2004年11月30日(火)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい・・あなたがたは主キリストに仕えているのです」(コロサイ3:23)


状況がうまく行かない時、思うようにならない時、どうすれば主に仕え続ける事が出来るのだろう。人のためだけでは仕え続ける事は出来ない。また、人に良く思われたいとの動機では仕えられない。人への愛は尽きてしまう。奉仕の力も全く失せてしまう。すべてが暗礁に乗り上げたように感じる時、何が前に進ませてくれるのだろう。ペテロが主を裏切り、失敗し、何の力も無くなった時、主は再びペテロを回復させ立ち上がらせて下さった。それは「あなたは私を愛するか」という問であった。主に仕え続ける事の出来る唯一の動機は、力はイエスを愛する愛なのだ。他の何をもってしても役立たない。主を愛する愛のみが私達を引き上げ仕え続けさせてくれる。
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真に神様を愛する信仰だけが原動力となりますように。惰性、偽善、形式的な様々なもので、動いているならいつか限界が来てしまう。神様に対する真実な思いからそれてしまわないように。


2004年11月29日(月)

「悪魔は・・彼のうちには真理がない・・彼らが偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしている・・なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)


詐欺にあった事があるだろうか。恵まれない子供達への募金として、実は信仰宗教団体の詐欺だったり、高級ブランド商品が偽者だったり、品質の良い品物をバーゲンと称するが、実はバーゲン用に作られた祖雑な物であったり様々な偽りが横行している。悪魔も同じだ。巧妙にだます。罪には一瞬の快楽があるため罪の楽しみに誘う。しかし、その罪には苦しい刈り取りがあり、苦しみがついて来るが、それは隠す。罪は素晴らしくて、魅力的、麗しいものに見える。しかし、その背後にサタンが潜み、企みと欺きがある。サタンは偽り者、嘘をつき騙す者。神の御言葉によって私達はサタンを見破る事が出来る。神を知り御言葉を知るほど、悪魔の嘘を見破れる。
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欺かれ、誘惑されている事さえ気づかせないのがサタンだ。偽りを見ぬくのは本物を知ることだ。御言葉を聞き、御言葉に心満たしていなければ、私達はすぐに騙されてしまう。


2004年11月27日(土)

「もし、あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい・・あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:20)

争いは争いを生むだけだ。否定的なものから、何の良いものも生まれない。敵対心や憎しみの悪循環に陥るものだ。夫婦間で、親子間で、友人間で、学校で、職場で、表面的には繕っているが根深い確執があったりする。あなたはどうだろう。不自然でギクシャクしている相手がいるか。神のみこころは、自分に関する限り、すべての人と平和を保つことだ。憎しみからは、憎しみしか生まれない。神はその確執を終わらせる事を望んでおられる。それは赦しの愛と寛容、親切を持ってだ。敵に食べさせ、飲ませ、敵の必要を与え、愛情を示す事を通してだ。そうする時、神がそこに働いて下さり、相手の心に強烈なインパクトを与えて行く。従う時、聖霊が助けて下さる。神のみわざが現れる。
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否定的なものから、潤いや温もりは生まれない。どこまでも裁き合いの連鎖だけだ。自分に死んで主の示しを選び取る時、神の奇跡を見る。又、相手のある事なので「自分に関する限り、すべての人と平和」だ。万一相手が拒否したとしても、すべき事をし、自らは心全き平安にされ解き放たれる。



2004年11月26日(金)

「わが父よ。どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」(マタイ26:42)



主イエスは十字架にかかられる前に祈られた。その祈りは最初は「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」だった。しかし、わたしの願ではなく、みこころの通りにと祈られた。祈りが変わって行き、飲まずに済まされぬのでしたら御旨のとおりにと。十字架を負うとは、自分の願を捨てて神のみこころに従う事だ。主が父のみこころに従って行かれたように。自分の思い通りにならない状況を受け入れる事だ。自分を捨て。日々自分の十字架を負いわたしについて来なさいと言われたように、それは日々の事だ。日ごとに自分の思いを捨て、みこころを行ない、自分の思いとは違う状況を受け入れ続ける事。そこに真の平安を見い出す。
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みこころの通りに…と祈る時、聖霊様によって自分のかたくなな思いが変えられて行く。日々の祈りの終わりに、「しかし主よ、どうぞみこころのとおりに…」を付け加えよう。砕かれて行く。


2004年11月25日(木)

「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(ローマ6:13)


ある女性に筋力が委縮して行くという難病が発生。手足の動きがとれず、人の手を借りなければ、日常生活が出来なくなった。有能な女性で、責任感が強く、テキパキと仕事をこなし、何でもよく出来る人だった。病を患った今、「自分の思い通りにならない」事を教えられている。多くの事を思い通りに出来なくなった今、神に委ねる事を学ばせられた。身体が動かず、イラ立つのも、それを主に委ねるのも、自分の選択だという事がはっきりとわかった。どちらを選ぶかは自分だと。自分が自分の主になってイライラするか、それとも主に明け渡し、お委ねして平安でいるか、自分次第だと。神に自分自身を全く明け渡す時、真の自由と平安を経験する。
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神様にすべてを明け渡すなら、私達は不自由になるのではなく、自由になり、軽くなり、生きやすくなるのに、自我は不自由になると言い続ける。神様がなさる以外に良い方法はない事をしっかり覚え、今日も自分自身をささげて行こう。


2004年11月24日(水)

「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)

対人関係は難しい。不幸な結婚生活は、とりわけ辛く苦しい。結婚生活は天国にもなり地獄にもなる。相手の欠点ばかり、あら捜しし、相手の非を責め、相手に要求しているばかりでは、幸せな結婚生活は到底望めない。すべての対人関係に言えることだ。自分はどうなのか。良い人間と思っていた自分が決して良い人間などではないと、聖霊様は忍耐深く教えて下さる。思いやりがあると思っていた自分が、いかにわがままで頑なで自己中心であるかを見せて下さる。情深くも寛容でもないし、自制心も無い者だと。自分が正しいに立って相手をさばき、責めていた自分こそが、変わる必要がある事を。自分が変わろうとするなら、聖霊様は臨み、キリストのかたちへと変えて行って下さる。自分が変わる時、相手も変わる。
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「よくなりたいか」と主は問うておられる。主の問いかけによって、自分のあいまいにしておきたい心がはっきりする。よくなりたいのか、このままでいたいのか。自分が変わりたいと思わない限り、変わることはない。変わりたい願いに御霊が働き、変えて行って下さる。


2004年11月23日(火)

「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:13)


パウロは後ろのものを忘れ、目標を目ざして一心に走っていると言った。過去の恵みを数え、霊的教訓をしっかり覚えておく事は大切であるが、過去の失敗や過失をくよくよ思い煩う必要はない。パウロは過去の成功も失敗も忘れ、前を見る事を選んだ。神からの栄冠を得るために、ひたむきに前のものに向かって進んだ。失敗にくよくよしているか。パウロが模範だ。罪を告白するなら、神は深い海の底に沈めて下さり忘れて下さる。二度と思い出さないと言われる。過去の過失に捕らわれる必要がないという事は、何という恵み。常に前に向かって前進するように励ましていて下さる。今足ぶみしているか。後ろのものを忘れ、前進しよう。
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過去の失敗や、人から受けた傷で自分を過小評価してしまうことがある。過去の出来事はいっさい関係ない。見るべきものは今だ。目標は神様から与えられ、必ず神様が成させてくれる。パウロのように一心に前を見よう。


2004年11月22日(月)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテア6:7)


人は蒔いたものを刈り取る、これは法則だ。法律上の罪を犯せば、罰を受け刑務所に行く事になる。信仰の世界も同じだ。一瞬の罪の快楽に身を委ねて、神の恵みを捨ててしまうなら、苦しい刈り取りがある。荒野で民が水がないと文句を言った時、神はモーセに岩を二度杖で打った。それゆえ約束の地に入る恵みを失った。神に忠実に従っていたダビデは情欲の誘惑に身を委ねたため、名声に傷をつけ、苦しい刈り取りをしなければならなかった。あなたに誘惑の手が臨んでいるか。誘惑に身を委ねてはならない。主に頼れ。御言葉に立て。誘惑と戯れてはならない。すぐに餌食になってしまう。
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真実な神様は、けっして罪を見過ごされない。自分の蒔いたものは必ず刈り取ることになる。すべての事を正しく評価される神様に信頼し、御霊の種を蒔いていこう。


2004年11月21日(日)

「絶えず祈りなさい」(Tテサロニケ5:17)

ある人が不眠症で悩んでいた。ウトウトとしては夜中の二時三時に、目が覚め頭は冴え、眠れなくなってしまうのだ。そんな時、眠ろうとして焦るし、又、様々な考えが頭に浮かんだ。目の前にある心配事、又、全く起こり得ない事までとにかく思い煩い、不安になり、心が乱れるのであった。そんな時「ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います」のみ言葉が来て、この何の妨げもない静かな時間を祈りの時にすれば良いと気づかされた。昼間は仕事に追われ祈りの時間が持てないでいた。不眠の時を神と交わる時間とした。悩みは去り、神との幸いな静思の時とされ、心の思い煩いの一つ一つを神に語り、委ねる時となってしまった。
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不眠さえ、祈りの時とされる。ある人は家事をしつつ、又、歩きながら、通勤途上の電車の中も祈りの時とした。農繁期で忙しい主婦は農作業をしながら祈った。時を捕らえて、思いを主に向ける事は幸いだ。不安を神に語るなら、思い煩いが去り、素晴らしい平安が来る。


2004年11月20日(土)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(ルカ5:4)

ペテロは、主に言われた通りに、沖へ出て魚をとると、驚くべき大漁だった。私達は沖に出たく無くて、又、出るのが恐くて、岸にとどまっている。犠牲を払いたく無い。それは安楽だが、主の深い恵みもわからない。自分は適当に信仰生活をと思うが、神はすべてを献げるよう望んでおられるか。富を握っていたいが、神は手放すよう言っておられるか。自分はただ楽でいたいが、神は前進せよと命じておられる。世には帰れない、しかし、深みへも乗り出さず、ただ波打ち際をうろうろしているのは、一番哀れで惨めな状態だ。前進しよう。深みへ漕ぎ出そう。あなたにとっての一歩前進は何だろう。
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世の人はそれなりに平安だ。しかし、中途半端はクリスチャンにとって一番惨めで哀れだ。世ともかみ合わず、かと言って、神様もよくわからない。まだ経験した事のない深い恵みの大海がある。とどまっていないで、深みに漕ぎ出そう。目の前に示されている事に信仰もって従おう。


2004年11月19日(金)

「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:24)


フィギュアスケートのジャネット・リンが演技中にジャンプで失敗して、転んで尻もちをついてしまった。見ていた人もヒヤッとした。すると、次ぎの瞬間、素晴らしい笑顔でニコッと微笑んで、立ち上がり最後まで見事な演技を続けたのだ。観衆から割れんばかりの拍手だった。途中で放棄せず、諦めもせず、心を込めて最後まで滑り続ける事で神の栄光を現した。私達も信仰生活の中で、主に従って行く時に、挫折があるかもしれない。入試や就職試験の不合格、愛する者との別離、倒産、罪ゆえの失敗があるかもしれない。しかし、転んでも、もう一度立ち上がる事が出来る。そして、その時、信仰が更に確かなものとされる。何があっても再び起上がれる。
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主がその手を支えておられるから、最悪に思える時にも失望、絶望することはない。必ずまた立ちあがれる。常に支えていて下さる神様の御手を信じ、確かめて行くことが再起の近道だ。


2004年11月18日(木)

『「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」そして、その通りにすると・・網は破れそうになった』(ルカ5:5)




ある冬に長距離ドライブをした時のこと、その地方に大雪警報が出ていた。しかし、見たところ全く雪になりそうにないので、どんどん進んで行った。案の定、予報通りに吹雪になり、もう視界が遮られるほどになった。危険なので、その地方で宿泊した。私達も信仰生活において見えるところと御言葉、神の言われることが異なる場合がある。その時は、どうすれば良いのか。ペテロがしたように、状況と主の言われる時が正反対でも、主の言葉に従うことだ。見えるところでなく、御言葉に従え。そうするなら、神のみわざを見る。主の言われることが自分の思いと反する時も、御言葉に従うなら、正しい道に導かれる
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自分が良かれと思う道だけを選んで、自分の言い分だけを言い張って行くならどうなるだろう。行き着く先を私達は知っている。主のみこころを聞き、選び、従っていけるように祈ろう。


2004年11月17日(水)

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった・・この人のほうが、前の人よりも、義と認められ、家に帰って行きました」(ルカ18:10)


良い行いとは、行ないそれ自体が良いという意味ではなく、動機が正しいと良い行いになる。祈ること自体は良いことだ。しかし、もし人に見せるために祈るなら、人から賞賛を得るために祈るなら、その祈りは間違っている。ある時、二人の男が祈るために宮に来た。一人はパリサイ人で、一人は取税人であった。二人とも祈ったが、一人は義とされて帰り、一人は罪のまま帰った。正しい行いは、正しい動機でなされる時だけ正しいのだ。それ自体は良くも悪くも無い行ないが沢山ある。愛を持ってなされれば正しいし、自己中心な動機でなされれば間違っている。その行ない自体でなく、その動機によって良くも悪くもなる。私達の動機はどうだろう。
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行ないの目的は何かをよく見分けなければならない。的はどっちを向いているのか。自分の義を立てるためのものなのか、信仰に導かれたものなのか。


2004年11月16日(火)

「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」(ヤコブ2:13)


信仰生活とは自分の力で頑張る事ではない。歯を食いしばって眉間にしわを寄せて努力する事ではない。そうではなく、主がして下さるので、主に拠り頼んで、ただ主を信頼する事だ。そこには重荷を下ろした休みと安らぎがある。自分の力で歩んでいると、すべての重荷が自分の肩にかかり信仰生活が辛くしんどい。あれもこれも我慢に我慢を重ねている。放蕩息子の兄状態だ。そうすると、自分が辛くて我慢しているので周囲の努力していない人をさばく。必ずさばく。腹が立つのだ。私達はどうだろう。さばきは恐るべき高慢だ。砕かれていないところから起こる。しかし、主に頼って歩んでいるなら心に休みと喜びがあり、人をさばく事もない。さばかない人はさばかれない。
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自分で立たせた信仰は、必ず無理が生じゆがんで行く。自分から発した結果に一喜一憂して、傲慢と裁きをまきちらすより、主に委ねて、主に頼って、のびやかな信仰生活を送って行きたい。


2004年11月15日(月)

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(Uコリント5:10)


空中再臨の時、携え上げられキリストの裁きの座に立つ。その時、それぞれ自分の肉体でした行為について報いを受ける。善であれ悪であれ、神は隠れた事をすべて見ておられる。人の目は全く関係がない。人に隠れてした良い行ない、又悪行、すべてが明らかになる。救われていながら神を意識せず、自己中心にわがままに歩んでいるなら、報いが無いばかりか、火の中をくぐるようにして助かる。目先の事だけでなく、よく考えてみよう。神が確かにおられ、いつの日か総決算が来る。目の前の美味しい草をあさり迷子になる羊でなく、永遠がある事、よく心し得て今の生き方を決めよう。神に喜ばれる歩みへ方向転換。
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救われただけではなく、日々クリスチャンとして力強く歩んでいるだろうか。イエス様の前に立つ時、私たちはどうだろう。


2004年11月14日(日)

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:29)

くびきとは一つの板に二つ並べて頭が入る穴を開け、二頭の家畜を同じ方向へ進ませるためのものだ。そのくびきをしっかり負うことだ。嫌がり避けるなら、そのくびきはますます首を締めつけて苦しい。わたしのくびきと言われ、隣は主が負って下さっている。しっかり負うならくびきは軽い。平安であり安らぎが来る。一人一人与えられた環境を主からのものと、逃げないで避けないで、しっかり受け入れる事だ。その中に沢山の学びが用意されている。一つ一つ学ぶなら、素晴らしい成長の機会だ。ある夫婦に難病の子供が生まれた。なぜ、どうしてと苦悶したが、祈りの中で受け止め、頼りつつ育てた。様々なところを通ったが、子供は量り知れない祝福であった。何より自分達が変えられ成長させられた。
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一人一人にくびきが与えられている。そのくびきは、皆、異なる。自分に与えられたくびきを、しっかり受け入れるなら、平安が来る。状況に関わらず、安らぎがある。くびきに、もがくと、ますます締め付けられ苦しいだけだ。くびきにより、多くの事を教えられ、学べる。


2004年11月13日(土)

「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨て・・ようではありませんか」(ヘブル12:1)

思い煩いや重荷がずっしりとあると、神が見えなくなる。よく経験するところだ。茨が芽を枯らせてしまうように、神への愛や信仰を妨げるのだ。世と神を同時に愛せないように、両立できない。罪や煩いを捨てる事、明け渡す事が大切だ。ある婦人は心に人への憎しみがあり、どうにも出来なかった。しかし、それは自分も相手も害し続けるだけだと、きっぱり捨てる決心をした。その時、自由にされたと。意志を向ける事は必要だ。それを抱き続けたい古い性質があるゆえに。神は「捨てよ」と言われる。罪と重荷を捨てるなら、大空高く舞い上がり、自由に神を愛して行ける。あなたをがんじがらめにし、地上に縛りつけているものがわかっているなら、今捨てる決心をする事だ。あなたの意志を神はご覧になり力を与えて下さる。
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苦しいのに、嫌なのに、心の奥底をよく探ると、捨てたくないのだ。肉は罪を捨てたくない。それが紛れもない肉の性質だ。捨てる決心をする事、それが肉に「ノー」を言い、神を選ぶ事だ。私達に力はない、しかし、意志を向けるなら神が力を下さる。自由にされる。



2004年11月12日(金)

「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です」(Uコリント1:12)


信仰の初期はどうしても自分の力に頼るものだ。信仰生活が自分にかかっていると勘違いして、自分で努力する。聖書を読み、礼拝に出席する事も自分の力でする。思うように出来ないと落ち込むし、逆に出来ると自分を誇りにして周囲の人をさばく。高慢になると神は頭を打たれる。失敗に失敗を重ねて高慢を砕かれ、へりくだらされる。自分の力でなく、恵みによって神の力によって信仰生活を送る事を教えられる。すべての力は神から来て、恵みであるなら自分を決して誇れない。何かが出来たとしても神の力だ。それゆえ人を裁く事もない。神に頼る事が本来人間関係が創造された正しい姿だ。神に頼るなら平安で幸せ。
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自分の弱さや、足らなさをそのまま受け止めてくださる方が側におられるから、失敗を重ねても必ず前に進める。神様ぬきで、がむしゃらに進みそうになった時、気負いをやめて、このみ言葉を思い起こそう。


2004年11月11日(木)

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(Tヨハネ4:19)


養子を迎えたある夫婦は、子供が小さい時から、隠さずに事実を告げる事で考えが一致していた。それで、小さい時から、事あるごとにわかりやすく説明し、伝えていた。小学生になった時、今までずっと養子である事を話し続けて来たが、理解できているかどうかを聞いて見た。「それって、パパとママが僕を大好きって事だよ」と答えた。子供がしっかり理解していて、核心を捕らえていることに驚いた。子供に精一杯注いで来た愛情を真っ直ぐに受け止めてくれている事に感謝した。神が私達を極みまで愛し、注いで下さっている愛情はどうだろう。あなたはしっかりと受け止めているか。私達が人を愛せるのは自分が神から受け取っている愛の度合いからである。
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愛されていることを実感できているだろうか。愛されている事の、ほんのわずかしか実感できない者だけれど、人を愛せない自分に気づいたら、神様がして下さった事をもう一度、振りかえってみてはどうだろう。


2004年11月10日(水)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり・・将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)

人生はよくパズルに例えられる。完成すると素晴らしい見事な絵画が仕上がる。しかし、沢山のピースを次々と埋めて行かなくてはならない。その場所、その場所にぴったりのピースを置いて行くなら完成する。神は私達の人生に一つ、又、一つとピースを渡される。それを喜んで受け取り、埋めて行くと素晴らしい絵が完成するのに、神の差し出すピースが嫌なのだ。他のピースが欲しい。あなたの今の状況はそのようだろうか。試練のピースは嫌で、反抗する。自分の思い通りというピースが欲しい。しかし、神の手渡されるピースは完璧だ。それを受け取り、埋めて行くと一歩一歩と完成に向かって前進して行く。成長して行く。今、目の前に差し出されているピースが嫌いでも、拒否せず受け入れよう。素晴らしい祝福へと続く。
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今起きている事は災いでなく、平安のため、将来と希望のためのもの。今はわからないが先でわかる。よく私達の思い通りではない。自分の思い通りにしたいという強固な意志が砕かれるためだ。砕かれ柔らかくされ変えられる。今差し出されているピースを受け取ろう。自分にとって最善。


2004年11月09日(火)

「求めなさい。そうすれば受けるのです。それは、あなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(ヨハネ16:24)


ある夫は、妻が掃除、洗濯、片付けと忙しく動き回っている間中。ソファで本を読んでいた。妻は風邪気味で微熱もあり辛かった。無神経に見える夫に自己憐憫で怒り爆発しそうであったが、いけないと心の内で祈り、冷静に身体が辛いので助けて欲しいと願った。すると、夫は驚き、初めから言えば良かったのにと一生懸命に家事をしてくれた。心が潤い、喜びと感謝で溢れた。きちんと気持ちを告げて助けを求める事は必要だ。そうするなら、助けを受ける事ができる。私達を極みまで愛して下さっている主は、助けようと待ち構えておられる。呆然と立っていないで、すねて自己憐憫にならないで、きちんと求めるのだ。神は助けて下さる。求めを待っておられる。
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大きな事は祈れても、日常の小さな心配事や、ささいな思い煩いは、そのままにしてしまっている。喜びが満ち溢れるためには、待っていてくださる神様をいつも、呼び求めることだ。


2004年11月08日(月)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち何が良いことで神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために・・」(ローマ12:2)


世と調子を合わせないために、気をつけなければならないのは、この世の価値観だ。培われた価値観があり、自分の力で、自分の判断で生きようとする。これは根深いものがある。この世はその事を奨励し美徳とする。古い性質である肉は、自分の力をどこまでも誇りたいし、自分の力で頑張って評価されたい。自分に栄光を帰する。しかし、神のみこころは自らを虚しくし神に頼る事だ。家計が緊迫すると、世の価値観は支出を抑え収入を増やせだ。それに従うと献金まで渋る。しかし、神の御旨は、足らないならもっと献げよだ。与えるなら与えられる。押し付け、揺すり入れ、溢れるまでに与えられる。これは原則だ。世の価値観に惑わされるな。神の御旨と正反対。
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世の価値観と神の良しとされる事は、正反対なので、常にみこころに焦点を合わせていなければ、思考を狂わされてしまう。新しい週のはじめに、もう一度このみ言葉に心満たされ、世に出て行こう。


2004年11月07日(日)

「天では、あなたのほかにだれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」(詩篇73:25)

仕事を持つ母親が、休日にも仕事が入り、代わりにオモチャを買うからと子供に言うと、子供は泣き出した。「オモチャなんかいらない!ママといたい」と叫んだ。その言葉に胸をつかれ、自分はこれほど天の御父を慕い求めているだろうかと、心を刺された。この箇所で、記者は悪者が栄えるのを見てつまづいた。神に従って何になろうかと。しかし、彼が光を与えられた時、問題の根本原因はそうではなく、自分が神に近くいない事であると悟った。私達の悩み苦しみ、問題は大した事ではない。本当の問題原因ではない。本当の原因はあなたが神から離れている事、みそば近くいない事だ。ただ一つの一番の大切な事は、あなたと神との関係だ。神に近くいれば、何が起こっても大した事ではない。神に立ち返り、ひと時でも一緒にいる事、御声を聞く事、交わる事、神を慕い求めよう。求める者にご自身を現して下さる。
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しばしば問題、悩みにほんろうされるが、問題が問題なのではない。色々な悩みの原因、自分の本当の問題はただ一つ、神に近くいない事だ。そこから多くの悩み問題が派生する。今、離れていないか。私達の幸せはただ一つ、神の近くにいる事。自分と神との関係がすべてだ。


2004年11月06日(土)

『そこでイエスは彼らに「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた』(マルコ6:31)

休む事に罪悪感を感じる人がいるか。動き回っていなければ気が済まず、何かしていると安心な人がいるかも知れない。又、活動によって充足感を得ようとする人がいるかも知れない。しかし、これは主の命令だ。弟子の周囲には四六時中押し寄せる大勢の人々がいた。常に主のもとに来る群衆に、同時に弟子達も取り巻かれていた。それがどんなにストレスであり疲労させるものか、主はご存じで配慮して下さった。仕事は良いものだ。しかし、過ぎると必ずひずみが出る。心身共に許容量がある。働きを横において休むよう、主は命じられた。主と静かに交わる時間は、あなたを変える。新たにされる。不必要な重荷を下ろし、なすべき事が見えてくる。世の勢力は思っている以上に凄まじい。流されているなら立ち止まろう。神第一へと優先順位が正される。静まって交われ。
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正しい活動、行動は大変良いことだ。しかし、真の満たしは行動からは来ない。主にとどまる事から、私達の求めている心の満たしは来る。一番大切なのは、主にとどまる事、生き生きとした主との関係だ。そこからしか満たしはない。的はずれにならないよう、今日も主との関係を大切にしよう。


2004年11月05日(金)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」(箴言3:5)


私達の知るところは、今は一部分だ。それもおぼろげにしか見えないと。かの日には、何もかもがはっきり理解できる。すべての疑問が解け、答えがわかる。地上にいる間は、一部分がぼんやりとわかるに過ぎない。私達には明日の事すらわからない。しかし、明日を知っておられるお方が共におられる。その方を信頼するなら何の恐れも不安もない。私達は信頼して生きる事を求められている。かの日にはもう信仰が必要なくなる。すべてが明らかになるかだら。見えないものを信じる信仰は今のしばしの間だけだ。その信仰を用いよう。神は信仰を喜ばれる。信頼を受け止めて下さる。先はわからなくても、見えない御方を信頼するなら、前進する事が出来るのだ。
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今、理解できない事にも必ずその理由はあり、逆境も順境も、それぞれが神の御手の中だ。その時々に、信仰の目を持って神に信頼して歩んでいこう。必ず後には、豊かな実を見つける事ができる。


2004年11月04日(木)

「主よ。どこにいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」(ヨハネ14:5)


小さい頃、父親が休みの度に色々な所へ連れて行ってくれた。ある時は自転車の後ろに乗せて。ある時は車で。また、歩きで。どこへ行くのかと聞くと、行き先は告げてくれず、お楽しみという事になっていて、驚かす事を楽しんでいた。海や山、遊園地や様々な所へ行った。親を完全に信頼していたので、行き先がわからなくても何の不安もなかった。ましてや、天の御父はどんなに私達の最善を計り、備えていて下さっている事だろう。私達に行く先が見えなくても、神はご計画を持って導いて下さる。私達は先を見たいと思う。将来はどうなっているかを知りたい。しかし、先は隠されていて、足もとの一歩しか示されない。あなたのする事は神を「信頼」する事だ。
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先はわからなくとも、主に伴われて歩く道だ。行く先には、確かな祝福がある。今日も主にすべてを任せて、わくわくしながらついて行こう。


2004年11月03日(水)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3)

この世界に起こる事すべては、主の主権と支配の中だ。雀の一羽すら父の許しなしには地に落ちない。ある夫妻の初めての赤ちゃんが流産、非常な悲しみの中にいた。しかし、父の許しなしには起こらない、深い高いご計画の中、と受け入れた時に、悲しみの底に深い平安が来た。その後、すぐに次の赤ちゃんが与えられ、無事出産。可愛くて仕方なかった。しかし、前の子が生まれていたら、この子の生は地上に存在し得なかった事の不思議を思い、神の測り知れないご計画を思った。私達の頭の毛の全部が数えられている。受験や就職試験の不合格を経験する。しかし、父の許しなしには起こらない。みこころではなかったゆえに門をが閉じられた。もっと遙かに良い場所が備えられているという事だ。私達一人一人の人生にすでに最善のご計画があるとは、何と平安な事だろう。そして、神はみこころなら、不可能と思われる門をも開かれるのだ。神には何でも出来る。だから、あなたのしようとする事を、あなたの計画を主に委ねるべきだ。明け渡すなら、主が成し遂げられる。
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私達は人生にプランを持つ。しかし、私達の人生にすでに神により最高、最善のプランが出来上がっているとは、何と嬉しく平安だろう。しかし、神に無条件に自分自身を明け渡す必要がある。その時、最善の道が自分のものとなる。大事な事は、明け渡す事で、心の底が自分中心から神中心へと変えられるのだ。ゆえに揺るがない。



2004年11月02日(火)

「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(マタイ5:24)

ある人が旅行中の友人から海外郵便物を頼まれ、引き受けたが、一ヶ月忘れてしまっていた。驚き慌て、次ぎの瞬間黙っておきたい誘惑にかられた。何かの手違いで着かなかったと思うだろう。恥ずかしさとプライドが邪魔する。しかし、御霊から正しなさいとの強い促しが来る。したくないが、とうとう身動きとれず、電話をして本当の事を話し、謝った。相手は笑いながら快く赦してくれて、双方クリスチャンで、祝福された霊の交わりとされた。心に全き平安が戻った。あなたはギクシャクしている相手がいるか。過ちを認め、謝罪しなければならない相手がいるか。神は助けて下さる。それを伸ばさないで、すぐに行なおう。神は平安で心を満たして下さる。
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悪いことをしたら謝る…こんな簡単な事が、大人になると難しい。地位や、名誉や、権威がますと、どんどん出来なくなる。うっかりしてたからと、良かれと思ってやったからと、言い訳をしながら献げる供え物を主は喜ばれない。


2004年11月01日(月)

「さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、金よりも尊いものであって」(Tペテロ1:6)


私達の信仰を「金」にすると言われる。どのようにして?試練によってだ。金は火によって精錬され、純化される。つまり、純化されるために、火がどうしても必要だ。私達の信仰も同様だ。不純物が一杯ある。普段は気づかないが、試練によって、苦しみの火の中を通る時、様々な不順なものに気づく。何を求めて生きているのか。平穏無事、安堵、ただただ問題がないようにとの本音に気づく。家内安全、交通安全の信仰宗教と何ら変わりない。平安や喜びという利益を求めている。いかに体面、体裁を重んじているかに気づく。プライドや虚栄心にも気づく。これらはしっかりと内面にあるが気づかない。火の精錬を通して、それらが聖められる。試練は必ず祝福。
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試練に会う時、自分の中の本音と建前が露にされる。思い通りに行く事しか望んでいなかった自分、つぶやく自分、決して従えない自分に気づかされる。試練を通し気づかせて下さった神様に感謝だ。