2005年05月31日(火)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」エレミヤ29:11

試練は必ず来る。救われた目的は御子のかたち
に変えられるため、聖くされるためだから。楽な
人生を送るためではない。世の人は災いを恐れて信
仰する。順境の時も、こんな良い事が続くはずが
ないと怯えている。私達は違う。災いは存在しない。
災いは実は、平安と将来と希望の計画だ。一見
「災い」の中にそれを見る事が信仰だ。練りきよめ
られ成長する。「苦しめ、試み、ついには幸せにす
る」ご計画だ。試練の時の反応がある。★いら立
ちや怒りを外部にぶつけて当たる。★自己憐憫に
陥り自分の殻にこもる。★苦しみを感じないよう感
情を抑圧し無感覚になる。これらは間違った態
度だ。痛いだけで何の成長もない。逃げず避けず
試練を真正面から受け入れる事だ。パウロとシラ
スは牢獄の中で賛美した。神のみこころを受け入
れたので、そこに自己憐憫のかけらも無く、不平も
無く、心の底に満足があった。試練を受け止める時、
自己中心でわがままな者が、変えられて行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何事でも、受け入れる事って難しい。出来ない。強烈
な自我が妨げる。何かを受け入れるとは自分が死ぬ事だ。
自分に死ぬ事。しかしその時、悲惨な状況のまっただ中で、
心の底に不思議な平安と満足、喜びを経験する。


2005年05月30日(月)

「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません・・それを、ここに持って来なさい」(マタイ14:17)



熟年期を迎えた牧師が今までの豊かな経験を
生かして最後の働きをと大きなビジョンを持
ち、前進しかけていた矢先に病で倒れた。
合併症も併発、指導者として立つ事を断念し
退いた。まだ志半ばでありこの状況を受け入
れる事に苦しんだ。なぜ?に対する答えはな
かったが、別の答えが与えられた。このまま
の状態の自分を献げるなら主は受け取って、
用いて下さるというものだった。身体が弱り、
思うように動けない自らを今このままで、も
う一度献げた。すると、ほんの執筆という新
しい働きを与えられ、つき数回の説教や後進
指導の心注げる奉仕が与えられた。どのよう
な状況であれ、その場で自らを余すところな
く献げるなら、神はみこころのままに用いて
下さる。
-------------------
あれもできない、これもできないと思う前に、
ありのままの自分を御前にさし出そう。
神様が整えて、用いてくださるのだ。


2005年05月29日(日)

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12)

他者を愛していく時、必ずリスクを伴う。痛みや悲しみ、傷
を受けるものだ。それは覚悟が必要だ。もし誰をも愛さな
ければ決して傷つかない。動物ですら愛情を注げば、失っ
た時に大きな痛みを受ける。傷つきたくなければ、ひたす
ら自分の殻に閉じこもっていればよい。傷つかずに済む。
しかし、大きな喜びも経験することは無い。自分の心を与
えて交流する時、多かれ少なかれ傷を受ける。それを避
けていては愛する事は出来ない。主イエスも一番近い弟
子達に裏切られながら、最後まで、極みまで愛し通された。
その主は、わたしが愛したように愛しなさいと言われた。
あなたはどうだろう。傷つきたくないから、安全な殻の中に
いるか。主に従おう。大きな喜びと楽しみを経験する。
・・・・・・・・・・・・・・・・
傷つくのが嫌で、人に対して距離を置き、心を閉ざす。
それは結局、主に対して心を閉ざす事になり、だから神
の愛がわからない。神はいつも愛していて下さり問題な
いが、殻の中にいるから受け取れない。


2005年05月28日(土)

「主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」(Uコリント3:18)

子供を殴ってしまう父親がいた。その父親も、また
父親から殴られて育っていた。親からの連鎖はよ
く言われているところだ。しかし、新生した私達は
神の子供とされた。新しい性質が与えられ、その
性質は神の御性質だ。古いものは過ぎ去って、す
べてが新しくなった。かつては罪の奴隷であったが、
今は古い性質と新しい性質があり、選択する事が
できる。肉とサタンが誘惑してくる暴力を拒否する
選択ができる。自分の力では出来ないが、御霊に
より可能だ。私達には常に御霊の助けがある。意
志を向けるなら、力は御霊から来る。ある女性は
生来自己憐憫の弱さがあった。何かあると即周囲
から自分を閉ざし、自分は可哀相の世界に陥った。
そこは心地良かった。しかし、新生し、それを拒否
する事を選択し続けた。サタンの凄まじい攻撃と誘
惑は来るが意志で選択し続けた。自分が大きく変
えられる事を体験した。
・・・・・・・・・・・・・・・・
罪しか犯せない古い性質がずっとまだあるが、つぎ
木され神の性質が流れ込んでいる。肉に身を任せな
いで日々神と御言葉の言う方を、選び取る事が大切だ。
自分を明け渡して行く時、御霊の助けによりそれが
出来る。自分が変えられて行く事を経験する。


2005年05月27日(金)

「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます」(マルコ4:25)


神に従い、御言葉を実践して行く人は更に恵みを増
し加えられ、信仰が成長して行く。実践し従って行
くなら神を豊かに知って行く。しかし、示された事
に従わず実行しないならもっているものまで失って
しまう。又「人に量ってあげるその量りで、自分に
も量り与えられ」人を赦して一番益を受けるのは、
相手ではなく自分自身だ。傷つけられたかも知れな
いが、相手を恨み憎むのは、実は自分を一番苦しめ
る事。四六時中心が拘束され、かんじがらめにされ
る。憎しみは心を壊すだけでなく、身体まで壊して
しまう。主が赦しなさいと言われるのは私達の益の
ためだ。鎖から開放され自由にされる。神に従うな
ら、ますます自由にされ、信仰と喜びが増し加えら
れる。
-----------
信仰の目で物事をよく見て行っていけますように。
世の常識、肉のおもむくままに行動するなら、混乱
は深くなるばかりだ。


2005年05月26日(木)

「お話ください。しもべは聞いております」(Tサムエル3:10)



ラジオを聴く時は、周波数を合わせなければ
聞こえない。合っていないとザーザーと雑音
が聞こえるだけだ。主との交わりも同様だ。
主は御声をかけて下さるが、こちらが周波数
を合わさなければ聞こえない。細い小さな御
声を聞くためには、心静めて神に心を向ける
必要がある。御言葉を通して語って下さりみ
こころを示して下さる。様々な事態の中で神
のお心を知る事が出来る。神に時間を与える
人に神は語れらる。ある人が帰宅は深夜の日
が続き、目の回る忙しさの中、静止の時も持
てず心はカラカラに干からびた。移動の車で
心注ぎ出し祈った。「しっかりしなさい。わ
たしだ恐れることはない」一言の御声で新た
にされ生き返った。周波数を合わそう。
---------------------
時間がなかったり、心が自分の思いでふさが
っていたり、神様の御声が届いてこない時が
ある。少しの時間でも、心を開いてみことば
を読む時が守られますように。


2005年05月25日(水)

「絶えず祈りなさい」(Tテサロニケ5:17)

多忙な日々に祈りの時間が取れなくて、とがめ
を感じているだろうか。多忙な人々をしばしば悩
ませる問題だ。しかし、僅かなパンくずを集める事
が出来る。僅かなくずを集めると、十二のかごが一
杯になる。日常の端々の時間を捕らえるのだ。待ち
時間、移動時間、頭を使う必要のない作業、歩きな
がら、家事、雑時をしながら、神と交わるのだ。祈る
事が出来る。一瞬一瞬を捕らえて祈れる。そのよう
に訓練する事が出来る。昼でも夜でも、どんな時でも、
祈る事が出来る。ある主婦は庭の草抜きにうんざり
だった。時間が取られる。しかし、これを主との交わ
りの時とした。祈り、礼拝しながら作業をした。終えた
時には全くリフレッシュされ、心新たにされていた。喜
びと平安に満たされていた。今日、実践しよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
どうしても時間の無い時は諦めないで、ほんの数分
でも心を主に向けるのだ。質だ。心を明け渡して、心
底頼って1日を始めよう。いつでもどこでも心の中で
祈る事ができる。今日の待ち時間、移動時間に祈っ
てみよう。


2005年05月24日(火)

「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Uコリント12:9)


人の嫌な部分を見るのは誰しも嫌だ。しかし、
もっと嫌な事は自分の弱さを見る事だ。自分の
弱さを直視出来ないので、それを隠しおおう事
にやっきになる。見たくないのだ。しかし、パ
ウロはその弱さを認め、神のもとへ持って行っ
た。その時、その弱さは恵みに変えられた。
その弱さがある限り神の臨在がそこをおおうと
いうのだ。その弱さは神が常に共におられ、神
におおわれる確証となるのだ。弱さを隠し、お
どおどしているのではなく、その弱さと正面か
ら向き合い、認め、神のもとヘ持って行く事だ。
対人関係が苦手で仕事が難しく悩み苦しんでい
た人が神のもとへ行き明け渡した時、変えられ
て心リラックスして接っせるようにされた。
恵みは十分。
--------------------
自分の本当の弱さを示されるよう祈ろう。そして
認めたくない弱さをいつもはっきりと神様の前に
祈って行こう。パウロのように、おおいに弱さを
誇れる日が必ず来る。


2005年05月23日(月)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じる」(ヤコブ1:2)



ヤコブは試練に信仰を加えると、忍耐が生じる
と言っている。あるクリスチャンが証ししている。
最初のころは試練が来ると、まず動揺し思い煩い、
疑い、必ず自己憐憫に陥り、どんどん落ち込んで
行った。試練の途端に動揺し、不信仰になってい
た。だんだん試練のたびに学んで行き、試練を試
練として受け止めようとの態度に変えられた。
とにかく自己憐憫に落ちる事を一切拒否したのだ。
これは意志だ。試練は仮面をかぶった祝福であり、
痛くて辛いがこの事でしか学べない事があり、教
えようとして下さっている事がある。信仰を加え
るなら試練を受け止める事が出来る。その時は痛
くて悲しいが後になると実を結ぶ。必ずどの試練
も通って良かったと思える。成長する。
-------------------
一つ一つの試練が成長のための神様からの課題と
受け止めなければ、いつまでも過ぎた試練をひき
ずる。過去をふり返って試練を喜べるよう、今の
試練を信仰で受け止めよう。


2005年05月22日(日)

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実をきない」(ヨハネ15:5)結びます。わたしを離れては・・何もすることがで

主イエスはぶどうの木、私達は枝だと言われた。
枝がぶどうの木につながっているだけで、木から
養分が流れ込み、自然に豊かに実を結ぶ。しか
し、もし枝が木から離れていたら実を結ぶ事は
不可能だ。私達はどうだろう。生活が快適に順
調に行っている時は主にとどまり、主と共に歩
むが、都合の悪い事が生じると主から離れて、
主と共に歩まず、自分で歩むのだ。特に自我
が砕かれるような痛い、辛いところを通る時は、
主を避け離れて自分の道にそれてしまう。主に
とどまって砕かれるのが痛いのだ。自分の都
合の良い時はとどまり、都合が悪くなると離れ
る。痛い時も辛い時も常に主にとどまろう。そ
の時、キリストを現わす物に造り変えられて
行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
逆境では叫び求めるが、悩みの無い時に離れ
る事もある。又、失敗した時は恐れで、試練には
反抗して離れる。どんな時も逃げないでとどまろ
う。その時、大きな深い愛に包まれている事を知る。




2005年05月21日(土)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)

人を助ける事は良いが、人に助けてもらう事に
は抵抗を感じる人は多い。あなたはどうだろう。
プライドが阻むので、人の助けを受ける事が出
来ない。何もかも自分でしたいのだ。ある男性
が病で倒れ、療養する中で、すべての面で周囲
の力を借りなければならなかった。その中で、
人々の親切を「有難う」と、感謝して受ける事を
学んだ。素直に受ける時、大きな喜びが与えら
れる事を経験した。「受ける」事を学ぶ必要があ
る。一番に必要なのは主の助けだ。しかし、自分
の力を誇りたくて、無力を認めるのが嫌で、プラ
イドが主の助けを拒んでいないか。自分の力で
なす事は一切が無益だ。神から離れているから
だ。神との生き生きとした交わりの中で、自分の
力ではなく、喜びと力を「受けて」歩める。何と
いう安堵と幸い。
・・・・・・・・・・・・・・・・
この世は正反対だ。強く有能が善。頑張って自
力で結果を出せ。肉はどこまでも自分を誇りたい
し、評価されたい。自分の無力を認める事は痛い。
しかし最高の喜びと平安は、自らの無力を知り、
主への全面的依存から来る。無力を知る事が素晴
らしい祝福と幸い。




2005年05月20日(金)

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)


薄暗い中ではほこりはよく見えない。とこ
ろが部屋に太陽の光が射すと、ほこりだら
けである事がわかる。光がなければわから
ない。主イエスは光だと言われた。暗闇の
中にいると何も見えない。停電になった時
に経験する。暗闇にいるなら自分は常に正
しい。間違っているのは相手だ。パリサイ
人は常に正しかった。ところが光が射し内
側を照らされると、いかに罪深いかが始め
てわかる。自分を正しいとし、相手を見下
し裁く、恐るべき高慢。自分は悪くないと
思う心の底に、隠れたプライド、妬み、虚
栄心・・光は常に内側の罪を照らし出して
くれる。その罪はすでに赦しが備えられて
いる。自分が正しいの暗闇の中では光を受
け入れず悔い改めようがない。
--------------------
いつのまにか自分の罪より人の罪ばかりに
気をとられていないか。自分をいつも光の
中に置き神様からの罪の示しと赦しをしっ
かり受け取っていこう。


2005年05月19日(木)

「あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください」(詩篇119:133)


ウインドウショッピングをするだろう。
その時に自分の姿がガラスに映る事があ
る。自分の思っている自分と違う。くた
びれた自分だったりする。自らを映し出
すものを見ない限り自分の姿はわからな
い。顔についた墨を幾ら触ってもわから
ないように。みことばによって、自分の
本当の姿を知る。真の自分の姿を照らし
出してくれる。ある人が教会で懸命に奉
仕をしていた。デボーションしていた中
で、それは神のためのでは全くなく、自
分を誇るため、人からの賞賛を得るため
である事を示された。心砕かれ、悲しみ、
悔い改めた。資格がない、奉仕を止めよ
うと思っていた時に、更に大きな奉仕の
要請が来た。神が動機と態度をきよめ、
整えて下さった事を理解した。
------------------
培われた根強い価値観が、雑草のように
心を覆っている。このような祈りによっ
て、みことばによって、導かれていない
と、みこころをそれて歩いている事にも
気づけない。


2005年05月18日(水)

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)

ある婦人がケーキ作りに凝り、色々なケーキを作って
は楽しんでいた。次々と初めてのケーキが出来上が
るのが喜びであった。ちょうど熱中していた時、隣家
の主婦に頼み事をされた。急用が出来て少しの間、
赤ん坊を見て貰えないかという事だった。自分の楽
しみに水を差され、内心喜んではいなかった。仕方
なくしぶしぶ引き受けた。帰宅し、心から喜ばれ感
謝された。急病の親を病院に連れて行く事が出来
たと。何度も何度も感謝され、自分を恥じた。燐人
の必要より、自分の趣味の方が大切だったのだ。
隣人を愛する事は神のみこころだ。相手の必要に
心を配り、応じて行く事は神の喜ばれる事だ。あな
たの心配りと助けを必要としている人がいるか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者
にそれを拒むな」箴言3:27 主がいかに自分を受
け入れ、忍耐し、愛して下さったかを、自分が隣人
のために犠牲を払い、愛して行く時に知る。


2005年05月17日(火)

「それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」(詩篇46:2)


ある人の勤め先が倒産して突然、職を失った。
と同時に親が脳梗塞で倒れた。尚も試練は臨み、
自らも胃の手術が必要な事が明らかになった。
次々と降りかかる困難に、御言葉は大きな力と
支えであった。「神はわれらの避け所、また力。
苦しむとき、そこにある助け」状況でなく神に
焦点を当てる時、不安や思い煩いが失せた「わ
たしこそ神であることを知れ」の一声に、信仰
が与えられ、心の内がすーっと平安になった。
御霊の導きのままに、目の前の一つ一つの事を
落ち着いて対処して行けた。恐れる事無く、思
い煩いもなく、対応して行けた。この困難を通
して、神の臨在、支え、人知では測り知れない
平安を経験した。苦難は素晴らしい恵みの時だ。
信仰に立とう。
----------------------------
苦難の時に「神様!」と呼ぶことが出来たら光
が差し込む。「わたしこそ神であることを知れ」
と言われる神様に支えていただこう。


2005年05月16日(月)

「あなたは、わずかの物に忠実だったから、私はあなたに物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)

フルタイムの仕事に就いている婦人。多忙な
日々だったが、子供の学校の役員をする人が
なく、神の促しを感じ引き受けた。多忙な中、
会合には時間休みを取っての参加だった。
しかし、理事をした事により会合の司会進行
役なり、その信仰の中で適切な証ができた。
すると、個人的に話がしたいという人々や電
話をかけてくる人々、悩みの相談が相次ぎ、
色々な人々に証をする機会とされた。
彼女はリーダーシップがあったが、一人一人
与えられた賜物を様々な形でまた分野で用い
られる。あなたの賜物は何か。あなたに合っ
た適切な時と機会が与えられ、あなたに与え
られた賜物が用いられる。それは自らにも大
きな喜びをもたらす。
-------------
小さな賜物に思えても、神様に委ねて用いて
もらう時、豊かに実を結ぶ。私たちは、
いただいた賜物を地に隠してはいないか。


2005年05月15日(日)

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30:5)

仕事人間で、家庭を妻任せにし、顧みることなく
仕事に明け暮れていた男性。子供にも問題が起
こり、妻はもうついて行けず実家に帰った。出張
から戻り、心重く真っ暗な家に戻った。虚しさに
今までの人生は何だったのかと涙が出た。「わ
が神、どうして私をお見捨てになったのですか」
がピッタリだった。今までの事を、家族の事、
神の事を考えた。神に立ち返り、大切な家庭を
建て直されたいと切に願った。神に従い、優先
順位を正したいと思った。あんなに息も出来な
いほどの苦悩の夜だったのに、翌朝の陽射し
に神を感じた。神のあわれみは決して尽きず、
朝毎に新しい事を実感した。「わたしを呼べ。
わたしはあなたに答え・・」どんな状態でも神を
呼ぶなら答えて下さる。神を呼ぼう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主に在る時、災いは無い。一見どんなに災い
に見えても、それは平安と希望と将来を与え
るご計画の一環だ(エレミヤ29:11)。愛し
ていて下さるからだ。失敗も益とされる。神
を信頼していよう。涙の夜も必ず喜びの叫
びの朝とされる。


2005年05月14日(土)

「死も、いのちも、御使いも・・どんな被造物も、私たちの主イエス・キリストの愛から、私たちを引き離すことは出来ません」(ローマ8:38)

ある婦人、夫の不倫が発覚し、夫は女性のも
とへ走った。離婚になり、涙と苦悩の火の中、
水の中を通った。そんな中、実父が倒れ、続
く試練にただ神に拠り頼み、すがるだけであ
った。神は御翼の陰にしっかりかくまって下さ
った。そこは大嵐の真っただ中で完全な平安
の場所だった。その後、今まで救いを祈り続
けて来た実父が救われたのだ。「あの悲惨な
中でお前が守られていた事が嬉しい。その神
を自分も信じる」と。神は返って証しとして下さ
った。時を経て、相手は罪を犯したが、自分も
責任があり悪かったと、光の中で真に見せら
れた。高慢であった事、あの試練が無ければ、
自分はどんな恐ろしい事になっていたか。今は
通って良かったと心底言えると。火の中を通り、
確実に御子のかたちへと私達は造り変えられ
て行く。
・・・・・・・・・・・・・・・
私達の救われた目的は、この世の成功、幸せ、
安楽、自分の欲望の成就でなく、御子のかた
ちに変えられる事だ。ここを間違うと神が見え
ない。どんな苦しみの中でもここに焦点を合わ
せるなら、神がはっきり見える。


2005年05月13日(金)

「私の身に起こったことがかえって福音を前進させたことになった」(ピリピ1:12)




よく私達は勘違いしている。神に従順に
献身して従うなら、人生は喜びに溢れて
順調に行くのだと。そして、物事がうま
行かないと、自分はみこころからそれて
いるのでは、何かが間違っているのでは
と思ってしまう。しかし、それは違う。
聖書はそんな事は言っていない。神に従
って歩むなら人生順風満帆とは言ってい
ない。それならご利益宗教だ。まず自分
の思いの物差し発想が間違っている事を
認めよ。神は困難を取り除かれない。
この世は困難、悩みは悪だ。悩み、問題
は恐怖であり、それから回避するための
信仰だ。私達はそうではない。困難は、
悪ではない。それは仮面をかぶった祝福
だ。困難を乗り越える事が出来る。
それは成長、祝福、益のために送られ
ている。
------------------
私達は困難がなければ、真に神様に向き
合う事が出来ない自分勝手な者だ。
辛い時にはわからないが、振り返った
時、神様に最も近く生きている自分を
見る。


2005年05月12日(木)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」(ガラテア3:3)



新生した私達にも古い性質がまだある。
その罪の性質である肉は、どこまでも自分
の力を誇りたい。自分の努力を評価された
い。それゆえに肉は自分の力で頑張ろうと
する。いわゆる泥酔や妬み憎しみ等はわか
りやすい肉だが、信仰生活が進んで来ると、
神を喜ばせようとする肉、今までは自分の
ための肉だったのが、神のための肉、と巧
妙になって来る。自分の力で成し遂げた事
は、表向きは神の栄光と言うが、必ず自分
に栄光を帰する。自分を誇る。神のためと
言いつつ、神から離れている。聖霊に心底
拠り頼んでいく時、神の助けと力を経験す
る。神が成し遂げて下さる事がわかる。
その時、神に栄光を帰する。新しい性質が
成長して行く。
-----------------------------
神様に拠り頼んだなら結果はただただ、感
謝のみだ。周囲にも神様の栄光が充満し、
ますます謙遜にならざるを得ない。
肉は自己満足の達成感があるだけだ。


2005年05月11日(水)

「サマリヤを通って行かなければならなかった」(ヨハネ4:4)

主イエスはわざわざ迂回されて、ユダヤ人と
敵対するサマリヤの地を通られた。それは、
サマリヤの女性を救うためであった。五回の
離婚をし、今は同棲中の女性であったが、神
への渇きをご存じでわざわざ迂回されたのだ。
あなたが神に出会うために神は同じ事をして
下さった。あなたが神のもとに導かれるため
に、様々な布石があった事だろう。聖書に触
れたり、クリスチャンに出会ったり、トラクトを
受け取ったり、まず神があなたを求めに求め
られた結果だ。振り返る時、一つ一つが救い
へとつながる。今度は他の人々のためにあな
たが遣わされる番だ。人生の歩みで様々な迂
回はそこで証すべき魂があるゆえだ。渇いて
いる魂があり、あなたが用いられる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
迂回は証しすべき人々との出会い。どうしてと
思い導かれたところに、渇いた魂との出会い
を経験して来た。クリスチャン人生、神は無駄
なものは一つも置かれない。いまいる場所は
神が遣わされた場所。続けて用いられるよう
祈ろう。


2005年05月10日(火)

「あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」(マタイ23:28)



薄暗い部屋だとほこりは見えにくい。しかし
、陽射しがサッと当たると、何とほこりだら
けだ。光は実際の姿を明らかにしてくれる。
これは霊的生活も同様だ。宗教的な見せ掛け
は立派であったパリサイ人は主イエスによっ
てその偽善を暴露された。私達も聖霊の光に
照らされるなら、どんなにほこりだらけだろ
う。クリスチャン生活が長くなると、誰の目
にも明らかなストレートな罪に走ったりしな
い。そのため外側は良く見える。しかし、神
を求めているように見えながら、しかし、実
は一番深いところでは自己の利得を求めてい
る。自分の利益のために神を利用している。
そういう事があり得るのだ。パリサイ人と同
じだ。聖霊の光に照らされるなら、正される。
光に歩もう。
----------------
人前にどうかではなく、神様の前に自分はど
う映っているのかを絶えず意識していたい。
目の前の人の反応に弱い者だから。


2005年05月09日(月)

「わたしを遣わした方のみこころを行い、
そのみわざを成し遂げることが、わたし
の食物です」
(ヨハネ4:33)


現代人は多忙だ。いつもせかせかイライラ
している。する事が多過ぎてすべてが消化
不良で達成感が得られず、気持ちが疲れて
しまう。主はどうされたのか。忙しさでは
私達の比ではない。四六時中群衆に囲まれ、
癒しを求める人々は押し寄せ、慰め励まし
を必要とする人々は止まる事がない。人々
の必要など際限が無かった。主の秘訣はこ
うだ。常に御父に祈り交わりを持たれ、御
父のみこころを正しく行われた。目の前の
事柄を次から次へと必死にこなされたので
はない。必要は際限がない。私達も目の前
の必要ではなくて、御父のみこころに焦点
を当てるべきだ。そうするなら、成すべき
事がはっきりしてくる。気持ちも焦る事な
くすっきりしてくる。
-------------
連休が終わったが、ばたばたとスケジュー
ルにおわれ、静まってゆっくりと神様と
の交わりの時を持つことが出来なかった。
やはり心がざわざわと落ち着かない。



2005年05月08日(日)

「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」(マタイ5:7)

あわれみとは、「同情+行ない」だ。同情だ
けで終わらない。行動に及んで行く事だ。主
イエスは、罪にまみれて滅びしか無い私達を
かわいそうに思い、思うだけでなく、実際に
この世界に来て下さった。天での栄光を何も
かも捨てて、その果ては残酷な辱めの十字架
であった。これがあわれみだ。良きサマリヤ
人は傷つき倒れた旅人をかわいそうに思い、
近づいた。介抱し、宿屋に伴い夜を徹して介
護し、費用も担った。主が私にして下さった
事だ。同情だけでなく行動に移して行く時、
あわれみをかけて行く時、自分自身がこのよ
うに、主にあわれまれている事を知る。
不思議だが事実だ。あなたも経験した事があ
るだろう。サマリヤ人はまず近づいた。まず
一歩近づこう。主が働かれ、用いて下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
心の思いだけでなく、同情だけでなく、実際に
行動する事、犠牲を払う事だ。思いがあるが、
それだけで止まっていないか。まず近づいて、
今、目の前に示されている事を実践しよう。
それにより、自分自身が主のあわれみを知る。


2005年05月07日(土)

「目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」(マルコ16:4)

ある宣教師が神学生の頃、授業料が無かった。
神が必要は必ず与えて下さるはずと、祈りに
祈った。支払い期日が近づきなおも祈り続け
た。しかし、期日が来たが与えられない。手
元に残った少しばかりのお金は、やはり授業
料不足の友人に上げた。彼は丁度それで納め
る事が出来た。なすすべなく、家に、引き揚げ
ようと荷造りを始めた。封書があるのを見て、
友人が開けないのかと言った。もういいと、見
る気力も無かった。友人が開けた。何とそれは
小切手だった。授業料の献金だった。目の前の
どんなに大きな石も神は転がして下さる。人間
的に不可能に見えても神に問題はない。あなた
の前に大きな石が立ちふさがっているか。神を
信じ祈ろう。その石は転がされ、解決を見る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何度も何度も大きな石が目の前で転がされて
来た。今、目の前に大きな障害があれば、諦
めず、気力を失わず神に祈ろう。神はその答
えを与えて下さる。復活の朝、香油を持った
女達の心配は全くの無用であった。


2005年05月06日(金)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」(箴言4:23)


健康には注意する。脂肪を減らし、ダ
イエットをする。しかし、霊的健康は
どうか。身体を心配するように配慮し
ているか。食事は綿密にカロリー計算
する。霊の食物はどうか。日々御言葉
を食しているか。栄養失調になってい
ないか。思い煩いを祈りによって神に
明け渡しているか。霊的状態に目を留
め、心を見張る事は重要だ。心を見張
る人は少ない身体に悪いものは食べな
い、不審者は家に入れない。同様に何
でもかんでも不用意に心に入れてはな
らない。それはあなたの一部となり形
造ってしまう。映像も一度目にしたも
のは必ず心に残る。見聞きするものに
は気をつけるべき。何でもかんでも入
れるな。サタンの思いを断固拒否せよ。
あなたの心をしっかり見張り、守れ。
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サタンが吹き込む思いに心が占領され
ないよう、御言葉、祈りで心が守られ
ますように。紛らわしく、もっともら
しい常識、律法に支配されず、ただ、
みこころに導かれて歩めますように。




2005年05月05日(木)

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪を赦してくださいます」(マタイ6:14)



ある人が職場で同僚から妬みを買い、辛
く当たられていた。仕事がよく出来たか
らだった。ことごとく標的にされ、きつ
い言葉に傷ついた。帰宅しては泣いてい
た。相手に対する嫌な思いがふつふつと
湧き上がる。相手を嫌いだと思った。辛
くて思いがちぢに乱れ、悶々と苦しさに
耐えられず、あるがままの自分の気持ち
を神にすべてぶつけて祈った。心に不思
議な安らぎが来た。怒りが消えて、自分
にそういう仕打ちをしなければならない
相手の心情が思われた。そして何と相手
のために祈る事が出来、その時心に軽蔑
も憎しみも失せている事に気づいた。
頑張ったのではなく神がそうして下さっ
た。自分が変えられる。心が乱れる時は
神にすべて打ち明けて祈れ。
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赦せない自分に気づいたなら、まず自分
の胸のうちのすべてを神様に聞いていた
だこう。開放の道は神様から来る。
そして自分の罪がまず赦されていること
を思い出そう


2005年05月04日(水)

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)



ある女性が父親と心通わせる事なく二十代半
ばまで来た。自分が救われて親の救いを祈り
始めた。御言葉を学ぶ中で自分の罪を示され
た。うだつの上がらぬ父親を見下げていた自分。
父親がどんなに懸命に働き苦労して来たかに初
めて思いが至り恥じた。父親と談笑していて
「尊敬している」と素直に気持ちを告げる事が
出来た。神の力だった。その時から父子関係が
変わった。今まで親しく話した事など全くなか
ったが、しみじみと暖かく心通い合う事が感じ
られた。双方で心開いている事がわかった。
対話をするようになり、証にも耳を傾けて聞い
てくれるのがわかった。自分の高慢が問題であ
り今まで関係を遮っていた事に気づかされた。
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救われたばかりのころは、この御言葉がわから
なかった。ある日、奇跡が起きて家族も救われ
るのだろうかと。主に従う中で自分が変えられ、
た時、周囲との関係が奇跡のように変えられて
行った。


2005年05月03日(火)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)

あるゲームがあって、それは自分の陣地にお
れば安全、しかし点は取れない。安泰だが勝
利も無い。霊的生活も同様だ。友人を作って、
証しして行く事は自分が傷つく事もあるし、
リスクを伴う。それが嫌で、対人関係を避け
て自分の居心地の良い陣地から決して出ない。
主のために、時間、労力、金銭等の犠牲を払
うのが嫌で、居心地良い陣地を決して動こう
としないか。自分の陣地は安楽だ。傷つく
事もないし、犠牲を払う事も要らない。しか
し、喜びや成長も無い。今、なすべき事を示
されているか。陣地から一歩踏み出さなけれ
ばならない。対人関係の摩擦や、重荷を共に
負う事や様々な困難もあるだろう。しかし、
あなたは必ず成長する。そして、神の国は前
進して行く。神のみこころが成し遂げられ、
栄光が現される。今、示されている事がある
なら従おう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
肉はいつも楽な道を安楽を求める。しんどい事
は嫌だ。しかし、どんな犠牲を払おうと、神の
御旨を選ぶ時、心深くに真の喜びと平安を経験
する。クリスチャンは損得や苦か楽かで選択し
ない。神に焦点当て、みこころを選ぶ。


2005年05月02日(月)

「彼は・・その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」(ヨハネ10:4)

動物園やデパートで迷子放送をよく聞く。私
達クリスチャンも時々迷子になる。神のみこ
ころを離れて、自分の思いを通して突っ走っ
て行くからだ。目の前の美味しい草をあさり、
目先の欲望を求めて行くので、羊飼いから離
れてしまう。その内、羊飼いが見えなくなっ
てしまい、真っ暗闇の中で恐れと不安におの
のく。私達が迷子になった時、神はよく他の
クリスチャンにより導き返して下さる。牧師
や兄姉の励まし、助言によって立ち返った経
験が誰しもあるはずだ。神があなたを愛して
おられる証拠であり、神が送られた人々だ。
あなたは今、羊飼いの声がちゃんと聞こえて
いるか。あなたをいとおしみ、あなたの名を
呼んでおられる。聞こえにくいなら、距離が
離れていないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主の御声がわかったから救われた。クリスチ
ャンは全員、主の声を知っている。この世の
多くの声がある。人の声、サタンの声、自分
の肉の声・・。その中にある主からの声をしっ
かり聞こう。今日も耳を澄まして、愛する方の
私への語りかけを。


2005年05月01日(日)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」(ルカ10:42)

日々のスケジュールはびっしり詰まっている
か。まるでスケジュールが神となっていない
か。神との交わりで大切な事は「静まる」事
だ。ただじっと神の御前に静まるのだ。じいっ
とひたすら静まり、尚も心静めていると、小
さな細い神の御声が聞こえて来る。これが忙
しいと、心が立ったままだ。神に焦点合わず、
予定が気になったままだ。宴会の記事がある。
招かれた人々は皆多忙ゆえ断った。ある人は
畑を買い、ある人は牛を買い、ある人は結婚
したのでと。皆、日常の生活のために忙しかっ
た。それらは決して悪いもので無い事が問題
だ。むしろ良い事なので、とがめ無く、気に
も留めないまま、一番大切なものを失って行
く。気づかないまま世に流されて行く。最重
要のものを大切にしているか。優先順位を再
点検しよう。
・・・・・・・・・・・・・・・
頭でよくわかっているが、主との交わりは実践
しなければ何にもならない。時間や環境の問題
ではなく、自分の問題だ。選ぼうとしない自分が
問題だ。その事に気づかない限り、環境のせい
にして一番大切なものを見失って行く。