2005年02月27日(日)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)

ある人は身体が弱く、あちこちが悪くていつも病院通いをしていた。しかし、歳をとった時、そのお陰で悪いところは、すべて治療済み、身体もいつも点検しているので、普通の人より至って元気だ。試練も同様だ。しょっ中打たれている人は、心が良くなる。神に近く歩み、神から教えられ、いつも学べるので、霊は元気だ。すぐに神から離れて自力本願で行く私達を、試練はたちまち神のもとに戻してくれる。パウロは厳しい試練に不平も愚痴もなく、神の恵みは自分に十分で弱さの中に神が働かれる、故にその弱さを誇ると言った。弱さの中で初めて神に祈る事を知る。神に頼って頼って、拠りすがる事によって、神の力を知る。弱さがあって初めて可能だ。弱さは恵みだ。
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試練は2種類ある。神から心がそれ離れている時、神に立ち返らせるためと、もう一つは罪のゆえでなく、更に聖くされるために、更に成長のために与えられる。その時は試練の下におり通過するなら、神を深く知り更に成長へと導かれる。嫌々強いられてでなく、この上ない喜びと受け止める時心が違う。
 


2005年02月26日(土)

「あなたがたは、なぜ私の話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです」(ヨハネ8:43)

主は真理をはっきりと語られた。なぜ、主の言われる事がわからないのか。それは聞きたくないからだ。なぜ聞きたくないのか。主の言葉は絶対的に正しく、それを聞く時、自分の方が変わらねばならないからだ。目の前の人を変え、環境を変えようとするが、自分は決して変わりたくない。人が御言葉がわかるのは、自分が変わろうとしているからだ。神に従うとは、つまり自分を変えて行く事だ。自我が砕かれて行く事だ。神の御声に従おうとの態度がある時、必ず御言葉がわかる。逆に、幾ら聞いても、従う気が無いなら御言葉は一切わからない。実は心の奥底では拒否しているからだ。わかりたくない。聞きたくない。変わる気は無いからだ。あなたの心の底はどうだろう。
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御言葉を聞く事は良いが、自分が変わるのは嫌なのだ。変われないのではなく、変わりたくない。頑固で強固な自我がある。心の底で拒否している。「よくなりたいか」と主がいつも目の前に立っていて下さっている。変わりたくない自分に気づく事から始まる。
 


2005年02月25日(金)

「私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)



綺麗な切り花を見る事があるだろう。切り花はどんな見事でも、必ずしおれて、枯れてしまう。なぜなら命の源からすでに切り離されているからだ。しばらくは美しいが、必ず枯れる。クリスチャンも同様だ。命の源であるキリストから離れるなら、必ず枯れる。自力で立つ事は不可能であり、源から養分が絶えず回らない限り枯れてしまう。イライラしたりカッカと気持ちに余裕が無いのは養分が回っていない事だ。主から離れて自力で事を成し、自力で動いている。必ず油切れ状態に陥る。潤いが無く、喜びが無く、自力で生きるなら何の実も無く害毒を周囲に流してしまう。今の状態はどうか。離れていないか。主に頼ろう。
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内におられるイエス様をいつも覚えて、感謝して生きていくだけで、必要な養分は満たされている気がする。今日も主にあって歩もう。


2005年02月24日(木)

「あなたがたが自分の身をささげて服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」(ガラテア6:16)


私達は罪と従順のどちらかを選ぶ事が出来る。そして絶えず選んでいる。外側に表れるのは選択の結果だ。ある婦人は難しい人間関係にずっと祈りに祈り続けていた。その相手があまりにも自分勝手な行動をして来た時、それまでの忍耐が切れて爆発すると思った時、神様!と心で叫んだ。その時、口をついて出た言葉が「ごめんなさい」だった。相手の行動は自己本位だが、自分にも非がないわけではない。その非をまず詫びた。すると、相手の態度が突然変わり優しく穏やかになった。それ以来すっかり和やかな関係に、助け合う間柄になってしまった。ずっと相手のために祈り続けていた事と、爆発の瞬間に神に叫び、神を選んだ事によると思い至った。
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神様を選ぶなど、とうてい自分には出来ないような気がするときこそ、神様を選ぼう。神様が事を成してくださるからだ。信頼して神様!と叫ぼう。


2005年02月23日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)

礼拝が無益であることがあるのだろうか。アモス書には、宮で暴虐を重ねており、神はその偽善を憎まれた。不敬虔なまま何の感覚も無いまま平然と礼拝するなら、その礼拝は無益だ。神の喜ばれる礼拝は、罪を悔い、御前に心からの悔い改めを献げる砕かれた心だ。神の最も喜ばれる態度は「ごめんなさい」だ。決してかろしめられず、たましいの砕かれた者を救われる。自己中心で、神ではなく自分の欲望を求める生活に気づきを与えられ、自分を明け渡して行く事が真の礼拝だ。一週間毎の聖日礼拝で、心砕かれる事なく、罪を悔い改める事なく、毎週何も変わらず帰っているか。あの宮で祈ったパリサイ人のようか。その自分に気づく事から始まる。罪を悔い改め、赦され、新たにされ、きよめられて一週間を始め、又、今日の一日を始めるなら何という恵みだろう。
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神が見られるのは、心の態度だ。神を求めるより、どこまでも自分を求める自己中心を悲しむ心だ。神と向き合う時、高慢で自己中心な醜い自分が見えて来る。あわれんで下さいと求める事ができる。神は砕かれた心を喜んで受け入れて下さる。


2005年02月22日(火)

「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです」(Tヨハネ4:7)



ある主にある老練なクリスチャンが、若いクリスチャンに質問した。「暗闇が去り、夜明けが来る時をどうやって知る事ができるのか」ある人は「離れた所にある木が、松でなくニレの木だとわかる時です」別の人は「動物を見て、狼ではなく狐だとわかる時です」と答えた。老練な師は「違う」と答えた。そして、師は静かに答えた。「私達が人を見て、それが兄弟姉妹であるとわかる時、闇が去り、夜明けが来ていると知るのだ。さもなければ、それが何時であろうとまだ闇だ」使途ヨハネは言った。私達は自分が死から命に移った事を知っています。それは兄弟を愛しているからです。大嫌いなクリスチャンがいるだろうか。死から命に移されたクリスチャンは必ず兄弟姉妹を愛する。それが、あなたが真に救われている証拠である。あなたは兄弟姉妹を愛しているか。
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比較や、競争ばかりのこの世にあって、共にみこころに従って歩む兄弟姉妹を得られたことが、どれほど感謝なことか。互いに愛し合い、助け合ってこそ兄弟であり、姉妹なのだ。


2005年02月21日(月)

「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」(ガラテア6:1)


もし罪を犯すなら、神はそれを正される。そのために人を用いられる。もし自分が用いられるなら、自分も罪人であり、同じ罪を犯したかもしれない事を忘れてはならない。相手のために十分祈りを重ね、御霊の愛によらなければ、相手の心に届かない。罪を決していい加減にしてはならない。きちんとその罪を取り扱い、主がその罪をどう見ておられるかを示し、悔い改めに導くことが必要だ。さばくのではなく、回復させ建て上げる事が目的だ。まず自分自身の内側をよく見て、自分の罪を裁いて初めて、人の事が出来る。罪は犯さなかったかもしれないが、自分にも同じ罪の兆候がある事をしっかり覚えなければならない。愛とへりくだりの中で用いられる。
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本当に人の過ち戒め、正し、その人を建て上げようとして行くのと、ただ欠点を指摘し、批判し、裁いて行くのとは大きく違う。その人のために何が出来るのか、まず、しっかり自分を見つめて行かなければならない。


2005年02月20日(日)

「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます」(Tコリント4:2)

青年を導く、あるスタッフが証しをした。青年達のために、何かの手助けが出来たらと導かれて奉仕にあずかった。しかし、自分の至らなさで、一人の青年を傷つけてしまった。不注意な言葉が原因だった。自分を責め、落ち込んだ。成長を祈っているのに、つまづかせるとは一体何をしているのか。資格がない。辞めようと思った。神に心を打ち明け祈った。すると、導きを確信して奉仕にあずかったのではなかったか、自分の失敗を受け止めようと思えた。自分に向き合い、未熟な自らを認めて、逃げないで、砕かれたいと。訓練受け、間に合う器に、造り変えられたいと願った。主の求められるのは、忠実だ。成功、失敗は言われない。忠実を喜ばれる。
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責任者は管理者を信頼して任せる。神は私達を信頼してタラントを委ねて下さった。失敗もする。しかし信頼していて下さる。その信頼に応えようとして行く忠実を喜ばれる。弱くとも忠実である事は出来る。成功失敗でなく神が求められるのは忠実。


2005年02月19日(土)

「彼はおのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた」(マタイ25:15)

私達が救われた時に、御霊の内住と共に、御霊の賜物を一人一人に与えて下さった。すべてのクリスチャンに必ず賜物が与えられており、主からの素晴らしいプレゼントだ。比較の愚かさは誰しも知るところだ。人は一生比較の中で生き、優越感と劣等感の間を行ったり来たりする。人より優ると優越感に浸り、人より劣ると落ち込む。人が基準であり、常に人を見ている。心の底は羨望と妬みだ。しかし、与えられた賜物を持って、与えられた場所で与えられた役目を果たすなら、妬みの入り込む余地はない。皆、賜物が異なるのでそこにライバルは存在しない。比較ができず、競争が不可能だ。人を羨むのでなく、与えられた賜物を持って仕えて行こう。喜びが満ちる。
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皆一人一人が完全に違っていて、その一人一人の奥底にある、自分らしさを開花させて下さる。生涯自分らしく仕えて行ける。そのために、神と自分の縦の関係が何より大切だ。自分の手に委ねられた賜物を、まずしっかり認識し、それで仕えて行こう。


2005年02月18日(金)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(Tペテロ5:8)


ある人が夏の別荘で、毒蛇を発見し、殺した。しかし、毒蛇を久しく見なかったので、もういないと全く頭に無かった。常に警戒が必要な事を思い起こさせられた。信仰生活も同様だ。警戒、警戒、霊の敵に常に注意し警戒するように促している。悪魔が最もほくそ笑んでいるのはいつか。それは、あなたが全く悪魔の事を忘れている時だ。悪魔の思うがままに流されてしまう。自制を忘れ、怒りに身を任せてしまう。思い煩いで一日つぶしてしまう。神が全く飛んで自分の思いだけで生きている。これらすべて悪魔の仕業だ。悪魔が見えているのは神が見えている事で、また、神を見ているなら、悪魔が識別できる。
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サタンは一時でも、私たちから自分を隠していたい。警戒していないことが悪魔のわなにはまっていることだ。私達に自分を自分を、と自分のことばかり見せてくる。弱い自分を自覚し、しっかりサタンを見すえて今日も歩もう。


2005年02月17日(木)

「主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる」(箴言34:15)



信じたころ、不思議に思っただろうか。農夫が翌日の雨を祈り、遠足の児童が晴れを祈ったらどうなるのか。成長するにつれて神の御心がなるのだとわかって来る。電話は話中によく出くわす。また、相手先に電話が集中していると待たせられる。しかし、神に祈る場合は決して話中はないのだ。常に受け入れ態勢万全で待っていて下さる。何という幸い。常に助けようと待ち構えていて下さる。神が私達の声を聞く事を楽しみとし喜びとしていて下さるのだ。「わが愛する者、あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく」(箴言)と。神に一言も語らずに、一日を始めるのは大きな損失だと思わないだろうか。神に語り、御声を聞こう。
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悲しい時、苦しい時、うれしく、感謝な時、なんでも神様に語り続けよう。そしてなんでも尋ね続けていけばいい。神様との密な交わりで今日も平安な一日が始まること感謝。


2005年02月16日(水)

「見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを除くことができます」(マタイ7:4)

私達は皆、人の欠点はすぐに目につく、よく見えるものだ。すぐにさばく。しかし、相手の間違いを裁くのではなく、自分の思い通りではないから裁く場合が多くはないか。自分の思い、価値観、自分の色メガネで相手を見る。どこまでも自分中心。それが梁だ。決して相手を正しく見ることは出来ない。自分の中に偏見がある。偏狭な価値観で見ている。自分の見方が間違っていないか。常に自己吟味し、御霊に導かれるなら、ありのまま見えるようにされる。いつも御霊の光に照らされ「悪いのは私です。私の罪です」と自らの罪を認め、悔い改める人は、人のちりを除くために用いられる人だ。目はちょっと触れられそうになるだけで、すぐ閉じる鋭敏な器管だ。人のちりを扱おうなど、不用意には出来ない。デリケートな事だ。まず自分が主の御前に充分祈り整えられて、初めて用いられる。
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肉は自分は棚上げで、すぐ人をさばく。異物が来るとすぐ閉じる敏感な目だ。自分の量りで、触れようとするなら相手は即、心を閉じる。人のちりを取るなど大変な仕事だ。へりくだってまず自分がくまなく御霊に照らされ、自分が取り扱われるなら、ちゃんと見えて用いられるかも知れない。


2005年02月15日(火)

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」(詩篇127:1)



欠陥家屋の特集を見た。大幅手抜きの基礎、歪みが生じた家屋、いい加減な配管工事による水漏れ・・。私達の信仰生活はどうか。何を土台にどんな家を建て上げているか。御言葉に従っているか。それとも自分の思い、自分の判断か。ある夫婦、夫に突然の昇進、魅力ある地位が目の前に来た。それは遥か遠方への移転を伴っていた。牧師からよく祈るように忠告を受けたが、出世に目がくらんでしまった。なんとなく御心でないと感じていたが、世の欲を選んでしまった。その結果、みこころからそれてしまった。移転先では教会へ行かなくなり、地位を得、豊かな生活は手に入れたが、神から離れてしまった。自分の思いで歩む虚しさを思い知り、幸い、悔い改めが与えられ神に立ち返れた。
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みこころをそれて、何かを成し遂げたとしても、それは虚しい。みこころの下を歩んでいるときの満足感、幸福感を味わって歩もう。みこころを外れて感じる瞬間の達成感にまどわされず。


2005年02月14日(月)

「あなたがたが地上にしばらくとどまっているあいだの時を、恐れかしこんで過ごしなさい」
(Tペテロ1:17)


天に帰るまで、地上にいる間は、絶えず凄まじい勢力との戦いだ。信仰生活を妨害してくるサタンだ。
思い煩いの火矢を吹き込む、背後のサタンに気づかずにいると、明日の事、一週間先のこと、将来の事、延々煩い落ち込む。また、煩いの原因を持っているなら常にサタンに足場を与えてしまう。根の部分を神様のもとに持ち出し、解決する事が必要だ。赦せない相手がいるか。おおい隠している罪があるか。妬みや憎しみがあるか、それらを神の前に出して、神に解決していただく必要がある。
根にあるものにしっかり向き合い、神の光のもとに出す事だ。祈りに引き出されたものは、必ず解決に導かれる。神は聖いお方。どんどん聖められる。見ようとしない罪はないか。
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この地上での時を、クリスチャンにふさわしく歩むことはむずかしいが、神様の御力によって守られている。絶えず祈り、サタンを振り切ってこのわずかな時間をしっかり神様と向き合って生きていこう。


2005年02月13日(日)

「あなたのみことばは、わたしの上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりもわたしの口に甘いのです」(詩編119:103)

断食した時、最初、猛烈な空腹感に襲われる。耐えられないほどの空腹感が来て、その後、空腹感が失せる。飢餓の場合はそれが進むと身体が衰弱し、食べられなくなるそうだ。信仰生活も同様だ。御言葉を日々食しているだろうか。もし、食べられない日があるなら空腹を感じるだろう。しかし、それでもなお、御言葉を食さないなら、段々空腹も感じなくなる。御言葉無しの生活で平気になって来る。それが更に続くと餓死してしまう。御言葉を日々食しているか。味わっているか。御言葉により罪を示され、矯正され、気づきを与えられ、自分の姿を照らし出される。御言葉から離れた生活は霊的栄養失調状態だ。重傷になる前に、食欲が全く失せる前に立ち返ろう。御言葉は命。
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食欲は健全だろうか。この世には見えるところはストレートな罪でなくても、霊的食欲を減退させて行くものがある。それは偶像かも知れない。確実に減退して行くなら気をつけた方がよい。全く失せてしまう前に。今、食欲はどうだろう。


2005年02月12日(土)

「望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし・・望みにあふれさせてくださいますように」(ローマ15:13)

信仰生活の中で、時に厳しい苦しみが臨む。その時は笑顔ではいられないだろう。苦難や悲しみは必ず来る。皆、経験するところだ。何で?いつも喜びがあるのでは?苦しみから守られるはずでは?そのための信仰では?それはこの世の宗教だ。最後まで自分中心のままに回り、終る。聖書は全くそんな事は言っていない。まことの神は違う。苦しみを取り去られない。そのまっただ中で共にいて、乗り越えさせて下さる。苦しみの中でこそ神の愛、支えを知識でなく膚で知る。その一番底に揺らぐ事のない平安を見出す。そこでしか経験できない。苦悩のまっただ中で、霊の喜びを経験する。苦しみのただ中で平安と喜びを経験するのだ。環境、状況でなく、主ご自身から来る平安と喜びだ。どんな悩みの時にも、光があり、希望がある事を経験する。患難の中で砕かれ、練られ、変えられ、成長して行く。
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平安を経験したのは試練の中だ。すべてが真っ暗で何の光も見えない中で、一番底に主の平安があった。恐いものはなかった。試練は望まないが、いつまでたっても自己中心で、幼児のようなクリスチャンでいる事の方がもっと悲しい。
 


2005年02月11日(金)

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出すと知っているからです」(ロマ5:3)


神のみこころは苦難を用いてキリストに似た人格を形造る事だ。しかし、どんなに私達は反抗し、不平不満、愚痴が多い事だろう。不平不満にいる時は、神の御手が何一つ見えない。真っ暗闇で祝福が見えない。そうでなく、神の愛からの試練であり、ご計画であり、教えようとしておられる事がある。その信仰を口で言い表すのだ。口ではっきり神様に向かって言い表すのは良い。それが自分に確信となって返る。更に学ばせようとしておられ、必ずこの事の中で神を更に知れる。信仰に前進して求めるのだ。苦しい状況の中で神に期待し、神を賛美して行く時、不思議だが自分が変えられる。選択だ。つぶやきでなく、神に焦点を当てて賛美を選択。
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頭でわかっていても、いざ試練が来ると、不平不満、つぶやきが口から出てしまう。試練を神様からのものだと受け取っていないからだ。楽をしてキリストに似た者になれるほど、私達の肉はあまいものではないのに。


2005年02月10日(木)

「その人は倒れてもまっさかさまに倒れはしない。主がその手をささえておられるからだ」詩編37:24

フィギュア・スケートのジャネット・リンはクリスチャン。札幌オリンピックで、最も人気のある選手に選ばれた。その滑りは躍動的で、美しく、人々を魅了した。競技中の笑顔が素晴らしく、溢れる幸せを神に感謝している笑顔だと言われた。オリンピックでまさかの事態が起こった。スピンで一度も失敗した事のない彼女が、何と、転んで尻もちをついたのだ。しかしその時、動揺もせず、ニッコリ微笑んで、立ち上がり、競技を投げ出さず、最後まで精一杯にこやかに丁寧に滑り終えた。それは全世界の人々の心を打ち、感動を与えた。世界中が喝采を送った。一人のジャッジは芸術点で満点をつけた。転んだのに満点だ。私達は信仰生活で転んでしまう。失敗や過失を犯してしまう。しかし、もう一度起き上がる事が出来る。何度転んでも、再び起き上がる事が出来る。倒れる事と諦める事は違う。決して諦めないで、何度でも起き上がる事が出来る。主の支えがあるゆえに。
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誰しも失敗する。転んでしまう。しかし、どんな時にも主の愛とあわれみ希望がある。倒れたままではない。もう一度起き上がる事ができる。どんな最悪の中でも可能だ。主の赦しと支えがある。失敗したら、又、主のもとへ行き起き上がろう。
 


2005年02月09日(水)

「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません」(Uペテロ1:10)

ゼリーやババロア作りに失敗するのは、材料の分量をきちんと量らないからだ。うまく固まらない。料理でも何か物足りないと思うと、調味料が抜けている。レシピに従わないからだ。信仰生活も同じだ。神の御声に従っていれば、必ず導かれ成長して行くのに、従わないから問題が起こる。この間も学生の妊娠騒動で心労で大変でしたと大学教員の女性。神の言われる男女交際に従っていれば、不幸から守られるのだ。「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたの幸せは川のようになる」と神は言われる。神に従わないゆえに、様々な問題を引き起こし、苦しみを刈り取る事になる。自分で苦しみを招いてしまう。神に従えば幸せにすると言われる。今、みこころをそれているなら立ち返ろう。又、なすべきみこころを示されているなら、すぐに従おう。神に従う事が一番の幸せだ。
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試練ではなくて、自分の罪のゆえに、問題を引き起こす。肉でした行いは必ず刈り取る事になる。これは原則だ。苦しい刈り取りをする。神の喜ばれること、みこころは何か、よく祈って真剣に従って行こう。みこころの中を歩む事が一番の幸せ。
 


2005年02月08日(火)

「神が、あなたがたを完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」(Tペテロ5:10)



主は愛する者を懲らしめ、むち打たれる。ガラスが高熱の中で作品に作り上げられ、鉄も高熱で研がれるように、私達も高熱の苦しみの中に入れられる。私生児でなければ必ず通る。苦難、痛み、悲しみの高熱の炉の中に入れられる。神から送られたものだ。高熱の痛み苦しみの中でキリストが焼き付けられ、形作られて行く。人格が培われて行く。キリストに似る者へと変えられて行く。試練は必ず痛いが、私達の益のため、ご自身の聖さにあずからせるためだ。私達が研がれ磨かれるのは苦しみによってだ。神により苦しみを通して、不純物が削り取られて行く。高慢、プライド、虚栄が砕かれて行く。へりくだった、柔和な、砕かれた者へと変えられて行く。
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痛い事はいや、苦しい事はできない、もうやめたい…とつぶやきながら、苦難をかわして歩き続けることもできる。しかし研がれ磨かれ、主に似た者とされることを信じて、苦難の下を賛美して歩もう。


2005年02月07日(月)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」


ある年、素晴らしい出来で、大豊作が期待出来た。ところが収穫近くなると、まさかの雨続きで、降りやまず作物は腐って来て、大豊作の予定が散々な結果になった。なぜ、こんな事に?なぜ?なぜ?と私達は厳しい試練の中で理由を追い求める。しかし、すべてに主の主権があり、主の支配がある。例えサタンが働いても主の許容範囲だ。神の意志以上には動けない。私達の身におこる事の理由はわからないことも多い。神は理由を伏せておられるかのようだ。神は私たちの思いより遥かに高く、深いお方だ。私達の思いを遥かに超えたお方だ。試練の時、理由はわからないが、神を信頼する事ができる。神が求められるのは理由を捜す事で無く神への「信頼」だ。
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神様は、すべてを知りわける事を望んでおられない。私たちに明日を知ることが許されていないのも、神様の主権にすなおに従いなさいということだ。明日の事はわからなくても、明日は必ず私たちにとって祝福に満ちている。


2005年02月06日(日)

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ14:24)

種は深く埋められない限り発芽はない。種が地上に浮かび出るなら、発芽は不可能だ。地中深く埋められ、死を通る時、実を結ぶ。霊的にも同様だ。自分に死んで行く時に、実を結んで行く。自分の思い、自己主張でなく、神のみこころを選び取る事だ。ある婦人が養子に迎えた娘が反抗に反抗を重ねた。母親の一言一言に逆らい、怒りをぶつけた。母親は逆らう娘のために、接する時も絶えず祈り続けた。唇の中で祈りはうめきとなった。娘はとうとうある日「お母さん、ごめんなさい!」と大泣きで抱きついて来た。どんなに反抗しても、いつも自分のために祈ってくれていたのを知っていた。イライラや怒りや焦りを、わかってるが、自分でもどうにも出来なかったのだと。それ以後、全く反抗は失せて、打ち解けた楽しい温かな関係にされた。自分に死んでみこころを選び取ることだ。
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いつもキリストか自己かの選択だ。みこころか、自分の欲望かだ。肉は強い。自我は強烈だ。地中に死ぬのは嫌で、地上に出たい。サタンも肉欲、自己主張の心地良さを誘惑する。しかし平安はない。主の助けによりみこころを選ぶ事が出来る。
 


2005年02月05日(土)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ33:3)

ある牧師夫妻の、それまで模範だった子供が道をそれ、家出し、2年間音信不通状態だった。夫妻は日々苦悶の祈りをしていた。どうしようもなく、ただただ祈るばかりであった。ある日の祈り会で、一人の信徒が牧師夫妻の苦悩を見て、「今日は子供さんのために祈りましょう!」と言った。その日は御霊の導きにより、全員でひたすら執りなしの時とされた。涙の祈り会になった。結果的に、その日の祈りが用いられて、子供は神に立ち返った。その時、自分勝手に、放縦に歩んでいる自分の姿が見え、そして、深い底のない淵が見えて、怖ろしくなり、震えた。その時に、神がしっかり御腕に抱いて下さっていたのを感じたと。悔い改めて神に帰った。問題があるなら、一人で悩んでいないで指導者に相談したほうが良い。神は道を備え導かれる。皆に祈ってもらうなら、それは大きな力だ。
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何よりもサタンは祈りを恐れ、地獄も震えおののくと言う。どんな時にも、まず神を呼ぼう。神はその事態に介入し、理解を越えた大いなる事をもって導いて下さる。混乱にしか見えない事も、深いご計画がある。問題に思い煩わないで、神を呼ぼう。


2005年02月04日(金)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、わたしについて来なさい」(ルカ9:23)



日曜信者とかクリスマス信者という言葉がある。日曜日とクリスマスだけ信者なのだそうだ。私達はどうだろう。日曜日は教会に行くかもしれないが、平日の生活はどうだろう。主は「日々」従うように言われた。自分の都合の良い時だけ従い、都合が悪ければ、拒むだろうか。十字架を負うとは、自分に死んで、神のみこころを選び取る事だ。つまりみこころを選ぶなら自分に死なないわけには行かない。ある人が嫌な対人関係があった。接すると鋭いきつい言葉でいつも傷つき関わりたくない。しかし神は近寄り交われと言われる。食事を共にした時、相手は心を開き複雑な家庭環境にある事を話してくれた。以後一番中の良い関係になった。御旨に歩もう。
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いい時だけのクリスチャンではなく、日々、日毎に、御霊に導かれて主と歩もう。都合が悪くなったら、一人で歩んでいないか。気がついたら神様から遠く離れていないか。


2005年02月03日(木)

「知恵ある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる」(伝道7:5)



交わりは楽しいものだ。しかし、叱責の言葉を聞くのはどうだろう。叱責は誰にとっても嫌なものだ。自分の失敗や弱さに向き合わなければならず、痛くて辛い。プライドは傷つき心はズタズタだ。しばしば自分の弱さを見るのは辛い。認めない。しかし、どんなに痛くても、しっかり耳を傾け、自分への叱責を聞くなら、それは必ず自分の成長につながる。過去を振り返る時、神様の叱責、人からの叱責L、それによりどんなに高慢から守られた事だろう。あの時、あの叱責がなければ、恐ろしい高ぶりに陥っていたに違いない。罪をそのままにしておくなら、神はナタンを遣わし、罪を指摘される。叱責は恵みだ。悔い改めの機械とされ、新たにされる。
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耳の痛い言葉を聞くのは辛いかもしれないが、何も言われず、何も教えられずにいることは悲劇だ。心を開いて、厳しい言葉にも耳を傾け、本当の自分の姿を認めていくことは生涯にわたって必要だ。


2005年02月02日(水)

「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:15)

有名な例え話がある。象が人の寝ているテントに入る話だ。テントに入れて欲しいと願うが、とんでもない話で即座に断られる。象は粘り、鼻の先で良いと交渉、それくらいならと、許可を得た。次は鼻の半分、次は鼻だけと願い、気づいた時には象一頭が丸ごと入ってしまったという話だ。罪は同じだ。ほんの少し、これくらいと大目に見ている内に序々に知らぬ間に侵入し、ついにあなたを丸ごと飲み込んで、滅ぼしてしまう。誘惑は、必ずあなたの欲望と合致して、巧妙に来る。欲望と合致しているので、しばしば気づかない。生活に大目に見て許している小さな罪、些細な罪があるか。あなたが許可しているから入れるわけで、その罪は見逃していると、いつしか拡大し、致命傷となる。その罪を拒否し、捨て、離れよ。
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火遊びするとやけどをするように、罪と戯れると必ずやけどをする。自分がいかに弱いかを知り、罪から身を離す事だ。自らの欲望の強い所に来た誘惑を受け入れると、罪になり、その罪に浸ると死に至る。今日もよく心を見張り、誘惑にノーと言おう。


2005年02月01日(火)

「愛は寛容であり、愛は親切です。また・・自分の利益を求めません」(Tコリント13:4)



離婚寸前の婦人が苦しみ悩みの中で教会の来て神に出会った。聖書を学び、御言葉に従っていった。自分の思い通りでない夫に不満で、常に夫を責めて追い詰めている自分に気付いた。悔い改めて夫の喜ぶ事をして行った。それまで夫の気持ちを考える事もなく無視し自己本位であったことにますます気付かされた。夫に歩調を合わせる事を始めると夫が変わった。子供の幼稚園の運動会に参加し、一生懸命に競技もし裏方の世話もし、夫の変わりように驚いた。感謝を伝えると「君を喜ばせたかった」と言った。素直な気持ちを伝え合ったのも初めてだった。神に従い、愛する事を始めるなら、神のみわざを見る。今ある対人関係で自分を捨て、愛する事を実践しよう。
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神様は愛せよと言われる。愛するためには自分の思いを捨てていかなければならない。自分の中には人を愛する気持ちなどないからだ。愛を実践しよう。自分が変わり相手が変わり、相手との関係も大きく変えられて行く。