2005年04月30日(土)

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)

砂漠を歩いた人が、無知で砂漠を歩
くとどんなに危険で恐ろしいかを体験
した。方向感覚喪失し、又、自分の位
置もわからない。生還できた事を心か
ら神に感謝した。自分は大丈夫、わか
っているという高慢の鼻をへし折られた
と。私達も同様だ。自分の人生は自分で、
コントロールできると信じ込んでいる。し
かし、困難に出会う時、砂漠の中だ。自
分でどうにもできない事を知る。どう進め
ば良いか、どうすれば良いかがわからず、
もがけばもがくほど自滅して行く。解決が
無く、さまようばかりで疲労こんぱいし、つ
いに力果てる。自分の力から目を離し、神
に頼る時、神は正しい方向へ導かれる。御
言葉によってだ。神に頼れ。
-------------------------------
初めての地で、地図を持たず深夜に全く方向不明
で、どっと不安に襲われた事がある。地図があれば
大丈夫。御言葉は地図だ。わからない時、迷う時、
御言葉により指針がはっきり示される。


2005年04月29日(金)

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(U列王6:16)

以前、大きなスーパーで品物を捜していて、
ほんの一瞬だった。カートに置いたままの
バッグを盗まれた苦い経験がある。その日、
現行犯で警備員に捕まる現場を目撃した。
その店では私服警備員達が目を光らせてい
るそうだ。目に見えないところで、守られ
ていたわけだ。召使が軍隊に包囲されてい
る事を見た時、エリシャは、神の軍隊が配
置されているから、恐れるなと言った。
その若者の目が開かれると火の馬と戦車が
山に満ちていたのだ。困難な状況にあるか。
しかし、遥かに大きな神の軍勢の守りと助
けがある。恐れるな。道が備えられている。
みこころを歩むなら、どんな中でも必ず、
必要な備えと助けが来る。
神の喜ばれるみこころを歩もう。
そして恐れるな。
--------------------
どんな状況でも、みこころにいるなら、
恐れることは無い。最善で最強な助け手が
私たちとともにいる。




2005年04月28日(木)

『あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます』(詩篇27:8)

クリスチャン夫婦が結婚四十年目を迎え、
過去を振り返り溢れるばかりの恵みと祝
福を覚えた。生活背景の異なる二人が差
異を生じる度に多くの対話により理解を
深め合い、力を合わせ、協力して子供を
育て上げた事、その様々な試練や喜び、
それらを通して一つに建て上げられて来
たのだ。神との関係も同様だ。天へ行け
るからもういいのではない。天への旅路
の一歩を踏み出したのだ。主との関係は
深められる。更に親しく更に深く、主を
知って行ける。主のお心を知り、みここ
ろを行って行く中で、更に主のお心に触
れる事が出来る。主に祈り御言葉を通し
て語り掛けて下さる。交わりを通して関
係は深められて行く。あなたと主との関
係は喜びか。
--------------
ただ神様を知ったというだけでなく、天
に行くまで、神様と個人的に深く、深く
関わって行く。昨日よりも今日、明日と。
歳を重ねるごとに、より親しく、よし慕
わしく朝毎に神様を求めたい。


2005年04月27日(水)

「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか」(マタイ5:46)

ある有能な女性が職場でチーフに抜てきされ
た。このことは男性達には面白くなく、又、年
配の女性達にも妬みを受けた。辛く当たられ、
批判や悪口が飛び交った。ひどく傷ついて、
自分を守るのに必死だった。通勤が辛く、通
勤の度に腹痛が来た。心身ともに消耗し倒れ
そうで、神に助けを求めて祈った。祈りの中で、
主の愛を覚え、溢れる愛を受けている自分の
なすべき事がわかった。主に今一度心を大き
く開いて明け渡し、主の愛の通りよき管とされ
るよう祈った。主の助けにより、どんな時にも
親切をもって対応し続けた。すると、周囲の態
度が変って来た。職場に和やかな空気が流れ
始め、和気あいあいとなった。神が働かれた。
受け入れられ、愛されていると感じる時、人は
変わる。愛は神から出る。
・・・・・・・・・・・・・・・・
愛が無く、敵対して来る者を愛せ「ない」が、
愛の無い自分を認め、通りよき管として自分
を明け渡す事が「できる」。状況が暗けば暗
いほど、神の光が輝く。


2005年04月26日(火)

「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ21:35)


ある人が仕事や家事で多忙な日々が続き
、倒れそうだった。ある日は余りにも過
密スケジュールに思い煩い、四時に目覚
めてしまった。神経過敏になり眠れない
のだ。すぐ朝食準備、仕事の下準備、洗
濯機を回し、下の子供達を幼稚園に送り、
又仕事に取り掛かるが、ストレスで朝か
ら疲れていた。神に焦点を当て、静かに
思った。主イエスは次から次への対応、
いつもそばにいる人々や群衆、消耗され
た事だろう。主はどうされたのか。どん
なに忙しい中でも、朝まだ暗い内に起き
て祈られたのだ。御父との交わりが主の
力の源であった。日毎に新たな力を受け、
指針を受け、御霊に満たされ一日を始め
るならどんなに有益だろう。活力に満ち
た一日となるだろう。
---------------
神様との交わりなしには何も出来ないこと、
神様以外に助けはない事を知っているなら
多忙であるほど神様との交わりを求めるの
ではないだろうか。一方的に愛して下さっ
ている神様に寸暇を惜しんで会いに行くの
ではないだろうか。


2005年04月25日(月)

「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気を与える」(イザヤ40:29)



ある男性が「私のモットーは、チャレンジ」
でした。人生で、常に挑戦する事が自分の生
きがいでした。仕事や家庭で、挑戦的な問題
が次々にやって来て、立ち向かい乗り越えて
来た。しかし、中年になって新たに難問が持
ち上がった。話し方が不明瞭になり、歩く時
に足を引きずるようになった。少し文字を書
いただけで、腰に痛みを感じた。肉体的能力
のわけのわからない変化があり、病院へ行っ
た。すると、「あなたはパーキンソン病です」
と言われた。以前はトップセールスマンの中
で挑戦していたが、今は自分にとっての挑戦
とは、服のボタンをかけたり、靴紐を結んだ
り、バランスを失わずに立っている事だった。
しかし、感謝な事に、神の助けによって毎日
の挑戦に応じ、打ち勝って行ける。薬は部分
的助けになるが、私の真の支えは祈りだ。
毎夜無事に過ごせた一日がこんなに感謝な事
であると生まれて初めて体験している。主の
恵みは十分である。毎日の挑戦に主と共に応
じる事が出来る。
----------------
状況は苦しいのに、神様が一つ一つ前進する
気力を与えて下さる。一錠の薬より本当の治
療は、唯一神様から来る。このことを知って
いるからから病を得ても心から弱り果てるこ
とが無い。感謝。


2005年04月24日(日)

「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27)

ある宣教師の話だ。宣教地で夜中に庭を滅茶
苦茶に荒らされた。花壇が見るも無残だっ
た。現行犯を問い詰めると、宣教師に悪意を
持つ者に頼まれての事だった。怒りが湧き上
がったが、「敵を愛せ」と神は言っておられ
る。夫婦で神に心を注ぎ祈り、悪意を持つ相
手を赦した。そして、一番得意な手料理を持っ
て訪ねた。すると、相手は仕返しに来たとば
かり思い、そのご馳走のもてなしに驚き、へ
たり込んだ。こんな事を経験した事がなかっ
た。親の無い彼は心荒んでおり、人に親切に
された事など無かった。自分のした事を謝り、
神について知りたいと願った。自分の思いや
欲望でなく、神の御心に従う時、周囲に神の
栄光を現して行く。みこころに歩もう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
死が私達の内に働く時、いのちが相手に働く。
自分に死ぬ時にのみ、いのちが現れる。生ま
れつきの自分には絶対に出来ない事。出来な
いところにこそ神がみわざを現して下さる。
神に祈り頼ろう。


2005年04月23日(土)

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」(マタイ6:14)

人から傷つけられたり、裏切られた時、赦す
事は難しい。肉の思いは何倍にもして報復したい。
しかし、クリスチャンは赦さねばならない事を知
っている。もし相手を憎むなら、相手よりも苦
しむのは自分だ。憎しみがどんなに悲惨で苦しい
ものか。又、自らを傷つけ害していくかを、赦せ
ない思いを抱いた事があるならわかるだろう。赦
す事は自分が癒される道だ。主は十字架上から私
達の赦しのために祈って下さった。赦す事は自分に
は<出来ない>が、赦せない心の内を正直に申し
上げ、助けを求めて祈る事が<出来る>。祈りは
聞かれる。赦せないというより、心の底を見るな
ら赦したくないのだ。しかし、神が働かれる時、
奇跡が起こる。心が変えられる。憎しみから解放
され自由にされる。大きな喜びを経験する。赦す
事を選び取ろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
赦せない思いを持つ時、一番苦しいのは自分自身だ。
相手が目の前にいない間も四六時中憎しみに縛られ、
がんじがらめだ。自分の心を正直に神に祈り、御言
葉に立ち赦す事を選び、意志を向けて行く時、神が
力を与えて下さる。赦すことが出来る。


2005年04月22日(金)

「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタイ5:8)


ジョン・マクニール彼は十九歳の時に、
キリストを受け入れた。多くの人に愛
されたこの牧師は、その人生が変わっ
た日の事を振り返った。「それはまる
で私のためにカーテンが上がったかの
ようだった。」キリストに人生を明け
渡し心の目が開かれた。駅に立ったあ
る人は、新生した日、外界が何もかも
新しく感じたと言う。空がどこまでも
青く、空気は新鮮で、道の花々は何と
美しい。別の人も同様に感じたと言う。
環境は同じだ。別に変化は無い。心が
変わったのだ。自分の内側が神と正し
い関係にされたので、神に焦点が合い、
外側の世界で神を見る事が出来るよう
になったのだ。神に向かうと御声が聞
こえる。ラジオに周波数を合わせると
声が聞こえるように。罪の中に死んで
いた者が主の購いにより、罪赦され、
再び生かされ神を見るようになる。
何と幸い。今日も生活の端々にまで愛
と配慮を満たして下さっている神を見
て、その恵みを数えてみよう。
心を神に向けるなら必ず見える。
----------------------
今まで自分しか、目に見えるものしか
見えなかった者が神様を知る。神様の
ほうを向いて生きはじめた時、不思議
な安堵感があった。神様と正しい関係
に戻れたからだ。


2005年04月21日(木)

「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました」(詩篇73:23)


不公平に対して、人間は敏感だ。成育環境、
家庭環境、健康問題、世の中を見回すと不
公平だ。不公平に詩篇記者は足はたわみ、
滑るばかりだった。悪者が栄え、富を増し、
安らかだと。しかし、神に焦点を当てた時
、見方が180度変わった。悪者の最後を
見たのだ。ヨブは子供たちを失い、財産を
失い、自分の身体にまで及ぶ激しい苦難が
臨んだ。友人達が慰めに来たが、この苦難
は罪の結果に違いないと、ヨブを更に苦し
めた。自分に罪は無いと心を固くした。神
は嵐の中から語られた。苦難の理由は告げ
ず大自然を見せられた。その創造の神の偉
大さを見て、ヨブは悔い改めた。神は天地
に満てるものすべてを創造のした私を信頼
し、私に委ねよと言われてる。
---------------------
なぜ、どうして、と訴えるところも父なる
神様のところだ。わからない!理解できな
い!でも、これもあなたからのもの。
神様が共におられるから受け入れていけます。
と心から言おう。


2005年04月20日(水)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです」(ヤコブ1:14)

罪に打ち勝つ秘訣は何だろう。それは自分の
罪に真正面から向き合い、きちんと認める事だ。
自分の犯した罪への言い訳や弁解をしようもの
なら無数に出てくる。自分を守る知恵の巧妙さ
は驚くばかりだ。又、周囲に責任転嫁して行く
なら、あのエデンの園で起きた事と同じだ。
神は悔い改めの機会を与えようとアダムに御
声をかけられた。しかし、エバのせいにし、エ
バは蛇のせいにし自らの罪を決して認めなかった。
罪を犯すのは肉の欲望に耳を貸すからだ。人や
環境のせいにしている限り暗闇の中だ。罪が無
いと言うなら自分を欺いており、真理は無い。
また、もっと恐ろしい事に、神を偽り者とする
事であり、御言葉はもう私達の内に無い。罪を
認めるなら光の中におり、その罪は赦されきよめ
られる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の非を認める事は、自我が徹底的に打ち砕か
れる痛い事だ。「ごめんなさい」が一番言いたく
無い言葉だ。自分の弱さも認めたくない。他のせい
にして自分を正当化したい。これが底に潜む自我だ。
認めるなら光の中におり、サタンもどうもできない。


2005年04月19日(火)

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしがあなたを強め、あなたを助け、義わたしがあなたを強め、あなたを助け、義わたしがあなたを強め、あなたを助け、義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)



ある新人社員、得意先とのトラブルが生じて、
対応する事になった。まだ知識もなく、仕事
の内容も十分把握できておらず、思い煩いと
不安で胸が押しつぶされそうであった。その
時、チーフが「私も一緒に行くよ」と言った
その瞬間恐れは消え、安堵が心を満たした。
これは神が私達に言っておられる事だ。ある
婦人は勤務する病院で看護婦長にとの推挙を
受けた。責任の重さに自分に出来るのかと不
安の中、祈りの中で、やはり、恐れるな、私
が共にいる。あなたの右の手で守ると約束し
て下さった。恐れが消え、信仰持って前進す
る決心が与えられた。主が一緒に行って下さ
るなら、何を恐れる事があろう。主はあなた
と共におられる。
-------------
恐れで逃げてしまいたい時、避けたい時に、
このイザヤ書の力強い御言葉にどれだけ助け
られただろう。恐れを感じるとき、私達は神
様を忘れているのだ。



2005年04月18日(月)

「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカ2:7)

ある父親が、夏休みに、突如思い立って、車
で家族旅行に出かけた。高原で素晴らしい景
色を堪能し、快適に過ごした後、宿泊のため
のペンションを捜したが、どこも満員。行楽
の時期だけに全く空きが無かった。有名なク
リスマスの記事だ。ヨセフ達も同様だった。
臨月のマリヤを抱え、幾ら捜せども空き室が
無かった。それで、家畜小屋での出産となっ
た。彼らの居場所が無かったのだ。今、あな
たの信仰生活はどうだろう。あなたの心の中
に、主の居場所はあるだろうか。自分の計画
と自分の欲望で一杯か。主を締め出している
か。自我が王座を占め、主には余地がなく、
居場所が無い状態か。心の状態を静かに探っ
てみよう。この世の事で一杯になっている私
達の心に、部屋を求めて叩き続けておられる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の心の中に、主の場所があるだろうか。
「だれもみな自分自身のことを求めるだけで
キリスト・イエスのことを求めてはいません」
主を締め出していて、心が痛いだろうか。外
側からノックし続けておられる。外側に取っ
手は無い。内側からしか開ける事が出来ない。


2005年04月17日(日)

「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」(ルカ5:5)

プロの漁師であるペテロだが、一匹の獲物
も捕れず、心身消耗しきって網を洗っていた。
そこへ主イエスがペテロの舟に乗られ、御言
葉を語られた後、沖へ漕ぎ出して漁をするよ
うに言われた。しかし、ペテロの思いがあっ
た。夜通し漁をして何一つ捕れず、骨折り損
であった。自分はこの道の事はわかる。今、
漁をしても魚など捕れない。しかし、主は漁
をせよと言われる。見えるところと御言葉が
相反する時の良い教訓だ。常識やこの世の
価値観や判断でなく、御言葉に従う事だ。
<でも>お言葉通りにしますと。その時、ペ
テロは奇跡を見た。舟が沈むほどの大漁で
あった。ペテロは驚き、聖い畏れで一杯にな
った。自分はプロ、しかし自分の判断外の事
が起こった。自らの不信仰をまざまざと見せ
られ、へりくだらされた。「私のような者から
離れて下さい。私は罪深い」と言った、このへ
りくだったペテロを人を漁る漁師へと召し出さ
れたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の思い、判断、力で動き回っている時は、
不毛だ。消耗するばかりで、何一つ満足がない。
平安も、喜びも無い。私達の唯一の喜びと満足は、
主の御声に従う事だ。今、目の前に示されている
事に、<おことばどおり>従おう。ペテロのよう
に主の素晴らしいみわざを経験し、神を知る。



2005年04月16日(土)

「だから、あすのための心配は無用です。あすの事はあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)

主は明日の心配は無用だと言われたが、心
配は必要なのではと思う人がいるだろうか。
急に病気になったら・・倒産したら・・親が寝た
きりになったら・・こんな備えは大切なのでは
と。しかし、すべてが「もし」に集約される。も
し〜になったら・・これから来る恐れは際限
がない。雨の日のために考慮し備える事
は賢明だ。しかし、起こりえるトラブルを次
々と勝手に想定して膨らませ、どんどん思い
煩いにほんろうされる事は別の事だ。神の
みこころではない。それらはすべて幻であり
架空の亡霊だ。現実でない事に対して、神も
どうにもお出来にならない。現実になってから、
対応すればよい。神が助けて下さる。思い煩
いは不要で無益、不信仰だ。何を食べ、何を
着るか心配するな。「本当に必要なもの」は
必ず神から与えられる。
・・・・・・・・・・・・・・・
思い煩いは妄想であり亡霊だ。現実ではない
し、形もないのに、しかし、しっかり存在する。
サタンの攻撃だ。心は乱れ落ち込む。一生
亡霊である「明日」を煩い平安の無い時を過
ごすか、神を信頼して喜びに生きるか、信仰の
選択だ。今日も煩いを拒否し、神を喜び楽しもう。


2005年04月15日(金)

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」(ヨハネ21:15)

弱さゆえに主を裏切ってしまったペテロに、
主の愛は決して変わらなかった。主は、ペテ
ロにアガペーの愛でわたしを愛するかと2回
問われた。自信を砕かれたペテロは、2回と
もフィレオの愛で応答した。主は3回目は、
そのままのペテロを受け入れて下さり、その
ままでよいと、ではフィレオの愛でと応答し
て下さった。深い主の愛は、私達それぞれを、
今の状態で受け止めて下さっている。今のあ
なたの愛で従って来なさいと。ペテロに、アガ
ペーの愛でわたしを愛するかと、問われた主
は、ペテロが裏切ってしまった後も、裏切る前
と全く変わらず、無条件の愛、一方的な愛、神
の愛で愛し続けて下さった。この愛を基とした
主の問いかけによって、ペテロは裏切ってしま
ったが、今も尚、主を愛している自分の心を
知る。
・・・・・・・・・・・・・・・・
愛の無い、不十分な者に、不十分なままを受
け止めて下さり、今のその愛でよいと、今の
精一杯のその愛で従って来なさいと言われる。
あるがまま受け入れられると、もっともっと
愛したいと心底思うから不思議だ。


2005年04月14日(木)

「主よ。お話しください。しもべは聞いております」( I サムエル3:9)

サムエルに、正しい態度があった時、神はサ
ムエルにわかるように語られた。今も同じよ
うに、神は私達に語られている。しかし、神
の御声がわからない。聞き取れないのだ。ラ
ジオを聞く時、周波数に合わせて聞く。ラジ
オは発信しているが、周波数を合わせないと
聞き取れない。私達の態度が問題だ。神に焦
点を合わせていなければ聞き取れない。デボー
ションしながら、多忙で頭が次のスケジュー
ルで一杯な時、心が立ってしまっていて、心
がそこにない。又、罪があり、神との間を隔
てていたりする。又、自分に都合の良い言葉
を聞きたくて、不都合な言葉に耳を閉ざして
いる場合がある。そんな時は全く聞こえない。
神は語っておられるが、聞きたくないのだ。
自らの内側をよく吟味してみよう。どうであ
れ御旨に従いますの態度がある時必ず語られ
る。
・・・・・・・・・・・・・
心を吟味する事は必要だ。なおざりにしてい
る御旨はないか。拒否している事はないか。
従う気持ちが無いなら、御旨を求めても無駄
だ。御旨は聖なるもの。従う意志がないのに
神は語られない。私達の心はどうだろう。


2005年04月13日(水)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。見よ。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりましのは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」( II コリント5:17)

この世のカウンセリングでは、成育歴や親
や環境を問題にする。現在の自分の問題に
ついて、生い立ちや過去の様々な事柄は、
理解の一助になるかも知れない。しかし根
本的な問題は全く別のところにある。聖書
はそれを「罪」だと言う。確かに生い立ちに
同情すべきところは多い。しかし、過去がど
んなに悲惨であっても、又、順調であっても、
私達は皆罪人だ。神の御前に罪を認めなけ
ればならない。不幸な環境であったかも知れ
ないが、一番の問題は自分の心の内にある
「罪」だ。親のせいにせず、環境のせいにせ
ず、周囲のせいにせず、自らの罪と向き合い
罪を認める時、初めて解決があり、癒しがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間はロボットではない。神は新しい性質、
神の性質を与えて下さった。毎瞬の選択だ。
古い培われた価値観を拒み、御言葉、神の
価値観、御霊の導きの方を選択&選択して
行く時、必ず変えられる。選択するのは自分
自身。自分の責任だ。突き詰めると自分と神
との関係だ。



2005年04月12日(火)

「悪魔・・のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)

サタンの武器は「偽り」だ。巧妙なので、耳
を傾けて行くと嘘を見抜けなくなる。エバが
蛇に決して死なないとだまされて、罪を犯し
て行った通りだ。エバの欲望と合致して、
欺かれて行った。私達に来る誘惑も同様だ。
心にある欲望に働く。欲望をかき立てる。そ
れをするなら幸せになる、心がわくわくし楽
しくなる、心満たされると嘘でおおう。しかし、
自分の欲望と合致するので、自分の心の望
む事なので、サタンからの罠だと見抜けない。
人間より遙かに賢く、狡猾である事を覚えよ。
神無しで対抗するなら、必ずやられる。しかし、
主はすでに勝利しておられる。その主に頼る
なら勝利だ。自分で判断せず、主に識別を祈
り頼るなら、見抜く事ができる。
・・・・・・・・・・・・・・
ストレートな罪や誘惑はすぐわかる。サタンの
罠の一番巧妙なところが、自分の願望と一致し
た誘惑だ。誘惑されていてまず気づかない。「
私の願うようにではなく、あなたのみこころの
ように」の祈りはサタンに立ち向かえる。
 


2005年04月11日(月)

「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)

神がご自身の喜びのために、動物ではなく、
人格と人格で交わる事のできる人間をお造り
になった。交わりは完璧であった。神に依存
し、すべては神から来て満たされた。人は最
高の幸せの中にあった。サタンの誘惑はその
神を捨てて、自分が神となれ、自分を神とし
て生きよ、という事であった。その誘惑を受
け入れ、人はその時から神を捨て、自分が神
となり王座に君臨した。高慢で砕かれない者
となった。神との幸いな交わりは破綻した。
自分の内にある古い性質、罪の性質は自分を
どこまでも神とする。罪の結果だ。しかし、
救いがある。御子の犠牲により新しい性質が
与えられた。それは神の性質だ。御子の内住
を持つ。
・・・・・・・・・・・・・・
エデンの園の誘惑で、神ではなく、自己を選
び、自我が王座に着いた。古い性質は事が起
こると自分で対処しようとする。肉の知恵と
判断で動く。御子が内におられる。すぐに判
断を求め頼るなら、神と一つとされ、交わり
の中で喜びの中で生きて行ける。



2005年04月10日(日)

「もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」(ローマ11:6)

職場で時間と労力を提供し、給料を得る。こ
れは「報酬」だ。時間と労力を提供した報い
だ。「恵み」とは、働かずに、時間や労力の
提供なしに給料を貰える事だ。つまり、ただ。
無代価だ。無条件のプレゼント。この世界で
は考えられない神の世界だ。ゆえに神の愛
を貰おうと、何かをするならすでにそれは報
酬だ。神に受け入れて欲しくて何かをした途
端、恵みから落ちて、律法となる。報酬の概
念がしみ付いて、小さな頃から培われていて
恵みが、有り得ない事なので、単純なのにな
かなかわからない。自らが罪人である事を認
めて、神のもとに来るだけだ。古い性質はど
こまでも自分の力でやりたい、自分を誇りた
いし、認められたい、評価されたい。これが
罪の性質だ。恵みは正反対だ。自分の力を
捨て、神に拠り頼むこと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生まれつきの価値観は、愛をもらうために、
認めてもらうために、受け入れてもらうために
何かをし頑張る。そうやって生きて来た。しか
し、主の十字架のゆえに、今このままで完全に
受け入れられている。その愛に応えたいから献
げて行く。何という解放と安堵と喜びだろう。


2005年04月09日(土)

「彼はおのおのその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡し、それから旅に出かけた」(マタイ25:15)

一タラントは六千デナリ。一デナリが当時の
一日の給料なので、一タラントでも二十年分
の給料だ。たったの一タラントでなく、大変
な額を任されている。「能力に応じて」なの
で必ず神の助けによって、成しうる事、可能
な事が与えられている。地に埋めた者は神を
誤解していた。ひどい方、恐ろしい人と思い、
もし失敗して失うなら怒られ、責められると。
それで恐れて何もしなかった。失敗しすべて
を失うかもしれない。神はそんなリスクをも
覚悟の上で、私達を信頼して任せて下さった。
その大きな愛を何一つわかってはいなかった。
神は信頼して下さっている。神が与えて下さ
った賜物を用いて行く時に、人は充足感を与
えられ、人生を生き生きと生きる事ができる。
一人一人に能力と機会が与えられている。あ
なたに与えられた賜物は何か。
・・・・・・・・・・・・・・
愛する事にはリスクが伴う。裏切られたり傷
つくかも知れない覚悟がいる。腹をくくって
愛して行けるのは神がまず愛して下さったか
ら。今日は私を信頼して賜物を委ねて下さっ
ている神の愛を思いたい。


2005年04月08日(金)

「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです」(マタイ20:1)



収穫時の大変な忙しさのぶどう園。主人は朝
早くから三時間おきに人を雇い入れた。最後
五時にも雇い、終了後、最初から雇った順番
に賃金を払えば何の問題も無かった。ところ
が最後の人から払った事で、最初の者の内側
が暴露された。普段は気づかなかった妬み、
怒り、冷淡、愛の無さ、自己中心があらわに
なった。早朝から賃金の約束がなされ安心し
て働けた恵みに気づかない。最後の者は一日
中不安と恐れ心配の中で仕事を待っていた。
平安の中で主人のために早くから主人と共に
働ける事は実は大きな恵み、しかし、それに
気づかなず怒り爆発した。私達の主に仕える
態度はどうだろう。義務で、「ねばならない」
だろうか。主はただただ恵み深いお方だ。
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この世で神様を知らず不安や焦りの中で生き
るより、平安の中で主と共に歩んで行ける事
は大きな喜びだ。少ししか働けない者が得だ
ろうか。


2005年04月07日(木)

「別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイ13:5)




土の薄い地で、すぐに芽を出した。これは十字架
の話を聞き感激し、すぐに信じ芽を出す人の事だ。
涙を流して感動するが、次の週にはもう来ないと
いう人が時々ある。感情であって信仰ではなかっ
た。信仰には感情と共に意志が必要だ。気分の良
い時、気の向いた時だけ信仰するのではない。
意志を働かせて、従って行く事が大切だ。従って
行くなら岩地が砕かれて、しっかり根差して行く。
あなたはどうだろう。単なる感情であれば、信仰
のゆえに犠牲が必要な時、必ず引いて行く。
自分が大切なので損になる事はしない。しかし、
神が神であられるゆえに従い、みこころを行って
行くなら、しっかり地中深く根を張り豊かな実を
結ぶ。従うかどうかが分かれ目だ。
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感情に支配されるのではなく、意志で神様を選択
して従うたびに深い神様との関係が培われていく。
そして気づかぬうちに根は少しずつ張っている。


2005年04月06日(水)

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」(マタイ13:4)

農夫が蒔いた種のすべてが結実するとは限
らない。時に聞く耳の無い人にも語られる。
道ばたに落ちた種がそうだ。また、神に従う
なら犠牲を払わなければならない。自分の生
活を乱されたくないし、人目を気にする。ま
た、自分も変わりたくない。そういう人は神
を信じようとしないが、しかし、私達はどう
だろう。滅びるのは嫌で、天国へは行きたい。
が、この世も楽しみたい。神とこの世の両方
を求めている。全面的に明け渡すのは犠牲が
大きすぎる。信仰も適当にして、世も適当に
楽しみたい。こういう状況では御言葉は決し
てわからない。神もわからない。なぜなら、
実はわかると困るのだ。犠牲を払わなくては
ならないから。わかりたくないのだ。わから
ないのでなく、わかりたくない固い自我があ
る。自分の底の本当の心を知る事から始まる。
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世の人は世で平安に過ごせる。救われると世
では決して平安が無い。かと言って神の方へ
も進まないので、世でも平安なく神はわから
ず一番哀れで惨めだ。世には戻れない以上神
に本気で近づこう。喜びが満ち溢れる。
 


2005年04月05日(火)

 「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ1:18)



ある婦人宅で、家庭集会をしていた時の事、「す
べての事について感謝」の学びをしていた。
その最中に「きゃー、お母さーん!」との叫び声。
学びを中断し、皆で駆け寄ると、トイレの水が溢
れて洪水になっていた。一瞬、うわっ!だが、そ
の婦人は「神様感謝します」と今学んでいたその
通りを実行した。大丈夫と、皆で拭き掃除すると、
すぐに綺麗になった。小さな弟が積み木を水洗ト
イレに入れていたのを知らずに姉が水を流した結
果だった。すまなさそうな顔の姉がパッと嬉しそ
うになり、その場に潤いが漂った。日常生活のす
べての事について、感謝して行く時、そこに神の
栄光が現される。益にして下さるとの信仰に立ち、
感謝する事をして行こう。
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不平不満が口をついて出てくるところで、感謝し
ます!といえる時、私達はこの世にあって神様の
光を放つ。必ず益となるのだから、感謝しかない
ことをいつも覚えていよう


2005年04月04日(月)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」(ルカ16:28)



義務をこなし、一見真面目に働いていた兄
が弟の帰宅と共に本性が現れてしまった。
放蕩ざんまいで好き放題をして帰った弟の
ために宴会が開かれている。それを見た兄
は怒りと嫉妬が爆発する。父がどんなに良
くしてくれたかなど一切飛んでしまい、不
平と不満、怒りだけになる。律法に縛られ
たクリスチャンの姿だ。外見は真面目だが、
内は妬み、高慢、冷酷非常が潜んでいる。
神はありのままで受け入れ、極みまで愛し
て下さっている。自らの愛のない姿を、内
に潜むものを正直に認め、神に拠り頼む時、
恵みがおおう。自らの偽りと欺きを許さず、
内にある罪をしっかりと認める事から神に
みわざが始まる。
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ありのままで愛して下さっているから感謝
で恵みなのに、神様から目が離れて人を見
ては真面目なクリスチャンのふりをする。
救いも恵みも自力で得ようとする高慢の罪
を今一度しっかり認め、恵みをかみしめよう


2005年04月03日(日)

「それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやとって、豚の世話をさせた」(ルカ15:15)

すべての財産を使い果たし、無一文になってし
まった。金の切れ目は縁の切れ目で、群がって
いた友人達は皆去り、誰にも助けては貰えな
かった。食べるに窮した時、父の元へ帰る機会
であったが、父でなく、ある人の元へ行った。
プライドがあり、帰る事を許さない。体面も悪
い。まだ余力があり、自分の力で何とかしよう
とする。私達もまだ力がある時は、父の元へ帰
ろうとはせず、自力で何とかしようとする。父
のもとへ帰るのではなく、方法を論じる。万策
尽きた時に初めて帰る。弟息子もどん底まで落
ちて、どうにもならなくなった時に帰った。そ
の間じっと見守っておられる。これが御父の愛。
あなたも行き詰まっているか。方向違いに解決
を求めていないか。あなたに必要なのはただ神
だ。神を求め、神に帰る時だ。
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好き放題をしてみなければ、思い通りにしなけ
れば納得できない。神は阻止されるのでなく、
選択を尊重し、その間じっと見守って下さる。
何という愛。問題は神から離れているという事
だ。神に帰ろう。平安に包まれる。



2005年04月02日(土)

「何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた」(ルカ15:14)

神の愛を知りながら、肉欲に歩む時、神は愛す
るうゆえに懲らしめを与えられる。目的は神に
立ちかえるようにだ。最初は軽く頭をコツンと促
される。それで気づいて立ち返る事を望んでお
られる。それでも心を頑なにするなら、一発ガ
ーンと来る。自分の身に痛い事が起こる。それ
でもまだ頑なに自分の道を行くなら痛い鞭が臨
む。しかし、それはどこまでも愛だ。心が砕か
れ素直にされて、神に帰るようにとの配慮だ。
なぜなら神のもとにいる事が一番の幸せであ
るから。あなたは今、物質的、精神的飢餓状態
にあるか。神を求め、神により頼め。神は溢れ
るまでに満たして下さる。すべての必要を与え
て下さるのは神だ。飢餓が臨んでいるか。神を
切に求める時だ。
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ききんは神の御手だ。必要なのは神。神に立ち
返るためだ。環境に困難が臨み、又、霊的に満
たされず、心悶々、カラカラの状態。問題点が
わからず、的はずれの方向に迷い込むが、求め
るべきは「神」だ。


2005年04月01日(金)

「弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そしてそこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」(ルカ15:13)



父は弟息子を身体だけ家に縛りつけても無駄
だとわかっていた。心が離れていたのだから。
父は何もかもわかった上で、あえて息子の願
いを聞き届けてやった。どうしてもしたいと
言うなら、痛い所を通って自分で気づくしか
ない事を父はわかっていた。深い愛情で見守
った。未信者と結婚したある婦人、神から離
れてしまった。世に浸かった生活に平安は無
かった。十数年後、転勤先ですぐ近くに教会
が。思わず飛び込んだ。悔い改め、乾ききっ
た心に以前の平安と喜びがよみがえった。
神に立ち返り従う決心が与えられた。心は深
い安堵と喜びで満ちた。神はずっと待ってい
て下さっていた。神の愛は変わる事無く、あ
われみは決して尽きる事が無い。神に立ち返
ろう。
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通らずにすむならそれは大きな恵みだが、
それぞれに通らなければたどりつけない神様
までの道がある。神様はじっと恵みのシャワ
ーを降り注ぎながら待っていて下さっている。