2005年10月31日(月)

「あなたがたは心を騒がしてはいけません。神を信じまたわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)



主が与えて下さる平安は環境に関
係ない。どんな悲惨な環境の中で
も、心に与えられる平安だ。普通
は状況が平穏で問題が無く順調に
行っている時は誰しも平安を感じ
る。しかし、主の平安は違う。状
況と全く関係が無い。最悪の事態
の中で、平安が与えられるのだ。
知人の女性、離婚を通り、気も狂
わんばかりの苦しみ悲しみのまっ
ただ中で、神に焦点を合わせ見上
げる時、全き平安を体験した。嵐
が吹き荒れる状況のまっただ中で、
神は避け所であり、信頼の的であ
った。御翼の陰で静かな波一つ無
い安らぎと憩でおおわれた。状況
に焦点を当てると大嵐、神に焦点
を当てると全き平安と安堵と憩い。
同時に存在するのだ。問題はどち
らに焦点を当てるかだ。
----------------
嵐の中でも神さまが、ここにいて、
この嵐の送り手であり、そこに私
へのご計画とメッセージがある事
をしっかり見つめている限り嵐の
中でもゆるがない平安に守られる。


2005年10月30日(日)

「イスラエル人よ。あなたがたの父祖の神、主と戦ってはならない。とうてい勝ち目はないからである」(U歴代13:12)

神と戦うだろうか。自分の願望をどこまで
も要求する。思い通りに神を屈服させよう
とする。勝ち目が無いと、今度は説得にか
かる。〜〜して下さるなら、私は〜〜します。
神と取引きをする。しかし、神は取引きに
応じる方ではない。泣いたり、わめいたり、
何とか欲しいものを手に入れようとするが、
神は決して思い通りに動かれない。自分の
思い通りにはならない事を知る。心にある
気持ちを、率直に、自由に神に語るのは良
い事で、そうすべきだ。神はその気持ちを、
すべて受け止めて下さる。しかし、一番大
切な事は、神に自分を明け渡す事だ。よく
神の思いは、あなたの思いと違う。もっと高
くて深い。あなたの思い通りでないが、神は
あなたに遙かに良い事を計画しておられる。
思い通りでないが、結果的に最善。
・・・・・・・・・・・・・・・・
思いを通す事でなく、明け渡す事が大切だ。
明け渡すという事は、自分の思い通りでなく
て0Kですという事だ。無条件で渡す時、神
から見た最も良いものを与えて下さる。





2005年10月29日(土)

「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」(エペソ4:25)

日々口から発している言葉を省みてみよう。
「心に満ちていることを口が話す」と神は
言われる。普段心にあるものが口から出る。
言葉は見えない心を表す事になる。ある人が
自分は、心にある事でなく無い事を言って
いる。御言葉に照らされ、自分の心が不真実
な、いい加減なものなのだと示されたと。又、
嘘はとがめて言えないが、アブラハムがエジ
プトで妻を妹と偽ったように、巧妙な嘘がある。
事実なので嘘ではないが、その場において、動
機においては、保身のためのれっきとした嘘だ。
では、罪を犯すので黙っておればいいかと言うと、
そうでなく、真実を「語れ」と言われる。相互間
で、互いの率直な気持ちや考えを語る事は
意思疎通の上で無くてはならない事だ。まず
御霊に「心」を支配されて、語るべき言葉を語
って行く時、互いが、周囲が建て上げられて行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
事実であっても、その場で語る必要の無い言
葉は多い。しかし、口は罪を犯すと、黙るのも
みこころではなく、御霊に導かれて、語って行
けますように。口が主のために用いられるとは
感謝。


2005年10月28日(金)

「信仰がためされると忍耐が生じる・・その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば・・成長を遂げた、完全な者となります」(ヤコブ1:4)


激しい試練の中にあるだろうか。
偽善的な笑顔でいる必要は無い。
なり振り構わず心の底から神に助け
を求めて叫ぶ事を待っていて下さっ
ている。神に心底頼る事を願ってお
られる。失敗や過失からの窮地であ
れ、又、病気や倒産や避けることの
できない窮地であれ、神のもとへ行
き、窮状を告げ自分の思い、願いも
神にことごとく告げる事だ。そして、
目の前の試練を受け入れ、この中で
神に導きに従って行く事だ。
普通、この「受け入れ」が出来ない
ので試練と戦い、がんじがらめ、混
沌と苦悶状態に陥る。「受け入れ」
ている人は、そばから見てもとても
耐えられないような試練なのに、
本人は平安だ。これからも試練は
来る。受け止め、試練通して学び
を得る事が大切。
----------------
試練も神様から来ている事をいつも
覚えれば、受け入がたい試練も受け
入れられるのだが、どうしても目の
前の状況におびえてしまう。試練の
中で神様見上げよう。


2005年10月27日(木)

「よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって侮辱を受ける」(箴言18:13)




相手が喋っている時もなかなか聞いて
いないものだ。人は自分の言いたい事
に夢中だ。相手が話している時も自分
の思いの中だ。相手によく耳を傾ける
事は伝道の大切な要素だ。物理的な言
葉でなく、言葉の裏にある、また、そ
こにある相手の心の声、気持ちを受け
止めて初めて聞いた事になる。相手が
答えが欲しいのではない時に知ったか
ぶりで教えたがり、失敗する。相手を
受け止め、しっかり耳を傾け聞くこと
で愛を表す事が出来る。相手に真剣に
時間と労力を割いて聞く事は愛だ。誰
しも聞いて欲しい。聞いてくれる人を
求めている。そして、私達が最も聞く
べきは主の御声だ。知るべきは主のお
心だ。心して聞く者に、耳を傾ける者
に主は必ず御言葉を与えて下さる。
---------------------
心を傾けなくても聞こえる。しかし、
心を傾け耳を澄まさなければ聞こえな
い声がある。神様の御声も、愛する人
の心の声もだ。よく聞く事はむずかし


2005年10月26日(水)

「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でもあなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)

当時、雀とは安価で値打ちの無いもの、
どこにでもあるものの代名詞であった。そ
んな一羽の雀さえ御父に顧みられている。
ましてや私達はどんなに愛され慈しまれて
いる事だろう。ある女性が突然の流産で
深い悲しみに沈んだ。こんなに辛いなら最
初から与えられなければよかったのにとの
思いで、又、苦しんだ。心の思いを祈った時、
一羽の雀も父の許し無しに地に落ちる事は
無いと語られ、流産も深いご計画の中にあ
る事と受け止める事が出来た。その時、心
に平安が来た。予期せずすぐに妊娠が与え
られ次子を無事出産。生まれた最愛の子供
は、もし流産が無く、第一子が生まれてい
れば、この世に存在し得なかった不思議に、
深い神の御旨を思った。今、失意の中なら、
御父の深いご計画とご愛を信じていよう。
・・・・・・・・・・・・・・・
起こる出来事「すべて」が神のご計画による
事だ。運命にほんろうされているのではない。
神の愛の御手から来ている。何と安心で平安
だろう。災いは無く、平安の計画であり将来と
希望を与えるためのもの。神を心定めて信じよう。

 


2005年10月25日(火)

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)


私達の肉の性質は相手を変えよう
とする。妻は夫を、夫は妻を、親
は子供を変えようと悪戦苦闘する。
これは不毛の戦いだ。決して相手
は変わらない。自分も変わりたく
ないのに、人から変えられようも
のなら、反発と抵抗に全エネルギ
ーを使う事になる。相手をさら硬
化させる。そうでなく感謝する事
だ。相手に感謝するのだ。すると
人は変わって行く。私達が変われ
た時だ。その時に初めて変わって
行ける。神があなたに注がれてい
るのはまさにその愛だ。真に受け
入れられ愛される時、人は決して
放縦にならない。その愛に応えた
いと願う。主が私を愛してくださ
ったのは、霊的クリスチャンだか
らでなく、罪人であった時だ。
--------------------------
自分自身を変えず人をコントロー
ルしようとするからますます悪循
環にはまる。十字架の救いの恵み
を覚えよう。こんな自己中心など
うどうめぐりから開放して下さる。


2005年10月24日(月)

「また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」(コロサイ4:12)



友人が習い事を空いた時間にしようと
高い入学金と前納の授業料を払った。
新学期から行く予定にした。すると、
申し込んでいたバイトに秋が出来たと
の連絡。なんと見事に習い事の曜日時
間とピッタリ重なった習い事キャンセ
ルした。一度も行かないまま支払った
お金は一切戻らず、高額の授業料を払
って、神の学課を学んだ。主の導きで
なく肉の思いであり、自分の思いだっ
た。全く祈らずにした事だった。一つ
一つの事をまず祈って行動する事を教
えられた。「わたしを離れてはあなた
がたは何もする事ができない」神から
離れてした事は虚しい。実を結ばない。
祈って主にとどまって導かれてした事
が豊かな実を結ぶ。一つ一つ祈ろう。
主と一つに。
---------------
何をするにもみこころを求めながらだ。
自分の思いが先走り、御心か、自分の
声かわからないことがないよう、いつ
も祈りながら事に当たろう。


2005年10月23日(日)

『「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい」彼らは集めてみた・・十二のかごいっぱいになった』(ヨハネ6:12)

小さな子供を持つ主婦は、自分の時間は
全く取れず、育児で疲れ果て、会社員は
朝から深夜まで膨大な仕事と、そのストレ
スに消耗しきっている。主の前に静まる時
間が全く取れないで、ますます心が滅入る。
ある時、子供が「お腹すいた!」とバタバタ
と台所へ来て、その辺のパンを、パクつい
て、又大急ぎで出て行った。その時、時間
がないと諦めていた自分に気づかされた。
数分でもよい、パンくずを集めて交わる事
に思い至った。数分、手の空いた時に祈り、
又、数分の合間に数節の御言葉を読んだ。
時間のパンくずを拾い集めた。すると、生
活に平安が来て、喜びが来た。ある会社
員はあまりに疲れ果て、昼休みに屋上で
心を主に向けた。少しの時だったが御霊
に触れ変えられ新たにされた。
・・・・・・・・・・・・・・・
諦めないで、待ち時間、移動時間、昼休み、
頭を使わない軽作業の時、心を主に向けて
2言3言でも祈ってみよう。1,2節の御言葉
でも開いてみよう。パンくずを拾い集めよう。
必ず心に喜びが来る。




2005年10月22日(土)

『そこでイエスは彼らに「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた』(マルコ6:31)

祈りが壁に向かっていると感じる事があ
るか。神が天の遠くに感じ、聞かれてい
ると感じない。それは純粋に心身の極度
の疲れによる事がある。又、御霊によら
ず、自分の力で動き回り、悪戦苦闘し
疲労こんぱいしてしまう事もある。又、エ
リヤがバアルとの激しい戦いの後、心身
消耗しきった、そんな事もある。神は決し
て責めもとがめもされず、まず休息せよ
と言われている。死を願ったエリヤに神
がされたことは悔い改めを迫った事では
なく、食事を与え深く眠らせ休息させられ
た。神は恵み深く憐れみ深い。聞かれて
いないと思っても、神は確かに祈りを聞
いていて下さる。何も見えず感じない中
でこそ、信仰が必要だ。その信仰を神
は成長させておられるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
人間には心身に許容量があり、限界があ
る。限界越えると壊れてしまう。心身共に
休息は必要だ。許容量オーバーになって
いたら、「主と共に休む」事だ。再び霊
にも身体にも新しい力が来る。
 


2005年10月21日(金)

『主はモーセに仰せられた「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え』(出エジプト14:15)



行動するには常に時がある。神は、紅海
を二つに分けられたが、この時は信じて
一歩を踏み出し、目の前の海に向かい前
進する時であった。祈る時と行動する時
がある。又、祈りの結果、私達に示され
た事がはっきりし、せよと言っておられ
る事を、神がして下さるよう待ち続ける
ことは無意味だ。その事を私達の側でし
なければならない。私達の側ですべき事
を神が代わりにされる事は無い。今、せ
よと示されている事があるか。自分を見
ず、神を信じて前進するべきだ。自分を
見ていては出来ない。しかし、神は目の
前の紅海を分かつ事が出来るお方だ。神
を信じて前進しよう。今度は神の側だ。
神がみわざをされる。この事は私達には
出来ない事、一歩踏み出す時神の力が臨
む。
----------------------
御霊様に示されていることは、勇気を持
って行動に移そう。引き伸ばしていると
平安が無い。示された事をやり終えた後
大きな平安に包まれ、結果はすべてお任
せできる。


2005年10月20日(木)

『彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子供は暮らしていけます』(列U4:7)



エリシャは子供を奴隷に売られる未亡人を
助けようと近所から空の器をどんどん借り
て来るように言った。家にあったひとつの
壷から油を注ぐとその空の器が次々と一杯
になって行った。それらを売り負債を支払
うよう言った。未亡人は助けられた。もし
彼女が言われた通りにしなければ奇跡は起
こらなかった。空の壷に油は満たされた。
私達も聖霊に満たされたい。それが願いだ。
しかし、満たされるためには、空でなけれ
ばならない。空であって初めて満たされる。
心は何かで一杯で余地が無いか。世の快楽、
愛するもの、夢中なもの・・良い事が問題
だ。仕事、勉強、趣味、罪でないゆえ意識
しない。しかし心奪われ余地が無ければ妨
げだ。空に満たされる。
-------------
壷に何かをため込まないと不安になるのは、
古い習慣だ。委ねて、明け渡して、いつも
聖霊様に満たされるよう空のまま、さし出
せますように。


2005年10月19日(水)

「キリストは、神の似姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・」(ピリピ2:6)

あるメーカー業績落ち込み、不振の中、
再建を目指した。その時、社長自らが
ライバルメーカーを一軒一軒回り、相
手社長に会い、自社の製品のどこが悪
いと思うかと意見を求めた。すると皆、
大変好意的な反応で、招き入れてくれ、
様々な見解を聞くことが出来た。そして、
ものの見事に再建を果たしたのだ。この
クリスチャン社長のへりくだりが実を結ば
せた。神は私達をへりくだった者とされ
たい。プライドと虚栄心で膨れ上がった
者に、神は数々の悩み問題を通される。
困難にぶち当たりどうにもなすすべ無く、
神に頼るしかない断崖絶壁に追い込ま
れる。自らの絶対無力を知る事こそ、実
は最大の恵みだ。心が神に叫び、神に
心底頼るその時、へりくだった者と造り
変えられて行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
主が、ご自分の事を考えられたら、この
世に来られなかったし、私の救いも無
かった。自我が砕かれて行く時、初めて
実を結ぶ。まずこの自分のために、ご自身
を捨てて下さった主を、今日1日思おう。


2005年10月18日(火)

「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(Tヨハネ3:18)




口先だけの事が無いだろうか。クリ
スチャン同士ではよく「祈って下さ
い」「祈ります」と言い合う。もし
本当に祈らないなら口先だけで嘘に
なる。他にも日常に口先だけの愛は
無いか。それを赦していると知らず
知らずの内に霊的生活から真実が失
せ、偽りと欺まんがはびこる。霊的
な感覚も力も萎えて来る。いい加減
な言葉を発していると、自分が神の
真実がわからなくなる。又、心に満
ちる事を口が語る。口が語る事はま
ず先に心にある事だ。いい加減な事
を語るのは、心がいい加減だという
事だ。「私達は真実でなくても神は
常に真実であられ」た。自らの不真
実を悔い改め、正直で率直でおるな
ら、御霊は私達が真実を行えるよう
助け導いて下さる。
----------------------
肉の思いから愛するのはたやすいが
愛し続けるのは難しい。信仰が無け
ればいつかは口先だけに終わってし
まう。御霊様に従わなければ、私た
ちは、いつもいい加減で弱い者だ。


2005年10月17日(月)

「すべてのことについて感謝しなさい」(Tテサロニケ5:18)



「いつも」喜び「すべて」の事を感謝
だ。肉には決して出来ない。病気、困
窮、倒産、挫折・・どうやって感謝す
るのか。これは選択だ。感謝はサタン
の足場を無くし、サタンを打ち破る。
どん底の状態で感謝していると、不思
議に心が和らげられて段々、引き上げ
られ神を見上げ喜びが出て来る。
無くしたものを数えるのではなく、今
あるものを感謝する事は大切だ。
サタンの最大の武器は失望と落胆だ。
意気消沈させてしまえば万々歳だ。
しかし「感謝」する時「失望」を打ち
破る。感謝には大きな力がある。状況
と自分に向いていた視点を神に方向転
換し、信仰へと導き返す。実践しよう。
------------------
なぜ感謝できないのか・・・そう考え
る時、自分しか見えていないことに気
づく。「神様、感謝します!」と心で
叫び感謝を数えて今週も歩もう。


2005年10月16日(日)

「あなたがたの信仰のとおりになれ」(マタイ9:29)

一人一人の信仰には、皆それぞれ段階
があり異なる。主はどの段階の信仰にも
答えて下さった事が見れる。百人隊長の
お言葉さえ頂ければ直るとの、驚くべき
信仰に答えられ、子犬でもパンくずは頂
けるとの、母親の信頼に答えられた。又、
「もし出来るものなら」と子の癒しを求め
て来た父親が、不信仰を悔い改めた時
に子供を癒された。必死な思いで主に
触った長血の女を癒された。主は私達の
信仰のそれぞれをご存知であり、答えて
下さる。なんという恵みだろう。今持って
いる信仰を主に献げて行けば良い。信仰
から信仰へと成長させて下さる。いつも
その段階段階で受け入れられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
経験がある。信じ始めの頃、幼い祈りに
よく答えて下さった。今思えば、何もわか
っていなかったのに。今もわかっていない
が、今の信仰を献げて行けば主が成長
与えて下さるのは、何と安らかで感謝な
事だろう。


2005年10月15日(土)

「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか」(ルカ11:11)

“求めよ、そうすれば与えられる”は有名だ。
しかし、祈りは欲望充足マシンではない。何
でもかんでも与えられるのではない。私達は
自分の祈りをわかっていない。目先しか見え
ないからだ。自分では最善!と思っても神か
ら見ればふさわしくない。親子関係の通りだ。
親は子供が願うものを何でも与えはしない。
その子の事をよく考えて、必要か、時期は適
切か、その影響は、と様々な事を配慮の上与
える。今それを与えると高慢になり滅びる、
神に頼らなくなる、ますます肉欲に走る・・
色々な理由で神は差し控えられる。しかし、
その「ノー」は私達にとって最善であり、実
は大きく守られる事になるのだ。私の願い通
りではないが、神の良しとされる最善の答え
を下さるのだ。それが神の愛だ。なんと感謝
で安心な事か。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
肉の思いは強く、これが絶対だと思うが、与え
られなかった事が、どんなに最善であったかが
後にわかる。深く学べる。神の思いと人の思いは
違う。人生決して自分の思い通りでないが、主の
み旨が成っている。ノーは神のご愛。後にすべて
が感謝だとわかる。


2005年10月14日(金)

『これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である・・』(Uコリント12:8)



パウロは肉体のとげが取り除かれるよう
に祈った。切に祈った。
神の答えは「ノー」だった。神はそれが
ある方がパウロのためにより益だと思わ
れたからだ。その弱さの内に神の完全な
力が現される事をパウロは経験した。
弱さの中で、私達は神に頼る。真剣に心
の底から頼る事を、頭ではなく真に知る。
「とげ」があるなら神に祈る事が大切だ
。神は答えて下さる。御心ならとげを取
り除かれる。又、取り除かれる事が御心
でないなら、私達の方が変えられる。
私達を変えて、とげを受け入れられるよ
うにされる。又、乗り越える恵みを与え
て下さる。とにかく、祈るなら御心なら
状況が変えられ、そうでなければ私達が
変えられる。状況を乗り越えて行く事が
出来る。
---------------
とげを持ったまま一人で生きて行くのは
辛いが、私達には神様がいる。
弱いから頼れるし祈れるし、祈ってもら
える。多くの祈りに支えられて、今日も
弱さの中で神様と歩めること感謝だ。


2005年10月13日(木)

「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか」(詩編13:1)

試練が余りに厳しく、神がわからなく
なる事があるだろうか。出口が見えず、
苦しみや悲しみが延々続くように感じ
られる。真っ暗に感じる。心が落ち込
んで祈れない。気力が無い。祈りが受
け止められているように感じない。御
言葉が心に入って来ない、虚ろな状態
だ。文字だけがすり抜けて行く。どう
にもならない。ダビデも経験した。そ
の時に、彼はどうしたか。心の内の状
態をそのまま率直に神に向かってぶつ
けた。なぜ?どうして?と、そのまま
の気持ちを神に向けた。悶々とした心
を抑え込むのではなく、神に打ち明け
祈って行く事が大切だ。その時、何か
が変わる。神に触れる。自分の心が変
わる。心に封印していた事柄を、気持
ちを正直に神にぶつけた時に、不思議
だが、癒しを経験する。神に、今のあ
りのままの心で向き合おう。
・・・・・・・・・・・・・・
きれいになって御前に出なければと、
本心を隠して、建前で祈ってもその祈
りは全く聞かれない。神は本音を受け
止めて下さるお方。誰にも言えない本
当の気持ちを神に打ち明け、ぶつけよ
う。神に触れる。自分が変えられるの
がわかる。


2005年10月12日(水)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)

わたし達は順境の時には、ほんとんど主
に頼らないものだ。頼る必要が無いので
自分で歩んでしまう。痛くて苦しく辛い試
練の時は、神に叫ぶ。叫ばねばならない
からではなく、心が叫ぶ。叫ばずにはお
られないからだ。心からの叫びは必ず答
えられる。試練の時は神に近い。心がず
っと神を求めている。振り返ると、苦しみ
にあった事で、どれほど高慢に気づかさ
れた事だろう。プライド、自己中心、虚栄
心に気づかされ、罪から離れる事ができ
た。苦しみの時は神にすがり頼る。神だけ
が頼りだ。真に求めるので祈りは答えられ
る。すぐ近くに神を実感する。試練は私達
を神に近づけてくれる。苦しみにあった事
は、私にとって幸せ、あなたのおきてを学
びました、と後に必ず言える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
試練の時は神を求め、御言葉を求め、自ら
の内側を探り、御心を尋ね、教えようとして
下さっている事を深く考える。自分の内に潜
むものに気づき、自分も変えられ、新たに神
を知る。後に通って良かったと感謝に変わる。


2005年10月11日(火)

「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)



私達と主との関係はどうだろう。
主に聞いているだろうか。祈りは
自分の要求ばかりか。自分の言い
たい事にしか関心が無いか。自己
中心が聞く事を妨げているか。又、
あなたの中に罪があれば、そのと
がめにより神から遠ざかる。罪が
明るみに出る事を恐れて、聞こう
としない。聞きたくないのだ。又、
様々な生活の思い煩いも、聞く事
を妨げる。心が許容量オーバーで
入らない。この世の快楽に、又雑
事に心が奪われているか。心が立
ってしまっていて、散漫で神の御
声が何も心に入らない。背後にサ
タンが働いて、多くのもので御声
を聞く事を妨げられている。主に
近づき、御声を聞こう。聞くもの
は生きる。何よりも聞くことが大
切。
-------------------
祈っていても、御言葉を読んでい
ても、心は主に向かって開いてい
るだろうか。従います、の心で聞
いて行かなければ、自分の声しか
聞こえてこない。


2005年10月10日(月)

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」(マタイ7:24)





岩の上に家を建てるとは、基礎を作
るために、地盤を深く掘り下げて、
岩盤に届くまで掘り、その堅い岩の
上に建てる事だ。だから暴風雨が来
てもびくともしない。どんな試練が
来ても倒れない。岩の上に建てると
は、御言葉を聞いて行う事だ。
聞くだけでなく、実行する事が大切
だ。それが岩の上に建てる事であり、
試練が来てもビクともしない。
あなたはどうだろう。実行している
か。御言葉を聞く事を好む人は多い。
喜んで聞く。しかし実行しない。
ここが分かれ目だ。実行しないなら
砂の上に建てる事であり、困難の日
に倒れてしまう。今、目の前に示さ
れている事があるか。勇気を持って
行おう。行いにより祝福される。
----------------
言うだけ、聞くだけは簡単だ。砂に
掘るようなものだ。行う事、従う事
を選んで行こう。結果が必ず違う。
必ず祝福がある。


2005年10月09日(日)

「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」(ガラテア6:1)

人の欠点、問題は良くわかる。自分
の事ではないのでワンクッションおい
て、冷静に見られるからだ。人の欠
点や問題点を指摘する事なら誰に
でも出来る。しかし、神に喜ばれる
態度かどうかが問題だ。又、その動
機はどうかだ。問題点を見つけ、して
やったりの快感や、優越感があるなら、
ふさわしくない。相手の反発を招き、
又、更に深く傷つけるだけだ。罪を指
摘する時は、相手への祈りを積み重
ねている必要がある。心に愛と痛み
があるか。又、自分はどうか。自分が
もしその立場に立てば、自分も同じ
過ちを犯していたかも知れない。愛と
痛みとへりくだりがある時、主が働か
れて、その訓戒が相手のために用い
られる。愛による動機とへりくだった
態度がある時初めて相手の心に届く。
・・・・・・・・・・・・・
欠点の指摘は、誰しも受けたくない。痛い
から、拒否反応と反発が起こる。愛によっ
て、へりくだって指摘される時にだけ、素直
に聞ける。御霊によらない限り、出来る事
ではない。逆に御霊に導かれているなら、
従おう。実が備えられている。


2005年10月08日(土)

「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲の翼をかって上ることができるように」(イザヤ40:31)

疲れる事は罪ではない。多くのものに
熱中すると、身体が疲れる。又、四六
時中、人と接しているなら疲れて当然
だ。仕事をすると心身消耗する。そん
な時にすべき事は、主を待ち望む事だ。
主の前に静まり、主と親しく交わる事
だ。祈りと御言葉で息吹き返す。疲れ
る度に主のもとへ行けば良い。心注い
で、主と交わる時、真に新たにされる。
リフレッシュされる。しかし、同じ疲れ
でも、罪ゆえに疲れているなら、主に
正されるべきだ。思い煩いがあるか。
妬みや憎しみで、赦せない思いで疲
れ果てているか。自由になりたくない
か。主のもとに行き、頑なな心をその
まま主に打ち明け、頼れ。悔い改め
に導いて下さる。罪赦され、鷲のよう
に翼をかって大空を飛べる。
・・・・・・・・・・・・・・・
主はどんどん自由にして行って下さる。
皆、経験している。驚くべき恵みだ。憎しみ
や妬みから自由に、この世の価値観から
自由に。いつも不自由なそのままの心を主
に打ち明けよう。御言葉に従う時に、奇跡を
経験する。


2005年10月07日(金)

『ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のようなものから離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った』(ルカ5:8)



プロの漁師であり、その道のベテランであっ
たペテロは漁については熟知していた。
主より自分の方がよく知っていると思ってい
ただろう。漁をすると言われた時捕れるわけ
がないと思った。しかし、主が言われるので
網を下ろした。すると船が沈むほどの大漁だ
った。自らの不信仰を恥じた。自分がどんな
に貧しいかを認めて、へりくだったその時、
主はペテロを人を漁る漁師と召し出して下さ
った。神が用いられるのは軍馬ではく、子ロ
バだ。自分に何も無いと認める、砕かれたへ
りくだった魂だ。自分の貧しさを知る時、落
ち込むのではなく、自らの弱さを知れた事を
感謝して歩めば良い。更に更に弱さを教えて
下さる。弱いほど神に深く拠り頼める
----------------------
弱さを認め、自分の貧しさを知れることは
なんと幸いなことか。ここがいつも、スター
トになる。すぐに主からはなれ、自力でくた
くたになってしまうからだ。


2005年10月06日(木)

「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるを守ってください」(詩篇141:3)





言葉で傷ついた事があるかも知れない。
身体の傷は時と共に癒えるが言葉の傷
はいつまでも残る。
舌を制御する事は誰にも出来ない。
言葉では失敗しやすい。舌は少しもじ
っとしていない悪であり、死の毒に満
ちているとある。神を賛美する同じ舌
で、人の悪口を言い、噂話に興じる。
唇が守られるように祈る必要がある。
源が問題だ。心にある事を口が語る。
下が喋る事はまず先に心にある事だ。
心が聖霊に支配され、導かれる時、神
に喜ばれる言葉を語る事ができる。人
を励まし力づけ生かす言葉だ。心が問
題だ。御霊に明け渡す時、その言葉は
祝福のために用いられる。肉が言葉を
支配するなら、盲めっぽう撃ち放たれ
る銃弾のようだ。人を傷つけ打ち倒し
て行く。
----------------
心が御霊様に満たされていなければ、
状況に反応し言いたい放題だ。疲れて
いる時、ストレスの時、肉に負けてし
まう。心を神様に注ぎ出して、源を癒
していただこう。


2005年10月05日(水)

「信仰によって、サラもすでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました」(ヘブル11:11)

アブラハムに神は多くの子孫を与え、
大いなる国民とすると約束された。し
かし、なかなか子供が生まれなかった。
ハガルとの間にイシマエルが出来たが、
神の約束はそうではなく、サラに子供
を与える事だった。彼は忍耐して「待
つ」必要があった。私達はしばしば待
つ事を学ばされる。「待つ」事は難し
い。肉で「行動する」事は簡単だ。しか
し、信仰とは待ち望む事だ。待つ間に
信仰が練り鍛えられる。約束が与えら
れているか。確信を投げ捨ててはなら
ない。約束のものを手に入れるために
必要なものは忍耐だ。神はご自身の約
束を成就される。時がある。神の時は
美しい。「もし遅くなってもそれを待て。
それは必ず来る。遅れることはない」
祈りの答えを待とう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
神は約束を必ず成就される。どれだけ
時間がかかろうと成就される。待つ時間
は、鍛えられきよめられる信仰の成長の
時だ。肉で動かず、神を信じてじっと待
とう。


2005年10月04日(火)

「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってしなさい」(コロサイ3:17)



ある人が夏休み中、念願叶ってクリスチ
ャン施設でのバイトが与えられた。色々
な人々との出会い、交わり御言葉に触れ
る機会にわくわくした。しかし、任され
た仕事は、一日中台所の雑用であった。
洗物に、皮むき、料理の下ごしらえ、思
いと全く違い失望した。しかし、祈って、
主の名によって主のためにそれらを夏の
間中する事に決心した。祈りながら主と
交わりながら、御言葉を反すうしながら
その仕事を主に献げた。すると、心に喜
びが来た。台所が礼拝の場になった。
神様を感じ、穏やかな平安を経験し、賛
美が口をついて出た。今までの最高の恵
みの夏休み、心に残る日々とされた。
何をするかは問題ではなく、どういう態
度でするかが問題だ。
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何事も主の名によって行う時、心に感謝
と平安と賛美が湧きあがって来る。日々
の生活にざらっとした感触があるなら、
要注意だ。


2005年10月03日(月)

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのようにして祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が・・とりなしてくださいます」(ローマ8:26)




御霊が私達のためにとりなしして下さる。
祈りを助け導いていて下さる。私達はしば
しば的はずれな祈りをする。しかし、その
祈りを修正し導いていて下さる。試練の時
には、多くの人は早くこの悩み問題が取り
去られるようにと祈る。状況が変わるよう
にと。しかし、御霊はそうではなく、問題
は状況ではなく自分自身だと語られる。
祈りが変わる。この試練を通して、教えよ
うとしておられる事が学べるように、自分
が変えられ成長できるように肉の目には相
手が悪いとしか見えない。しかし御霊が目
を開かれると謝罪すべきは自分であるとわ
かる。私達はしばしば的はずれであるが、
御霊は正して、祈りも正しく導いていて下
さる。
-----------------
神様!としか叫べない祈りや、自分の思い
ばかり訴えてしまうが、御霊様がとりなし
ていくださるから、安心してみこころがな
りますように、のこころで祈ろう。


2005年10月02日(日)

「あなたがたの内のだれも悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません」(Tペテロ4:15)

     
主のゆえに迫害を受ける事と自分の愚か
さのゆえに非難される事は全く別問題だ。
自分の至らなさで、とがめを受け、迫害だと
勘違いしてはならない。又、周囲を恐れて
信仰を公に出来ない場合もあるが、逆の場合
もある。信仰、信仰と周囲を蹴散らして平気
で、自分は正しいと思い込んでいる。実は
信仰を笠に着て、肉が自分の思いを通し
ている。肉は善もする。問題は神への信頼
によって歩んでいるかどうかだ。神を信頼
出来ないので、自分の肉の力で信仰生活
を築いて行く。神と信頼の関係でないので、
いつも悶々状態になる。自分の状態に平安
がなく、焦りがありイライラする。信仰とは自
分の力で歩む事を止めて、神を信頼する事
だ。信頼して歩むので、心は安らかだ。これ
は天と地ほどの差がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
証しして行く時の、動機や力の源をよく探って
もらって、対人関係で、何か自分が間違って
いるところがあれば、光に照らされるように。
どんな時も神に信頼して行く時、状況に関係
なく、平安が与えられる。


2005年10月01日(土)

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい・・報いが受けられません」(マタイ6:1)

愛に満ちた主イエスが嫌われたもの
があった。それは偽善だ。「蛇」「まむ
しの末」「白く塗った墓」と痛烈な言葉
を発された。人に見せるために、人か
らの賞賛を得るために善行をなす事
を非難された。しかし、山の上の町は
隠れる事が出来ない。良い行いを見て
人々が天の父をあがめるようにせよと
も言われた。これらの事により主が見
られるのは私達の「動機」だ。問題はど
のような動機で善事を行っているかだ。
自分が崇められるためになら、それは
罪だ。しかし、御霊に示され、導かれ神
のために行なっているなら神は喜んで下
さる。その時あなたが自分を輝かせる
のではなく、神があなたを輝かせて下
さるのだ。「何のために」しているのか
御霊によく心探って頂こう。
・・・・・・・・・・・・・・・
もし人の歓心や賞賛を得るために、又
自己満足のために幾ら懸命に何かを
しても、それは神の前に無だ。しかし、
御霊に導かれて行うなら、神は喜ばれ、
豊かに実を結ぶ。天に宝を積む。人が
見ていようといまいと神の御前に生きよう。