ダビ
デのように「私は主に対して罪を犯した」。罪を犯したのは、この私ですと、
はっきり認めて罪を告白する事だ。その時、主の血潮が私に適用される。人は
関係ない。どこまでも自分と神との関係。自らの罪を認める事は祝福。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
不幸な生い立ち、問題ある家庭環境、その苦しみや悲しみは、主が誰よりもご
存じだ。痛みを理解していて下さる。その主と自分の個人的関係が一番大切。
主と向き合い、どのような状況であれ、自分の犯した罪をはっきり罪として認
める時に、赦しがおおう。新たにされる。何にも変えられない恵み。


2004年10月04日(月)

「あなたがたは、このおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」(U歴20:15)

私達も、神以外に何の頼みも無い、何も無い、断崖絶壁という状況、絶体絶命を経験する事があるだろう。ヨアブ人アモン人がヨシャパテ王のもとに責め上って来た箇所だ。又、別の箇所では、アラムの王が馬と戦車と大軍をエリシャのもとに送り、包囲した。絶体絶命で、召使いは恐れ慌てた。しかし、エリシャは、恐れるな、私達と共にいる者の方が彼らより多い、と言ったのだ。召使いの目が開かれると、何と、火の馬と戦車が山に満ちていた。私達の教会が新会堂建設をした時も、大きな奇跡を皆で見た。困難のある時に、神の素晴らしいみわざを見る。しかし、神の奇跡を見るのは「不可能」という土壌においてだ。私達の窮地こそ、神の絶好のチャンスだ。
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「神のわざを行うために、何をすべきか」「神が遣わした者を信じること、それが神のわざ」と言われた。「もしあなたが信じるなら、神の栄光を見る」「立ち返って静かにすれば救われ、落ち着いて信頼すれば力を得る」。静かに信頼を献げよう。何も見えない「不可能」な時こそ、神ご自身の力、素晴らしい栄光が現れる。


2004年10月03日(日)

「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(詩編118:24)

神は、私達が今日この1日を、喜び楽しむ事を願っておられる。しかし、私達は不安や心配、思い煩いで押しつぶされそうになる。又、過去の失敗にくよくよして、時を過ごす。パウロやペテロは罪のとがめから解放されていた。罪の記憶が消えたのではない。記憶はあるが、神が完全に赦して下さった、その赦しに堅く立ったのだ。あなたには忘れられない罪があるか。忘れられなくても、十字架の血潮の赦しに堅く立て。悔い改めたなら、完全に赦されたのだ。尚もうじうじする事は、十字架への冒涜だ。将来の不安があるか。神に委ねよ。神が心配して下さっている。過去と未来に生き、今を生きる事をさせない。これはサタンの大きな攻撃であり誘惑だ。過去でも未来でもなく、今日1日を生きよう。明日は委ねて、この1日のみこころを行おう。今日の荷は必ず負える。
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過去にくよくよし、未来をひたすら思い煩い、現在を見事に無駄にし、つぶしてしまう。冷静に考えると愚かだが、サタンの罠にかかってしまう。今日1日の荷は負える。負える分だけが与えられている。が、明日の荷が加わるとと、負いきれない。明日は委ねて、今日を喜んで感謝して生きよう。


2004年10月01日(金)

『「あなたの神である主を試みてはならない」』(マタイ4:7)

教会に来て救われた、ある人が、帰宅すると救われた感じがしない。再度、牧師から御言葉を語られ、救いを納得。しかし、帰宅すると又、元のもくあみ。何度も繰り返すので祈った。すると、しるしを求め、神を試みている自分の罪を示され、その時、動く事のない確信を得た。私達はどうか。祈りが答えられたら、神が自分を愛している事を信じる、そうでなければ信じない。つまり、神が自分の願いを叶えてくれたら、納得する。そうでなければ納得しない。自分が中心。これは、納得するのは、自分の思いが叶うという事だ。だから、思い通りでない、別の形で、神がどんなにみわざをして下さっても、決して納得しない。そうなら自分を神の上に置き、自分のために神を利用している事だ。そうでなく、私達は神に従う者だ。私と神との間にあるものは「信頼」、信頼関係だ。
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自分の不信仰を棚上げにして、しるしを与えて自分を納得させるよう、神に要求までする。恐ろしい態度だ。神は極みまで愛していて下さる、最善をして下さる、ご計画をお持ちであり、試練は祝福、「わたしを信じなさい」・・どんな時も真実なお方を「信頼」していよう。心は安らかだ。