2005年03月31日(木)

「落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)



一人の婦人の小さな子供が、何か様子がおか
しく、病院へ行くと心臓疾患が発覚。すぐの
開胸手術の必要があり、万一の場合もある事
を説明された。突如の事態であり、涙が溢れ
て止まらなかったが、神の前に祈っている時、
神にすべてを委ねるよう、最善をおして下さ
る神に子供をお任せしようと決心した。不思
議な平安が心に満ちた。励ますために電話し
た婦人たちが皆、反対に励まされ、彼女の持
つ全き平安に驚き、恵まれ引き上げられたの
だった。八時間に及ぶ手術となったが心は主
の平安で守られていて、祈り続けた。すべて
を神に委ねた手術は大成功で、今は全く元気
な小学生だ。どんなに危急の時も何があって
も神に信頼し、拠り頼む事が出来る。何とい
う幸い。
-------------------
何か起こるたびに慌てふためく自分がいるが、
必ず、守り導き出してくださる神様がいるこ
とを覚え感謝する。神様がいてくださるから
絶望はない。希望しかない。



2005年03月30日(水)

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯さないように」(ヨハネ8:11)




あるクリスチャン女性が男性と間違いを犯し
てしまった。深い後悔と絶望の淵に立たされ
た。取り返しのつかない事をしてしまい神を
も家族をも深く傷つけた事がわかった。
しかし、神は心からの悔い改めを受け入れて
下さり、姦淫の現場の女のように赦して下さ
ったのがよくわかった。厳しい刈り取りがあ
った。決して刈り取りは甘くは無かった。悲
しい苦しい悲惨な状況を通りつつ、決して逃
げないできちんと刈り取る事も決心した。
言語に絶する苦しみの中を通ったが、今、幸
いな所に置かれている。粉々に自分自身が砕
かれたと。神はどんなに悲惨な罪をも赦して
下さる。人は蒔いた種は必ず刈り散ら無けれ
ばならないが、更に豊かな所へと導き出して
下さる。
――――――――
深い挫折を味わった時、いやでも醜い自分を
知らされる。罪を赦して下さるイエス様の深
い愛をどん底の底で知る。


2005年03月29日(火)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです」(ルカ10:42)



ある女性はずっと祖母を見て育った。
敬虔なクリスチャンだった。父に早く死
別、母はずっと働きに出ていた。祖母が
畑の世話をしつつ自分を育ててくれた。
祖母は母をも助けて朝から晩まで働き詰
の日々だった。畑仕事に食事作り、掃除
、洗濯、目の回るような一日だ。しかし
、祖母の口から愚痴や不満を聞いた事が
一度も無かった。いつも穏やかでニコニ
コしていた。祖母はいつも朝早くに起き
、主との交わりを喜んでいた。一日の力
と、決して欠かした事が無かった。端か
ら見ていても真にそれが祖母の力であっ
た。多くの事を祖母から学んだが、何よ
りも一日も欠かさず事の無い主との交わ
りの大切さと力が一番教えられた事だっ
た。必要不可欠なものだ。
―――――――――
主との交わり、これがすべてだ。一日中
襲って来るサタンとの戦い、自我とのせ
めぎあい、罪の誘惑、それらの中で絶え
ずみこころを、御言葉を選択していかな
ければならない。一日のはじめにまず主
にお会いしよう。御言葉の糧を得ること
が必要不可欠なことだ。


2005年03月28日(月)

「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために私を義の道に導かれます」(詩篇23:3)


ある婦人は最近どうも小さい字が
見えにくいと眼科に行くとかなり
老眼が進行していて、老眼鏡によ
って驚くほど鮮明に見えるように
なった。私たちの霊的視力はどう
か。鈍って目の前のものが見えて
いないのではないか。伴侶の必要
子供たちへの愛情、周囲の人々へ
の配慮、しっかり周囲の人々の必
要が見えているか。自分の事しか
見えていないのではないか。自己
中心に過ごしていないか。視力が
衰えているなら、唯一回復は主と
の交わりだ。主に自らの現状を打
ち明け霊を新たにして頂くのだ。
主の霊に触れる事で、私達に霊は
生き生きと息を吹き返す。御霊に
導かれて歩むなら、自分の事だけ
でなく他人の事を考えられるよう
になる。あなたなの状態はどうだ
ろう。
-------------
いつも神様につながっていなければ
すぐに自分!自分!の失敗を繰り返
す。主の霊に触れ、自分に頼る愚か
さを悔い改めて行こう。


2005年03月27日(日)

「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか・・がわかります」(ヨハネ7:17)

神がわかるのは、みこころを行って行くから
だ。神に従う事をせず、聖書を知ろうとして
も、真にみことばはわからない。実際に従っ
て行く時、神を経験する。これは態度の問題
だ。神の御前で従順であれば、あるほど神を
知る者とされて行く。みこころを行うために
は、自分に死ななければならないからだ。へ
りくだらなければならない。従って行く時、
自我が砕かれて行く。ある人は争いを生じた
相手と和解するよう示された。相手も悪い、
こちらから行動するのはプライドが許さない。
しかし、自らへりくだって従った時、相手と
の関係が正され、満ち溢れる喜びと大海のご
とき平安を味わった。神に触れた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今までの歩みを振り返ってもよくわかるに違
いない。神を経験するのは、従って行った時
だ。従わない限り、何も変わらない、わから
ない。目の前に示されている事に、勇気を出
して従おう。その事に従わない限り、前に進
まない。


2005年03月26日(土)

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら・・」( II コリント3:18)

主の栄光を反映させるためには、顔のおおい
を取りのけなくてはならない。おおいをした
ままでは、主の栄光はその人を照らす事は不
可能だ。主の栄光は顔おおいをのけ、心を主
に向かって開いている人に照らされる。心を
閉じていてはどうしようもない。神がわかり、
神の心がわかるのは、神に向かって隅々まで
心を開く事による。つまり、それは自分自身
を余すところなく神に献げる事によるのだ。
その時、初めて御言葉が理解できるようにな
る。ある人が自分の持てる物を、主の働きの
ために献げるよう強く示された。富に執着心
があり、欲もあり、なかなか出来なかった。
しかし、覚悟を決めて献げた。その時から全
く変えられ、主の御声がさやかに聞こえるよ
うになった。そして、献げたもの以上のもの
が与えられた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神がわかるのは、自分を献げた度合いに応じ
てだ。自分を保留し、握っている限り、神は
わからない。献げる事を恐れる。しかし、献
げる事が出来るのは恵みによる。“恵みは我
が身の恐れを消し、献げる心を起こさせたり


2005年03月25日(金)

「御霊に属する人に対するように話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」( I コリント3:1)

この世には3種類の人がいるだけだ。未信者
と御霊に属する人と肉に属する人だ。肉に属
する人とは、キリストを信じ、聖霊の内住は
あるが、聖霊に支配をさせない。自分が主導
権を握って離さない人だ。霊的幼子であり、
しばしば妬みや争いに身を任せ、クリスチャ
ンだが、未信者みたいな歩みをする。部分的
に神に頼りはするが、全面的に明け渡さない。
自我が心の王座に座っていて、自分の思い通
りに歩みたい。御霊に属する人は、自分を神
に明け渡し、人生の主導権を渡しているので、
御霊は自由に働く事が出来る。光に照らされ
罪がますますわかる。御霊に従おうとするの
で、みこころを悟り、喜びが満ちる。あなた
はどんな状態だろう。「よくなりたいか」と、
主はあなたの前に立っておられる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
現状の自分がよく照らされ、足らなさを見る
時、渇きが起こる。もっとよくなりたい。もっ
と神に近い満ち満ちた歩みがしたい。肉から
御霊の人へと変えられ成長したい。渇きは恵
みであり、自己満足は最大の妨げだ。
 


2005年03月24日(木)

「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです」( I コリント2:12)

霊の事は霊によってのみ理解できる。聖書は
どこの本屋にも売っている印刷された書物で
ある。が、聖霊によって記されているため、
霊によらなくては決してわからない。それゆ
え、御言葉は新しく生まれて初めて理解でき
るようになる。御霊が解き明かして下さらな
い限り、何一つわからない。神を信じていな
い人々の分析や論証によっては、神は決して
わからない。神は分析されるお方ではないか
らだ。しかし、御霊を受けた者は御言葉によ
って、神のお心がわかる。神に近づけば近づ
くほど御言葉がわかる。一歩一歩神の示しの
ままに従う事が大切だ。今、示されていなが
ら、ちゅうちょしている一歩があるか。その
一歩を信仰持って踏み出そう。必ず従って良
かったと思える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
御霊によってしか、本当に御言葉はわからな
い。御霊によって神のお心がわかり、神のお
心を行なって行く時、神がわかる。神のお心
がわかるとは何という恵み。今、目の前に示
されている事に勇気を持って従おう。


2005年03月23日(水)

「しかし今は・・怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい」(コロサイ3:8)

毎日の生活の中で、自分の中の新しい
性質と古い生まれつきの性質が戦う。新
しい性質は罪を悲しみ、神を喜び、神に
喜ばれる歩みをしたいと願う。ところが古
い罪の性質は自分を喜ばせる事、自分
の欲得、自分の肉欲を遂げる事を願う。
常に内側で戦いがある。あなたもそうだ
ろう。日々の生活、神を喜ばせるか、自
己を喜ばせるか、どちらかの選択だ。瞬
間、瞬間の選択だ。人に傷つけられ怒り
が生じた場合はどうか。プライドが傷つき、
仕返しがしたい。憤りが湧き上がり、一言
嫌味を言い返したい強烈な欲望が湧く。
しかし、それは肉の欲望だ。言えば、スッ
とするのは肉だ。肉を喜ばせる事になる。
それを捨てよという事だ。その時、御霊に
よる喜びを経験する。
・・・・・・・・・・・・・・・・
罪には一瞬の快楽がある。肉を発散させ
るとスッとする。しかし、必ずとがめが来
て、悔いが来る。御霊の内住があり新しく
されているからだ。一瞬の選択だ。悪い
言葉を出す事を拒否する、御霊の導きに
意志を向ける。と、御霊が助けて下さる。
 


2005年03月22日(火)

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)



集会の中心はイエス・キリストだ。主
にお会いするために集会に出向く。
有名説教者のメッセージを聞くために
行くなら、その人の名のもとに集まる
事になる。私達はあくまでもどこまで
も主の御名において集まるのだ。集会
の中で主を求め、主にお会いする。そ
の時、私達の霊は真に満たされる。主
にまみえて霊が新たにされて集会を去
るのだ。あなたは主を求めて主にお会
いする事を求めて集会に集っているか。
漠然と習慣的に集っているか。常に集
会全体を建て上げようとの思いがある
か。それとも自分の事しか、自分が恵
まれる事だけしか心に無いだろうか。
集会全体が祝されるように、建て上げ
られるようにとの祈りをもってそこに
いるべきだ。
------------------
集会は主が御臨在されるきよい場所だ。
近況を語りあい、学びをし、また祈り
終わった時にその場を支配されていた
主をしっかりと感じ御霊様に満たされ
ている。集会に主を求めていなければ、
どんな集会であってもいつか失望して
しまうだろう。



2005年03月21日(月)

「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い・・ますますそうしようではありませんか」(ヘブル10:25)


ひとりで聖書を読んで祈っておれば良いので
はないか。しかし、神は集会の中で特別に備
えておられる恵みがある。祈らない限りきか
れないもので、一人で祈ってもきかれない。
一人で十分祈ればそれでよいと思うが、決し
てそうではない。そしてクリスチャンは個人
で聖書を学ぶ事が出来るが集会と引き換えに
はならない。なぜなら、神は集会の時だけ与
えられるある種の恵みを備えておられるから
である。
ゆえに恵みを失うことの無いように集まる事
をやめてはならない。
〈今日のお祈り〉
天のお父様、
集会を守れるように。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
--------------------
未信者の多い世で生活しているからこそ、教
会での兄弟姉妹との交わりは、本当に貴重だ。
価値観を同じくする人たちとの、励まし合い、
祝福の分かち合いで霊的に整えられ、ますま
す神様を深く知って行ける。


2005年03月20日(日)

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容・・このようなものを禁ずる律法はありません」(ガラテヤ5:22)

人は真理がわかったから信じるというのでは
ない。多くの人は教えを理解しても信じない。
それゆえ、議論は無意味であり、何の益もな
い。議論で人を捕らえる事は決して出来ない。
これはよく経験するところだ。議論で勝って
相手を負かしても、その人を神から去らせて
しまうだろう。議論はすべきではない。議論
ではなく「証し」をするのだ。どんなに喜び
があり、平安であり、嬉しいかを語れば良い。
それらを禁ずる律法は無いのだから、彼らは
誰一人それを否定する事が出来ない。なぜな
ら彼らの内には絶対に無いものだから。証し
には大きな力がある。自分自身が御言葉を生
きる事によって、自分自身が日々喜びを経験
する。それが力強い証しとなるのだ。御言葉
に従うなら、自分自身も周囲にも豊かな実を
結んで行く。
・・・・・・・・・・・・・
議論は自分を正しいとし、相手を打ち負かそ
うとする。自分を正しいとする事に、決して
神は働かれないので、何の証しにもならない。
相手を更に神から離してしまうだけだ。自分
自身が御言葉を生きる事が、真の証しだ。




2005年03月19日(土)

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります」(マタイ7:7)

祈る時、神の約束に基づいて信じて祈る
なら、神は与えて下さる。祈りで重要な
ものは神の約束だ。約束を握って求める
事だ。神は約束を成就されないわけには
行かない。なぜなら神は真実であられる
から。ご自分の真実を否むことが出来な
いように、約束は成就されないわけには
行かない。神の御旨に適うものは必ず与
えられる。まず神の御旨を求め御言葉を
通して確信する事だ。私たちの教会の新
会堂建設に当たり全員で神の御旨を求め
た。皆が与えられた御言葉を通して神が
建てられる事を確信した。見える所は不
可能であったが、御言葉に立ち神を信じ
祈りによって前進していった時、神の奇
跡と素晴らしい栄光を見た。まず御言葉
を求めて祈ろう。
――――――――――――――
状況はいかにあっても、神様の約束の
御言葉を信じ続けることが大切だ。神様
の約束は必ず成就する。状況に振り回さ
れず御言葉に立とう。




2005年03月18日(金)

「もしも私の心の中にいだく不義があるなら、主は聞いてくださらない」(詩編66:18)


祈りの最大の妨げは罪だ。罪があれば祈り
が聞かれない。祈りのために私たちは聖い
生活をしなければならない。罪とわかってい
るものを捨てず、離れないなら罪があいまい
になって来て、段々罪を見逃すようになり、
祈りが妨げられる。告白していない罪は無い
か。一つ一つの罪を具体的に告白し、赦しを
受け取らなければならない。罪をそのままに
していると、良心が機能をなさず、信仰の破
船に会う。船に穴があくと船は使い物になら
ず、用をなさない。信仰に良心は際めて大切
だ。良心が用をなさなければ信仰は壊れてし
まう。正しい良心をしっかり保ち、罪を罪と
定め、認める事だ。御霊の光に罪を照らし出
され認められて悔い改めるなら良心は常に健
在だ。
――――――
罪は必ず赦される。赦されるから、私たちは
いつも光の中を歩んでいける。正しい神様と
の関係を大切にしたい。


2005年03月17日(木)

「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」(マタイ13:4)


御言葉を聞く時、心が開いていないなら、
いくら物理的に耳に聞こえていても、心
に入って来ない。聞く事が出来ない。そ
の種はサタンが持ち去ってしまう。
御言葉が入らない限り、どうにもならな
い。種と土が一つになって豊かな実を結
ぶ。土に種が植わらない限り結実は不可
能だ。もし成長したいと願うならば、種
である御言葉がどうしても不可欠だ。
そして良く耕された良い土地、素直に御
言葉を聞く心が必要だ。御言葉を聞く態
度はどうだろう。自分の思いや主観、偏
見があれば、固い土地なので御言葉を跳
ね返してしまい入らない。思い煩いも御
言葉が根付く事をふさぐ。聞く態度がき
わめて重要だ。今日、自らの聞く態度を
点検して、御霊に正して頂こう。
------------------
従いたいとの思いで御言葉に接したい。
長年、御言葉を聞いていても、相変もわ
らず心配事ばかりの毎日、変わらない自
分ではないか。




2005年03月16日(水)

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、



ある人の母親が高齢になり、家事のためにヘルパー
さんを雇った。ところが、昔気質の母親はヘルパー
さんが来るという事で、来る前に綺麗に掃除するの
だ。もっと負担が増えてしまい何のためのヘルパー
かわからなかった。私たちも信仰生活で同様の事を
していないか。神の御前に行くのに、綺麗にしなけ
ればと思ってしまう。罪を犯した時、こんな自分は
神の御前に行けないと思う。自分をきよめて行こう
とし、更に離れてしまう。自分で綺麗になって出よ
うとする事はキリストは要らないと言っている事だ。
主はそのためにこそ苦しみ十字架で死んで下さった。
罪を赦すためにいて下さる。汚れたままで御前に行
こう。
------------
私たちを罪から解放するために十字架にかかってく
ださった主が、今日も弱い私達のためにとりなして
いて下さる。なんという恵みだろう。天に帰るその
日まで、罪との戦いは続くが、主がいて下さるから
安心だ。


2005年03月15日(火)

「喜びをもって主に仕えよ」(詩篇100:



「作り笑い」は出来ても「作り喜び」は出来
ない。との言葉がある。ホテルの女性係員が
ニコニコと素晴らしい笑顔でテキパキと客に
対応、ある客が「君はこの仕事が好きで楽し
んでいるんだね」と言うと「いいえ、好きで
はないが、自分のしたい事のためにお金が必
要で働いているだけ」と答えた。営業スマイ
ルだ。私達クリスチャンもしていないか。何
の喜びも無いのに作り笑いで、ごまかす。営
業スマイルがうまくなってしまっている。主
に使えるのに疲れて、しんどくなっていない
か。油切れの状態か。御霊の力が必要だ。ま
ず喜びの無い自らの状態を認め、心を御霊の
光の中でよく探って頂こう。罪が妨げている
か。主から離れていないか。回復与えられる。
---------------------
しんどい時、慰めが欲しいと祈れば神様は、
必ず与えて下さる。喜んでおれない自分の
罪に光を当ててもらおう。喜んでいる振り
は、何の解決にもならない。




2005年03月14日(月)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)

ハバククは「ぶどうは実が無く畑は食物もな
い。羊は絶え、牛もいない・・しかし私は救
いの神にあって喜ぼう」と言った。状況は真
っ暗で、何の望みも無い。が、主にあって喜
び勇むと。鍵は「主にあって」だ。真っ暗な
状況を見て見ぬ振りをしたのでは無い。事実
を無い事としてごまかしたのでもない。現状
をしっかりと認めた。しかし、主を見る時、
目に見えないもう一つの現実が見える。「主
が共におられる。この困難に目的と意図があ
り、ご計画がある。益とされる。全主権は主
にあり、全状況は主の支配のもとにある。」
喜びは選択だ。思考パタンであり態度だ。喜
ぶかどうかはあなたの選択だ。「喜び」と「
楽しいハピーな気分」を勘違いしてはならな
い。真理に根ざした喜びであり、苦難の中で
神がどういうお方かをしっかり考え、信頼し
て行く事。そこに喜びがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
喜びとは気分の問題では無い。どんな状況の
中でも御言葉に立ち、真理なるお方を信頼し
て行く事だ。むち打ち、川の難・・列挙され
たパウロの苦難、ハピーな気分などほど遠か
った。しかし喜んでいた。喜びを勘違いして
いないか。
 


2005年03月13日(日)

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」( II コリント2:15)

私達が伝える福音の証しは、ある人には命
に至らせ、ある人には死に至らせる。氷を溶
かす太陽は、粘土を固くする。同じ太陽が正
反対の結果をもたらす。福音の言葉は、受け
入れる人々には永遠のいのちを、拒む人々
には永遠の死という厳粛な結果をもたらす。
いのちか死かは、聞いた人の出す選択であり、
その人の責任だ。私達に責任はない。しかし、
パウロは神のことばに混ぜ物をせず、純正の
神のことばを、真心から、神によって、神の御
前で語った。私達もキリストの香りを放つ者とし
て、用いられるなら何と幸いだろう。「あの人と
いると何か心安らぐ」「彼女と会うと元気がもら
える」おのずと放たれるキリストの香りだ。主と
の近い交わりを通して放たれる。日々周囲に
どんな匂いを放っているだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
真心から神に導かれ、福音を伝えた結果、相手の
出す答えには責任は無いが、自分自身の生活と行
ないについては責任がある。悪臭ではなく、キリ
ストの香りを放つ者でありたい。明け渡して、通
り良き管としていただこう。







2005年03月12日(土)

「それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた」(マルコ6:46)

あなたは最近多忙だろうか。余りに忙し過ぎ
て、まず最初に削るのは祈りだろうか。主は
日々、目まぐるしい忙しさの中におられた。
御言葉を教え、病人を癒し、悪霊に憑かれた
者から悪霊を追い出し、その働きは心身共に
大変な消耗であった。クタクタに疲れられた。
舟に乗るやすぐに熟睡されたほどだ。二四時
間使っても間に合わないほどの働きがあられ
た。しかし、主は最重要、最優先にされた事
がある。それは御父との交わりだ。何よりも
大切にされた。群衆から離れ、時を確保され
た。あなた日々は多忙を極めているか。主は
ご存知だ。主はどんなに多忙でも決して御父
との交わりをおろそかにされなかった。しば
し、雑事から退いて、休息し、あなたの魂を
養う必要がないか。祈りのためにひと時休憩
しよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生き生きとした喜び、心の潤いや安らぎ、潤
滑油は主との交わりからしか来ない。油が切
れるとカラカラ状態だ。マリヤは良い方を「
選ん」だ。選ばない限り交わりは持てない。
今日も選択だ。


2005年03月10日(木)

「あなたは隣人の家を欲しがってはならない・・すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない」(出エジプト20:17)



欲しい物が必ずしも必要なものではない。欲しい物と必要なものは別だ。貪欲とは必要がちゃんと満たされているのに、それでは満足出来ないで限りなく欲しがる事だ。だから貪欲には際限がない。得ても得てもまだまだ欲しい。満足できない。あく事なく求める。ダビデが他人の妻を欲しがった事が悲惨な取り返しのつかない結果を招いた。バテシバとの姦淫、他人の妻を盗んだ結果の妊娠、その事への隠ぺい工作をするが、失敗し、夫ウリヤの殺害へと進展して行く。貪欲は死を生み出す。主が与えて下さる「満ち足りる心を伴う敬虔」は何という幸いな恵みだろう。「今持っているもので満足」でき、感謝が溢れる。主の心が満たされるからだ。貪欲の罪に警戒しよう。
-----------------
一見よいもののようでも、必要以上に追い求めるのも貪欲だ。たゆみない訓練、限りない上昇思考…やってもやっても満足できないのは、一体何を満足させたいからなんだろう。


2005年03月09日(水)

「もし人が聖なる肉を自分の着物のすそで運ぶとき、そのすそがパンや煮物・・にでも触れたなら、それは聖なるものとなるか」(ハガイ2:12)

悪が広がるのは早い。悪い言葉、流行語、悪い物真似、子供を見ていてもよくわかる。幼稚園や学校でどんどん覚えて身につけてしまう。しかし、聖さは違う。勝手に広がる事は無い。隣の人が聖いから、自分も聖くなる事は無い。放っておかれると幾らでも怠惰に流れるが、聖くなって行く事は無い。聖くなる事はオートマティックでは無い。自分で神を選び、聞き従う事を選び取らなければならない。どんなに信仰的な親でも、子供の代わりに信じ、従う事は出来ない。子供が自分で信じ、自分で従わなければならない。私達も同様だ。教会に属するので聖くなる事は無い。神の導きに一歩一歩従順に従う必要がある。クリスチャン達と群れていても聖くはならない。どこまでもあなたと神の個人的関係だ。その関係を密に築き、意志を向けて選択する事だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今、目の前に示されているみこころに信仰もって従おう。その一歩に従わない限り、決して神はわからない。成長は無いし、次の導きも無い。目の前の一歩に従って行く時、頭ではなく心で神に触れて行く。次の導きが示される。勇気を持って今従おう。
 


2005年03月08日(火)

「あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います」(詩編63:7)


二人の人間が沈黙したまま一緒におれるというのは、かなりの信頼関係がそこにあるという事だ。そこまで親しくない間柄だと、沈黙は場が白け、居心地悪い。次々と話題が必要だ。夫婦間で、特に話さなくても安らぎがあり、自由であるのは、愛があるからだ。ダビデは息子の造反に会い、どんなに痛く苦しい状況であったろう。しかし、彼は神を賛美した。神を思い、神の臨在の中で憩い、心満たされたのだ。神に愛され、神を愛する事によって、どのような状況の中でも、喜びが与えられる。ダビデは御翼の陰で、喜び歌うと言った。私達も神を思い、御言葉を反すうし、思い巡らし、味わう。それはさながら天国だ。苦しみのさ中で、その御翼の陰が備えられている。
――――――――
どんな状況の中でも、祈りをとおし、御言葉をとおし、神様と交わる事ができる。力強い御手が私たちをしっかり支えて下さっている事を知る時、困難は、困難でなくなる。


2005年03月07日(月)

「神が私を殺しても。私は神を待ち望もう」(ヨブ3:15)




木や建物にからみつく、つたを見る事がある。しっかりとからみつき、風雨の時はますますからみつく事となる。同様に私達も更に神に近づき、神に拠り頼むように、試練の大嵐を送られる。自分の無力を徹底的に思い知らされ、何もどうにも出来ない、神にしか頼るものがないという状況に追いやられる。人はここでこそ神を真に経験する。いかに心を支えて下さるかを知る。状況が変わらずとも、その状況のまっただ中で、心に不思議な平安、主の平安が与えられる。自分でなく、御手に支えられている事が真にわかるのだ。外は大嵐だが御翼の陰は全き平安なのだ。逆境の時は恵みの時だ。神に向かって、心の底から叫び求める。順境の時には絶対に経験できない。
―――――――――
神様しか頼るものがない、この状況の時が一番しあわせだ。神様がくださるどんな小さな慰めにも、心は敏感になり感謝して受けとれる。絶えず祈れ、みことばは心に響き、大きな平安の真空パックの中で嵐をやり過ごせる。


2005年03月06日(日)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)

信仰の人ジョージ・ミユーラーは神にだけ頼り、人間的なものの一切に頼らず、孤児院を経営した人物だ。数え切れない経済的危機を信仰と祈りによって、神のみに頼って乗り越えた。ある時は多額の支払いを控えて、全くお金がなかった。スタッフ達皆でひたすら神を拠り頼み、祈りに祈り続けた。支払い前日に、神に献げたいと必要な額の小切手が届いた。こんな事が日常茶飯事だった。神に拠り頼み、信頼し、どんな時も祈り続けた。クリスチャンでありながら、神を頼まず自分の力で走り回っているか。それを神から離れていると、主は言われる。今、自分の思い、判断、力をストップして、神に祈ろう。神の判断を仰ぎ、神のみこころを求めよう。
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自分の思いと力で動き回り、かなりの事が出来るから問題だ。しかし、それは神から離れた虚しいわざだ。エバが神から独立したあの罪だ。かの日に燃え尽きて何も残らない。神のお心を求め、一つ一つを神に信頼して、神にして頂こう。神と一つに歩める喜び。
 


2005年03月05日(土)

『アブラハムは答えた。「イサク、神ご自身が・・羊を備えてくださるのだ」(創世記22:8)

女手で子供を育てている婦人に米が底をついた。神に祈り求めた。すると、その日丁度、海外転勤の引っ越し荷造りをしていた友人が「余ったお米、食べてくれる?」と、大きな米袋を抱えて来た。即、祈りが答えられたのだ。アブラハムは遥かに厳しい試練に会った。イサクをどうして献げられよう。しかし、約束の子イサクが与えられるまでの長い年月に、彼の信仰は試され、練られ、鍛えられていたのだ。神の約束がいかに真実であるかを、目の当たりに見て来た。ずっと長い間に培われた信仰が、今この時、いざという時に発揮されたのだ。彼は神を信じた。私達も、信仰生活は、日々に神を信頼して歩む地道な毎日の積み重ねだ。それゆえ、この一日を、神だけに信頼して生きる事は何より大切だ。信頼する度に、確かな手応え、真実な神を体験し、信仰は少しづつ成長して行く。
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通りを歩く見知らぬ人を信じる事は不可能だ。少しづつ交わりが深められ、信頼関係は時間をかけて培われる。信頼は増して行く。神への信頼が地道な日々を通し、天に帰るまで、1日1日積み重ねられて行く事は大きな喜び。今日も神を信頼しよう。
 


2005年03月04日(金)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)



雨の日のために備える事は良いことだ。賢明だ。将来の生活設計をし、備えるのも良い事だ。しかし、未来に起こるかもしれない不安や心配を想像して思い煩うのは無意味であり無益だ。だいたいその想像は当ったためしがない。癌で死ぬと三十年怯えた人が結局癌にならず天寿を全うした。悪い想像を選ぶ私達を神もどうにもできない。なぜならそれは架空のものだから。現実の問題なら神に頼り具体的に解決して行けばよい。現実に起こってから対応すれば良いのだ。神が共におられる。思い煩いは架空の亡霊だ。それに振り回されて、今日も明日も人生を台無しにしたいだろうか。明日のための益の無い心配はいっさい無用だ。思い煩いを捨てよ。
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架空の亡霊に怯えそうになる時、思考を変えよう。神様が共にいてくださる限り最悪の明日はないからだ。サタンの思い煩いの罠にはまらず、信仰もって神様見あげよう。


2005年03月03日(木)

「今の時の、軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(Uコリント4:17)



私達は皆、必ず試練に会う。悲しみと苦しみというヤスリで研がれる。そのヤスリがあたると痛い。必ず痛い。しかし、それは私正児ではない証拠だ。よその子供を訓練はしない。神が我が子と言って下さるのは何という幸せ。平穏無事に暮らしている中に突如として試練は臨む。いつもそうだ。驚き慌てず痛いが受け止めることが大切。磨かれるのは痛い。とがったプライドや膨らんだ虚栄心、自我が砕かれるのは苦しい。しかし、主以外に自らの拠り所を置いているなら、必ずそこに臨まれる。愛する人、富、物、名誉、地位、体面・・なんであれ、偶像をはっきり明らかにされる。そのままにしておくと、神から離れてしまうからだ。練りきよめられ、不純物を取り除かれる。
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試練の時、私のどの部分に神様が臨まれているのか、自分の何を神様に差し出すべきなのか、じっくり考えてみよう。状況ばかりに目を取られがちだが、神様が教えようとしておられる事に目を向けて行くことが大切だ。


2005年03月02日(水)

「むしろ、耐えることのできるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(Tコリント10:13)

ある夫婦が、子供を交通事故で亡くした。悲しみに打ちひしがれた。しかし、深い悲しみにある夫婦を丸ごと抱いていて下さる主を感じ、悲しみの中にも大海のような平安と慰めを経験した。補償金が入った時、主のために、子供のために使いたいと祈り、導かれて小さな集会所を建てた。牧師に来てもらい、そこで、子供や大人の集会が開かれた。その地区の子供達が救われ、大人が救われて行った。主は夫婦の心に新たな喜びを与えて下さった。婦人に会った時「心が平安で守られています、本当に感謝なんです、感謝で一杯なんです」と証しされ、心が恵まれ、引き上げられるようだった。どんな時も、永遠の腕が下に。耐えられない試練はなく、逃れの道が必ず与えられている。
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試練の中は痛いので、自分の事しか考えられない。脱出の道は、神のみこころをひたすら考える事だ。自分に焦点を当て、自分自分となって行くと、自己憐憫に陥り、神から離れて行く。神を選択して行く時、自分も周囲も栄光を見て行く。


2005年03月01日(火)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し・・御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Tヨハネ4:10)




神の愛がなかなか理解できない。培われた価値観があり、良い子であり、良い行いをし、立派であれば愛される価値があり、受け入れられると思っている。しかし、へまをすると、もう受け入れてもらえない。うまくやっていれば良いが、失敗すると愛を失う。愛されるのは自分の行いにかかっている。髪の愛がこんな不安定なものでは断じてない。神の愛は不変だ。神の愛は私達がへまをした時も決して変わらない。変わらずに愛していて下さる。良い子であろうと、悪い子であろうとだ。愛して下さったのは「私がまだ罪人であった時」だ。私たちの状態がどうであれ、永遠に変わらない愛で愛されている。何と言う喜びだろう。主との交わりで愛は深められる。
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いかに自分が神様から愛されているか、それを少しでも多く知っていきたい。失敗だらけでもイエス様の十字架によって神様の愛を一身に受ける立場になっていることに感謝だ。注がれている御愛を知るために今日も、神様に近く歩もう。