2004年12月31日(金)

「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)

ペテロは、決して主を裏切る事はないと豪語したが、見事に裏切ってしまった。主はペテロの内にある弱さを知っておられたが、ペテロは知らなかった。ペテロを堅い岩にするために、サタンのふるいを許された。その間も信仰がなくならないよう、主の執成しがあった。自信満々のペテロは砕かれた。復活後、主は三回ペテロに主への愛を言い表す機会を与えられ、ペテロは言い表す中で、癒されていった。もう以前の肉の自信満々の彼ではなかった。「自分で帯を締め、自分で歩きたいところを」自分の思いと自分の力で歩んでいた者を、自らの弱さを知り、神に拠り頼む者に変えられた。聖霊に満たされ、あの恐れて否んだペテロが、迫害をものともせず、宣教して行った。弱さを知る時、神によって強い。
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自分がどんなに弱いかを知らない限り、神に拠り頼まない。自分の力で生きて行く。神は見ておられるが、私達は自分の弱さを知らない。様々な状況や出来事を起こし、いかにもろく弱いかを知らせて下さる。砕かれて心底拠り頼む者にされる時、みここを歩んで行ける。



2004年12月30日(木)

「わたしの神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富みをもって、あなたがたの必要をすべてみたしてくださいます」(ピリピ4:19)


前回の宣教師は経済的必要を主にのみ頼っていた。あるとき、自らが開拓した島の教会から伝道集会講師を頼まれた。まず行く費用が無く祈り求めた。すると相手先からフェリーの切符が送られて来た。家の小銭を集めてフェリーまでの電車賃が間に合った。説教奉仕を祝福の内に済ませ、帰りの必要のために祈った。全くお金がなかった。すると、牧師がフェリー乗り場まで車で送ってくれ、切符を買って渡してくれた。無事、海を渡れた。後、家までの電車賃が無かった。神に祈りに祈りながら街を歩いていた。するとばったり友人に出会い「あ!あなたにお金を借りていました」と返してくれた。それで家に帰れた。神はまさに共におられる。
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必要なものは神様がすべて満たしてくださる。この一年、どのように満たされてきただろう。どのようなかたちであれ、わたし達に最善の形で成し遂げられたみわざに深く感謝しよう。


2004年12月29日(水)

「・・ケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは鳥に、そこであなたを養うように命じた」(T列王17:4)


ある宣教師が宣教地で建てた教会を牧会途上、次の宣教地へ導かれている事を感じた。数年の祈りを経て確信与えられ、経済的必要すべてを神に信頼し委ねて、新しい地へ向かった。貯えは全く無かった。あるのは身体だけ、夫妻で神だけを頼って立った。示された地に着くと、予想もしていなかった、友人の友人に出迎えられた。全く初対面だった。めどがつくまで、家に滞在するよう快く招いてくれた。まずバイトを探し、安い倉庫を借りる事ができ、集会所にした。驚くほどに全ての必要が備えられていた。みこころの場所にいるなら、必ず「そこで」必要は満たされる。あなたはみこころの場所にいるか。
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みこころで導かれたなら、必ず全ての備えは神様から来る。祈りを通し、御言葉を通し、環境を通し、みこころの場所を確認しよう。


2004年12月27日(月)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」




ある台風の暴風雨の中、婦人の運転する車が急ブレーキをかけた途端スリッップした。驚いて、パニックになり、強くブレーキを踏むとグルグル回転し出した。どうにもならず、ブレーキから足を放すと、速度がゆるんで行き、大きなごみ箱にぶつかって止まり、事なきを得た。信仰生活も同様だ。自分の力で何とかしようとすればするほどますます事態は悪化する。何とか自分でコントロールしようとしてしまうのだ。しかし、その手を放して、神に事態を委ねて、神に信頼するなら、素晴らしく導かれることを経験する。自分の力でなく、神を信頼する事を学んで行くのだ。最初は難しいかもしれない。しかし、十二分な備えに驚き、神を知る事になる。
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パニックになると、神様も吹っ飛んでしまいあたふたする古い思考パターンなら、いつまでたっても神様の導きを経験できない。「イエス様、今一緒にいて下さること感謝です」と自分の力を抜こう。


2004年12月26日(日)

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)

教会のある婦人、家計の必要のためパートを祈っていた。ところが、与えられたのがフルタイムの仕事だった。それも営業で、主婦で小さな子供を抱えて絶対に無理と涙が出た。しかし、祈りを積んで与えられた仕事だ。祈っていると、とにかくやれるだけやってみようと思えた。専業主婦が突然、営業の仕事、それも結果を出さなければならない。自分には不可能、ひたすら主を頼り、祈りに祈って日々仕事に出た。すると不思議なことに、次々と契約が取れて、それがずっと続いた。周囲に「営業が向いているんじゃないの」とまで言われ、絶対に自分ではない、神様だと言い続けた。祈って導かれた場所は、必ず必要な力が神から与えられる。
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「どんなことでも」できる。神が導かれた先、みこころの中心にいるなら、必要な知恵とアイデア、導き、力を、神が与えて下さり、必ずできる。自分の力でなく、私を強くして下さる方によってだ。力は神から来る。信仰もって前進しよう。


2004年12月25日(土)

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分達のために寄せ集め・・」(Uテモテ4:3)

私達はしばしば聞きたい事だけを聞き、聞きたくない事は聞かない都合の良い耳を
持っているかのようだ。耳に痛い事、不都合な事は聞きたくないのだ。バイキングを食べるように、好きな御言葉だけを聞く。都合の良い御言葉だけを取って来る。真に矯正の必要な部分は必ず痛い。自我に触れる。自分が変わるのは、至難のわざだ。しかし、御言葉に聞き従って行く時、砕かれる。神が語られるのは、自分の都合の良い言葉ではなく、必要な言葉だ。痛い言葉に耳を傾け従う時、健全な成長を遂げて行く。あなたはどうか。痛い言葉をしっかりと受け止めているか。従っているか。その時、あなたは変えられる。聞き従わない人とは、決して変わる事のない人だ。
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肉は都合の良い、心地良い言葉だけを聞きたい。痛い言葉は聞きたくない。自我に触れるからだ。しかし、聞いて従わない限り、いつまでも自己中心のままだ。自我が王座に座り、自分の思い通りに生きて行く。痛い箇所こそ変わる必要のある所。


2004年12月24日(金)

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」



「素晴らしい喜び」主イエスの誕生は素晴らしい喜びだ。福音は喜びであり、福音に生きる信仰生活は楽しみと喜びだ。自由を与えるために解放して下さった。特に私たち日本人は努力家だ。努力に努力を重ねる事を良しとする。目標達成途上の苦しみはむしろ安心感を与える。苦しいことは良いことで、楽は忌むべき事との価値観がある。信仰生活、自分の力で頑張ってしまう。それが信仰だと勘違いする。自分が頑張っていると、辛く苦しい。それで、頑張っていない人を見ると腹が立つ。必ず裁いて行く。自分が我慢して我慢して、頑張っていて辛いからだ。信仰とは自分で頑張るのではなく、神に明け渡して神に頼り、神にして頂く。それは喜びと楽しみ。
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信仰を持った時に重荷をおろしたはずなのに、気が付くとまた別の重荷を背負っている・・
結局、神さまに委ねる事ができず、全部自分が握り締めているからなんだろう。私達のために十字架にまでかかって下さったイエス様を見つめ、ひとつひとつ解放されますように。


2004年12月23日(木)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」(箴言4:23)

ジョギングやウォーキング、健康管理には気を使う。こころの管理はどうだろう。心を見張っている人がいるだろうか。「力の限り」見張れと言われている。サタンの火矢=思い、が心に次から次へと放たれて来る。自分の思いではなく、サタンからの思いだ。受け入れてはならない。拒否、拒絶するべきだ。思い煩いや不安、妬み、敵対心、疑い・・そのような思いを吹き込んで来る。思いにJ働いて来るサタンに気づけ。サタンは私達の心の状態をすべて熟知していて、その隙にぴったりの思いを入れて来る。エバに「本当に?」とまず疑いを入れ、心に入り込んで行ったように。常に思いを見張れ。平安が失せ、心が暗くなり落ち込んで行くのはサタンからの思い。
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自分の心は自分で動かしているのではない。絶えずサタンからの影響をうけている。気づいた時は神様の御心から遠く離れていることがしばしばだ。自分の心とはそんな危ういものと絶えず覚え、見張っていなければならない。


2004年12月22日(水)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:1)

主から目を離すなと言われるなら、サタンは必ず逆の事で妨害して来る。神から目を離させ、そらせるよう誘惑、攻撃して来る。思い煩いに沈み込ませて目を離させる。人との比較によって、人ばかり見て、羨望、競争心や妬みに心が悶々とする。また、人の欠点を責め、人を裁く。また、延々自分だけを見続ける。自分の欠けに悩み、落ち込む。逆に、自分を誇り、自慢し高ぶる。すぐに、主イエスから目を離してしまう。人は同時に二つの対象を見る事は出来ない。神を見ているか、他のものを見ているかの、どちらしかない。サタンは神から目を離させる事にやっきになっている。それさえ出来れば大成功だ。サタンの策略に良く気づけるよう心していよう。
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同時に二つのものを見る事は出来ない。自分や人、状況を見ている時は神を見ていない。幸いな事に神を見ている時は、自分も人も状況も見ていない。常にどちらかだ。まず“御霊に属することを「ひたすら」考える”事により御霊に従って行ける。行動は思考に基づく。今日も、神のみこころは何か、何が喜ばれる事なのかひたすら思っていよう。


2004年12月21日(火)

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」(ルカ24:15)







二人の弟子達は、予め告げられていた主の復活を信じる事が出来ず、主の死後、失望落胆、絶望で故郷に引き揚げる。もし信じていたらエルサレムにとどまっていたはずだ。その弟子達に主ご自身が近づかれる。二人に質問し、彼らは絶望と共にもう終わった事として、イエスの死を告げる。彼らの問題点が不信仰にあると、主は助けの手を延べられる。「信じない、心の鈍い人たち」と。御言葉を正しく解き明かし、彼らの信仰を今一度、奮い立たせて下さる。「私達の心の内は燃えた」もっと聞きたい、もっと一緒に過ごしたいと、二人が一緒に泊まるようにとせがんだ時、主は彼らの目を開いてご自身を彼らに現された。信仰は御言葉から来る。主から近づいて下さる事は慰め。
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御言葉を読んで頭で知っていても、心で受けとめていない事は多い。エマオ途上の弟子達のように、主に目を開いてもらわなくては、御言葉を心で受けとめる事は出来ない。


2004年12月20日(月)

「わたしは自分のからだを打ちたたいて従わせます」(Tコリント9:27)


様々なプロの選手達は勝つためにあらゆる節制をするボクサーは体重管理に徹底して節制する。食物や水分、様々な日常生活に及ぶ。競技者達は賞を得るために、その目標のためにあらゆる自制をする。ましてや私達は朽ちない賞が待っている。肉の欲しいままに動いていたら何一つ成し遂げる事は不可能だ。肉は抗議し抵抗して来る。もっと安楽でも良いじゃないか、おまえだけがなぜ?しかし、パウロは、自らの身体を従わせた。自分の身体を主人としないで、しもべとしたのだ。欲しいままの肉の安逸、わがまま、気ままに従っていたら、走るべき行程を走り尽くす事は出来ない。パウロは身体を打ちたたいて抵抗した。私達はどうか。安逸を貪っているか。
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一日は、あっという間に過ぎる。あれやこれ、やるべき事があっても、行動を起こさなければ何にもならない。目標をしっかり定め、良く祈り、気ままにしていたい自分自身をパウロに習って、従えていこう。


2004年12月19日(日)

「彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、偽りの舌をもって、私に語った・・憎しみのことばで私を取り囲み・・私をなじります。私は祈るばかりです」(詩篇109:2)

ある男性が学生時代、盗みの疑いをかけられた。身に全く覚えがないのに、非難、中傷の的となってしまった。自分の潔白を全校生徒と教師に大声で訴えたかった。悔しさや情けなさ、怒りや不安、しかしどうして良いかわからず、祈るばかりだった。すると、真犯人が発覚した。ダビデもまた、非難、中傷で絶えず攻撃にさらされた。欺きや憎しみを向けられ、呪われ、なじられた。彼には権力があり、反撃する事も出来たが、その力はいっさい用いなかった。神に信頼し、神に頼り、ひたすら祈り続けた。神がこの事態に関与し、神が計らって下さるようにと。私達も悪口を言われ、中傷された時、仕返しをしたくなるが、祈りによって神に委ね、神に介入して頂く方が遥かに賢明。
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肉は怒りで何倍にもして反撃したい。潔白だとそれが正当だとの巧妙な誘惑がくる。主も自分で復讐するな、神が復讐される。善をもって悪に勝てと言っている。肉の思いで動かず、神のお心に従うなら、その時神が働かれみわざをされる。今日も起こる出来事の中で、神のお心に焦点を向けておれるよう。


2004年12月18日(土)

「持ち物を売って施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい」(ルカ12:33)

ある成功した大会社の経営者がいた。才能があり時間の管理でも有能振りを発揮していた。徹底して無駄に時を使わなかった。それゆえに輝くばかりの業績を上げ大成功していた。アポイント無しで彼に会うことなど不可能だった。ところが、ある日、約束無しに突如、神が介入された。命を取られたのだ。彼の葬儀では、有能な経営者、良き夫、良き父親と人々から賞賛されたが、神の目から見たら「愚か者」であった。自分のために貯えても、神の前に富まない者だった。時間をどれほど有効に使っても大成功しても、神のために使うのでなければ、すべてが無に帰する。全世界を得ても自分の命を損じたら何の得があるだろう。神に焦点を合わせ、神のために備えよ。
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天に積み上げたものだけが残る。神のために使った時間、富、才能のみが永遠につながる。肉の欲望のために使ったものは、すべてが無に帰する。見えないところをよく見て、御霊の導きに従って生活できるよう祈ろう。





2004年12月17日(金)

「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ」(箴言26:20)



山火事の時、燃える物を除去する消火の方法がある。わざと向かい火を放ち、向かってくる先の木々を焼く。すると燃える物がないので火は消える。たきぎが無ければ火は消える。たき付ける物は悪口、噂話、陰での中傷だ。それを消してしまえば争いは止む。悪口や当事者が不在の噂話は人を深く傷つける。主を信じる者の口に無責任な言葉を置いてはならない。悪い言葉を決して口から出してはならない。唇を見張って守れ。舌を御霊の導きに従わせる事によって、有害な人を傷つける火を消す事が可能だ。心に思っている事を口が語る。口が語るのは必ずまず心にある事だ。心が問題だ。心が聖いと、語る言葉が聖い。心が聖霊に満たされるよう祈ろう。
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口から出る前に、必ず心で思っている。心にその思いが来た時に、その思いを神様に告げよう。人に対する批判や悪い思いを神様に対処して、忠実に消していなければ、口から出るのは時間の問題だ。



2004年12月16日(木)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)


突然夫の転勤が決まった妻は、動揺し大きな試練であった。軌道に乗っていた仕事を辞し、気の合う友人達との別れ、子供のとの別生活、受け入れがたい大きな試練であった。失意と混乱の中で、自分の思いと計画を遂げたいと願っている強情な意志に気づかされた。しかし、神のご計画が成っている。自分のすべき事は環境を支配し、思い通りにする事ではなく、神に従う事だ。与えられた環境の中で神に従って行く時、すべてが正しい秩序に置かれ、平安の中で、驚くばかりに導かれて行くのを見る。思い通りにならない事態にいら立っているか。神から来たものと認め、受け入れ従うなら平安の内に導かれて行く事を経験する。状況に神を認め、従おう。
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神様を認める時、すべてが納得できる。今まで抗っていたものが自己中心から来ており、みこころを受け入れ従う時、経験したことのない平安に心は守られ、なぜ?どうして?のいっさいは消えて行く。


2004年12月15日(水)

「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅」(箴言15:4)

テレビからコマーシャルがどんどん流れて来る。小さな子供達はすぐに覚え口ずさむ。大人も無意識の内にその商品を買っていたりする。言葉の影響力は側り知れない。ペテロは言葉で三度主を裏切った。尚も変わらず愛し続けられた主は、同じく三度言葉を発せさせる事により、ペテロを回復させ再び立たせられた。主を知らないと言ったペテロに、主への愛を告白できるように、仕向けて下さったのだ。ペテロは心の深い傷が癒され、再び立ち上がる事ができた。言葉は人を生かしもし、殺しもする。言葉で深く傷ついた経験があるだろう。身体の傷は癒えるが、心に受けた言葉の傷は深く残る。人を生かし、励まし、慰め建て上げる言葉を発する者とされるように。
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一旦発した言葉は取り返しがつかない。肉の言葉を不用意に発する事がないようにとどめよう。心に満ちている事を口が話す。人が話す事はまず心にある事だ。口ではなく心が問題だ。心が御霊に支配され導かれるよう今日も祈ろう。周囲を励まし生かし恵みを与える言葉を語る者と用いられるように。



2004年12月14日(火)

「あなたがたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)



ある時、砂利道に車を乗り上げ、タイヤが空回りしどうにも動かなくなってしまった。近くにいた青年達が来てくれ、色々試したがどうにもならない。周囲の男性達も寄ってきて皆でワゴン車を持ち上げて砂利から出してくれた。どんなに感謝したか知れない。助けを受けた自分自身も神の導きに敏感であり、従いたいと思った。人を愛するという事は、自分の都合が悪い時がほとんどだ。自分にはするべき事が控えており、時間の余裕も無い。しかし、愛とは犠牲を意味する。犠牲を払う事が愛する事だ。犠牲を払わずして愛する事は不可能だ。愛を実践する事を通して、自分自身が、ますます神の側り知れない犠牲を知る者に変えられて行く。神の犠牲を知っていく。
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時間も、この身体も神様からいただいたものなのに、なかなか喜んで献げることができない。今日一日、誰かのために何かを犠牲にして小さな愛を示して見よう。


2004年12月13日(月)

「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、顔を見てかわいそうに思い」(ルカ11:33)



サマリヤとは当時戦争状態にある敵国であった。その敵がそこに倒れていた。深い傷を負い、半死半生で苦しんでいるその姿に自分を重ねた。憐れみとは同情と行ないが一つになったものだ。主は罪にまみれ何のすべもなく滅びに向かっている私達を憐れまれた。それゆえ天から下り、そべての地位、栄誉を捨てて、この世界に来て下さった。行動の伴った同情だ。主がご自分のことを考えておられたら、この世界には来られなかった。そして私達の救いも無かった。傷の手当てをし、宿屋に伴い、夜を徹して看病し、費用まで支払われた。これが主イエスが私達にして下さった事だ。良きサマリヤ人は主イエスだ。まずこの主の愛を十分に受ける事から始まる。
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罪の何たるかも知らず、どこに向かっているかも知らず…そのような私達のために主が示して下さった愛のほんのわずかでも、私達は人に与える事ができない。せめて、この恵みをもう一度かみしめよう。


2004年12月12日(日)

「祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った」(ルカ10:31)

人は、したくない事には幾らでも言い訳と理由を作る。祭司には多くの言い訳があった。もし死んでいたら、汚れるので神殿のご用が出来なくなる。今急がなければ神殿の用が待っている・・。しかし、本音は「関わりたくない」自己中心であった。私達も周囲の必要を知りながら目を閉じる。誰しも面倒に関わりたくないのだ。表面的には様々な理由づけをし、自分を納得させようとする。しかし、神はその自己中心を砕きたいと思っておられる。神に焦点を当て、神はどう思っておられ、神のお心は何かを求めるなら正しく導かれる。みこころをそれるなら、自分自身が祝福にあずかれれない。様々な事態に遭遇した時、神のお心に焦点を当てて、神の喜ばれる選択をし、神の御旨に従おう。
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<御霊>と<肉>がいつも目の前にある。自分の損得、自分を喜ばせ、自分の欲望を満たす選択、もう一つは神に喜ばれ、神に従う選択。常に二つが目の前にある。どちらかを選択し結実させて行く。御霊が内におられ選択を助けて下さる。今日も祈っていよう。


2004年12月11日(土)

「また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり・・」(テトス2:7)

小さな子供を育てるとよくわかるが、常に大人の真似をする。子供達がままごとをしている様を見れば、その家の様子が手に取るようにわかる。信仰生活も同様だ。人は見ていない様でよく見ている。クリスチャンとして見ている。自分では何ともないと思っていても、他の人に、キリストについて大きな影響を与えている。自分の行動は大切だ。自分の生活はどうだろう。人につまずきを与えていないか。言動はどうか。常に神に探って頂く必要がある。人はよく見ている。良くも悪くも、周囲に影響を及ぼす。人々は聖書を読まない。私達を通して聖書を知る。私達は歩く聖書だ。日々人々の心にどんな聖書を記しているだろう。通り良き管として用いられるように。
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なかなか良いわざの出来ない事を、神はご存じでいて下さる。つまずきばかり与える。しかし、出来ない事を認めて、御霊に明け渡し、拠り頼んで行くなら、神が良いわざを与えて下さる。祈って行く時、出来なかった事が出来ている事に驚く。私達が歩く聖書である事を覚えて、主にますます拠り頼もう。


2004年12月10日(金)

「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」(Uコリント2:10)


サタンの最大の成功は、自分を隠す事だ。サタンが働いているのに気づかせない事だ。自分を隠せた時が大成功。朝から思い煩いを吹き込まれ、悶々と不安の中に落ち込み、二、三時間後サタンだと気づく。突如、嫉妬、妬み、敵対心の火矢を心に打ち込まれ拒否せず、受け入れて心乱れ、嫉妬の炎を燃やす。古い性質にサタンは働いて来る。見張っているなら、不意に火矢が来た時にサタンだと思いを拒否できる。サタンは私達の弱い所に精通している。必ず弱点に来る。どの一言の火矢を打てば、心が乱れ落ち込むか的確に知っている。あなたがいつも悶々とする所を祈りつつ探るなら、聖霊の光によっていかにサタンが働いているか気づくだろう。
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心にわきおこる様々な苦い思いに敏感になろう。「何でこんな思いになっているのだろう、そうだサタンだ!」こう思えた時、聖霊様の光がさしこむ。


2004年12月09日(木)

『主よ。私は、あなたに信頼しています「あなたこそ私の神です」私の時は、御手の中にあります』(詩篇31:14)


癌が発覚し、死に向き合った男性、何もかもが変わった。食事、運動、睡眠と規則正しい生活になり、一日一日が大変貴重なものとなった。家族の関わりがかけがえのない大切なものとなった。神の賜物である御子イエス・キリスト、その十字架の死が鮮明になった。今まで何も見えていなかった。永遠を見据えるので、今の苦しみにも意味がありすべての事にも意味がある事を真に理解できた。地上での時間に限りがあるとの宣告により、優先順位が大きなものになった。貴重な残された時間が神のために最高のものとされるように心を注いだ。私達も主の再臨に備えるなら、同様ではないか。一日一日が貴重であり神の機会だ。天を、永遠を見つつ今日を生きるのだ。
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明日が当たり前に来ると思って今日を無駄に過ごさせるのがサタンの策略だ。神様が意味を持って与えてくださった今日を十分に価値あるものにしよう。


2004年12月08日(水)

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(Tペテロ4:10)

新生したには聖霊の賜物が与えられている。自分の賜物を発見して使って行く責任がある。それが喜び溢れたクリスチャン生活を送る秘訣だ。有名なコーリーテン・ブームの証しがある。二人姉妹の妹である彼女は、食事係で家族の料理を一手に受け持っていた。姉は父の営む時計店で店先に出て、時計を修理していた。双方が楽しくなくて苦痛であった。それである時、役割を交代してみた。すると大きな変化が起きた。コーリーは自分に時計の修理賜物がある事を発見、興味が湧き楽しくて、生き生きとその仕事が出来たのだ。姉は料理に携わると輝いた。今まで戸棚に眠っていた鍋が全部活用され、毎回工夫を凝らした素晴らしい料理が並んだ。皆も大喜び。双方が日々が楽しみと喜びとなった。賜物を発揮して行く時、周囲の益となり自らも恵まれる。
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賜物は必ず楽しい。生き生きとした充足感がある。又、周囲も認める。まだ自分の賜物がわからなければ、隠れた賜物が発見できるようまず祈ろう。 賜物は自分のためでなく、あくまでも皆の益のためであり、組み合わされてキリストのからだが建て上げられるため。



2004年12月07日(火)

「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上った時に旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった」(出エジプト40:36)



「待つ」ことは難しい。よく経験するところだ。待てないで、自分の思いで自分の判断で、自分の力で動いてしまう。不安で待てないのだ。自分で問題にあたり、解決しようとする。主の導きが待てない。イライラして先を急ぐ。じっと主を待ち望む事より、行動したいのだ。何か手を打たないとと言うサタンの声に耳を傾けてしまう。よく急ぐ時に近道をして、工事中だったり、侵入禁止だったり余計に時間がかかる経験の通りだ。先を急ぐばかりで適切な判断が出来ない。特に重大な進路や、導きを求める時、焦らせるのはサタン、主は必ず導かれる。落ちついて信頼して主を待とう。あなたは今導きを求めているか。必ず御言葉、祈り、環境を通して導きが来る。
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みこころを確認できないまま動いていても、結局は不安がつきまとう。今しばらく待って、祈り、み言葉、環境を見て行こう。道はおのずと神様が導いて下さる。


2004年12月06日(月)

「昔からの通り道、幸いの道はどこにあるのかを尋ね、それを歩んで、あなたがたの憩いを見い出せ」(エレミヤ6:16)


信仰生活の中で様々な道を歩む。平らな道や険しい道、分かれ道もある。左右どちらがみこころの道なのか。非情に区別しにくい時もある。しかし、神は必ず導いて下さる。必ずみこころがわかる。祈りをし、御言葉を求め、環境を良く見る。開いているか、閉じているか。また、牧師や指導者の助言を受ける事も有益だ。霊的指導のために神様が置いておられるからだ。何よりも一番大切な事は、自分の意志を明け渡す事だ。しばしば御旨を求める裏に自分の思いがあり、すでに道を決定している事がある。そうであれば、決して御旨はわからない。本音では求めてなどいないのだから。自分の意志を明け渡し、御旨を求めるなら、必ず幸いの道へ導かれる。
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いつでも自分の思いは、自分の中に一杯で、感情に流されてしまうのが自然だ。自分を明け渡して行かないと、自分の思いの中では、神様の静かな御声は聞こえない


2004年12月05日(日)

「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)

ある婦人は戦争で夫を亡くした。小さな子供達を抱えて、どうして良いかわからない。真っ暗闇で、地の底に落とされたようで、人生でもう二度と笑う事はないと思ったと。しかし、その苦しみを通して、神に出会い、救いを得た。下働きの仕事が与えられ、住み込みの一間が与えられ、子供を育てるために無我夢中で働いた。やがて子供達は立派に成人、巣立って行き、喜び溢れた老後を過ごしている。二度と笑う事は無いと思ったのに、笑顔で「まあ、笑えますもの」。神はどんなに良くして下さったかと。思い通りにならない事を通して、高慢が砕きに砕かれ、もしこの歩みで無ければ、今もどんなに高ぶっていたかと。もうただ感謝しかないと。神に無駄は一つもない。今通っている所は、素晴らしい益のためのご計画。
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私達のために、御子をさえ惜しまずに、死に渡された方が、どうして良くして下さらない事があろう。試練を通過中はトンネルの中で、真っ暗だが必ず出る。造り変えられて、時を経た後、通って良かったと必ず思える。忍耐とは、「神が良くして下さる」と信じること、この忍耐を働かせよう。


2004年12月04日(土)

「私は確信しています。死もいのちも・・力ある者も、高さも深さも、そのほかのどんな被造物も・・主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:39)

私達は時として大きな試練に会う。ある女性は大好きなクリスチャンの母親を亡くした。これまで与えられた母親の愛を、もう受ける事は出来ない。母親の笑顔も、又、励ましや、指針を与えて貰う事ももう二度とない。すべてが断ち切られてしまったと感じた。喪失感、寂しさ、悲しみにどっと襲われた。しかし、その瞬間だった。神の愛から断ち切られる事は、決してないのだとの思いが来た。何をもってしても永遠に・・。非常に心慰められた。悲しみや辛さの中にある時は、説教や御言葉を「自分の事として」しっかり聞く事だ。必ず御声をかけて下さる。周囲からの慰めも十分受け取る事だ。神は少しづつ癒しのわざをして下さる。
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今年父が召天、葬儀中はずっと祈っていた。終了後、遺影を持って車に。その時、かかっていた聖歌の歌詞が一言一言圧倒的な勢いと力を持って臨んで来た。主の臨在感に全身をおおわれた。言葉にできない絶大な慰めだった。必ず慰めの愛を現して下さる。


2004年12月03日(金)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)


ある牧師が若くして救われ、学校卒業後、神学校への入学を希望した。すると、父親の激しい反対に会い、幾ら話しても説明しても、わかってもらえないどころか、家を出る羽目になってしまった。どうしてよいかわからず、泣きながら祈りながらさまよっていると、教会が目に入り、牧師と話をした。そこで仕事をしつつ置いてもらえる事になった。翌年牧師の計らいで神学校へ入学が許され、今は自らも牧師として神の働きにあずかっている。みこころに従おうとする時に、障害が起こり、困難にぶち当たる。しかし、それが神の御旨であれば、神が道の無い所に道を造られる。自分の目の前に歩むべき道が造られて行く事を経験する。計画をお持ちの神を信頼せよ。
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自分の計画する道と、神様のご計画は、違う事の方が多いだろう。思い通りに行かなかったからこそ神様のもとに導かれたように、神様に委ねなければ、最善の道を知らないままで終わってしまう。


2004年12月02日(木)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」(ヨハネ4:14)


日照りで畑がひび割れするのを見る事がある。水分がいかに大切かを実感する。しおれ切った鉢の花にたっぷりの水をやると翌朝にはみずみずしく葉がピンと張っている。水の力を見る。ある男性がリストラになり、次ぎの仕事に就きたいと渇いていた。しかし、プライドが傷ついていて、自分の中に閉じこもって行ってしまった。段々、自分の心が干からびて、からからで、ひび割れした土地のようである事に気づいた。恵みを自分からシャットアウトしていたのだ。自分の心を開いて、神の恵みの水を受け取る事を示された。心を開いて行った時、乾いてひび割れた心に水分が染み渡り、もう一度潤って行く事を経験した。あなたは干からびていないか。
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御霊によって、私達は日々あたらしい命の泉を受けている。困難の時にも、希望を与えられ、弱った時にも慰められ、決して失望することはない。渇いているなら、神様との交わりの中で、豊かな潤いの中で、もう一度、伸びやかに歩いてみないか。


2004年12月01日(水)

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」(ヨブ42:3)

ヨブの出来事を通して、神との信頼関係という事を学ぶ。ヨブは持ち物を何もかも失い、自身の身体も腫物で苦しんだ。いわれなき突如襲って来た災難であった。実は舞台裏があり、神がヨブの信仰を認めて、サタンの攻撃を許可されたのだ。それほどヨブは見込まれていた。友人たちが来て、苦難の理由を捜し求める。原因は罪と言われ、言われるほどヨブは潔白を主張する。自らを義とする罪を犯した。神はヨブに苦難の理由は説明されなかったが、自然界に目をやらせ神の創造の偉大さ、力、栄光を見せられた。理由でなく、神ご自身を現わされた。ヨブはそれで十分であった。神を見た時、自らの状態が初めて見えた。そして悔い改めた。厳しい試練、苦悩の時に支えられるのは、「理由」でなく心からの「信頼」だ。
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なぜ、どうしてと、試練の時にはどこまでも理由を捜す。しかし、整然と理由を説明されたとして、それで苦しみを乗り越えられるのだろうか。信仰生活で一番大切なのは神との関係だ。その信頼関係を、試練の、苦しみの、見えない中で確実に育んで下さっている。