2006年01月31日(火) 「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い者を出します。なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ6:45
「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い者を出します。なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ6:45
人の心は外からは見えない。しかし、 その人がどんな話をしているかで、人 の心はわかる。人は最も心を占めて いる、関心の中心を喋るものだ。霊的 な実を調べるには、その人の語る言葉 を聞けばよい。心に満ちる事を口が語 る。心に何があるかを知るには、語る 言葉を聞けばよい。口は独立している のでなく、心が源だ。口と心は直結だ。 日々どんな言葉があなたの口から出て いるだろう。それがあなたの人格だ。一 言一言には責任がある。言葉を出す前 に心に留めよう。@真実か―灰色なら 口から出すな。A公正か―偏見は無い か、自分の主観で見てないかB有益か― 人を建て上げるかC愛情によるか。 自分の語る言葉によく目を留めると、 自分の心がわかる。否定的言葉が出て いるなら、恐れや不安が心にある。そ こに御言葉を据え、信仰の言葉を発 して行こう。心が変えられて行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 自分の唇からどんな言葉が出ているのか、 今日は「言葉」にしっかり目を留めよう。 自分そのものだ。「舌は火であり不義の 世界」御霊に唇を支配して頂こう。優し さが流れ出て周囲を温めて行けるように。
2006年01月30日(月) 「神は、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Tコリント1:27)
「神は、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Tコリント1:27)
良い証しとは、弱いのに、強く見せ ることだと勘違いしていたりする。 弱いと、能力が無いと、証しに悪い と思い、出来る振りをする。 自分でない、自分を演じることにな る。信仰生活が辛くて、しんどい苦 行、修業のようになる。私たちはど うだろう。弱いままで良いのだ。 そこにこそ神が働かれ、神の力を、 みわざを現されるのだ。信仰生活と は、自分の頑張りが止んで、神を 信頼して生きる生活だ。平安で安 堵の歩みだ。そこには安らぎがあ る。額にしわを寄せて、難行苦行 をして頑張るのではない。弱さの まま、素直に生きることがキリス トを現わす。完璧な人を見る時、 自分とはほど遠い。しかし、弱さ を喜んで感謝して生きている人を 見る時、大きな励ましと慰めとな る。弱さを認めてそのままでいる 時、神がその弱さに働かれ、御力 を現わされる。弱さを隠すのでな く、誇れと言われる。何と安らか な人生だろう。弱いままでよい。 そこに神のみわざを見るのだから。 --------------- 証ししようとすると、どうしても 良い人の振りをする。証しの営業 をしてしまうのだ。弱さをそのま ま受けとめて下さる神様を喜んで いる真の自分をありのまま世に現 そう。
2006年01月29日(日) 「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人にはこの教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているかがわかります」(ヨハネ7:17)
「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人にはこの教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているかがわかります」(ヨハネ7:17)
よくみこころがわからないという。主は 導きの主だ。導こうとされている。問題 は私たちの側にある。御心をと言うが、 実は心の底に、自分ですでに決めた思 いがある。これは気づいていない場合 もある。自分では求めている「つもり」だ。 しかし、主の御前に心を静めて、心を広 げる時、御霊は内側を示して下さる。自 分の思いが妨げている。「〜したい」と いう強い思いがある時、主の心が見えな い。しかし、自分の意志を明け渡す時、 必ず導きがわかる。明け渡すとは「自分 の思い通りでなくて構いません」という事 だ。思いと違っても、受け入れ従うという 事だ。その態度があるなら、必ず御心 がわかる。明け渡している「つもり」が、 実は底に自分の強い思いを握っている。 御霊によく心を探って頂こう。自分の現状、 本当の姿をはっきり認識する事から大い なる祝福は始まる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 思い通りにならない所を通される。自分の 強い思いが粉々に砕かれる。大変な衝撃を 受けるが、その時初めて主が見えて来る。 何にも代えられない主ご自身に出会う。 自分が妨げていた事に気づく。
2006年01月28日(土) 「あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに」(詩篇31:22)
「あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに」(詩篇31:22)
昔、田舎住まいの女性が、用で夜遅く なった。人家の全く無い、真っ暗闇の、 うっそうとした山道に入る時、思わず 恐怖に襲われ足がすくんでしまった。 どうしても足が前に出ない。もうどうにも ならず、その場で心から助けを求めて 主に叫んだ。すると「インマヌエル、主 共にいます」の御言葉が臨んだ。その 時、その道がパッと明るくなったように 感じた。不思議だった。あんなに恐かっ たのに、平安がすうーっと心に広がり 恐怖が消えた。その山道を主の臨在と 共に喜びもって通り抜けた。生涯忘れ 得ぬ経験となった。主を呼び、主と歩も う。自分の力で歩んでいる時は、頼って いない。そんな時、主はそばでじっと見 ておられる。私達の側で「結構です。自 分でします」と主を拒んでいるからだ。 どうにもならない窮地は幸いだ。心から の叫びに必ず答えられる。どんなに愛 されているかを知る。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 「その名はインマヌエル」。喜びや苦しみ の中で、あらゆる時に「主共にいます」、 主が共にいて下さった事に気づく。これ からも一生をかけて、喜び悲しみ、どん な時も「主が共にいます」事を知って行く。 これが幸せ。
2006年01月27日(金) 「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(箴言14:12)
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(箴言14:12)
信仰生活で時々陥る事がある。 それは、自分の思いが強く、自 分の思う道が絶対に最善だと思 い込む事だ。そうすると、他の ものがいっさい見えなくなり、 主の御心が見えなくなる。御心 が見えないので、更に自分の思 いに固執し、思いを通して行く。 肉の目には、まさにまっすぐに 見える。神はあわれみ深く、し ばしば環境を閉ざして、教えら れる。道が閉ざされる時、我に 返り、心を探りながら主の御心 を祈り求める。その時、自分の 思いであった事を悟る。私たち が一番に聞くべきは神の御声だ。 しかし、自分の思いが強いと、 神の御心と誤る。あなたはどう だろう。自分の思いは最善に見 える。しかし、神は環境を閉ざ して語られる。閉ざされたなら、 それ以上に遙かに良い道が別に 備えられているという事だ。 自分の肉の思いで進んでいない か、よく点検しよう。 ------------------ 神様の道がわからない、御言葉 も入ってこない・・・自分の思 いが溢れている時でも神様が静 かに環境を通して導いて下さる 神様の道だけが成ること感謝だ。
2006年01月26日(木) 「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もし、できたら、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができるだろう」(エレミヤ13:23)
「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もし、できたら、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができるだろう」(エレミヤ13:23)
自分の失敗を、環境や相手のせいに する人々を見る。あなた自身はどう だろう。アダムはエバに責任転嫁を した。「あなたが私のそばに置かれ たこの女」と、まるで神が悪いとい わんばかりだ。エバは蛇のせいだと、 蛇に責任転嫁した。自分の罪を決し て認めない。私たちが罪から離れら れないのは、出来ないのでなく、そ うしたくないからだ。その罪の中に いたい自分がいる、心地良かったり、 又、自分を正当化したりしながら。 そんな者であることを認めて、神に 自分を明け渡して行く時、勝利でき る。神はあなたを変える事ができる。 神に不可能はなく、固い岩をも砕く 事が可能だ。環境のせい、人のせい でなく、自分のせいであることを認 めよう。それが祝福の始まりだ。 頑なで自己中心の自分が変えられる。 --------------------- 自分に罪がある事、まず自分が変え られなければならない事を忘れない ように。うまく行かない時、人を受 け入れられてない自分、自分が一番 でいたい自分に気づけますように。
2006年01月25日(水) 「大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった」(ルカ17:15)
「大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった」(ルカ17:15)
癒された九人は大喜びで、世に帰っ て行ってしまった。感謝するために 戻って来たのは、たったの一人だっ た。これほど感謝する事は難しい。 自分の思い通りになると、神など忘 れて、飛んで行ってしまう。又、逆に 自分の思い通りにならないと、それ も愚痴不満で、感謝など出来ない。 自分の欲しいものが手に入らないと 我慢ならない。何と罪深い私達だろ う。感謝は意識しないと出来ない。 感謝は神をお喜ばせし、私達を変え る。この状況で、どこが一体感謝? という時こそ、御言葉に従って、感 謝して行くと、不思議に状況でなく、 神が見えて来る。感謝すると、物 の見方が変わり、自分が変えられる。 前向き、信仰的見方ができて、態度が 変わる。状況に関係なく平安が心に 来る。今、困難な状況にあれば、信 仰によって感謝しよう。状況は変わら なくても、あなた自身が変えられる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 願いは幾らでもするのに、感謝している だろうか。感謝が失せると、恵みが恵み でなく当然となる。すると倦怠、愚痴不 満になって行く。感謝する人に更に感謝 すべき事を増し加えて下さる。今日は恵 みを数えて心からの「感謝」を献げよう。
2006年01月24日(火) 「主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな」(箴言3:11)
「主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな」(箴言3:11)
私たちは誰しも、人から間違いを 指摘されるのが好きではない。 素直に受け入れることができない。 認めたくないのだ。しかし、心を 頑なにするなら、ますます反対方 向に向かってしまう。ネジで経験 した事がないか。たまに方向違い のネジがある。幾ら回しても、ど うやってもだめで、諦めかけた時、 反対方向に回すと、いとも簡単に 開く。自分の間違いを認めない時 は、このようだ。聖霊の罪の示し に悔い改める事をせず、心を頑な にするなら、ますます心が固くな り、反対方向、罪の方向へ向かう。 神の叱責に耳を傾けよう。どんな に失敗しても、自らの罪を認める なら、方向変換し、再び正しい方 向に歩める。向きを変えればよい のだ。いつでも可能だ。しかし、 その邪魔をするのがプライドだ。 プライドが過ちを認めさせない。 取り返しのつかない事になる前 に、プライドを捨て、間違いを 素直に認めよう。 ------------- プライドに振り回されて人生を 無駄にしてしまわず、少しでも 変わりたいという思いで生きて みよう。神様が罪を次々と示し て下さる。
2006年01月23日(月) 「わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない道を通り行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの道を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない」(イザヤ42:16)
「わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない道を通り行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの道を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない」(イザヤ42:16)
聖書に放蕩息子が出て来るが、世 の価値観、常識、培われた古い価 値観だと、私たちは、だいたい兄 の方だ。放蕩三昧で戻り、宴会と は何事か。どの面下げて帰れるの か。すぐに許すのは甘い。本人の ためにならない。社会はもっと厳 しい・・と、無条件の父の愛が理 解できない。世の常識では甘いと しか見えない。無条件などわから ない世界だ。神の愛は見たことも 聞いたことも無い愛だ。この世の 愛はすべて条件付きゆえ、今まで の価値観では測れないのだ。全く わからない。「彼らの知らない道」 だ。この神の愛を、御霊により、 御言葉により、互いに愛し合うこ とにより知って行けるとは、何と いう幸い。神はその愛を教えるた めに、盲人の手を取って、まだ知 らない通り道へ連れて行って下さ る。一生をかけて、この愛の高さ 深さ広さを知って行けるとは、何 という喜び。 ---------------------- 知らない道を歩んでいる盲人の私 達も、神様の全き守りの御手にひ かれている。古い価値観に引っ張 られ悪戦苦闘するのではなく、今 週も喜んで御霊様に従おう。
2006年01月22日(日) 「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」(ルカ24:15)
「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」(ルカ24:15)
主が十字架で死なれ、失望落胆して、 肩を落として、なすすべなく郷里へ引 き揚げるエマオ途上の弟子たち。復活 を信じていたなら、エルサレムにとど まっていたはずだ。そんな弟子たちに、 主の方から近づいて下さった。不信仰 を再び、信仰へと燃え立たせるために。 悪魔の大きな武器は「失望」だ。失望 は、信じて行こうとする気力を奪ってし まう。あなたは、今、落胆しているだろう か。今、主があなたと共に歩いておられ る。心の何もかもを、失望を、落胆を、 主に打ち明けるのだ。主は話している ことは何かと問われた。あなたも心の 内を語るよう求めておられる。悲しみ、 苦しみ、不安を主にことごとく語れ。主 はすべて受け留め、新たにして下さる。 目が開かれた弟子たちは、すぐにエ ルサレムに戻って行った。あなたも新し い力を与えられて、みこころを行うため に戻って行ける。失望が希望に変えられる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 失望が入ると主を見失う。その失望を主 に語ろう。心の内を語るのだ。これが大切だ。 今、そばにおられ一緒に歩いていておられる。 不信仰を信仰に変えるために、助けようと 来て下さっている。
2006年01月21日(土) 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します・・私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(Tヨハネ4:18)
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します・・私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(Tヨハネ4:18)
夫を愛しているのに傷つけてしまい、 悩んでいる女性がいた。夫の言動や 態度にいら立ち、どうしても攻撃的に なり、屈折した反応をしてしまう。心を 探って行った時、自分の内に、小さい 時に、親に捨てられた傷があり、それ が恐怖となり、夫に見捨てられるので はと、常に不安にさいなまれてたのだ。 自分が神の愛よりも、恐れに飲み込 まれ、支配されている事に気づいた。 恐れの方を受け入れ、支配を、許して いるのだ。あなたも恐れが神の愛より 大きいか。神にあなたの不安、苦痛を ことごとく打ち明け、神に委ねるのだ。 神は癒し主であり、過去の傷を完全に 癒すことがお出来になる。神の愛があ なたの恐れを取り除く。そのためには、 あなたがきちんと神に向き、自分にも 向き合い、現実の姿を認めることだ。 神の愛はあなたを癒し、包み込む。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 愛は恐れからは決して出て来ない。どう すれば恐れが無くなるのか。神の愛が恐 れを締め出す。神の愛に包まれ満たされ ることだ。まず心の底の不安や思い煩い をことごとく、主に打ち明けよう。そこ から始まる。
2006年01月20日(金) 「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず・・」(ローマ1:21)
「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず・・」(ローマ1:21)
福音を伝えたり、証しをする時に経 験すると思うが、多くの人々は福音 を聞こうとしない。心を閉じて、拒 む。なぜか。私たちには罪があるの で、生まれつき神に敵対するのだ。 罪の性質は、神を嫌悪し、憎む。人 は真理がわかったからといって、信 じるわけではない。本心は信じたく ないのだ。自分が神となり、誰にも 指図されずに、自分の思いの通りに 生きたいのだ。エバが受けた誘惑で あり、選択した事だ。人は、自分の 上に主人を持つ事を拒む。従わなけ ればならないから嫌なのだ。救いは 奇跡だ。人が罪を認め、神を信じる ことが出来るのは、聖霊の働きであ り、まさに神の力だ。神の超自然の 力の働きだ。聖霊の働きを信じて、 福音のメッセージを伝えよう。福音 によって人は救われる。愚かに見え るが、神がそう定められたのだ。 奇跡が起こる。信じる人が起こされ る。それは永遠に至る尊い働きだ。 ----------------- 自分が人より少しばかり素直であっ たので信じたのでは無い。救いは 神様からの恵み一方的な奇跡だ。 奇跡を信じて福音を伝えよう。
2006年01月19日(木) 「偽善者たちのように、してはいけません。彼らはすでに報いを受け取っているのです」(マタイ6:16)
「偽善者たちのように、してはいけません。彼らはすでに報いを受け取っているのです」(マタイ6:16)
主は罪人を愛されたが、偽善者を 弾劾された。蛇、まむしの末、白 く塗った壁と。主の近くに、ずっ とパリサイ人もいた。私たちも、 御言葉の物差しを人に向け、さば いてしまう、それはサタンの罠だ。 御言葉は自分にだけ向けるべきだ。 自分の事としてだけ聞くべきだ。 人に向けた途端、恐ろしい高慢と さばきの罠に陥る。私たちはよく すり替えをする。「人々が負担だ から」そうではなく、自分が負担 なのだ。この手の偽善が日常にな いか。まっすぐ主に、「私は負担 です」と言えばよい。主は受け止 めて下さり、良きに導いて下さる。 又、霊的な、信仰深い振りはない か。信仰薄い者ですと、まっすぐ に主に行くなら、信仰を与えて下 さる。人前に生きる偽善に注意し よう。人に自分を良く見せたい誘 惑だ。信仰深く、良い人に見られ たい。それを続けると、神から離 れ、暗闇に陥る。どんな時も正直 でいよう。 ---------------------- 偽善を許していると自分に自分が 欺かれてしまう。幸せな振り、光 の中を歩んでいる振り、敬虔な振 り、いつのまにか主との交わりか ら遠くはなれ暗闇を歩いてしまう。
2006年01月18日(水) 「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)
「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)
ある人、職場で相手が何か気に障っ ているようだが、わからない。 「何か私が悪いことをしたのなら、 ごめんなさい」と言うと、相手の機 嫌が直った。こればかりは相手のあ ることであり、すべての対人関係が 思うようになるとは限らないし、解 決するとも限らない。こちらでどん なに平和を保ちたいと、願っても、 相手がそうでないことがある。その 場合は、「自分に関する限り」なの で、こちらでなすべき事をしたのな ら、神に委ね、平安でおればよい。 神は平和を望まれる。対人関係で争 いがある時、あなたを平和の子とし て、職場に、家庭に、隣近所に平和 をもたらすために、用いられる。 肉は侮辱に対しては何倍にもして復 讐したい。しかし、神の御心は復讐 せずに、祝福する事だ。心の恨みつ らみは、神にぶつけるなら、神は受 け止めて下さり、平安に代えて下さ る。いつの場合も人にでなく、まず 神に向かうことだ。 ---------------- 肉の思いならあちこちの人間関係は 泥沼だ。神様の平安をいただいて、 私達だけでも平和の遣いとして世に 出よう。いつもゆったりと人に接す る事が出来るのは、何という幸い。
2006年01月17日(火) 「軽率に話して、人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす」(箴言12:18)
「軽率に話して、人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす」(箴言12:18)
身体の傷は癒えるが、言葉による傷、 心の傷はずっと残る。深い傷をつくり、 一生引きずってしまう。人を殴ると傷 つける。言葉は身体でなく、心に血を 流させる。見えないだけに、言葉の持 つ大きな力を、よくわきまえる事だ。 子供みたいな大人は、自己中心でプラ イドが高い。プライドゆえ、ちょっとした 事ですぐ傷つく。しかし、人には剣で刺 す言い方をする。知恵ある人は御霊 に支配されるている人だ。その人といる と心癒され、周囲に安らぎをもたらす。 争いのある所に平和をもたらす。まず この事を言うべきか、又、言うにしても その言い方が大切で、気持ちが愛が必要だ。 御霊に導かれる必要がある。そのた めには、日々主との交わりが大事だ。 主の教えを喜びとして行く時、主の喜ば れる言葉を、発する者とされて行く。親切 な一言は相手を生かす。今日も、愛情を 言葉できちんと表現しよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 恐れに襲われる時、意気消沈で沈没状態の時、 不安と思い煩いで一杯の時、主の一言で光が 射し、指針と確信が来る。言葉にいのちがある。 今日、特に言葉に目を留めて、親切な一言を 心して実行できますように。
2006年01月16日(月) 「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」(ゼカリヤ4:7)
「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」(ゼカリヤ4:7)
神殿の再建工事を行うゼルバベルの 前に、敵対する民の妨害がある。目 の前の大きな山に、同胞たちも希望 を失い、気力を失っていた。意気消沈 していたゼルバベルに、ゼカリヤを通 して、神が語り、奮い立たせられた。 ゼルバベルは立ち上がった。「恵み あれ・・と叫びながら、かしら石を運び 出そう」。かしら石とは、建築最後に 置く完成の石だ。彼の手がそれを完 成すると、神殿完成のビジョンを見せ られた。あなたの前にも、気力がくじ かれるような、大きな問題の山が立 ちはだかっているか。神が平地とし て下さる。「恵みあれ」とあるように、 私たちの思い、能力によってでなく、 恵みによってだ。御霊が語りかけ、 知恵と導きを与え、あなたの問題を 解決して下さる。そびえ立つ難題を 平地とされる。神に祈り、導きを 求めよう。解決の糸口が示される。 ・・・・・・・・・・・・・ 目の前にある難題を感謝しよう。そして 主がどのように解決して下さるか楽しみ に期待しよう。思い煩うのでなく、信仰 を主に献げよう。平地とされてみわざを見る。
2006年01月15日(日) 「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか」(ゼカリヤ4:10)
「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか」(ゼカリヤ4:10)
自分は余りにも小さな者だと思うだ ろうか。しかし、神に自らを献げる なら、あなたの遣わされた場で、家 庭で、職場で、学校で、あなたは 神のために用いられる。その日とは 神殿着工工事だ。ゼルバベルの働 きは無意味だと言う人々がいたので、 決してそうではなく、「彼の手がそ れを完成する」と言われたのだ。 「権力によらず、能力によらず、わ たしの霊によって」と。小さな事で はない、人間的な力ではなく、神の 力が働くのだ。そうであるからには、 必ず成し遂げられる。あなたがどん なに無力でも、あなたの力によらず、 神によるのだから。あなたの人生の ビジョンは?遣わされた場でのビジ ョンは?神に求めよう。神は語り、 ご自身の手で成就される。「必ず、わ たしの望む事を成し遂げ・・」。それ ぞれ働きは異なるが、遣わされた場で 用いて頂こう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 力無く、何も出来ず、無意味に思えそう になるが、能力によらず、わたしの霊に よってと言われる。目の前の障害の山 は平地となれと。乗り越えて行ける。目に 見えるところでなく、信仰によって見て行 こう。ご自分の約束を成し遂げられる。
2006年01月14日(土) 「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがその通りになるまで、主のことばは彼をためした」(詩篇105:18)
「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがその通りになるまで、主のことばは彼をためした」(詩篇105:18)
弟子達は主のみこころにより、舟に乗り 込み大嵐に遭った。御心に従った結果、 試練が来た。私達も御心に従い、踏み 出した途端、自分の思いと全く違う事態 になる事がある。御心に従っているのに、 何もかもうまく行かない。どうなっている のかと戸惑い、いぶかる。しかし、神のご 計画は着々と進行している。信仰が試さ れているのだ。時々わかりにくいが、しか し、神の計画は常に最善。なぜか御心に従 うなら、すべてスムーズに行くはずと思い 込んでいる。だが、どんどん問題が起きて、 わけがわからなくなる。あのヨセフの足か せのようだ。あなたを悩ませ、つなぎ、か せのように感じるだろう。私達は綺麗な刺 しゅうの裏側しか見えない。糸がからまり グチャグチャだ。しかし、神は素晴らしく 綺麗な表を見られ、計画通りに進めておら れる。状況は大嵐でも御言葉に立とう。や がてすべてが静まり、ご計画の通りにおさ まって行く。今、あなたの信仰が試されて いる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 信仰は必ず試される。状況はしばしば思い 通りでない。だからこそ「信仰」を使い、 神がこの事態を良くして下さる事を「信じ る」。信仰は鍛えられ成長する。幸せで楽 しいだけなら、この「信仰」を働かせる必要 がない。試しは痛いが、結果的に大きな祝福。
2006年01月13日(金) 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」(イザヤ55:8)
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」(イザヤ55:8)
自分の思いには、よく気をつけなけ ればならない。エバが受けた誘惑は、 「神のようになり、善悪を知るよう になる」というものだった。悪だけ でなく「善」も知るわけだ。 ストレートな悪は簡単で罪だとすぐ わかる。が、肉は神に逆らうだけで なく、神を喜ばせようと、「善い」 事もする。神からの志と、肉の自分 の思いからの志がある。何が神から であり、何が自分からものか、よく 祈って神を待ち望む必要がある。 悪は簡単に見分けられるが、「善」 に宿る自分の思い、肉を見分ける 必要がある。神の思いと自分の思い は、しばしば異なる。しかし、自分 の思いとは違うが、神は常に最善を して下さるのだ。自分の思い通りで なくても、神のみ思いに自分を明渡 す事が最善の道だ。 --------------------- なかなか決めかねている時、やはり 握って放せない肉の思いがある。 それを善と言い張る自分がいる。 明け渡そう。それしか導きはわから ない。
2006年01月12日(木) 「しかし、もしあなたがたの心に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります」(ヤコブ3:14)
「しかし、もしあなたがたの心に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります」(ヤコブ3:14)
妬みには凄まじい力がある。自分 が喉から手が出るほど欲しいもの、 心の一番強い願望、それらを持っ ている人に向けられる。自分に関 心の無いものを妬む事はない。 妬みは強烈なエネルギー、罪の性 質だ。相手を自分の歪んだ目で見 るため、避けたり、又は巧妙に見 えない形で傷つけ攻撃する。そこ には秩序の乱れと邪悪な行いがあ る。これは肉に働くサタンから来 ている。この思いに動かされると、 周囲にも悪影響を与え、秩序を破 壊して行く。神の栄光でなく、サ タンを現し、害毒を流して行く。 ヨセフは兄弟たちから、ダビデは サウルから、主は祭司長たちから 妬まれた。抹殺したいと思うほど の力が妬みにはある。皆、この罪 の性質を持っている。自分にある なら認めよう。赦され解放される。 あなたには心の奥に人知れぬ罪は 無いか。 ---------------------- 心がざらつく思い、ねたみは気が つくとすぐに神様に対処していた だこう。サタンの足場となり自分 も人も傷つける。
2006年01月11日(水) 「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません・・あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:30)
「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません・・あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:30)
ある男性が過労状態の中、夏季休 暇が取れた。休息の時を大喜びした。 ところが、休暇に入るや、バッグを紛 失。書類、財布、免許証、カード類の すべてが入っていた。即、対応に奔走。 気落ちし、心身消耗し、疲れ果てた。 幾ら休日があっても、心に平安が無け れば、休息になどならない事を思い知 らされた。生活も心もかき回され「一体 これは何だったのか?」と祈った。色々 な御言葉が心に浮かんだ。偶然でも不 運でもなく、主の支配と愛の中での出 来事である事が示された。これが益と される事、計画がある事、災いではなく、 平安と将来のためのもの、神と御言 葉に焦点を当てた時、心がスッーと 平安になった。あなたも今、混乱状態 にあるか。祈ろう。状況は変わらなくて も、神に向くなら、必ず心が変えられ 平安になる。 ・・・・・・・・・・・・・・ 今年も様々な事が起こるが、父のお許し なしには一つも起こらない。何があって も、状況でなく、神に焦点を当て、御言 葉で心を満たされるなら、どんな中でも 心に平安が来る。「信仰」の眼鏡で事態 を見て行こう。
2006年01月10日(火) 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)
40日40夜の断食の後、主は空腹 を覚えられた。ある人が祈ろうと断 食をした。しかし、お腹がすいて、 もう止めようか、いやもう少し頑張 ろう、だが、お腹がすいてたまらな い・・。そんな思いが巡り、祈りどこ ろではなかったと。主は私たちと全 く同じ肉体をとられ、主も空腹にな られた。同じ所を通られた。断食の まっただ中で、悪魔の凄まじさが見 えて来る。悪魔の声が大きく響く。 石をパンにして腹を満たせば良いの だ。救われるじゃないか。現実問題 を見よ。御言葉があっても、空腹は 満たされない。これが悪魔の欺きだ。 又、パンとは私たちの欲望だ。名誉、 地位、富、人からの賞賛、愛する人、 自己実現・・しかし、自分の欲望を 満たせば幸せを得るのではない。ま すます渇くのだ。何によっても決し て満たされる事がない。神の言葉に 従い、神と一つに生きることが真の 心の満たしだ。真の充足感を得る。 --------------------- 自分の思いで生きているならますま す渇く、これは経験済みだ。御心に かなった歩みをするために、今年も デボーションが祝福されますように。
2006年01月09日(月) 「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません」(詩篇38:9
「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません」(詩篇38:9
礼拝で説教を聞いた時、求めていた 答えを得た経験があるだろう。ある 時は、デボーションの時であったり、 学びや交わりの時であったり、突然、 目の前の問題が解き明かされて、答 えがわかったりする。神はどんな小 さな祈りもないがしろにされず、答 えて下さるのだ。求めを神に祈り、 耳を澄ましていると、どこからか答 えが来る。聖書、信仰書、兄弟姉妹 の証し、牧師、指導者の助言を通し てなど様々だ。ある海外宣教師は、 宣教地を祈りに祈っていた時、ラジ オから流れて来るニュースにより、 その地の状況を知り、重荷を与えら れ御心の地だとわかった。導きを求 める魂に答えて下さる。あなたも今、 御心を求めているか。神によく祈っ て、しっかり耳を澄ましていよう。 御言葉がどこからか必ず与えられる。 ------------------- 神様は真実だ。祈りを必ず受け止め ていて下さる。願いも嘆きもすべて ご存知だ。窮することも行きづまる こともない。必ず御心に導いて下さ る。
2006年01月08日(日) 「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」(Tヨハネ2:16)
「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」(Tヨハネ2:16)
サタンは、この世のもので私たちを 誘惑し攻撃して来る。肉の欲は自分 の思い通りにしたい誘惑だ。これは 根深く私たちの内にある。エバへの 蛇の誘惑は、神を捨てて自分が神に なる事、思い通りに生きる事だ。それ を選び、神を捨て、自己実現、自己 貫徹に生きる者になった。自己中心、 まさに自分が神だ。今のこの思いは 肉か、神からのものか、いつも祈り心 が大切だ。自分の思いと神の思いは しばしば違う。目の欲は自分を印象 づけたい、自分が中心になりたい誘 惑だ。悪魔は狡猾。目立たないように、 控え目に、しかし、根にある思いは自 己顕示だ。自分が認められたい、評 価されたい、これは悪魔の誘惑だ。 今、この事をしているのは、神のため か、自分が賞賛を受けたいからか。神 は外側でなく「動機」を見ておられる。 ・・・・・・・・・・・・・・ 御父からでなく、この世から出たものに 気をつけよう。神からそれて正反対の 方向へ私達を連れて行く。今、「自分、 自分」の誘惑が来ていないか。気づく 事から始まる。
2006年01月07日(土) 「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)
「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)
試練は必ず痛い。又、トンネルの中な ので、先も見えないし現在もただ真っ暗 に感じる。しかし、後になると必ず通っ て良かったと思える。実を結ぶ。自分の 犯した過去の失敗、罪をも「感謝」に変 えられる。それは罪が完全に赦されるか らだ。100%の赦しを自分が受け取る時、 感謝に変えられる。教会にある方が来会。 過去に幾度かの自殺未遂、どうしても死ね なかった。薬物にも手を出した。しかし、 神の愛を知った今、過去の苦しみ、失敗も すべてが「感謝」だと。心から感謝であり、 感謝しかないと。それは神が心を癒して 下さるということだ。その時、すべてが 感謝に変わる。試練は高慢を砕いてくれる。 高ぶっていた者をへりくだった者に変える。 自分の力と自分の思いで歩む者を、神を 頼る者に変えられる。心底神に叫び、求 めることが出来るのは、苦しみの中でし かない。痛いが、試練は大きな祝福だ。 ・・・・・・・・・・・ 渦中は苦しいが、必ず通って良かったと思 える。その事があったから今の自分があり、 この幸せがあるとわかる。もし無ければど んなに欠落した者になっていただろう。 試練は私達の本当の幸せのためだ。
2006年01月06日(金) 「神よ。私を探り、私の心を知ってください」(詩篇139:23)
「神よ。私を探り、私の心を知ってください」(詩篇139:23)
家庭には、ゴミに等しい不用品が山のように あるだろう。大掃除をする時にこんなにゴミ がと、明らかになる。では、私たちの心の中 はどうだろう。不用なものだらけではないか。 なおざりにし引き延ばし、悔い改めていない 罪はないか。密かな憎しみ、妬みやプライド、 認めたくなくて、ふたをして心の底に隠して いないか。誰かとのギクシャクした関係がそ のままになっていないか。平安の無いままだ ろうか。礼拝前に和解すべきだ。何かざらつ いた心があるなら、必ず神に探って頂こう。 心の奥に何かがある証拠だ。よく自分で全く 気づいていない。自分の心は自分が一番わか ると思っているが、そうではない。普段、無 意識でいる事も多い。見たくないので意識下 に閉じこめている。神がご存じだ。傷がある かないかを見て、いのちの道に導いて下さる。 --------------- ぼーっとしてると、つい自分の善悪の判断が 作動し気分が浮いたり沈んだりしている。 なぜ沈んでいるのか、心に平安がないのはな ぜか、神様に探っていただく時、自分を善と している自分を示されたりする。
2006年01月05日(木) 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16)
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16)
ある女性が、次々臨む試練にパニッ クになり、苦しみを聞いてもらって 発散させたいと、知り合いに電話を かけまくった。まず、牧師夫人にか けると留守だった。親しい教会の女 性にかけると、又、留守録。 5人に順番にかけたが、何と全員留 守。ここに至って、前回の学び会で の学びに気づいた。祈りについての 学びの中で、何があっても、まず 「わたしを呼べ」と言われる神に祈 ること、神を頼り、神のもとへ行き、 心の内をさらけ出して祈ること。 そうだ、神のもとへ行けと言ってお られる、それで人を閉ざされたのだ。 その時、神にまず祈ろうと、祈った。 すると御霊に導かれて祈れた。 心を注ぎ出して必要のために祈れた。 すると、すぐに答えられて、必要が 与えられたのだ!人に頼るのでなく、 まず第一に神に頼ること実行しよう。 ----------------------- 神様に祈らずには、何事も出来ない と常に覚えていよう。ひとつひとつ、 日常の些細な事も主に委ねながら歩 む時、あざやかな神様の助けを経験 する。
2006年01月04日(水) 「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」(Uコリント4:8)
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」(Uコリント4:8)
ある教会学校の教師が、悶々としてい た。ある男児が乱暴で、反抗的なのだ。 妨害するし、他の子供に喧嘩はふっか けるし、どうしてよいかわからず、祈っ ていた。すると「途方にくれても、行き 詰まる事は無い」との神の励ましを受け、 必ず道が備えられているとの確信が来 た。導きを求める中で、家庭訪問を示 された。母親に会った時、彼の現状を 知った。離婚し、母親は夜遅くまで働き、 彼は夜も一人で過ごしていた。寂しい思 いをさせて心痛んでいると、母親は語った。 彼の状況が理解でき、愛情で心が一杯 になるのを感じた。彼を受け入れ出すと、 途端に心開いて来た。突っ張っていただ けで、根は素直な子供だった。彼は変わ って行った。あなたにも、今、何か問題が あるか。途方に暮れていても、決して行 き詰まる事はない。必ず打開策が備え られている。導きを求めて祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ どうして良いかわからない状況に陥る時も、 決して行き詰まる事はない。必ず道がある。 主は道なき所にも道を造って下さる。まず 心を注ぎ出して祈ろう。祈って祈り込むなら、 この苦境をどうして下さるのか楽しみにさえ なってくる。
2006年01月03日(火) 「あすのための心配は無用です」(マタイ6:34)
「あすのための心配は無用です」(マタイ6:34)
今日、多くの思い煩いを見つけ る事が出来る。様々な暗い社会 的事件、戦争、不況、病気…。 私達はしばしば、将来に何が起 こるかを心配する。明日を心配 し、老後を心配する。しかし、 私達に未来の事は絶対にわから ない。明日も決して知る事は出 来ない。過去をくよくよしたり、 未来を煩うのでなく、今、現在 の事にひたすら集中するなら、 どんなに物事を成し遂げる事が でき、又、喜びと平安に過ごせ るだろう。この瞬間を生きる事 の方が遙かに大切だ。神は今日 なすべき事を与えられている。 過去と未来を思い煩うなら、今 日をつぶしてしまう。思い煩い は「揺り椅子」のようなもの。 行ったり来たりを繰り返すだけ で、どこにも連れて行かない。 主は心配するな、いっさいの心 配は無用と、何度も何度も言わ れている。 ------------------- 神は私達の将来をわざわいでは なく平安と将来と希望を与える と約束して下さっている。まだ 見ぬ明日にくよくよせず今の恵 みを感謝して歩もう。
2006年01月02日(月) 「イエスは答えられた。『あなたは自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。』」 (ヨハネ18:34)
「イエスは答えられた。『あなたは自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。』」 (ヨハネ18:34)
ピラトがイエスに尋ねた。「あなたは、ユ ダヤ人の王なのですか」。イエスは質問で 答えられた。「あなたがそう言うのは、自 分の考えからか。それとも他の人々が、私 の事をあなたにそう言ったのか」つまり、 「ピラト、あなたは救い主を個人的に求め ているのか。それとも、それは単に私につ いて聞いた事なのか」。主は、あなたに尋 ねておられる。「本当にあなたは、私を知 りたいのか」イエス<を>知ることと、イ エス<について>知ることとは決定的に違 う。イエス<を>知ることは、個人的直接 的関係だ。それは、私の救い主、私の主と して、イエスに自分を明け渡す事から生ま る。イエス<について>知るとは、頭で知 識的に知る、間接的関係にすぎない。そこ に個人的関わりは無い。あなたの主との関 係はどうだろう。個人的なものか、それと も牧師からメッセージを聞いて、知ってい るだけか。 ・・・・・・・・・・・・・・ 今年主との個人的関係を深めよう。明け渡 す事から始まる。個人的に主を知れるのは 自分が明け渡した領域だけだ。自我は絶対 に明け渡さないが、そこにこそ大きな喜び と満たしがある。示されているものを明け 渡して前に進もう。
2006年01月01日(日) 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)
心を、騒いでいる事柄の上に置かず に、神の上に置けということだ。不安 なその事柄の上に置く時、心が騒ぐ。 しかし、心配事の上でなく、神の上に 置くなら平安が来る。平安は平穏無 事な環境からではなく、神を信頼する ところから来る。幾らでも心を騒がす 事態は起きる。次から次へと来る。 一日たりとも心安らげない事になる。 イラ立ったり、恐れたり、思い煩った り、すべて環境次第であり、環境に ほんろうされる事になる。しかし、神 の上に心を置き続けるなら、様々な 事柄の中で平安でおれる。山積みの 仕事の中でも、困難の中でも、神に心 を置こう。神は解決を持っておられ、 その問題はすでに解決されている。 神に委ね、心を騒がせないで、神を信 じていよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 問題を心の内で反すうし、繰り返し、繰り 返し見つめ、落ち込んで行く。その目を神 に転じ、御言葉を反すうし、繰り返し繰り 返し噛みしめるなら、心に平安と落ち着き、 御霊から来る喜びを経験する。