2006年03月31日(金)

「しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに」詩編31:22



ここでの詩編記者は、四面楚
歌だ。実際に敵から命を狙わ
れていた。又、心に罪の苦し
みもあった。身体も病があっ
たのか衰弱していた。加えて
親友から見捨てられ、離反さ
れ、どんなに痛み苦しんだろ
う。内外からの余りの圧迫に
、心身ボロボロで、もう限界
で死人のよう、壊れた器のよ
うだった。「あなたの目の前
から断たれた」と自らの信仰
すら気力喪失状態だ。
自分サイドには、もう頼るも
のが何も無い。皆無だ。
こんな彼が拠って立つ根拠は
どこにあるのか。
「しかし、あなたは」、自分
サイドではなく、「あなた」
に全根拠がある。祈りの声を
聞かれる神、神に向かって叫
んだ時に、自分の全存在が受
け止められ、愛されている確
信が来た。状況はどうであれ、
祈りが受け止められた平安が
心に臨む。何もかもが窮地の
時、神に叫び、心を洗いざら
い打ち明けよう。窮地のまっ
ただ中で、平安を経験する。
そして事態も導かれて行く。
-------------------
状況のまっただ中で一瞬で心
が変えられるのは、神様の愛
に触れた時だ。つぶやきばか
りの祈りの後でも自分に降り
注ぐ神様の愛と恵みがいかに
大きかったかを知れる。


2006年03月30日(木)

「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で、私に奇しい恵みを施されました」詩編31:21



試練こそ、絶体絶命の時こそ
が、主の大きな恵みを知る機
会、祝福の時だ。
しかし、簡単には思えないも
のだが。アラム王が、エリシ
ャを捕らえようとし、馬と戦
車と大軍で町を包囲した。
召使いは恐怖でパニックにな
り、どうしたらよいのかと叫
んだ。するとエリシャは恐れ
るなと告げ、彼の目が開かれ
るよう祈った。その時、彼の
目が開かれ、火の馬と戦車が
エリシャを囲んで山に満ちて
いるのを見た。絶対絶命のこ
の試練が、召使いにとって偉
大な全能の主を知る機会とな
った。その試練がすぐ終わる
とは限らないが、私達の生き
る目的が、人生、順調に終わ
る事でなく、神を知る事であ
る以上、こんな大きな喜びは
無いのではないか。
振り返る時、試練の度に、新
たに主を親しく知れた。
試練には奇しい恵みが備わっ
ている。
-------------------
目の前の事にのまれてしまう
のは、背後におられる神様を
見失う時だ。私達は絶体絶命
に見えても、孤軍奮闘ではな
い。奇しい神様のみわざを見
つめよう。


2006年03月29日(水)

「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥が来て食べてしまった」マタイ13:6

前日の内容に続くが、自らの心に偏見
があれば、対人関係に歪みが生じるよ
うに、御言葉に対しても同様だ。御言
葉は真理であり、正しいが、もし、自
分の目が歪み、曇っていれば、正しく
受け取れない事になる。御言葉への偏
見や固定観念があるなら、道ばたに落
ちた種になってしまう。道ばたは人の
往来で踏み固められ、カチカチだ。御
言葉をはじき返してしまう。私達の心
はどうだろう。この事に関して、自分
はこうしようと固い意志があるなら、
御心をと求めても、自分の心が定まっ
て固定しているので、神の御声が入ら
ない、聞こえない。聞こえないという
より実は聞きたくない。しかし、聞き
たくないとは思っていない。自分はあ
くまでも御心を求めている「つもり」
だ。むしろ聞きたいと思っている。こ
の心の欺瞞に気づいていない時、主が
あわれんで下さり、真実を見せて下さ
るように。
・・・・・・・・・・・
心に建前と本音がある。建前で生きて
いるので、本当の自分がわからなくな
る。御言葉の鏡と御霊によって本音
が照らし出され、本当は自分はどう思
っているのかがわかる。そして主が愛
し受け入れて下さっているのは、その
本音の自分である事を知る。

 


2006年03月28日(火)

「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです」ヤコブ3:14



対人関係において、自分の
心の内に、相手への妬みや
敵対心がある時、偏見や先
入観、悪意により心に歪み
が生じ、相手を正しく見る
ことが出来ない。自分の思
いが歪んでいるため、目が
曇る。色眼鏡をかけて、外
界を見るとその色で見える
ように、自分の屈折した思
いでしか相手が見えない。
又、更に問題なのが、自分
は正しく見ていると思って
いる事だ。正しく見えてい
ると思い込んでいる。だか
ら対人関係がうまく行かな
いのは、自分には問題無く、
相手が悪い事になる。
どう見てもそうしか見えな
い。暗闇の中だ。実は自分
の心に罪がある。罪がある
時、目が曇ってしまう。
この間違いが自分の内に無
いか、御霊の光で心を探っ
て頂こう。
--------------------
自分が正しいに立っている
ならサタンに欺かれる。
敵対したい思いがまずある
事を自覚しよう。正しく見
ようとしない自分の罪を。


2006年03月27日(月)

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」ローマ10:17


信仰は、神から語りかけられ
る御言葉を聞く事を通して、
養われ成長して行く。漠然と
、漫然と、行き当たりばった
りで信仰生活をしていても、
信仰は決して成長しないし、
養われない。御言葉を聞く事、
真剣に聞く事、神に焦点を当
てて行く事が大切だ。
それにによって養われて行く。
御言葉により神がどのような
お方か、神の愛がどんなに高
く深いか、様々な状況の中で、
神の御心は何か、神が自分に
求めておられる事は何か、そ
んな事を知ろうと心を定めて
求めて行く事だ。状況でなく
、状況を支配しておられる神
を信じ、従おうとの姿勢を通
して、信仰は成長して行く。
その中で、自分の思いと異な
る、神の思いに出会う。
私達の思いよりも高くて深い。
神に焦点を当てて見て行くか
らこそ、そのような事も知れ
る。御言葉を聞こう、従おう
との決意で生活を始めると、
生活の中で必ず神に出会う。
-------------------
従おうという覚悟で御言葉を
聞いていなくては、何も生ま
れない。「御心がなりますよ
うに」の思いで今週も聖書を
開こう。


2006年03月26日(日)

「私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから」詩編119:35


「仰せ」とは、命令、指示の事だ。主が
「行なえ」と指示され、その通りに私達
が行う時、祝福を味わう事が出来る。「
仰せ」に従う事、そのものが主を愛する
事だ。百人隊長は、家に来て、頭に手を
置いて祈ってでなく「ただ、おことばを
下さい」と願った。「まことに、主が仰
せられると、そのようになり、主が命じ
られると、それは堅く立つ」だ。主の仰
せは必ず成ると信じきっていた。そうす
れば、しもべは必ず癒されると。ある人
が、順境の幸せな時にでなく、人生の泥
沼でもう何もかもがどん底の時に「歌
え」と言われた。「子を産まない不妊の
女よ。喜び歌え」と。これのどこをどう
喜び歌えなのかの状況だが、御言葉に従
った。その時に、今まで経験した事の無
い、状況ではない、主の臨在による喜び
を初めて知った。従った時、臨在の祝福
を下さったのだ。仰せに従おう。大きな
祝福を経験する。
・・・・・・・・・・・・
主の仰せは求めるなら必ず聞こえて来る。
環境から祈りから御言葉から、主が望ん
でおられる事、喜ばれる事が心にわかる。
御心の道をしっかり踏み行けるよう祈ろう。


2006年03月25日(土)

「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る」箴言15:31

ある人が「友人が試練にある時、ものすごく
見えた。神が彼女に何を教えたくて、どこを
対処したいのか事細かに全部言って上げられ
るほど。自分の時は真っ暗闇で何がどうなっ
ているのかまるで見えない。周囲に聞く事は
大切だと学んだ」。周囲は冷静に見れるので、
親しい人々にはあなたの状態が見えている。
それゆえ、周囲の忠告や助言に耳を傾ける事
は必要であり賢明だ。「助言者によって勝利
を得る」だ。しかし高ぶった心は決して聞か
ない。プライドが邪魔をして聞けないのだ。
人に聞く必要はない、自分が一番よくわかっ
ていると思う。又、痛い事を肉は聞きたくな
い。しかし、聞く事はへりくだる事だ。へり 
くだるなら間違いから守られる。人からの忠
告に耳を傾けよう。自分をよく吟味しよう。
人の背後の神からの矯正だ。水が低い方へ流
れるように、神の恵みはへりくだる人に臨む。
あなたにも今叱責が臨んでいるか。いのちへ
導こうとの神の愛だ。
・・・・・・・・・・
注意や忠告は聞きたくないのが肉だ。しかし、
聞かない限り成長はない。高慢なままだ。へ
りくだって聞く時、神の知恵が来て、神のお
心、自分の姿、神の喜ばれる事、なすべき事
が示される。


2006年03月24日(金)

 「どうか、あなたのむちを私から取り除いてください。あなたの手取り除いてください。あなたの手に打たれて、私は衰え果てました」(詩編39:10)

 

信仰生活、常に快適というのでは
ない。神は最善をして下さり、良
い事しかされない事は確かな事で、
愛していて下さるので、結果的に
はいつもすべてが益だ。それはよ
くわかっている。しかし、私達は
すべてを見通せるわけでなく、目
先しか見えない。現在は痛くて苦
しい時に、先が見えないゆえに、
辛くて悶々とする。詩編記者も苦
しい時に、辛い時に、気持ちを抑
え込むのでなく、そのままの気持
ちを神に告げている。自分の道に
気をつけようと、舌で罪を犯すま
いとわきまえつつ、このむちを取
り除いて欲しい、祈りと叫びを聞
いて欲しいと訴え、救いを求めて
いる。私達はどうだろう。心の底
の悶々をそのままにして、綺麗事
の祈りだろうか。心の奥にある誰
にも言えない気持ちを、不満があ
るなら、何も無い振りをせずその
思いを、納得が行かないなら、納
得した振りをせず、そのままの気
持ちを神に告げよう。受け止めた
いと待っておられる。
-----------------
衰えはてるのは、自分で自分を持
ち上げようとするからだ。試練も
災いも神様からのもの。心の内を
話しつつ平安な日々として過ごそ
う。


2006年03月23日(木)

 「彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし・・介抱してやった」(ルカ10:33)

 


祭司とレビ人は、問題ある人に関
わりたくなくて、避けて行った。
時間を取られたくない、労力を奪
われたくない。犠牲を払いたくな
い。自分の内にある肉の性質も同
様だ。別に自分の益にならない事
はしたくない。肉は自分を楽しま
せ、満たすことを求める。
サマリヤ人はあわれんだ。あわれ
みとは、同情+行動だ。同情だけ
でなく、行動を起こすものだ。
サマリヤ人は行動した。傷の手当
てをし、家畜に乗せ、宿屋に連れ
て行き介抱した。これは主が私に
して下さったことだ。罪に滅んで
行くのを見られたから、十字架に
かかられた。「キリストでさえ、
ご自身を喜ばせることはなさらな
かったのです」。肉か、主のお心
か、いつも選択だ。自分を捨てて
主の御心を選ぶ時、この世にはな
い真の喜びを知る。主のお心と一
つだから。
------------------
頭ではわかっていても、行動に移
せない。言い訳しながら脇をすり
抜けて行く私達に、示して下さっ
た主の憐みはなんと深いことか。
それを実感して行く事から始めよう。


2006年03月22日(水)

「ろばの子がいるのに気づくでしょう。それをほどいて、わたしのところへ連れて来なさい・・「主がお入用なのです」」(マタイ21:2)

昔、ろばというのは、謙遜や柔和の象
徴とされていた。主はろばに乗られ、
エルサレム入場された。有用な立派な
軍馬でなく、力も無く、経験も無いろ
ばの子を用いられた。私たちは無力で
何の経験も無くて構わない。私たち
はろばであり、主が乗られるのであり、
主をお乗せするだけだ。乗っていただ
けるとは、何と光栄なことだろう。あ
なたを主は用いて下さるのだ。「ほど
いて」連れて来なさい。自分のしたい
事、自分の思い、欲望、古い価値観に
縛られているか。名誉、地位、富への
執着、人から良く思われたい欲、自己
満足、プライド、それらにつながれて
いるか。縛られているものをほどいて、
主のもとへ行くのだ。あなたをつない
で、引き止めているものは何だろう。
よく心探って頂こう。主はあなたが
入用だ。それらからほどかれて、主
のもとへ行こう。主に用いて頂けると
は何という喜び。主と一つだ。
・・・・・・・・・・・・
私達はろばであり、主が乗って下さる。
主が成し遂げられ、私達はお乗せする
だけだ。しかし大きな喜びにあずかれる。
主は入用だと言って下さる。つなぎ止め
ている頑なな心が何であるのかよく探
ってみよう。


2006年03月21日(火)

「彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし・・介抱してやった」(ルカ10:33)


祭司とレビ人は、問題ある人に関
わりたくなくて、避けて行った。
時間を取られたくない、労力を奪
われたくない。犠牲を払いたくな
い。自分の内にある肉の性質も同
様だ。別に自分の益にならない事
はしたくない。肉は自分を楽しま
せ、満たすことを求める。
サマリヤ人はあわれんだ。あわれ
みとは、同情+行動だ。同情だけ
でなく、行動を起こすものだ。
サマリヤ人は行動した。傷の手当
てをし、家畜に乗せ、宿屋に連れ
て行き介抱した。これは主が私に
して下さったことだ。罪に滅んで
行くのを見られたから、十字架に
かかられた。「キリストでさえ、
ご自身を喜ばせることはなさらな
かったのです」。肉か、主のお心
か、いつも選択だ。自分を捨てて
主の御心を選ぶ時、この世にはな
い真の喜びを知る。主のお心と一
つだから。
------------------
頭ではわかっていても、行動に移
せない。言い訳しながら脇をすり
抜けて行く私達に、示して下さっ
た主の憐みはなんと深いことか。
それを実感して行く事から始めよう。


2006年03月20日(月)

「また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:30)



知り合いの婦人、築年数のたつ家
だったが、居間から台所へ出た途
端、何と居間の天井が崩れ落ちて
来たのだ。老朽化だった。そこに
いたらどうなっていたかと、恐ろ
しくて震えた。まさに神の守りの
御手を感じた。大々的奇跡を目の
前で見たら、もっと信じるのにと
思うだろうか。しかし、神は日常
の中にご自身を現わしておられる。
神の愛と配慮が至るところにある。
「すべての事に感謝」の信仰の目
を持って、日々を見る時、それが
見えて来る。恵みを数えよう。
問題も悩みも、主の許しなしには
来ない。頭の毛さえ数えられてい
る。細部に至るまで深い配慮とご
計画の内だ。サタンにほんろうさ
れているのではない。サタンでな
く、サタンをも支配しておられる
主の御手からだ。今、問題がある
か。頭の毛さえ数えておられる神
の主権と支配の中にある。祝福の
ためだ。祈って導きを求めて行こ
う。
----------------
豊かな神様の恵みと祝福が見えな
くなってしまうのは自分の問題だ。
なぜ感謝できないのか、よく探っ
てみよう。今週も恵みを数えなが
ら、喜びをもって歩んでゆこう。


2006年03月19日(日)

「比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12

誰しも比較の誘惑に陥ってしまう。目に見え
るところなので、強い誘惑が来る。比較の結
果は、優越感か劣等感だ。どちらも根は同じ
で裏表であり、高ぶりから来ている。基準が
人であり、人を基準に自分を量る。そうする
時、自分の立つべきところを見失い、迷路に
迷い込む。いつも人が気になって仕方がない。
どう見られているかが気になり、人が見てい
る自分を意識して、自分を演出する。その結
果、本当の自分でない自分を生きるようにな
る。そういう人は多い。そのつけは、神から
離れるという大きな代償となってやって来る。
良いクリスチャンの振りをすると、自分がわ
からなくなり、神がわからなくなって行く。
自分から真実を踏みにじり、偽りを行なって
行くからだ。ありのままで神の前におれば、
神が導き、造り変えて行って下さる。日々、
人ではなく、神に向こう。人が主に向くなら、
おおいが取り除かれ、人から自由にされる。
・・・・・・・・・・
比較の誘惑、良い人の振りをする誘惑が来た
時、助けを求めて祈ろう。主の前にはいつも
正直でいよう。本音を受け止め、本当の自分
を受け入れて下さっている。偽りはサタンか
らだ。


2006年03月18日(土)

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」ヘブル11:1

神は奇跡をされるが、目に見えない「信仰」
を求められる。役人が息子を癒してほし
いと、主のもとへ来た時、奇跡を見ない
と信じないと言われた。しかし、息子が
死にかけていた彼は、引き下がらず、尚
も頼み続けた。主は信仰を求められ、も
う息子は直っているから帰るように言わ
れた。彼は主の言葉を信じた。なぜなら、
帰って行った事がその証拠だ。その途上
で、息子がすでに直ったことを知った。
主の言葉と同時刻であった。つまり、御
言葉を信じること、それが信仰だ。目に
見えないものを信じることだ。目に見え
たなら、それはもう信仰ではない。見え
るものに信仰は必要ない。見えないもの
を信じるからこそ信仰だ。今、あなたには、
信仰が求められているか。何一つ見えな
い中で、状況は何も動かず、正反対に見
える中で、主の約束を握って信じよう。
大きな報いをもたらす。
・・・・・・・・・・・
信仰とは神の約束を信じる事だ。状況は、
正反対で全く異なる中で、状況ではなく、
約束を信じて行く。その時、状況は変わ
らないのに不思議にすでに得たりの確信
が来る。目に見えない「現実」の世界だ。
 


2006年03月17日(金)

「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」(Tヨハネ2:16)



神に仕えながら、いら立つことがあ
る。夫が未信者、子供が小さい、親
の介護、仕事、これらが足かせに感
じ、いら立つ。なぜか。自分の思い
通りにならないからだ。その底にあ
る、強い、頑なな自我が問題にされ
ている。
又、自分の外見、人にどう見られる
かを気にする見栄は無いか。人に良
いクリスチャンだと思われたい、肉
の欲だ。自分が満たされるため、自
己満足のために動いていないか。
神のためでなく、自分のためだ。
気づいていないが、信仰生活の中に、
強い自己中心がある。自分の思いが
妨げられると怒り、自己憐憫に陥る
のはその現れだ。もし、神の栄光だ
けを求めているのなら、そうはなら
ないはずだ。何をするかより、どん
な動機でしているのかは重要だ。
隠れたものを神は見て、報いて下さ
る。
-------------
この世の流れに飲み込まれ人ばかり
見ながら生きてしまう。世から受け
る無駄な欲をひとつひとつ捨て、一
番必要なものだけを日々受けていこ
う。



2006年03月16日(木)

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」(民数記13:30)


カナンの地を偵察した時、背の高い
強い民が住み、自分達はいなごのよ
うだと報告した。恐れの余りとても
上って行けないと。しかし、ヨシュ
アとカレブは、主が助けて下さるか
ら、必ず占領できると信仰を表明し
た。私達もそうだ。経験した事のな
い領域に進む時、恐れと不安に襲わ
れる。又、仕事、健康面、対人関係、
経済的な事、様々な思い煩いと心配
の山が目の前にそびえ立ち、立ちは
だかる。おじけづいて、立ちすくむ
だろうか。そんな時、何を見ている
かだ。不安のそびえ立つ山か。
それとも、それよりも更に大きなお
方、神か。斥候達と、ヨシュアとカ
レブの反応の違いは、見ているもの
の違いだ。あなたの前に、今、山が
そびえているか。そびえる山でなく、
神を見て、是非とも上って行き占領
しよう。必ず出来る。
-----------------
私たちのうちにおられる聖霊様と御
ことばによって歩んで行くのだから
状況はみこころならば開かれる。
何を見ているかが問題だ。


2006年03月15日(水)

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです」Uコリント10:4

サタンは「不信感」を植えつける。エバに
「本当に?」と神の愛を疑わせるよう仕向
けた。神に対して、又、人と人との交わり
の間に、不信感を吹き込む事は、サタンの
戦略だ。不信感から、否定的な思いが、一
つ一つと積み上げられ、それは要塞となっ
て行く。相手のあの一言は?あの行動は?
自分が嫌いなのでは?一つ一つと想像により、
否定的思いが膨らんで行く。これこそサタ
ンが仕掛けている攻撃だ。あなたは今、こ
れに引っかかっていないか。疑念の要塞を
着々と築き上げているのだ。「疑いは交わ
りを殺す毒薬」という言葉がある。不信感は
交わりを殺す。サタンから植えつけられ
ていないか。それを受け入れていないか。
誰かへの不満や怒りがあるなら、不信感を
持っている「自分」があり、その自分が問題
だ。サタンに否定的思いの要塞を築かせ
てはならない。気づきから始まる。主のもと
へ行くなら、その要塞を破壊し、全き平安
に変えて下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
不信感が来た時、サタンである事に気づけ
るように。そこから否定的思いの要塞を築
かれてしまう。そして平安を失ってしまう。
決して許してはならない。すぐに主のもと
へ行こう。
 


2006年03月14日(火)

「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)


最も難しいのが「待つ」ことだと
言う人は多い。あなたもそうだろ
うか。待てないのだ。すぐに導き
が欲しい、結果が欲しい。
神を待ち望めないので、自分が動
き回る。動く事は、待つ事より簡
単で楽だ。動く事で充足感が来る
ので、動いて心を落ち着かせよう
とする。不安なのだ。不安で待て
ない。待つ事には信仰が要る。
目に見えるところ、何の動きもな
い中で、じっと待つ。神を待つ。
そのような期間を通して、信仰が
練られ、鍛えられる。成長して行
くのだ。もし、信仰に成長したい
なら、待ち望む事は、必要不可欠
で、なくてならない要素だ。
何もかもが薄れて行き、期待をた
だ神にだけ置いて、じっと神を待
つ。待つ事なしに、どうして神を
知れよう。待つ人だけが、神に出
会い、そして神の愛を真に知る。
救い主の誕生をじっと、ひたすら
待ち望んだ人々が、大きな喜びに
満たされたように。
--------------------
明日の事を知り得ないことは感謝
だ。約束のみことばをじっと握り
締めて待つ事ができるから。
必ず、守られ、祝福に満たされる
事信じて、今の試練に打ち勝とう。


2006年03月13日(月)

「たまたま、祭司がひとりその道を下ってきてが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」(ルカ10:31)


気づかなかったのでなく、知ら
なかったのでもない。「見た」
のだから。祭司もレビ人もしっ
かり「見て」故意に通り過ぎた。
数々言い訳があった。神殿の任
務に遅れる、迷惑がかかる、死
人に触れると任務ができなくな
る、自分でなくても・・。
要するに余計な事に関わりたく
無いので、自らを閉ざした。
私達自身の姿だろうか。敵であ
るサマリや人が助けた。主の姿
だ。傷つき血を流し、息絶え絶
えに苦しみ倒れている。この旅
人も自分の姿だ。罪にまみれ、
傷つき弱り果てている。主イエ
スが近づき、犠牲を払い、身を
挺して介抱して下さった。放っ
ておかれたなら滅びだ。日々、
様々起こる出来事の中で、自分
を取るか、相手を取るかだ。
つまりは、自分かキリストか
だ。自分を捨ててキリストか、
自己主張、自己貫徹か。常に
選択だ。
----------------
自己貫徹、自己実現、この世の
価値観は常にこれだ。私たちの
とるべき姿は何だろう。より良
い選択ができますように。


2006年03月12日(日)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30

私達の一番の願いは、信仰の成長ではな
いだろうか。主イエスが盛んになられ、
古い自分が衰えて行く。これが信仰生活
の成長だ。自分にとってこれこそが支え、
力、命だと思って来たものが取り去られ、
崩されて行く事を通る。それは、非常な
苦しみと痛みだ。自分の命そのものだか
ら。しかしそのようにして、自分自身が
砕かれて、小さくされて行く経験をする。
そして、まさにその時こそが、主に出会
う時だ。頭で知っていた事が真に自分の
ものになる。人間的には、最も自分の醜さ、
小ささ、無力を知る時であり、一番辛い
時だ。何も支えにならず、頼れず、自
分は何者でもない、倒れるばかりであり、
すべてを失ったように感じる。最も惨め
な時だ。しかし、その時こそが、実は大
いなる祝福の時だ。主と面と向かい、主
の愛に真に触れる。それまでは頭だった
とわかる。痛いが、古い自分が衰えて行
く事が、心の中で御霊の支配が広がり、
喜びが増し加わる事だ。
・・・・・・・・・・・・・・・
自分の命であるものを献げた時、初めて主が
わかる。主が命となられる。それまでは主が
よくわからない。献げた時、自分が命だと思っ
ていたものが、ちりあくただとわかる。


2006年03月11日(土)

「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて・・襲わせたので、彼らは打ち負かされた」U歴代20:22

会社が倒産した男性、すぐには仕事も見
つからず、当座の生活費の当てもなく、途
方に暮れた。祈りに祈った。すると、祈り
の中で、神は決して見捨てられない、必ず
必要は与えて下さるとの確信が来て、願い
が感謝に変わった。それで感謝を献げてい
ると、何と以前に貸し、もうすっかり忘れ
ていたお金が返済されて来たのだ。今まで
返せず心苦しかったが、仕事がやっと軌道
に乗ったのでと。当座の必要が満たされ、
落ち着いて仕事捜しが出来た。やがて仕事
が与えられた。別の男性は、仕事上の難題
が生じ、悶々と悩み、夜も眠れず祈り続け
ていた。夜が明ける頃、どのようにかはわ
からないが、神が解決されるとの確信が来
た。それで、今度は感謝を献げていると、
その悪状況の中で全き平安に包まれた。出
社してみると、何と一夜の内に事態が好転
していた。取引先の気持ちが変わったのだ。
神に頼ろう。祈りと感謝をささげよう。
・・・・・・・・・・ 
窮地に陥り、必死の祈りの中で主に自分も
状況も一つ一つ明け渡して行くと、状況は
全く変わらず悪いままなのに、心は平安に
なる。そして感謝していると、祈りが答え
られる。


2006年03月10日(金)

「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私へのすばらしいゆずりの地だ」(詩篇16:6)



測り綱とは、土地を測るため
に用いられるものだ。それが
落ちた所が、結果的にどこで
あったとしても、自分の好む
所となり、素晴らしいゆずり
の地となるという事だ。主に
あるなら、苦しみから喜びが
生まれる。苦しみに会ったこ
とは幸せと、必ず言えるよう
になる。苦しみのその所で、
神を深く知るようにされる。
測り綱は「落ちる」のだ。
しばしば、自分で思い通り
の所へ落とそうとする。ど
う考えてもこれが最善との、
自分の思いがあり、自分の
道を自分で計画する。
しかし、自分では決して選
ばない道、どうしてこんな
事が、という事態こそが自
分を造り上げてくれるのだ。
後に必ず、あの時、あそこ
に測り綱が落ちたから、今
の自分があると言える。
一つ一つの苦しみが素晴ら
しいゆずりの地だったと必
ず言える。
-------------------
今与えられている地に感謝し
よう。そこは豊かな恵みの地
だ。信仰の目で見て、目的意
識をかきりもって今日も今置
かれた場所ではげもう。


2006年03月09日(木)

「マリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばを聞き入っていた」(ルカ10:39)



デボーションが大切で、信仰生活
の生命線だと、誰しもよくわかっ
ている。よくわかっているのに、
実践がなかなか難しい。朝起きた
途端、すべき事が頭をグルグル巡
る。あれをしてこれを・・、余りに
忙しくて御言葉の時間が取れない。
ああ、時間があったならと嘆いて
いた人に、突然休暇が入った。
しかし、日頃の疲れのためゴロ寝
だ、行楽だと、結局休暇中もデボ
ーションが持てなかった。
余りのふがいなさに悲しみ、主を
仰いだ時、気づいた。時間の問題
ではなく、持とうとしない自分の
心の頑なさが問題であった。
その自分を正当化して、環境のせ
いにしていたのだ。自分の姿を認
め、悔い改めて、主に助けを求め
た。その後、どんなに忙しい中で
も、朝少しづつでも、主と交わっ
て始められるようになった。
主は助けて下さる。現状を認めて
求めよう。
---------------
持てないのではなく持たない、だ。
忙しさはデボーションをもてない
言い訳にはならない。ひと言でも
みことばを聞いてから、一日をは
じめよう。


2006年03月08日(水)

「天にあるもの、地にあるもの・・王座も主権も支配も・・万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです」コロサイ1:16

有形無形、世界の何もかもが「主のために」
造られたとある。宇宙自然も、親子、夫妻、
富、名誉、地位、仕事・・何もかもだ。「私」も
そうだ。聖書の根本価値観が「神中心」だ。
引き替え私達は罪の性質ゆえに「人間中心
・自分中心」だ。このため、なかなか神や御
言葉がわからない。物事を自分中心にしか
考えられないからだ。どこまでも自分中心
に発想し世界は自分中心に回っている。頭
では神中心だが、実は古い価値観、根深い
自己中心があり「すべては私のために造ら
れ、私のために存在している」日常生活、
無意識にその上に回っていないか。それに
気づく時に新しい歩みが始まる。そこで根
本的に間違っているから、問題が派生する。
悶々とし、ギクシャクし、いつもイライラし、
摩擦が生じ、問題が起こる。人生うまくいか
ない原因だ。「私」も、「私の人生」も主の
ために造られた、「私のためでなく、主の
ため」、この土台で回る時、不思議に自由
と喜びと平安を経験し、解放されて行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
不安、思い煩い、焦りやイラ立ちがある時、
自分のために生きている。自分のために生
きない時、安堵と喜びに溢れ。本来の本当
の自分を生き生きと生きている。本当に私
達は主のために造られている。





2006年03月07日(火)

「わたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは・・導き入れることはできない」(民数記20:12)


荒野で、民がモーセに水を要求
した時、神はモーセに岩に命ず
るよう言われた。しかし、モー
セは従わずに、岩を二度打ち、
失敗した。従わなかった事で
、約束の地を目前にして、入る
事を許されなかった。致命的な
過失に後悔した事だろう。
あの時、民が水を要求しなけれ
ば・・自分が忍耐していれば・・し
かし、ヘブル書でモーセは信仰
の模範として出てくる。これは
罪を犯してしまった人への、大
きな慰めと励ましだ。どんなに
大きな失敗をしても、神は悔い
改めるなら赦して下さる。神の
赦しがあるのに、自分で自分を
責め続けることは間違っている。
神の赦しを受けよう。罪は帳消
しにされる。罪は赦されるが、
した事の責任は自分にあるので、
刈り取る事になる。逃げないで、
神と共に刈り取る事が、一番の
祝福の道だ。
-----------------
いつまでも責めて来るのはサタン。
私たちは罪を犯しても悔い改めて
新しく出直すことが出来るのだ。
取り返しがつかないのは、それを
機に神様から遠ざかることだ。


2006年03月06日(月)

 「主は再びシロで現れた。主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからである」(Tサムエル3:21)

 


少年サムエルがエリに仕えていた
頃、主の言葉はまれにしかなく、
幻も示されなかった。その頃、民
は偶像礼拝をしていて、神の声が
聞こえなくなっていた。私たちも
自己中心な歩み、肉の欲望に従う
生活、世の価値観に染まって行く
と、神の御言葉がわからなくなる。
自分でシャットアウトする事にな
る。主はサムエルに語られた。
彼は主を知らなかったが、エリに
忠実に従っていた。神の声をエリ
だと思い、三度も起きてエリのも
とへ駆けつけた。権威に従順に従
うことにより、神への従順を学び、
備えられ整えられて行った。
私達も、好む好まざるに関わらず、
どうであれ「従います」の姿勢が
ある時、御声がわかる。聞き分け
る事ができる。自分に都合の良い
言葉をえり好みしていないか、心
を探っていただこう。
------------------------
世の価値観、自分の思い・・謙遜
に御声を聞こうとしなければ自分
に都合の良いところに導かれてし
まう。今週も御声を求めて歩もう。


2006年03月05日(日)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Uコリント7:10)

御霊が働いて悔い改めに導かれる時、それ
まで悪いと思っていなかった事が、どんなに
恐ろしく、罪深いことかを見せられる。御霊
が臨まれると、それが罪であるとはっきりわ
かる。言い逃れも弁解も無い。相手も周囲
もいっさい見えない。それまでは、自分も悪
いが、相手も悪いと思っていたのが、そうで
はなく、ただただ自分の罪しか見えないのだ。
心底認め、悔い改めることができる。御霊
が悔い改めを与えられ、その罪は赦される。
心に平安が満ちる。世の悲しみはサウルの
罪への認識だ。「罪を犯しました、しかし、
私の面目を立てて下さい」と言った。世間
体が悪い、格好が悪い。神でなく自分の事
だけだ。口先だけの悔い改めなので、砕か
れる事も、赦される事も新たにされる事も
無い。御霊のみが真の悔い改めを与える
事ができる。
・・・・・・・・・・・・
サウルは、神の目ではなく、人の目を気に
した、そちらの方が大切だった。結局、自分
の面目を立てるための罪の告白でしかなか
った。人の目でなく、神を大切にして行ける
よう、祈ろう。



2006年03月04日(土)

「わたしは人からの栄誉は受けません」ヨハネ5:41

主の命令に聞き従わず、罪を犯したサウ
ルは罪を悔い改め、礼拝すると言った。
しかし、その本性は面目を立てたいという
ものだった。単に形の上での悔い改めで
あって、真のものではなかった。サウルに
とって一番大事なものは、自分の体面、
体裁であった。神の前でなく、人前に生き
ていた。人からの賞賛を求めて生きる時、
神を信じることが出来ないし、神を愛する
愛もない(ヨハネ5:42,44)すでに自分の記
念碑を立て、人から崇められるために生
きた。人の歓心を買うなら神から離れて行
く。人の賞賛を求める心、人から良く見ら
れたい心は、私たちにも深く巣くっている。
これは気づかないだけで、思う以上に根
深いものがある。しかし、神は愛してい
て下さり、神の愛は変わらない。自分に
は無いとふたをするのでなく、自分の心
の底に気づき、認める事からいやしが始
まる。人でなく神の評価を見続けよう。
心に変わる事のない喜びと平安が来る。
・・・・・・・・・・・・・・・
人からよく見られたい心、人からの賞賛、
体面、体裁、虚栄心、プライド・・心の底を
今日しっかり御霊に探って頂いて、悔い改
めよう。それらが出て来た時には、常に気
づきを与えられるよう、祈っていよう。


2006年03月03日(金)

「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには、地に落ちることはありません」(マタイ10:29)


当時の雀は「価値の無いもの」の
代名詞だった。その雀さえ御父の
目に深く留められている。これは
私達の身に起こる事はすべて父の
配剤だという事だ。父の許しなし
に何一つ起こらない。
ダビデはサウルに命をつけ狙われ
たが、その王を殺す機会があった
にも関わらず、殺さなかった。
自分の守りを神に委ねたのだ。
シムイがウリヤ殺害の事で、ダビ
デを呪った時も、首を跳ねようと
する側近を止め、呪わせよ、神が
そうされたのだと、神の支配を認
めた。神の主権と背後の御手を全
面的に認め、神に自らを委ね信じ
たのだ。すべてが御父の支配の中
とは何と平安だろう。今、あなた
に起こっている事に、神の目的が
あり、意図がある。神に焦点を当
てて、祈って行こう。神のご計画
の中だ。最終的にあなたの祝福の
ためだ。
--------------------
現実の中に生きた神様がおられる。
日々試練に見える生活や、一見つ
まらなそうな平凡な暮らしでも、
一日一日が神様の愛に満ちた大切
なご計画の時だ。どのように受け
取っているだろうか。


2006年03月02日(木)

 「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」(詩篇30:11)

 

パウロは小アジア、又、ビテニ
ヤの宣教を禁じられ、マケドニ
ヤへの道が開かれ導かれた。
パウロの思いとは違った。しか
し、ヨーロッパへ福音が前進す
る事となった。私たちの過去を
振り返ると、「え?何で?」と
突然門が閉ざされ、落胆し方向
を変えて歩んだ事がある。それ
が踊りであり、喜びとなった事
が数々あるのではないか。思い
出してみよう。進学時、思いの
道を閉ざされ、別の道が開かれ
進むと、素晴らしいご計画があ
り、就職時、思い通りでなかっ
たが、行った先で素晴らしい出
会いがあった事・・、ある男性
は大学受験に失敗し、心虚しく
なり、離れていた教会に戻り、
やがて神学校へ進み牧師になっ
た。あの受験失敗こそが人生の
大いなる祝福であったと、それ
ゆえに神に帰り、牧師になった
と。嘆きが踊りに。
--------------------
「思い通りにいかなくて良かった
ね」とクリスチャンの友人と話す
事がある。あの時思い通りに行っ
ていたら。当たり前に人生、生き
急いで神様に出会うことはなかっ
ただろう。


2006年03月01日(水)

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」(ヤコブ3:18)

証しをするつもりが、なぜか議論になっ
てしまい、平安が失せた経験があるだろ
うか。主イエスを伝えたいのか、自分の
正しさを伝えたいのか。ここにも隠れた
自我が顔を出す。正しさに立つと必ず議
論になる。又、日常生活で、意見交換を
隠れみのに、実は自分の正当性を主張し、
結局は自己主張をする。議論のはずが、
感情的になり、いつしか言葉の応酬にな
る。感情的に発する言葉は後で必ず後悔
する。建て上げるどころか、足の引っ張
り合いだ。相手の言う事を聞くのでなく、
ただ自分の意見を通し、勝ちたい。絶対に
負けたくない。自分を通したい。こうな
ると全く立っている場所が違う事になる。
御心からそれている。平和とは和らぐ事
であり、調和する事だ。自己中心を捨て、
相手に耳を傾ける事だ。相手を十分受け
入れ、しっかり聞く時初めて、こちらの
言う事にも耳を傾けて貰える。柔和の中
で、証しの種が蒔かれて行く。
・・・・・・・・・・・・
自分の正しさを突き進めると、神様を隠れみ
のにした自我そのものである事を悟る。主に
あっては、愛する事が正しい事だ。大きな間
違いをしていて気づかない。自分が砕かれる
中で、必ず実を結ぶ義の種が蒔かれてゆく。