2005年01月31日(月)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)



毎日同じ事の繰り返し、これが神の御国のために、福音宣教のために何の役に立っているのだろう。単調な日々の繰り返しに霊的失望感を味わっているか。しかし、神の御旨は私達がおかれた所で小事を忠実に果たす事だ。忠実に仕事をし、掃除洗濯をし、学生は勉強をしなければならない。あなたのしている事は無意味で時間の浪費のように見えるか。もし、あなたの今している事を誰もしなければ、どうなるのだろう。生活が回って行かない。あなたの今いる場所は神の宮だ。神はそこに共におられ、日々の仕事を祝福して下さる。無意味なものは一つもない。あなたは割り当てられた仕事にベストを尽くそう。神はあなたを通して、神の栄光を現して下さる。
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与えられた場所があり、そこで出会えた人がいる。するべき仕事があって、なすべき家事がり、祈るべき課題もある事、このすべてに感謝します。新しい一週間、何をするにも神様あなたにするように仕えて行けますように。


2005年01月30日(日)

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」(ヨハネ21:15)

信仰生活では、「感情」の正しい理解が必要だ。信仰は感情によらない。感情に振り回されては、信仰生活不可能だ。丁度、店先で駄々をこねて泣きわめく子供と母親の関係だ。子供は「感情」で、母親は「意志」だ。どれほど混乱し荒れ狂っていても、構わず、母親が毅然と対処するなら、子供は母親に従い秩序を得る。もし逆に母親が子供の言うままに振り回されると、無秩序な悲惨な状態になる。聖書の言う愛は、一貫して「意志的愛」だ。意志愛でわたしを愛するかと言われている。感情ではない。感情が伴わなくとも、「意志」で従うなら、感情はついて来る。そして平安を得る。感情は横におき、まず意志で従う事だ。感情自体はどうこう出来ない。秘訣は意志だ。そうする時感情は変わる。嫌いな人には、意志で愛を表すなら後で感情はついて来る。
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感情が伴わなければ偽善だと思うが、それは誤りだ。聖書は感情は言っていない。聖書の愛はすべて意志だ。感情ではない。だから従う事が出来る。感情を幾ら変えようとしても絶対に変わらない。意志で従う道が備えられていて、そうするなら感情は変わる。


2005年01月29日(土)

「隠れている私の罪をお赦しください」(詩編19:12)

信仰生活で、年数がたつと簡単に聖書知識は増して行く。祈りの言葉も豊富になり、外側は幾らでもそれらしく出来る。内と外が違って来る。内実が無いのに、外側は良いクリスチャンに出来る。しかしダビデは隠れている罪を赦されるよう、傲慢の罪からの守りを祈った時、神の御前に正直であった。人に良く見られたいがため、外側を良く見せてしまうか。この誘惑は強い。内と外を一致するためには、絶えざる神の力が必要だ。神の御前に正直である事が必要だ。都合の悪い事を隠す事なく、おおうことなく、常に神の御前に自分をさらけ出し祈って行くのだ。偽善から守られ、実質の伴った信仰生活へと導かれる。自分の力で信仰の歩みは不可能。自らを明け渡して行くなら、内住の御霊が内側からキリストの形へと形造って行って下さる。
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人からよく見られたいという、肉の誘惑と攻撃は凄まじい。認識しておく事は大切だ。神の前でなく、人の前に生きてしまう。人が神になり、取り繕い演技する。それは神から全く離れており、ますます離れて行く。ストレートな罪でないので気づかない偽りの罪だ。正直であり続けるためにも、神に拠り頼む必要がある。


2005年01月28日(金)

『「私のそむきの罪を主に告白しよう」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました』(詩編32:5)



王であるダビデはその地位を利用して、ウリヤの妻であるバテシバを王宮に召しいれ姦淫の罪を犯した。バテシバも自分には夫がいると拒否すべきであった。罪を覆い隠すためにウリヤを殺害、罪に罪を重ねた。罪に煩悩する苦悩の日々を過ごす中、神は預言者ナタンを遣わされ、ナタンはダビデの罪を正面から指摘した。その時ダビデはアダムのようにエバに責任転嫁をしなかった。バテシバにも罪はあったが、いっさいの弁解も、言い訳もせずに、自分の罪を潔く認めた。これはがダビデの素晴らしいところだった。神は罪を赦し回復させて下さった。人は蒔いたものを必ず刈り取る。ダビデはその後苦しい刈り取りをしたが、「信仰の人」として名を連ねている。
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犯した罪に対し、肉は瞬時に自分を正当化し、言い訳や責任転嫁をはじめる。けれどそれで真に平安が来るだろうか。神様に自分の罪を認め、言いあらわす時、はっきりと神様の赦しを確信して平安を取り戻していく事を経験する。




2005年01月27日(木)

「あなたがたのところへ行としました・・一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました」(Tテサロニケ2:18)



サタンの最大の成功は何だと思うか。それは自らをきれいに隠す事、忘れさせる事だ。サタンを意識したのはいつか?どれだけの時間忘れ去っていたか。それが最大の攻撃だ。サタンに気づいた時、光があたったという事、神の働きだ。光のもとに出されたサタンはもはや敗北だ。闇にのみ働け、闇に暗躍するサタン。光のもとに出す事だ。失敗し過失を犯したなら、神の御前に正直に認め悔い改める事だ。弱さがあるなら、それを神の御前に持ち出し、祈る事が出来る。そうするなら、サタンに足場を与えない。罪を隠しているか。サタンはそこに足場を得る事が出来て、私達はますます罪の深みにはまって行く。神の前に、光に罪を出せ。闇の勢力、サタンとの戦いだ。
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私たちにいつも自分だけを見させ、周囲ばかり見させるサタン。ただ神様に目をむけ、自分の罪を示されるよう、祈り尋ねていこう。神様との正しい関係のみがサタンの誘惑から守られる道だ。


2005年01月26日(水)

「用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた」(マタイ25:10)

家の鍵を忘れた事がある。しばし暗い外で待ったが、家族が戻るや、暖かい家の中で身も心も温められた。少しぐらい外で待つのは良いが、ある日完全に戸が閉じられる。再臨への備えはよいか。日々に主と交わり、ともしびは燃えているか。消えかかっていないか。日ごとに主と親しくなっているか。娘達の間で、油は売ったり買ったり出来なかったように、私達と主との関係や愛や信仰は、人から貰えるものではない。親子でもしかりだ。自分と主との個人的関係を培っているか。これに尽きる。油を備えるとは、自らの生涯が聖霊に満たされる事を求め、御霊に導かれる事を求める事だ。そのためには、主との関係を深めていく事、地道に主との交わりを積み重ねて行く事だ。人には決して見えない日々の地道な事だ。突然親しくはなれない。日々大切に主とお会いし備えよう。
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主が迎えに来て下さり、主と顔と顔を合わせる。この事を真剣に考えよう。大いなる喜びか、恥ずかしいだろうか。流されてこの世の事だけにかまけているか。何が一番大切だろう。今が、心を主に向ける時だ。チャンスは今しかない。心を、生活を備えよう。主を一番にすえて行こう。


2005年01月25日(火)

「ひょうがその斑点を変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう」(エレミヤ13:23)


アルコール依存症の人は、どこに行っても誘惑があるから止められないという。環境が悪いと言う。しかし、止められない習慣の心の底を見るなら、実は止めたくないのだ。神はいつも「良くなりたいか」と問われる。変わりたくない自分がいる。罪から真に自由にされたいと思うなら、可能だ。神の力によって、解放される事ができる。本当の自分の姿を認め、自分の罪と無力を認め、神に拠り頼むなら、神が自由にして下さる。しばしば、私たちは罪を憎んではいない。むしろ愛している。罪とたわむれている。罪には一瞬の快楽があり、心地良い。誘惑が苦しければだれも誘惑されはしない。甘く快いから誘惑であり誘われてしまう。良くなりたいかと主は問われている。
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罪は、悪い事だと知っている。知りながらいつまでも悔い改めず、罪の奴隷となっているのは、罪を愛しているという他ない。人を愛したほうがいいのに愛せないのではなく、自分に都合の悪い人は憎んでいたい。今日「良くなりたい」と主に宣言しよう。


2005年01月24日(月)

「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」(哀歌3:40)


山で迷った時は、道をはずした地点までまず帰る事、それが遭難を免れる原則だそうだ。しばしばせっかくここまで来たのだからとそのまま進み、又、道を捜して回り力尽きて、遭難に至るそうだ。ダビデは道をはずれてしまった。しかし、彼は正しくもとの地点まで帰った。自らの罪を認めて悔い改めたのだ。罪は赦されきよめられた。ダビデは再び立ち上がって前進する事が出来た。常に人々を慰め励ますあの詩編を書く恵みを与えられた。もし今、あなたが平安を失っているなら、元の地点にまで帰れ。みこころをはずれているなら、立ち帰れるのだ。再び喜びと平安を返して下さる。再び立ち上がって前進する事ができる。
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常に前進したいなら、迷っていてはいけない。正しい道は主のみそば近くいることだ。迷った時には、立ち止まり、主に聞き、点検してみよう。私たちの行く道のどこにおいても主を認め、同伴して行く人生でありますように。


2005年01月23日(日)

「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8:36)

「自由」を何でも好き勝手にする「放縦」と勘違いしていないか。今のトレンディドラマはてき面だ。自分の気持ちに正直に生きるのが真実な事、良い事だと不倫をする。それは真実などでなく、わがまま、自己中心という事だ。真の自由とは、どんなに伴侶に不満があろうとも、自分を捨てて意志の愛で、伴侶を愛して行く事だ。その時、神はその結婚を大きく祝福して下さり、愛を与え、必ず神が建て上げられる。自由とは、自我に死んで、御霊の導きに従うところにある。肉欲は実はサタンの奴隷だ。わがままな欲望を遂げ、秩序を破壊し、その行き着く先は死だ。自由とは自分の欲望が思い通りになる事ではなく、自分に死ぬ事だ。そこには真の御霊の喜びと平安がある。肉欲を遂げる事と自分に死ぬ事は大きな違いだ。神に従おう。
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したい事をし、自分の思い通りになる事が自由だと勘違いする。実はそれは肉欲で、ますます古い罪の性質にがんじがらめだ。常にキリストか自分か、どちらを喜ばせるかの選択だ。今日も目の前の一つ一つの判断、決定に自我でなく主を選べるように。心の底に本当の喜び、御霊の喜びを経験する。


2005年01月22日(土)

「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」(詩編141:3)

延々自分の事だけを話す人がいる。人の話は聞かない。又、いつも悪口と噂話をする人々がいる。あなたの会話を点検しよう。人が飽き飽きしているのに話し続けていないか。唇は神に喜ばれているか。罪は無いか。すべての無益な言葉は、かの日に言い開きをせねばならない。話そうとする時、しばしば御霊は止められる。それは語るなと。あなたの言葉に御霊の0Kはあるか。もしそれが真実でも、言う必要の無い事は多い。噂話の動機は何だろう。人をおとしめるためか。御霊の示しに敏感であろう。そうするなら、ますます導いて下さる。肉の欲望のままに語る事を唇に許してはならない。陰口は美味しい食べ物のようだ。人は心にある事を口が語る。つまり人は語っている内容のような内面だと言う事だ。心にある嫉妬や憎しみ、自己中心を対処してもらおう。心にあるものが必ず言葉となって出て来る。
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口を見張ろう。欲望のままに何でもかんでも語ってはならない。必ず苦い実を刈り取る。御霊がそれは語るべきでないと、会話の中で止められるのを経験するだろう。御霊に従おう。人を恵み、潤し、生かす言葉を語る者として用いられる。
 


2005年01月21日(金)

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。私は彼を退けている。人が見るように見ないからだ」(Tサムエル16:7)


判断する時に、主に拠り頼まねばならいという事だ。人には外側、うわべの印象が強く入るため、しばしば判断を間違ってしまう。サムエルが次の王に油を注ぐために出かけた時、エッサイの長男エリアブを見て、まさに彼こそそれだと確信したが、主のみこころは違っていた。主は外側ではみられない。私達も同様だ。主のみこころを求め、よく祈り、主の判断を常に求めなければ容易に間違ってしまう。人間的な自分の思い、判断と、主のみこころはしばしば異なる。「わたしの道は、あなたがたの道と異なる」「わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」自らを虚しくし、心を尽くして主に拠り頼むなら、御旨にかなった正しい判断に導かれる。
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目の前の見えるもの、それしか目に入らなければ人はすぐに惑わされてしまう。しかし、私達には、絶えず導いて下さる神様がおられる。自分の好き嫌いや第一印象に捕らわれず、神様に尋ねていこう。目に留まっていないところに、導かれている人がいるかもしれない。


2005年01月20日(木)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(Uコリント5:17)



ある人は有名ブランドの高価な服にちょっとしたしみをつけてしまい、台無しになったと嘆いていた。すると友人の手芸家が巧みな腕でその箇所に刺繍を施してくれた。するとしみは完全に隠れ、以前よりも素晴らしい見事な服になった。神が私達の人生にして下さるのはこういう事だ。罪にまみれて滅びに向かっていた者を、全く新しい者として生涯を造り変えて下さるのだ。キリストに似た者へと。生きる目的を与え、使命を与え、一人一人に賜物を与え、生き生きと喜びを持って生きるようにされる。何と言う恵みだろう。永遠の命とは、死後の天国への切符だけでなく、今現在、復活の主の命を生きる事だ。あなたはこの命を味わっているか。
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道徳的な生活や、人間的な決心では、とうていなれない新しい自分に、神様がして下さる。なんという喜びだろう。主にあって歩もう。必ず生き生きと輝く自分を見ることが出来る。


2005年01月19日(水)

「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です」(詩編119:24)

相談相手が常にいる事はなんという幸い。私達は祈りで主に心を告げ、主は御言葉により答えて下さる。ある時は、礼拝説教から、学び会での学びから、どこからでも御声をかけ御旨を明らかにして下さる。常に主の指示を求める事が出来るし、求める事は大切だ。それが祝福への一番の道だ。問題や導きに対して、御言葉をあなたの相談相手とせよ。主に求める時、御言葉を通して指針を与え、あなたの個人的なみこころを示して下さる。御言葉は足のともしび。暗闇の中足元に灯りがあれば、確かな足取りで転ぶ事なく前進できる。方向がわからない時、地図を見れば、目的地へ正確に行く事が出来る。御言葉は地図でもあり、羅針盤だ。はっきり方向をさしてくれる。どのような状況の中でも、御言葉に導かれて又励まし慰めを受けて前進出来る。あなたには最高の相談相手が常駐だ。
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夜遅くに初めての場所を訪ねた。暗くて方角もよくわからず、人家も段々無くなり、もしかして正反対の方向?と、一人で暗闇で不安と恐怖だった。が、もし地図があればすぐわかる。御言葉は地図。進むべき方向がわかり、神様のお心がわかる。今日も祈って御言葉に向かおう。


2005年01月18日(火)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)


この世は巧妙に私達を誘惑して来る。背後にサタンがいる。きわどい性や暴力、悪ふざけの番組が溢れ返っている。子供達はすぐに悪い言葉を覚える。また、価値観に気をつける事も大切だ。愛し合おう、世界平和を、との一見良い歌詞に見える歌も、はっきり神否定の人間中心の思想による。愛、許し、和解、平和等の言葉がそれらしく語られ、麗しいように見えるが、神無しに立った価値観だ。一見綺麗に見えるだけに注意が必要だ。神を礼拝し、神の御前にへりくだって、歩むのでなく、神の上に立ち、自分を神とし、自分の力で歩む、エデンの園での人間への蛇の誘惑だ。神無しの価値観に立つ「地に属する知恵」に識別が必要。世は悪魔の支配下であり霊の戦い。
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地に属する知恵を見極めるには、神様のみこころを知るしかない。御言葉は何と言っておられるのかを朝一番にデボーションしてしっかりと聞いて行こう。そうでなければ世と合わせる事に気をとられてしまうから。


2005年01月17日(月)

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5:16)


クリスチャンには二つの性質があり、新しい性質と古い性質がある。新しい性質は救われた時に御霊の内住により与えられた神の性質だ。古い性質は生まれつきの自己中心な罪の性質だ。御霊は新しい性質に働き、サタンは古い性質に働きどちらもが引っ張る。肉の欲望と御霊がぶつかる。激しい戦いが繰り広げられる。失敗して挫折感におおわれているか。罪を犯してしまったら悔い改めて、再び立ち上がることが出来る。御霊に頼って歩む事だ。自分の力ではなく、御霊に助けられて歩む時、サタンと共に襲って来る肉欲にも勝てる。信仰はオートマティックではない。必ず意志を御霊の導きに向け、そちらを選び取る事が必要だ。それが神を愛する事。
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私たちは御霊によって歩む責任がある。肉にひかれて行っても、行き着く先は暗闇と死だ。肉にひかれそうな時には、共にいて下さる主を覚えよう。主が必ず勝利を与えてくださる。


2005年01月16日(日)

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(マタイ19:24)

金持ちの役人は、財産、名誉、地位を持っていた。道徳的な生活もしていた。しかし、主のもとへ来たという事は、心に何かが欠け、空虚さがあったからだ。青年は永遠の命を求めた時、主は戒めを守るよう言われた。みな、守っていると答えた。すると、主は、財産を貧しい人に施すようにと言われた。隣人を愛していると言いながら、実は財産を分け与える事の出来ない、愛の無い本当の姿を知らせようとされた。自らの罪を知り、良いお方を信じるようにと。しかし、自分の財産を捨てる事ができず、主のもとを去ってしまった。財産=自分の力、義、名誉、持ち物だ。人には出来ない事が神には出来ると言われる。まず、自分には出来ないと、正直に認める事が祝福の始まりだ。
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主は私達の真実の姿を知らせられる。どんなに冷ややかで、愛がないかを。しかし、主は初めからご存じで、無い物にご自身の愛を満たして下さる。ただ、真の姿を認める者にだけだ。主のもとを去るのでなく、主に求める事を求めておられる。



2005年01月15日(土)

「兄弟たち。おのおの召された時のままの状態で、神の御前にいなさい」(Tコリント7:24)

ある子供が小さい頃から教会学校に集い、大きくなって宣教師になる事が夢であった。しかし、途上で大病を患い、環境的に夢を断念せざるを得なくなった。葛藤を経て、神との交わりの中で、平安を得た。家で療養しつつ、少しづつ働く事ができるようになり、将来は家業を継ぐように導かれた。両親は大変喜び、良き証しとなり、やがて両親は教会へ集うようになった。彼は教会に忠実に出席し、教会学校の奉仕をし、青年達のリーダーとなって行った。教会の中で、家庭で、近隣で、生き生きとした証し人であった。宣教師として海外へ行く事は無かったが、彼の召された場所で大きく用いられた。神に自らを献げるなら、あなたにとって最善の、最もふさわしい場所に置き、用いて下さる。
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一人一人に神の召しとご計画がある。皆違う。しばしば自分の思いと異なるが、神の御旨が最善だ。置かれた場所で、忠実に歩むなら、必ずそこで素晴らしく用いて下さる。今の場所は神の最善だ。そこで神に自らを明け渡して行く事が大切。神が働かれ栄光を現される。


2005年01月14日(金)

「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す」(箴言23:31)



こんな話がある。さそりが火に取り巻かれ、「私を助けて下さい」と言う。「しかし、助けたらお前は私に噛付くではないか」「いいえ、絶対に噛付きません。お願いです、助けて下さい」それで助けると、案の定噛みついて来た。「噛付かないと言ったではないか」「噛付くのは私の本性だから、どうしようもないのです」酒にも様々な誘惑にも言える事だ。誘惑をもてあそんではならない。戯れるな。飲み込まれ、刺し貫かれる。誘惑には人を破滅する力がある。身を慎み、祈りによって誘惑の対象を避け、離れるのだ。私達に出来る事は避けて、ひたすら離れる事。それによって守られる。自分は大丈夫と火遊びをすると、大火傷をする。誘惑を避けよ。
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誘惑に乗って行って、無事に戻って来れるほど、私達は強くも賢くもない。ただ誘惑から、自分の一番弱い所を避け身を守る事だ。


2005年01月13日(木)

「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」(エペソ6:16)



サタンが放つ火矢とは、心の戦場に吹き込まれる「思い」だ。朝起きた時から夜寝るまで、四六時中吹き込まれている。突然何十年も前の、人を赦せない思い、完全に忘れ去っている事であっても、てき面サタンからのものだ。信仰の大盾で、消さなければならない。サタンを識別しなければ、途端に怒りに支配され、心は乱れ、ますます怒りが怒りを呼び、サタンの思うつぼだ。経験あるだろうか。明日の思い煩い、不安、心配、サタンの火矢だ。気付かずにいると思い煩いで何時間も無駄にする。妬みや憎しみも同様だ。絶えずサタンを意識すべきだ。サタンに気づく時、勝利だ。光があり、神が見えている事だ。サタンは暗闇の中でのみ働ける。聖霊の光で明らかにされる。
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神様を意識するように、サタンのことも意識していると、吹き込まれる思いに気付ける。心が苦い思いに捕らわれそうになった時は「サタンのやつめ」とその思いを吹き飛ばそう。


2005年01月12日(水)

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っています」(Tペテロ5:8)

お腹をすかせたライオンが獲物に襲いかかろうと歩き回っている。これが悪魔の姿
だ。武具を身につけず、祈りが無いならひとたまりも無い。世のすざまじい勢力に流されることもそうだ。流されてしまって気付かない。流されていたと気付くのは聖霊の働きだ。主との交わりが遠のいていないか。霊的食欲が減退していないか。悪いものはわかりやすい、むしろ良いものが問題だ。仕事、学び、趣味等、悪いものではない。それに思いと時間を取られて、良い事をしているので気がつかない。しかし、主との交わりが犠牲となっていないか。酒、ギャンブル等のストレートな罪はわかりやすい。しかし、サタンは良いものにより巧妙に主から離そうとする。霊的食欲が減退するなら、どのようなものでも注意が必要だ。
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良い事でも悪い事でも悪魔には同じだ。どちらでも良い。神から離せば成功だ。良い事に没頭して、主から離れる。悪魔に欺かれないために、主と日々の交わりが大切だ。主から離れると交わりが遠のき、交わりが遠のくと主から離れる。主との交わりは霊的生活のバロメーターだ。


2005年01月11日(火)

「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」(ローマ6:16)


ひとりの婦人の証だ。引っ越し先に、大家の実母が庭を自由に出入りし、手入れをしていた。一応借りたものであり、庭の使い方もプランがあり、嫌だった。が、ずっと我慢して祈っていた。早朝から入って来るので落ち着けない。水道も勝手に使い水を撒く。手入れしないから私が、とまで言われ、しかし、我慢し尚も祈り続けた。ある朝、自分達が置いていた物を勝手に動かされ、とうとう切れた。一言言おうとするが、爆発しそうだった。自我は抑えられず、心で神様助けて!と叫んだ。その時勝手に口から言葉が出た「すみません。いつも良くして頂いて」すると相手は人が変わったように好意的に優しくなり和気あいあいの間柄に。瞬間主を選べ。助けが来る。
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心のおもむくまま、自我に引かれていくなら、言いたい放題、したい放題。一時の開放感はあるだろうが、結局は罪は罪をよび、罪の奴隷でがんじがらめだ。主を選ぶならみわざをみる。


2005年01月10日(月)

「あなたの立っている場所は聖なる地である」(出エジプト3:5)


それぞれ、遣わされている場所が違う。あなたは今いる場所に主から遣わされた。。難しい対人関係、仕事面での悩み、また、将来への不安があるか。今の場を移動させたいと思われるなら力強い導きがある。もし、神が働かれないなら、そこはあなたの聖なる地だ。必ずそこで祝福される。状況でなく、神に焦点を当て、神を通して状況を見るのだ。神のお心とご計画がある。そこでしか学べない事、訓練がある。ある婦人はゴミ集収の仕事に就いた。過酷な重労働であった。が、振り返る時、それで、自我が砕かれ、高慢の鼻をへし折られ根底から自分が変えられ、今があると。そこを通らなければい今の自分はなく、高慢でどうなっていたかわからない。感謝のみだと。
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今いる場所は、神様から使わされたのだと思えるなら、学ぶべきこと、見るべきものへと自然に心は導かれる。みこころの地にしっかりと腰をすえ、さらなる神様の祝福を知っていこう。


2005年01月09日(日)

「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」(マタイ13:4)


ある高齢の婦人が教会に来て聖書の学びを受けるが、全く神がわからない。幾ら聞いてもわからない。年月が経って行くが、どうしてもわからないので、祈り始めた。神様がわかるよう、自分自身が変えられるよう、この切なる祈りは答えられ、神に出会え、心に動く事のない確信が与えられた。日々に平安と喜びに満たされ、何があってもその喜びは決して消えなかった。心は感謝で一杯にされた。心の叫びは必ず届く。自分を変えて下さいとの、祈りはみこころにかなった祈りだ。自分に偏見や先入観があると、なかなか御言葉がわからない。御言葉は真理だが自分の側に問題があるのだ。だから正しく見る事が出来ない。だが、祈るならわかるようにして下さる。
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神様、あなたの御言葉を今日も聞けます事を感謝します。あなたに従うために、自分を献げて御言葉を聞けるように助けて下さい。


2005年01月08日(土)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩編37:5)


神が最も喜ばれる事は何であろう。信仰がなくては神に喜ばれる事はできません、とある。神は何より深い信頼をささげる事を喜ばれる。しかし、肉の力はいつも自分で何とかしようとする。問題が起きた時、自分の思い、自分の経験、自分の判断で動いてしまう。自分の力で進む時、必ず失敗する。エデンの園での蛇の誘惑だ。神に頼らず自分で生きるようにと。いつも神か自己かの選択だ。神が喜ばれる道は、自分の力で歩むのではなく、神を信頼する事だ。あなたの問題を神に告げて、神が導いて下さることを信じる事だ。道を開き、手を取ってい歩一歩導いて下さり神の力を知る。私たちの力、頑張りで歩むなら神を知ることが出来ず神の働きを妨げてしまう。
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自分の力で策を練るようにと、絶えず働きかけるものが自分の内にいる事を覚え、些細なことでも「神か自己か」の選択をして行くことが大切だ。私の欠点を知り尽くしておられ、そんな私をいつも気にかけて下さる神様に、安心してたよりきって歩もう。


2005年01月07日(金)

「そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがた、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)



私達の内に聖霊が住んでおられる。クリスチャン生活を導いて下さるお方だ。平安を与えたり、取り去ったりしながら導いて下さる。自分を明け渡せば明け渡すほど、御霊は内にあって支配の領域を広げられる。自我が王座に座しているなら、クリスチャンであっても、未信者のような生活をする。自分の力で、自分の思いを通して行くからだ。御霊に自らを従わせて行く時、主を現して行く。あなたの選択だ。明け渡す事が出来ないなら、それを主に告げて助けを求める事が出来る。古い性質は自分の思い通りに生きたいからだ。根強いものがある。御霊は明け渡す事が出来るように導き助けて下さる。人には出来ない事が神には出来る。信仰の深みに乗り出そう。
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御霊に導かれる平安は、世の人々にはわからないクリスチャンの特権だ。自我で動くなら、常に結果にとらわれてしまう。しても、しなくても何の平安もない。動き出す前に御霊様の導きを聞こう。結果は神様の栄光の現れだ。


2005年01月06日(木)

「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し」(Uペテロ2:9)


誘惑は全ての人に来るが誘惑への同意がない限り罪を犯す事はあり得ない。私達はロボットに造られなかった。神もサタンも私達の意志に触れる事はできない。意志は自分のものだ。それゆえ罪を犯す時、自分に責任がある。サタンは誘惑できるだけで罪を犯させる事はできない。誘惑は悪が美化されていて、麗しく美しく、魅力に溢れている。光の御使いに偽装して来る。神の形をとって来るという事だ。泥酔、ギャンブル、等の悪はわかりやすい。しかし、この世の愛や平和は麗しいが要注意だ。人間中心の神否定に基づいている。世界は一つ、愛に満ちた世界、しかし、神無しで。世の価値観に十分注意しよう。行為は思いから来る。価値観は重要だ。よく見張れ。
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神から遠ざかっている事、この事を決して悟らせないようサタンは働きかけてくる。自分がしている事の中心には何があるのか、みこころの中心を歩んでいるか、いつも意識していなければ、サタンにあやつられてしまう。


2005年01月05日(水)

「彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」(ローマ4:20)

友人間で一番傷つくことは何だろう。相手に信じてもらえない事ではないだろうか。幾ら真実を訴えても、もし信じてもらえなかったらどんなに痛ましい事だろう。まして、それが信頼関係のある親友や夫婦間ならどんなに悲惨だろう。私達は愛する主に対してそのような態度をとっていないか。見える世界と見えない主、見える所は圧倒的な力があるので、すぐ影響を受けてしまい、見えない主や約束の御言葉が吹き飛んでしまう。どちらを選択するかだ。見えない主か、見える状況か。目に見えるなら、もはや信仰ではない。信仰は必要ない。常に目の前にある、目に見える状況でなく、御言葉の約束、目に見えない主を選び取ろう。主はその信仰を喜んで下さり、成し遂げて下さる。
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しばしば御言葉の約束と、状況や自分の思いが正反対である事を経験する。見える世界と見えない世界だ。サタンは凄まじい勢いで見える所を見るよう、主への信頼を攻撃して来る。でもお言葉通りにと、網を下ろしたペテロのように、主と御言葉を選び取ろう。みわざを見る。


2005年01月04日(火)

「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る」(箴言13:3)


先日も一人の人が、対人関係でコミュニケーションがうまくいかず、ギクシャクしてしまい、言葉は難しいと言った。思っている事をうまく表現できず、意思疎通ができず、気持ち的にはそうでないのに、不本意ながら相手を傷つけてしまい、自分も傷つく。不用意に言葉は出さない方が良い。言葉で失敗すると、一度口から出た言葉は取り返しがつかない。自分の口をしっかり見張れと神は言われる。唇にもサタンの誘惑が来る。自分を守る言葉や明確な嘘ではないが、濁した灰色の言葉、それは偽りだ。言葉は常に真実を語るべきだ。しかし、例え真実でも言う必要のないことは多い。御霊がそれを言う事を導いておられるかどうか、絶えず神を意識するなら守られる。
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人を慰めるため、建て上げるために自分の言葉を用いよう。不用意な言葉を口に出すまえに、しっかり相手の話を聞いて、祈り心で口を開こう。


2005年01月03日(月)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16)

あの用いられたダビデが、部下が命がけで戦いに出ていた時に、自分は夕暮れに、のそのそ起き出した。そんな緊張感の無い状態にいた時に、まさにサタンの誘惑に会った。気をつけよ。いかに輝かしい信仰歴があっても、目を覚ましていないなら、ひとたまりもない。敵はライオンのごとく襲いかかるべく獲物を狙っている。誘惑は必ず甘い。苦ければ誘惑にならない。肉の欲望と合致し凄まじい力で襲って来る。プライド、虚栄、自己顕示、妬み、煩い・・肉の思いに来る誘惑だ。誘惑が来たら、神の元へ逃れよ。助けを叫べ。拠り頼む者を守って下さる。罪を犯してしまったか。そのために主イエスの血潮がある。主のもとへ行き告白し悔い改めよ。感謝な事に恵みは常にある。御子の血潮のゆえに御父はどんな時も受け入れて下さる。恐れなく近づこう。
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サタンが鵜の目鷹の目で狙っている。一人一人一番強い欲の所に巧妙に誘惑して来る。欲望と巧く合致するので、まず誘惑されている事がわからない。自分の思いだとしか思わない。思いに従い、欲望を遂げて行ってしまう。誘惑に気づけるために、今日も御霊の導きに従い歩もう。


2005年01月02日(日)

「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」(出エジプト3:5)

履き物を脱ぐというのは、権利の譲渡との意味がある。自分の権利を譲渡する、自分を明け渡す事だ。モーセは40才の時に、自分の力で同胞を救おうとしたが、理解されず、ミデアンの地に逃れた。その荒野で羊飼いとなり羊を飼っていた40年の間に、砕きに砕かれ、自分の力に頼らなくなったモーセを神は用いられたのだ。自らの力が失せたモーセは権利を譲渡し、足の靴を脱いだ。神にすべてを明け渡した。私達も神に自分自身を明け渡すなら、そこを聖なる地として、それぞれの遣わされた場所で、用いて下さる。主婦は家庭で、学生は学校で、仕事に就いている人々は職場で、神の御手に握られ、神の栄光のために用いられる。神が用いられるのは、無力な者、自らを献げた者だ。
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今、自分がいる場所が「聖なる地」と見る時、新しい見方に立たされる。自分でいるのでなく、神から遣わされた場所だ。靴を脱いで、主に自分を明け渡す時、聖められて、今の場で、主の栄光のために用いられる。何と感謝な事だろう。今日も聖なる地に立っている。


2005年01月01日(土)

[ダビデは言った「私は主に対して罪を犯した」ナタンは・・言った「主もまたあなたの罪を見過ごしてくださった」](Uサムエル12:13)

職場のチーフである婦人。部下にミスが続出。口では「いいよ」と慰め、寛容に振る舞うが、心では「もう、また」と相手を責め、いら立っている。ところが次の瞬間、何と自分がするはずの無いミスをした。すると、そのミスが認められない。忙し過ぎる、疲れているからと、言い訳、弁解をし、自分を正当化している。しかし、その瞬間、何と罪深い自分と気づかせられた。自我は過ちを認めたくない。しかし、赦しはすでに備えられている。罪を認める者に与えられる。ダビデにも言い訳はあったろう。バテシバだって悪いではないかと。しかし、ダビデは自らの罪にのみ向き合い、認めた。認罪の低い門を通る時にのみ、赦しの喜びにあずかる。あなたには、認めたくない罪があるか。
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ダビデの立派なところは、いっさい言い訳せず、自分の罪と真正面から向き合い、認めた事だ。人間は高ぶっているので、「ごめんなさい」が一番難しい。へりくだる事であるからだ。しかし、神は“心砕かれてへりくだった人と共に住み、へりくだった人の霊を生か”される。