2006年04月30日(日)

「マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた」ヨハネ20:18

証しとは、「私はイエスに出会って、こ
んなに幸せで、何があっても平安」と、
自分に起きた事によって主を伝える事だ。
単に聖書の知識を幾ら伝えても、まず相
手の心に響かないし、心を動かさない。
喜んでいる私が肝心だ。生きた証言だ。
私たちが心から主を喜び、感謝して主と
共に生活しているなら、大々的な華々し
い伝道でなくても伝わる。必ず伝わる。
私を通して、人々が主を知る道筋が作ら
れて行く。私たちはよみがえりの主に出
会った。その事をまず自分自身が心から
喜び、感謝して生きる事だ。主を切に求
めたマリヤのように、私達も日々主を求
め、交わりを深めて行くなら、主によっ
て生かされて行く。「主にお目にかかり
ました」と日毎に喜んで言える事が最高
の証しだ。自分自身がまず、主で満たさ
れる事を求めよう。
・・・・・・・・・・・・
喜んでいる人を、否定できる人は誰一人い
ない。愛、喜び、平安・・を禁ずる律法はな
いからだ。世のすべての人が喉から出が出
るほど欲しいものだ。日々主と交わり、そ
の感謝と喜びを素直に世の人に語ろう。




2006年04月29日(土)

『彼女に言った。「なぜ泣いているのですか」「・・だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです』ヨハネ20:13

悪霊に憑かれた罪深い女だと、皆から
見下され軽蔑されていたマグダラのマ
リヤが最初によみがえりの主に出会っ
た。主の愛により救われたマリヤは、
誰よりも深く主を愛していた。主への
感謝と愛がその心から溢れていた。空
の墓を離れられず、帰る事も出来ず、
ただ泣いていた。彼女にとって愛する
主は彼女のすべてのすべてであった。
遺体も見えず、主はどこへ行ってしま
ったのか。なすすべもなく、マリヤは
ただ泣くことしかできなかった。そん
なマリヤに主は、言葉によってご自身
を示された。「マリヤ」と名前を呼ぶ
事によって、マリヤにご自身を現され
た。名前を呼ばれたマリヤは、その瞬
間主であることがわかった。途端にマ
リヤの悲しみは大きな喜びに変わった。
私達一人一人にも同じように、求めに
答えて下さる。個人的に呼びかけて下
さる。私達もマリヤと同じように「私
は主にお目にかかりました」と言える
のであり、それが最大の証しだ。
・・・・・・・・・・・・
弟子達は家に帰ったが、マリヤは主を
慕い求める余り、墓を離れられずに泣
いていた。その求めに、主はご自身を
マリヤに現された。自分はどうなんだ
ろう。それほどに求めているのか、ど
っちでもいいのか。 


2006年04月28日(金)

「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」Tペテロ1:7




私たちの信仰は試練によって
本物だと証明される。信仰は
試され、必ず悩み苦しみが臨
む。それは不運でなく、マイ
ナスなものでなく、むしろ成
長するためにどうしても必要
なものだ。苦しみを通して、
信仰が本物になって行く。
逃げないで、きちんと受け取
る事で成長する。金は火で精
錬されて、純化され純金とな
る。振り返ると、苦しみを通
って、信仰が強められ、確か
なものとされたのではないか。
そして、私達が決して強くは
なく、弱い者である事もご存
じだ。弟子達も失敗し主を裏
切った。しかし一番大切な事
は失敗しても、主に立ち返る
事、何度でも十字架を仰ぎ見
て立ち返る事だ。それを続け
るのだ。常に十字架を仰ぎ主
に頼り続ける事、それは誰に
でも出来る。それを生涯続け
るなら、かの日に主からの称
賛と光栄と栄誉を受ける。
------------------
試練の度に自分の弱い所、痛
い部分が示される。その度に
行きづまるが、また主を仰ぎ、
強められる。感謝だ。


2006年04月27日(木)

「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか』(創世3:9)




罪を犯して、神から隠れた
アダムに対して、「あなた
はどこにいるのか」と御声
をかけられた。勿論どこに
いるのか神は知っておられ
る。アダムに悔い改めの機
会を与えられたのだ。
アベルを殺害したカインに
対しても同様だ。
「あなたの弟アベルは、ど
こにいるのか」罪の追求で
はなく、罪を告白する機会
を与えられた。
神のあわれみと愛だ。しか
し、アダムもカインも罪の
悔い改めはなかった。
アダムはエバに責任転嫁し、
カインは弟の番人かと開き
直った。神の警告を無視し
て行くと、ますます心が固
くなって行く。御声に逆ら
い、悔い改めないでいると、
罪はそのままでなく、勢い
を増して来る。罪は熟して
行き、必ず具体的な行ない
へと発展する。罪を甘く見
てはならない。癌のように
増殖し広がる。どんな小さ
な罪でも御霊に示された時
に、御声を聞いた時に、す
ぐ悔い改めよう。罪は霊的
生活に死をもたらす。
今、心に示される罪がある
なら、今、主の御前に悔い
改めよう。
---------------------
自分に都合よく都合よく少
しづつ罪は誘惑して来る。
小さいうちに悔い改めてお
こう。やがて罪しか目に入
らなくなる。


2006年04月26日(水)

『ピラトは言った「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ」』マタイ27:22

主が憎まれたのは、人々の罪を指摘し
たからだ。罪を指摘しないなら、迫害
を受ける事はない。主はユダヤ人の欺
瞞を暴き、間違いを示した。罪を悔い
改め、神の救いを受けるようにだ。し
かし、彼らはどこまでも自分は正しい
人間であり正しい信仰者であり、罪は
無いと言い張った。救いの必要性など
無かった。人は良い人だと言われてい
る限り問題は起こらない。しかし、主
は明確に彼らの罪を指摘されたので、
彼らは主を憎んだ。憎悪はエスカレー
トして行った。ピラトは、主が無実で
ある事はわかっていて、釈放しようと
した。しかし、暴動をチラつかせ脅さ
れた。彼は正しい事はしたいと思った
が、自分の地位や将来を犠牲にしてま
でその気は無かった。私達はどうだろ
う。ピラトのように自己保身で知らん
顔、主を十字架につけるだろうか。そ
んな私達をこそ、愛し抜かれた、主の
十字架を覚えよう。
・・・・・・・・・・・
二つの側から主を十字架につける。優柔
不断と保身によって。もう一つは「自分
が正しい」に立って。自我は神や御言葉
まで身によろい、自己を主張する。どち
らも自分の内にある。それを十字架の愛
がおおう。


2006年04月25日(火)

「祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水は、もとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。」     (ヨシュア4:18)    





                   
神は、奇跡をなし、ヨルダン川
の水をせき止められた。
それだけなら、ある人々は、何
らかの自然の作用でそうなった
のだと主張する。しかし、その
水が再び元に戻ったなら、神の
わざとしか言いようがない。
紅海の時も、民が渡ると水はも
とに戻った。以前、子供キャン
プを実施。大量の食料も購入済
み、用意万端の前日、台風の大
雨、朝から1日中どしゃ降り。
スタッフが心配して夜祈りに来
た。明日どう見ても止みそうに
ない。予報も大雨で常識的には
不可能。しかし、全能の主に、
主だけを頼みに祈りに祈った。
夜中祈り続けた。朝起きると何
と太陽が顔を出しカラリと晴天。
奇跡だった。そして、祝福のキ
ャンプ終了、片づけ終わり、帰
途の車に乗った途端、パラパラ
と雨、大雨が戻ったのだ。
神がご自身を現して下さった。
決して忘れられないみわざだ。
神は今日も生きておられ、働い
ておられる。
------------
大自然を支配され動かし、この
小さき者の祈りを聞き届けられ
る。このお方に立つも座るも、
すべてを委ねて歩めるとは、な
んたる幸い。


2006年04月24日(月)

「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも先に行って、自分のをお買いなさい」マタイ25:9


五人の賢い娘達がいじわるに見
えるかも知れない。分けたらよ
いのにと。しかし、分けたなら、
結局十人皆ともしびが灯せず、
花婿が迎えられない。そして、
この油は、分けたり貰ったりで
きる性質のものでは無い。聖霊
や信仰は人に分ける事など不可
能だ。どうやって分けるのか。
「自分のをお買いなさい」。
人任せの信仰などあり得ない。
自分で信じ、自分で求めなけれ
ばならない。あなたと神との個
人的関係だ。そこに誰も入る事
が出来ない。人は「自分の信仰」
に立たねばならない。
愚かな娘達は備えを怠った。
油の不足に気づかなかった。
世の事で忙しく、求めた時は遅
すぎた。「今」しかない。
神との地道な個人的関係を深め
よう。日々交わりを持ち続けよ
う。遅すぎるという前に。
何が一番大切なのか。世の騒ぎ
に惑わされずよく考えよう。
自分の信仰を確立しよう。
「自分のをお買いなさい」。
-----------------------
何が大切か、大切なことはわず
かだと、いや一つだけだと主は
言われた。何にも優先する事を
今週もよく考えて選んで行こう。


2006年04月23日(日)

「翌朝早く、アブラハムはろばを鞍につけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った」創世22:3

アブラハムにイサクを全焼のいけにえと
して献げるよう、神が命じられた有名な
箇所だ。「神はアブラハムを試練に会わ
せられた」とあるように、神が与えられ
た厳しい試練であった。目に入れても痛
くない最愛の息子を殺す事は断腸の思い
であったろう。自分が死んだ方がよかっ
たろう。アブラハムは神に従った。神が
約束の子であるイサクを必ず返して下さ
ると信じて。「翌朝早く」彼は行動を起
こした。これは従う時の模範で鍵だ。主
のみこころにはすぐに従う事だ。「急い
で、ためらわずに、あなたの仰せを守り
ました」詩119:60 ちゅうちょし、ぐず
ぐずしていると従えなくなる。結局みこ
ころを行えなくなる。あなたも何回も経
験しただろう。肉は御霊の示しをすぐで
なくともと、無視し、ないがしろにし、
しようとしない。サタンの攻撃も来る。
遅らせるほど従う事が不可能になる。献
金や新しい決心や日常での様々な御霊の
示し、促し、今すぐに従おう。大きな祝
福を受け取る。
・・・・・・・・・
御霊の促しがあれば今すぐ従おう。後で
と、ぐずぐずしていると出来なくなり、
促しも消えてしまう。従い損ねてしまう。
後で従うべきだったと、状況でわかる事
になる。主への愛のゆえに行おう。










2006年04月22日(土)

「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた」マタイ25:4

ともしびを持って花婿を迎える十人の娘。
五人は愚かで、五人は賢かった。どちらも、
ともしびを持ち、どちらも眠ってしまった。
そこまでは同じだ。違いは入れ物に油を持
っていた事、そこだけだ。油を用意してい
た事が賢いと言われたのだ。愚かな娘達は
備えていなかったので肝心な時に間に合わ
ず、祝宴に入れなかった。備えなかった事
が愚かだった。主を信じた私達は皆、天国
へ行ける。しかし、その信仰生活は、日々
主の再臨を見据えて用意をしているだろうか。
聖霊に満たされる事を求めて、豊かにともし
びが赤々と点されているか。油が芯にしみ
て行かなければ、ともしびは輝かない。信
仰生活も聖霊に満たされなければ、輝けな
い。今、生活がマンネリになって、恵みを
忘れて惰性に流されていないか。今は求め
る者に誰にでも聖霊は与えられる。今一度
主の十字架の苦しみを覚えて、赦された者
として恵みの中にしっかり立とう。感謝が
失せると倦怠だ。花婿を迎える時が「必ず」
来る事を、その事を今一度覚えよう。
・・・・・・・・・・
目の前の日常をこなす事に流されていない
か。「明日は」「明日こそはちゃんと交わ
ろう」と、信仰のこと、神様のことを後回
しに後回しにしている内に、時すでに遅し
という事になる。人生で一番大切なものに、
今日、目を向けよう。


2006年04月21日(金)

「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」ルカ15:26

主は人々に、甘い言葉で招く事などさ
れなかった。むしろ、群衆が引いてし
まいそうな、はっきりとした真実の言
葉を語られた。親、妻、子を愛する事
は、神の御心であり「憎む」というの
は優先順位の問題だ。本当に憎む意味
でなく、神を第一にするという事だ。
私達はこの世界で、サタン・世・自分
の肉という3つの敵と戦っている。こ
の世は楽しみや富を用いて心を奪う。
又、肉があり、ダビデが姦淫を犯し、
ペテロが自分を守るために、主を裏切
ってしまったように、つまづいてしま
う。悪魔の罠が至る所にある。常に主
イエスにとどまり「自分の十字架を負
って、主と共に歩む事」それはつまり、
自分への主の御旨を受け入れて行く事
だ。それは負いやすく軽い。負う時に
平安が来る。主が共に負って下さって
いるからだ。
・・・・・・・・・・
御旨から逃げず、しっかり受け入れて
行くところに、解放、喜びがある。主
の「わたしのくびき」は、負う時、身
体にピッタリ合って快適、心地良く安
らぎが来る。逃げるから苦しく、負う
事が主の解決の道。


2006年04月20日(木)

「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」(ルカ16:9)



「不正の富」とは不正によって
得た富という意味ではない。
永遠での「まことの富」に対し
ての「不正の富」なので、この
世の富という意味だ。自分に任
されたこの世の富を用いて、永
遠のために友を作れという意味
だ。かの日に、この世であなに
任された富をどう用いたかを、
皆、問われる。富とは金銭だけ
でなく、時間、身体、才能、立
場・・、神から任されているすべ
てのものだ。それを、かの日の
ために投資せよと勧めている。
天に宝を積め、賢く使えという
事だ。投資するなら天で豊かな
報いを受ける。しかし、この世
で自己中心に自分のためにだけ
浪費すれば、それで終りだ。
天で報いも無い。神からあなた
に自由に任されている。
あなたは与えられているものを、
どう使っているか。常に今日を
永遠につなげて、永遠のために
備えよう。与えられているもの
を、御心に従い賢く管理しよう。
----------------------
神様にゆだねられた豊かな富を
無駄にすることなく使いこなせ
ますように。天に宝を積めるの
はこの地上にいる間しかない。


2006年04月19日(水)

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)

あなたが家族や友人と待ち合わせを
した時、約束の時間に来なかったら
どうだろう。嘘つきだ、愛を信じれ
ないなどと不信感を持つだろうか。
まず何か急な事情が出来たと思わな
いだろうか。それは相手を信じてい
るからだ。ましてや、完全な愛で愛
していて下さる神をなぜ疑うのだろ
う。ある少女の祖母が誕生日に人形
を贈ると約束していた。誕生日が過
ぎたが届かなかった。母親はきっと
忘れたのだと言ったが、少女は、祖
母は忘れていない、絶対に届くと言
い張った。3日後に届いた。良いも
のが無くてあちこち捜しに捜し回っ
て遅れてごめんねとの手紙と共に。
忘れたのでなく、その間もその事の
ために労し続けていたのだ。人間で
すら約束を果たすのに、神がされな
いわけがない。神は約束を実現され
る。「もし遅くなってもそれを待て。
それは必ず来る。遅れることはない」
神を信じて待とう。
・・・・・・・・・・・
神は約束を下さる。信仰とは約束を
信じる事だ。目に見える状況と目に
見えない御言葉による約束が、常に
目の前に交錯するが、約束して下さっ
たお方の極みまでの愛と真実にしっ
かり思いを馳せよう。


2006年04月18日(火)

「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」(ヤコブ1:2)





我慢と忍耐は違う。我慢は、
苦しみが通り過ぎるのを、
ただじっと待つだけであり、
消極的で希望がない。
ここでいう忍耐とは、神が
この事を必ず良きにして下
さると信じて、待ち望むこ
とだ。忍耐とは積極的なも
ので希望がある。この忍耐
が生まれるのは、信仰が試
される時だ。真っ暗な中で、
神が必ず良くして下さる、
夜の後に朝が来ると信じて
待つ事だ。この信仰を神は
喜んで下さる。朝が来ると
信じるのは、夜だ。
試練の時にこそ信じ待つ事
ができる。試練でなければ
不可能だ。だから霊的成長
を遂げる事の出来る、試練
を喜べと言われる。
「我慢」でなく、「忍耐」
する事が大切だ。我慢は何
の実も結ばない。ある人が、
自分は忍耐でなく我慢して
いた、神への信仰と期待の
忍耐でなく、自分の力です
る我慢だから鬱積が溜まり、
それは必ず大爆発すると。
忍耐と我慢、神への信頼と
自分の力の違いだ。
あなたはどちらだろう。
忍耐は私達を必ず一段階
成長へと導く。
-------------
心の不満の対処が出来てな
いから我慢は苦しい。
すべてを委ねて朝が来る事
を待ち望む時、心は平安に
導かれる。我慢でなく忍耐
を学ぼう。


2006年04月17日(月)

「今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。今、おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ」(U列王18:21)



ラブ・シェケは、ヒゼキヤがエジ
プトと同盟を結んでいたのを、
エジプトなど、いたんだ葦の杖だ
と言ったが、実際その通りだ。
エジプトに拠り頼んでも無力なの
だ。敵はその問題点を責め立てて
来る。ラブ・シェケがしている事
は悪魔が私たちにする事だ。
サタンとは「兄弟たちの告発者」
「神に選ばれた人々を訴える」
「罪に定めようとする」者だ。
いつも思いの中で攻撃して来る。
ラブ・シェケのように、私たちの
肉の弱さや欠点に集中攻撃が来る。
肝に銘じておく事は、サタンの攻
撃とは、いつも私たちを失望落胆
させ、主に拠り頼む事を止めさせ
る事だ。気落ちさせるのだ。
失望する時、気力が失せてしまう。
あなたにも今、この攻撃が来てい
ないか。失望が来た時、このサタ
ンの攻撃を覚えて、立ち向かい主
に拠り頼もう。
----------------
罪を犯したとしても、神様に言い
表すなら神様は赦して下さり、自
信喪失しても「高価で尊い、愛し
ている」と言って下さっている。
みことばの約束をしっかり握って、
サタンに立ち向かおう。


2006年04月16日(日)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができすか」ヨハネ5:44

私達は、周囲に合わせながら、人が自分
をどう見ているかという視点で、自分を
位置づけ生きている。自分の態度や行動
を相手に合わせてコロコロ変えて行く。
まるでカメレオンだ。人に良く見られたい、
人に嫌われたくない。これは人の評価に
よって生きている事であり、人が神とな
っていて、人に依存している事だ。この
ように生きている人は多い。本当の自分
を押し殺し、人に合わせ、何が本当の
自分かがわからなくなる。このユダヤ人達
は迫害を恐れたのでなく、人からの評価
を恐れた。肉のプライドで生きている時、
人から馬鹿にされ、見下される事が耐え
られない。傷つき、怒る。自分はそうでない
と思っているが、誰しも、人に認められた
いという根深い肉がある。それが神と自分
との間の隔てとなり、神を深く知れないで
いる。心探ってみよう。」それに気づき、
認める時、主の光の中だ。自由にされて、
主を知って行ける。
・・・・・・・・・・・・
「主は御霊です。主の御霊のあるところに
は自由があります」では、神はどう見てお
られ、どう思っておられるのか。神の視点
に立つ時、肉に気づく。主に向くならおお
いが取り除かれる。

 


2006年04月15日(土)

「健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ・・」(Uテモテ3:3)

子供は、都合の良い言葉には素早く反応
するのは驚くばかりだ。「片付けなさい」
「勉強しなさい」は聞こえないが、「ケ
ーキよ」には即反応する。しかし、自分
自身もどうだろう。痛い言葉、矯正の言
葉、警告の言葉は聞きたくない。犠牲を
要求される言葉は避け、砕かれる言葉は
すり抜け、自分に心地良い、都合の良い
言葉だけを聞いていると「空想話にそれ
て行く」。真理から離れた自分中心の都
合の良い信仰へ。もはや信仰でなく空想
話だ。又、「自分は正しい」に立つ、古
い自分を根拠にした、自分の思いの信仰
にそれて行く。信仰のつもりが、自我が
どんどん強固になって行く。痛い言葉こ
そが聞くべき言葉。自分に必要な、自分
を成長させてくれる言葉だ。
・・・・・・・・・・・・・・
自分に都合の良い御言葉を寄せ集め、
自我がぬくぬくとはびこり、空想信仰
に陥って行く。痛い事態を、痛い言葉を
現実を見てしっかり受け取ろう。ここか
ら成長が始まる。




2006年04月14日(金)

「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(T列王19:12)

子供がラジオのダイヤルを回
し、音が出ない出ないと言っ
て来た。
早く回し過ぎていたのだ。
周波数を合わせると、子供の
聞きたい番組が出て来て、大
喜びした。ふと自らの信仰生
活を振り返った。余りに急ぎ
過ぎていないか。現代人は皆、
忙しい。
次から次へとスケジュールは
目一杯、テレビ、新聞、イン
ターネット、あらゆる情報が
溢れ返っている。身体も消耗
し、頭も情報で一杯、日々次
々と強烈なニュースは飛び込
んで来る。目まぐるしい。
一番大切な神はどうなのだろ
う。一番聞くべき御声だ。
細い声は静まらない限り聞こ
えない。心を神に集中させる
のだ。毎日、10分でも15
分でもよい。時間をきっちり
決めて毎日「聖別」する事だ。
取れる時にと言っていたら絶
対に取れない。神の御声は細
い声だ。心の一番奥深くに届
く声だ。この声に触れる時、
私達は癒される。この声で喜
びと指針が与えられ私達は変
えられる。私達がどうしても
聞くべきは、細い神の御声だ。
---------------
家事や身の回りの事に振り回
されていても、神様は決して、
無理に引き止めてデボーショ
ンさせたりされない。
静まって聞く者だけに神様は、
語られるのだ。


2006年04月13日(木)

「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」(箴言3:12)



犬をしつける時、説得しても
無駄だ。罰を与えてしつける
必要がある。しかし、私達と
神との関係はそうではなく、
信頼関係にあるはずだ。
だがもし神の子達が従わない
時は、神は懲らしめを与えら
れる。これは神の愛だ。
神は、神に対する愛のゆえに
、自発的な自由意志で従って
欲しいと思っておられる。
私達に不従順がある時、神は
私達にわかるやり方で懲らし
められる。これは私達が私生
児でない証拠だ。もし神の子
でないなら、何をしようと懲
らしめは無い。懲らしめが無
い事を心配した方が良い。
犬は罰を与えられ、痛いから、
飼い主に従う。私達はどうだ
ろう。犬のように罰を与えら
れるから、痛いから従うのだ
ろうか。それとも、命を捨て
て愛して下さった神に感謝し、
喜ばせたいからか。あなたの
動機はどちらだろう。
今、懲らしめが来ているか。
神のもとへ帰らせたいがゆ
えだ。
--------------
懲らしめがあるから従うので
なく、愛する神様を悲しませ
たくないから従うのだ。
懲らしめの背後にいつも、私達
を愛し案じて下さっている神様
がおられる。


2006年04月12日(水)

「私も、失うときには、失うのだ」創世記43:14

ヤコブは、ベニヤミンをも取られるとの事
態に、このしらが頭の私を悲しみながらよ
みに下らせる事になると、深く嘆いた。ヨ
セフもシメオンもいなくなり、何もかもが
悪い方向に向かっている。失望と落胆。環
境を見ると、祝福の約束も見えなくなって
しまった。すべてが逆行しているではない
か。しかし、実際はそうではなく、真っ直
ぐに神の祝福の約束に向かっていた。ヤコ
ブはユダの説得に、信仰の目が回復した。
全能の神にこの事をお委ねした。そして、
全主権を持つ神を認めた。だからこそ、
「失う時には失うのだ」と潔く言えた。神
は与え、神は取られる、もし取られたとし
ても、すべて神の主権だ。主の御名はほむ
べきかなと結果するはずだ。ヤコブは委ね
た。結局ヤコブは何も失ってはおらず、す
べてを取り戻し、驚くばかりの祝福の結実
を見た。あなたは今、何もかもが逆行して
いるか。信じていよう。実は、すべてが御
旨に向かって真っ直ぐに進んでいる。自分
の思いでなく、神の御旨に向かってだ。
自分自身を明け渡して事態を見守っていよう。
どうであれ神のみこころが成る。
・・・・・・・・・・・
神に委ねると言いながら、実は自分がしっか
り堅く握りしめている。握った手を絶対に放
さない。失う時には失うのだと、全面的に
神に手放し、明け渡す時、心が平安に自由に
され解き放たれる。


2006年04月11日(火)

「しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった」(U列王17:14)



イスラエルは、モーセの律法に
そむいて罪を犯したが、列王の
時代の民は、律法にも預言者達
の声にも聞かず、心を頑なにし
た。私たちは、神の警告があっ
た時、それを無視してはならな
い。神は御心にそれている時に、
必ず警告される。
立ち返らせるためだ。警告があ
るという事は希望があり、立ち
返る事が出来るという事だ。
耳を傾けよう。方向変換して、
神に向き、悔い改め従おう。
警告を無視し続けるなら、御声
がやがて聞こえなくなる。
そして罪に飲み込まれた状態に
陥る。一番恐ろしい事だ。
ゼデキヤはずっと警告を受けて
いたのに、神に従わなかった。
その結果、エルサレムは陥落、
ゼデキヤは両目をえぐり出され
バビロンへ捕えられて行った。
警告は神の愛だ。放っておかれ
る事こそ恐ろしい事だ。
今、警告や忠告が臨んでいたら、
その愛の御声に素直に従おう。
今こそが立ち返る時だ。
-----------------
するべき事、してはならない事、
いつも御霊様は警告して下さっ
ている。その声に聞き従わなけ
れば、さらに闇に踏み込んでし
まう。光の中を歩もう。


2006年04月10日(月)

「彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので」(使徒16:6)


ある人が海外宣教の志があり、
祈っていると、親が倒れ介護
の必要が生じた。御霊の導き
は、海外宣教師になる事では
なく、親を看ながら教会で仕
える事だと確信した。
別の人は、社会人として教会
で仕える事を願っていたが、
宣教師となるよう導かれた。
ある方向へ進もうとするが、
門が閉ざされ阻止される。
神の思いは人の思いと異なる
事を、しばしば経験する。
しかし、ここでパウロはマケ
ドニア伝道へと導かれ、重要
な働きをする事になる。
ユダヤの片隅で起こった主の
教えが、海を渡りヨーロッパ
へ伝えられて行くのだ。
ローマにも伝えられた。それ
はつまずきでも、落胆でもな
く、遙かに重大な働きへの機
会だった。八方塞がりの中で、
実はその向こうに大きなビジ
ョンが横たわっている。
より大きな祝福へと導くため
に、違う門を閉じられるのだ。
あなたは今、門を閉じられて
いるか。あなたの思いを越え
た、別の、更に大きな祝福へ
の道が開かれているという事
だ。
-----------------
行くのも、留まるのも主の導き
のままにと、まずその状況を受
け入れよう。自分の思いを捨て
現状の中で主を賛美できた時、
開かれた祝福の門の先が見えて
くるかもしれない。


2006年04月09日(日)

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます・・彼は自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます」(ヨハネ10:3)


信仰生活で、「導き」が必要な時がある。
聖書に原則が記されていて、それに従えば
よい。それ以外の事柄は、御言葉と祈りに
よる平安と環境が一致する時、その方向へ
進めば良い。それでももし違うなら、神が
関与し、止めて下さる。御言葉や平安は主
観的なものなので、万一間違った場合にも、
神はその事も示して下さる。環境を通して
わかるように示される。どうであれ、神に
従おうとの心がある時、必ずわかる。環境
の門を閉じ開きして、御心の道へと導いて
下さる。閉じられたなら、それは御心では
ない。御心の道は必ず神が開かれる。自分
でこじ開けるのではない、よじ登って越え
るのでもない。必ず目の前で開いて行く。
進学、就職、結婚・・神は導きの主だ、必
ずあなたを御心の道へ導かれる。門が閉
じられたなら、開かれた門から行けばよい。
祈りと御言葉と状況をよく照らし合わせ
見極めよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
私達は皆、主の御声を聞いたから救われた。
羊は羊飼いの声がわかる。「聞き分ける」と
は、様々惑わしの声もあるという事であり、
その中から、羊飼いの声がわかり、選び取り、
それに従うことだ。


2006年04月08日(土)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである」Uコリント12:9


モーセは神から召しを受けた時「私はこと
ばの人ではない」としり込みした。しかし神
は、わたしが言うべき言葉を授けると保証さ
れた。モーセには出来ないが、神が共におら
れるなら何の問題もない。私たちも身体的弱
さ、能力不足、不得手な部分を持つ。神はそ
れを取り除かれず、そこにこそ神の力を現わ
されるのだ。世も肉もそれにはむかう。弱さ
を認めたくない。この世は能力主義の価値観
なので、弱さを認める事は、自分が否定され
てしまう事であり恐いのだ。拠って立つ所が
無くなってしまう。この世でクリスチャンが
弱さを誇って生きようとすると、世の人は、
自分の内にある弱さがあらわにされるため、
決して見たいものではないため、敵対や攻
撃を経験する。プライドが認めない。神の力
が現れるのは、自分の弱さを徹底して認めた
時だけだ。自らの弱さを認める事が大きな
祝福への道だ。あなたの妨げはプライドだ
ろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・
出来ないところに神の力が現れる。しかし、
出来ない事を心底認める必要がある。プラ
イドは認めたくない。認める事は心砕かれ
る事だ。弱さを認め砕かれたところにだけ
神の力が現れる。


2006年04月07日(金)

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍・・」(マタイ12:23)

種は御言葉、地面は心だ。地面が固いと、
幾ら種を蒔いても、地中に入る事が無いよ
うに、心が固いと御言葉をはじき返してし
まう。植わらない限り、芽ぶく事はあり得
ない。聞く態度は問題だ。強い思いがある
と、御言葉が聞けない。自分の思いが妨害
となり、御言葉がわからない。自分に都合
の良い言葉だけを聞く。自分に必要な、聞
かなければならない言葉は聞こえない。主
観が強く、思いが強いと、自分の意にそぐ
わない御言葉は心が排除してしまう。主観
にそった御言葉しか聞こえなくなる。聞き
たくない言葉は聞かないので、間違った方
へ進む。これが心の奥底の事なので意識し
ていない場合があるのだ。自分では従って
いる「つもり」だから。しかし、神は環境
を閉ざして、間違いから守られる。心の底
が問題だ。「つもり」の信仰生活は無いか、
御霊に心を照らしてもらい、今日点検しよう。
・・・・・・・・・・・・
従っている「つもり」献げている「つもり」
なので問題意識がなく成長停止状態となる。
従っても献げてもいない自らの真実の状態
を知る事から成長が始まる。それを認める
心が良い地だ。


2006年04月06日(木)

「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」(ルカ4:5)


あなたも、がっかりして意気
消沈、疲れ果てた事があるだ
ろうか。ペテロは一匹も獲物
がなく、労働は徒労に終わり、
気力も失せていた。
労せど成果なく、座り込んで
しまう経験があるか。そんな
時に、神は一歩漕ぎ出すよう
に言われる。もう気力もない。
しかしそんな時こそ、神の言
葉通りに従うなら、人間的な
ものでなく、神のわざを見る
のだ。
一歩信仰もって従うなら、大
きな祝福が備えられている。
以前の所属教会で、宣教師が
主の導きを受け、次の宣教地
へ。信徒数名で無牧となり、
途方に暮れた。が、主の導き
で続ける事に。伝道集会を開
いた時、チラシを見て来た何
人もの新来者に驚いた。小さ
な群れから伝道者が次々と起
こされた。なすすべ無い時、
神の言われるままに、その示
しに従う事だ。大きな祝福の
手前だ。
---------------
自信満々、気力体力の充実し
ていない時こそ、主の示しに
従おう。意志を向けて従える
事こそが主の恵みだ。



2006年04月05日(水)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」エレミヤ29:11

信仰生活は思い通りにならない事が多い。
自分の側からは思い通りでないが、神の思
いは人の思いと異なり、高くて深い。どう
してこんな事が!何で!という事を経験す
る。その時は理解不能だ。しかし、そこに
人間には見えない隠された神の計画がある。
星野富弘さんは体操を指導中、頸髄を損傷
し、首から下の機能を失う事に。しかしそ
の苦しみ悩みの中で、神に出会い、数え切
れない人々に生きる力と感動、勇気、慰め、
励ましを与え続けている。ある人が詩画集
に「心にしみいるような詩で、感動して思
わずボロボロ泣いた。でも、もし事故に会
われなかったら、この絵も詩も生まれて無
かったと思うと・・」と複雑な心境を記して
いたが、星野さんの事故さえ、神の新しい
計画の出発だった。今、思い通りにならな
い状況に、失望落胆しているだろうか。し
かし、それは新しい神の計画への出発だ。
神の思いは遙かに高く越えている。今どの
ように見えても、必ず将来と希望のための
ものだ。自分の思いと異なる、神の示され
た道に希望をもって前進しよう。
・・・・・・・・・・・
挫折、落胆、失意、もうこれで終わり、が
神様サイドでは新しい出発だ。溢れる恵み
が行く手に隠され備えられている。嘆きを
踊りに変え、荒布を解き喜びを着せて下さ
る。どんな時も希望は絶対に無くならない。


2006年04月04日(火)

「あなたがたは白く塗った墓・・墓の外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱい・・」(マタイ23:27)



主がパリサイ人に言われた言葉
だ。外側は美しく見えても、内
側は汚れで一杯だと。
当時、パリサイ人はまともに見
え、立派に見えた。私たちはど
うだろう。外側きれいに信仰あ
る振りをしていないか。
霊的クリスチャンに見られたい。
都合の悪い事はすべて隠し、良
い人の振りをする。人の目はご
まかせるが、神の目は欺けない。
自分の心もごまかせない。自分
は、はっきり知っている。
演出し、演技している事を。
信仰生活で、この偽りが最も危
険だ。最初はわかって演技して
いるが、その内に、演技してい
る自分とそうでない自分の、ど
ちらが本当の自分かがわからな
くなる。必ずそうなる。
一番恐ろしい状態に陥る。どん
な罪も御霊の光の中で、照らさ
れ示され、罪を認めて悔い改め
る時に赦される。しかし、自分
がわからなくなるなら悔い改め
ようがない。暗闇の中だ。
ありのまま神の前にいよう。
-----------------------
良くても悪くても、ありのまま
で御前にいるならいつも光の中
だ。自分をそれ以上にも、それ
以下にも見せる必要はないのだ。



2006年04月03日(月)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ33:3)

子供はある時期、何でも自分でしたい。
服の着脱をうまく出来ないが、自分で
したがる。親は忍耐して見守り、助け
を求めて来た時に、対処する。子供の
成長には必要な時期だ。しかし、霊的
成長には、大きな妨げとなる。自分で
すると、神から離れる事になるからだ。
エバへの誘惑の本質は自分が神になっ
て、自分の力で、思い通りに生きて行
く事だ。自分こそ主人であり、誰の命
令も受けないという事だ。自分が、自
分が、と自分で一杯だろうか。絶えず
サタンから来ている誘惑だ。朝起きた
時から、自分で生きよと、目まぐるし
いスケジュールに追い立てられる。自
分がこなして行く。サタンの誘惑大成
功だ。喜びと平安、幸せは、神に依存
する事から来る。神依存でなければ、
自分や人や物に依存している。神に依
存する事から喜びが来る。神と一つだ。
神はあなたが呼ばわるのを待っておら
れる。
・・・・・・・・・・
様々な問題の中で、思い煩い、自分で
何とかしから、力尽きて神のもとへ行
く。まず神に呼ばわり、落ち着いて信
頼する時、理解を超えた大いなる事を
知らせて下さる。


2006年04月02日(日)

「彼がしばらくの間、あなたから離されたのは、たぶんあなたが彼を永久に取り戻すため」ピレモン15

ピレモンが主人であり、オネシモはその
奴隷であった。主人の金品を盗んで逃亡
したのだ。奴隷が主人のものを盗むとは
大罪であった。しかし、オネシモはパウ
ロに出会い、救いに入れられた。整えら
れ、役に立つ者と変えられたのだ。罪を
犯した奴隷が、主にある兄弟として送り
返された。全く造り変えられ、新たなる
関係に入れられた。あなたにも今、難し
い対人関係があるか。不和、争い、疎遠、
心の行き違い・・。この世なら、最後ま
で平行線で、交差する事がない。しかし、
十字架のもとでは、二つのものが一つに
される。不和が和解に、不信が信頼に。
妬みで苦しんだ仲が、無二の親友に。愛
せなかった相手が生涯の友に。行き違い
が更に深い理解へと導かれる。もし誤解
があっても、主が真ん中におられるなら、
正され更に絆が深められるばかりだ,
・・・・・・・・・・・・
主人のものを盗んで逃亡した奴隷が、
兄弟として返された。主に在って全く
新しい次元の関係に入れられた。相対
するものが一つにされた。様々なひび
の入った関係が、新たな信頼と愛の関係
に変えられて行く。


2006年04月01日(土)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴言27:5)

エレミヤは民に警告するよう、神から導
きを受け、実行した。すると、捕えられ、
人々から攻撃を受け、命まで危うくなっ
た。しかし、恐れず、くじけず、神に従
わないなら滅びるとの警告を、尚も続け
た。その時、人々は警告に耳を傾けた。
私たちが神の御心に反した方向へ進んで
いる時、神は必ず「警告」を与えられる。
しかし、警告を受ける事は嬉しい事では
ない。むしろ肉には、痛い、聞きたくな
い、拒否したい事だ。神はあなたに、警
告の役目を与えられる時がある。相手の
間違いを指摘する事は、相手を傷つける
事であり、憎まれるかも知れない。しか
し、迷いと死から、いのちへと救い出す
事だ。その時は御霊に導かれて警告しよ
う。又、もし、あなたが間違っていたら、
神は人を通して警告される。それは神の
愛であり、人でなく神の声だ。誰かから
忠告が臨んでいるか。へりくだって、自
分を砕いて受け取ろう。その時、目が開
かれて神の知恵、御心を知る。
・・・・・・・・・・
警告が無ければ、自分を正当化し、自分
の思いを通し、自分が神になってしまう。
警告は痛いが、神の深い愛だ。人や御言
葉や環境からの警告を受け取ろう。砕か
れ間違いから守られ正しい道へ導かれる。