2005年09月30日(金)

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」(ガラテヤ3:3)






根深い古い価値観があり、信仰生活
を自分の力で頑張ってしまう。
主イエスに出会うまで自分の力で生
きて来たので、その弊害は根が深い。
肉はどこまでも自分を誇りたいし認
められたい。又評価され賞賛を受け
たい。今までの自分の存在価値が自
分の力と頑張りにあったからだ。
頑張るのは良い事の価値観で生きて
来て、頑張る事にすべての価値を置
いて来た人は多い。それは苦しいの
に、快感があるのは自分を誇れるか
らだ。頑張らなくてよい世界は、真
の安堵と安らぎの世界なのに肉は自
分が否定される事になり嫌なのだ。
このように内にある肉を認識し、御
霊の導きに従う時、新しい性質が育
って行く。御霊で始まった私達は御
霊の導きと力により進む。
--------------------
頑張っているだけに、なかなか間違
いに気づかない。同じものさしで人
をも裁いていく。イエス様の十字架
の恵みを決して無駄にしない歩みを。


2005年09月29日(木)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)



ジグソーパズルをする時、二つのやり方が
ある。ピースを取り、合う場所を見つける
のと、まず場所を決めピースを捜す方法だ。
それだと膨大な時間がかる。ピースを取り、
埋めるほうが早いし楽しい。神は私達の人
生で一つ一つ次々とピースを手渡しておら
れる。時に一見それは「災い」に見える。
しかし神は「災い」ではないと断定されて
いる。パズルを完成させるために必要不可
欠なピースなのだ。それを嫌がるなら絵が
完成しないように神の完璧なご計画は完成
しない。そのピースを「災い」ではなく
「平安と希望」と見なすのが信仰だ。今、
一見災いが臨んでいるか。信仰の目でそれ
は平安と将来と希望をもたらすものだ。
--------------
手渡されたピース、良いものは神様!と
受け取り、嫌なもは避けていないだろうか。
すべて神様からのピースだ。信仰の目で見
ていくなら冷静に受け止める事ができる。
平安と希望しかないのだから。


2005年09月28日(水)

「また立って祈っているとき、誰かに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」(マルコ11:25)



ある人が友人と喧嘩した。祈る時、
とがめを感じた。それで、今は双
方傷ついており相手をそっとして
おいた方が良いと思いますとの祈
りをしていた。しかし、よくよく
自分の心を探ると、それは都合の
良い体裁で、実は相手にひどく腹
を立てていて赦したくないし、和
解もしたくない。相手が謝って来
るべきだと思っている。言い訳の
数々を並べ立て、自分正当化させ
ている姿を見せられた。自分の非
を決して認めない頑なな醜い自我
に気づかされた。聖霊の光に照ら
され、主の御前に悔い改める事が
出来た。翌日すぐ相手に詫びた。
すると相手も素直になれなかった
心の内を正直に話してくれ、その
場で和解ができた。益とされた更
に絆が深められるのを感じた。
------------------------
本当の自分を示されることは恵み
だ。気持ちを偽ったまま、見当違
いの祈りを重ねている事がある。
赦せない自分を神様の前に認める
事ができるなら、次の祈りへと導
かれていく。


2005年09月26日(月)

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)

ある人に突然脳腫瘍が発覚。即、手術
になった。心が混乱し、動揺した。死の
不安も前にし、家族の事、これからの事、
何をどう考えればよいのか、何が何だか
わからなかった。信仰の試練なのか。
神の御前に静まろうと、時間を取った。
御前に波逆巻く心を静め、心のすべての
不安を一つ一つ告げて行った。どんなに不
安で動揺しているかを告げた。その時、ま
さに御言葉が臨んだ。「わたしがあなたの
神」「恐れるな。わたしがともにいる」神
の一言で心の大嵐がスーッとなぎになった。
状況は同じなのに、全き平安に包まれてし
まった。やがて手術は成功。神を更に深く
知る時とされた。御霊からの一言葉には大
きな力がある。神に向かおう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
御霊から来る一言で、大嵐の中も全き平安
になる。状況は変わらないのに、心は平安だ。
よく経験する。「たじろぐな。わたしがあなたの
神」と言われる方に、事態を明け渡して、神が
して下さる事を信仰持って受け取ろう。     



2005年09月25日(日)

「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Uコリント12:9)

誰しも最も嫌な事がある。それは自分の
弱さを認める事だ。認めたくないので目を
そらせ、見ないようにし、頭の引き出しに
しまい込み、ふたをしている。自分の無能
を認めるのはプライドで膨れた自我には
痛い事だ。パウロは肉体のとげに苦しん
だ。その苦しみを取り去って欲しいと心底
祈った。しかし、神の答えは「ノー」だった。
それがある方がもっと神に仕える事がで
きると。神の見方と私達の見方は全く違う。
世の価値観は強さは「良」弱さは「マイナ
ス」と考える。しかし、神は正反対だ。自ら
の弱さを認める人に恵みがおおい、空っ
ぽの何も無い器を満たされるのだ。この
世では絶対に考えられない。神の愛、恵
み、あわれみだ。弱さこそが感謝で恵み。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
弱いまま、醜いまま、何もできないままを
受け入れて、愛して下さるとは何という恵み
だろう。人間の価値観とまるで正反対なの
で理解できない。御言葉の通りそのままを
心に受け入れ取るなら、喜びで溢れる。



2005年09月24日(土)

「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた」(詩篇107:19)

ある人がバイト先で、わからない事はチ
ーフに聞くようにとの指示を受けていた。
しかし、しょっ中は聞きにくいと、自分の
判断で仕事をしたところ、ミスをしてしまい
大きな損害を与えてしまった。「私に聞け
と言っただろう」と大変な叱責を受けた。
指示を仰いでさえ居たら免れた失敗だっ
た。霊的生活も同様だ。自分の思いで
事に当たると失敗する。事態をますます
悪化させる。その間、御父はずっと待っ
ておられる。助けを求めて来る事を。御
父は助けようと待ち構えておられる。しか
し私達は、求めなければならない。神に
頼らないでした事は、必ず失敗し、刈り
取る事になる。最初から御父を呼び、指
示を仰ごう。御父と一つに労する事は大
きな祝福だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祈らないで、御心求めないで、自分の思
いで事を行い、どれだけの失敗をした事
だろう。祈らないと主の道をそれて失敗する。
助けようと待ち構えて下さっている主の
もとへ、今日も行こう。


2005年09月23日(金)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」(コロサイ3:13




趣味のサークルでの事だった。一人の人にひ
どく辛く当たられた。いじめの様にこれ見よ
がしに中傷されたり、仲間はずれにされた。
彼女の目立つ能力を妬んでの事だと感じてい
た。辛くて悲しくて帰宅すると涙が出た。
クリスチャンだからと相手を愛せるよう祈り
続けていたが全く祈りが答えられなかった。
ある日祈っていて自分は全然愛したいと思っ
てなどいないと気づかされた。それで、愛せ
ませんと、正直な気持ちをそのまま祈った。
その時、妬んでいじめなければならない相手
が真にかわいそうに思えた。涙と共に祝福し
てあげて下さいと心から祈れた。
自分が変えられた事に驚いた。
自分の心を正直に神に明け渡して行く時、神
は赦す心を与えて下さる。
------------------
愛せません、赦せません、口も利きたくあり
ません...と正直な気持ちをいつも神様に持っ
ていこう。愚痴の話し相手はいつも神様だ。
必ず神様が働いてくださることに気づく。


2005年09月22日(木)

「この民は、口先でわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」(マタイ15:8)


兄弟喧嘩や、幼稚園での喧嘩で経験があるだろう
か。親や先生から双方の「ごめんなさい」を強要
されるので、表向きだけのごめんなさいを何度繰
り返した事だろう。しかし、親や先生がその場を
去った途端、喧嘩再開だ。私達はどうだろう。
悔い改めの実を結んでいるか。聖霊に導かれた悔
い改めは必ず実を結んで行く。結果が態度や行動
に表れる。悔い改めとは180度方向変換する事
だ。必ず変わって行き、実が表れる。口先だけの
悔い改めは、その人が何も変わらない。結果がま
ずいと思っているだけで、真に悪いとは思ってい
ないからだ。だから再び同じ失敗をし、罪を犯す
事になってしまう。自らの罪を神が見ておられる
ように御霊に見せて頂こう。
-------------------
悔い改めたはずだが・・と思うことがある。本当
に良くなりたいのだろうかと、じっくり自問して
みるとやはり口先だけでで「ごめんなさい」を言
っているだけだ。「ごめんなさい」のその後を自
分自身で見張って行こう。


2005年09月21日(水)

「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩篇51:10)

家の大掃除をしようと思っていた婦人。
しかしなかなか出来ずにいた。ぐずぐず
先延ばし。余りの汚れにとうとう思い切
って決行。家の中が驚くほどきれいにな
った。その時御霊は自らの心の内を照
らして下さった。中途半端な生ぬるいク
リスチャン、ダラダラと何の目当ても無く
過ごしている毎日。悔い改め、主に自分
を明け渡し心の大掃除をして下さった。
目標を持って生きる事の大切さを示さ
れた。生活が大きく変えられた。まず
主との静思の時間を日々第一に確保
した。今までの無感動な生活に祈りが
働き、御言葉が生きてきて、心に喜び
が与えられた。一日の中にどんなに主
の愛と配慮が満ちているか少しづつ見
えるようになった。平凡な日々に感動が
生まれた。
・・・・・・・・・・・・・・・
日々のクリスチャンとしての生活はどう
か。感動なく過ごしているだろうか。とに
かく10分でも良い。必ず祈りの時を確保
する事を目標にしてはどうだろう。心に喜
びが来るのを発見する。



2005年09月20日(火)

「あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください」(詩篇119:133)




大雪が降り積もる時、父親が雪を踏みしめ、
子供は父親の足跡通りに歩く。すると安全
に歩ける。自分で歩き始めた途端、雪に足
が取られ歩行不能になる。信仰生活も同様
だ。主の導き通りについて行くなら、どん
な状況の中でも、大雪の中でも安全だ。常
に主に導きを求め、祈り、御言葉に従って
行く事だ。しかし、神の導きを求めず、祈
らず自分の思い通りに歩き始める時、危険
が、待ち構えている。トラブルを自分で引
き起こしているようなものだ。そんな時も、
神は助けて下さる。すぐに手を述べ、私の
足跡について来なさいと言われる。
今あなたは自分勝手に自分の思いで事に当
たり問題を生じているか。その解決は神の
ものに今すぐ持って行く事だ。
-------------
御言葉をおろそかにせず、従っていくなら
それによって私達は守られる。自分で少し
ぐらいできると思うから、御言葉に聞く事
も祈る事も後回しになってしまうのだ。
動いてしまう前に些細な事にも祈っていこう。


2005年09月19日(月)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Uコリント12:9)

ある男性が手術をした後、妻、子供、孫、
教会の人々が、あらゆる面で助けてくれた。
以前は人の助けを受ける事が出来なかっ
た。自分が助けるのは良いが、プライドゆ
えに、人の助けを受けられないのだ。どう
にもならなくなり、素直に感謝して周囲の
助けを受けた。すると、驚いた事に神の
愛が見え出したのだ。自分で出来ない事
を認め、神に頼れば頼るほど、鮮明に神
の支えと愛が見えるのだ。以前は、プライ
ドが妨げ、自分で神の愛をシャットアウト
していたと気づいた。自分の力と思いが
砕かれ、受ける事を学んだ時、周囲の愛
情を通して、神の愛がひしひしと迫った。
あなたはどうだろう。プライドゆえに、自分
の弱さを人に見せられないか。神の愛を
知る事を妨げていないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・
弱いままで良いと言われるのに、肉は弱さ
を認めたくない。虚栄、プライドだ。それ
は神の愛を自分から遮断する。どうであれ
神の愛を知りたい。自分の内に妨げるもの
が無いか、御霊の光に照らして頂こう。



2005年09月18日(日)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を告げよう」(エレミヤ33:3)

ある人が定年という人生の熟年期に
仕事上で失敗をし、大きな挫折を経
験した。落ち込み、失望落胆し、今
までの人生は何だったのかと、立ち
直る事が出来なかった。祈りながら、
導きを信じてやって来た。自分は間
違っていたのだろうか。導きではなか
ったのか。仕事の失敗と共にその疑
問は自分を苦しめた。神の御前に静
まり、心のすべてを打ち明けた。すると、
「あなたの神、主に心を据えなさい。
主があなたに富を築き上げる力を与
えられた」と語りかけられ、今までの
人生を豊かに築き上げて下さり、歩
みを導かれたのは、主であるという
確信が来た。心に平安が戻り、仕事
を最後まで全うしようとの信仰が与え
られた。どんな時にも神を呼べ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
心が暗くなる時、わけがわからなくなる
時、主に向かおう。主に解決がある。
心の思いを主に語り、御声を聞こう。
主のお心を教えて下さる。御言葉により
どんな状況の中でも平安に歩める。




2005年09月17日(土)

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)

ある男性がギャンブル狂だった。どうして
も止められず、経済的にも破綻して行った。
妻に渡すべき給料にも手をつけ、妻は生
活が出来ず喧嘩が絶えなかった。とうとう
妻は耐え切れず実家に帰った。ますます
心が荒み自分でもどうにも出来ず更に、
のめり込んで行った。心もぼろぼろだった。
若い頃行った教会を思い出し門をくぐった。
惨めで哀れでボロボロの自分を、無力を
認め、心から神に叫んだ。心の底からの
叫びであった。神は彼を救って下さった。
ギャンブルを断つ事が出来た。彼は何の
努力もしなかった。破れた心で神に心から
の叫びを発しただけだった。神は何も求め
ておられない。助けてとの、心からの叫び
だけだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本当に自分の人生で、180度変えられて
奇跡を見たのは、何かした時ではない。何も
できず、何の力も無く、破れ果てた心のどん
底で、「助けて」と叫んだ時だった。心の底か
らの叫びに答えられなかった事が無い。


2005年09月16日(金)

『イエスは彼に言われた「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです』(ヨハネ20:29)





トマスはその手に釘の跡を見、指を差し入れな
ければ決して信じないと言った。私達はどうだ
ろう。この事の道が開かれたら、願いが叶えら
れたら、この問題がちゃんと解決したなら、信
じようとの態度ではないか。見ないと信じない
トマスと同じかも知れない。〜になれば信じる、
〜が与えられたなら信じる、これは見ずにでは
無く、見て信じる信仰だ。まだ見ぬものを信じ
るのが信仰であって、もはや信仰ではない。主
は釘跡を示し、トマスの不信仰を助け、信仰へ
と導いて下さった。信じられないのではなく、
信じようとしない心の頑なさが問題だ。みずか
らの頑なな心、不信仰をそのまま主のもとに告
げよう。主はトマスのように助けて下さる。
---------------------
この目で見て、この耳で直接御声を聞けたなら..
と思うが、頑なな心がある限り従う事は無理だ。
信仰の目、耳が必要だ。見えなくても今日も主
は見ていてくださる。


2005年09月15日(木)

「あなたの足のみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)




夜中に道に迷った事があるだろうか。
初めての場所に地図も持たず何とかな
るだろうと行ったが暗闇で方向不明に
なり、自分が進んでいる方向が正しい
のかどうかすらわからず、不安に襲わ
れた。地図があれば問題ない。御言葉
が地図だ。人生の進路がわからない時
に正しく導かれる。分岐点で二つの道
どちらに行くべきか迷うとき、どうし
てよいか良いかわからない時、御言葉
は方向を示してくれる。導きを知る秘
訣は自分の意志を明け渡す事だ。どう
しても導きがわからない時、心探ると
心の底では、自分の意志が決まってい
たりする。そんな時全く導きがわから
ない。どうであれ御旨に従う決心があ
ば導きは必ずわかる。祈りと御言葉と
環境で神は御旨の道へ導かれる。
--------------------------
導きがわからないという時ほとんど心は、
自分の思いで一杯だったりする。いつま
でたっても迷ってしまう。自分を
ささげてあなたに従います、の気持ちで
御言葉を聞く事が必要だ。


2005年09月14日(水)

「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった」(詩編34:4)

        
ある婦人が主に力強く導かれ献身の決心が
与えられた。主婦として、今いる場で神にすべ
てを献げて仕えたいと。喜び与えられた直後
に夫の会社が倒産した。貯えもなく、たちまち
生活に困窮する。大きな恐れと不安にどっと襲
われた。自分がどうなろうと主に仕えますと、
献身したからこうなったのか?御前に自分の思
いや不安思い煩いのすべてを打ち明け祈ると、
そうでなく、主は予めこの試煉をご存じで、こ
の厳しい試練を乗り越える事が出来るように献
身の恵みを与えて下さったのだとわかった。主
をほめたたえ感謝した。不安は全く失せ、平安
で心が満たされた。主は必ず与えて下さる。そ
の通りにしばらくして仕事が与えられた。主は
すべての必要をご存じだ。独り子を惜しまずに
下さった方がどうして、他のものを下さらない
事があろう。恐れのある時、主を求めよう。平
安と交換して下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・          
恐れのある時「わたしの平安を与えます」の、この
世には無い、主の全き平安が与えられる。状況
は変わらず同じなのに、恐れは消え、心は全き平
安を経験する。不思議だ。主を求める時、まず私
達の心が変えられる。どんな中でも生きて行ける。


2005年09月13日(火)

「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」(ヨハネ8:9)


パリサイ人は姦淫の女などどうでも良か
った。その目的は主を窮地に陥れるため
であった。石打の刑にしなければ律法を
破る事になり、刑に処するなら主の説い
ている愛と赦しはどうなるのか。訴える
口実を得ようとした。主は違う次元から
答えられた。「罪の無い者が」女を罪に
定めていた矢がそのまま自分に返って来
たのだ。彼らは逃げた。主にも自分の罪
にも向き合わなかったので赦しも無かっ
た。しかし女は逃げなかった。さばきを
覚悟で主のもとにとどまった。その結果、
無罪とされた。見逃すのではなく、主が
これから十字架にかかられたためすでに
赦しが備えられていた。主がその罪を負
われた。わたしたちは逃げるか。
逃げないで真正面から向き合うか。
-----------------------
自分の罪にしっかり向き合わなければ、
主の十字架の価値がいつまでたってもわ
からない。一つ一つ今日も罪を示されて、
逃げないで、神様に告白しよう。


2005年09月12日(月)

「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき・・この山で、神に仕えなければならない」(出エジプト3:12)


「わたしはあなたとともにいる。これが
あなたのためのしるしである。わたしが
あなたを遣わすのだ。あなたが民をエジ
プトから導き出すとき・・この山で、神
に仕えなければならない」
(出エジプト3:12)

ミデヤンの地で羊を飼っていたモーセが
神に召し出された。パロのもとへ行き民
をエジプトから連れ出せと。モーセは尻
込みした。このような者がどうしてと。
かつて同胞を救おうとして受け入れられ
ず、ミデヤンの荒野に逃れて四〇年。
モーセは砕きに砕かれた。一介の羊飼い
に何が出来ようと。しかし、実は神は荒
野でモーセを準備されたのだ。高ぶりが
砕かれた自ら無力だと思う者を神は用い
られる。間に合う器に造り変えられた。
モーセの恐れに対して、主が共にいると
約束された。これは最大の保障ではない
か。そして結果をも告げられた。出エジ
プト後この山で仕えよと。すでに成就だ。
私達も同様。導きに従え。主が共におら
れすでに成し遂げられている。
----------------
主が事を成してくださる。私たちはただ
従うだけだ。今週も、豊かな義の実に満
たされて主の証人として出てゆこう。


2005年09月11日(日)

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、いきづまることはありません」(Uコリント4:8)


ある男性が離婚を通った。苦悩、失望、悲しみ、
辛さで心はボロボロに傷ついた。立ち直れるの
かどうかもわからなかった。しかし、結果的に
その苦しみをとして、主と出会ったのだ。主は
傷ついた心を癒して行って下さった。やがてク
リスチャン女性と再婚を与えられた。主は新た
な幸せを与えて下さった。信仰生活においても
試練がある。問題や苦しみを通る。しかし以前
とは全く違う。以前は底の無い淵に沈み込むよ
うな希望の全く持てない暗闇であった。今は主
が共におられ患難でも御声が聞こえる。どんな
中でも心の底に揺るぐ事の無い平安がある。必
ず益となり自分へのご計画がある事、必ず良く
して下さる事を信じられる。兄姉と祈り合える。
-----------------------
底のない淵に沈んでいる人々が大勢いる。神様
無くして生きるなら喜び希望は、時々現れては
消えて行くうたかただ。私達の底を流れる揺る
がない平安は、神様知る前とは全く違う。


2005年09月10日(土)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦その日その日に、十分あります」(マタイ6:34)




心配している時は、全く信仰が無い。
心配と信仰は同居しない。思い煩いは
罪だ。小さな事では無い。神と御言葉
を足げにする事だ。
「そんな事はあり得ない」「嘘だ」と
言っている事だ。神は導くと言ってお
られるのに、思い煩うのは神は嘘つき
だと言う事であり、神への侮辱だ。
どうすれば心配せずにすむのか。神を
第一にして生きる事だ。神を第一にし
て生きていないところから思い煩いが
生じる。ある失業中の婦人は心配した
からといって、自分の命を延ばす事が
出来るかの御言葉にその通りだと心か
ら納得し、思い煩いを止めた。失業中
も全き主の平安の中に守られ、その後、
職が与えられた。その姿に、周囲が大
きく恵まれ励まされた。主の栄光が現
された。
--------------
必ず導いて下さる。今の状況を知って
いて下さるのだから、何も心配する事
は無いのに、とりあえず自分で策を練
ってしまう。思い煩いへのお決まりの
パターンから信仰によって勝利しよう。


2005年09月09日(金)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後のなると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:11)




夏に風鈴を買った。雨に当たらないよう、
ベランダに向かった。居間の内側に吊る
した。すると、風鈴は全く鳴らなかった。
それでベランダに出した。風も雨も当た
るが、風鈴は素晴らしい音色で鳴り出し
た。私達も同様だ。雨や風を恐れていて
は私達の風鈴はならない。試練を嫌がり
逃げて逃げていては、練り鍛えられきよ
められる事はない。傷つく事を恐れて対
人関係を避けていては、傷つく事はない
かも知らないが、喜びも経験出来ない。
神はまず神を愛し、隣人を愛せよと言わ
れた。対人関係の中でこそ神の愛が知れ
るのだ。今、風雨を避けて殻にこもって
いないか。試練は覚悟して受け止め、又、
外へ一歩踏み出そう。素晴らしいあなた
の音色が鳴り出す。
--------------
試練の中でしか出会えない主との交わり
があり、祈りえない祈りがあり...試練
の出口は必ず用意されている、恐れず避
けず信仰もってまっすぐ進もう。


2005年09月08日(木)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)




夫の不倫で深い苦悩、辛さ、悲しみを通
った女性。夫は去り、泣いて泣いて泣き
通した。神だけが避け所で頼りだった。
心の底から神に叫んだ時、外を見ると虹
が出た。二重の虹だった。初めて見た。
神の愛のしるしとわかった。心が壊れそ
うなほどの苦しみにいたため神が特別に
関与して下さったのだ。神の愛に触れ心
が満ちた。必ず夫を返し夫婦が建て直さ
れる事を信じた。目に見えないお方の約
束を信じ続けた。紆余曲折の後、奇跡が
起きた。夫は家に戻されたのだ。神がみ
わざをされた。高慢な自分が砕かれなけ
ればならなかった。主が通された。
通って心から良かったと思えると彼女。
通る前の自分には絶対に帰りたくないと、
感謝しかないと。
----------------------
何でも思い通りの人生なら私たちはどう
なっているのだろう。通された試練ゆえ
今こうして主と同伴する道を歩んでいる
のではないだろうか。感謝しかない。



2005年09月07日(水)

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し」(ヨハネ16:13)



ある教員のクリスチャン、夏休みを
控え、友人から「文章セミナー」に
一緒に出席しないかと、声をかけら
れた。彼女は余りに忙しく心身とも
に消耗していた。遠方であり疲れて
気力がなかった。貴重な二週間をと
んでもない、気が狂ったのかと。
しかし余りにも熱心に誘われるので
祈ってみると主の導きを感じた。
それで休息が欲しかったが行く事に
した。しかし、そのセミナーの中で
過去の記憶がどっとよみがえった。
家族の思い出、教会での楽しかった
事、対人関係で傷ついた思い出。
それらを書きながら、以前からの心
の傷や不平不満をすべて吐き出すに
つれて平安な気持ちに包まれていっ
た。神がこのセミナーに導かれた理
由がわかった。傷んだ悩んだ心を開
放し、新学期に備えて下さるためだ
った。神のご配慮に心から感謝した。
--------------
生まれながらの人間なら疲れていたら
休むだろう。御霊の導きにより備えら
れた、慰め、恵みによくする事ができ
る。自分の声をしずめ、御霊さまの声
を聞き分けよう。


2005年09月06日(火)

「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(T列王19:12)



神の御声はかすかな細い声だ。ある人が
進路について導きを求めて祈っていたが、
なかなかみこころがわからず悶々として
いた。ある時、教室の中で皆がざわざわ
と雑談していた。向こうの方で友人が自
分に向かって何か行っているが皆の声が
邪魔で聞こえない。それで近寄ると対話
が出来た。その時、神と自分との事を思
った。神に近寄らないと聞こえない。
又、間に隔てがあれば御声がさえぎられ
てしまう。自分の強い思いと意思、御旨
より自分のしたい事、様々な隔てがある
事に気づかされた。神との交わりの時を
日々確保し、自分にある隔てを正直に神
に打ち明け、一つ一つ明け渡していた。
それを続ける中で、神のみこころを知る
事が出来た。神に向き神に近づけ。
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自分を見ている限り御声は聞こえない。
御そば近くに行けば、整えてくださるの
だ。何もわからないまま、まずは神様を
あおごう。


2005年09月05日(月)

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、ますます豊かになり」(ピリピ1:9)



ヒューマニズムは何でも愛し、許し、受
け入れよと言う。しかし、御言葉は霊だ
からと言って皆信じるなと言う。
何が正しいのか判断せよ、実によって見
分けよと言う。羊のなりをしている偽預
言者が大勢いると。光の御使いに偽装、
クリスチャンに変装した闇の勢力もいる。
何でもかんでも受け入れてはならない。
霊の識別が必要だ。似て非なるもの。
偽者は本物そっくりだ。あまりに似てい
てだまされてしまう。毒麦は麦とそっく
りだ。結実した時点で始めてわかる。又、
地、肉、悪霊に属する思考に気をつけよ
。新聞、テレビから発信されるこの世の
価値観は麗しそうに見えても神否定の価
値観だ。思考は行為、人格を形造る。
識別が必要。
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礼拝や、御言葉の学びなどを通して、真
の知識や適応力をしっかりと身につける
必要がある。まぎらわしいく惑わされる。
しっかり本物を握って歩もう。


2005年09月04日(日)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)

サタンは策略を巡らす。ある本に熟練の
悪霊が新米悪霊を教える箇所がある。「一番
守らねばならない事は自分の存在を悟られ
ない事、絶対に悟られてはならない」これが
悪魔の鉄則だ。なぜなら悟られた途端、悪魔
は無力になるからだ。悪魔が活躍出来るの
は暗闇の中だけだ。悪魔は自在に「思い」を
吹き込む。全く有りもしない思いも吹き込み
可能。妄想だ。それにより疑い誤解不信を
引き起こす。疑心暗鬼にする。教会内や家
庭内でのもめ事の背後で、サタンがほくそ
えんでいる。てき面サタンの働きだ。皆が自
己主張する争いの背後の存在を正しく見極
めよう。分裂、破壊は悪魔の仕業。愛と信頼
を壊して行く。しかし、御霊は一致と建て上げ、
正反対だ。今も働いているサタンを見張れ。
悪魔に気付いた時、光に出され働きを封じる。
今気付かないまま、悪魔にほんろうされて
いないか。
・・・・・・・・・・・・・・・
悪魔は姿をきれいに隠す。常に来る同じ思考パタン、
平安の無い暗い思い、思い煩いの泥沼、堂々巡りの
背後にいるサタンだ。見えるところでない、見えない
ものに気づけるように。御言葉を握って神に従おう。
 


2005年09月03日(土)

『行ってこの民に言え。「聞き続けよ。だが、悟るな。見続けよだが知るな』(イザヤ6:9)

あなたの霊的な視力はちゃんと機能してい
るか。霊的無感覚への警告だ。目の前の
事しか見えず、イライラしていないか。子供
に当り散らしたり、伴侶を傷つけたり、家
族に害毒を流していないか。周囲が我慢し
ているのではないか。それが見えていない
という事であり、それを正すのが神との交
わりだ。正しい位置に戻され、視力が与え
られる。神に焦点を当てている時、初めて
周囲が見えて愛と配慮が生まれる。今、
どうだろう。自分の事だけで一杯か。そうな
ら静かに神と交わる時を確保しよう。余裕
のない現状を神に申し上げ、助けを求める
なら、新たにされる。回復される。自己中心
でなく、肉の思いでなく、主の視点で、主の
心で現状を見るようにされる。
・・・・・・・・・・
主との交わりが遠くなると、霊的感覚が失せて
来る。自己中心に歩んでいて、主から離れて
いて気づかない。今どうだろう。主のもとに行き
そのままの心を申し上げ交わろう。神に触れと、
新たにされ喜びが来て、正しくはっきり見えて来る。


2005年09月02日(金)

「主にあがなわれた者はこのように言え。主は彼らを敵の手からあがない・・」(詩篇107:2)





「主にあがなわれた者は言え」神は私達が
証する事を喜ばれる。毎日が平凡な日々の
繰り返しだと言うかもしれない。
しかし、状況だけを見るのでなく神に焦点
を当てて、神を通して状況を見る時、違っ
て来る。平凡な日々には、神の愛と配慮が
満ちている。一つ一つ恵みを数えて感謝を
献げて行く時、心に喜びが湧くのを感じる。
神に目を向け、神を意識する時、変わる。
おおいが取り除かれて、目に見えない現実
を見て行く。「しかし、人が主に向けなら、
そのおおいは取り除かれるのです」周囲に
いる人々は、愛するために神が置かれた人
々だ。今いる場所は神が遣わされた場所だ。
自分中心ではなく神中心に見る時、感謝が
湧かないだろうか。それを証するのだ。
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小さな試練でも頼る方がおられ、怒りの
嵐で一日を台無しにすることや、落胆の淵
に沈む事からも守られ・・ドラマティック
な人生でなくても変わらぬ主の平安こそが
世の向けての最大の証だ。


2005年09月01日(木)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」(ヨハネ5:6)


働き盛りのある牧師に突然難病が発覚。
深い失意と落胆の淵に落ち込み、「主よ、
なぜですか」と心のうちを主に向けた時、
「わたしはあなたがたのために立ててい
る計画をよく知っている・・災いではな
く平安であり将来と希望を与えるための
の」との答えが返って来た。残された生
涯を今一度どうなろうと主の御旨のまま
にと明け渡した。心は平安にされた。
不調の時は、身を横たえるが感謝な事に
普段は動けた。不思議な事に難病ゆえに、
今まで出来なかった、交わりが出来、難
病の会や、施設でお話を頼まれるように
なった。何が起ころうと主の愛の御手に
支えられており、最善のご計画がある。
焦点を神に。
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何か事が起こると、神様のを忘れて動揺
してしまう。日々神様のみこころのまま
にと祈りながらもそうだ。日々の起こる
ことを信仰の目で見て行こう。必ず意味
がある。