2006年02月28日(火)

「健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合のよいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ・・」Uテモテ3:3


聞きたくない御言葉、素直に聞け
ない心に引っかかる御言葉は「な
ぜなのか?」を探る必要がある。
その中にあなたが気づいていない、
問題があるからだ。本当は薄々分
かっているから聞きたくない。
問題を見たくないので、あいまい
にし、見ない振りをする。自我に
とっては嫌で、痛い。その問題が
明らかになった時、神に従うのか、
自我に従うのかで、実を結ぶかど
うかが決まる。薄い岩地に芽が出
たが、日が上ると枯れてしまった。
罪を犯した時、世間体と体面のゆ
えに知られるのを恐れて、自分の
内にあるその原因、根源を突き詰
めず、表面だけを取り繕う。
こうすると、同じ罪を再び犯す。
根にそのままあるからだ。そいう
いう問題を起こす弱さが内にある
わけで、それを自分できちんと知
り、認め、主に対処して頂く必要
がある。光により、真実があらわ
にされ、不純物が除かれ聖められ
る。それは自分では出来ない。
見たくないゆえ、わざわざ蓋をす
るのだから。
---------------------
なぜ耳が痛いのかよく自問して行
くとそこに捨てなければならない
自我があることがわかる。自我を
砕いていただくべく、主に差し出
すか、闇に押し込め先送りにする
のか・・よく考えるべきだ。


2006年02月27日(月)

「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」マタイ26:7



香油は非常に高価なもので、300
万円以上した。それは、結婚のため
のものであり、女性には大切なもの
であった。マリヤはそれを惜しげも
なく、一部を取っておこうともせず、
喜んですべてを献げた。私達はどう
だろう。自分にとって価値ある大切
なものを、喜んで差し出す用意があ
るだろうか。一人一人石膏のつぼは
異なる。ある人は富、ある人は才能、
名誉、地位、又、労力や時間、若い
生涯、又、残された生涯かも知れな
い。自分の好みや、居心地の良い場
所、人により様々異なるだろう。
その大切なつぼを砕くつもりはある
か。神はそれを「わたしの手に委ね
よ。あなたが『これだけは絶対に放
せない』と思っているそれこそが、
逆にあなたを苦しめ、妨げている」
と言われている。それを献げた時に、
神は大いなる祝福の道を備えて下さ
っている。あなたの妨げとなってい
るものは、何だろう。
-------------------------
自分が握っているものをさぐってみ
よう。砕くために神様は事あるごと
に示して下さっているはずだ。
つぼを砕き、かぐわしいクリストの
香りを放つ者になれますように。


2006年02月26日(日)

「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか」使徒5:4

アナニヤ夫婦は、バルナバが土地を売り、献
げた時、皆が賞賛するのを見た。バルナバや
献げた人々には信仰があった。すべてを献げ
たのだから、必要がある時は、主が与えて下
さると。だから全部献げる事が出来た。しかし、
アナニヤ夫婦には、そこまでの信仰は無かっ
た。もし不意の支出が必要になったら、病気
になったら・・と考えると不安で、全部を献
げる事は出来なかった。しかし、信仰深いと
いう賞賛が欲しい。人から認められる事、賞
められる事を求めた。それで全部の振りをし
て、人々を欺いた。これは悪魔の罠だ。信仰
がなければ、信仰のない自分で良い。神が
成長させて下さる。一部を献げようと思えば、
それで構わない。神は責められない。自由だ
と言われる。振りをする事が罪だ。神を欺く事
だと言われる。人前に自分を作ってしまう。
悪魔の誘惑だ。よく心して正直でいよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
無いものは無いで、正直でいよう。主は無い
と自ら認めるところに与えて下さる。有る振
りをしていると、有るのか無いのか、自分で
わからなくなり、認めようがなくなる。


2006年02月25日(土)

『主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています」』(ルカ10:41)

マルタの働きは必要であった。食事の用意
も滞在のお世話も大切だ。誰かがしなけれ
ばならない大変な仕事だ。では、何がマル
タの問題なのか。マルタは主をもてなそう
とし、喜んでもらいたかった。しかし、彼
女の思い通りにだ。自分の思い通りに準備
し段取りし人を使い、仕切った。だから、
主にすら、マリヤに自分を手伝わせるよう
指図したのだ。マルタは主をもてなし、万全
の備えをしようとしたが「自分が」「自分が」
の、自分のやり方自分の力によってであった。
ここが間違っていた。良い行いという形の
自己主張になってしまう。良いものに隠れて
いるのでわかりにくい。私達も間違ってしま
う。相手のためと言いつつ、自分の思いを
押しつける。相手のためと思うが、実は自分
のためだ。自分の思いが大事であり第一だ。
相手のためだと思っているので気づかない。
親が子によくやってしまうパタンだ。主の
御心が大切、自分の思いが先立っていない
か。
・・・・・・・・・・・・・・・・
主のためにと、良かれと思い、自分の思い
でしてしまう。良かれとの思いに隠れて気
づきにくい。しかし、主から離れて、自分
の力でしているので、思い煩いといら立ち
で一杯だ。御霊に導かれ主と一つに動くな
ら必ず平安だ。


2006年02月24日(金)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(詩篇51:17)


古い性質が一番言いたくない言
葉が「ごめんなさい」だ。
「ごめんなさい」を回避するた
めには、何でもする。自らの非
を認め、謝罪する事を絶対にし
たくないのがプライドだ。罪の
性質だ。あらゆる言い訳、弁解
を思いつき、ごまかし、狡猾に
自分を正当化する。ある家庭で
床にあったコップを夫が誤って
こぼした。「誰だー!こんな所
に置いたのは!」と頭ごなしに
怒鳴り、妻はムッとする。
険悪な空気になる。誰が置いた
にせよ、不注意でこぼしたのは、
紛れもなく自分だ。自分に関す
る事、自分のした事はきちんと
認めて、責任を取る事は神のみ
こころだ。
夫が「私の不注意だ。悪かった
ね」と言うなら、妻も「いいえ、
置いた私が悪い」となる。
一人がへりくだるとその場の空
気が変わる。家族が朝の支度で
急ぎ、皆がイライラトゲトゲし
い。一人が「あ、ごめん、ごめ
ん」と言った瞬間、ふっと空気
が和らぎ、そこに潤いと温もり
が生まれた。
----------------
「ごめん、ごめん」と言うたび
に砕かれて行く。自分の立場ば
かり押し通し、相手を砕きなが
ら歩んでいく事に何の喜びがあ
ろう。


2006年02月23日(木)

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)



観念的、抽象的に愛する事は簡単
だ。全世界の人々でも愛せる。
全く現状も何も知らないから、世
界中の人々の幸せを願える。
世界の平和も同様だ。世界を愛そ
う、世界に平和をとのメッセージ
ソングを歌うミュージシャンが離
婚している。観念的には幾らでも
愛せる。しかし、身近な人は愛せ
ない。観念でなく、現実だからだ。
観念の世界なら、自分を捨てる必
要はない。自我が砕かれる必要も
ない。愛するとは、日々自分を捨
てることだ。日常とは些細な小さ
な事の積み重ねだ。日常で、譲っ
たり、自制したり、忍耐すること
だ。「死は私たちの内に働き、命
はあなたがたの内に働く」自分に
死ぬ時、潤い、温もり、喜び、愛
のいのちが相手働く。相手は生き
る。愛するとは自分に死ぬことだ。
日々自分を捨て・・主がされたこ
とだ。
----------------
愛や親切、慈しみは行ってこそ意
味がある。遠くにいる友人や親族
を愛しているつもりでも、近くに
いる人を愛するのは難しい。今日、
主のみこころに従って愛を示して
いこう。


2006年02月22日(水)

「すると、彼への主のことばがあった。主は『エリヤよ。ここで何をしているのか』と仰せられた」T列王19:9

洞穴に入り、自らを閉ざしているエリヤに、
神は語られた「ここで何をしているのか」と。
神は、エリヤに心の内を語らせ、吐き出さ
せようとして下さった。神は、私達の気持
ちを聞いて下さる。受け止めようと待ち構え
ておられる。何と嬉しい事だろう。ある妻が、
悩み、問題、思い煩いに限界切れで、爆
発寸前に陥った。夫は「よし!」と、深夜に
関わらず、とことん付き合おうとの姿勢を
示し妻に向き合った。すると、途端、彼
女は問題が無くなってしまったと言う。問
題はあるが、それが問題で無くなったのだ。
あらゆる犠牲を払い、全面的に関わろう
としてくれる人がいる時、心癒される。まし
てや、極みまで愛し心配して下さっている
神は、あなたに向き合い、しかも完全な解
決をお持ちだ。気持ちを、誰にも言えない
本音を神に語れ。あなたの底の、正直な気
持ちを聞きたいと、神は向き合っておられる。
・・・・・・・・・・・・・・・
正直な気持ちを主に向けよう。心しっかり探ら
れないと、自分の正直な気持ちすらわからない。
心の底の底にある思いを吐露させたいと、癒し
自由にしたいと思って下さっている。顔を上げて
主に向こう。
 


2006年02月21日(火)

 「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」(T列王19:3)

エリシャはバアルとの戦いで、
心身共に消耗しきった後、イ
ゼベルから命を狙われ、殺さ
れるという恐怖におののいた。
又、あれだけバアルと戦った
のに、何も変わらないとの深
い挫折感に襲われた。神に頼
るのでなく、自分で自分を救
うために逃れた。しかし、問
題から逃げて何の解決も無い。
命を救うために逃げながら、
自分の死を願う、何とも矛盾
した事になる。あれほどの偶
像との戦いに大勝利したエリ
ヤだが、今は、状況を見て、
状況に飲み込まれてしまい、
神が見えなくなっていた。
私たちも同じだ。視点がどこ
にあるかだ。神を通して、状
況を見るなら、状況の上に立
つ。状況だけを見ていたら、
神は見えず、状況がおおいか
ぶさり、どうにもならない大
きなものとして迫る。
------------------
恐れはいつもついて回る。
瞬間、恐れるが、またすぐ神
様に目を向ければ恐れは平安
に取ってかわることを私たち
は知っている。万事は益だ。


2006年02月20日(月)

「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして、今、ベニヤミンも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ」(創世記42:36)



ヤコブの上に、次から次へと問
題だらけ。試練に次ぐ試練とい
う状況だ。二重三重の問題に、
なすすべもないような状態だ。
最愛の子達を失い、今また、
目に入れても痛くないほど可
愛いベニヤミンをも失おうと
している。「私も、失うとき
には、失うのだ」次々と最愛
の、大切なものが自分の手か
ら取られて行く。一見、深い
絶望と落胆だ。しかし、実際
は違っていたのだ。事態が静
まり、物事が落ち着く先に落
ち着いてみると、何と、死ん
だはずのヨセフが生きており、
シメオンも無事、家族皆餓死
するところを、食糧は備えら
れており、家族皆が共に住め
るという、何もかもが夢のよ
うな事態に一変。あなたも今、
窮地で、四方真っ暗闇だろう
か。神にはご計画と、「しよ
うとしていること」ヨハネ6:
6 があられる。神を見上げて
信じていよう。見えたなら信
仰は不要、何も見えない中で
信じるのが信仰だ。
------------------------
見える世界だけで生きている
なら信仰はいらない。今の状
態を信仰の目で見ていこう。
約束のみことばは何と言って
いるのか。見えるところに負
けず今週も喜んで歩もう。


2006年02月19日(日)

「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです」(Tペテロ2:20)

攻撃を受けた時、不当な扱いを受け
た時、自分を守り反撃するのは、この
世では普通の事だ。しかし、侮辱を受
けても穏やかに応ずるなら、それは主
の対応だ。私達は相手に反応するの
ではない。それなら温度計だ。相手が
激するなら、こちらも激し、相手が冷や
やかなら、こちらも冷ややか、相手が
暖かければ、こちらも暖かい。相手の
温度を、そのまま正確に表わす。そう
ではなく、私たちは神の御心を行うの
だ。相手が親切であれ、冷淡であれ、
こちらは親切を表し続ける。ある人
の父親は酒が入ると、人が変わった。
暴れ、暴言を浴びせた。しかし、神に
出会った母親は、祈りに祈り、神に
従い、どんな時にも、神のみこころを
行い、夫に親切であり続けた。それを
見て育った子供達は、今幸せなクリス
チャンホームを築いている。温度計
でなく、神の御心を行なう者にされたい。
・・・・・・・・・・・・・
何と正確に温度計をしている事だろう。
この世と何の変わりもない。相手がどう
であれ、状況がどうであれ、反応するの
でなく、神の御心を行えるように祈ろう。
死をも飲み込む、いのち受けているゆえに。


2006年02月18日(土)

「この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている」(ハガイ1:2)

信仰生活で、神の「時」と、神の「みこ
ころ」は、大切な事柄だ。すべての事
に、美しい「神の時」がある。同時に、
神は、私達一人一人に、「みこころ」を
持っておられる。民は、中断したまま
の、宮の再建について、まだ今でなく
てもよいと、言い訳をしていた。しかし、
その本心は自分の事と自分の家の事で
忙しく、主の宮の事まで、時間も労力も
回らなかったのだ。自分の好きな事は
快適であり、心地良く、幾らでも時間も
労力も費やせる。全く苦にならない。自分
の好きな事、生きがいや仕事や趣味・・
一見、罪でないので、没頭していて気づ
かない。しかし、「神の時」が来ていた。
「宮を建てよ、栄光を現わす」と言われる。
仕事に取りかかれと。あなたに何か神の
御旨を示しておられるか。自分の事に
かまけて見ようとしていないか。中断し
たままの事が無いか。言い訳、弁解し
ていないか。今、示された「御心」に取り
かかろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
神の「時」と「機会」がある。その時には
御霊が力強く働かれる。自分の事に夢中で
逃す事がないように。「宮を建てよ。わたし
はそれを喜び、栄光を現そう」と、主の栄光
のために用いて頂けるとは何という幸い。


2006年02月17日(金)

「それは、ただ公義を行ない、誠実を愛しへりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)


ある女性が若い時に、海外宣
教師として仕えるよう、神か
ら導かれていると強く感じて
いた。しかし、どうしても応
じることが出来なかった。
やがて、結婚し、家事と育児
と夫の親の介護に追われ、疲
れ果てていた。心にぬぐう事
の出来ない後悔と挫折感、虚
しさに襲われた。あの時、従
わなかったとがめで、今の重
い生活が罰のように感じた。
苦しくなり、心注ぎ出して祈
った。神は語って下さった。
何が良いことなのかと。神が
求めているのは何かを。今与
えられている場で、誠実に神
と共に歩む事だと。海外に行
くのでなく、今の場で、神に
、家族に仕えて行く事を、神
は望み、喜ばれる事を。
平安に満たされ、新たにされ、
今の神の御心の場に帰れた。
あなたにも同じ事を求めてお
られる。今の場で、誠実に神
と共に歩む事だ。
----------------
一日一日の歩みがこのみこと
ばのように誠実に神様と共に
あるのであればそれが神様の
一番喜ばれる事だ。
場所でも状況でもない。


2006年02月16日(木)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、将来と希望・・ためのものだ」(エレミヤ29:11)



目を手術した男性が、微少ながら何と
か視力を取りとめた。しかし、運転は
不可能、仕事も辞めた。バリバリと第
一線で仕事をし、誰よりも有能な営業
マンだった。幾らでも否定的思いに落
ち込んで行けただろうが、信仰のある
彼は、それを拒否した。信仰により事
態を受け止めた。これをより神との深
い関係に入る、恵みとして受け入れた
のだ。次から次への制限を、一つ一つ
恵みとして、受け入れる事を選択して
行った。心屈折させ、ひがんで神を恨
む事もできた。しかし、彼は意志で神
に喜ばれる道を選択した。それゆえ、
このような中で心は平安で満ちた。
周囲に神の栄光を現した。神の御心を
受け入れる事は、自分にとって平安の
道だ。受け入れられないなら、その気
持ち神に告げ、助けを求めて祈ろう。
祈りは答えられる。
---------------------
どんな状況も、神様が愛ゆえに与えら
れた計画の一部だ。よく御心をさぐり、
見極め、感謝を持って状況を受け入れ
ていこう。


2006年02月15日(水)

「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」(ルカ16:21)

兄は距離的には、父のすぐ近くにいたが、
弟息子と同様に、心は父から遠く離れて
いた。心が父に無い、弟と全く同じく放蕩
息子だ。好き放題、放蕩の末に戻った弟、
そのために宴会とは許せない、受け入れ
られない。自分は真面目に仕え、子山羊
一匹もらった事がないのに、子牛を与え
るとは、不満を爆発させた。兄息子が間
違っていたのは、父との関係だ。それは
労使関係であり、主人と雇い人だ。労働
を提供して、給料をもらう。それは報酬だ。
恵みとは、いっさい労働なしで、給料がも
らえる事だ。父との関係は労使でなく、親
子関係だ。労使なら働かないならクビで
当然、即、解雇だ。働かない者など必要
ない。しかし、親子なら労働しようとすま
いと、その親子関係は変わらない。報酬
ではなく、恵みの世界だ。労働に関係なく、
愛は全く変わらない。愛されているのだ。
私のものは全部お前のもの。父はその
愛を知って欲しかったのだ。
・・・・・・・・・・・・・・
培われた根深い古い価値観が問題だ。すぐ兄
になってしまう。肉は自分の力で頑張ろうと
する。その途端父から離れる。喜び平安感謝
が消える。メチャメチャな者を、出来ない者
を今愛して下さっている愛が嬉しい。安堵だ。
愛を受け取り、喜んで楽しもう。


2006年02月14日(火)

「おとうさん。私は天に対して、罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」(ルカ15:18)



人は思うようにならないと、環境
のせいにする。親が悪い、社会が
悪い、職場が悪い、学校が悪い。
しかし、問題の無い環境などあり
得ない。完全な社会は無いし、完
全な親はいない。どこにいても、
必ず何かしらの問題がある。
環境を責めていれば、自分に向か
なくて済む。自分を見なくて済む
のだ。しかし、どう逃げ回っても、
つけは必ず回ってくる。現実にし
っかり向き合い、自分に向き合う
事だ。環境は悪いが、親も悪いが、
では自分に問題は全く無いのか。
神が見ておられるように、見せて
下さいと祈ろう。今まで決して気
づかなかった、自分のプライド、
虚栄心、隠れた高慢自我に気づけ
る。又、自分には弱さがある。決
して認めたくないが、それを認め
て行くことが解決の道だ。認めて
初めて、神のみわざが始まり、変
えられて行く。相手のせい、環境
のせいにしている限り、自分の本
当の姿が全く見えない。暗闇の中
だ。
---------------
周りのせいにしていては、いつま
でたっても闇は続く。いつも同じ
ところでぶつかり苦しむ。神様の
みこころは常に私自身だ。自分、
自分を変えようとしておられる。


2006年02月13日(月)

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(へブル11:6)



私たちは様々な事態に遭遇する。
突然の倒産、リストラ、経済的
危機、病気やけが、一生懸命勉
強したのに、入試に不合格・・。
そんな時、私達は「なぜ?」と
、まず思う。しかし、雀一羽さ
え父のお許しなしには、地に落
ちない、すべての事が御手の中
で起きている。クリスチャンに
は偶然は無いゆえ、様々な起こ
る出来事の中で、教えようとし
て下さっている事を祈る事は大
切だ。学ばせたい事はあるが、
ヨブの場合のように、「理由」
は明らかにされない事もある。
信仰を用いて、信仰の目で見
るようにされる。なぜだかわ
からない事もある。理解不能
な中でこそ、私達は神に「信
頼」を献げることができる。
今、真っ暗なトンネルの中だ
ろうか。見えない中で、何が
どうなっているのか、理解で
きないが、神を「信頼」する
事、これを神は喜ばれる。
「信頼」をお献げしよう。
-------------------
救われた後は、神様に信頼す
ることを学んで行く。快適な
生活でいつも思い通りなら信
仰を使う時はない。真っ暗な
トンネルの中でも信仰の目で
見ていくなら、心は平安に守
られる。


2006年02月12日(日)

「私がまだ祈って語っているとき・・ガブリエルが・・私に近づいた」(ダニエル9:21)

ダニエルは捕囚が70年後に終わる事を
知り、遅らせないで下さいと祈った。その
祈りが終わらない内に、ガブリエルが遣
わされた。すぐに祈りが聞かれたのだ。
別の祈りの時は、ペルシャの君に21日
間妨害され、とどめられた。祈りは聞か
れていたが、答えの到着に21日かかっ
た。私達もすぐに答えられる祈りがあり、
時に答えが延ばされる祈りがある。しかし、
神を待とう。それは遅くなっても必ず来る。
神を「待ち望む」ことを学ばされる時があ
る。その時は信仰が試される。信仰を使
う時だ。信仰が練られる、成長の時だ。
又、明白に「ノー」の答えもある。ノーも神
のご意志だ。答えは「イエス」「ノー」「待て」
のどれかだが、しかし、あなたの祈りは聞
かれている。神はどんなに小さな祈りもな
いがしろにされない。環境を見つつ、答え
を見張りながら、祈り続けよう。
・・・・・・・・・・・・・・・
「ノー」の答えがある。ノーは痛いが、けれど
最善である事が信じれる。自分の何もかもを
ご存じでの上で、将来をも見通して、神は別
の御心を持っておられる。神が与えて下さるの
は更に良いものだ。


2006年02月11日(土)

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し」(エペソ4:29)

悪口、噂話は極めて陰険だ。当人が
そこにいない時に話すものだから、
フェアでない。陰湿だ。暗闇の世界だ。
しかし、心に相手への憎しみや妬みが
ある時、それは非常に心地良い。「陰
口をたたく者の言葉はおいしい食べ物
のようだ。腹の奥に下って行く」。私達
にある罪の性質だ。心の妬みや憎しみ
は、恰好の罠となる。そこに悪魔がつ
け込んで、言葉が悪魔の道具とされて
しまう。秩序の乱れや邪悪な行ないが
生まれる。刃物で人の身体を傷つける
と血が流れるが、陰口も同じものだ。
相手の心に血が流れる。根にあるもの
は殺意だ。人を深く傷つける。言う必要
があれば、当事者に率直にまっすぐに
言うべきだ。誤解なら、相手は反論が
できる。まっすぐに言われる言葉には
誠意と真実がある。それを陰で、関係
の無い別の人に言うのは間違っている。
口の源は心だ。心にある妬みや敵対心
に気づき、悔い改める時、自由にされる。
心にあるものは、必ず言葉となって出る。
・・・・・・・・・・・・・・・
光の中を歩みたい。まっすぐに語って行く
者でありたい。心が問題なので、心の暗闇に
、灰色ゾーンに、御霊の光を当てられ、自ら
の罪に気づけるよう。誠実な言葉を語る者と
されたい。
 


2006年02月10日(金)

「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」(ヨハネ7:17)



聞くだけでなく、実際にみこ
ころを「行って」いく時に、
神がわかる。頭でなく、経験
によって知る。それによって、
御言葉がわかる。神のみここ
ろがわからずに悶々とする時
がある。多くの場合、自分の
強い思いと意志が心の底にあ
るのだ。もうすでに、心では
決めていて、神に了承印が欲
しいのだ。それで神の御心を
求めて祈る。しかし、自分の
思いがすでにある時、御心は
わからない。なぜかといぶか
るが、すでに意志決定してい
るのだ。無意識のこともあり、
御霊に心探って頂くとわかる。
全面的に明け渡す時、必ずみ
こころがわかる。それを実行
する時、岩の上に家を建てた
賢い人となる。実行して行く
時、土台が培われ、どんな大
嵐の試練が来ても決して倒れ
ない。行なおうとせず、心地
良いメッセージを、聞いてい
るだけではないだろうか。と
にかく、今、示されている事
を行なおう。
-----------------------
自分の思いに支配されている
時は、うまく行ってる時はい
いが心に平安がない。御心に
従うのは痛いけれど御心を選
ぶ時、「それでよし!」と御
霊様が言って下さる。明け渡
す事を知る。


2006年02月09日(木)

「別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイ13:5)


岩地だが、薄い土があったので、
そこに種が落ち、すぐに芽を出し
た。しかし、ギラギラと照りつけ
る太陽が昇ると、深く根を張って
いないため、枯れてしまった。
この同じ太陽が、深く根を張った
植物には、逆にどんどん成長させ
る事になる。同じ一つのものが、
一方は成長させ、他方は枯らす。
試練も同じだ。ある人には更に成
長となり、別の人を枯らす。私た
ちの態度に起因する。しっかりと
試練を受け止めるなら、試練は私
たちを損なう事ができない。砕き、
練り、きよめ成長させるのみだ。
しかし、心を屈折させ、すねて反
抗するなら、心が枯れて行く。
試練で離れて行った人々もいる。
今までも経験しただろう。愛の御
手から送られていて、耐えられな
い試練は無いことを。必ず逃れの
道もある。私達の益のためだ。
試練を受け入れられるよう、神に
祈ろう。
----------------
たまたま試練にあったのでも、運
が悪くてそうなったのでもない。
試練は神様からのものだ。この
試練によって、自分の何処がかえ
られるのか、じっくり神様の御
心を聞いていく事が大切だ。


2006年02月07日(火)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください」(詩篇5:3)



信仰生活で忘れてはならないのが、
天に帰るまでは、戦いだという事
実だ。霊の戦いであり、日毎にサ
タンとの戦闘だ。朝、起きた途端、
悪魔の火矢が飛んで来る。心に思
いが突き刺さり、吹き込まれる。
思いが駆け巡るだろう。1日の予
定か、問題か、思い煩いか、神に
心を向けるより先に、瞬発的に悪
魔が襲って来ている。気づいてい
るだろうか。気づかなければ、悪
魔に思いを自由自在に持って行か
れている。無意識に悪魔からの思
いに同意し、説得され、ほんろう
されてしまう。霊の戦いであるこ
とをわきまえよう。朝一番に、主
を呼ぼう。悪魔に耳を貸す前に、
主に呼ばわろう。初物が聖ければ、
粉の全部が聖い。朝に神第一にす
るなら、一日が守られる。1日の
開始の時を神に献げて、祈りで始
めよう。今日も朝起きた時、サタ
ンは思いを巡らせたはずだ。気づ
きから始まる。
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朝一番から必ずサタンがくる。
嫌な思い、苦い思いを主に目を
向けることで変えていただこう。
今日一日、謙遜に御霊様に従っ
て歩む思いを与えられる。


2006年02月06日(月)

「ききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある・・」(Uサムエル21:1)



問題が起きた時、ダビデの対処の
仕方は正しかった。この問題が無
くなるようにと祈ったのではなく、
主のみこころを求めた。すると
償いがなされていない罪があると、
示された。そこで、ダビデは相手
が望むように償いを実行した。
「その後、神はこの国の祈りに心
を動かされた」。私達は、何か問
題が起こると、とにかく痛いので、
その問題が無くなるように、状況
が変わるように切に祈る。
しかし、神は困難にぶち当たらせ
る事によって、何かを悟らせよう
としておられる。私たちの内側に
問題がある場合があるので、ダビ
デのように御心を求める事はよい
ことだ。解決されていない問題が
あるなら、祈りが妨げられる。
心に妨げがないか、未解決の問題
がそのままになっていないか、探
って頂こう。主は正しく導いて下
さる。
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解決していない罪を棚上げして生
きていくのは容易だ。しかし、変
わらなければならないのは自分、
聖くならなければならないのは、
他の誰でもない自分のはずだ。


2006年02月05日(日)

「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえやその他のいけにえを喜ばれるだろうか」(Tサムエル15:22)

アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せ
よとの主の命令を受けながら、最も良い
ものを惜しみ、どうでもよい物だけを聖絶
した。それが発覚すると、民に責任転嫁
をして行く。又、主にいけにを献げるため
だと、自分を正当化した。エデンの園のア
ダムとエバそのままだ。これらの誘惑はい
つも私たちにも来る。自分のせいではない、
状況が悪かった、相手が悪い、自分は疲
れていた・・。しかし、逃げてごまかして
行くなら、神との「真実な」関係が持てなく
なる。これが致命傷だ。都合の悪い事は、
すべて環境や相手のせいにし、自分を正
当化する。常に自分は悪くなく、どこまで
も正しい。プライドが自らの罪を認めない。
自分が正しければ、神は間違っていること
になる。神を偽り者とする事になり、その
時、神のみことばはもう私たちの内にない。
一番恐ろしい状態だ。へりくだって罪を認
めよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
一番の願いが、神との「真実な関係」では
ないだろうか。これにひびが入るなら何か
を手に入れても虚しい。何が無くとも、
これさえあれば、満ち足りて平安だ。妨げ
ているものは無いだろうか。



2006年02月04日(土)

「あなたに何を与えようか。願え・・善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください」(T列王3:5)


ソロモンは神に「求め」を聞かれた。
その時に、民をさばくために善悪を
判断して、聞き分ける心を求めた。
その求めは神の御心にかない、知恵
と判断力を与えられた。それと同時
に、富と誉れをも与えられた。ソロ
モンの求めが叶えられたのは、神の
御心にそっていたからだ。自己中心
な欲望の求めをしたのでなく、神の
心にそって求めた。なぜ、御心にそ
った求めができたのか。
それは、ソロモンが主を愛し、主を
礼拝していたからだ。神を愛し、従
おうとの心がある時、神の心にそっ
た求めをして行く。神を愛している
からだ。神との平素からの親しい交
わりがあるので、神の心がわかるの
だ。神の心にかなった願いなので、
必ず与えられる。何でも願いをかな
えて上げと言われたら、あなたは何
を願うだろうか。その時、自分自身
の本性もあらわになる。
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私達はいつも何を祈っているだろう。
御心に叶わない祈りをささげている
かもしれない。けれどどうか御心が
成りますようにとの祈りを忘れない
でいよう。従いたい思いを受け取っ
て下さる。


2006年02月03日(金)

「ダビデは神に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました」(T歴代21:8)



心の底に潜んでいる罪は、普段は外に
現れない。何かの要因があった時、
以前からそこに存在したものが、外に
現れ出る。ダビデはサタンの誘惑に負
けて、人口調査をした。その根は高慢
の罪であった。神によって与えられた
ものを、自分の力としてその軍事力を
誇ったのだ。高慢は霊的な罪だ。
外側には見えないが、多くの人を倒し
てきた。明けの明星が天から落ちたの
も高慢の罪だ。私たちの心の底に根深
く、巣くう罪だ。高慢を警戒しよう。
自己意志、自分の思いを通すことは、
自分を神とすることだ。エバが受けた
誘惑の本質だ。自分が神になって生き
る道を選んだ。しかし、主の十字架の
あがないによって、私達は正しい位置
に戻され、神を神として、礼拝し、あ
がめて生きて行ける。何と幸いな祝福
であり、喜びだろう。かつて大きく祝
福されていたのに、高慢になり倒れた
人は少なくない。サタンの誘惑が臨ん
でいる。この罪をことさら警戒しよう。
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高慢な時には、高慢と絶対気づかない。
だから一番こわい。警戒するためには、
常にへりくだっていなければならない。
気づかず高慢でいる罪を示されますよ
う。


2006年02月02日(木)

「わたしはイズレエルの血をエフーの家に報いる」(ホセア1:4)


エフーは国から偶像礼拝を一掃した。
その点は非常に良かったが、完全では
無く、ある所では許していた。又、彼
には血なまぐさい残虐行為があった。
これらの点は神に喜ばれ無かった。
そして、イスラエル王国は滅んだ。
私たちは主の戦いを戦っている。
しかし、結果が良ければいいのでな
く、どこまでも方法が正しくあるこ
とが神の御心だ。エフーは偶像礼拝
を阻止したが、それは残虐を極めた。
私達は結果オーライではない。結果
が良ければ、すべて0Kなのではな
い。結果以上に、方法が正しい事、
動機が正しい事、プロセスが大切だ。
逆を言えば、正しい動機と方法で、
主に従っていれば、結果が私達の思
いと違っていても、平安でおればよ
い。そして結果が人目にうまく行っ
たとしても、方法が正しくなければ、
それは間違いだ。あなたの生活に、
結果オーライは無いか。主に正して
いただこう。
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目的意識を持つ事も大切だが、その
全行程を神様と共に歩むのでなけれ
ば意味がない。覚えておけとも言わ
れた。胸のうちを吟味しながら一歩
一歩、神様知りつつ今日も歩もう。


2006年02月01日(水)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる・・わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8)

神は求めよと言われる。しかし、求めた
ものを何もかも下さるという事ではない。
親が子供が求めたからと、無思慮に与
えはしない事で理解できる。危険な物も
あれば、持つに早い物もある。私達は
この願いこそ最善だと思う。しかし、私
達が良いと思うものと、神が良いと思わ
れるものがしばしば違う。神の思いは
もっと高くて深い。ある時、神は私達の
人生で、私達の前に厳然と立ちはだか
られる。絶対に妥協されない。自分の
思いが頑と通らず、自分の思いが粉々
に砕かれる。その時、神が真に神であ
られる事を知る。自分の上におられ、主
であり、崇めらるべきお方であり、万物
の支配者である事を知る。そして、自分
の思い通りに生きるのではない事を理解
する。自己中心な者が、神中心に生きる
者へと造り変えられて行く。神は先を見
通しておられ、あなたの生涯のパズルの
完成品を見ておられる。
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思い通りにならない事が感謝だ。道が閉ざ
され、壁にぶち当たる時、神は正しいので、
こちら側の軌道修正が必要だ。自らの動機や
神の御心を深く探る。必ず今まで気づかなか
った事柄に気づく。自分の思いが砕かれて行
く時、霊の目が開かれて行く。