2006年05月30日(火)

「ただ、この一時に励んでいます・・うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・目標を目ざして一心に走っているのです」ピリピ3:13




普段は忘れて生活しているが、
何かがあると、過去の失敗や
傷が思い出されるか。
心暗くなり、くよくよと落ち
込む事があるだろうか。もう
すでに赦されているのに、ま
たほじくり出しては悶々とす
る。取り返しのつかない過失
や、又、ミスした選択、もし
あの時、違う選択をしていた
ら、この時、こういう対処を
していたら、又、逃してしま
ったチャンス、あの時ああで
あれば、この時こうであれば
・・今、自分の人生、全く違っ
た結果になっていたであろう
に・・堂々巡りしては悔いる。
しかし、もし神が、あなたに
違った道を歩ませたければ、
その時、そう出来なかっただ
ろうか。この事を本気で信じ
ているか。心の奥に隠れたと
がめや不安がある時、前進が
出来ない。感謝と喜びが奪わ
れる。過去のその所に神を認
めよう。罪の全き赦しと、神
の摂理と御心を認め、受け入
れよう。受け入れた時、ひた
むきに前に向かって進める。
-----------
私たちが認めていようが、い
まいがいつも神様は共におら
れる。なぜこうなってしまっ
たのかと思い通りに行かない
事も万事益だ。たっぷり落ち
込ませる過去の傷に再び囚わ
れることなく目を前に向け前
進しよう。


2006年05月29(月)

 「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実を持って愛そうではありませんか」(Tヨハネ3:18)

 

ある婦人、若い時に結婚して海
外へ。言葉も生活習慣も、何も
かも不慣れで途方に暮れていた
ところ、クリスチャン達が親切
に対応してくれた。時間と労力
を献げて、生活に必要な様々を
助けてくれた。本当に助かって
その親切が身にしみた。
神を求める心など全く無いが、
お返しがしたくて教会へ行った。
すると、驚いた事に御言葉が心
にどんどん入って来た。
そして主を信じた。今では信仰
歴50年の喜び溢れたクリスチ
ャンだ。元はと言えば、周囲の
クリスチャンの親切のゆえだっ
た。ある婦人は海外転勤のため、
英語を教えて貰いに近所の宣教
師宅を訪ねた。すると時間を割
いては親切に教えられ、その交
わりの中で主を信じるに至った。
主は行いと真実を用いられる。
口先だけでない対応には、必ず
時間と労力という犠牲が必要だ。
祭司もレビ人も関わりたくなく
て、旅人の反対側を通り過ぎた。
今、誰かのために犠牲を払うよ
う御霊から示されているか。
行いと真実を持って愛して行こ
う。
------------------------
愛するとは、思いだけでなく実
際に時間や労力をその人のため
に捧げて行くことだ。心に示さ
れる思いがあるなら御霊さまに
助けられ行動に移そう。


2006年05月28日(日)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14

神は「願え」と言われるし、願い事を
神に知って頂けと言われる。願うのは
良い事だ。しかし、気をつけないと、
自分のわがまま、自己中心が願いの中
に出て来る。自分の思い通りに、期待
通りに主に動いてもらおうとする。期
待通りにならなければどうか。思い通
りでない事につまづいて、主のもとを
去った人々もいる。しかし、これは信
仰ではない。主は便利屋ではない。願
うと何でも思い通りのものが来るサン
タクロースではない。主には「しよう
としていること」ヨハ6:6があられ、意
思とご計画をお持ちだ。主の御心だけ
が成る。願いが、もし結果的に主と違
うのなら、こちら側で修正する必要が
ある。自分ではまともな願いと思って
いるが、実は「自分に都合のよい、気
ままな願い」であったりする。自分を
変え、自分を主にそわせ、主と一つに
なって行く時、その願いは叶えられる。
それは主の願いであるからだ
・・・・・・・・・・・
心の願いが、みこころでない場合があ
る。その時は、自分の願いをみこころ
に沿わせて修正して行けばよい。その
事も祈っている中で初めて気づく事だ。
御心と一つになった時、すでに得たのだ。



2006年05月27日(土)

「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ、あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」詩編4:8

神の下さる平安は、状況に関係が無い。
平安とは問題の無い事、悩みの無い状態と
勘違いするが、そうではない。神の下さる
平安とは、何一つ問題のない状況ではなく、
逆境の真っただ中で、心かき乱され、張り
裂けそうになる中で、なおも神に望みを置
き、神に叫び、神から安らぎを与えられる
事だ。悩みの無い平安でなく、悩みのまっ
只中での安らかさだ。諦めでなく、世捨て
人になるのでもなく、神から来る平安だ。
友人は、小さな子供を抱えての離婚の窮地
の中で、この平安を経験した。目の前、大
嵐で心張り裂けんばかりの、気も狂う状況
なのに、心に全き平安、波一つ立たない静
かな穏やかな平安で満たされたと。今、悩
みのまっただ中で、心かき乱され、思い煩
いと不安に襲われているか。神はひと言葉
で、逆巻く波を静め、なぎにして下さる。
問題を神に告げ、明け渡し、御言葉を求め
よう。この「主の平安」を経験する。
・・・・・・・・・・
世とは違う、「わたしの平安」を約束して
下さっている。問題のまっただ中で御霊か
ら来る一言葉で心はなぎになり、平安になる。
問題は解決しておらず、まだそこにあるのに、
心は安らぎで満たされる。不思議を経験する。


2006年05月26日(金)

 「これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります』」ルカ8:50 

 
ヤイロの娘が死にかけていた。
ひれ伏して、主に家に来て頂
きたいと願った。一刻も早く
と急ぐところへ、妨害が入っ
た。長血の女が癒しを求めて
来たのだ。手間取り、彼は早
く早くと、ハラハラだったに
違いない。やっと終わり、早
く娘の元にと思いきや、そこ
に娘が亡くなったとの報が入
った。ヤイロの心はどんなも
のだったろう。目の前が真っ
暗だったに違いない。その時
に主は、恐れないで、ただ信
ぜよと、御声をかけられた。
「信仰」を求められたのだ。
ヤイロはこの時、凄まじい勢
いで襲い来る不信仰、疑い、
不安を閉め出す必要があった。
信仰は、不信仰な思い、言葉
を拒否し受け入れない事だ。
そして人々が主の言葉に嘲笑
う中も、信じ続けた。その結
果、娘は直った。あなたも不
信仰を拒否し、信仰を選び取
り、信じ続けよう。みわざを
見る。
----------------
恐れや不安が胸いっぱいに広
がる時、自分で右往左往し主
を忘れている。ヤイロの信仰
に習ってただ、主を、約束の
御言葉に心を向けよう。
恐怖と不安は消え去る。


2006年05月25日(木)

「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14



主人は、早朝雇った人々と
1デナリの約束をした。だ
から主人は正当であり、雇
い人は正当に契約通り報酬
を得た。9時以降の人々は
「相当のものを上げる」と
言われていて、主人は1デ
ナリと約束していない。
それで最後の1時間の人も
1デナリを貰った時、早朝
の人々は不満と怒りが爆発
した。なぜ良かったねと喜
んでやれなかったのか。
彼らにはこの労働が嫌で苦
痛であったからだ。「一日
中、労苦と焼けるような暑
さを辛抱した」と。しかし、
仕事が無かったところに、
働けたのだから、それは感
謝な事であったはずだ。
労苦と暑さがあったであろ
うが、仕事が与えられてい
る恵みという観点が全く無
かった。私達はどうだろう。
実は主のために働ける事自
体が、大きな恵みで喜びで
あるのに、しんどい労苦に
なっていないか。恵みを忘
れると何もかもが狂って来
る。奉仕を献げる事ができ
るのは大きな恵みで幸せだ。
今一度奉仕の際の態度を主
に探って頂き「この恵みの
中にしっかりと立って」い
よう。
---------------------
毎日、主のために働けると
いう幸せが、当たり前にな
り習慣になるなら不幸だ。
一つの奉仕の働きは私たち
自身の祝福のために選んで
下さったのであり大切な主
との交わりの時と覚えよう。


2006年05月24日(水)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」コロサイ3:23

周囲への親切、人々に仕える事は、主
に喜ばれることだ。しかし、私たちが
人々に仕える時、心の底はどうだろう。
報いを求め、見返りを求めてしまうの
ではないか。相手に何かして、感謝が
無かった時の心の内はどうだろう。こ
んなはずでは無い思いが出て来る。そ
こから解放される道は一つ、キリスト
に仕えることだ。人にでなく、キリス
トに仕えるなら、人を愛する事ができ
る。時間や労力を、惜しみなく与える
ことが出来る。人に時間や労力、必要
を与えようとする時に、主を自分の前
に置くのだ。直接、相手でなく、キリ
ストを置くことだ。そして主に対して
するだ。そうするなら、主に仕えてい
るのであり、相手から見返りが無くて
も、感謝が無くても、喜びもって平安
に歩める。一つ一つの行為は、主に対
してする事になるからだ。
・・・・・・・・・・
どんな動機で仕えているのだろう。心の
内では見返りを求めているのだろうか。
又、直接主に仕えるとしたらどうだろう。
どういう態度になるだろう。そのように
仕えられるよう祈ろう。
 


2006年05月23日(火)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6



38年もどうにもならない状況
がある。何度やってみてもだめ
だった。クリスチャンになって、
38年信仰が成長しない、これ
からも同じだろう。誰しも長年
未解決の問題もある。段々諦め
と無気力。そんな彼に目を留め、
「よくなりたいか」と主が御声
をかけられた。それはチャレン
ジとなり、彼によくなりたいと
いう願いを引き出した。主は、
あなたににも「よくなりたいか」
と語っておられる。成育歴、環
境を恨み、周囲を責め、又、羨
む。あるいは、いつも同じ失敗
に自分を責め、言い訳に終始す
る。自分を惨めにするばかりだ。
主はそんな中から起き上がって、
新たな信仰の歩みに招いて下さ
っている。人に依存し、ああし
てくれない、こうしてくれない
と、人を責め、ひがみ屈折する。
又、自分はだめ人間と落ち込む。
そんな中から起き上がり信仰も
って自分の足で立つのだ。
人に責任転嫁せず、神の御前で、
神に従って歩むのだ。「よくな
りたいです」と主に意志を表明
しよう。それが始まりだ。
---------------
良くして下さるのは神様だ。
自分でも、環境でもない。本当
に良くなりたいところをしっか
り御前にさしだし、信仰を持っ
て良くして下さいと言おう。


2006年05月22日(月)

「だれでもわたしについて来「だれでもわたしについて来自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24




星野富弘さんは、脊椎損傷の
ため、首から下は動かず、
絶望の中にいたが、聖書に触
れ、救いに入れられた。
人生が一変し、口は動くと、
絵筆を口にくわえて、花の絵
を描いた。この絵と詩が人の
心を捕らえ、深い感動を与え
ている。多くの傷ついた人々
の心を癒し、温めているのだ。
数知れない人々のために用い
られている。彼は神を信じた
からと言って、奇跡的癒しが
あったわけではない。状況は
何も変わらない。神を信じて
も良くならないのか。
いや、そうではなく、むしろ、
彼が不自由な身体というみこ
ころをしっかり受け入れ、そ
の中で生きているからこそ、
人々を励まし、力づけ、引き
上げて行く事が出来るのだ。
十字架を負い、みこころを受
け入れて生きるなら、それは
証しとなり、誰かの心を捕ら
える。どんな状況であれ、受
け入れて、神に従って歩もう。
神の栄光を現して行くことに
なる。
-------------------
自分の十字架をしっかり受け
止めているだろうか。主が与
えて下さったのだ。必ず栄光
へと変えてくださる。今週も
よく見極めて主と共に歩もう。


2006年05月21日(日)

「もし、あなたが・・このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」Tサムエル1:11

背景として、イスラエルは士師の時代
であり、その霊的状態は、暗がりにあ
り、人々は主の目に悪を行ない、めい
めい自分が正しいと見える事を行なっ
ていた。神は、新たな霊的指導者を起
こそうとされた。そのために協力者が
必要であった。神はハンナを見込まれ、
胎を閉じ、ハンナの[祈り]を引き出され
た。そして、「その子を一生あなたに
おささげします」と主に献げられた者
として育てる決意へと導かれた。その
祈りに見事に答えられ、サムエルが産
み出されたのだ。ハンナは祈り終え
た時、帰宅して食事をした。痛み、激
しく泣き、悩みと憂いのいただちの、
もう以前の顔ではなかった。祈りによ
って経験する。状況が変わる前に、ま
ず自分の内側が変えられる。御父に自
分を委ねるので、状況は何も変わらず、
尚も試練のまっただ中なのに、心に「
主の平安」が与えられる。祈りは自分
の欲望、願望でなく、神の御心が地上
に成就されるための手段だ。
・・・・・・・・・・・
神はハンナからこの祈りを引き出すた
めに、窮地に追い込まれた。そして、サ
ムエルが産み出された。窮地は神の機会
だ。私達の窮地から、様々なサムエルが
産み出される。神を真に知る時とされる。


2006年05月20日(土)

「訓戒を大事にする者はいのちへの道にあり、叱責を捨てる者は迷い出る」箴言10:17


イスラエルの民は、律法にそむいて罪を
犯したが、列王記の民は、更に預言者達
の声をも無視して、どんどん心を頑なに
して行った。神は私達を愛しておられる
ので、神の道にそれている時は、必ず
「警告」が来る。それは礼拝メッセージ
を通して、又は霊的指導者を通して、友
人を通して、又、御言葉を読んでいる時
かも知れない。しかし、神は「警告」さ
れる。あなたが知らなかったという事の
ないためだ。あなたに、今、警告が来て
いるか。それは神のあなたへの愛だ。決
して無視したり、なおざりにしてはいけ
ない。「警告」がある事は、あなたは見
捨てられておらず、希望があるからだ。
今、立ち返る事が出来る。方向変換して
神に従おう。今の警告を無視するなら、
ついに御声が全く聞こえない状態になる。
そして自らが征服したものの奴隷になっ
て行く。心に御霊のうながしや勧めが
あるかも知れない。警告を軽んじないで、
すぐに従おう。
・・・・・・・・・・
「あなたはどこにいるのか」と御声が臨む。
居場所が大切だ。神のみこころの中にい
るだろうか。もしみこころをそれていて、
御声が聞こえたなら、立ち返ろう。「私
のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ」



2006年05月19日(金)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28


この世では、出来る事、
能力がある事が良い事と
の価値観だ。常に結果を
出せの世界で、結果を出
して初めて認められる。
受け入れ、愛される。
しかし、神は無条件だ。
実は、肉はそんな神が嫌
なのだ。肉はどこまでも
自分の力を誇り、評価を
求め、認められたい。
それが何も無しで、受け
入れられるなど割に合わ
ない。クリスチャンでも、
神の愛がなかなかわから
ない。それは、私達が「
弟」でなく「兄」だから
だ。納得が行かないのだ。
腹さえ立つ。実際のとこ
ろ、私達は自分が強く、
何でも出来るので、神の
あわれみなど必要として
いない。隠れたプライド
は自分の無力など認めた
くない。だから神の愛が
わからない。様々な事態
で、窮地の中で、自らの
全くの無力、罪深さ、醜
さ、貧しさ、それを知る
事が幸いで大きな祝福だ。
その時、神の愛を知る。
あわれみを真に知る。
落ち込む必要はない。
無力や弱さは祝福の門口
だ。
---------------------
自分がいかに小さく無力
な者か、繰り返す失敗を
通し示される。その度ご
とに神様に触れ砕かれて
行く。自力で完璧な兄に
ならず、恵みに感謝し続
ける者になろう。


2006年05月18日(木)

「それは、人がパンで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもの



普通、順境の時には、自分
の好きな事に心を向け、神
には心を向けないものだ。
神を最も近く感じるのは、
心があがき叫ぶ苦しみの時
だ。あなたも振り返ればそ
うだろう。慰めを受けるの
は、悲しみに沈む時であり、
必要が満たされるのは困窮
の時だ。癒しを体験するの
は心身に傷を負った時だ。
神は、ご自身の臨在を伴っ
た深い喜びを与えようと、
私達をご自身に近づけよう
と、悩みや苦しみ、困難を
用いられる。その事を知る
時に、困難が来ても喜べる。
神を頭の理解ではなく、真
に知るからだ。逆境の時、
しっかり事態を受け止め、
「なぜ?」でなく「何を?」
「何を教えて下さるのです
か」と祈り求めよう。神は
ご自身に、あなたを近づけ
るために、窮地を起こして
おられる。神はいつも両手
を開いて待っておられるが、
私達の側が神を求めていない。
----------------------
パンのみ生きる人が試練の中
でもがいたり逃げたりしてい
るのを見る時、神様を知って
いることに深い感謝が溢れる。
困難の中で必ず慰められ、神
様が愛しているよと言って下
さる声を聞くからだ。



2006年05月17日(水)

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」ヨハネ15:5

私達は、奉仕に走り回る事や伝道
に懸命に励む事、又、仕事や何か
する事によって、心満たされようとして
いないか。しかし、私達は、正しい行
いで心が満たされるようには造られて
いない。そうではなく、主にとどまる事
によって心満たされる。これは重要だ。
世は、当然自らの能力をフルに発揮
する事にやっきになる。しかし、私達
は、自分の力で人生をやり繰りする
事を、全面放棄した時に初めて、
神の与えて下さるいのちを体験でき
るのだ。自分の力が強ければ神に決
して頼らない。それが神から離れて
いる事だ。能力が不要なのでなく、
神の前に明け渡す時、神はその能力
をきよめて用いて下さる。モーセは
杖を一旦地に投げたが、蛇に変わっ
たその尾をつかむと、再び杖に戻っ
た。あなたの能力は要らないと言っ
ておられるのでなく、一旦放棄=
明け渡す事が必要だ。その時に、そ
れをきよめて神のために用いて下さる。
・・・・・・・・・・・
枝がぶどうの木につながっているだけ
で、養分が豊かに流れて来て、自然
に実を結ぶ。何一つ頑張っていない。
今日も愛され、赦され、受け入れられ、
恵みが満ち満ちている。



2006年05月16日(火)

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」ルカ22:22



ペテロは鶏の声を聞いた時、
主を否んだ罪を自覚し、心底
悔いて、男泣きに泣いた。
失敗は、そこで罪を自覚する
なら、大きな成長へのステッ
プだ。罪の自覚のある人は、
高ぶらない。高ぶれないのだ。
自分の罪と愚かさを思い、た
だただへりくだる。べテロは
失敗した。ペテロは自分の罪
を自覚した、だからこそ、用
いられたのだ。私達もしばし
ば失敗する。絶望する必要は
ない。なぜなら、ペテロは失
敗により用いられた。あなた
がどんな失敗をしたとしても
問題ではない。悔い改めるな
ら、その失敗はあなたを謙遜
にする。よみがえられた主は
ペテロの傷を癒し、再び立た
せられた。聖霊に満たされた
ペテロは全く変えられ、主の
ために殉教して行った。
失敗が問題なのでなく、その
後どう生きるかが問題だ。
血潮による全き赦しを受け取
ろう。
------------------
繰り返す失敗によって自分の
愚かさ、弱さを身にしみて知
る。しかし、そのような者の
ためにずっと祈っていて下さ
る主を覚える時その後の身の
処し方が変わってくるのでは
ないだろうか。


2006年05月15日(月)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7


私達は常に心配する。次から
次へと心配は尽きない。
しかし、神は出エジプトの絶
体絶命の時に、海の中に道を
つけられた。 荒野では天か
らマナを降らせ、岩から水を
出された。ヨルダン川の水を
せき止め、エリコの城壁を崩
された。あの絶対に滅びない
とのバビロンを倒され、不滅
と言われたローマも倒された。
神に不可能は一つもない。
全主権をお持ちだ。その神が
あなたの事を心配して下さっ
ている。そして、思い煩うな、
神に任せよと言われる。
なぜ、思い煩うのだろう。
問題が問題なのでなく、問題
の中で神を信頼しな事が問題
なのだ。問題を繰り返し繰り
返し心に抱き、心が裂かれて
しまう。問題を見続け、恐れ
と不安のどん底に陥る。
逆にそれだけ繰り返し恵みを
思い起こせばどんなに良いだ
ろう。神を見るのだ。問題を
も支配されている神を見続け
よう。そうする時、問題の大
山を乗り越えて行ける。
-------------------
心配して思い煩った通りにな
ったためしがあるだろうか。
古い思考パターンを変えよう。
思い煩いが心に来る度に神様
に任せて行こう。
必ず、思いもつかない結果を
与えて下さる。


2006年05月14日(日)

「すべての事について、感謝しなさい」Tテサロニケ5:18

日々の信仰生活の中で、不思議な事を経験
する。「すべての事について感謝しなさい」
と主は命じておられる。「感謝した方が良
い」「もし出来たら感謝せよ」でなく「感
謝しなさい」だ。そして「良い事、ラッキ
ーな事、ハピーな事」は、でなく「すべて」
だ。良い事も悪い事も不都合な事も、何も
かもだ。御言葉に従って、不都合な事、マ
イナスの事、落胆する事態に「どういう事
かは理解は出来ませんが、感謝します」と
信仰を向ける。すると、状況は同じだが、
不思議に「心」が変わる。真っ暗になり、
否定的になり落ち込んでいた心に、光が差
し込む。まず状況を見ていた目が、神を見
上げるようにされるのだ。そして次に、感
謝する心に、御言葉が入って来る。不思議
に素直に受け取れるのだ。この事は必ず益
となる。ご計画がある。私は愛されている。
何かの必要のために通されている。この事
で神が教えたい事は何だろう、発想が神視
点に変えられる。その時、ふと起きた事の
意味がわかったりする。あなたも今、苦し
みの中だろうか。意志で「感謝」を選択し
てみよう。心が変わることを経験する。
・・・・・・・・・・・・・
不思議だが、その通りだ。辛い苦しい事が
起こり、理解出来ないし、意味もわからな
いが「とにかく感謝します」と意志で感謝
を選び取る。その時、状況は何も変わらな
いが、心が変化する。信仰の目で状況を見て
いる自分に気づく。


2006年05月13日(土)

「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父を愛する愛はありません」Tヨハネ2:16

「肉の欲」とは、自分の必要を、神によってで
はなく、自分の力で自分の手で満たそうとする
誘惑だ。神はどう思っておられるのかという、
神のお心を求めるのでなく、神に関係なく、
これがどうしても欲しい、どうあっても手に
入れたいという欲望だ。手に入れないと満足
できない。荒野で、主は悪魔から誘惑を受け
られた。40日の断食の後、非常な空腹の中
で、自分で石をパンに変えて食べよというも
のだ。御父のお心はどうかでなく、御父から
離れて、自分で行動して、自分で必要を得よ
との誘惑だ。神の御心より、自分の欲望充足
第一だ。又、悪魔は私達の足らない部分に目
を向けさせる。祈っても無駄であり、祈って
いないで、自分で不足を満たせばよいのだと。
問題は、誘惑を受けていて気づかない事だ。
どうしても欲しい、強い欲望にはくれぐれも
要注意だ。その願望を一旦、神に明け渡すな
ら安全に正しく導かれる。今、祈っても無駄、
自分で動けとの誘惑が来ていないか。サタン
だ。
・・・・・・・・・・・・・・
肉の欲とは、神に頼らず自分の力で行動する
事だ。それは神の働きや奉仕も、霊的な事柄
にも来る。神に頼らないなら、神から離れてい
て何の実も結ばない。自分、人、物依存ではな
いか?神依存で今日も歩もう。
 


2006年05月12日(金)

 「主はヨシュアに仰せられた。『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した・・』」ヨシュア6:2

 


エリコの城を攻め取るために、
神は常識ではあり得ない方法
を示された。1日1回町を回
り、7日目に7度回って大声
でときの声をあげると、城壁
が崩れ落ちた。このように、
見える状況でなく、神からの
み言葉を信じて従うと、神の
奇跡を見る。つまり、私達が
神のみわざを見るのは、み言
葉を信じて従った時だ。
目に見えるところは凄まじい
影響力がある。サタンは見え
るところを見せて、恐れさせ
、失望落胆させる。しかし、
信仰は、見えるところがどう
であれ、み言葉の方を真実と
し、み言葉の方を選び取る。
見えるところとも、常識とも
違っても、み言葉に従うこと
だ。すると、神が城壁を崩さ
れる。常識であり得ない事が
成し遂げられる。み言葉に従
うなら、神のみわざが現れる。
今、示されているみこころが
あるか。神のみ言葉を信じて、
一歩を踏み出し、最後まで従
い続けるなら、み言葉の通り
になることを見る。
----------------------
自分の思いを捨てて御言葉に
従うようにと、幾度も御霊様
が促がして下さるのに、恐れ
で足はすくむ。信仰で歩む時、
道が開かれる。すばらしい経
験をするのはこのときだ。


2006年05月11日(木)

「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう』」マルコ4:41



信仰生活の中で、主は目的が
あって一つ一つの試練を私た
ちに送られる。弟子達は激し
い突風に舟が水で一杯になり、
恐怖に襲われた。怯えた弟子
達が主を起こすと「信仰がな
いのは、どうしたことです」。
主が私達に求めておられるの
は「信仰」だ。いつも信仰を
使う機会を与えられる。
だが、信仰が吹っ飛んでしま
って、目の前の状況に、大波
に飲み込まれてしまう。
主が「黙れ、静まれ」と言わ
れると、即、風は止み、大な
ぎになった。弟子達は、主の
自然をも支配される主の偉大
さに目を見張り驚いた。
私達も経験する。様々な試練
を通り、痛みや苦しみの中で
もがき、主に叫び求める中で、
共におられるお方が、全知全
能の神である事を信じるよう
になるのだ。神がどんなに力
あるお方であるかを知るのは、
試練の時だ。何も無い順風の
時でなく、風が荒れ狂い、波
が逆巻く時だ。今、試練の中
なら、必ず神を知れる時だ。
---------------
無風の中では成長は無い。
神様を知るのは切羽詰った
状態の時だ。それほど私達は
自分を過信しなかなか委ねき
れない者だという事をよく覚
えていよう。


2006年05月10日(水)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11

前にも出て来た「鷲の訓練」を思い出
して欲しい。ひなを翼に乗せて高く上
がり、高い所から落とす。地面に落ち
る寸前にまた翼に乗せて、高く上り、
また落とす。これを繰り返して、ひな
が自力で飛べるよう訓練する。同様に、
私達の「信仰」を訓練される。私達が
問題にぶつかった時、み言葉を握って、
必死に叫び祈る。その過程で、もうだ
めだと絶望的になり、落ちて行き、地
にたたきつけらる寸前に、神は翼にご
自分の乗せて上に引き上げられる。そ
れを繰り返し繰り返しして下さる中で、
信仰を使う事を練習し、信仰の翼は鍛え
られ強くなって行く。段々、大問題が
来ても大丈夫で、御言葉を握って、困
難の中でも大空へ舞い上がって行ける。
神が様々な厳しい訓練の中で信仰を強
めて下さっているのだ。知るべきは、
信仰が強くなるのは、苦しみや困難に
よってだ。痛み、苦しみを通る度に、
信仰が強められる。痛くて辛いが、し
かし、私達の一番の願いは、信仰の成
長ではないだろうか。悲しくて、痛く
て、辛いが、望みを神に置いて信じ続
けていよう。
・・・・・・・・
信仰は実践だ。使ってみないとわからない。
目に見えないから不安で恐い。真っ暗な中
で信じて飛び込むと、愛の御手にしっかり
受け止められる。神が頭でなく膚でわかっ
て行く。目に見えない神への信頼が少しづ
つ増している事に気づく。 



2006年05月09日(火)

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」使徒8:1


この迫害が、取りも直さず神
の新しい働きのために用いら
れたのだ。
エルサレム、ユダヤ、サマリ
ヤの全土、地の果てまで証人
とされる、との御旨の通り、
福音がエルサレム以外の地域
で語られ始めた。
教会の新しい働きは、突然始
められて行った。迫害は痛い
事、苦しい事、不都合な事だ
が、振り返る時、神の御旨の
成就であったとわかる。
同様に、すべてを見通す神の
目からは、御旨の成就である
事が、私達にとっては悩み、
困難、問題の形で現れる。
激しい迫害が、実は地の果て
まで証人とされて行く、御旨
の成就であったように、今、
あなたにとって、何でこんな
事が?どうして?と理解出来
ない目の前の事態が、実は神
の目からは、正しく事が進ん
でおり、素晴らしい結実が待
っている。理解不能だが、神
が最善を備えておられる事を
信じて歩もう。
-------------
思い通りの楽な人生ならどう
なっていたか。決して今の自
分はなかったはず。神様の全
き御支配を認め、期待しつつ
痛い事、辛い事を神様と共に
通ってみよう。



2006年05月08日(月)

「主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」申命記8:18



主が、イスラエルを祝福さ
れたのは、彼らが良いもの
であったからでなく、あく
までも主が誓われた契約を
履行されるためだ。
このところは大切で重要だ。
全能の主でさえ、契約に拘
束されておられる。契約に
反する事を断じてお出来に
ならない。私達が罪赦され、
神の子とされるのは、私た
ちが高価で尊いからではな
い。私達が良いからではな
い。私達の側にはよらない。
事が私たちによるなら、誰
一人、神に従って行ける者
などいない。律法を行える
者などいない。即、皆、滅
ぼされてしまう。そうでは
なく、神が御子を遣わされ
て、御子を罪とされたゆえ
に、ご自分の内で、私たち
を罪しないと定められた。
これが新しい契約であり、
私達はこの契約の中にいる。
私達がどうこうではいっさ
いなく、神がご自分の契約
により、私達をご自分の子
供とされている。絶対的に
ご自分の契約をほごには出
来ない。ここに全き平安。
---------------
これをゆるがしてくるのが
サタンだ。弱い自分自身を
見ず、へこませてくるサタ
ンの声に耳を貸さず、神様
の御約束のみをしっかり握
って今週も生き生き歩もう。


2006年05月07日(日)

「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」申命記8:7



主は私たちの信仰を試みられ
る。それは、主が私たちの信
仰を知るためでなく、私たち
が自分の状態を知るためだ。
私たちは、自分に欺かれてい
る。自分は良い人間だと思っ
ているし、神を愛し、信仰が
あると思っている。しかし、
主は私たちの心の内をよくご
存じだ。もし自分に欺かれて
いたら、自分の力に、自分の
判断に頼って行く。神から離
れて、自分の力で生きるよう
になる。そこで、神は、私た
ちに本当の姿を見せられる。
自分がどんなに弱く、頼りな
く、判断が当てにならず、間
違う者であるかを知らしめら
れる。そのために試練が送ら
れる。試練の時に、人はその
本性が出る。不信仰、不平不
満、愚痴が出るか、それとも、
試練の中で信仰、神への信頼、
自制、忍耐が出て来るか。
試練は神の愛だ。愛されてい
る証拠だ。試練を通して変え
られ、成長して行く。
--------------------
あると思っていた信仰も試練
の中では全くの不信仰と思い
知らされる。自分を頼りに右
往左往。神様を見失った時に
本当の試練が始まることもそ
の中で思い知らされる。感謝。


2006年05月06日(土)

「私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。」T歴代21:25

ダビデは、民に神罰が及ばないように、
主のために祭壇を築こうとした。それで、
オルナンの打ち場で地所を買いたいと願
った。すると、オルナンは、ただでダビ
デに差し出した。しかし、ダビデはそれ
を断わった。なぜなら、犠牲を払わずし
て、どうしてそれが献げ物になるのかと
思ったからだ。これは大変重要だ。私た
ちが神を第一にしないで神を信じている
と言っても、その信仰は本物ではない。
主の恵みに答えるのが真の礼拝であり、
こには必ず犠牲が伴う。私達はどうだろ
う。神を愛していると言いながら、日々
の選択において、どんどん自分の欲望を、
世を選択して行く。しかし、神を愛して
いると思っている。それは欺まんだ。神
を愛していないと認識する所から成長は
始まる。愛は必ず犠牲が伴う。
・・・・・・・・・
献げる事には痛みが伴う。奉仕すれば身
体は疲れる。楽して、何の痛みもなく、
献げられると勘違いしてはいけない。愛
する事は時間、労力を献げる事であり、
愛がある時にそれは感謝と喜びとなる。
 


2006年05月05日(金)

「私を主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません」T歴代21:13


ダビデは人口調査という罪
を犯した時、罪の赦しを乞
い、3日間の疫病という主
の懲らしめを受け入れた。
私達はどうだろう。
主の御手から逃げようとし
ないだろうか。主の懲らし
めを甘んじて受けるという
態度でなく、自分を正当化
して、誰かを責める。
又、別の場合は、自分を責
めるばかりで主に向かない。
主ではなくいつも自分に目
が行く。サウルはそうであ
った。彼は自分のした事を
後悔はしたが、決して主の
さばきの下に服する事をせ
ず、霊媒のところへ行き、
最後は自殺してしまった。
しかし、ダビデは、主のも
とへ行き、主の手に陥りた
いと願い、主にすべてを委
ねた。私たちもダビデに見
習おう。失敗した時、罪を
犯した時、隠れたり逃げた
りせず、どんな時も主のも
とへ行き、悔い改め、主に
お任せしよう。そして主に
従おう。主のあわれみは深
いのだから。
---------------
神から逃れてどこへ行けよ
う。罪を言い表すなら必ず
許して下さるとのみことば
の約束をしっかり握ってい
るなら、更なるサタンの誘
惑から守られる。


2006年05月04日(木)

「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた」(T歴代21:1)


この人口調査はサタンから
そそのかされたものであっ
た。神の大いなるみわざを、
まるで自分の業績であるか
のように誇り、自分が支配
しようとする、ダビデの高
慢の罪であった。ヨアブが
気づき進言するが、ダビデ
は実行した。主のみこころ
を損ない、神は民を打たれ
た。疫病により7万人が倒
れた。ダビデの罪により、
関係の無い7万人もの人々
が死んだのだ。私たちは罪
に進む時、自分のしたいよ
うにするだけで、別に他人
には迷惑をかけていないと
思うが、そんなわけには行
かない。それが罪の性質だ。
罪は自分だけでは済まない。
必ず周囲に影響を及ぼし、
自らの罪は周囲の人々を深
く傷つけ損なって行く。
そして、あなたの罪はあな
たを愛する人々を悲しませ
る。ダビデにサタンは働き、
ダビデは誘い込まれた。
サタンは私たちを倒そうと
働いている。信仰に立って
、サタンをよく警戒し、祈
っていよう。祈りにより守
られる。
------------------
すべての関係を、愛し、建
て上げ育む神の愛に対し、
私は私とそそのかしてくる
サタンにひかれて行くなら
無残な破壊と憎しみだけが
残る。自分の内の小さな罪
も識別できますように。


2006年05月03日(水)

「いちじくの木は花を咲かせず・・しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。 私の主、神は、私の力」ハバクク3:18

ハピーな時は誰でも喜べる。しかし、ハ
バククが喜んだのは、実りなく、何の収
穫も無い、完全な絶望状態の時であった。
なぜ喜べたのか。「主にあって」「救い
の神にあって」とあるように、環境、状
況で喜んだのでなく、神にあって喜んだ
のだ。私達も、現状が真っ暗であり、先
も真っ暗であったとしても喜べる。神に
焦点を当て続けるのだ。神はどんなお方
かよく考えよう。益とされる(ローマ8
:28)平安と将来と希望の計画(エレ
ミヤ29:11)しようとしている事を
ご存じ(ヨハネ6:6)ご自分の御子を
さえ下さったお方(ローマ8:32)良
くして下さらないわけがない。状況を信
じるのでなく、神を信じるのだ。状況か
ら目を転じて「御言葉」を反すうし、凝
視し続けよう。御言葉には霊といのちと
力がある。御言葉により、恐れが平安に
変わるのを経験する。
・・・・・・・・・・
いつも状況と御言葉の二つが目の前にあり
サタンは状況を見せ、落胆させ、目を神か
らそらせる。肉はそちらに反応する。しか
し、御霊は御言葉に立つよう導く。そこに
は必ず喜びと平安があって、希望がある。


2006年05月02日(火)

「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見ててかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて・・」ルカ10:34




彼はその動機が同情であって、
それ以外の下心は何も無かった。
助けを必要とする人に出来る限
りの事をした。ぶどう酒は消毒
に、オリーブ油は薬として惜し
げもなく使った。包帯をし宿へ
連れて行き一泊し親身に介護の
上、費用も全額負担した。
愛するとは犠牲を払う事だ。
突如の要のために、彼は躊躇せ
ず犠牲を払った。犠牲なくして
愛する事は出来ない。祭司とレ
ビ人は犠牲を払いたくなくて去
ったが、彼は急遽の必要のため
に予定も変更して対応した。
傷ついて倒れた旅人は私達自身
だ。罪にまみれてなすすべなく
倒れている。そこに来合わせた
のが主イエスだ。命をかけて救
って下さった。愛の無い者であ
る自らを認める事から始まる。
神は主の愛を注ぎ、行って同じ
ように出来るようにして下さる。
-------------------
愛は払われた犠牲によって量れる。
自分のうちに愛もなく、自分自身
をも愛せないかもしれないが、主
が私のために払ってくれた犠牲を
思う時、心が変えられて行く。


2006年05月01日(月)

「また、わたしのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」マタイ7:26

スポーツや習い事等、講義だけで身につ
くだろうか。不可能だ。実践が不可欠だ。
真理の御言葉は実行する時、初めて血と
なり肉とされる。自分が変えられ、自分
の人生が変えられて行く。愚かな人も賢
い人も「み言葉を聞いて」いる人達だ。聖
書を読み、説教を聞くクリスチャンだ。聞
くまでは同じだが、そこから先が分かれ目
だ。行う人は岩の上、行わない人は砂の上
だ。同意した、理解した、わかった、では
なく「実行する」かどうかだ。聞いた事を
行ってゆくなら、どんな誘惑が来ても、決
して押し流される事はない。毎日「今日の
みことば」を読んで、そうだ、そうだと同
意したとしても、行わなければ、絶対に自
分は変わらない。何も変わらない。同意し
ても、行わない限り、どこまでも自分の意
志を、自我を押し通して行くからだ。行う
という事は、神に従う事であり、自分が砕
かれて行く事だ。今日御霊の助けを祈って、
示されている事を、一つ実行しよう。必ず
御霊が助けて下さるから、行える。
・・・・・・・・
一つだけ実行しよう。感謝する事なら、一
つだけでも真心からの心底からの「有難う」
を神に献げよう。信仰もって実行する時、
何かが変わって来る。示されている事を今日
行おう。