2006年06月30日(金)

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」U歴代16:9


ダビデは主から、主の心にかなう者、
主と一つなる者と言われていた。
しかし、そのダビデは完璧だっただ
ろうか。そうではない。彼はバテシ
バとの姦淫、更にその隠蔽のためウ
リヤ殺害という大罪を犯していた。
それがどう一つだったのか。
ダビデの素晴らしいところは、自ら
の罪を示される度に、神の前に、罪
を認めて悔い改めた事だった。ゆえ
に、主と一つである事は、完璧に主
の御心に従い、決して罪を犯さない
という事ではない。弱さゆえに、主
の御心を痛め、罪を犯してしまう事
がある。しかし、御霊はその罪を指
し示され悔い改めに導かれる。
その時に、心を頑なにせず、突っ張
らず、逃げずに、神と自分に正面か
ら向き合い、心砕かれて罪を認め、
悔い改める事だ。完全な赦しがすで
に備えられている。そして、それが
主と一つである事だと言われる。
今日、御声を聞くならば、心を頑な
にしてはならない。
--------------------
罪を犯したとしても神様と全く一つ
になり得るという事、感謝だ。
自らを罪を犯すしかない者と覚え、
いつも隠さず、主に頼りつつ主と共
に歩もう。




2006年06月29日(木)

「というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです」Tコリント3:13




私達が建て上げた家は、神によ
って試される。テストされる。
火によって、信仰の実質がテス
トされるのだ。私達はどんな家
を建てているだろう。
「どのように建てるかに注意」
とあるので、クリスチャンなら
良いわけでなく、どのようなク
リスチャンかが重要だ。かの日
の報いが、全く異なる事になる。
土台はイエス・キリストであり、
金銀、宝石で建てるとは、自分
の知恵と力でなく、御霊と共に、
御霊に導かれて築き上げる信仰
生活だ。木、わら、草とは、自
分の肉の判断、肉の力、自分の
思いで築き上げる生活だ。
そして、それらはかの日に、そ
れ相応に報いられる。しかし、
それは、この世でも賞賛を得た
い、報いを得たいという肉、悪
魔の誘惑との常に戦いだ。
かの日のテストと同時に、日々
真価が試される試験でもある。
自分の力と自分の思いで、肉で
為した事はすべて燃え尽きてし
まう。主に頼り、御霊に導かれ
てした事はかの日に残る。
<どのように>建て上げるかは
極めて重要だ。心して、日々を
歩もう。
-----------------------
どのような家を建てているだろ
う。意識して歩んでいるだろう
か。今日からでも遅くない、し
っかり御霊様を選んで歩もう。



2006年06月28日(水)

「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」Tヨハネ4:20

こんな言葉がある。「自分が一番嫌い
な人を愛する事でしか、イエスを愛す
る事はできない」。私達は、しばしば
欺かれていて気づかない。あの人は嫌い
だが、自分は神は大好きで愛していると
思っている。しかし、それはあり得ない
と神が言われる。まずその欺瞞に気づく
事から始まる。CSルイスは言う。「愛
するという事は傷を受けやすいものだ。
何かを愛すれば、あなたの心は苦しみ、
壊れてしまうかもしれない。もしあなた
が傷つきたくないのなら、動物さえも慕
ってはいけない。何とも関わりを持たず、
自我という棺の中に鍵をかけて、しまい
込むのだ。天国以外で愛の危険から完全
に逃れ得るところは地獄だけだ」愛する
とは必ずリスクを伴う。心が傷つく。主
も、身も心もズタズタに引き裂かれ、傷
だらけになられたが、自分の命に換えて
も、愛する事を止められなかった。私達
の歩む基準は、世の基準とは違う。まず
「私たちが神を愛したのではなく神が愛
し」て下さった、ここに立ち、十字架上
で身も心も裂かれ、血まみれでぼろぼろ
になって、愛し抜いて下さった主のもと
に行こう。
・・・・・・・・・・
愛のひとかけらも、ひとしずくも無い事
を認める時、祝福は始まる。愛は神から
出ている。自分には無い。徹底して無い
事を認める時に、神が注いで下さってい
る愛に気づく。「聖霊によって、神の愛
が私たちの心に注がれているからです」


2006年06月27日(火)

「私は主のはしためです・・あなたのお言葉どおりこの身になりますように」ルカ1:38




突然、マリヤに御使いが現れ、身
ごもって男の子を産むと告げた。
大変な驚きであった。しかも事態
はおおごとであった。
婚約者ヨセフがいて、周囲に妊娠
が知れたらどうなるのか。
ヨセフとの関係はどうなるのか。
更に姦淫だと見なされたなら石打
ちの死刑だ。聖霊によってみごも
ったなどと、誰が信じるだろうか。
マリヤは窮地であり、大変な状況
だ。しかし、マリヤは御使いによ
って語られた言葉を信じ、それら
を負う事を決意した。
易しいことでは無かったはずだ。
しかし、覚悟を決め、主からのも
のを受け取る事を選択した。
マリヤの信仰だ。マリヤによって
神の大いなるご計画が成し遂げら
れた。マリヤは素晴らしく用いら
れたのだ。今、あなたにも決断の
迫られる事態が、目の前にあるだ
ろうか。とても出来ないと思うか
も知れない。しかし、神に不可能
は一つもない。マリヤは主に身を
委ね、信仰を選び取った。
あなたも自らを献げるなら用いて
下さる。目の前の一歩に従おう。
--------------------
神様はいつでも真実で、必ず良く
して下さる事覚え、みこころが
なりますようにの態度でいよう。
意志をもって一歩踏み出すなら
その気持ちを必ず受け取り、大
きく祝福して下さる。



2006年06月26日(月)

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」箴言16:18





ダビデは王だった。権力を持
ち、自分が一番上で、何をし
ても思いのままだ。権力に逆
らうならどうなるかわからな
い。周囲は本音を隠して黙し、
ただへつらうばかりだ。
自分の天下であり、どんなに
心地良い事だろう。しかし、
これほど危険な場所は無い。
簡単に道を踏み外してしまう。
ダビデは権力ゆえにバテシバ
を思いのままに出来た。
そして、ウリヤ殺害という二
重の大きな罪を犯してしまっ
た。長、リーダーの位置にい
る者は、気をつけなければ、
サタンの標的だ。
餌食になってしまう。教会の
責任持つ者が、信者になった
ばかりの者はいけない、高慢
になり悪魔の罠に陥るとの警
告がある通りだ。
人生で、順調に何もかもがう
まく行っている時も同様だ。
感謝とへりくだりを忘れ、慢
心してしまう。人間は罪の性
質があり、弱いので、よくわ
きまえていないと、悪魔の罠
に陥り、対人関係で様々な問
題を引き起こす。明けの明星
が天から落ちたのが高慢の罪
だ。悪魔は働く。神に拠り頼
んでいよう。
-------------------
自分が高慢な時、絶対気づけ
ない。だからいつもに神様に
祈って神様の力に拠り頼らな
ければならない。高慢は常に
信仰の敵だ。


2006年06月24日(土)

「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください」詩編13:3

この詩篇の中には、4回の「いつまで」
がある。神は御顔を隠しておられる。私
は悲しい。敵は高ぶって攻撃してくる。
これらの終結の時、解放の時がわかって
いれば忍耐できる。しかし、いつまで続
くのかわからない状況ほど苦しいものは
ない。私達も試練の時は、真っ暗闇のト
ンネルの中で、出口が見えない。いつ終
わるのか見えないと、更に苦しみとなっ
てのしかかる。この苦しみを、率直に神
に告げる事は良い。苦しみと嘆きを神に
ぶつける事だ。「自分のたましいの内で
思い計る」、自分の計画、思いに立つ所
から苦悩が来る。「私の目を輝かせ」御
霊の光が来る時、視点が変えられる。自
分中心に立ち、見ていた場所から神に移
行する。神の視点で見えた時に、状況は
そのままだが、突然変化し「救いを喜び、
歌を歌う」ことができた。大きな転換だ。
視点の問題だ。今、あなたが試練の中に
いるなら、神の視点に立てるよう、目を
輝かせて下さるように祈ろう。
・・・・・・・・
「自分の」「自分の」に立つ時、出口がなく
苦しいばかりだが、「神の」に立つ時、解き
放たれる。「自分の」を手放す時、自由にさ
れる。平安が来る。視点が変えられるように。
 


2006年06月23日(金)

「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も・・らくだもろばも殺せ」Tサムエル15:3



主はサウル王に、アマレクをい
っさい滅ぼすよう命じられた。
ところが主の命令に従わず、王
アガクを生けどりにし、家畜の
良いものを惜しみ、取っておい
た。その不従順のため、サウル
は王位から退けられる事となる。
そして、サウルがアマレクを根
絶しなかったため、ずっと敵と
なりイスラエルを悩ませ続けた。
以前、主はモーセにも、アマレ
クがした事を忘れず、アマレク
を消し去るようにと言われた。
アマレクを絶滅しなければ、イ
スラエルの方が絶滅させられる
事を、すでに見ておられたから
だ。私達の肉の性質も同様だ。
神が捨てよ、離れよと言われた
時に、神に従い、罪を捨てたり、
罪から離れる事は絶対に大切だ。
もしそうせずに、そのままにし
ておくと、今度はあなたが飲み
込まれ、罪のとりことなり、滅
ぼされてしまう。必ず命取りに
なって行く。いい加減にせず、
軽く見ずに、今、示されている
事があれば従おう。離れるべき
ものからは、心して離れよう。
--------------------
罪の誘惑に肉の自分自身で立ち
向かう事は不可能だ。だから捨
てよ、離れよと、神様は示して
下さる。そのままにせず、まず
祈ろう。捨てれるように、離れ
られるように。


2006年06月22日(木)

「なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ6:45




言葉はやっかいだ。舌を制御する
事は誰一人できない。少しもじっ
としていない悪で、死の毒に満ち
ている。たった一言で人の心を深
く傷つけ、長い時間をかけて築い
た信頼関係を、一瞬にして崩して
しまう。舌は火であり不義の世界、
舌とはそれほどのものだ。
舌は注意していないと大きな罪を
犯してしまう。あなたも失敗した
事があるだろう。
しかし、舌の問題は、ノウハウや
テクニック、小手先で間に合うも
のではない。なぜなら、心に満ち
ているものを口が話すのであり、
口以前に、心の問題だからだ。
ここで舌を抑えて何とか黙っても、
次で必ず喋る。肉は喋りたいのだ。
強い欲望であり、心から溢れ出て
喋らずにはおれない。
心が変わらない限り、舌は変わら
ないという事だ。御霊に導かれ、
御霊の愛で心が満たされる時、変
えられる。頑張って制御するので
なく、心が満たされるので欲望を
発散させる必要がなくなる。
-----------------
心が肉と、サタンと語り合ってい
るなら必ず害毒は口からこぼれ出
る。毒を増すだけだ。主と語ろう。
心の中の毒を主に委ね、主に満ち
ていただこう。


2006年06月21日(水)

 「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった』申命記8:2




人は試練の時、圧迫を受ける時に、
自らの本質が出る。それは偽る事
が出来ない。本性が出るのだ。
それゆえ神は試練を与えられる。
神はすでに私の内にあるものを知
っておられるが、私自身が自分の
本当の姿を知らない。私自身が真
の自分を知るためだ。まず自分の
姿をきちんと知る事が、成長への
第一歩だ。私達は自分に欺かれる。
自分はそんなに悪い人間ではない、
むしろ良い人間だと思っている。
周囲ともうまくやって行けるし、
自制も出来るし人には親切であり、
時々不信仰になるが、だいたいは
信仰的だと思っている。
そう思っている限り、主から離れ
て、主に頼らず自分の力で歩んで
しまう。それでいて気づかない。
試練によって自分の本当の姿が現
れる。自分がどんなに無力で頼り
なく、良い人間などでは、さらさ
ら無く、醜く、邪悪な者であるか
を思い知らされる。あなたも試練
で自分の無力を知っただろうか。
私達は成長が心からの願いだ。
そのためには、必ず自分の姿を認
めさせられる。
-----------------------
ちょっと困った時は頼って、大き
く道をはずれた事も無いので少し
ばかりは信仰的だろうと順境の時
には思う。試練にぶつかってやっ
と、つぶやき、落ち込み、ひがみ
全く主を己の喜びとしていない自
分がはっきり示される。


2006年06月20日(火)

「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義・・」ピリピ3:9

私たちが労力を惜しみ、時間を惜しみ、財を
惜しむのは、まず余りにもキリストを知らな
い事による。キリストの素晴らしさを知れば
知るほど、自由になり、解放される。朽ちて
しまう、地のものに執着が少なくなって行く。
もし、まだそこまで、主の素晴らしさを味わ
っていないのなら、まず捨てたくないし、捨
てる事は出来ない。自分の生涯を献げる事な
ど到底出来ない。それで良い。捨てるべきで
ない。キリストへの愛以外の動機で、何かの
犠牲を払ったとしても意味が無い。単なる
自己満足であり、更に誇り高ぶるようになる
だけだ。自己満足のために我慢しただけであ
って、それは主への愛ではない。自分の義で
あって、信仰による義ではない。まず自分を
欺かず、献げられないなら、献げられないで
良い。無いものは無いと認めておれば良い。
主が献げる事が出来るようにして下さる。
率直で、素直でいよう。無いことを認めよう。
それが一番神に導かれやすい。   
・・・・・・・・・・・
自分で立てて行く義は、形はそれらしく見え
外面整うが、暗闇に入りますます神から離れ
るばかりだ。「出来ない」「無い」を真っ直
ぐに認めて行く時、神がして下さる。心安ら
かで喜びがあり、真に神を知って行く。
 


2006年06月19日(月)

「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」ピリピ3:8



パウロはユダヤ人の中でもエリート
階級にいた。割礼を受けた生粋のユ
ダヤ人だ。名門ベニヤミン族の出で
あり、宗教的且つ政治的指導者を育
成していたガマリエルの門下生。
その熱心は周知の通りだ。
ダマスコ途上でキリストに出会い、
人生が180度変わり、この世の出
世コースから外れた。
しかし、キリストに比べるなら、こ
れら一切の事を損だと言った。
パウロは損失によって、キリストを
真に知った。私達が主を知って行く
のは、損をする事により、「損失」
によってだ。御言葉の学びは大変有
益で大切だが、頭の知識にとどまる
なら、知識は人を高ぶらせ、霊的高
慢に陥らせる。しかし、愛は人の徳
を建てる。自分を明け渡す時、自分
の握り締めている、自分の命である
ものを献げる時、神を知り、神の愛
を知る。誰しも自分にとって命ほど
大切なものがある。まさにそれこそ
神と自分との妨げになっているもの
だ。それを明け渡す時、その「損失」
によって、満ち溢れる喜び、神の素
晴らしさを知る。あなたにとって、
しっかり握っているものは何だろう。
----------------
握って放せないから今以上に神様
を知る事が出来ない。知る事が出
来ないからさらに握り締める。
日々の痛み、苦しみ、うめきはここ
から来ている。


2006年06月18日(日)

「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」創世記45:5

ヨセフの物語は、神に完全な計画があるこ
とを示す。神は、先にヨセフをエジプトに
送り、ヤコブの家族をエジプトの地に移さ
せて、飢饉から救う事を計画しておられた。
神は兄達の妬みを用いて、ヨセフを隊商に
売らせ、エジプトに送られた。そこで、
ヨセフは更に試練が臨み、無実の罪で牢獄
へ。そして、世界中が飢饉になろうという
時に、ヨセフを牢獄から出し、パロの前に
立たせられた。パロの夢を解き明かし、飢
饉に備えるため総理大臣にされた。ヨセフ
に次から次へと苦境が臨み、どうして?な
ぜ?の連続で、まるでパズルのようだが、
神の目から見れば、着々と、ご自身の計画
が進行していたのだ。不都合に、マイナス
に見えるすべての事態が、神の栄光のため
に働いて行った。今、理解に苦しむ状況の
中にいるだろうか。私達は目の前しか見え
ないが、神は先を見通しておられる。神を
信じよう。
・・・・・・・・・・・
人間の側からは刺繍の裏しか見えない。
グチャグチャにからみ合い、何がどう
なっているのかわからない。しかし、神
の側では着々と進行中だ。見えないが信
じていよう。


2006年06月17日(土)

「あなたが王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」エステル4:14

ハマンの悪巧みにより、ユダヤ人皆殺しの
法令が出た。モルデカイは王宮のエステル
に、王に助けを求めるよう告げた。エステ
ルが王妃に選ばれた時には、なぜだかわか
らなかっただろう。しかし、この時に至り、
過去の出来事が理解できるようになる。神
がユダヤ人を守るために、この時のために
エステルを備えられたのだ。私達の信仰生
活も同様だ。今に至るまでに、過去の様々
な事柄が織りなされ伏線になっている。よ
く考えてみると、色々な備えに驚くはずだ。
又、今の起きている事態がなぜなのか、ど
うなっているのか、理解出来ないかも知れ
ない。しかし、神には目的と完全なご計画
がある。今のその理解不能の事態は、これ
から先のために無くてはならないものとな
る。今、目の前に示しがあるなら、ずっと
以前からの下準備があったはずだ。目の前
の導きに従おう。あなたが備えられたのは
この時のためであるかも知れない。神のご
計画のために豊かに用いられる。
・・・・・・・・・・・
いつも神は前もって備えをされ、「この時
のため」に用いられる。時を悟って、「こ
の時」が来たなら、必ず信仰もって従おう。
もし今、目の前に来ているなら従おう。

 


2006年06月16日(金)

 「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2:16)

 


私達はほとんど皆、無名で、有名人
ではないし、影響力はない。しかし、
毎日の繰り返しの中で、単調な同じ
仕事の中で、信仰を実践して行く事
ができる。平凡な毎日だろう。
しかし、いのちの御言葉をしっかり
握って、日々キリストと共に生きて
行くなら、キリストを現して行ける。
キリストの発想や、態度、考え方、
行ないが生活の中に現れ、周囲に影
響を与えて行く。置かれている場所
がどんなに小さくても、目立たない
場所でも問題ない。仕事がどんな種
類であれ、それも問題ない。
今いる場所で、御言葉に忠実に従っ
て行くなら、主が、必ずあなたを輝
かせられる。又、その場がどんなに
暗くても、構わない。光は暗ければ
暗いほど、明るく輝く。御言葉に従
おう。態度、行動、判断が御言葉に
よってなされる時、周囲に証しとな
されて行く。今、示されている事が
あれば、従おう。実行しよう。
-------------------
対人関係や自分の感情に翻弄され、
疲れきった人ばかりの中で、いつも
喜んでいるなら、それだけで大きな
証しだ。いのちのみことば今日もし
っかりにぎって世に出て行こう


2006年06月15日(木)

「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」イザヤ55:7




車やストーブの欠陥商品を時々
聞く。欠陥商品が出ると、メー
カーが返却の呼びかけをする。
購入者は申し出るようにと。
呼びかけに応じて、申し出るな
ら賠償や修理や交換、それ相応
の対応をしてくれる。もし、呼
びかけに応じなかったらどうだ
ろう。欠陥商品はそのままだ。
神は私たちに呼びかけられる。
それは私達を正して下さるため
だ。勧めか、忠告、警告の形か
も知れない。今、あなたに誰か
からの忠告があるか。それは人
ではなく、神からの忠告であり、
あなたへの愛だ。目を留め深く
愛しておられる。
「間違った方へ向かっている。
方向を変える必要がある」無視
せずなおざりにせず、その忠告
に応答しよう。罪を悔い改め、
方向変換しよう。豊かに赦され、
新しい心が与えられる。
神から心が離れ気味か。霊的な
事柄に鈍くなっているか。
神は呼んでおられる。しかし、
その呼び声に、応じる事は、あ
なたにかかっている。誰も代わ
って出来ない。あなたにしか出
来ない。
----------------
帰る所があるとはなんと幸せな
事だろう。いつでも待っていて
下さる御方が自分にいる恵みを
今一度覚えよう。


2006年06月14日(水)

「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです・・」ヨハネ8:44

サタンは偽りの父であり、黒を白、白を
黒と、自由自在に偽る。真理がない。
絶えず偽りを誘惑し、攻撃して来る。間
違った動機を正当に、良い動機を間違っ
たものにと混乱させる。誘惑は自分の欲
望にピッタリと沿って来るので、自分の
思いと一つになっているので、なかなか
見分けられない。わからない。エバが見
事に誘惑に引っかかってしまったように。
又、自分の思い、自分の肉の偏見が底に
ある時、ものの見方も歪んでいるが、正
しいとしか見えない。つまり、心に偏見
がある時、物事を正しく見る事が出来な
い。自分は正しく見ているつもりだが、
歪んでいる。サタンは偽りを真理に見せ
かけ、常に欺こうとする。サタンのこう
いう誘惑と攻撃をよく踏まえて、自分は
間違う者だと認識し、自らに頼らず、常
に神に頼り、御霊の判断を仰ごう。御霊
の助けによりサタンの罠に気づかされ、
間違いから守られ、神のお心へと正しく
導かれる。
・・・・・・・・・・
「自分は正しい」に立つと、御言葉を聞
いているようで遮断している。神にも人
にも聞く耳を持たない。自分がいかに弱
く、間違う者であるかを踏まえる時、御
言葉がよく聞こえ、人の助言も聞こえて
来る。


2006年06月13日(火)

「サタンは主に答えて言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか』」ヨブ1:9



サタンは神にヨブを中傷した。
ヨブが神に従っているのは、
見返りがあるからだと。そう
でなければ、従うわけがない
と。ヨブは自己中心な動機で
従っていると訴えた。
神はヨブを認めておられたの
で、サタンが試すのを条件付
きで許可された。私達が神に
従っているのは、家内安全、
商売繁盛、交通安全のためか。
それならこの世のご利益宗教
と同じだ。自分の益にならな
ければ、やがて止めてしまう。
従う理由が無いからだ。
あなたはなぜ神に従っている
のか。自分のためなら、順境
の時は良いが、試練の日に、
必ず身を引く。御言葉のため
に困難や迫害が起こると、す
ぐつまずいてしまう。
こんなはずでは無いからだ。
しかし、そうではなく、私達
は、神が神であられるから、
礼拝して生きて行く。良い時
も悪い時も、変わらず神に従
って行く。神を崇め、従って
行く。神は良いお方であり、
愛していて下さり、人生の様
々な出来事を通して、神を更
に深く親しく知って行ける。
ここに生きる喜びがある。
------------------
御利益宗教なら簡単だ。嫌な
らほかを当たればよいから。
しかし私達は本当の神様を知
っている。私達の明日を計画
し、守り、慈しんで下さって
いる。神が神であるから、こ
ろびつつも従うのだ。


2006年06月12日(月)

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」ローマ:37          

「しかし、私たちは、私たちを
愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっ
ても、圧倒的な勝利者となるの
です」ローマ:37


人は言う。「クリスチャンは弱
者だ。何でもかんでも神に頼り
依存する。自分の力で生きるべ
き。人生の敗北者ではないか」。
しかし、神は、人生の「圧倒的
勝利者」だと言われる。
弱い人に自分の弱さは認められ
ない。真正面から、現実に、自
分に向き合い、神が見ておられ
る通りに自分を認める事は、自
分が真の自分になるという事だ。
強いと思っているのは虚栄で、
幻影だ。神が、圧倒的勝利者に
して下さるのは、自分の限界を
知り、それを認める人だ。自分
のどん底の姿、惨めで哀れで破
れ果てた自分、それを知る事こ
そが実は大きな祝福と恵みだ。
神が働かれるのは、必ず自分の
力が尽きた所だ。肉の力が尽き
た時、神が働く事がお出来にな
る。その時、神の大きな力を我
が事として経験する。自らの弱
さを認める事が、圧倒的勝利へ
の道だ。
---------------------
私達は自分の弱さを知っている。
小さく醜い者だ。けれど神様の
力によって大きな者になれる事
も知っている。小さな自分を離
し神様に働いていただこう。


2006年06月11日(日)

「もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につながれたのであれば・・」ローマ11:24

柿には甘柿と渋柿がある。それは実ではなく、
木の問題だ。渋柿の木は渋柿をならせ、甘柿
の木は甘柿をならせる。渋柿を幾ら手を尽く
し懸命に世話をしても、立派な渋柿を実らせ
るだけだ。では、どうすればよいのか。渋い
柿を甘くするには、接ぎ木をすればよい。そ
うすれば、渋柿は甘柿になる。神は私達に同
様にして下さった。肉を幾ら教育し、しつけ
ても「肉によって生まれた者は肉」だ。本質
の問題だ。肉が改良されて、霊になるのでは
ない。肉は最後まで肉、渋柿をキリストに接
ぎ木して下さったのだ。接ぎ木で、甘柿を生
じるように、私達は「神のご性質にあずかる
者」となった。キリストの性質が流れ込んで
いる。どんなに渋柿にしか見えなくても、甘
柿の性質に接がれているのだ。今、神の性質
が心にあるのだ。その性質は成長して行く。
そして御霊の実、愛、喜び、平安、寛容、親
切、善意、柔和の実を結ぶ。どんなに渋柿に
見えても、必ず甘い実を結んで行く。主と同
じ性質を宿しているとは何と嬉しい事だろう。
・・・・・・・・・・・
接ぎ木は不思議だ。元からのものに反して、接
ぎ木された先のものが流れ込む。本当にそうな
る。神の性質、新しい性質が現に今流れ込んで
いる。そちらに目を留め歩んで行ける幸い。


2006年06月10日(土)

「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので・・」使徒16:7

パウロは小アジアに進もうとした時、聖霊に
よりストップがかかった。次にビテニヤへ行こう
とした。すると、またも止められた。それでトロ
アスに向かい、そこで、マケドニヤを示された。
全く想定外の事が起こる。アジアもだめ、ビテ
ニヤもだめ、「なぜ?どうして?」何もかも塞が
れたと感じたろう。しかし、人間の計画挫折の
裏に、実は神の高い深い計画、ヨーロッパ伝
道が隠されていた。パウロはマケドニヤに渡る
願望があったのではない、むしろアジアやビテ
ニヤへの思いが強かった。それで神はストップ
をかけられ、御心の道へと誘導された。人の思
いと神の思いはしばしば異なる。思い通りでな
い。しかし、神のご計画は常に最善であり、私
達の側で次善に見えるものが、実は最善なの
だ。門を閉じられたなら御心ではない。そこで
意気消沈し続けるのでなく、祈って、神の心と
導きを求めよう。神は責任もって、別の門を開
いて下さる。その開かれた門に進んで行く時、
思いを遙かに越えた素晴らしい祝福が備えられ
ている。そして、神のされる事は最善だと、喜び
もって知る。
・・・・・・・・・・・・・
パウロは、立てた計画があっちもこっちもくじかれ、
心砕かれた。砕かれたからこそマケドニヤへの
御心が確信できた。「ただちに出かけ・・確信した
からである」自分の思いが砕かれる時、神の御思い
がはっきりわかる。


2006年06月09日(金)

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから・・主は、きょうののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」Uサムエル16:12




シムイという男がダビデに石を
投げ、ダビデを呪い、ウリヤ殺
害の罪を罵倒した。
「血まみれの男、よこしまな者」
と。首をはねさせて下さい、と
いう部下に、主が命じられたのだ
から、放っておけと、ダビデは報
復を許さなかった。神からの懲ら
しめ、訓練と取り、甘んじて受け
たのだ。「私の身から出た私の子
さえ、私の命を狙っている」、シ
ムイどころか、今や実子のアブシ
ャロムすら自分に敵対している。
それゆえシムイの呪いも、神から
出たものと受け取っている。
何とへりくだった心と態度だろう。
「今日の呪いに代えて、幸せを報
いて下さる」、どのような悲惨な
状況の中でも、状況を変えようと
もがくのでなく、神の前に、正し
い心で、神に適った心でいるなら、
それをも主が良い事のために計っ
て下さる。ヨセフの「あなたがた
は、私に悪を計りましたが、神は
それを良いことのための計らい」
とされた通りだ。相手の悪意すら
も、あなたのために益として祝福
と変えて下さる。
--------------------
自分の罪も認め、悔い改めも刈り
取りも、何もかもを神様に委ね、
揺がない信頼をおいているダビデ
のように、どのような状況の中も
動揺せず歩みたい。




2006年06月08日(木)

「主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください・・救いは主にあります」詩編3:7




ダビデはバテシバとの罪を
刈り取らねばならなかった。
実子アブシャロムが自分に
歯向かい、謀反を起こした
のだ。ダビデにとって痛い
非常に辛い事であった。
彼は、武力により鎮圧しよ
うと思えば出来たが、主に
委ねて、自分が去り、逃げ
る道を選んだ。
祭司ツァドクとエブヤタル
も、契約の箱をもってエル
サレムを出ようとしたが、
ダビデが止めた。理由は、
「主の恵みにかなうならば、
私を連れ戻して下さるだろ
うし、もしそうでなくても、
主が私に良いようにして下
さる」。ダビデは、罪を犯
す以前の、信仰によって歩
むダビデだ。自分で自分を
守ろうとせず、自分に関す
る事をすべて主に委ねてい
る。そして、武力で立ち向
かうのでなく、神に祈り、
神に求めている。
「私は声をあげて、主に呼
ばわる。すると、聖なる山
から私に答えてくださる」。
私達も問題が起こる時、な
すべき事は、自分で動かず、
主に呼ばわる事だ。
-------------------
物事の背後におられる主を
いつも覚え、助けを求めよ
う。事がどう動こうとも御
心の真ん中が一番の幸せだ。



2006年06月07日(水)

「彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:15


すでに主の十字架によって、おおいは取り除か
れている。いつでも主のもとへ行ける。しかし、
自分がおおいを掛けている。思いが古いまま
で、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れている。
私達のおおいとは、まず自分中心に物事を考
える事だ。生活のあらゆる面に浸透している。
自分の思いが強く、自分の願望、自分がどう
こうして欲しいばかりで、では、神はどう思われ、
どうされたいのか、神視点の発想が欠落して
いる。すべてが自分のためなのだ。だから、おお
いとなって神が見えない。状況と自分しか見え
ず行き詰まってしまう。そんな自分が様々な事
を通して砕かれて行く。根深い自己中心、不
信仰に気づかされ、悔い改める。心砕かれ、
悔い改める時、心にかかっているおおいが除か
れる。その時、神が見える。おおいをかけた
まま、心を閉じていないだろうか。心を、その憎
しみや妬み、苦しみのかせから解き放ち自由
にして下さる。「主の御霊のあるところに自由が
あります」。主に向くなら取り除かれる。主に
向きを変えよう。
・・・・・・・・
砕かれる度に、おおいが除かれ、主がはっきりと
見えた。古い人が出てくる度に、おおいとなる。
いつも古い人がよみがえって来るので、その度に、
主に向いて、妨げているものを取り除いて頂こう。
 


2006年06月06日(火)

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」詩編23:6



神の恵みを認め、感謝し恵みを
数える人に、神は恵みを増し加
えられる。
マリヤは人から賞賛されても
「主をあがめ、わが霊は、救い
主なる神を喜びたたえます・・こ
の卑しいはしために目を留めて
下さった」と主を讃えた。
私達は自分が認められたいので、
人の賞賛を求める。しかし、主
にだけ栄光を帰し、主だけを崇
めて行くなら、幾らでも恵んで
下さる。ある婦人は仕事を祈っ
ていると、来たのが到底無理な
営業の仕事。自分には出来ない。
しかし、祈りの答えと信仰によ
り受けた。自分には出来ないの
で、祈りに祈って仕事をした。
すると、次々と契約が取れ、
一つ一つの結果を「神様です!」
と、神に栄光を帰した。自分が
栄光を奪わなかったので、次々
と契約が与えられた。神にのみ
栄光を帰するなら、恵みを注い
で下さる。自分に栄光を帰して
いないか。恵みに感謝もなく、
当然のことにしていないか。神
にのみ栄光を帰し、恵みを数え
て数えて歩む者に、神は良いも
のを惜しまれない。
-------------------
恵みを恵みと思わずつぶやいた
り、うまく行けば行ったで自分
を誇る・・なんと私達は自己中
心な者だろう。もらったもので
無いものが一つでもあるだろう
か。




2006年06月05日(月)

「その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」詩1:2




肉は御霊に逆らい、御霊は肉に
逆らう。この二つは対立してい
て、したいと思う事が出来ない。
これは私達が日々体験する、霊
と肉の葛藤だ。御霊によって、
御霊に導かれ、満たされて歩む
事が解決の道だ。御霊に満たさ
れるとは、御言葉に満たされる
事だ。いつも御言葉を口ずさむ
事、祝福の根拠は御言葉にある。
御言葉を喜びとし、昼も夜も言
葉を口ずさんで行く時、主が心
の真ん中におられる。
肉の思い=自分の思いが、御言
葉に従い、主に従って行くので、
主と思いが一つになって行く。
その時、みこころを行って行け
る。主と一つ思いになる時、心
に喜びが来る。「わたしがあな
たがたに話したことばは、霊で
あり、またいのち」、御言葉を
口ずさむ時、「世の終わりまで、
いつも、あなたがたとともにい
ます」との主の約束が現実のも
のとされる。御言葉を愛し、
御言葉に思いを馳せ、昼も夜も
口ずさむ者とされたい。
この一日、御言葉を心に留めて
、絶えず口ずさんで生きよう。
--------------------
み言葉をしっかり握って新しい
一週間を歩み始めよう。ひとつ
のみ言葉から新しいチャレンジ
が与えられ、またサタンからの
思いに振り回されることから守
られる。


2006年06月04日(日)

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」箴言14:12

罪には快楽がある。罪は苦いのでなく、楽
しいのだ。そうでなければ、罪に誘惑され
ないし、これほど多くの問題は起こらない。
悪魔の策略だ。肉に歩んでいながら、心地
良いので、一見問題は無いし、幸せなのだ。
万事うまく行っていると錯覚させる。みこ
ころに反していながら、気づかない。狡猾
巧妙、一見まっすぐに見えるから要注意だ。
しかし、悪魔にだまされて歩んで行くと、
必ず悲惨な結果に行き着く。それは死の道
だ。それだけでなく、蒔いたものは必ず刈
り取る。蒔いたものに責任を取らねばなら
ない。これは原則なので例外は無い。神か
ら離れて、みこころに反しているのに、楽
しいのは、それは欺かれていて、悪魔の罠
という事だ。後で思い知り、苦しい刈り取り
をする事になる。悪魔の策略は、人の目に
は、まっすぐで万事0K、うまく行ってい
ると見える。もし、明らかに御言葉に反す
る道に行っているなら、幾ら楽しくても、
心地良くても、方向変換しよう。その先は死だ。
・・・・・・・・・・
誘惑にかかると目が見えない、神が見えない。
うまく行っているように見えてしまう。まっ
すぐに見えるのだ。しかし、心の奥底に御霊
の感覚がある。いのちの道へ導いておられる。
 


2006年06月03日(土)

「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」詩編6:9

ダビデはサウルに妬まれ命をつけ狙われる。
敵からも自分の息子からも狙われ、病にも
陥り心身絶体絶命の悲惨な苦境だ。ダビデ
は神の心にかなった人だった。信仰者にな
ると悩みが無くなるのではない。問題は必
ず来る。私達は苦しくてたまらず、とにか
くその問題が去る事を願う。しかし、苦し
みの中でこそ、神が神であられる事を身を
もって知って行く。ダビデは「嘆きで疲れ
果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、な
すすべなく泣いて泣いて嘆いた。苦しみの
中でこそ、神との深い交わりに入れられる。
「主よいつまでですか、あなたは」と、あ
りのままの気持ちを神にぶつけている。順
境の時には決して経験出来ない事だ。自分
で何とかしようともがき、走り回るのでは
なく、問題をすべて神に持ち出せ。自分で
当たると空回りだ。心を注ぎ出し、気持ち
を神に告げ神に寄りかかるのだ。神との近
い交わりを経験する。祈りは聞かれる。
・・・・・・・・・・
ダビデは泣いた。苦しみ、悲しみの時は思
い切り泣けばよい。よく状況をくどくどと
主に説明して祈るが、状況など主はご存じ
だ。状況でなく「気持ち」を主に告げる事
が大切だ。それが交わりだ。主に受け止め
られた、平安が心に来る。


2006年06月02日(金)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1





ヨセフは、兄弟達に妬まれ、
エジプトに奴隷として売られ
た。しかし、良い主人に導か
れ、その家のすべてを任せら
れる。彼は、奴隷の身分では
あったが、主人の家で大いに
祝福され、さあ「私の時」だ
と思ったかも知れない。
しかし、主人の妻の誘惑に会
い、濡れ衣で投獄され、奴隷
より更に低い囚人となってし
まう。それも無実の罪で。
そこで忍耐の時を過ごす。
やがて、そこから出され、王
から総理大臣に任命され、全
権を任されるまでになる。
忍耐の末に、とうとうヨセフ
の「時」がやって来た。あな
たは今、苦しみの時だろうか。
目の前真っ暗で、何の希望も
持てないだろうか。しかし、
ヨセフのように、そこに神の
スケジュールがあり、「神の
時」がある。神を信頼して、
待とう。あなたの信仰を練り
鍛え、強めておられるのだ。
あなたへの「時」がある。
今は、先が全く見えないが、
必ず時満ちて、神があなたを
引き上げられる。神の「時」
は完璧、素晴らしいみわざを
見る。最悪の状況の中で、自
らの力が尽きるところにこそ、
神の力が現わされ、神のわざ
を見る。
----------------------
すべてに神様の美しい時が備
えられているから、抗わずじ
っとその時を待っていよう。
今日一日もしっかり委ねて歩
めますように。


2006年06月01日(木)

「私の時は、御手の中にあります」(詩篇31:15)


神は神のスケジュールを持っておられる。
種を蒔いて、芽が出て、花が咲いて行く
にも、時のスケジュールがある。芽、茎、
花、実と秩序と時がある。もし、これを
無視したらどうだろう。自分で不毛のあ
がきをして、出る芽も出ず、咲く花も咲
かず、実も実らない。私達の霊的成長も
同様だ。神にはスケジュールがあり長期
計画だ。悪あがきをせず、神に委ねて、
苦しみの時、喜びの時、それぞれの時を
しっかり受け入れて行く事が大切だ。ダ
ビデは「四方八方みな恐怖」で出口も見
えない困難の時に、この時が、神の「御
手の中」にある事を見た。そして、神の
「時」に、これらは導かれ回復して行っ
た。苦しみの時、悲しみの時、何の希望
も見えない時、これらの「時」は、愛の
「御手の中」にある。握っておられる神
の方に目を向けよう。その時、「神のな
さることは、すべて時にかなって美しい」
ことを自分の身に体験して行く。あなた
は今、どんな「時」だろう。今の「時」
を受け止めよう。御手の中だ。 
・・・・・・・・・・・・・・・
まさに神の時がある。時でなければ、ど
んなに焦ってもあがいても何一つ動かな
い。逆に神の時には、大きく動いて行く。
それぞれの「時」をしっかり受け入れる
なら、そこで神を深く知れる。