2001年04月30日(月)

    「人はうわべを見るが、主は心を見る」 (Tサムエル16:7)

   

 多かれ少なかれ、私達は皆、自分の容貌に
気に入らないところがあるものだ。
しかし、その事に捕らわれ過ぎると、「醜形不安
症」になる。これは、自分の容貌に不満のある人
達を苦しめ、普通に振舞えなくさせる。
私達は誰でも、変えたいと思う部分があるものだが、
自分のあるがままで満足するのを助ける二つの聖書
真理がある。まず、主は心を見られる。
神は私達が鏡の中でどんな風に見えるかよりも、心
がどう見えるかに、遥かに関心をお持ちだ。
次に、神が私達を形造られ、神は私達に「奇しい事
をなさて恐ろしいほど」だと言っている。
神がわけがあって、私達を、今あるように造られた
のだから、私達は神に感謝して当然なのだ。
最も大切な物は、私達と神との関係だ。
もし、私達の心がイエスへの信仰によって罪から
清められ、主の姿に変えられつつあるなら、
神の目から見て、私達は見栄えが良いのだ。
神は心の中にあるものを見られ、神をお喜ばせする
美しさは、御霊がお与えになることができる。


2001年04月29日(日)

「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな」(しん言3:5)

ある年、作物の出来が例年になく
良かった。農夫達は期待を持って
収穫を待った。ところが、収穫の直
前、雨が降り続いた。作物は土の
中で腐り、かびが生えた。収穫の
期間中ずっと雨で記録的な豊作の
予想はあっという間に消えてしまっ
た。失望落胆した農夫が言った。
「なぜだ。何が間違っていたのだ」
人は挫折や困難に直面すると、い
つも「なぜ」と尋ねる。その疑問は
物事は何一つ偶然に起こらないと
いう事を表わしているので、意味
のある大事なものだ。神がすべて
を支配しておられる。サタンも人も
神の許可以上には行けない。ヨブ
記を見ると「なぜ」に気を取られ過
ぎてもいけない。神の理由はしば
しばご自身の内に隠されている。
信仰を成長させるために、私達の
理解よりも高く、生まれつきの見方
を遥かに越えたところにあるのか
も知れない。神の目的がわからな
い時でも、その状況の中で、従順
に神に信頼せよ。


2001年04月28日(土)

「私がまだ祈って語っているとき・・ガブリエルが・・私に近づいた」(ダニエル9:21)

ダニエルは規則的に祈ろうと決心し、
ライオンの穴に投げ込まれた人物だ。
彼がイスラエル補囚が70年後終る
のをエレミヤの預言で知った。ダニ
エルは補囚の終りを遅らせないで下
さいと祈った。イスラエルの罪を告
白し、神の介在を求めて祈った。ま
だ祈っているその時、神は答えを示
されるだけでなく、答えを告げるた
めに天使ガブリエルを遣わされた。
神は祈り終えてもいない内に、その
祈りを聞き、すぐに答えと共に、ガ
ブリエルを送って下さったというの
だ。しかし、別の場合は、神が答え
と共に送った御使い到着に3週間か
かったと言っている。ダニエルを通
して祈りについて、大事な教えを学
ぶ事が出来る。神は時には直ちに答
えを送られ、時には遅れる事もある
という事だ。どちらにせよ、神は常
に答えて下さるのだ。神は子達の叫
びを聞いておられ常に私達の必要を
満たして下さる。祈りの答えは、は
い、いいえ、待てのどれかだ。


2001年04月27日(金)

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し…なさい」(エペソ4:29)


 批判される事が好きな人はいない。悪口であれば、
 なおひどく傷つく。
パウロはこのような人々を、高慢な者、殺意ある者、
悪事を企む者、神を憎む者と一緒に挙げている。
陰口を言う人とは、陰で噂を広める人であり
そしる者は人のことを意地悪く話す人のことだ。
彼らは車で人をひきはしないが、言葉で人をひき倒
している。このような破壊的行為をする人は、自分
の行いが矛盾していることを悟らず「愛に偽りがあ
ってはなりません」を心に留めていない。
これは「愛を偽造してはならない」という事だ。
陰険な噂話を悔い改め、聖い噂話に変えるべきだ。
「彼が救われて、全く変えられたのに気づいたかい」
というふうに。害毒をもたらす言葉には、しっかり口
を閉じよ。
しかし、慰め、励まし、賞賛の言葉はどんどん語れ。
私達の言葉は人を建て上げる力も、引き倒す力もある。
あなたの唇を守れ。



2001年04月26日(木)

   「自分の宝は、天にたくわえなさい」」(マタイ6:20)

  
 有名なスポルジョンが、バビロンを征服し、補囚
のユダヤ人を開放したクロス王についてこんな話を
した。ある訪問者がクロス王の庭をほめたたえて、
この庭は自分に大きな喜びを与えてくれる、と言っ
た。するとクロス王は「そう、でも私が感じる喜び
ほどではないでしょう。なぜなら、私自身で一本一
本植えたのですから」と言ったそうだ。
スポルジョンは言った。
「ある聖徒が他の人よりも天国でより大きな充実感
を持つ理由の一つは、彼らが天国のためにより多く
の事をしたからだ。」
私達が天国へ行った時、誰かが言ってくれるだろうか。
「私はあなたに心から感謝しています。私が今日ここ
にいるのは、あなたの証しと招きのおかげです」
天国の喜びは、人々をキリストへ導く手助けした者に
とって、最も豊かな者となる。
だから、罪に失われた人々をイエスに導くために、な
し得る限りの事をしよう。これこそが、「天に宝を積む
事」だ。天で、キリストに導いた人に会えるのだ。


2001年04月25日(水)

「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」 (Uペテロ3:18)

色々な誤った道から導き返された人々
がいる。破壊的な人生から救い出され
た人達が人生を再建するのに時間がか
かるのでひどく苛立っていた。なぜそ
んなに焦るのか。彼は言う「私は人生
を長く無駄にしてしまった。もうこれ
以上無駄にしたくない」しかし、ゆっ
くり成長する事は時間の無駄ではない
聖書は言う。毎日の生活の中で一連の
訓練を受けるには時間と勤勉が必要だ
と。私達への主のゴールは完全な者に
なる事だが、生涯通しての努力であり
手抜きで到達する事などあり得ない。
すべてのやり涯いのある仕事は時間が
かかる。成長するために残りの時勢が
ある。神は忍耐あるお方。ご自身のわ
ざが果たされるまで決して諦められな
い。私達は未完成だが、ある日神は完
成して下さる。私達はそれで十分だ。
霊的成熟に近道はない。


2001年04月24日(火)

  「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです」8ヘブル5:12)

  
 子供が赤ん坊の時は、ミルクを与える。離乳食となり、
少しづつ柔らかい物を与えて行く。やがて、子供は成人し
独立する。子供が家を訪ねて来る時にはステーキ等の食事
を用意する。彼らは成長したのだ。ミルクやベビーフードは
赤ん坊にとって大事な物だ。しかし、成長したなら、堅い食
物をたべる。同じ事が霊的成長にも言える。
例えば、ピアニストにしても、最初は簡単な曲から練習し、
段々難しい曲へと進んで行く。何年もの練習が必要だ。
上達して行かないなら、プロのピアニストにはなれない。
御言葉は信仰の成熟をめざして進む事を勧めている。
私達は霊的成長へと進むべきだ。
神の言葉という「肉」を味わい、学んだ事を実践に移さなけ
ればならない。それが成長するための唯一の道だ。
新生は一瞬、霊的成長には一生かかる。
成長目指して進むべきだ。


2001年04月23日(月)

  「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください」(詩篇5:3)

   
 キリストを信じる者は、皆、霊的戦争に巻き込まれている。
だから、無頓着に一日を始める事はできない。こんな言葉がある。
「アフリカで毎朝カモシカが目を覚ます。カモシカは、一番速い
ライオンよりも速く走らなければ、飢えて死んでしまう事を知っ
ている。あなたがライオンであるか、カモシカであるかは問題で
はない。太陽が昇ったなら、走っていた方がよいだろう」
「もし、あなたが主を求めていないなら、悪魔があなたを求めて
いる」
悪魔に攻撃される前に、戦略について考えなければならない。
主を、朝早く求め「悪魔が、ほえたける獅子のように食い尽くす
べきものを捜し求めながら、歩き回っている」事を覚えなければ
ならない。ダビデは神の助けと守りを求めて朝はやく主のもとに
来た。主が絶対に必要である事を忘れて、新しい一日を始めてし
まわない様にしよう。
「戦闘準備」は、悪魔の攻撃に備える最高の方法だ。


2001年04月22日(日)

「あすのための心配は無用です」(マタイ6:34)

「1日に1度」という標語を聞いた事
があるだろう。この標語はよく、アル
中患者を回復させるのに、永遠に
禁酒していなければならないのでな
く、今日1日を飲まなければよいの
だという事を思い出させるために使
われる。1ケ月いや1週間でさえも、
アルコール無しでは無理だと、彼ら
には思える。しかし、成功の鍵は、
今日1日、一杯に対してノーという
力を求めて神に頼る事なのだ。
「一度に1日」生きるという事は、聖
書全体に織り込まれている。神は
イスラエルに毎日、マナを与えた。
天の父なる神のあわれみは日毎に
新しい。イエスは弟子達に「日毎の
糧」を求め、明日の心配をしないよ
うにと教えられた。命と平安の鍵だ。
大変な状況に出会う時、絶望へと
押しやられる。最後までやり通せ
ないと思う。しかし主は「日々、重
荷を担われる」日毎の力、日毎の
糧、日毎の光、耐えられないように
延々と続く道のりを行く時、神は私
達に言われる。一度に1日、神に頼
って進むことを。







2001年04月21日(土)

「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている」(しん言15:3)

盗聴装置というのを皆、知っている。
事務所、ホテルの部屋、電話は傍受
されて、どんな音でも拾われてしまう
可能性がある。これは大変小さいの
で、簡単に隠せる非常に感度の良い
マイクによって出来るようになった。
政府高官、戦略的地位にある実業家
達は特に見知らぬ場にいる時には、
自分の言葉に非常に気をつけなけれ
ばならない。盗み聞きされているかも
知れないと承知しているなら、口に出
す前に必ず考え直す事だろう。あなた
は1日中する事すべて、言う事すべて
を神が見ておられ、聞いておられると
考えた事があるだろうか。神の前に
はすべて裸だ。これは真剣に考えさ
せられる。私達の生き方にとても深
い影響を与えるはずだ。又、慰めで
もある。なぜなら、神は常に助け出そ
うと立ち上がって下さるからだ。今度
あなたが誘惑に会ったり、困難に出
会った時、神が見ておられる事を思
い出そう。




2001年04月20日(金)

   「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪である」(ヤコブ4:17)


 子供は生活のルールを破って、親を試して来る。
親に挑んで来る。子供がいずれルールを試してくる
とわかっていれば、彼らが挑戦してきても驚かない。
子供達はある種のテレビ番組を見る事や、夜更かし
失礼なものの言い方、兄弟喧嘩がいけないのは知っ
ている。なのに、そうするのだ。
しかし、これは私達が時々、天の父なる神に対して
時々取る態度と変わらない。私達は何が正しく何が
間違っているかを知っている。
聖書を読んでいる。聖書が心に罪だと示しているの
を感じている。私達はわかっている。それなのに神を
試すのだ。私達がすでに知っていることを行動に移す
なら、神はどんなに喜ばれるだろう。御霊が告げている
なすべき事を心に留めよう。それによって、愛が真実
である事を主に示す事が出来る。


2001年04月19日(木)

『ダビデは神に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました」』(T歴代21:8)


 神は私達の心の奥を見ておられる。人前には
道徳的な生活をしているように見えても、心に主を
喜ばせない態度を密かに抱いているかもしれない。
霊的な罪は目に見えず、心に隠されているから、
それが何か外面的な行為となって存在が明らかにな
るまでは、無視してしまいがちだ。ダビデには二つ
の罪があった。バテシバへの情欲は姦淫と殺人に至り
自分自身にも痛みを、イスラエルにも不面目をもたら
した。また、人口調査を行うというサタンの誘惑に負
けた。自分の軍事力を誇っていたからだ。
神がもたらして下さったもので、神に信頼する事から、
彼自身の権力と能力への信頼という巧妙なごまかしが
あった。外面には見えないが、霊の罪、特に高慢の罪
に対して、充分警戒しないといけない。
人生の旅路で、またその最後でも、私達をつまずかせ、
転ばせ倒してしまう。高慢は多くの人々がつまずく石だ。


2001年04月18日(水)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ6:34)


男性がある山を超えようと、車を走ら
せていた時だった。快適に走っていた
ら、突然、目に見える道路が見えなく
なってしまった。山頂が連なり、高速
道路をさえぎっているように見えたの
だ。どうすればよいのか。とにかく彼
は、進み続けた。ついに、道路が行き
止まりのように見える所まで達した時
急に道が曲がり、前と同様に高速道路
が広がった。そのような曲がり角が何
度もあって、前へ前へと進み続けると
とうとう山脈の反対側へ出て、山越え
が出来た。私達の人生も同様だ。時に
目の前に障害物がぬっと現れる。病気、
事故、経済的損失、失業・・恐れと不
安で一杯になり、立ち止まってしまう。
しかし、信仰によって進み続けるなら、
神は私達の前に新しい道を開いて下さ
る。心配する事の多くは実際には起こ
らない。しかし、問題が起ったとして
も、神がそこにおられ、道を示して下
さる。明日を神に信頼し委ねる事によ
って、愚かな思い煩いを避ける事がで
きる。


2001年04月17日(火)

  「神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげまた、私たちにもゆだねてくれました」(Uコリント8:5)



 マケドニアの兄弟達は、苦しい迫害の試練のなかに
あって、極度の貧しさに関わらず、力以上に捧げました。
富みだけでなく、自分自身をも何もかも主に捧げました。
なぜ、そのように出来たのでしょうか。心に喜びがあった
からです。主への感謝が満ち溢れて、具体的な行いとなっ
て表れたのです。神様への愛は、兄弟姉妹への愛によって
量ることが出来ます。神様を愛している人は必ず兄弟姉妹
を愛します。これが死から命へ移ったしるしだとはっきり
神は言われます。私達は何に時間を使っているでしょうか。
あなたが何に時間を使っているかで、あなたが何を愛して
いるかを示しています。あなたは自分の快楽の為に、自分
の欲望の為に時間を使っているでしょうか。
かの日にあなたの使った時間に対して報いがあります。
気前の良い人が信仰深いとは限りません。
しかし信仰深い人は、必ず物惜しみしません。
時間を富みを労力を必要としている所へ必ず捧げます。
あなたの富と時間の使い方をあなたの本心を表しています。


2001年04月16日(月)

   『そしてイエスは言われた「聞く耳のあるものは聞きなさい」』(マルコ4:9)

 

 神が生活のすべてを支配し、日常生活の中で
語りかけ、導かれるのを知れるのは嬉しい事だ。
ある若い女性の証しだ。母親と普段から気が合
わなかった。よくもめていた。ある時口論になり
ピアノの練習を強いられた。彼女は口論に負ける
のが悔しかった。屈伏するのが嫌いだった。
練習すべきはわかっていたが頑固に自分のやり方
で弾き始めた。ちゃんと弾かず、わざと大きな音
を立て、わざと間違えて弾いた。母親への反抗だ
った。しかし、その曲を弾いている時、手を止め
てしまった。なんと自分が賛美歌を弾いているこ
とに気が付いたのだ。
沢山の中から「主は言われた地の上に平和がある
ようにと」を弾いていた。
神を感じた。自分に手を差し延べられている主を
まさに感じた。日々の生活を導いておられる主を
覚えた。心が引き締められた。神の声に耳を傾け
御顔を仰ぎ求めたいと思わされた。


2001年04月15日(日)

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ1:13)


ある男性が子供の頃、父親の虐待に会
っていた。しかし、それが虐待だと長い
間わからなかった。皆、自分の父親の
ようだと思い込んでいた。普通だと思っ
ていた。愛情深い親がいるなどと知ら
なかった。同じ目に会った人がなぜ父
親を憎まないのかと不思議がった。
自分は神に出会い、そしてもうそこに
はいないと説明した。父親が死んで10
数年、父親のようになるまいと、全力
を尽くして来た。しかし、努力すればす
るほど、父親に似るのだった。その時
に、イエス・キリストに出会った。それ
以来、キリストのようになろうと全力を
尽くした。この焦点の変更がすべてを
変えた。勿論、失敗はするが、しかし
神の力によって、幼い心と精神を破
壊する言葉や行動を差し控える事が
出来る。自分はもはやそこには住ん
でいないと証しできる。神は暗闇から
救い出して、御子の支配の中に移し
て下さったのだ!









2001年04月14日(土)

「私は、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害です。したからです」(使徒15:9)

アダムは神から禁じられていた善悪を
知る木の実を食べた時、それをエバの
せいにした。エベは蛇のせいにした。
この時以来、人間には他人や自分の手
に負えない環境のせいにして、自分の
行動の責任を逃れようとしてきた。米
国で政府高官がこう言った。毎年、
160万もの中絶は、中絶に反対する
人々が赤ん坊を家に迎え入れてくれた
ら、無くなるだろうにと言った。この
論法に従えば、自分の不都合から中絶
を選んだ母親には何の責任も無くなる。
「罪を犯した者に責任は無い。責めを
負うべきは、その人とその罪を罰っそ
うとする者だ」になる。神は、私達が
自分のした事に責任を持つべき存在
だと考えておられる事と、何と異なる
ことだろう。パウロは、ひどい自分の
罪を認めたその時、主がどんなに恵み
深いお方を悟ったのだ。自分の罪に言
い訳し、弁解し、自分を正当化し、責
任転嫁している内は、罪の赦しは決し
て無い。まず、自分の責任を認め、自
分の罪を認めよ。


2001年04月13日(金)

   「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1:3)

   
 テニス界のスーパースターである一人の選手が
エイズで亡くなった。手術の時の輸血で感染したも
のだった。彼はクリスチャンでありコート内外で
多くの人達に励ましを与えていた。
彼は自分の病気に、自己憐憫に陥り、惨めになる
事もできた。しかし、彼は感謝し続けたのだった。
彼は「なぜ自分がこんな目に?」でなく、目を上げ
目を全く転じて、沢山の自分への身に余る祝福を考
えた。自分の生涯の祝福を思った時「なぜ私に」
だった。テニス界での成功、素晴らしい妻との幸福
に満ちた家庭…なぜ自分をこんなに祝福して下さる
のかわからないと言った。
この態度には深く教えられる。すぐに神に文句を言い
愚痴を言い、つぶやく私たちを恥じ入らせる。
どんなに良きもので神は私たちを満たして下さった事
だろう。救いを与え、家庭を与え、神の言葉を持ち、
絶えず聖霊の慰めがあり、永遠の命の保証がある。
神の祝福を数え「なぜ私に」と尋ねよ。
賛美に変わる。

   


2001年04月12日(木)

    「立って、このヨルダンを渡れ。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヨシュア1:1)


 主が私達に新しい働きを委ねられる時、それを成し遂げるに
必要な力も下さる。ウェスレーは言った「初期の困難な働きの
中で、弟は、『もし主が翼を下さったら飛ぶんだがなあ』
わたしは答えた。『もし主が飛べと言われたら、翼を下さると
思うよ』」ヨシュアは大変な責任ある立場に立たされた。
彼の前に立ちはだかる莫大な問題のために彼は恐れおののいた
事だろう。一体どうすれば、偉大なモーセの後を継げるのか彼
自身の力では不可能だった。しかし、神が共におられた。
そして、雄々しくあれ、恐れるな、おののくな、神がどこにで
も共に行き、共にいるとの御言葉の約束を下さった。
神からの保証だった。もし、あなたが新しい働きを与えられたり
特別ななすべき事を示されたら、喜んで応じる事だ。
必要な力はことごとく与えられるのだから。
あなたは忠実に行え。そうするなら、神はあなたに忠実に約束を
果たされる恐れるな。


2001年04月11日(水)

「あなたがたの贈り物は、神が喜んで受けてくださる供え物です」(ピリピ4:18)


ある人が家の整理をしていた時に、忘
れていた大きな封筒を見つけた。それ
は以前セミナーで教えた青年達からの
感謝のカードの山だった。見ていると
なつかしい思い出がよみがえった。そ
れを通して、自分が人に感謝を表わす
事の大切さを教えられたのだった。
パウロはピリピのクリチャン達に感謝
のカードを送った。彼の伝道旅行を経
済的に支えた唯一の教会だったので、
お礼を言いたかった。それを具体的に
言った。彼らはパウロ必要を満たした。
そして、霊的な実をもたらし、神を喜
ばせ、神が彼らの必要を満たして下さ
るという約束にまで導いた。感謝は二
つの働きをする。送り手が感謝をする
のを助け、受け取り手には自分がした
事がどんな意味があったのかを知らせ
る。素晴らしいコンビネーションだ。
今、あなたは誰かに感謝の言葉を告げ
るべきではないか。あなたに愛と真実
を示したくれた人によって、主はあな
たに何をされただろうか。彼らのため
に上よりの祝福を祈れ。


2001年04月10日(火)

『ひとりのマケドニヤ人が「マケドニヤに渡って来て私たちを助けてください」と懇願するのであった』(使徒16:9)


 使徒パウロがマケドニヤ人の幻を見た事が、
世界の歴史を変えた。その男の「マケドニヤに
渡って来て下さい」という懇願を心に留め
たパウロは、自分の計画を変更した。そして、
ルデヤが救いに導かれたのもパウロがその幻を見て、
マケドニヤに渡ったからであった。
西欧世界への伝道が始まったのもここだった。
すべてのクリスチャンは「マケドニヤ人」がいないか
注意しているべきだ。もしかすると、あなたのすぐ
近くにいるかも知れない。
救いを求めて叫んでいるのにあなたは全く気づいてい
ないかも知れない。いつもそばにいる会社の同僚、学校
のクラスメイト、近所の人々、親戚の人々…。
その形も様々だ。福音への敵意に覆い隠されている事もある。
しかしどんな表現の形であっても「助けてください」との
叫びは同じだ。あなたは渡って行って助ける必要がある。
その備えをせよ。


2001年04月09日(月)

わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:32)


クリスチャンには「弾力性のテスト」がある。
信仰の強さは、落下の後でどのくらい跳ね返る事が
できるかで決まる。失敗はつらいものだが、キリス
トへの私達の献身を再確認する機会となるのだ。
使徒ペテロはキリストの一番弟子であったが、自信
過剰でつまづきキリストを裏切り強く否定すること
になる。主はそれをすでに御存知であった。
しかし、主はこのペテロの失敗の向こうにある悔い
改めと回復を見ておられた。主がペテロに、信仰が
無くならないように祈ったと保証されたのは、こう
言われたことだ「ペテロ。あなたは落ちた後、跳ね
返るよ」あなたが霊的につまづいているなら、諦め
てはならない。キリストはあなたを回復することが
お出来になる。ひどい失敗であっても、あなたは、
もう一度主のお役に立てる。あなたは続けること
ができる。神の許しがあるからそうできる。
倒れることがあるのは、見上げることを学ぶため。
再び立ち上がることができる。


2001年04月08日(日)

「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、彼らはあなたがたを永遠の住まいに迎えるのです」(ルカ6:9)


お金にも色々な使い方が出来る。しかし、
今、世界中で数え切れない人々が家がな
くて、食べる物すら無くて飢えている。
お金の使い方に関して考えさせられる。
私達のお金に対する態度と使い方は、霊
的状態のバロメーターだ。私達が現在の
頃だけを考えているか、賢く永遠を考え
ているかを明らかにする。ある管理人の
話が出て来る。主人の財産を乱費して解
雇される。そこで債務者に支払いを軽減
した。そのお陰で職を失っても債務者達
に助けてもらえ、物乞いする必要がなか
った。主人は全額返って来なかったのは
おもしろく無いだろうが、彼の抜け目な
さをほめた。お金を永遠を見て、使う知
恵を教えている。福音のために使える。
すると天国で歓迎してくれるのだ。お金
幸福や永遠を買う事は出来ない。しかし、
この世界で、キリストのために投資する
なら、永遠の配当がつくのだ。


2001年04月07日(土)

「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている」(ローマ7:15)

メジャーリーグの記録に残るであろ
う、素晴らしい試合が終了しようと
していたところ、たった一つの失敗
で帳消しになってしまった。26人
のバッターをアウトにして、百年の
歴史のメジャーリーグ11人目の完
全試合達成投手にあと一人だった。
が、ヒットを打たれてしまったのだ。
私達も同様だ。朝には正しく生きよ
うと決心して始めるが、気づくと罪
を犯している。「心にかなった者」
と神に言われたダビデは姦淫と殺人
の罪を犯してしまった。パウロも偉
大な伝道者だったが、自分がしたく
ない事をしてしまうと認めていた。
私達はしたくないが、失敗してしま
う者だ。しかし、ここが重要だ。失
敗したら、神に罪を告白し、神のあ
われみを受けるのが私達のなすべき
事だ。そこからどうするかだ。悔い
改めて、再び立ち上がり、成長し続
ける事が出来る。失敗から学ぶのだ。
その時、成長し続けて行く事が出来
る。


2001年04月06日(金)

「私は一つのことを主に願った。私のいのちの日の限り主の家に住むことを」(詩篇27:4)


 あなたは引っ越しは経験した事があるだろうか。
ある人は一生同じ家に住む。九十年も同じ家に住
む人もいる。ある人は変化を好む。同じ家に住む
ことは出来ず、家を変える人々もいる。
七十回も家を変えた夫人の話も聞いた事がある。
しかし、私達が常に住む事を願うべき一つの場所
がある。それは主の臨在の中だ。ダビデにとって
主の家とは幕屋の事で、その至聖所において、神は
イスラエル人の中に住んでおられた。
ダビデは自分が神の家にいる時、敵に対して安全だ
った。また、幕屋を見ると神が真実に実在される方
であると思い起こすことが出来た。同じように今日、
聖霊がすべての信者に宿っている。私達を造られた
神が、私達の内に住んでおられるのだ!
私達のただ一つの願いが日々もっともっと主のご臨
在を楽しむことであるように!
ただ一つの事と願ったダビデのように!
いのちの日の限り、神のご臨在を楽しめるように。


2001年04月05日(木)

「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」(ヨハネ10:3)

    
 ある牧師が導きについて説教を頼まれ、準備していた。
まずコンコーダンスで「導き」という言葉について調べた。
導きを約束するみことばが沢山あるものと思っていると、
驚いた事にその単語はなく、代わりに道案内という語があり
神御自身が民を導いて案内するという約束が数知れずあった。
これは新たな洞察を与えてくれた。盲人が必要とするのは盲
導犬であって、指図犬ではないのだ。例え犬が話せたとしても
傍観者で、「ほら!気を付けろ。穴だ。縁石に注意!」
と叫んで警告するだけなら、役に立たない。この犬は道筋に
連れ添い、その目となり、安全に舵取りしてくれるのだ。
素晴らしい事に、神様は単に指図するだけでなく、連れ添って
下さるのだ。目が曇り、道が暗く、どうしてよいのかわからな
い時、共に寄り添って歩いてくれる羊飼いなのだ。
日々キリストに従うなら、必ず寄り添い歩みすべての必要な導
きが与えられる。


2001年04月03日(火)

「祈るとき、異邦人のように同じ言葉を、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれるとおもっているのです」(マタイ6:7)

 よく機械によって川底の泥をすくいあげている
光景を見るだろう。ある時、操縦者はすくいあげた
汚泥を積み上げようとしていたが、汚泥はずり落ちて
川に流れ込んだ。機械が壊れたようになった。
操縦者は何が起こっているか気づかず愚かにも作業
を続けていた。霊的訓練で同じ危険にであう。
何が起こっているのか、本当に重要なのは何かに気
づかずに機械的に祈ったり、奉仕したり礼拝したり
している。空虚な霊的生活は無意味だ。
しかし、機械的な精神生活の型に陥る事があり得る。
そうではなく、信仰を新鮮に保ち、主との生き生き
とした交わりが機械的信仰生活を救ってくれる。
私達は毎日変えられていくよう召されている。
生き生きとした変革だ。日々の生活は空虚な日課に
なっていないか、無益な活動に我を忘れないで、神の
御顔を常に慕い求めることができるように。


2001年04月02日(月)

愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し かしらなるキリストに達する事ができるためなのです」(エペソ4:15)


ある女性が職場で大変な忍耐を強いられていた。
いつも自分はクリスチャンだからと我慢していた。
隣の人は無断で彼女の文具やファイルを持ち出し
ては決して元に戻さなかった。前の男性は音楽を
かけて仕事をしていたが、自分は気が散って仕事
ができなかった。いつも誰かに腹を立てていた。
そんな時、礼拝メッセージで牧師から「愛を
もって真理を語る」事の大切さを教えられた。
そして祈りながらよく考えた時、隣人の行為を助
長し怒りながらそれについて何もしない事で自分
は罪を犯していると気づかされた。
しかし、人に好かれたいので、言う事を思うと胃
が痛くなったし、相手が怒るだろうと恐れた。
しかし勇気を出して言った時、相手は怒らないど
ころか、その行為を止めた。それ以来、神様に導
かれた事は口に出して言えるようになった。
時にはっきり言うことが必要である。
愛と祈りを込めて。