2005年07月31日(日)

「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています」(ヨハネ6:9)

「無いもの」を数え上げていないか。あれが無い、
これが無い。あれもこれも足らない。私は何も
できない。悪魔の効果ある攻撃は失望させる事
だ。絶望させてしまえば大成功だ。気力が失せ、
一歩も進めなくなる。役に立たない、これから
もだめだろう。そして、失ったものを数えてい
ないか。無いものでなく、有るものを数えよ。
主は、パンはどれくらいあるかと言われた。そ
して「それをここに持って来なさい」と。少年
の手にあるなら、パンはそのままだ。重要な事
は、その僅かな物を自分のものとせず、主のもと
に携える事だ。そうするなら、大勢の人々が満腹
し素晴らしい栄光が現れた。主は、今、あなたの
手に有るものを用いて下さる。「もし熱意がある
ならば、持たない物によってではなく、持ってい
る程度に応じて、それは受納される」あなたの手
の中にあるものは何か。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
無いものでなく、自分に有るものに目を留めよう。それを
自分のもとに置くなら、そのままだ。しかし、主に献げる時、
用いられ、自分も喜びに満ち、何千倍もの主の栄光を見る。


2005年07月30日(土)

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し」(エペソ4:15)

救われた私達の口からは、どんな時も真実が語ら
れるべきだ。真実以外は偽りだ。嘘ではないが、
真実では無い灰色の言葉がある。アブラハムが
保身のため妻を妹だと言ったように。確かに嘘で
はないが、その場では偽りだ。経験があるか。ク
リスチャンゆえ嘘は言えない。しかし、都合の悪い
部分を隠した言葉だったりする。それは偽りだ。
巧妙なサタンに欺かれてはならない。特に人から
聞いて、人に伝える場合に細心の注意が必要だ。
自分の思いと主観で聞くなら、自分の色づけで、
次に伝達する事になる。決して真実では無い。人の
主観や偏見を混ぜて次々に伝達される内に、真
実が歪曲されてしまう。主の御前で口から発する
言葉は出来る限り正確であるべきだ。私達は自
分の言葉に責任を負う。いつも唇からは真実が
語られるよう。
・・・・・・・・・・・・・・
御言葉には愛と力と命がある。人を温め、慰め励
まし、生きる力を与えるために唇が用いられたら
どんなに感謝だろう。心にある事を口が語る。まず先
に心が御霊に支配され、周囲に感謝と喜びと潤いが
今日1日も流れ出るように。
 


2005年07月29日(金)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)



ヨブの厳しい試練には舞台裏があった。
神とサタンとの間の取り決めがあったの
だ。ヨブはいたずらに神を恐れましょう
かと、サタンは神に中傷した。見返りが
あるから、得るものがあり、神の祝福が
あるから神に従っていると。それで、神
は持ち物に手を触れる事をサタンに許可
された。神はヨブを信頼しておられた。
ヨブは神に見込まれていたのだ。私達は
どうだろう。なぜ神に従っているのか。
「家内安全」「商売繁盛」「交通安全」
なら、この世のご利益宗教と同じだ。
私達も、ご利益宗教か。神が何かを与え
てくださるからか。それなら試練が望ん
だ時に立ち行けない。そうではなく、神
が神であられるから従うのだ。神が神で
あられるゆえに礼拝する。これが喜びだ。
---------------------
試練が続くと、なぜ?どうして?と神様に
つぶやいてしまう。永遠の愛で愛されてい
るから、何を取られたとしても主の御名は
ほむべきかなだ。敬虔な礼拝をささげよう。


2005年07月28日(木)

「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)


視点がどこにあるのか、焦点をどこに合わせ
るかで人生大きく違って来る。どこを見てい
るか。神を知る以前は人しか見えない。
人が神になり、人を恐れ人との比較の中に生
きていた。クリスチャンとなった今でもだろ
うか。ペテロも自分の死に方を示された時、
隣のヨハネが気になった。しかし、主は隣は
「関係ない」と言われた。皆それぞれ導かれ
方が全く違う。比較が出来ない。私達は横で
はなく上だけを見て従うのだ。横を見ると必
ず比較が生じ嫉妬し、優越感と劣等感を行っ
たり来たり。優越感は劣等感の裏返し。
これらは根は同じ。主は比較の虚しい不毛の
人生から開放して下さった。視点を横でなく
上に置き、自分のために備えられた御旨を歩
む事。喜びだ。
------------------------
私達は弱いから人の影響は必ずうけてしまう。
祈りながら、ひたすら主に焦点を合わせられ
るよう。不毛なストレスから守られる。


2005年07月27日(水)

「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリミン行きなさい」(マタイ5:41)

ある著書の昔の中国の話だ。田があり、上の
田に酷暑の中、下から水を運んで田に満たした。
すると下の田の人が杭を抜き、上の田の水を全
部自分の田に流し入れた。クリスチャンだから
と我慢し、再度水を運んだ。又同じ事をされた。
祈ったところ導きを受け、次には下の田に水を
入れてから自分の田に水を入れた。すると、こ
れが神なら自分も神を信じたいと言った。相手
の求める以上の事をする時、大変なインパクト
になる。なぜなら、肉には絶対に出来ないからだ。
肉は自己中心で損得勘定で働く。一ミリオンす
らしぶしぶ不平不満タラタラだ。犠牲は払いたく
ない。自分に死んで行く時、神を現す。なぜ?
そんな事が出来るのか、人は背後におられる神
を見る。その時、神の栄光が現われる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分に死ぬ事が証しだ。「愚かな人だ。あなたの
蒔く物は、死ななければ生かされません」ちょっと
時間を割いたり、話に耳を傾けたり、譲ったり、相
手の益を求めようとする、そんな事だ。


2005年07月26日(火)

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にどどまります・・わたしにとどまっていなければ実を結ぶことができません」(ヨハネ15:4)

実を結ぶのは、枝がぶどうの木にとどまっている
事による。自然に養分が届き結実する。枝が、
何か一生懸命する事によってでなく、とどまる事
によってだ。主はぶどうの木、私達は枝。重要
なのは「とどまる」事だ。枝が額にしわをよせて
頑張る事ではない。枝が独自に、自力で頑張った
途端、木から離れる事になる。頑張る事によって
離れ、愛の中にとどまる事により実を結ぶ。それは
主との親密な交わりの中にいる事。どうすればよ
いのか。デボーションだ。しかし、デボーションは
目的ではない。ここを間違えないようにしよう。手
段であって目的ではない。では、もし、祈れない時
はどうすればよいのか。気力も無いほど消耗しき
る時、辛くて苦しくて容量オーバーな時、悲しくて
何も考えられない時、一つの事が出来る。心を閉
ざさないで、沈黙しないで、それでも心を神に告げ
るのだ。「辛い」「苦しい」「どうして?」これが
神にとどまる事だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
苦しい時「なぜ?どうして?」「もうだめ」そのままの
気持ちを神に告げて行こう。それがとどまる事になる
と言われる。子供の手をひいている親は子供が転び
そうな時、特別強く握り支える。苦しい時は特別に神
の愛と神の目が注がれている。無力の時こそ祝福の時。
 


2005年07月25日(月)

「互いにいどみあったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」(ガラテヤ5:26)



人を羨ましく思う事があるだろう。軽い羨望の
芽が、少しづつ育つなら羨望から不満が募って
行き、やがて妬みとなる。嫉妬は罪深いものだ。
祭司長がイエスを引き渡し、十字架につけて行
ったのは妬みによる。妬みから激しい憎悪が生
じる。ヨセフの兄弟がヨセフを隊商に売り飛ば
したのも妬みによる。激しい嫉妬は破壊的な力
を持つ。殺人にさえ至ってしまう。苦い根をそ
のままにしてはならない。育ててはならない。
あなたの内に妬みがあるか。まず神の御前にそ
の妬みの罪を認め、告白する事だ。神は助けて
下さる。根を抜き取らなければならない。憎し
みの苦い雑草が芽を出す。根を張ると多くの争
いを引き起こす。根を張る前に引き抜け。
------------------------------
わずかな妬みも、そのままにしておくなら、
サタンがそこを狙ってくる。サタンに足場を与
えて心を憎しみと、嫉妬で充満させてはならな
い。苦い思いはすぐに神さまに告白するよりない。


2005年07月24日(日)

「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ」(雅歌1:15)

結婚式に出席する。綺麗な花でセッティン
グされた素晴らしい会場。盛装した多くの
招待客。花をまくフラワーガール。華やか
な目を惹くもので一杯だ。しかし、新郎は
どうだろう。新郎の唯一最大の関心は花嫁
であり、それだけだ。他はいっさい目に入
らない。新郎の心には、ただ花嫁があるだ
けだ。主イエスも私たちに対して同様だ。
花婿が花嫁を熱烈な愛で愛するように、主
イエスはあなたを愛しておられる。あなた
を、世界中で、ただあなた一人であるかの
ように愛しておられる。ただ一人花嫁だけ
に、花婿の目が留められているように。こ
のような愛があなたに注がれている。何と
感謝で嬉しい事だろう。この愛をしっかり
受け取って味わおう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
私達のでなく、私の救い主であるように、私達
でなく、「私」を愛して下さっている。この私
に目を留め、ただ一人であるかのようにすべて
の愛を注いで下さっている。高価で尊い愛してい
るとのお言葉を心深くに受け止めよう。
 



2005年07月23日(土)

「さあ、わたしは来ました・・神よ、あなたのみこころを行なうために」(ヘブル10:7)

すべての人に困難は来る。人生に悩みや試練
が臨む。それは避けはられない。しかし、私達
は「態度」を選ぶ事が出来る。嫌な事がある時、
疲れた時、周囲に不機嫌をまき散らし、周囲を
暗く、暗たんたる気持ちにする人々がいる。私
達は周囲に対して責任がある。不機嫌を周囲
に向けて毒を流す事は良くない。肉の発散だ。
そうではなく周囲への祝福の器と用いられるな
ら、どんなに幸いだろう。周囲に暖かさと喜びや
慰めをもたらす者とされたくないだろうか。それ
はあなたの選択にかかっている。不機嫌へと
の凄まじいサタンからの攻撃と肉の欲望が臨
む。しかし、それを拒否し、御霊を選ぶのだ。
神はあなたの今の状況をご存じで、導き最善を
される。委ねて信じる方を選ぼう。あなたは選
べる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
不機嫌は、もろに肉で周囲に当たり散らす事だ。
周囲は嫌な思いをする。恵みをパッと消してしま
う。自我でなく御霊を選んで行く時、温もりや潤
いをもたらすために用いられる。みこころ選ぶ時、
自分も周囲も神に触れる。
 


2005年07月22日(金)

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し・・」(ヘブル4:12)



調理をするだろうか。惣菜はまだよい
が、ケーキ類は調合が微妙だ。レシピ
通りにすることが成功の秘訣だ。適当
にやってしまうと失敗する。膨らまな
かったりする。忠実にレシピ通りに作
るとまず美味しく出来る。私達の人生
も同様だ。神は明確な指針を与えてお
られる。御言葉だ。御言葉に従って生
きる時、心に喜びがあり、真の満足が
あり、自分は更に神を知り、周囲にも
神を現して行く。御言葉に従わないで、
自分の思いで歩むなら失敗する。一見
良い考えに思え、合理的な賢い方法に
見えるが、その思いは肉からのもので
あり、その背後にはサタンの誘惑があ
る。御言葉を土台に御言葉から指針を
与えられ歩んで行くなら豊かに実を結
び証にもされる。
--------------------
行動の源が何処から来ているのか、御
言葉は、はっきりと指し示してくれる。
自分が善と思ってやっている事も肉で、
肉と合致した御言葉にしか従っていな
いことが案外多い。


2005年07月21日(木)

「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの来は実を実らせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない・・しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」(ハバクク3:17



国が侵略され、破滅的状況にあった。
見える状況は真っ暗だ。一切の望みが断たれた
ようだ。あなたも真っ暗闇の状況を経験した事
があるだろうか。しかし、ハバククは喜んだの
だ。喜び勇んだ。パウロも同じだ。
獄中から出した書簡に「喜べ、いつも喜べ」と
書き送った。ハバククもパウロもなぜ最悪の状
況の中で喜べたのか。「主にあって」の喜びだ。
すぐに移り変わる感情的気分的な喜びでなく、
真理に根差した、御言葉に根差した喜びだ。
独り子をも殺された私への神の愛と慈しみ、絶
対に間違いの無い完璧なご計画、私への最善を
信じるのだ。神に焦点を当てて、神の御心を選
び取るのだ。その時、神に委ね神の見方で状況
を見る。そこから真の喜びが来る。
----------------
しんどい時は、一人でふーふー言っている。
そんな時、神様も何も飛んでいる。苦しみを訴
える神様がいて、神様にあって歩む方法も示し
てくださるのに。状況や感情に刺激されず喜ん
でおればよいのに。


2005年07月20日(水)

「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:7)

ある女性がスーパーへ行った。帰り、一つの買い物
袋をカートに忘れてしまった。駐車場で気が付き、車
に荷物を置き、引き返した。が、その荷物は無かった。
念のために店員に聞くと「あ!受付にありますよ」と
笑顔で答えた。彼女がそのまま諦めて、立ち去るなら、
その袋は戻らなかった。しかし、尋ねた事によって、
戻って来た。神も、私達の求めに答えようと待ち構え
ておられる。神が私達の必要をすでにご存じだ。しか
し、申し出る必要がある。願う事によって、私達の側
に、謙遜に感謝して、神の素晴らしい恵みと祝福
を受け取る心の備えが出来るのだ。あの袋は諦め
ていたら戻って来なかった。しかし、申し出る事によ
って、戻って来た。神は祈りによって願いなさい、最
善を与えると約束しておられる。与えたいと待ちかま
えておられるのだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祈らなくても多くのものが与えられている。しかし、祈
って与えられる時、全く違う。感謝が湧き上がり、神を
知り、喜びが満ちる。神との生き生きとした交わりの実
感が来る。祈りは聞かれている。思い通りとは限らない
が最善が成る。




2005年07月19日(火)

「だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)



思春期の娘を持つ母親、ことごとく反抗す
る娘に親子喧嘩が絶えなかった。いつも衝
突し、母親は思い通りにならない娘にいら
立った。ある日も朝から大喧嘩になり、母
親は主の御前に親子関係が助けられるよう
に叫び祈った。御前で心静めていると、自
分の思い通りにならない娘に対する怒りと
腹立ち、強烈な自分の思いがある事を示さ
れた。娘を認め、受け入れるのではなく、
一方的に自分の思いを娘に押し付けている
気づきを与えられ、娘に謝った。すると娘
も素直に謝って来た。わけわからずいらい
らして、自分でわかっていてもどうしよう
も無かった、ごめんなさいと。この日を境
に親子関係が全く変えられた。相手の事を
考えるようにされた。
----------------
自分を押し通そうとする時必ず反発に会う。
悪ければ悪いほど素直に認められないのが罪
、喧嘩は必然だ。そんな時、主に罪赦された
自覚がないなぁ・・と、素直に謝ろう。


2005年07月18日(月)

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負ってわたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:29)



遠回りをし、紆余曲折を通して、主のもとに
つながり、みこころの道へと導かれたある人
物。何と無駄な時間、無駄な道を通ったのだ
ろうと、ため息をつくようだった。しかし、
パズルのように、一つ一つのピースが必要で、
それがあったから、踏み石となり次の道へと
続き、振り返る時、心砕かれながら正しい道
へ導かれた事がわかった。神はすべての事態
を用い、導いて行かれたのだ。神は「学べ」
と言っておられる。苦しみ、失敗、過失、そ
れらを通して「学べ」と。一つ一つの失敗を
通して、学んで行けば良いのだ。失望、落胆
に落ち込むのではなく、教えようとされてい
る事を受け取るのだ。道のりはまだまだ続く
一つ一つ学びを得、成長して行ける。
---------------
今、心開かれ、みことばを聞いて学べること
は、神さまからの大きな恵みだ。外なる人は
朽ちかけても内側から主に教えられ、常に変
えられ続けることはなんという幸い。


2005年07月17日(日)

「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7:3)

人の欠点はよくわかる。他人の事はしっかり見
えるものだ。他人の欠点は幾らでも指摘できる
のに、自分の事はさっぱり見えない。それで他
人をあれこれさばき、とやかく言うのはこっけい
で愚かだ。私達が人にばかり目が行くのは、自
分を見なくて済むからだ。実は自分を見たくない。
プライドのため、自分の欠点や弱さを認められ
ない。弱さを直視できない。しかし、直視しない
限り、解決は無い、何も始まらない。自分が変え
られる事は無い。自分の姿を真正面から見据え
て行った時、すでに解決が始まっている。光に出
され、見えた弱さについては祈る事ができる。そ
の祈りは聞かれる。痛みが伴うが、自分と向き合
い、聖霊の光に照らされ、自分の弱さを認めよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
さばく正当な理由、明白な根拠がある時、対応する事は
適った事だ。しかし、相手の欠点や過失に悲しみではな
く快感を感じるならさばく心だ。又、自分はそんな人間で
はない。人をさばかないと思っている時も、梁が見えない。





2005年07月16日(土)

「むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」(Tテモテ6:17)

ある男性が家族のために休暇を取り、家族旅
行に出かけた。しかし、膨大な量の仕事が頭か
ら離れず、旅行の間中、頭は次の仕事のアイデ
アと段取りで一杯だった。帰路は疲れ果てて、一
刻も早く家に着く事しか頭に無かった。そんな
帰路に事故を起こしてしまった。その事により
教えられた。今の、現在を全く生きていない事
を。常に、先へ先へと心がせかされ、追い立てら
れ、先の事を思い煩っている。旅行も次の仕事の
事で全く楽しめなかった。私達はどうだろう。今を
生きているか。過去をくよくよしたり、未来を心配
していないか。未来は神に任せて、今日を生きる
事がみこころだ。目の前の今日を大切にして、しっ
かり主と共に生きよう。人生は1日の積み重ねだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・
先を思い煩い、今日をつぶしてしまう。今日、神が備
えて下さっている喜びや祝福を受け取れない。心配
したからとて、何かが変わるわけでは絶対にない。
先は神に委ねて、今日の祝福にしっかりあずかろう。

 


2005年07月15日(金)

「おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)

子供じみた信仰というのがある。信仰持つなら、
悩みが無くなる。信じたからには、守られるのだか
ら、家内安全、商売繁盛、失望、落胆はあり得ない。
すべてうまく行く。皆幸せになり、めでたし、めで
たしで終わる。しかし、聖書はそんな事は断じて言っ
ていない。救われた目的は聖くされるため。御子の形
に変えられるため。だから、信仰持つや試練が次か
ら次ぎへと臨む。こんなにわがままで、自己中心、自
我の強い者が変わるなど至難のわざだ。これこそが御
父の愛だ。主に似た者と造り変えられる。この事のた
めに救われた。この目的をしっかり認識し、試練を受
け止めよう。何で?こんな事が?と言うその事こそが、
あなたを変え、練り造り上げて行く。痛く辛いが逃げ
ないで、問題、状況を真正面からしっかり受け止める
事が祝福の秘訣だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
受け入れる時、不思議だが問題の見方が変わり、自分が
変わる。自分の思いが強く、思い通りで無いので悶々と
苦しむ。それが、受け入れる時、自分を明け渡す事になり、
自分の願い通りでなく、主の御旨のままにと思える。苦悶
の心に、平安が来る。

 


2005年07月14日(木)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)

クレームがあって、商品会社に電話した。何度
かけても話し中だ。諦めて、かけ直すと、今度は
留守録のままだった。神への電話はどうだろう。
考えた事があるだろうか。話し中も留守録も無く、
つながらない事が決して無いのだ。何と恵みであ
り感謝な事だろう。どんな時も呼ばわる事が出来
て、真摯に受け止めて下さる。答えはイエスとは
限らない、ノーもあるし、又、即答だとも限らない。
待て、祈り続けよの場合もある。しかし、どの時
も必ず聞いていて下さる。何と慰められ、嬉しい
事だろう。答えは神のみこころが成る。時に、自
分の思いとは違うが、自分にとっての最善が成就
するのだ。しかし、どの祈りも、すべての祈りは
受け止められる。
・・・・・・・・・・・・・・
「願いごとを知っていただきなさい。そうすれば
・・神の平安」の通り、心の願いは願いとして神
に告げると、自分の願いは神に知って頂けたとい
う事で、不思議だが心が大きな平安に包まれる。
御言葉の通りだ。


2005年07月13日(水)

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平安をもって満たし・・望みにあふれさせてくださいますように」(ローマ15:13)

この世はご利益宗教だ。家内安全、交通安全、商
売繁盛。幸運、幸せは良い事で、災難、病気、怪
我は悪だ。災難の無いようにと信仰する。仮に物
事が順調に行っていても、不安がよぎる。こんな
状態が続くはずが無いと不安でたまらない。しか
し、神はすべての事を感謝せよと言われる。幸福
も不幸も災難もすべてだ。災難は災いでは無い。
神にあってすべては感謝で、平安と希望と将来を
与えるための神のご計画の一環だ。むしろ問題悩
みの中でこそ神の助け支え慰めを知る。いつも希
望がある。何という幸い。災いを恐れる必要が無
いなら、人生何を恐れる事があろう。神の愛に抱
かれており、起こる事態はすべて御手に握られて
いて、神の支配の中だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
罪が解決されて、神の愛に包まれている私達には、
生涯、災いは無い。だから、すべての事を感謝でき
る。成功や挫折、良い事、不都合な事、起こる一つ
一つの出来事の中で、神様を更に深く味わい知って
行くこと、これこそが生きる目的なのだから。


2005年07月12日(火)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Uコリント17:9)

自分の心底の弱さを認めさせてくれるのは、試練だ。
順境の時は、弱さは意識せずに生活している。そし
て、人間は誰しもプライドゆえに、自分の弱さは認め
たくない。頭では認めているつもりだが、完全無力は
惨めで認められないのだ。肉はどこまでも、自分の力
を認められたいし、自分が評価されたい。しかし、完
全無力でない限り、神に拠り頼む事など不可能だ。頭
でしかない。頼る意味すらわからない。試練はその自
らの無力を知らしめてくれる、大きな恵みだ。パウロは
命までも危険になり、死を覚悟した。その時にもはや
自分自身を頼まず、神により頼んだ。試練には意味が
あり、目的があり、私達を造り変えてくれる。振り返っ
ても、自分が変えられたのは、試練の時ではなかっ
たか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の力があり、自分でしている限り、神は働く事が
出来ない。自分が神を妨げている。神が働けるのは弱
さの中だ。信仰の成熟とはどれだけ砕かれたかだ。
自分の弱さを真に知り、自分が砕かれる逆境こそ、実
は大きな祝福の時だ。


2005年07月11日(月)

「自分の宝は、天にたくわえなさい・・あなたの宝のあるところにあなたの心もあるからです」(マタイ6:20)

天に宝を積む事が可能だ。先に天国へ送っておけ
ばよい。天国預金が可能だ。だらだらと無駄使いし
てしまう金銭を、神のため、福音宣教のために献げ
る事が出来る。それは天に貯金され、かの日にきっ
ちり報われるのだ。時間、労力、才能等の管理を神
から委ねられている。賢い管理とは永遠を見すえる
事、目先でなく天を見て管理する事。私達は所有者
でなく預かり物の管理者だ。これは神からの思い
であり態度だ。新しい性質であり、生まれつきの性質
には決してない。そして更に素晴らしい事は、宝を地
上に置かず、天に預金する事で、常に心が天に向く。
宝のありかが心のありかだからだ。あなたの日々は
地上だけのものか。虚しく消え去ってしまうものか。
よく考えて、あなたの生き方と態度を決める必要がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・
何を求めて、何を目指しているのだろう。自分の宝の
あるところが、自分が本音で求めているものだ。自分
の宝は?最も愛し、執着しているものは?御霊の光が
本音を探り、照らし出し、いのちの道に導いて下さる。


2005年07月10日(日)

「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇119:103)

飢餓について耳にする。最初、猛烈に食物を欲する。その
期間を過ぎると、食欲が失せて行く。そして、段々身体
が弱り、さらに衰弱が増して行く。心も鈍り、何も感じな
くなってしまう。主との交わりも同様だ。交わりを持たな
い日が続くと、最初は空腹を感じる。交わりを持たなけ
ればと思う。しかし、尚も遠ざかり続けると、空腹も感じ
なくなる。心は鈍くなり、霊は弱って来る。やがて餓死し
てしまう。身体の食物がどうしても必要なように、霊の
食物はもっと大切だ。あなたは空腹を感じているか。今
がチャンスだ。すぐに主のもとへ戻り、心行くまで交わろ
う。その空腹感がなくなってしまわない内に。満ち溢れる
喜びと安らぎは、主との交わりからしか来ない。
・・・・・・・・・・・・・・・
神の言葉には愛といのちと力がある。神に心の底を打ち
明ける事ができ、御言葉から主のお心を知らせて下さる。
喜びが与えられ心満たされる。日毎に主との交わりを
「選び」取ろう。でないと決して持てない。




2005年07月09日(土)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」(Uコリント10:12)

「惨めになりたければ、比較しろ」と言われる
ほど比較は愚かだ。比較すると二つの結果が生
じる。人より優れていると優越感に浸り、高慢に
陥る。人より劣っていると劣等感にさいなまれる。
すると、自分を人によく見せようと、自分でない
自分を作る。そして、段々演技している自分と本
来の自分、どちらが自分かがわからなくなる。自
分の本当の気持ちもわからなくなって行く。人を
欺く偽りが自分に返る。優越感は劣等感の裏返し。
どちらも同じものだ。人が基準で、人を見ている
ところから生じる。目を人ではなく神に向けるな
ら、比較から解放されている。あなたはかけがえ
がない存在。あなたにしか出来ない働きがあり、
場所がある。他の誰にも代わりがきかない。
・・・・・・・・・・・・・・・
横ではなく縦、神と自分の関係がすべてだ。自分
に与えられた神のみこころを行い、全うすること
だけを考えて行く時、喜びが与えられ、横が気に
ならない。主との関係を深めて行こう。


2005年07月08日(金)

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテア6:8)



蒔いたものを刈り取るのは神の原則であり、
日常生活でも全くその通りだ。罪には一瞬
の快楽があるが必ず苦い刈り取りがある。
ダビデはバテシバとの姦淫の罪のために苦
しい辛い刈り取りをした。モーセは不従順
の罪のため、乳と蜜の地カナンに入る事が
出来なかった。罪の快楽には、必ず後に激
しい苦痛を味わう事になる。
しかし、サタンはその苦痛はいっさい隠し、
甘い麗しい誘惑を仕掛けて来る。誘惑は必
ず甘い。苦ければ誘惑にならない。
その誘惑はあなたの欲望にぴったり合致し
ている。それゆえ誘惑だとまず気づかない。
気づかないまま欲望を満足させてしまう。
策略がある。今、誘惑が来ているか。
堅く立ってサタンに立ち向かえ。
-------------------------
誘惑と気づかず乗って行っている事、後で
振り返れば良くわかる。後で落ち着いて考
えると、肉が喜んでいたのが良くわかる。


2005年07月07日(木)

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)



ある婦人が夫の救いのために祈り続けた。
夫は会社人間、日曜は必ずゴルフ。救い
を信じて祈りつつ仕えた。集会へ出る日
は必ず食事は一品多くし夫の好きな物を
作った。妻の愛の証の生活に夫は心では
好意的だった。定年後教会へ行くの言葉
通り、夫は定年後信仰を公にした。
先に救われたある子供は親の救いを祈り
続けた。親を親とも思わず反発していた
子供が思わず親に「尊敬している」とい
う言葉が口から出た時に、親も変わり良
い関係に変えられ御言葉に心開いてくれ
ている。愛とへりくだりを伴った証し、
及び祈りには大きな力がある。親族の救
いのために祈り続けよう。失望しないで
祈り続けるなら時が満ちて大きなみわざ
を見る。祈り続けよう。
--------------------------
祈りつつ、愛する者の救いを待つことが
できること感謝だ。主によって、みこころに
変えられて行く前に、家族が救われたなら
何の成長もない者だったろう。


2005年07月05日(火)

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く』(イザヤ30:21)


ある婦人が新設病院の婦長にとの誘いを
受けた。大任過ぎてとても自分には無理
と思った。まず能力面で自分よりもっと
有能な人々が幾らでもいるのでは。
そして自分には家庭がある。申し出を受
けて何より神の導きを求めて切に祈った。
祈り続けて病院側に自分の思いを告げる
と尚も是非にとの答え。家族は皆が賛成
してくれた。しかし、自分に出来るのだ
ろうか、決断しなければならず御言葉を
求めて祈った。その時「恐れるな。私は
あなたと共にいる。たじろぐな。わたし
があなたの神だから。私はあなたを強め、
あなたを助け・・」と語られた。
導きを確信して前進する事を決めた。
神は必ず必要な導きを与えられる。神に
求めよ。
---------------
自分の思いや、状況に左右されやすいか
らこそ祈り、神様の御声にを聞く事を忘
れて動いてはならない。必ず来る導きを
静かに待とう。


2005年07月04日(月)

「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます」(詩篇51:6)


主が最も憎まれたものは何だろう。それは
「偽善」だ。偽善とは、本来自分でない者
の振りをする事だ。これは「偽り」であり、
神を欺く行為だ。私達はどうだろう。
霊的クリスチャンの振りをし、熱心な信者
の振りをし、良い人の振りをしていないか。
「偽り」を信仰生活に持ち込むなら致命的
だ。振りをして欺いていたのが、いつしか
自分が自分に欺かれ、偽りの姿を本当の自
分だと信じ込むようになる。その時、光が
臨み、聖霊が語りかけても、罪は無いと言
う。そういう人を聖霊ですら、どうする事
も出来ない。神の御言葉は内に無いという
状態だ。振りをしてはいけない。そうでな
く信仰薄い、あるがままを認めて行く時、
神が成長させて下さる。
---------------------
わからないのにわかった振りをしないように、
その時、その時、振りに気づかせてください。
いつでも、今必要な祈りができますように。
いつも神さまの前に正直に、素直に生きる事
ができますように。


2005年07月03日(日)

「さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じる・・その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば・・成長を遂げた完全な者となります」(ヤコブ1:3)

困難は私達の信仰を試し、忍耐を鍛え、品性を
生み出させる。振り返っても、自分が変えられて
来たのは試練を通してではないか。御言葉は試
練により成長すると言っている。成長が無いのは、
試練を受け止めないで、逃げたり、ごまかしたり
しているからだ。夫の転勤が決まった、ある女性。
家の売却、子供の学校の事、様々な不安に御旨
通りにと祈った。夫は先に任地へ。家を売却後引
越しが、その家が売れなかった。焦りそうになるが
祈り続けた。信仰が試された。学年終了の頃、家
が売れた。途中転校を心配したが神は最善をされ
た。自分の計画ではなく、神のご計画通りに、すべ
て万全に導かれた。神に間違いはない。何の心配
も無かった。神を信頼する事を学んだ。神は「必ず
良くして下さる」それを信じる事が忍耐だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
順風の時こそ、しっかり信じれば良いと思うが、
なぜか人は自分の事に向く。試練の時は神に近い。
心が神に叫ぶ。自分の無力を知らない限り、神を頼
る事はあり得ない。試練は自分の無力を教えてくれる。
 


2005年07月02日(土)

「もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5:24)

もし、ギクシャクした関係があるなら、礼拝の途上でも
和解が先だという事だ。なぜなら、その礼拝は神に受け
入れられないからだ。又、サタンに足場を与え、サタン
の働く機会を作ってしまう。こちらがまずへりくだる事
だ。自らの非の部分を謝罪する事。相手にも非があるか
も知れない。しかし、それは相手と神との問題であって、
自分には関係が無い。ある母娘が大喧嘩になり、娘はド
アを蹴散らして登校。母親は怒り心頭。混乱の平安のな
い心が助けらるよう祈った。すると、娘が思い通りにな
らない事への不満、又娘の言葉に傷つき赦せないでいる
事を示された。悔い改め、娘にも謝った。その時から母
娘関係が変わった。娘も謝って来た。相互理解が生まれ、
双方が相手に耳を傾けるように変えられて行った。今、
心に赦せない思いがないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言い訳や弁解は山ほど出て来る。相手の非も事実だ。し
かし、一切の弁解をせず、自分に関する非だけを認めて、
悔い改める時、大きな喜びと平安を経験する。相手の非
を見せてくるのは祝福を妨害するサタン。


2005年07月01日(金)

「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコ14:36)


ある人が厳しい試練にいた。導きを求めて祈り
続けるが、何の答えもなかった。尚も祈り続け
たが、全く答えがなかった。神に見捨てられて
いるとは思わなかったが、なぜ答えが閉ざされ
ているのかわからなかった。それで神のお心を
求めて祈り始めた時、自分の思いを遂げようと
していた事がわかった。自分の強い思いがあり、
思い通りにしたいとの強烈な自我があった。
自分の思いを明け渡した。自分の思い通りでな
くとも神の御旨がなる事を祈った。するとすぐ
に答えが来た。神と共に対処することが出来た。
神が聞かれない事を経験しているか。自分の思
いがあり、神の思いとは全く違う事をしばしば
経験する。もう一度自分を明け渡して祈ろう。
御旨がわかる。
-------------------
「しかし、みこころが成ります様に・・」と祈
る時、しぜんに思いが変えられて行く事を経験
する。自分の思いが霧のように晴れて、いつも
御旨に焦点が合いますように。