2005年11月30日(水) 「目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」(マルコ16:4)
「目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」(マルコ16:4)
香油を塗ろうと墓に来た女性の心配は墓 をふさいでいる大きな石だった。しかし、 来てみると、すでに石は転がされていた。 私達も今までに何度不可能に見えた目の 前の石を転がして頂いたことだろう。断 崖絶壁、絶体絶命の度に奇跡のみわざを 見て来た。神は目の前の障害を取り除い て下さるか。もしくは、乗り越える事の 出来る力を与えて下さる。みこころを歩 む時、どのような障害も乗り越えて前進 出来る。神を信じよう。私達の新会堂建 設の時、私達には不可能な資金が必要で あり、様々な困難があったが、常に目の 前の「あれほど大きな石」は転がされて 行った。今、大きな石に阻まれているか。 除去されるか、恵みにより乗り超えるか により、前進できる。神を信頼しよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 目の前の問題を祈ろう。もし、御心なら問題 を取り除かれ状況を変えられる。それが御 心でないなら、心が変えられる。状況を受け入れ る事ができる。どちらにせよ、乗り越えて行 ける。大きな石はすでに転がされている。
2005年11月29日(火) 「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」(箴言3:5)
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」(箴言3:5)
信仰生活で様々な不意の事態が起こる。 いつも私達の反応は「なぜ?」「なぜ、 こんな事が私に起ここるのか?」だ。 ヨブもそうだった。神の許しのもとに サタンが臨み、子供達、家、いっさい の所有物を失った。当時、所有物が増 える事が神の祝福であった。それに伴 う地位、名誉、プライドも一瞬にして 損なわれた。「なぜ」を問い続ける中 で自分を義とし、自分を正しいとする 隠れた罪を悔い改めに導かれた。なぜ、 に神は答えられなかったが、ヨブは神 への信頼を学んだ。時に厳しい試練の 中で、理由が全くわからない事がある。 理由はわからないが、神を「信頼」す る事が出来る。何も見えない中で神を 信じる事は信仰だ。その信仰を神は受 け取って下さる。 ---------------------------- 不意に襲う試練のようでも神さまから のもの。神のご計画にじっと身を委ね ていよう。必ず益として、練りきよめ られて試練のトンネルから出して下さ る。
2005年11月28日(月) 『「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」』(マルコ10:51)
『「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」』(マルコ10:51)
バルテマイは盲人のこじきであり、道 ばたに座って物乞いをして生きていた。 目が見えない事は仕事に就けない事で あり、人に依存しなければ生きて行け なかった。惨めで情けない思いであり、 プライドが傷つく事であったろう。 あらゆる困難が盲目である事から来て いる事を身にしみて自覚していた。 主に「何をして欲しいのか」と問われ た時、即座に「目が見えるように」と 的確に心の願いを言えた。主への信仰 があったから大声で叫び立てた。 見えるようになった彼は主の行く所へ ついて行った。肉の目も霊の目も開か れた。「わたしに何をして欲しいのか の問にあなたはなんと答えるだろう。 願いは何だろう。自分をしっかり見 つめさせられる問だ。 ---------------------------- 自分の弱いところを日々示されてい るだろうか。貧しい者は幸いと主が 言われるように繰り返す罪、思い煩い、 様々な不信仰を主に変えていただこう。
2005年11月27日(日) 『ペテロは「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」と言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた』(マタイ26:75)
『ペテロは「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」と言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた』(マタイ26:75)
ペテロは主を裏切ってしまった。主はペテ ロの弱さをご存知であったが、ペテロは知 らなかった。他の弟子達がすべて去っても 自分は大丈夫、と豪語した。主への信頼ゆ えでなく、自分への信頼、自信であった。そ れはもろくも崩れ去ってしまった。しかし、ペ テロは、主が大好きであったゆえに泣いた。 主はペテロを将来の教会の指導者として見 据えておられ、サタンのふるいを許され、砕 きを通された。自信家のペテロは砕かれた。 すべてを益に変えられた。主の器に造り変 えられた。あなたも失敗したか。罪を認め 悔い改める事が大切だ。主は赦して下さる。 その事をも益とし、訓練としあなたを作り変 え、新たにし立たせて下さる。どんな時にも 希望がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ ペテロは自信が砕かれ、主に頼る者、ふさわ しい者へと造り変えられた。私たちも造り変 えて下さる。失敗は失敗だが、主のあわれみ は尽きない。自分を誇れなくなることが幸い。 その時、初めて主のあわれみや、恵みがわかる。
2005年11月26日(土) 「・・あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)
「・・あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)
女たちの「サウルは千、ダビデは万を打った」 を聞いた時、サウルに強烈な妬みが起きた。 「サウルは千」だけならよいが、ダビデとの 比較により嫉妬と憎しみが燃えて殺意にま で及んだ。プライドは人より上でないと気が済 まない。人と比較して優越感に浸り、又劣等感に 陥る。優越感(superiority) と劣等感(infer iority)は同じものだ。その根は「高慢」だ。劣 等感の強い人が優越感に浸りたい。妬む相手にき つく当たったり、見下げる態度をとる。隠れた 劣等感だ。そうやって自分を保とうとする。平 安と喜びのない日々を送る。すべては比較から 来る。横でなく上を見よ。そもそも一人一人の 神のご計画が違い、賜物が違い、比較が出来 ない。無意味だ、自分への神の御心を生涯行 って行くのみだ。あなたの弱さも醜さもすべてを 知った上で、世界でただあなた一人かのように 愛して下さったいる。あなたへの神の愛をしっか り受け取る事だ。
2005年11月25日(金) 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテア2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテア2:20)
不幸な生い立ちの女性が次々と厳 しい状況が臨み、いつも愚痴と不 満ですねた屈折した態度だった。 ところがある時から、顔が変わっ た。幸せそうな明るい表情になり、 嬉しそうだった。周囲は情況が好 転したのだと思った。ところが、 彼女は状況は同じで何も変わらな いと言う。状況ではなく彼女の心 が変わったのだ。私達はどうだろ う。愚痴と不満、いら立ち、怒り の状況でよく考えるべきだ。 この真の問題はどこにあるのか。 環境のせいか。相手のせいか。 自分が問題なのか。御霊により 心の内を照らし出される。問題 が自分である事を認める時、自 分は変られて行く。不平不満か ら開放されて自由にされる。環 境は同じだが、喜びと平安を与 えられて歩める。 ---------------- 問題は外側ではなく内側だ。御 霊様の導き、励ましを素直に受 け止め、感情や状況に翻弄され ることなく、今日ものびやかに 歩んでいこう。
2005年11月24日(木) 「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」(ガラテア6:1)
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」(ガラテア6:1)
ギャンブル依存症の子供をもつ親 がいた。又、成育歴で心に傷を持 ち非行に走る子供達がいた。私達 はどのように接すればよいのか。 まず自分自身がしっかり神にとど まり神に頼る事だ。自分の判断は 間違う。御霊の判断を常に求める 事だ。主との交わりの中で主から の愛で愛して行く事だ。言葉をか けるべき時と、黙して見守るべき 時がある。御霊は導いて知恵を与 え、その時にかなって成すべき事 を示して下さる。相手の気持ちは 誰もどうする事も出来ない。人を 変える事など絶対にできない事を 心得る事だ。自分を変えられるだ けだ。自分も同じ状況なら同じ過 ちに陥ったかも知れない、そこに 立ち、柔和な心で接する時、相手 のために用いられる。 ----------------------- 人を正すことは難しい。まず自分 が神様の前に整えられなければな らない。いつもいい顔してたい、 できることなら避けて通りたいと 思う冷淡さが自分の中にある。
2005年11月23日(水) 「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」(エペソ4:25)
「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」(エペソ4:25)
この世では嘘が普通に通っている。堅い 事を言うな、少しぐらいの嘘は対人関係 を却って円滑にする、又、商売をうまく 成立させるのだと。段々平気になってし まう。この世はそうかもしれないが、私 達は違う。御言葉は、はっきりしている。 偽りは罪だ。得をするために、ごまかす 事は、みこころに反する事であり、それ はサタンから来ている。サタンは最初か ら偽り者であり、偽りの父だ。自分を良 く見せるために、仕事を成功させるため に、利益を得るために、偽る事を、誘惑し てくるサタンに屈してはならない。神は 真実なお方であり、偽りはいっさい無い。 誘惑はサタンからだ。サタンを識別し神 に従おう。偽りの誘惑が来た時、拒否し、 神を選び、神に従う事を選ぼう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 偽りだけは要注意だ。サタンの性質そのも のだからだ。人を欺いて、よく見せようと 偽っていたのが、自分が自分に欺かれ、本 当の自分がわからなくなる。偽りは暗闇の 中だ。偽らず、正直でおり光の中にとどまろう。
2005年11月22日(火) 「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、叫びをお聞きになり・・私の口に新しい歌、われらの神への賛美を授けられた」(詩篇40:1)
「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、叫びをお聞きになり・・私の口に新しい歌、われらの神への賛美を授けられた」(詩篇40:1)
ダビデは主を持ち望み、その結果、新 しい歌、賛美へと導かれた。待つ事の 大切さを学ぶ。待つ事はすべての人に とって困難だ。すぐに結果が欲しいし、 答えが欲しい。先を知りたい。プラン に向かって行動したい。どんどん先に 進みたい。止まって待つほど難しい事 は無い。ある海外宣教師は海外への示 しを与えられてから実際に門が開かれ るまで十六年待った。祈りつつ準備し つつ待ち続け十六年目にみこころの地 に立った。御旨は必ず成就し道は開か れる。待つ時間を通して、動機がきよ められ信仰が試され鍛えられ忍耐が与 えられ、成長へと導かれる。今、待 ち望んでいるか。神はあなたに新しい 歌を与えようとのご計画だ。神の真実 を知る事になる。待とう。 -------------------------- 皆それぞれに待っている事があるだろ う。どうか忍耐もって待ち続けられま すよう。約束の御言葉をしっかり握り しめ、喜びもって待てますように。
2005年11月21日(月) 「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい」(伝道9:10)
「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい」(伝道9:10)
「自分の仕事に身を入れ、自分の手 で働きなさい」と神が命じられてい る。人が仕事をするのは正しい事だ。 与えられた仕事がどのようなもので あれ、しっかり身を入れ、ベストを 尽くすべきだ。しっかり地道に働く ことは外部の人々に良い証しとなる からだ。どのような仕事かは問題で なく、それを忠実に神の栄光のため に行うところに価値がある。ある説 教者が言った。この地上で任命され た仕事が王であれ門番であれ変わり はない。その与えられた職務を忠実 にベストを尽くして行うのみだと。 神が見られるのは忠実だ。忠実によ って天で豊かな報いを受ける。遣わ されたその場で仕事を通して神の栄 光を現す事で、周囲に主の証しとし てとして用いられる。 ------------------- 与えられた職場で、周囲に流されず 常に主の香りを放つ者でありたい。 一つ一つを誠実に自分を捨てて主の 栄光のために働きたい。新しい週も 主の証し人として職場におれますよ うに。
2005年11月20日(日) 「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました」(創世記50:20)
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました」(創世記50:20)
ヨセフは妬みから兄弟にエジプトへの 隊商に売られ、そこで、祝福されるが、 無実の罪で投獄され、苦難に次ぐ苦 難を通る。最終的にエジプト王の信任 を得、総理大臣となる。そして、飢餓 にあった父や兄弟達をエジプトに呼び 寄せ命を救う事になる。神の深いご計 画があった。あなたは今、苦しい人間 関係があるか。辛く当たられているか。 又、病気、倒産、別離、経済的危機に あるか。どうする事も出来ない事態か も知れない。しかし、私達は態度と対応 を選択する事が出来る。どうしてこんな 事にと、反抗し心を屈折させる事も出来 るし、心の内の思いを神に告げ、祈る事 もできる。あなたの選択だ。神は人の悪 意さえ、あなたのために良い事とされる。 神に間違いは無い。神を信頼しよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 運にも、サタンにもほんろうされているの では無い。主権と愛と最善のご計画を持 った主の御手と支配の中だ。恐れる事は ない。神の愛を信じて、神に焦点を当てて いよう。どんな状況の中でも心は平安に守 られる。
2005年11月19日(土) 「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」(詩篇119:97)
「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」(詩篇119:97)
詩篇記者は御言葉を愛した。私達も御 言葉を愛するためにどうすれば良いの か。とにかく御言葉に向かう事だ。御言 葉は、祈りでなければわからない。少しで も時間があれば祈って、御言葉を聞こう。 御言葉は命であり霊であり愛だ。御言葉 に主の心があり、お心に触れる。一言 語られるなら、生きて行ける。心新たにさ れる。御言葉を放さず、反すうし、自分 の思いとして行くのだ。古い価値観を御 言葉に置き換えて行く。その作業を繰り 返し、繰り返し行い、御言葉による新し い価値観に入れ替える。そうするなら、 思いや、発想が変えられて行く。突発事 態が起きた時、すべての事は感謝、益と される、ご計画がある、脱出の道がある ・・価値観が少しづつ変えられている事 に気づく。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 御言葉を愛しているだろうか。大好きな最愛 の人からの手紙はどうだろう。どんな心で読 むだろう。御言葉は神からの手紙だ。字づらで なく神の心がそこにある。自分の心の態度が 問題だ。求めて祈り心で、御言葉に向かうなら、 神のお心に触れる。
2005年11月18日(金) 「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」(ルカ10:42)
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」(ルカ10:42)
有名な御言葉であり、座して御言葉を 聞く事がまず一番大切だと何度も聞い ている。よくわかっている。しかし、 目の前の必要に流されて、御言葉を聞 く時間が無い。実は時間が無いのでは なく、自分の中に頑ななものがあり選 ばない。自分の思いを優先する結果だ。 ある時、ペテロが一匹も獲物がなく心 身消耗し切って網を洗っていた時、主 は舟を少し出すようにと頼まれた。 ペテロは舟の中で御言葉を聞かざるを 得ない状況に置かれた。その結果、見 える所では不可能だが、お言葉通り網 を下ろそうとの信仰に立てた。あなた も何度も舟の中に置いて下さった事に 気づくだろう。御言葉をあなたに聞か せるために。自ら選択して座して御声 を聞こう。 ---------------------------------- 自分の思いを選んで行くなら、いつか 限界が来る。痛い目に会って始めて、 また御言葉に帰るのだ。同じ過ちを繰 り返さぬようにしたい。
2005年11月17日(木) 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」(詩篇56:3)
恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」(詩篇56:3)
誰にも恐れの経験がある。丁度ク ルド族の人々に福音を伝えていた 知人は湾岸戦争勃発で爆撃銃撃を 経験、あんなに怖かった事は無い と。大震災に会い、九死に一生を 得た知人は、あの恐怖は思い出し たくないと。誰でも恐れを感じる。 それ自体は普通だ。その時の対処 が肝要だ。おじ惑いパニックにな り、神も信仰も吹っ飛ぶだろうか。 嵐にあった小舟の弟子達のように。 状況の大波にほんろうされてしま うだろうか。状況を見ると恐怖で おじ惑う。その時、状況でなく、 状況をも支配しておられる背後の 神に向かう事だ。神に集中し、心 の不安恐れをことごとく告げるの だ。目が状況から神に転ずる時、 心に平安が広がる。恐れは信仰を 奪い取り、信仰は恐れを取り除く。 ---------------------------- 見える現状の向こうにこの事を支 配されている神がおられる。立脚 点はいつもここだ。そうするなら、 御霊様の導きを受け、平安に守ら れる。
2005年11月16日(水) 「悪者どもの道にはいるな。悪人たちのを歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ」(箴言4:14)
「悪者どもの道にはいるな。悪人たちのを歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ」(箴言4:14)
エデンの園の誘惑で、まずエバが蛇に耳 を貸し、聞き、対話して行ったのが間違い だった。無視すべきだった。又、御言葉に 立たず、エバの応答は神の言葉でなく自 分の思いだ。信仰生活に御言葉は重要だ。 御言葉を聞く姿勢がいい加減であれば、 信仰がいい加減になる。真剣に誠実に神 の言葉に向き合っているか。信仰は御言 葉を聞く事から始まる。エバは自分の願 望が蛇の言葉と合致していた。神を捨て、 自分が神となり、自分の判断と力で、自分 の意志通りに生きて行けるという、その誘 惑に負けた。悪魔に聞いて行った時、決し て死なないという大嘘を見抜けなかった。 神の言葉の下に自分を置き、へりくだって 従って行く時、悪魔を識別できる。 ・・・・・・・・・・・・・ サタンに聞くな、無視せよ、避けよと、神が言 われる。サタンの声を自分の思いと錯覚する。 自分が思っているとしか思えない。これが誘惑 だ。御言葉が自分の思いとなるよう、真剣に 御言葉に拠り頼もう。
2005年11月15日(火) 「あすのための心配は無用です」(マタイ6:34)
「あすのための心配は無用です」(マタイ6:34)
ちょっと考えても、明日の事を心 配するなら、明日は明後日が心配 で、と一生心配し続ける事になる。 冷静に考えて、心配したからとい って事態が変わるだろうか。更に 神は思い煩うなと言っておられる。 今日のこの一日は永遠に帰って来 ない。今日なすべきみこころがあ り、神の栄光を現すべく備えられ た一日だ。心配で時を無駄にすご させる事がサタンの攻撃だ。よく 考えてみよう。神が心配するなと 言っておられるのに、尚も心配す る事は、不信仰そのものだ。神は 無能で、嘘つきで、信頼に価しな いと言っている事だ。思い煩いは 罪だ。悔い改めて神を信頼しよう。 心からの信頼は大海のような平安 をもたらす。神は最善以下の事は されない。神を信頼しよう。 -------------- 思い煩いは不信仰だ。自分で何で も切り抜けてきた古いパターンに 囚われてサタンの策略にはまらず 御約束に立とう。
2005年11月14日(月) 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)
ある女性、大好きな洋服にシミをつ けてしまった。もう着れないとガッ カリしていた。すると、それを見た 友人がシミの箇所に素晴らしい刺繍 を施してくれた。見事によみがえり、 前よりも遥かに豪華なものになって しまった。ジャネット・リンはオリ ンピックの舞台で、競技中に転んで しまった。しかし、にっこり微笑ん で立ち上がり、競技を投げ捨てず最 後まで渾身の滑りをした。失敗した のに満場の拍手喝采だった。世界中 に感動を与えた。彼女は主を見上げ、 勝敗の結果でなく、忠実に精一杯の 事をしたのだ。その上でのミスを通 して神の栄光が現れた。いつも自ら を神に委ねよう。神を愛する者のた めに「万事」を働かせて益として下 さる。この信仰に立て。 --------------------- 目に見える現実にかかわらず平安で 感謝して歩んでいくるのは、この御 約束があるからだ。このみ言葉を一 心に見つめていよう。
2005年11月13日(日) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)
悪魔は策略を巡らして来るという事だ。 ストレートになど来ない。遊園地でマシンが あった。特大スクリーンに映る線路に、自分 達のコースターが猛スピードで走り、線路が 崖っ淵で切れ、大変なスリルと恐怖だ。しか し、トリックだ。あたかも自分が実際乗ってい るごとく感じるが、真っ暗な中で、単に椅子が 大振動しているだけだ。悪魔も私達を「錯覚」 させる。私達の「思い」が戦場だ。自分が思っ ているように錯覚させる。悪魔からの火矢に 気づいているか。頭の中のスクリーンに、次々 映し出される映像は悪魔からの火矢だ。思っ ても見ない思いが、突然吹き込まれたり、遠 い昔の憎悪が突然よみがえったり。自分が 思ったのでは無い。忘れているのだから。 信仰の大盾で、悪い者が放つ火矢を消す事 が出来る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 気づくだろうか。あの思い、この思い、自分で はなく、サタンの火矢だ。頭のスクリーンに自由自在 に映す事が出来、不安、思い煩い、疑いの想像、 妄想をかき立てる。日々悪魔と戦っている事をよく 覚え、サタンからの思いを拒否しよう。
2005年11月12日(土) 「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」(ヤコブ3:15)
「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」(ヤコブ3:15)
私達に入ってくる知恵=思い、情報に要注 意だ。神からのものと、肉欲から、悪霊か ら、この世からのものがある。神以外の ものを受け入れると、正反対の方向に自分 が造り変えられて行く。肉の欲望の声を 聞いて行くと、偽り、虚栄、プライド、貪欲、 妬み等の罪を犯して行く。悪霊は様々なも のを見せ、罪に誘惑してくる。願望に合致 する誘惑だ。願望そのものなので、誘惑だ と気づかない。エバが食べるによく、目に 慕わしくと、ひっかかった誘惑だ。罪へと誘 う。地のものは、テレビや新聞、書物から溢 れ出るこの世の価値観だ。神否定、人間礼 賛だ。ヒューマニズムは一見、善で良心的、 麗しいのでだまされる。しかし、神無しの 人間中心、人が神だ。神以外の思いは拒否す べきだ。何でもかんでも、心に受け入れては ならない。心をしっかり守り見張っていよう。 御言葉を聞き、御言葉に従う時、キリストのよ うに変えられて行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「思い」の源が問題だ。肉欲からの思い、サタ ンからの思い、世の価値観、それを受け入れる と、行動は思いから来るので、行動がそのよう になって行く。今の思いがどこから来ているか。 御霊により気づかせられる。今日も御霊に導か れて歩もう。
2005年11月11日(金) 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Uテモテ3:2)
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Uテモテ3:2)
ある宣教師がいつも言っていた。 「未信者よ、教会へ行きなさいとは 書いてない。クリスチャンよ、出て 行って宣べ伝えなさい」と書いてあ る。「私は福音を恥とは思いません」 とパウロは言った。というのは私達 の心に福音を恥じる心があるからだ。 語る時に躊躇する心、恥じる思いが 来る。その心をそのまま認め、神に 申し上げる時、神が語る力を与えて 下さる。「知恵のある者は人の心を とらえる」御霊の示しと共に行動し 語る事が大切だ。学校で職場で近隣 で、御霊は証の機会をとらえ、その 人の必要に寄り添いながら、相手に 耳を傾け、また、語る事が出来る。 必ず機会がある。常に機会をとらえ 証しを、の祈り心でいる時用いられ る。 ----------------- 「神が死者をよみがえらせるという ことを、あなたがたは、なぜ信じが たいこととされるのでしょうか」と 聖霊に満たされて語ったパウロのよ うに、いつでも時をとらえ大胆に語 りたい。
2005年11月10日(木) 「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(T列王19:4
「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(T列王19:4
エリヤは偶像との大きな戦いの後で、 心身共に消耗しきっていた。そこに イゼベルから命を狙われ、意気消沈 し、極度の恐れに心身衰弱し、もう 死にたいと叫んだ。神はエリヤを責 めずとがめず、休息を与えられた。 十分眠らせ食べさせ、体力の回復後、 主の前に立たせ御声をかけられた。 自分一人孤立との間違った情報を是 正され、新たな使命を与え再び立た せられた。心身消耗状態の時、神は 悔い改めを迫られたのでなく休息を 与えられた。間違った思いを正し、 成すべき事を示された。神がおられ るので、私達には決して絶望はない。 私たちの弱さもご存知で愛しあわれ んでいて下さる。自分の殻にこもら ず、主に心を打ち明けよう。 ------------------- 目の前の現状に押しつぶされそうな 時、神さま!と叫べるのは何と幸せ な事だろう。私たちは孤軍奮闘では ない。休息も神さまからの恵みだ。
2005年11月09日(水) 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(Tペテロ2:21)
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(Tペテロ2:21)
よく知られた例えがある。断崖絶壁の、 人が一人だけかろうじて通れる、危険 な山道で、二人が鉢合わせした。前進 もバックも不可。どうすれば良いか。一 人がひざをかがめ低く伏して、もう一人 がその上をまたいで、二人共無事通過で きた。謙遜の絵だ。全身をかがめ、人 を自分の頭の上を行かせて救う。主が 十字架上でして下さった事だ。神が人と なられ、その身に罪を引き受け、罰を受 けられた。私の罪のために身も心も引き 裂かれて。これが私達に残して下さった 謙遜だ。ちょっとプライドが傷つけられる と怒り狂い、虚栄心に触れると傷ついた とわめき、なんと自我の肥え太った者だ ろう。あの事この事、起こる事態で高慢が 砕かれ、へりくだらされる事が大きな恵み。 ・・・・・・・・・・・・・・ 自分の身に、様々な出来事が起こる。一つ 一つの事態から学ばせたいと思っておられ る。へりくだりを学ばせたいのではないか。 高ぶった者をへりくだった者にと。起こる一つ 一つの事態をよく考えてみよう。
2005年11月08日(火) 「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねてその情欲に従ってはなりません」(ローマ6:12)
「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねてその情欲に従ってはなりません」(ローマ6:12)
金魚を飼うと、金魚が菌で病気に なる事を経験する。それを放って 置くと繁殖するので、水を換え薬 を入れ必要な処置を施す。その菌 は金魚にとって危険であるように、 罪は私達信仰者にとって大変危険 だ。断固たる処置をとらなければ、 こちらが罪に飲み込まれてしまう。 罪はきっぱり捨てなければ、罪を 残してあいまいにしていると、そ の罪は増長して私達を餌食にして しまう。これぐらいと、罪と戯れ ていると大きな傷を負う。ダビデ は以前から弱さがあったはずだ。 バテシバが目に触れた時、その場 を離れる事が出来た。サタンは罪 の一切を伏せて、甘い言葉で誘惑 をする。今あなたに臨んでいない か。目を覚まして祈っている時、 誘惑に気づける。 ----------------- 罪を憎みきれないことをいつも覚 えていたい。これぐらいと罪を受 け入れる自分がいる。小さな罪も 憎まなければ。
2005年11月07日(月) 「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです」(ヤコブ3:16)
「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです」(ヤコブ3:16)
対人関係で、妬みや敵対心がある時、 そういう思いが根にあるので、相手 を避けようとしたり、相手に関わる 仕事や事態にギクシャクして、正常 な秩序を辞してしまう事になる。 表に表わさず心に隠していても行動 がそのようになって行く。 神のみこころをそれて行ってしまう。 ある仲良くやっていた友人同士、一 方が教会で重んじられて行くと、何 かザラザラした思いがもう一方に。 意識に上らないが心がザワザワする。 神の前に静まり心を打ち広げ、神に 心を探って頂くと、心の奥深くに競 争心、妬みが巣くっていた事を示さ れ気づかされた。最初からあったも のだが、認めたくなく、意識の底に 隠していた。悔い改めて自由にされ た。あなたの奥底に妬みは無いか。 --------------- 示される事が一番の恵みだ。心穏や かならぬ思いで人に接する前に底に 隠れている自分の姿をはっきり示さ れる必要がある。その時から祈りが 変わっていく。
2005年11月06日(日) 「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」(Tヨハネ4:12)
「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」(Tヨハネ4:12)
私達の対人関係はどうだろう。時々喜び でなく苦しみを経験する。しかし、一つの 答えがある。それは愛するとは、一生をか けて学んで行くものという事だ。愛はある か無いかといった簡単な薄っぺらいもの ではない。生涯かけて、日々自分を捨てな がら学ぶものだ。ある夫婦が離婚を決め、 牧師のもとへ来た。もう愛が冷めた、愛が 無いと。牧師の答えは、さあ、今から愛す る事を学び始めよう、だった。自分本位な 私達に愛は無い。徹底的に自己中心だ。 それを認める事が始まりだ。自分に、愛が 無いと知る事は祝福だ。愛は神から出る。 愛する事は学んで行ける。自分の内で古 い性質と新しい性質が葛藤しながら、砕か れながら、愛する事に成長して行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 本気で心底、徹底的に自分の内に愛は無 い事を認めた時に、神の愛を知る。プライド はこれを認めない。そこまでひどくないと、 思っているので、神の愛がわからない。
2005年11月05日(土) 「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:8)
「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:8)
タイタニックの映画があったが、もし、あの ような惨事から命からがら助かったとしたら どうだろう。旅行が台無しだ、と言うだろうか。 持ち物すべてを失っても、命が助かった事を 喜び、心から感謝しないだろうか。持ち物な どどうでも良いはずだ。私達はどうか。人生 何が一番大切なのだろう。よく考えてみよう。 自分のプラン、自分の好み、自分のプライド、 満足か。それを主に明け渡す事は、何もかも を失うように思うだろう。とても出来ないと 思うだろう。しかし、実はすべてを得る道だ。 明け渡した時、初めて、主はあなたのすべて になって下さる。一切を損と思えるほどに。 中途半端ほど苦しいものは無い。世でも平安 無く、かといって神の事もよくわからず、世 に帰る事も出来ず、いつも心は平安なく、悶 々だ。神を選んで、前に進む事が解決の道。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 「いつまでどっちつかずによろめいているのか」 主が神ならそれに従い、バアルが神ならそれに 従えと、ある時、「はっきりする」事を求められる。 まず、肉が中途半端でいたい事を「認める」事 から始まる。神は一歩一歩成長へ進めて下さる。
2005年11月04日(金) 「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい」(ヨシュア24:15)
「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい」(ヨシュア24:15)
この世は「自分に正直に」「自分の 決めた通りに、今を楽しく」生きる 事がもてはやされている。しかし、 とんでも無い事だ。自分に正直に、 自分の決めた通りには、肉の思いの ままにという事だ。肉に正直に生き るとわがまま、放縦のし放題になる。 肉の思いを通していくと滅びを刈り 取る事になる。サタンの欺瞞にだま されてはならない。人の目にはまっ すぐに見える道がある、しかしその 道の行き先は死だ。神は侮られる方 ではない。人は蒔いたものを刈り取 る事になる。自分に死んで、肉では なく御霊の方を選び取って行く時、 真に自分が生かされ、喜びがあり、 永遠のいのちを刈り取る。肉か御霊 か、常に選択だ。今日、目の前に選 択だあるだろうか。御霊を選べ。 ----------------- 肉の思い通りの行き方を選択するの 簡単だ。意志も、力もいらない。 転がり落ちるだけだから。でもその 先の滅びから救って下さった主がお られるのだ、御霊を選び取って生き よう。
2005年11月03日(木) 「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(ルカ11:29)
「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(ルカ11:29)
時々、この願いが叶えられたら、神の 実在を信じると言う人々がいる。又、 目に見えたら信じるという人々もいる。 しかし、そうだろうか。主が生きてお られた時代に現に主イエスを目の前で 見ていた多くの人々が信じなかった。 見たら信じるというのは違う。本当の 問題は証拠がない事ではなく、罪深い 心だ。信じようとしない頑なな心だ。 見ても信じない。私達はどうか。祈り が答えられ聖霊の数々のみわざを体験 して来た。にもかかわらず心の底に主 を、御言葉を信じようとしない頑なで 冷たい不信仰がないか。「このような 事によっても、まだあなた方はあなた 方の神、主を信じていない」荒野の民 と同様だろうか。不信仰でなく信仰を 選択する事が大切だ。 --------------------- 満たされてある時は、信仰があるよう でも何事かあると主を脇へ追いやって しまう。そのような不信仰ないだろう か。辛さの中にあっても与えられた約 束と希望を忘れることなく歩んでいこ う
2005年11月02日(水) 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)
友人の属する教会の牧師は、イラクへ 教会設立の手伝いに行き、銃撃を受け、 帰らぬ人となった。危険を承知の上で、 神の導きを確信しての援助だった。一粒 の麦となり、イラクのその設立された教会 には救われる人々が起こされて行った。 母国の教会でも教会員達は深い悲しみの 中でリバイブされ、人々が救われて行った。 私達は、彼のような犠牲を払う機会は無い だろう。しかし、平凡な日常で周囲の人々 のためにちょっとした犠牲を払う事が出来 る。ちょっと譲ったり、自制したり、忍耐 したりだ。日常生活で自分に死ぬ事によっ てだ。愛する人に思いやりの言葉をかけた り、相手の喜ぶ事をして主の愛を表す事が 出来る。あなたは今日、目の前の人にどの ように愛を表せるだろう。それは必ず実を 結ぶ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 抽象的観念的になら世界中でも愛せる。目の 前の小さな具体的な事が肝心だ。自分も疲れ ているが、優しい言葉をかける事、少し時間 をさく事、そんな小さな事だ。必ず潤いと喜 びが流れ出る。今日、意識してみよう。
2005年11月01日(火) 「その命令は重荷とはなりません。神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」(Tヨハネ5:3)
「その命令は重荷とはなりません。神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」(Tヨハネ5:3)
子供は正直だ。言う事を聞かない子供に、 母親が「なぜ言われた事をしない」と言 うと「したくないもん」と言った。 ある人が早朝から深夜まで仕事に追われ ていた。身体もクタクタだった。そんな 日々が続き段々聖書や祈りから遠のいて 行った。多忙過ぎて時間が無いため仕方 が無いと思っていた。やがて移動があり 、時間的余裕のある部署になった。聖書 を読んだり祈りの時が持てると思った。 しかし、そうではなかった。静思の時を 持とうとはしなかった。時間の問題では なく、そうしたくない自分の問題だった。 言い訳や弁解をするが、そうではなくし たくないのだ。神の御前にその事を悔い 改めた時に心新たにされ、心から従って 行きたい志が与えられた。 ----------------- いつも御霊様に満たされていたい。人は 神さま無しでこの世を歩むようには出来 ていないからだ。心をいつも神様に向け よう。