2005年07月31日(日) 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています」(ヨハネ6:9)
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています」(ヨハネ6:9)
「無いもの」を数え上げていないか。あれが無い、 これが無い。あれもこれも足らない。私は何も できない。悪魔の効果ある攻撃は失望させる事 だ。絶望させてしまえば大成功だ。気力が失せ、 一歩も進めなくなる。役に立たない、これから もだめだろう。そして、失ったものを数えてい ないか。無いものでなく、有るものを数えよ。 主は、パンはどれくらいあるかと言われた。そ して「それをここに持って来なさい」と。少年 の手にあるなら、パンはそのままだ。重要な事 は、その僅かな物を自分のものとせず、主のもと に携える事だ。そうするなら、大勢の人々が満腹 し素晴らしい栄光が現れた。主は、今、あなたの 手に有るものを用いて下さる。「もし熱意がある ならば、持たない物によってではなく、持ってい る程度に応じて、それは受納される」あなたの手 の中にあるものは何か。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 無いものでなく、自分に有るものに目を留めよう。それを 自分のもとに置くなら、そのままだ。しかし、主に献げる時、 用いられ、自分も喜びに満ち、何千倍もの主の栄光を見る。
2005年07月30日(土) 「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し」(エペソ4:15)
「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し」(エペソ4:15)
救われた私達の口からは、どんな時も真実が語ら れるべきだ。真実以外は偽りだ。嘘ではないが、 真実では無い灰色の言葉がある。アブラハムが 保身のため妻を妹だと言ったように。確かに嘘で はないが、その場では偽りだ。経験があるか。ク リスチャンゆえ嘘は言えない。しかし、都合の悪い 部分を隠した言葉だったりする。それは偽りだ。 巧妙なサタンに欺かれてはならない。特に人から 聞いて、人に伝える場合に細心の注意が必要だ。 自分の思いと主観で聞くなら、自分の色づけで、 次に伝達する事になる。決して真実では無い。人の 主観や偏見を混ぜて次々に伝達される内に、真 実が歪曲されてしまう。主の御前で口から発する 言葉は出来る限り正確であるべきだ。私達は自 分の言葉に責任を負う。いつも唇からは真実が 語られるよう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 御言葉には愛と力と命がある。人を温め、慰め励 まし、生きる力を与えるために唇が用いられたら どんなに感謝だろう。心にある事を口が語る。まず先 に心が御霊に支配され、周囲に感謝と喜びと潤いが 今日1日も流れ出るように。
2005年07月29日(金) 「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)
ヨブの厳しい試練には舞台裏があった。 神とサタンとの間の取り決めがあったの だ。ヨブはいたずらに神を恐れましょう かと、サタンは神に中傷した。見返りが あるから、得るものがあり、神の祝福が あるから神に従っていると。それで、神 は持ち物に手を触れる事をサタンに許可 された。神はヨブを信頼しておられた。 ヨブは神に見込まれていたのだ。私達は どうだろう。なぜ神に従っているのか。 「家内安全」「商売繁盛」「交通安全」 なら、この世のご利益宗教と同じだ。 私達も、ご利益宗教か。神が何かを与え てくださるからか。それなら試練が望ん だ時に立ち行けない。そうではなく、神 が神であられるから従うのだ。神が神で あられるゆえに礼拝する。これが喜びだ。 --------------------- 試練が続くと、なぜ?どうして?と神様に つぶやいてしまう。永遠の愛で愛されてい るから、何を取られたとしても主の御名は ほむべきかなだ。敬虔な礼拝をささげよう。
2005年07月28日(木) 「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)
「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)
視点がどこにあるのか、焦点をどこに合わせ るかで人生大きく違って来る。どこを見てい るか。神を知る以前は人しか見えない。 人が神になり、人を恐れ人との比較の中に生 きていた。クリスチャンとなった今でもだろ うか。ペテロも自分の死に方を示された時、 隣のヨハネが気になった。しかし、主は隣は 「関係ない」と言われた。皆それぞれ導かれ 方が全く違う。比較が出来ない。私達は横で はなく上だけを見て従うのだ。横を見ると必 ず比較が生じ嫉妬し、優越感と劣等感を行っ たり来たり。優越感は劣等感の裏返し。 これらは根は同じ。主は比較の虚しい不毛の 人生から開放して下さった。視点を横でなく 上に置き、自分のために備えられた御旨を歩 む事。喜びだ。 ------------------------ 私達は弱いから人の影響は必ずうけてしまう。 祈りながら、ひたすら主に焦点を合わせられ るよう。不毛なストレスから守られる。
2005年07月27日(水) 「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリミン行きなさい」(マタイ5:41)
「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリミン行きなさい」(マタイ5:41)
ある著書の昔の中国の話だ。田があり、上の 田に酷暑の中、下から水を運んで田に満たした。 すると下の田の人が杭を抜き、上の田の水を全 部自分の田に流し入れた。クリスチャンだから と我慢し、再度水を運んだ。又同じ事をされた。 祈ったところ導きを受け、次には下の田に水を 入れてから自分の田に水を入れた。すると、こ れが神なら自分も神を信じたいと言った。相手 の求める以上の事をする時、大変なインパクト になる。なぜなら、肉には絶対に出来ないからだ。 肉は自己中心で損得勘定で働く。一ミリオンす らしぶしぶ不平不満タラタラだ。犠牲は払いたく ない。自分に死んで行く時、神を現す。なぜ? そんな事が出来るのか、人は背後におられる神 を見る。その時、神の栄光が現われる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分に死ぬ事が証しだ。「愚かな人だ。あなたの 蒔く物は、死ななければ生かされません」ちょっと 時間を割いたり、話に耳を傾けたり、譲ったり、相 手の益を求めようとする、そんな事だ。
2005年07月26日(火) 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にどどまります・・わたしにとどまっていなければ実を結ぶことができません」(ヨハネ15:4)
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にどどまります・・わたしにとどまっていなければ実を結ぶことができません」(ヨハネ15:4)
実を結ぶのは、枝がぶどうの木にとどまっている 事による。自然に養分が届き結実する。枝が、 何か一生懸命する事によってでなく、とどまる事 によってだ。主はぶどうの木、私達は枝。重要 なのは「とどまる」事だ。枝が額にしわをよせて 頑張る事ではない。枝が独自に、自力で頑張った 途端、木から離れる事になる。頑張る事によって 離れ、愛の中にとどまる事により実を結ぶ。それは 主との親密な交わりの中にいる事。どうすればよ いのか。デボーションだ。しかし、デボーションは 目的ではない。ここを間違えないようにしよう。手 段であって目的ではない。では、もし、祈れない時 はどうすればよいのか。気力も無いほど消耗しき る時、辛くて苦しくて容量オーバーな時、悲しくて 何も考えられない時、一つの事が出来る。心を閉 ざさないで、沈黙しないで、それでも心を神に告げ るのだ。「辛い」「苦しい」「どうして?」これが 神にとどまる事だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 苦しい時「なぜ?どうして?」「もうだめ」そのままの 気持ちを神に告げて行こう。それがとどまる事になる と言われる。子供の手をひいている親は子供が転び そうな時、特別強く握り支える。苦しい時は特別に神 の愛と神の目が注がれている。無力の時こそ祝福の時。
2005年07月25日(月) 「互いにいどみあったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」(ガラテヤ5:26)
「互いにいどみあったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」(ガラテヤ5:26)
人を羨ましく思う事があるだろう。軽い羨望の 芽が、少しづつ育つなら羨望から不満が募って 行き、やがて妬みとなる。嫉妬は罪深いものだ。 祭司長がイエスを引き渡し、十字架につけて行 ったのは妬みによる。妬みから激しい憎悪が生 じる。ヨセフの兄弟がヨセフを隊商に売り飛ば したのも妬みによる。激しい嫉妬は破壊的な力 を持つ。殺人にさえ至ってしまう。苦い根をそ のままにしてはならない。育ててはならない。 あなたの内に妬みがあるか。まず神の御前にそ の妬みの罪を認め、告白する事だ。神は助けて 下さる。根を抜き取らなければならない。憎し みの苦い雑草が芽を出す。根を張ると多くの争 いを引き起こす。根を張る前に引き抜け。 ------------------------------ わずかな妬みも、そのままにしておくなら、 サタンがそこを狙ってくる。サタンに足場を与 えて心を憎しみと、嫉妬で充満させてはならな い。苦い思いはすぐに神さまに告白するよりない。
2005年07月24日(日) 「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ」(雅歌1:15)
「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ」(雅歌1:15)
結婚式に出席する。綺麗な花でセッティン グされた素晴らしい会場。盛装した多くの 招待客。花をまくフラワーガール。華やか な目を惹くもので一杯だ。しかし、新郎は どうだろう。新郎の唯一最大の関心は花嫁 であり、それだけだ。他はいっさい目に入 らない。新郎の心には、ただ花嫁があるだ けだ。主イエスも私たちに対して同様だ。 花婿が花嫁を熱烈な愛で愛するように、主 イエスはあなたを愛しておられる。あなた を、世界中で、ただあなた一人であるかの ように愛しておられる。ただ一人花嫁だけ に、花婿の目が留められているように。こ のような愛があなたに注がれている。何と 感謝で嬉しい事だろう。この愛をしっかり 受け取って味わおう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 私達のでなく、私の救い主であるように、私達 でなく、「私」を愛して下さっている。この私 に目を留め、ただ一人であるかのようにすべて の愛を注いで下さっている。高価で尊い愛してい るとのお言葉を心深くに受け止めよう。
2005年07月23日(土) 「さあ、わたしは来ました・・神よ、あなたのみこころを行なうために」(ヘブル10:7)
「さあ、わたしは来ました・・神よ、あなたのみこころを行なうために」(ヘブル10:7)
すべての人に困難は来る。人生に悩みや試練 が臨む。それは避けはられない。しかし、私達 は「態度」を選ぶ事が出来る。嫌な事がある時、 疲れた時、周囲に不機嫌をまき散らし、周囲を 暗く、暗たんたる気持ちにする人々がいる。私 達は周囲に対して責任がある。不機嫌を周囲 に向けて毒を流す事は良くない。肉の発散だ。 そうではなく周囲への祝福の器と用いられるな ら、どんなに幸いだろう。周囲に暖かさと喜びや 慰めをもたらす者とされたくないだろうか。それ はあなたの選択にかかっている。不機嫌へと の凄まじいサタンからの攻撃と肉の欲望が臨 む。しかし、それを拒否し、御霊を選ぶのだ。 神はあなたの今の状況をご存じで、導き最善を される。委ねて信じる方を選ぼう。あなたは選 べる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 不機嫌は、もろに肉で周囲に当たり散らす事だ。 周囲は嫌な思いをする。恵みをパッと消してしま う。自我でなく御霊を選んで行く時、温もりや潤 いをもたらすために用いられる。みこころ選ぶ時、 自分も周囲も神に触れる。
2005年07月22日(金) 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し・・」(ヘブル4:12)
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し・・」(ヘブル4:12)
調理をするだろうか。惣菜はまだよい が、ケーキ類は調合が微妙だ。レシピ 通りにすることが成功の秘訣だ。適当 にやってしまうと失敗する。膨らまな かったりする。忠実にレシピ通りに作 るとまず美味しく出来る。私達の人生 も同様だ。神は明確な指針を与えてお られる。御言葉だ。御言葉に従って生 きる時、心に喜びがあり、真の満足が あり、自分は更に神を知り、周囲にも 神を現して行く。御言葉に従わないで、 自分の思いで歩むなら失敗する。一見 良い考えに思え、合理的な賢い方法に 見えるが、その思いは肉からのもので あり、その背後にはサタンの誘惑があ る。御言葉を土台に御言葉から指針を 与えられ歩んで行くなら豊かに実を結 び証にもされる。 -------------------- 行動の源が何処から来ているのか、御 言葉は、はっきりと指し示してくれる。 自分が善と思ってやっている事も肉で、 肉と合致した御言葉にしか従っていな いことが案外多い。
2005年07月21日(木) 「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの来は実を実らせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない・・しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」(ハバクク3:17
「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの来は実を実らせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない・・しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」(ハバクク3:17
国が侵略され、破滅的状況にあった。 見える状況は真っ暗だ。一切の望みが断たれた ようだ。あなたも真っ暗闇の状況を経験した事 があるだろうか。しかし、ハバククは喜んだの だ。喜び勇んだ。パウロも同じだ。 獄中から出した書簡に「喜べ、いつも喜べ」と 書き送った。ハバククもパウロもなぜ最悪の状 況の中で喜べたのか。「主にあって」の喜びだ。 すぐに移り変わる感情的気分的な喜びでなく、 真理に根差した、御言葉に根差した喜びだ。 独り子をも殺された私への神の愛と慈しみ、絶 対に間違いの無い完璧なご計画、私への最善を 信じるのだ。神に焦点を当てて、神の御心を選 び取るのだ。その時、神に委ね神の見方で状況 を見る。そこから真の喜びが来る。 ---------------- しんどい時は、一人でふーふー言っている。 そんな時、神様も何も飛んでいる。苦しみを訴 える神様がいて、神様にあって歩む方法も示し てくださるのに。状況や感情に刺激されず喜ん でおればよいのに。
2005年07月20日(水) 「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:7)
「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:7)
ある女性がスーパーへ行った。帰り、一つの買い物 袋をカートに忘れてしまった。駐車場で気が付き、車 に荷物を置き、引き返した。が、その荷物は無かった。 念のために店員に聞くと「あ!受付にありますよ」と 笑顔で答えた。彼女がそのまま諦めて、立ち去るなら、 その袋は戻らなかった。しかし、尋ねた事によって、 戻って来た。神も、私達の求めに答えようと待ち構え ておられる。神が私達の必要をすでにご存じだ。しか し、申し出る必要がある。願う事によって、私達の側 に、謙遜に感謝して、神の素晴らしい恵みと祝福 を受け取る心の備えが出来るのだ。あの袋は諦め ていたら戻って来なかった。しかし、申し出る事によ って、戻って来た。神は祈りによって願いなさい、最 善を与えると約束しておられる。与えたいと待ちかま えておられるのだから。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 祈らなくても多くのものが与えられている。しかし、祈 って与えられる時、全く違う。感謝が湧き上がり、神を 知り、喜びが満ちる。神との生き生きとした交わりの実 感が来る。祈りは聞かれている。思い通りとは限らない が最善が成る。
2005年07月19日(火) 「だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)
「だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)
思春期の娘を持つ母親、ことごとく反抗す る娘に親子喧嘩が絶えなかった。いつも衝 突し、母親は思い通りにならない娘にいら 立った。ある日も朝から大喧嘩になり、母 親は主の御前に親子関係が助けられるよう に叫び祈った。御前で心静めていると、自 分の思い通りにならない娘に対する怒りと 腹立ち、強烈な自分の思いがある事を示さ れた。娘を認め、受け入れるのではなく、 一方的に自分の思いを娘に押し付けている 気づきを与えられ、娘に謝った。すると娘 も素直に謝って来た。わけわからずいらい らして、自分でわかっていてもどうしよう も無かった、ごめんなさいと。この日を境 に親子関係が全く変えられた。相手の事を 考えるようにされた。 ---------------- 自分を押し通そうとする時必ず反発に会う。 悪ければ悪いほど素直に認められないのが罪 、喧嘩は必然だ。そんな時、主に罪赦された 自覚がないなぁ・・と、素直に謝ろう。
2005年07月18日(月) 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負ってわたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:29)
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負ってわたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:29)
遠回りをし、紆余曲折を通して、主のもとに つながり、みこころの道へと導かれたある人 物。何と無駄な時間、無駄な道を通ったのだ ろうと、ため息をつくようだった。しかし、 パズルのように、一つ一つのピースが必要で、 それがあったから、踏み石となり次の道へと 続き、振り返る時、心砕かれながら正しい道 へ導かれた事がわかった。神はすべての事態 を用い、導いて行かれたのだ。神は「学べ」 と言っておられる。苦しみ、失敗、過失、そ れらを通して「学べ」と。一つ一つの失敗を 通して、学んで行けば良いのだ。失望、落胆 に落ち込むのではなく、教えようとされてい る事を受け取るのだ。道のりはまだまだ続く 一つ一つ学びを得、成長して行ける。 --------------- 今、心開かれ、みことばを聞いて学べること は、神さまからの大きな恵みだ。外なる人は 朽ちかけても内側から主に教えられ、常に変 えられ続けることはなんという幸い。
2005年07月17日(日) 「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7:3)
「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7:3)
人の欠点はよくわかる。他人の事はしっかり見 えるものだ。他人の欠点は幾らでも指摘できる のに、自分の事はさっぱり見えない。それで他 人をあれこれさばき、とやかく言うのはこっけい で愚かだ。私達が人にばかり目が行くのは、自 分を見なくて済むからだ。実は自分を見たくない。 プライドのため、自分の欠点や弱さを認められ ない。弱さを直視できない。しかし、直視しない 限り、解決は無い、何も始まらない。自分が変え られる事は無い。自分の姿を真正面から見据え て行った時、すでに解決が始まっている。光に出 され、見えた弱さについては祈る事ができる。そ の祈りは聞かれる。痛みが伴うが、自分と向き合 い、聖霊の光に照らされ、自分の弱さを認めよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ さばく正当な理由、明白な根拠がある時、対応する事は 適った事だ。しかし、相手の欠点や過失に悲しみではな く快感を感じるならさばく心だ。又、自分はそんな人間で はない。人をさばかないと思っている時も、梁が見えない。
2005年07月16日(土) 「むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」(Tテモテ6:17)
「むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」(Tテモテ6:17)
ある男性が家族のために休暇を取り、家族旅 行に出かけた。しかし、膨大な量の仕事が頭か ら離れず、旅行の間中、頭は次の仕事のアイデ アと段取りで一杯だった。帰路は疲れ果てて、一 刻も早く家に着く事しか頭に無かった。そんな 帰路に事故を起こしてしまった。その事により 教えられた。今の、現在を全く生きていない事 を。常に、先へ先へと心がせかされ、追い立てら れ、先の事を思い煩っている。旅行も次の仕事の 事で全く楽しめなかった。私達はどうだろう。今を 生きているか。過去をくよくよしたり、未来を心配 していないか。未来は神に任せて、今日を生きる 事がみこころだ。目の前の今日を大切にして、しっ かり主と共に生きよう。人生は1日の積み重ねだから。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 先を思い煩い、今日をつぶしてしまう。今日、神が備 えて下さっている喜びや祝福を受け取れない。心配 したからとて、何かが変わるわけでは絶対にない。 先は神に委ねて、今日の祝福にしっかりあずかろう。
2005年07月15日(金) 「おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)
「おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)
子供じみた信仰というのがある。信仰持つなら、 悩みが無くなる。信じたからには、守られるのだか ら、家内安全、商売繁盛、失望、落胆はあり得ない。 すべてうまく行く。皆幸せになり、めでたし、めで たしで終わる。しかし、聖書はそんな事は断じて言っ ていない。救われた目的は聖くされるため。御子の形 に変えられるため。だから、信仰持つや試練が次か ら次ぎへと臨む。こんなにわがままで、自己中心、自 我の強い者が変わるなど至難のわざだ。これこそが御 父の愛だ。主に似た者と造り変えられる。この事のた めに救われた。この目的をしっかり認識し、試練を受 け止めよう。何で?こんな事が?と言うその事こそが、 あなたを変え、練り造り上げて行く。痛く辛いが逃げ ないで、問題、状況を真正面からしっかり受け止める 事が祝福の秘訣だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 受け入れる時、不思議だが問題の見方が変わり、自分が 変わる。自分の思いが強く、思い通りで無いので悶々と 苦しむ。それが、受け入れる時、自分を明け渡す事になり、 自分の願い通りでなく、主の御旨のままにと思える。苦悶 の心に、平安が来る。
2005年07月14日(木) 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)
クレームがあって、商品会社に電話した。何度 かけても話し中だ。諦めて、かけ直すと、今度は 留守録のままだった。神への電話はどうだろう。 考えた事があるだろうか。話し中も留守録も無く、 つながらない事が決して無いのだ。何と恵みであ り感謝な事だろう。どんな時も呼ばわる事が出来 て、真摯に受け止めて下さる。答えはイエスとは 限らない、ノーもあるし、又、即答だとも限らない。 待て、祈り続けよの場合もある。しかし、どの時 も必ず聞いていて下さる。何と慰められ、嬉しい 事だろう。答えは神のみこころが成る。時に、自 分の思いとは違うが、自分にとっての最善が成就 するのだ。しかし、どの祈りも、すべての祈りは 受け止められる。 ・・・・・・・・・・・・・・ 「願いごとを知っていただきなさい。そうすれば ・・神の平安」の通り、心の願いは願いとして神 に告げると、自分の願いは神に知って頂けたとい う事で、不思議だが心が大きな平安に包まれる。 御言葉の通りだ。
2005年07月13日(水) 「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平安をもって満たし・・望みにあふれさせてくださいますように」(ローマ15:13)
「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平安をもって満たし・・望みにあふれさせてくださいますように」(ローマ15:13)
この世はご利益宗教だ。家内安全、交通安全、商 売繁盛。幸運、幸せは良い事で、災難、病気、怪 我は悪だ。災難の無いようにと信仰する。仮に物 事が順調に行っていても、不安がよぎる。こんな 状態が続くはずが無いと不安でたまらない。しか し、神はすべての事を感謝せよと言われる。幸福 も不幸も災難もすべてだ。災難は災いでは無い。 神にあってすべては感謝で、平安と希望と将来を 与えるための神のご計画の一環だ。むしろ問題悩 みの中でこそ神の助け支え慰めを知る。いつも希 望がある。何という幸い。災いを恐れる必要が無 いなら、人生何を恐れる事があろう。神の愛に抱 かれており、起こる事態はすべて御手に握られて いて、神の支配の中だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 罪が解決されて、神の愛に包まれている私達には、 生涯、災いは無い。だから、すべての事を感謝でき る。成功や挫折、良い事、不都合な事、起こる一つ 一つの出来事の中で、神様を更に深く味わい知って 行くこと、これこそが生きる目的なのだから。
2005年07月12日(火) 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Uコリント17:9)
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Uコリント17:9)
自分の心底の弱さを認めさせてくれるのは、試練だ。 順境の時は、弱さは意識せずに生活している。そし て、人間は誰しもプライドゆえに、自分の弱さは認め たくない。頭では認めているつもりだが、完全無力は 惨めで認められないのだ。肉はどこまでも、自分の力 を認められたいし、自分が評価されたい。しかし、完 全無力でない限り、神に拠り頼む事など不可能だ。頭 でしかない。頼る意味すらわからない。試練はその自 らの無力を知らしめてくれる、大きな恵みだ。パウロは 命までも危険になり、死を覚悟した。その時にもはや 自分自身を頼まず、神により頼んだ。試練には意味が あり、目的があり、私達を造り変えてくれる。振り返っ ても、自分が変えられたのは、試練の時ではなかっ たか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分の力があり、自分でしている限り、神は働く事が 出来ない。自分が神を妨げている。神が働けるのは弱 さの中だ。信仰の成熟とはどれだけ砕かれたかだ。 自分の弱さを真に知り、自分が砕かれる逆境こそ、実 は大きな祝福の時だ。
2005年07月11日(月) 「自分の宝は、天にたくわえなさい・・あなたの宝のあるところにあなたの心もあるからです」(マタイ6:20)
「自分の宝は、天にたくわえなさい・・あなたの宝のあるところにあなたの心もあるからです」(マタイ6:20)
天に宝を積む事が可能だ。先に天国へ送っておけ ばよい。天国預金が可能だ。だらだらと無駄使いし てしまう金銭を、神のため、福音宣教のために献げ る事が出来る。それは天に貯金され、かの日にきっ ちり報われるのだ。時間、労力、才能等の管理を神 から委ねられている。賢い管理とは永遠を見すえる 事、目先でなく天を見て管理する事。私達は所有者 でなく預かり物の管理者だ。これは神からの思い であり態度だ。新しい性質であり、生まれつきの性質 には決してない。そして更に素晴らしい事は、宝を地 上に置かず、天に預金する事で、常に心が天に向く。 宝のありかが心のありかだからだ。あなたの日々は 地上だけのものか。虚しく消え去ってしまうものか。 よく考えて、あなたの生き方と態度を決める必要がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 何を求めて、何を目指しているのだろう。自分の宝の あるところが、自分が本音で求めているものだ。自分 の宝は?最も愛し、執着しているものは?御霊の光が 本音を探り、照らし出し、いのちの道に導いて下さる。
2005年07月10日(日) 「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇119:103)
「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇119:103)
飢餓について耳にする。最初、猛烈に食物を欲する。その 期間を過ぎると、食欲が失せて行く。そして、段々身体 が弱り、さらに衰弱が増して行く。心も鈍り、何も感じな くなってしまう。主との交わりも同様だ。交わりを持たな い日が続くと、最初は空腹を感じる。交わりを持たなけ ればと思う。しかし、尚も遠ざかり続けると、空腹も感じ なくなる。心は鈍くなり、霊は弱って来る。やがて餓死し てしまう。身体の食物がどうしても必要なように、霊の 食物はもっと大切だ。あなたは空腹を感じているか。今 がチャンスだ。すぐに主のもとへ戻り、心行くまで交わろ う。その空腹感がなくなってしまわない内に。満ち溢れる 喜びと安らぎは、主との交わりからしか来ない。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 神の言葉には愛といのちと力がある。神に心の底を打ち 明ける事ができ、御言葉から主のお心を知らせて下さる。 喜びが与えられ心満たされる。日毎に主との交わりを 「選び」取ろう。でないと決して持てない。
2005年07月09日(土) 「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」(Uコリント10:12)
「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」(Uコリント10:12)
「惨めになりたければ、比較しろ」と言われる ほど比較は愚かだ。比較すると二つの結果が生 じる。人より優れていると優越感に浸り、高慢に 陥る。人より劣っていると劣等感にさいなまれる。 すると、自分を人によく見せようと、自分でない 自分を作る。そして、段々演技している自分と本 来の自分、どちらが自分かがわからなくなる。自 分の本当の気持ちもわからなくなって行く。人を 欺く偽りが自分に返る。優越感は劣等感の裏返し。 どちらも同じものだ。人が基準で、人を見ている ところから生じる。目を人ではなく神に向けるな ら、比較から解放されている。あなたはかけがえ がない存在。あなたにしか出来ない働きがあり、 場所がある。他の誰にも代わりがきかない。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 横ではなく縦、神と自分の関係がすべてだ。自分 に与えられた神のみこころを行い、全うすること だけを考えて行く時、喜びが与えられ、横が気に ならない。主との関係を深めて行こう。
2005年07月08日(金) 「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテア6:8)
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテア6:8)
蒔いたものを刈り取るのは神の原則であり、 日常生活でも全くその通りだ。罪には一瞬 の快楽があるが必ず苦い刈り取りがある。 ダビデはバテシバとの姦淫の罪のために苦 しい辛い刈り取りをした。モーセは不従順 の罪のため、乳と蜜の地カナンに入る事が 出来なかった。罪の快楽には、必ず後に激 しい苦痛を味わう事になる。 しかし、サタンはその苦痛はいっさい隠し、 甘い麗しい誘惑を仕掛けて来る。誘惑は必 ず甘い。苦ければ誘惑にならない。 その誘惑はあなたの欲望にぴったり合致し ている。それゆえ誘惑だとまず気づかない。 気づかないまま欲望を満足させてしまう。 策略がある。今、誘惑が来ているか。 堅く立ってサタンに立ち向かえ。 ------------------------- 誘惑と気づかず乗って行っている事、後で 振り返れば良くわかる。後で落ち着いて考 えると、肉が喜んでいたのが良くわかる。
2005年07月07日(木) 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)
ある婦人が夫の救いのために祈り続けた。 夫は会社人間、日曜は必ずゴルフ。救い を信じて祈りつつ仕えた。集会へ出る日 は必ず食事は一品多くし夫の好きな物を 作った。妻の愛の証の生活に夫は心では 好意的だった。定年後教会へ行くの言葉 通り、夫は定年後信仰を公にした。 先に救われたある子供は親の救いを祈り 続けた。親を親とも思わず反発していた 子供が思わず親に「尊敬している」とい う言葉が口から出た時に、親も変わり良 い関係に変えられ御言葉に心開いてくれ ている。愛とへりくだりを伴った証し、 及び祈りには大きな力がある。親族の救 いのために祈り続けよう。失望しないで 祈り続けるなら時が満ちて大きなみわざ を見る。祈り続けよう。 -------------------------- 祈りつつ、愛する者の救いを待つことが できること感謝だ。主によって、みこころに 変えられて行く前に、家族が救われたなら 何の成長もない者だったろう。
2005年07月05日(火) 『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く』(イザヤ30:21)
『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く』(イザヤ30:21)
ある婦人が新設病院の婦長にとの誘いを 受けた。大任過ぎてとても自分には無理 と思った。まず能力面で自分よりもっと 有能な人々が幾らでもいるのでは。 そして自分には家庭がある。申し出を受 けて何より神の導きを求めて切に祈った。 祈り続けて病院側に自分の思いを告げる と尚も是非にとの答え。家族は皆が賛成 してくれた。しかし、自分に出来るのだ ろうか、決断しなければならず御言葉を 求めて祈った。その時「恐れるな。私は あなたと共にいる。たじろぐな。わたし があなたの神だから。私はあなたを強め、 あなたを助け・・」と語られた。 導きを確信して前進する事を決めた。 神は必ず必要な導きを与えられる。神に 求めよ。 --------------- 自分の思いや、状況に左右されやすいか らこそ祈り、神様の御声にを聞く事を忘 れて動いてはならない。必ず来る導きを 静かに待とう。
2005年07月04日(月) 「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます」(詩篇51:6)
「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます」(詩篇51:6)
主が最も憎まれたものは何だろう。それは 「偽善」だ。偽善とは、本来自分でない者 の振りをする事だ。これは「偽り」であり、 神を欺く行為だ。私達はどうだろう。 霊的クリスチャンの振りをし、熱心な信者 の振りをし、良い人の振りをしていないか。 「偽り」を信仰生活に持ち込むなら致命的 だ。振りをして欺いていたのが、いつしか 自分が自分に欺かれ、偽りの姿を本当の自 分だと信じ込むようになる。その時、光が 臨み、聖霊が語りかけても、罪は無いと言 う。そういう人を聖霊ですら、どうする事 も出来ない。神の御言葉は内に無いという 状態だ。振りをしてはいけない。そうでな く信仰薄い、あるがままを認めて行く時、 神が成長させて下さる。 --------------------- わからないのにわかった振りをしないように、 その時、その時、振りに気づかせてください。 いつでも、今必要な祈りができますように。 いつも神さまの前に正直に、素直に生きる事 ができますように。
2005年07月03日(日) 「さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じる・・その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば・・成長を遂げた完全な者となります」(ヤコブ1:3)
「さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じる・・その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば・・成長を遂げた完全な者となります」(ヤコブ1:3)
困難は私達の信仰を試し、忍耐を鍛え、品性を 生み出させる。振り返っても、自分が変えられて 来たのは試練を通してではないか。御言葉は試 練により成長すると言っている。成長が無いのは、 試練を受け止めないで、逃げたり、ごまかしたり しているからだ。夫の転勤が決まった、ある女性。 家の売却、子供の学校の事、様々な不安に御旨 通りにと祈った。夫は先に任地へ。家を売却後引 越しが、その家が売れなかった。焦りそうになるが 祈り続けた。信仰が試された。学年終了の頃、家 が売れた。途中転校を心配したが神は最善をされ た。自分の計画ではなく、神のご計画通りに、すべ て万全に導かれた。神に間違いはない。何の心配 も無かった。神を信頼する事を学んだ。神は「必ず 良くして下さる」それを信じる事が忍耐だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 順風の時こそ、しっかり信じれば良いと思うが、 なぜか人は自分の事に向く。試練の時は神に近い。 心が神に叫ぶ。自分の無力を知らない限り、神を頼 る事はあり得ない。試練は自分の無力を教えてくれる。
2005年07月02日(土) 「もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5:24)
「もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5:24)
もし、ギクシャクした関係があるなら、礼拝の途上でも 和解が先だという事だ。なぜなら、その礼拝は神に受け 入れられないからだ。又、サタンに足場を与え、サタン の働く機会を作ってしまう。こちらがまずへりくだる事 だ。自らの非の部分を謝罪する事。相手にも非があるか も知れない。しかし、それは相手と神との問題であって、 自分には関係が無い。ある母娘が大喧嘩になり、娘はド アを蹴散らして登校。母親は怒り心頭。混乱の平安のな い心が助けらるよう祈った。すると、娘が思い通りにな らない事への不満、又娘の言葉に傷つき赦せないでいる 事を示された。悔い改め、娘にも謝った。その時から母 娘関係が変わった。娘も謝って来た。相互理解が生まれ、 双方が相手に耳を傾けるように変えられて行った。今、 心に赦せない思いがないか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 言い訳や弁解は山ほど出て来る。相手の非も事実だ。し かし、一切の弁解をせず、自分に関する非だけを認めて、 悔い改める時、大きな喜びと平安を経験する。相手の非 を見せてくるのは祝福を妨害するサタン。
2005年07月01日(金) 「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコ14:36)
「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコ14:36)
ある人が厳しい試練にいた。導きを求めて祈り 続けるが、何の答えもなかった。尚も祈り続け たが、全く答えがなかった。神に見捨てられて いるとは思わなかったが、なぜ答えが閉ざされ ているのかわからなかった。それで神のお心を 求めて祈り始めた時、自分の思いを遂げようと していた事がわかった。自分の強い思いがあり、 思い通りにしたいとの強烈な自我があった。 自分の思いを明け渡した。自分の思い通りでな くとも神の御旨がなる事を祈った。するとすぐ に答えが来た。神と共に対処することが出来た。 神が聞かれない事を経験しているか。自分の思 いがあり、神の思いとは全く違う事をしばしば 経験する。もう一度自分を明け渡して祈ろう。 御旨がわかる。 ------------------- 「しかし、みこころが成ります様に・・」と祈 る時、しぜんに思いが変えられて行く事を経験 する。自分の思いが霧のように晴れて、いつも 御旨に焦点が合いますように。