2001年05月31日(木)

    「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)

    
 多くの人が忙しくしている事を好む。むしろ、何か
していないと不安になるのだ。じっとしている事が
出来ない。毎日、仕事をし、生計を立て、主婦は家事
や育児をこなし、そして周囲の人々とも楽しく交際し
たい。なすべき事、対人関係の必要は渦を巻いて流れ、
時に何が何だかわからなくなるほど、するべき事を取
り入れてしまう。何かしている事で、自分の価値を量
ろうとする思いが内にある。
平安が破壊されるほど無理なペースで走っているなら
神はペースダウンしなさいと言っておられる。
神はもっと多くのことをせよ、成果を上げよとは言わ
れない。わたしの中に住み、わたしと一緒にとどまれ
と言われるだけである。立ち止まって、静まり、主の
無条件の愛に身を浸せ。
あなたは忙し過ぎないか。神の御前で憩い、安らげ。
主の愛の内にとどまれ。静かな祈りの時を持つ事が大
きな助けになる。立ち止まれ。


2001年05月30日(水)

     「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)

     
 私達は概して、じっと待つのが苦手である。
自分の計画を実行し、どんどん行動する事が
じっとして、神が神であられる事を知るより
遥かに楽である。行動していると充足感もあ
るので、じっとしているのは難しい。
なぜか、時間を価値あるものにするためには、
絶えざる行動が必要と勘違いしてしまう。
主は三年の公生涯を始める前に、三十年を過
ごされた。パウロは回心と伝道生活の間に、
十五年ほどアラビヤで時を過ごした。
これらは、準備は計画の一部であると教えて
いる。この事実を受け入れる時、私達の人生
は豊かになる。私達は常に動き回って、生産
的である必要はない。何かそれが良いことの
ように錯覚しているが。聖霊が私達に準備さ
せて下さるのを待つ期間を勘定に入れなけれ
ばならない。霊的生活に準備期間は欠かすこ
とが出来ない。もし、私達が常に忙しく、立
ち止まる時間が無ければ、私達の心を神が備
えられるのをどうやって待つのか。


2001年05月29日(火)

    「たまたま、祭司がひとりその道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」(ルカ10:31)

    
 一人の女性、ある会合でスピーチを頼まれていた。
朝、渋滞が常なので、急いで出掛けたが、早くは無
かった。途中で隣家の主婦がバス停に向かって急い
でいるのを見た。彼女の顔はこわばっていた。
でも、今彼女を乗せてあげるために止まれば、車の
混雑から抜け出るのに時間がかかり、本当に会合に
遅刻すると思えた。
それで明るく手を振り、彼女を置いて目的地へ急い
だ。心に罪意識があった。ギリギリで到着できた。
仲間が十分遅刻した。後で理由を言った。
「あなたの後ろを走っていたの。あなたが手を振った
彼女を見たの。バスに乗り遅れたのよ。怪我をした御
主人を見舞いに病院に行く途中だと思ったの。
それで車を止めて乗せてあげたの」彼女は自分を恥じた。
時間に間に合ってよい印象を与えたいと言うプライドよ
り隣人の必要を優先するべきだった。
本当は、それがわかっていたが、出来なかった。



2001年05月28日(月)

   「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12)

   
 一人の女性が職場で証しをしたいと熱心に祈り、実行
していた。職場の皆に仕えようと努力した。
一人だけ彼女に敵対する女性がいた。敵対心をあらわに
し、意地悪だった。愛さなければならないと悩んだ。
しかし、その女性が嫌いで、どうしても愛せなかった。
悩んだ。しかし、神は彼女の感情に関わらず、愛を行為
で表わすように示された。しぶしぶ、嫌々ながらも神に
従おうとした。最初は彼女の親切な行為に相手は猜疑心
を抱き、受け入れようとしなかった。
それでも神が望んでおられることだとわかったので嫌々
従った。それは難しいことだった。
しかし続けた。すると、段々相手の態度が変わって来た。
やがて、自分の悲惨な過去を話し始めた。彼女がこうな
ったのが理解できた。神が彼女を通して、その相手を愛
しておられるのがわかった。二人の関係が変わってしま
った。一番の祝福は彼女が相手を心から愛することが出
きるようにされた事だ。


2001年05月27日(日)

「あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」(マタイ23:13)


法律違反者達は、自分の犯罪に法律の
抜け穴を見つけ、罰っせられなくて済む
事を期待する。お金があれば、抜け道
を捜してくれる弁護士に喜んで支払う。
ある雑誌にラビの話が載った。自分や
他人のために、律法やユダヤ教の伝
統からうまく抜け道を考え出すものだ。
彼によると「律法は完全だ。もし神が抜
け穴を残しておられたなら、理由がある
はず。その抜け穴を利用する事を許さ
れている」のだそうだ。自分の利益の
ために、神の律法を巧みにねじ曲げ
ている宗教指導者に対し、イエスは厳し
い言葉で臨まれた。しかし、私達も同
様かも知れない。神に対する不従順の
口実と言い訳に、罪意識を減らすため
にはっきりした教えに抜け穴を見つけ
ようとしていないか。良心をうまくごま
かそうとして。私はあなたの戒めを守
っている、と単純に言い切った詩篇
記者にならいたいものだ。祈り深く主
に従おう。


2001年05月26日(土)

「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたはどこから落ちたかを思い出して、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」(黙示2:4)

一人の男性が、思春期の頃、子供
時代の素直な信仰を失ってしまった。
信仰をプライドとこの世的な楽しみ、
この世の報いと交換してしまったの
だ。彼の焦点はこの世の期待に応
じる事だった。神よりも、まず快楽
と楽しみを求めた。神でなく自分自
身を喜ばせようとした。この時期、
彼は心の中で、自分が間違ってい
る事を知っていた。わかっていた。
埋められない空虚感、何かが足ら
ない、不完全さ。そのような時、彼
の妻が教会へ誘った。再び、神の
もとへ帰った。主はずっと待ってい
て下さり、暖かく家に迎え入れて
下さった。主は慈しみ深く、間違
いを見て下さり、悔い改めを受け
入れて下さった。信仰を取り戻し
心が喜びで満ちた。御霊に満た
された人生を歩む喜びで溢れて
いる。神へ立ち帰る魂にいつも
神は慈しみ深く、あわれみは尽き
ない。


2001年05月25日(金)

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵による。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い」(哀歌3:22)


 ある男性が朝のジョギングを日課としていた。
いつものように出ようとした、ある朝、小雨が降り出した。
帽子とジャケットで武装し思いきって飛び出した。
すると、どしゃ降りになって来た。軽装だったので、ずぶ
ぬれになってしまった。戻ろうかと考えたが、前進するこ
とにした。2キロほど走ると、小降りになって来た。
最後の角を曲がったとたん、すばらしい報いに驚いた。
最高のタイミングで、突然雲間の間から輝く太陽の光が射し、
顔に注がれた。心も温もりと感謝で一杯になり、完走した。
もし、途中で諦めていたら、このすばらしい報いはなかった
であろう。信仰生活でも忍耐が試みられることが何度もある
ことを考えた。病気や対人関係での問題や仕事での悩み…
その時の鍵は、神から焦点をそらさないことだ。
そうするなら想像もできなかった信仰によって、乗り越える
事が出切る。神から焦点をそらすな。


2001年05月24日(木)

    『マリヤという妹がいたが主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた』(ルカ10:39)

    

 あるクリスチャン家族の五才の子供が字も
読めないのに聖書をじっと見ていた。
彼が母親に言った。「ねえママ、イエス様は
どうして僕達に話しかけないの?」母親は、
「イエス様は色々な方法で話しかけて下さる
のよ」と答えた。彼は「わかった。イエス様
はいい考えを教えて下さるんだ」と言った。
彼女は、イエスがどう話しかけて下さるのか
考えた。祈りの中、礼拝、聖書学び会、兄弟
姉妹との交わりを通して、家の中での会話に
よって色々な場所で、主は語りかけて下さっ
ていることに気づく。人生の色々な時に語り
かけて下さっている。
私達は主が導かれる方法を聞かずに、衝動的
に行動してしまったり自分の方法で問題を解
決しようとしてしまう。主が私達一人一人に
話しかける方法を意識するようになると、私
達は耳を傾け、主のみ声を聞き分けて行動す
ることができる。私達が主の御声に耳を傾け
れば傾けるほど、神の御声により慣れ親しむ


2001年05月23日(水)

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ15:5)

ぶどうの木は太陽が大好きだ。しかし、
よく繁るためには日陰も必要だ。その
ため、成長する実を守るよう、ぶどう
の葉は大きい。ぶどうの収穫の時には
邪魔な大きな葉や枝を切り取り、摘み
ながら剪定する。次の日、庭に出ると、
乾いた枝が山積みになっている。枝は
ぶどうの木から切り取られると、すぐ
に枯れてしまう。霊的生命に似ている。
私達がイエス様から切り取られると、
私達は枯死する。もし私達が信仰に
おいて成長せず、神の御言葉に従
わなければ、枯れてしまう。時に、神
は刈り込みを多くし過ぎに見えるかも
知れない。しかし、刈り込みによって、
一層豊かな実を結ぶようになる。
私達の霊的な実を結ばない部分を
切り捨てる事によって、神は私達の
中に豊かな実りを与えて下さる。
私達の成長のために何をするにも、
イエス・キリストに完全により頼ま
なくてはならない。




2001年05月22日(火)

    「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは・・導き入れることはできない」(民数記20:12)

   

 モーセは失敗した。イスラエルの民が水を要求した時、
神はモーセに岩に命じるよう告げられた。しかしモーセ
は従わず、自分の杖で岩を打った。
一見些細な行為が大変な結果を生んだ。不服従によって
モーセは約束の地に入れなくなってしまった。
四十年旅をし、目の前まで来たが許されなかった。
失敗、モーセはそれを知っていた。何度その失敗を思い
起こしたことだろう。民が不平を言いさえしなければ、
もう少し忍耐していれば…もし…。
ヘブル十一章で、モーセの模範的信仰を賞賛している。
これは失敗したと思う人への偉大な賛辞だ。あなたはど
うか。自分の罪を告白するなら、神は赦される。
自分で自分の過ちを赦す必要がある。
自分を叱り続ける必要は無い。神の方向を向けばよい。
私達は神の赦しを受け取るべきだ。罪は消える。
神の指示に失敗した時にさえ、悔い改めによって神は赦さ
れる。


2001年05月21日(月)

「この奉仕のわざは、聖徒達の必要を十分に満たすはかりでなく、神への多くの感謝を通して満ちあふれるようになるからです

「この奉仕のわざは、聖徒達の必要を充分に 
     満たすばかりでなく、神への多くの感謝を
     通して満ちあふれるようになるからです」
       (Uコリント9:12)



 ある宣教師夫妻が、アフリカを伝道旅行していた。
彼の妻が転んで足を骨折した。全く歩けなかった。
ギブスをはめ、動けなかった。四人の男性が椅子ごと
持ち上げて運んでくれた。彼は何回か、攻めて一隅で 
も自分も運びたいと頼んだ。
しかし、男性は自分たちに任せるよう言い張った。
それでも無理に頼むと彼らの一人が言った。
「私達が奥さんのために、神の恵みを運ぶ水路になる
のを許してくれませんか」と。彼は呆然とし、受け入
れた。他人を助けるのが神の恵みの水路を備えること
だとは考えたことがなかった。人からの助けを受ける
ことは、神の恵みを受けることなのだ。それを拒むこ
とは、その人々が、神の恵みの水路になる特権を奪う
ことなのだ。ほかの人々の助けを丁重に受け入れよう。
自分自身にとっても、彼らにとっても、それは神の大
きな祝福なのだ。


2001年05月20日(日)

「あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたのです・・あなたがたのつぶやきは、主に対してなのです」 (出エ16:8)

神はイスラエルの民を苦しい奴隷で
あったエジプトから連れ出された。
荒野の地でずっと守られた。神はど
んなに大きな奇跡をして下さった事か。
それでも尚、彼らはひと息つくと、不平
を言った。私達も同様だ。罪を赦し、
永遠の救いを与えられたに関わらず、
不平不満に満ちている。思い通りに
事が運ばない時、お金や時間が十分
に無い時、自分の計画に邪魔立てが
入った時、人々が自分に同情してくれ
ない時、すぐにつぶやく。不平の理由
が何であれ、神は私達に「すべての事
をつぶやかず、疑わずに行ないなさい」
と言われる。いつも喜びなさい。すべて
の事について感謝しなさい、とも言われ
る。私達は不平を言うのでなく感謝する
事が出来る。神に集中する事だ。神の
視点から物事を見、御言葉を思い巡
らし、今までして下さった事をよく考え
てみよ。不平不満の代わりに感謝が
湧き上がる。


2001年05月19日(土)

「あなたは善人の道筋をならして平らにされます」(イザヤ26:7)

ある婦人が編み物をしていた。する
と、小さな娘が編み物の様々なカラ
フルな玉に興味を持ち、眺めていた。
やがて、その玉を一つ一つ、部屋の
あちこちに放り投げた。そして、楽し
そうにそれを追いかけ回った。糸が
目茶苦茶にからまった。そこへ、よ
ちよち歩きの下の息子が来た。部屋
の隅の自分のオモチャを見つけ、歩
き出した。母親が「ちょっと待って!」
と止めようとしたが、息子はすでに真
ん中まで来ていて、両足に糸がからま
り身動き出来ず、泣き出した。私達
も彼のように、目標を定めるとまっし
ぐらに突進しようとする。家族や家の
仕事やその目標自体は良いものか
も知れない。しかし、神は目標への道
筋を考えるよう言っておられる。危険
や信仰生活を妨げる障害があるかも
知れない。神の「ちょっと待て」は警告
であり、私達の人生の旅路を守り、助
けてくれるものだ。御声が聞けるよう
速度を落とせ。もつれを通して、正さ
れる



2001年05月18日(金)

    『 「ああ、私は訓戒を憎み私の心は叱責を侮った私は私の教師の声に聞き従わず、私を教える声に耳を傾けなかった」と』(箴言5:12)

 
 「幸いなことよ。主のみ教えによって歩む人々…
主のさとしを守る人々」と詩篇にもある。
秩序の崩壊が自然現象のなかにも見られる。
家々をおおい尽くす大洪水。町を飲み込む濁流、
沈んだ車や田畑…。川岸の堤防が破れ、穏やか
な水面は一転して、怒り狂う洪水となった。
破壊と混乱。もし河が口をきけるなら言った
かもしれない「なぜ私は、閉じ込められなくては
ならないのか」しかし、水流を定めない堤防など
あり得ない。規則のない人間生活などあり得ない。
神は私達が生活に集中できるよう、境界も定めら
れた。それなしに、私たちの人生は目的も方向も
ない。堤防が水流を定めるように、神は私達の人
生に御言葉と言う規範を下さった。
それに従う時、洪水の破壊と混乱から守られる。
秩序の中でのみ、初めて自由に喜びを持て生きら
れる。自由と喜びは神に従って生きる中にしかない。
御言葉からそれる時、決壊する。混乱と破壊を招く。


2001年05月17日(木)

   「あなたがたが、これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)


 通りを歩いていた時に、年配の婦人が
歩行器を使って自宅の回りを散歩してい
るのを見かけた。
立ち止まって挨拶をし、お喋りをした。
た立ち去る時に彼女は「声をかけて下さ
って有難う」と言った。
また。アル中の婦人を訪ねた。彼女のそ
ばに座って手を握った。
と言うより彼女が手を握ってきた。
「あなたが来て下さったのね。来て下さ
るとは思わなかった。嬉しい」と言った。
ある朝、行き詰まった男性から電話で話を
聞いた。一時間ほど話を聞くと、彼の怒
りは静まり、拒絶の感情も和らぎ、希望の
光がさしこみ始めた。「話し相手になって
下さって有難う。落ち着きました」と彼は
言った。こんな時、神を身近に感じる。
他の人のためにそこにいる事、そうする事
によって主に仕えることが、どんなに僅か
な手間しかいらないかを悟った。
私達が必要な人のために、主の手、主の足
主の耳となれますように。


2001年05月16日(水)

「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」(詩編30:11)


使徒の働きの中で、パウロは小
アジアのフルギヤとガラテヤを
旅しながら、その地域で伝道し
たいと思ったが、聖霊によって
それを禁じられた。そこで、ム
シヤの国境まで行き、ビテニヤ
へ行こうとしたが、またしても
禁じられた。それでトロアスへ
行くと、マケドニヤへ行くよう
命じられた。それはパウロの思
い通りではなかった。私達も人
生は自分の思い通りでは無い事
を学ぶ。物事が思い通りに進ま
ないと、希望が失せ、しばしば
反抗的な気持ちになる。そうで
はなく、歩み続ける事が大切で
ある。神のみわざの中では次善
の策に見えるものがあるが、し
ばしば最善である。面前で閉じ
られた失望を受け入れ、開かれ
ているドアを通って歩む時に、
真の幸せが来る。失望のその先
に幸せが用意されている。みこ
ころを受け入れる事だ。神は最
善しかなさらない。


2001年05月15日(火)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」(マタイ7:25)

 
 人生は不意の出来事、全く予期せぬ出来事が起こる。
ある冬に猛烈な嵐が突然吹いてきた。
雨が降り洪水が押し寄せて来た。彼女は癌検診で、陰性が出た。
数か月後に、しこりに気づいたが、そんなに気にしていなかった。
ところが、そのしこりが異常な速さで、大きくなった。
精密検査を受けると、癌が発覚した。癌切除とリンパ腺の除去を
告げられた。その検査の結果を聞いた時、彼女の心は平安だった。
驚きも恐れもなかった。不思議だったが、深い平安と喜びがあった。
彼女は自分にとってすべては最善なのだと信じれた。
死んだとしても完全にイエスと共である事を知っていた。
永らえても主は残りの人生を共にいてくださる。
どっちにせよ失うのは何もない。彼女はこの人生の大嵐の中で確かな
基盤に立ちつづけることが出来た。イエスキリストを自分の人生の
土台にしていたからだ。






2001年05月14日(月)

   「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることは出来ません」(ヘブル12:14)

   

 日常生活の中で、議論になる事があるだろうか。
皆、意見、見解は違っている。
十人十色だ。皆違うだろう。議論になると、自分
の正しさを主張している事に気づく。
自分たちの主張を通す事で、自分を認めて欲しいのだ。
最初は礼儀正しく議論していても、感情的になり後で
撤回したくなるような言葉が飛び出す事は良くある。
言葉の応酬を目にする。こうした激しいやり取りは
しばしば害になる。自分が正しいとの争いは、徳を
建てる事から遠い。そして、ひどく醜い。
神の栄光を表す行為ではない。神は平和と聖めを追
い求めよと言われる。神の平和を実現する為に、人の
意見を聞くために、自分の意見を差し控える必要があ
るかも知れない。主を見る事を望むなら、これはどう
しても必要である。自分の意見を内にとどめてでも、
平和を聖めを追い求めよ。
自分の意見を守より、神の愛を表すほうが大切。


2001年05月13日(日)

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」 (ヤコブ1:5)

さまざまな試練に会うときは、この上も
ない喜びと思いなさいと、神は言われ
る通り、日常生活で、大きな、小さな
様々な試練に出会います。多くの人々
にとって人生は困難であり、色々な悩
み、問題が多い。悩みが大きいと、信
仰に立つどころでなく、問題に押しつ
ぶされそうになる。祈る代わりに悶々
と思い煩ったりするものだ。ああでも
無い、こうでも無いと思いはさまよう
ばかり。悶々と祈れない状態の時は
祈りを変えると良い。「なぜ、どうし
てこんな事が、神様なぜですか、なぜ
ですか」でなく、「この事から教えよ
うとして下さっている事がわかるよう
に」と祈るのだ。すると見方が変わる。
恐れと不安だけという状況から出て、
信仰に立てるようになる。様々な危機
は神様への信頼を学ぶ機会になる。そ
して、その信頼は危機の度に、深めら
れて行くのを経験する。


2001年05月12日(土)

「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:31)


婦人が買物をしようと、駐車場に入っ
た。車で一杯に混雑していた。すると、
一人の老婦人がバッグで出ようとして
いた。彼女は数メートル手前で止まり、
老婦人が出るのを待った。運転のぎ
こちない老婦人の車がバックしていて、
彼女の車の前でドスンと、ぶつかった。
老婦人はすぐに財布をつかんで、車
から降りて来た。そばに来て恐縮し、
謝り始めた。しかし、ちょっとぶつかっ
ただけなので、彼女は笑顔で手を振っ
て、「いいですよ。気にしないで。本当
に大丈夫」と言うと、老婦人は頭を下
げて、何度も謝罪と礼を言った。その
目に浮かんだ感謝の念で十分だった。
その婦人が去り、彼女が車を入れた
時、見ていた男性が「告訴する事しか
頭に無い奴らばかりだよ。だが、あん
たはあの人を許して気持ちよくさせた。
その事をちょっと言いたかったんだ。」
アメリカでの出来事だが、神の愛と許
しが、私達を通して周囲に流れ出して
行く。


2001年05月11日(金)

   「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれた時から、あなたにいだかれています」(詩篇71:5)


 一人のクリスチャン女性は、両親の事情で、父
親と母親は彼女が小さい頃から別居していた。
周囲の友達たちは皆、両親が一緒に生活していた。
どうしようもない寂しさが募り、祈りの時、私にも
お父さんを下さいと神に祈った。年月が経る内に寂
しさはますます募るばかりだった。
ふた親のいる家庭が欲しかった。自分にも父がいた
らと願った。そんな時、御言葉に触れた。「私の父、
私の母が私を見捨てるときは、主が私を取り上げて
くださる」神が父だとわかり嬉しい気持ちで一杯
になった。人生で初めて自分の家族が神と共にいて
完全なものだと気づいた。天の父が彼女を愛し気遣
ってくださると言うことが出来、今まで彼女を育て
るために最善を尽くしてくれた母親に大きな感謝の
念を抱いた。
両親と暮らすことの出来ない子供、片親の子供達が
いる。究極の親である神に、父や母を見い出すこと
が出来る。


2001年05月10日(木)

   「神のご計画に従って召されたすべての人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)

 ある婦人が、好きな刺繍に楽しく取り組んでいた。
幾つものバラの花束のデザインだが、同じ色でまとめる
つもりだった。ところが二つ目のバラの刺繍をし始め、
色を間違っていることに気づいた。
一つだけ違った色はおかしい。そこで予定を変更して、
全部違う色にすることにした。そして葉にも色の濃淡の
変化をつけた。するとなんと思っていたのと全く違う、
思いより遥かに見事なすばらしい芸術作品に仕上がっ 
てしまったのだ。
品評会にでも出せそうな作品になった。
霊的なことに適用した。私達は間違いや失敗をしてし
まう。しかし、神はそのゆえに私達を捨てるようなこと
はされない。神はそれを益とし更に美しい色彩豊かな織
物へと織り上げられる。
失敗した時、諦める必要はない。
神のもとへ行き失敗を認めることだ。神は赦し、その失敗
から更にすばらしい芸術作品を生み出される。


2001年05月09日(水)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために」 (Tヨハネ4:10)

ある家庭に「愛してるよ」という語彙
は無かった。父親は一度も子供に「
愛してるよ」「好きだよ」「お前がいて
くれて嬉しい」と言った事が無かった。
息子は父親が大好きだったが、父が
言ってくれないから、自分も言うまい
と決心していた。父親は80才で亡
くなった。ついに一度も愛情表現を聞
かずじまいだった。息子は自分の間
違いに気づいた。父親への愛を表現
する機会が二度と無くなったのが残
念だった。神はまず私達を愛して下
さった。イエスを遣わして下さり、
その命を犠牲にする事で、私達を
愛して下さった。神の愛は人間の
応答によって測られない。神は、神
がまず私達を愛して下さったので、
私達も愛し合うべきだと言ってい
る。父親との経験から学んだ息子
は、自分の子供達に愛情を豊かに
表現した。「今以上に愛する事が
出来ないほど愛している。お前達
が成功しても失敗しても私の愛に
変わりはないよ」と。彼は子供達
と幸いな関係を築いている。


2001年05月08日(火)

    「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)


 自分は強い信仰に欠けていると言うことは
あっても、愛に欠けているとは、なかなか認
めない。多分私達は隣の人と同じくらいは愛
していて、そして、ましな人間だと思っている。
私達は観念的、抽象的な愛には敏感だ。アフリ
カの飢えた子供達や児童虐待には敏感に反応す
る。しかし、本当の関心とは、感情だけではな
く行動が伴わなければならないと心ではわかっ
ている。行動の無い愛というものは、実際には
存在しない。それは、才能が創造的に表現され
なければ無きに等しいのと同じだ。
愛は観念的なものでなく実際的、具体的なものだ。
私達はすべてをする事は出来ない。世界中の人々
への人類愛でなくまず目の前の一人の人への関心
を持つ事から始めよ。
あなたに出来ることをすべきだ。聖霊が示してお
られる一人とはだれか。
神の恵みと力により、愛する事を決心し、始めよ。


2001年05月07日(月)

     「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)

     
 神は一連の災害でエジプトを打った。パロと
エジプト人達はヘブルの奴隷を開放しなければ
死にそうだった。しかし、神はイスラエルを
エジプトから何も持たせず去らせたくは無かっ
た。エジプトは400年の報酬を支払うべきだっ
た。イスラエルは自分たちの以前の主人達に金
の飾りや着物を求め手に入れた。
しかし神の民は偶像崇拝に陥った。
彼らはその金を使って金の子牛を作り、それを
拝んだ。この悲惨な経験はクリスチャンに警告
している。私達の社会には楽しみがたくさんある。
しかし、私達が物質的な物を無批判に使う時、
それは大変な事態を引き起こす事がある。
利用するのはよいが、偶像となってはならない。
私達は地上では旅人であり寄留者である。
物質的祝福を主に仕えるために用いているか。
それとも、その奴隷となっているか。
金は有用なしもべにも残酷な主人にもなりうる。
虚しい望みを満たそうと、やかましく叫びたてる
古い性質に屈してはならない。


2001年05月06日(日)

「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」(T列王19:7)

人生の試練に見舞われた時には、問題
を解決できる現実的な霊的素養を強く
求める。聖人ぶっても実生活では余り
信用されない。が、このバランスは容
易な事ではない。人は大抵「霊性を犠
牲にして霊的になるか、現実性を犠牲
にして霊的になるか」だと言われる。
そして、神のみが正しいバランスを有
している。イエスがこの世界に来た事
ほど、神が現実的であった事はない。
肉体を持った正真正銘の人間になった
のは、紛れもなく神の聖なる独り子イ
エスだった。最も霊的な方が最も現実
的なのだ。神がエリヤを取り扱ったの
は現実的方法だった。エリヤの鬱状態
に対する神の治療薬は食物と睡眠だっ
た。もし、あなたが過労が原因で気が
滅入っているのなら、休みを取ってゆ
っくり眠る事だ。霊的に落ち込んだ時、
恐れている時、猜疑心に悩まされる時、
必要なのはただ休む事かも知れない。
そうすれば、神が癒し再び立ち上がら
せて下さる。








2001年05月05日(土)

「私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです」(Tコリント9:15)

パウロは金のために主に仕えている
と思われるよりは、死んだ方がまし
だと語った。コリントで宣教する間
自分の手で稼いで生活したのもその
ためだ。キリストの証し人としての
値打ちが下がるなら、死んだ方がま
しだった。歴史を通して多くの人が
同じ信念を貫いた。主を否むより殉
教の死を貫いた。大抵の人は生きる
か死ぬかの究極の選択を迫られる事
は無い。が、私達の生き方はそれな
ら死んだ方がましだという信念を映
し出すべきだ。パウロの切なる願い
は、恥じる事の無い一生を生き抜く
事だった。唯一望んだ事は牢から解
放される事ではなく、キリストのす
ばらしさが自分を通して現わされる
事だった。そのパウロを通して、御
名を汚す行動を取ったり、家族の心
を傷つけていたり、信頼してくれて
いる人を失望させたりするなら、む
しろ死んだ方がましだ。キリストの
名を汚す事よりは死んだ方がましだ。


2001年05月04日(金)

「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです」(Tペテロ2:20)


 不当に扱われた時、自分を守り、反撃したいと思うのは
当然である。しかし、侮蔑されても穏やかに振舞うなら、
それはキリストのような応答である。神は私達の中にこの
特異性を育みたいと望んでおられる。
事が思い通りなら穏やかでおれる。「悪意ある人に騙され
踏みつけられても動揺してはいけない。好きにさせよ。
神のみこころを求め行え。神に目を留めよ。神は苦境が
人生に起こるのを許される。それはあなたの益のためだ」
不当な扱いに対してキリストのように応答して行くなら、
心配や不安、悲観主義は、冷静で安定した精神、希望へと
変えられて行く。
自己防衛に急ぐのはなぜか。それは自分の権利に価値を置
き心地よく過ごしたいという願望による。常に自己の権利
を擁護したくなる欲から、癒されるように


2001年05月03日(木)

「この民は、主の宮を建てる時はまだ来ないと、言っている」(ハガイ1:2)



神のみわざの奉仕をするならば、
神の御心と神の時は、大切な問題だ。
ハガイの時代、イスラエルの民は主の宮
を再建するにあたって同じ問題に直面した。
彼らは、バビロン補習とされた年月を経て、
エルサレムに帰ってきた。
神の指示により再建に着手した。しかし、
脅迫や恐怖に屈して、工事を中止した。年月
が過ぎ、彼らは自らの怠惰を「時がまだ来ない」
と弁明した。無意味な言い訳だった。
本当の理由は別にあった。
自分が快適に暮らす「板張りの家」を建てるのに
かまけ、主の宮の再建に割く時間もなく、努力も
できなかった。自分のための「家」を建てること
だけに熱中しないよう、十二分に注意しなけれ
ばならない。
神の為に働く事をおろそかにし
ないためである。いつでも神がふさわしいと
される時に、みこころを行い、神の指示によっ
て実行できるよう求めよう。
今こそ、神のみこころに従う時だ。
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2001年05月02日(水)

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」(マタイ9:13)

4人の子供を育てている母親が
カウンセラーを訪ねた。自分は
人生の敗北者だと落ち込んでい
た。彼女は宣教師になる訓練を
受け、海外で主に仕えたいと願
っていた。ところが、妻に先立
たれた4人の子持ちの男性と恋
に落ち結婚した。その後は育児
と家事で追われた。もう一切伝
道活動に関われなかった。神の
報いである懲らしめを受けてい
ると誤った結論に達した。カウ
ンセラーは、ミカ6:8を示し
「主は何をあなたに求めておら
れるのか」「それはただ公義を
行ない、誠実を愛し、へりくだ
って、あなたの神と共に歩む事
ではないか」。求められている
のは海外の宣教地に行かなくて
も出来る事。彼女はその通り、
今いる場所で、神の言われる事
をした。どこにいようと神が求
めておられるのは、公義と誠実
とへりくだりだ。その場所で神
に仕える事だ。


2001年05月01日(火)

    「ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼だ閉じると誰も開く者がない」(黙示録3:7)

    
 一人の男性が車の鍵を手放さざるを得なかった。
好きな時に、好きな所へ自由に行ける特権を放棄する事が
どんなに難しい事かわかるだろう。彼は脳腫瘍の後遺症で
てんかんの発作が起こるようになったからだ。
空軍の超音速ジェット機を操縦していた。
しかし、それも不可能になってしまった。自分の無力を嘆
いた。しかし、彼はこのハンディは、キリストをもっと親
密に知るための手段だと、信仰によって受け入れるように
なった。そして、イエスとの関係がたのどんな特権や所有
物より遥かに大切だと理解するようになった。
主イエスは救いと恵みへの鍵を持っておられる。
それは、手放す必要なない永遠の鍵である。
そして、キリストこそすべての必要への鍵を持っているお
方だから大切につかんでいる物を手放す事ができる。
主が導かれる所へ、ついて行く為に。
主のみ旨を受け入れる事は、平安を経験する秘訣。