2006年07月31日(月)

「ヤコブは眠りからさめて『まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった』と言った」創世記28:16



ヤコブに欺かれた兄エサウは、激
しい恨みに燃え、殺意を抱く。
自ら犯した罪のために、ヤコブは
家を出なければならなくなった。
野山を旅し続けた。一日中歩き続
けて、日が沈み夕闇が迫った。
そこでヤコブは一夜を明かす事に
し、石ころを枕に横になった。
一日の心身の疲労消耗でヘトヘト
になった体に、固い地面はこたえ
たろう。喉は渇き、足は痛みを覚
える。どうしてこんな事になった
のか、独りぼっちで、惨めで不安
で孤独だった。人生のどん底だっ
た。しかし、その所で、「まこと
に主がこの所におられる」と、ヤ
コブは生ける全能の神に出会った
のだ。信仰人生に一つの特徴があ
り、様々な人々が成功の絶頂時で
なく、人生の「どん底」で、生け
る神に出会っている。惨めで、裸
で、もうどうにもならない絶体絶
命の窮地で、真に神に出会うのだ。
自分が砕かれた時、神がわかる。
自分の力で、苦しい歩みをしてい
た者が、神に出会い180度変わ
るのだ
---------------------
皆それぞれにどん底で神様を仰い
だ経験があるだろう。思い通りに
ならない事が今となっては、最高
の恵みの時だった。あの時、神様
に出会わなかったなら、今頃らど
うなっていただろう。


2006年07月30日(日)

「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ」雅歌2:15

ぶどう畑は、私達の信仰生活だ。ぶどうの
実を豊かに結ぶはずの畑だ。それを荒らす
のが「狐」であり、「罪」の事だ。特に
「小狐」は小さな罪の事だ。大きな罪では
ない、ちょっとした嘘とか、黒ではない灰
色の事柄とか、ほんの少し事実を曲げて、
自分に都合良く伝えるとか・・。きちんと
でなく、いい加減にしてしまう、手抜きの
仕事、嫌味な応答、ちょっとした当てこす
り、不親切、誰も見ていない所でのいい加
減な公共マナー、こんなちょっとした事は
大丈夫だと、高をくくってしまう。霊的生
活に大した影響無いと思ってしまう。しか
し、その子狐が問題で、子狐を放っておく
と、畑がどんどん荒らされて行き、いつの
間にか、知らない間に荒れ放題になり、大
きな損害を受ける。狐は勿論だが、子狐に
気をつけよう。あなたの生活で、大した事
ではないと、いい加減にしている小さな罪
は無いか。その子狐を捕らえよう。
・・・・・・・・・・
こんな些細な事、大丈夫だと、たかをくく
ってしまう、一つ一つに目を留めよう。御霊
が今までも気づきを与えようと、示しておられ
たのでは。見ぬ振りをしていないか。子狐に
目を光らせよう。


2006年07月29日(土)

『サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」』ヨブ1:9

これは利益も無いのに神を信じるだろう
か、とのサタンからの訴えだ。悪魔は人
間の弱さを見抜き、知っている。理由も
なく神に従ったりなどしない。素晴らし
い信者であっても、心の中ではきっちり
計算をしていて、得があるから信じてい
ると。しかし、ヨブは子供達や家、家財、
所有者のすべてを失っても信仰を捨てな
かった。信じたからと言って大金持ちに
なるわけではない、病気もするし倒産も
する。すると周囲から「それでは神を信
じている意味がない」と言われる。それ
は自らの心にも忍び寄る。あなたはなぜ
神を信じているのか?尚も、ヨブは悪性
の腫物で自分の生まれた日を呪うほどに
苦しんだ。しかし、信仰を捨てなかった。
良いものが何一つ認められない状況で、
何のために神を信仰するのか。それは、
何かをもらえるからではない。神が神で
あられるゆえに信仰する。それにも関わ
らずに、神は測り知れずあわれみ深い。
苦しみの後には祝福を備えて下さってい
る。ヨブを元通りにされ、失った所有物
はすべて2倍に増して返された。
・・・・・・・・・・
どこまで行っても、神を利用してさえも、
結局は自分のためにしか生きれない者
が、神に応答し、従おうとする事、これが
救いであり奇跡だ。自分には決してあり
得ない御霊の働きだ。ここに一番の喜
びがある。


2006年07月28日(金)

「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」箴言11:2




高慢とは、鼻を高くした偉そうな
態度、謙遜は腰を低くした態度を
思い浮かべるが、そうではない。
高慢とは、神のされる事を受け入
れずに、反抗する事であり、へり
くだりとは、神のされる事をその
まま受け入れる事だ。
自分の思い通りにならない事態に、
怒り、イラ立つのは高慢だ。
その時に神の御手を認めて、人や
出来事を、受け入れる事が謙遜と
いう事だ。自分の予定や計画が、
予定外の事態や人によって妨害
される。よくある事だ。その時、
腹を立てるなら、それが高慢だ。
そこで神を認めることだ。その
状況に神の御手を認めるのだ。
神を信じて、そこで自分の計画
を神に明け渡して、自分を砕い
て、目の前の状況を受け入れて
行く時、神の知恵、神の心を現
して下さる。砕かれてへりくだ
った者に、神のみ思いを知らせ
て下さる。砕かれるとは、まさ
に、自分の思い通りにならない
事態が目の前に来る事だ。
頑固な強い自分をどこまでも通
そうとする、肉の意志が砕かれ
る。
---------------
神様、神様と言いながら、やっ
てくる事態に、つぶやいてばか
りいないだろうか。なんという
高慢な態度だろう。すべて神様
からの砕きの御手だと今日もし
っかり受け取ろう。



2006年07月27日(木)

「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです」使徒27:22




何日もの激しい暴風に船はほん
ろうされた。身の危険を感じ、
事態は絶望的であった。
しかし、失うのは船だけで、命は
失わないとの事だ。神は、クリス
チャン人生、失うものは何もない
とは言われない。ヤコブも「私も、
失うときには、失うのだ」と言っ
ている。私達は信仰生活で、様々
失うものがあるだろう。
「主は与え、主は取られる。主の
御名はほむべきかな」だ。
しかし、色々な折りに失う事はあ
っても、必ず私達は御手の中に堅
く守られ、クリスチャン人生を全
うできるという事だ。船を失う事
があるという事実を覚えよう。
だが、信仰人生は必ず守られ、確
実に安全な島に打ち上げられるこ
とも覚えよう。だいたい、得る事
は喜びで嬉しい事だが、失う事は
痛く辛い、痛手だ。しかし、振り
返った時、あの時の、この時の損
失、それで自分自身が練り鍛えき
よめられ、信仰が成長させられ、
今の自分があるのではないか。
あの損失が無ければ、今の自分は
無い。信仰人生、損失は必ず通る
が、思いを遙かに越えた大きな祝
福に至る。
-------------------------
私たちは目の前がすべてではない。
現状に飲み込まれそうになるが、
神様が望んでおられるのは、失う
ものを惜しむのではなく、すべて
をご計画される神様から与えられ
るものに目を向けることだ。
委ねることではないだろうか。



2006年07月26日(水)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求め・・」Tペテロ5:8

私達には古い性質があり、それは肉の
欲望で一杯だ。どこまでも自分中心で
あり、欲望を満たそうとし、自分の損
得で生き、自分の栄光を求める。「自
分の欲に引かれ、おびき寄せられ、誘
惑される」「欲がはらむと罪を生み」
とある通りで、欲をずっと心に囲い、
その欲望を思考の中で抱き続ける時に、
必ず行動に移してしまう。行為は思考
から来るからだ。罪を結実させてしま
う。突然、行動というのはあり得ない。
その思いをずっと心に抱き続けてい
た結果という事だ。心で妊娠させてし
まうと罪を出産する。妊娠させない事
だ。心に取り込む事を拒否しなければ
ならない。罪を、悪い思いを、心で、
もて遊んでいると、その思いはやがて
はっきりした形になって表れ、行動に
移す事になる。自分は大丈夫だと思っ
ているが、必ず罪に飲み込まれてしまう。
悪魔は、あなたの欲に餌を投げかけて
いる。今も誘惑が来ていないか。悪魔
に足もとすくわれないよう、目を覚ま
し祈っていよう。
・・・・・・・・・・・・
サタンは思いに来る。その思いを拒否し、
拒絶する事だ。肉の好むままにその思い
をもて遊んでいると、思いのとりこにな
り、それは必ず行為となる。拒否の選択
をしよう。
 


2006年07月25日(火)

「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく・・しかし私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」ハバクク3:17





ある人に、厳しい試練が重な
った。子供が闘病、悩みと多
くの涙を通りつつ病院通いを
していた。すると、そんな時、
夫が過労で倒れた。そして、
親に癌の疑いあり、即、検査
入院との連絡が入った。
四方からの圧迫に途方に暮れ
た。心身疲れ、落ち込み、ど
んどん沈み、気力が失せた。
何も出来ないで頭に手をおお
い、しゃがみ込み沈み込んで
いた。ふと、この状況を神は
どう思っておられるのか、祈
りを聞いていて下さるのか、
本当に神はおられるのか、そ
こまで至った時に、ハバクク
の祈りの箇所に接した。
ハバククは何もかもを、すべ
てを失って、取り巻く環境が
真っ暗闇の中で喜んだ。
なぜ喜べたのか。状況でなく、
神に焦点を当てたのであり
「環境にあって」でなく「主
にあって」喜んだ。彼女はす
べての状況から目を離し、神
に目を向け、神に焦点が合っ
た時に、どん底の心に平安が
臨んだ。これが一番の必要で
あったのだ。信仰は神と自分
の関係だ。それがすべてだ。
そこがしっかりつながってお
れば、どんな厳しい状況でも、
心に平安を経験する。
--------------------
主にあって喜んでいよう。この
状況をすべて支配しておられ、
ご存知であられ、私達のために
父なる神様に祈りたもう主にあ
って喜んでいよう。


2006年07月24日(月)

「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」マタイ4:7




主が、悪魔から誘惑を受けられた。
神殿の頂きから飛び降りるなら、
神は助けるから、あなたは民衆の
ヒーローになると。そうするなら、
民を救うという救済活動に好都合
ではないかと。神の御心でもない、
わがまま勝手な事をして、神を呼
び込む事は不可能だ。
しかし、私達の日常でどうだろう。
神が本当にいるなら、これこれの
事をして証明して欲しい。そうす
れば信じよう。特に困難の時、悩
みの時、助けてほしいと思う。
だが、神が助けてくれて当然、必
要は与えられて、病気は治してく
れて当然、それなら信じようと言
うのは、それは信仰ではない。
自分の思いや願望を神に押しつけ、
無理やり叶えろという自己中心な
欲だ。都合の良い神なら信じる、
それなら自分のための御利益信仰
だ。そうでなく、何があってもど
んな時も、神の愛を信じて行く。
神が良い方であり、最善をして下
さると、信じる事が信仰だ。
自分はどうだろう。何のために神
を信じているのだろう。自分のた
めの御利益信仰から、神のための
信仰へと、御霊が導いて下さる。
-----------------------
自分の希望や願望をただ祈り求め
ているだけなら、真の導きはわか
らない。神様がいつも必ず良くし
て下さると信じ、上から与えられ
るものだけを待ち望もう。


2006年07月23日(日)

「この人が罪を犯したのでもなく、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3

盲目の原因を弟子達は、本人の罪
か、親かと主に尋ねた。私達は苦
しみがあると「なぜ?」と原因や
理由を知りたい。因果応報の思想
があり、自分の罪なら自分を責め
続け、親のせいなら親を恨む事に
なるのだろう。そこに何の解決も
無い。原因を捜し続けたところで、
前向きになれるだろうか。不信感
と落ち込みに至るばかりだ。主は、
不本意な出来事は誰のせいでもな
い。神のわざが現れるためだと、
全く違う視点からの答えを出され
た。神を信じて、神のわざが現れ
るためと、苦しみを受け止めて行
く時、そこに必ず神の恵みが見え
て来る。まず信じて行こうとする
事が大切だ。別の箇所で主は「神
が遣わした者を信じること、それ
が神のわざ」と言われた。苦しみ
の中で主の言葉を信じ、神が必ず
良くして下さると信じて行く人生、
それこそ神のわざだ。この盲人が
主の言葉を信じてみようとした、
そこにすでに神のわざが現れてい
るのだ。
・・・・・・・・・
厳しい試練の、苦しみや辛さの中で、
「神が必ず良くして下さる」と信じ
ようとする態度、これこそが神のわ
ざだ。奇跡だ。古い性質の中には全
く無い。不平不満愚痴のみだ。神に
信仰を向けて行く事自体がすでに
大きなみわざが現れている。


2006年07月22日(土)

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」詩編34:1

「あらゆる時」に、「いつも」主を
賛美したダビデ。しかし、この時の
状況はとんでも無いものだった。サ
ウルからダビデ殺害指令が出て、そ
れを知ったダビデは逃亡、敵のガテ
王アキシュに身を寄せようとする。
ところが家来達がダビデの正体を告
げる。身の危険を感じたダビデは気
狂いの振りをする。アキシュからも
追放され、ほら穴に避難するのだ。
よだれを流し、気狂いを装う、こん
な屈辱的な惨めな状況なのだ。問題
が無くすべてが順調で賛美なら、ダ
ビデはその対極だ。しかし「呼ばわ
ると主は聞かれた」「すべての苦し
みから救われた」「主のすばらしさ
を見つめよ」「良いものに何一つ欠
けることはない」と主を賛美してい
る。悲惨状況の中に、直ぐな心で神
を見ようとして行くと、隠された宝
のように、恵みが霊の目で見えて来
るのだ。状況か、神か。どちらを選
び取るかで、天と地ほどに違って来
る。今のあなたはどちらを見ている
だろう?
・・・・・・・・・
恵みは見ようとしない限り見えない。
悲惨な状況の中で、状況を見ていると、
どんどん惨めになり、追い詰められて
行く。しかし神に視点を合わせると
恵みが見えて感謝が生まれる。全く
同じ状況なのに、視点の違いだ。神に
視点を向けよう。


2006年07月21日(金)

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」詩編23:1



ダビデは、サウルから命をつけ
狙われ逃げ回っていた。いつ殺
されるかも知れない恐怖の中だ。
敵の攻撃、身体の衰弱、味方の
裏切り等、四方八方からの苦難
に襲われ、心身壊れるばかりの
苦しみにあった。詩編の至る箇
所で、その嘆きを神に告げて、
言い表し訴えている。気持ちを
そのまま神に告げるのは良い事
だ。同時に、ダビデの素晴らし
さは、失ったもの、無いものに
目を留めるのでなく、有るもの、
与えられているものに目を向け、
溢れる感謝を献げて行った事だ。
絶望のどん底のような中で、い
つも命が保たれている事、すべ
ての危機から救って下さる事、
心に喜びと平安を下さる事等を
感謝した。
どんな状況でも「信仰」により
「乏しい事は無い」を選択し、
そこに立つからこそ、恵みが見
えて来る。「乏しい」に立つと、
あれもこれも無い何も無い状態
に陥る。それが御言葉に立つと、
不思議に隠れて見えなかった恵
みと感謝が見えて来る。あなた
はどうだろう。どちらに立って
いるだろう。
--------------------
サタンは御約束を否定し、不安
に引きずり込む。現状に左右さ
れる弱さにあっても信仰によっ
て力から力へと進んでいこう。


2006年07月20日(木)

「王は軍勢の多いことによっては救われない・・軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにはならない」詩編33:16



普通の考えでは、戦いに勝つのは
兵士の数による。1万と2万では、
2万人が圧倒的有利に決まってい
る。戦いの常識であり、多い方が
勝つ。それが、詩編記者は、勝利
は兵の数によるのではないと言う。
一般通念と常識がくつがえる事を
言われると、私達は戸惑う。常識
で生きているからだ。神の言葉と
信仰を掲げながら、実際は常識や、
自分の既成概念で生きている。
信仰と言いつつ、現実生活では、
計算高く、頭でソロバンをはじい
て生きていて、軍勢の多い少ない
で判断している。つまり自分の力
だ。これなら自分の力の範囲内で
行ける、これは無理と。サッサと
頭の中で計算し処理していないか。
そこに神の入る余地がない。しか
し、記者は、勝利は、兵の数では
なく神によると結論づける。神に
信頼し、神の導きによって進むの
であれば、常識の想定外だ。兵の
数=自分の力や、障害や困難の大
きさだが、それは問題でない。
神の御心かどうかが問題だ。軍勢
の数で頭が動いていないか、又、
神が共に行かれないなら、大軍勢
でも敗北だ。救いは軍勢ではなく
神による。
----------------------
神様、神様といながら自分の目で
見たもの、耳で聞いたもの、自分
の悟りに走るなら何の霊的成長も
ない。実生活で信仰を働かせよう。
状況に関わらず平安に守られる。


2006年07月19日(水)

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」ローマ4:18

「望み得ないときに望みを抱く」
のが信仰だ。目に見えるなら、も
はや信仰はいらない。望み得ない
のだから、現実を見るなら、望み
のかけらも無いという事だ。神の
言葉を信じるのであって、人間的
な実感など無いという事だ。「感
じ」無い。神の真実のみが、私達
の拠り所だ。保証は、神にあり、
自分の中の何かにあるのではない。
環境や状況、目に見えるところか
らは、何も感じる事が出来ず、得
るところがない。神が約束して下
さった言葉の中にのみある。アブ
ラハムは、約束の言葉をそのまま
受け入れ信じた。約束を与えられ
ていたが、現実は相容れず、相反
する状態にあった。矛盾状態だ。
サラの胎はすでに死んでいる、そ
の真っ暗闇の中で、目に見える状
況ではなく神の言葉を取った。肉
には何の手応えも、実感も無い。
見えるところによらないのが信仰だ。
・・・・・・・・・・・・
ハガルの不信仰もあったアブラハム、
なぜ信じれたのだろう。「主は現わ
れ」主がご自身を現わされた、臨在
によったのか。何よりも日ごとに生き
生きとした主との交わりの生活がいのちだ。



2006年07月18日(火)

「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」ルカ5:5


ペテロは一晩中働いて、何の成果
も無く、網を洗っていた。その時
に、網を下ろして魚をとれと言わ
れた。自分の思いと判断ではとれ
るはずが無い。しかし、自分の思
いは違うが、お言葉通り網を下ろ
した。私達は自分が良かれと思う
事、自分の計画、自分の思いを行
うのでなく、神が示される事をな
す事が大切だ。自分には一体これ
がどうなるというのか、わからな
いが、主が言われるからそのよう
にします、と実行する時、思いを
越えた素晴らしい結果を見る。
その時、主の言葉の真実を経験に
よって知る。そしてそれを語られ
たお方を知る。主の言葉に従って
行く時にだ。ペテロは大漁に驚き、
神の聖さに触れ畏れた。
心にあったであろう、自分はプロ
漁師、今の時間帯、魚など捕れな
いという思い、不信仰があらわに
なった。ペテロは自分の罪深さに
心底へりくだらされた。小さな事
柄に、主の示しに従おう。
御言葉に一歩従ってみよう。何か
が変わる。自分が変えられる。
------------------
へりくだり、従った者だけがさら
に主を知ることが出来る。自分の
感情に支配され自分の力に頼る前
に、その力が主から来ること覚え
よう。


2006年07月17日(月)

「イエスご自身が近づいて、彼らとともに歩いておられた」ルカ24:15



エマオへ向かう二人の弟子
達。女性達が主のよみがえ
りを伝えるが、信じる事が
出来ない。失望と落胆、疑
いや悲しみの混じった重い
足取りで、郷里への途上だ。
郷里へ帰ったとて何があろ
う。そんな弟子達を気遣い、
主がわからない弟子達に寄
り添われる主。同様に、主
がなかなかわからない私達
にも寄り添っていて下さる。
主が見い出せない時に、す
でに主がかたわらを歩んで
下さっている。弟子達が、
あの、よく知っているはず
の主がわからない原因は
「ふたりの目はさえぎられ
て」いたからだ。私達も、
主がよくわからないのは、
「信じない、心の鈍い」
不信仰による。御言葉を信
じないからだ。主がよくわ
からない自らの心の内を、
心の底を御霊に探って頂こ
う。頑なな不信仰が横たわ
っていないか。自分の思い
と判断を、主の上に置いて、
自分の思いを正しいとし、
御言葉を退けていないか。
心の内の思いを素直に主に
語れ。そして信じようとの、
意志を向ける事は大切だ。
信仰を選び取る事は必要だ。
-------------------
わからないのかわかりたく
ないのか主が遠くに思われ
るのは自分の側の問題だ。
従いたい、変わりたい・・
この様な思いをもって主に
向かう者を主は決して捨て
おかれない。


2006年07月16日(日)

「イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」ヨハネ9:1

霊の目が開かれたのは、道ばたで物乞い
をしていた盲人だった。パリサイ人でも、
祭司長でもなかった。「イエスは盲人を
見られた」。癒されたのは、イエスがまず目
を留めて下さり、彼がそれを真正面から
受け入れた結果だ。それだけだ。私達
にも主イエスの目が注がれている。しか
し、パリサイ人達は決して受け入れなか
った。「わたしは世の光です」、神の光は、
真実の自分自身を照らし出す。プライド
が高く、人を妬み、虚栄におおわれ、仮
面をかぶった自分、高ぶり、嘘をつく醜い
自分、決して直視したくない、闇の中に
隠しておきたい姿だ。神が見ておられる
ように、自分自身に見せられる。それを
認めて悔い改める時、目が開かれ、
神が見えるようになる。つまりは、主が
「見られた」、目を留めて下さった、そ
のお心に応答したのだ。応答する時、癒
され、私達は変えられる。主の私へのま
なざしに、答えよう。
・・・・・・・・・・・
御霊は、光で照らし出して下さる。不信
仰で、自己中心な姿を。しかし、それは
まさに私ですと、認めて行く時、不思議に
平安と安堵が来る。今もこの瞬間も、主
の愛のまなざしが私達に注がれている。


2006年07月15日(土)

「心に満ちていることを口が話すのです」マタイ12:34

言葉は難しい。私たちは皆、失敗する。
舌を制御する事は誰にもできず、じっと
していない悪で、死の毒に満ちている。
舌で罪を犯してしまう。無益な、御霊が
導いておられない、必要のない事をベラ
ベラ喋る。神の潤いや栄光でなく、毒を
周囲にまき散らし、うんざりさせる。周囲
の気持ちを重苦しく、暗く虚しくさせる。
喜びを奪い、恵みを一瞬に消してしまう。
私達の口はどうだろう。これはテクニック
の問題ではなく、心の問題だ。人は、思
っていない事ではなく、心にある事を
話す。人が話しているのは、普段か
ら心に深くある事だ。つまり語る事によ
って、その人の人となりが必ず表れる。表
れざるを得ないのだ。そういう人格だという
事だ。神の喜ばれる事を口にするには、心
が大切で、聖霊に満たされ、神の愛に満たさ
れて行く事だ。日々、主と交わり、御言葉
に向かい、自らが正され、御言葉が心に満
たされて行く時、心が変えられて行く。
周囲に主の喜び、潤い、温もりを伝染させ
て行く。
・・・・・・・・・・・・・
「主よわがくちびる、解きて歌わしめ、た
えなるみ恵みを伝えしめたまえ」主が心に
賛美を満たし、主が口を解いて、賛美を溢
れ出させて下さるように。どうか今日も唇
が肉でなく御霊に支配され、感謝が流れ出
ますように。


2006年07月14日(金)

「・・わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい・・たましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」マタイ11:29




疲れた人、重荷を負った人は主
のもとへ来て、主ののくびきを
負えと言われる。くびきとは、
二頭の家畜を同じ方向へ進ませ
るために、一つの板に穴を二つ
開けたものだ。首をそこに入れ
ると同じ方向へ進む。そのくび
きを逃げたり避けようとすると、
余計にくびきが首を締め付けて
苦しい。疲れた人も、くびきを
きちんと負うなら、安らかで軽
い。どんなに重荷があっても、
主に従うなら、返って癒され、
満たされ、自由にされる。
重荷から逃れる事が解放だと
勘違いするが、そうでなく、主
に在ってしっかり負う事が解放
だと。なぜなら、その重荷はく
びきの一方が主であられ、主が
負っていて下さるからだ。
くびきをしっかり受け止める中
で、多くの霊的学びを得る。
ここでなくては学べない様々な
事が教えられる。今、目の前に
あるくびきをしっかり負おう。
肉の安らぎではない、霊の安ら
ぎ、憩い、を経験する。
-----------------------
くびきの一方が主であることを
いつも覚えたい。委ねきれない
で苦しむ必要は何もない。しっ
かり主に寄り添って、そこから
何が学べるか見つめて歩もう。


2006年07月13日(木)

「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください・・祈るときにはこう祈りなさい。御名があがめられますように」ルカ11:1



祈り続けているが、なかなか
答えられない経験が誰しもあ
る。それは感謝な事で、信仰
の成長の機会だ。祈りを今一
度点検してみよう。
その態度、動機、内容はどう
だろう。答えられるか?
いやダメだろう?とのフラフ
ラとした二心か。自分の快楽、
自分の賞賛、自分の栄光が動
機にないか。祈りの陰に自分
の欲望を通そうとする自我が
隠れていないか。神の御心に
かなった祈りなら必ず答えら
れる。又、パウロの肉体のと
げの祈りが聞かれなかったよ
うに、その弱さを置く事によ
って、返って神の栄光を現わ
される場合もある。
又、自分の良かれと思う思い
と、神の御心が違っているか
も知れない。しばしば神の思
いは違う。神は動機や態度を
正し、祈りを修正して下さる。
祈りもすぐに御心にかなった
祈りができるのではない。
祈りの実践の中で少しづつ学
んで行くのだ。実際の中で、
主ご自身が教えて下さる。
大切なのはとにかく祈り始め、
祈り続ける事だ。間違ってい
れば、そのつど教えて下さる。
----------------
祈りの中で、祈りが修正され
て行くのをよく経験する。自
分の思いのたけを祈り続けて
いても、けれど御心がなりま
すようにと心静めて砕いてい
って下さったり。感謝だ。


2006年07月12日(水)

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたい・・私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」マタイ20:2

主人は早朝から3時間毎に労務者を雇った。
夕5時の人々は1時間だけ働いた。早朝の人
々は1デナリの契約をし、それ以降は「相当
のもの」と明確な契約は無い。だから主人は
不当な事は何もしていない。自分達は多く働
いたのだから、もっとくれてもよいとの不満
だ。主人の心は憐れみだ。早朝の人は1日中
希望と平安があった。1日働けば確実に賃金
が入る。しかし、5時の人はどんなに不安、
煩い、恐れの1日だったろう。家族にその日
の糧が無いのだ。主人の心は慈しみと憐れみ
で一杯だ。主人の憐れみが現れた時、早朝の
人々の妬み、ひがみ、怒りが露呈した。肉は
恵みに反発する。恵みなどとんでも無い。パ
リサイ人は律法を忠実に行って来た。行いに
生きて来た。それが突然、行いは不要、信仰
だけとの救いが来た時、反発敵対し、主を憎
んだ。私達も恵みに始まりながら、肉で完成
しようとしていないか。そこには妬み、ひが
み、怒りが生じる。主人はフェアだ。何も間
違っていない。フェアで、どこまでも憐れみ
深い。私達が見るべきは主人の態度と心だ。
・・・・・・・・・
最後の人か最初の人か、どちらに同調するか
で、自分の姿があらわになる。自分の内の、
培われた律法的価値観に気づき、御言葉の価
値観、主のお心を知り、主の心を心とする事
に、一心に目を向けたい。


2006年07月11日(火)

「主人に文句をつけて言った『この最後の連中は1時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました・・』」マタイ20:12




人や自分を何をもって評価して
いるだろう。この世は、出来る
事、能力によってだ。就職試験
に行き、あれもこれも出来ない
と言えば不合格間違い無しだ。
クリスチャンにも培われた価値
観があり、出来る事に拠り所を
捜そうとし、自分のアイデンテ
ィティをそこに置く。
すると暗闇に陥る。肉の力で頑
張り、それを評価されたい、認
められたい。肉ですると、出来
ない他者を必ずさばく。
又、出来なければ自分に無能力
にひたすら落ち込む。優越感と
劣等感は、高慢を根に持つ裏表
であり同じものだ。それを行っ
たり来たりだ。神から離れた歩
みだ。主はその悲惨から救い出
して下さった。主が愛しておら
れるのは、何か出来るあなたで
なく、あなたの存在そのものだ。
そのために命を捨てられた。
いつもそこに立つ事が「信仰」
だ。常にそれに敵対して攻撃し
て来る肉とサタンを認識し、戦
いだ。
-------------------
傲慢な肉が、出来ない人を裁き、
疲れた自分を許さない。そこに
主の十字架によって与えられた
御約束は全く意味をなしていな
い。まず感謝しよう。そして許
されたのだから、人も自分も許
していこう。


2006年07月10日(月)

「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる『あすの今頃、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで・・売られるようになる』」列王記U7:1



子供すら食べるほどの、ひどい飢
饉の中でエリシャが預言した言葉
だ。その時、侍従が「主が天に窓
を作られても、そんな事はあり得
ない」と。エリシャは、「彼はそ
れを見るが食べる事はできない」
と言った。神がアラム軍を逃亡す
るようにされたので、誰もいない
中、食料が丸ごと残されエリシャ
の預言通りになった。その侍従は、
大勢が食料目がけて殺到した時に
踏みつけられ死んだ。
彼は神の言葉を信じなかったので、
恵みにあずかれ無かった。
なぜか。神の言葉でなく、自分の
考えを信じたからだ。今まで見聞
きし学び培われた、自分の思いが
あり、彼の考えでは絶対に有り得
ぬ事だった。あくまでも自分が基
準であり、神の言葉が自分の考え
に合えば受け入れ、合わなければ
捨てた。その結果、彼は自分の正
しさで滅んだ。これは警告だ。
私達はどうだろう。自分の思いに
従うなら、つまりは神の言葉を捨
てることになる。
--------------------------
完全に頼る生活をしているだろう
か。困窮の時、自力で案をめぐら
せていないだろうか。まず祈ろう。
そして御言葉に頼るなら何も恐れ
ることは無い。



2006年07月09日(日)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:3

コップに水が一杯だと、それ以上入れる事は
出来ない。しかし、空のコップなら、水を注
いで満たす事が出来る。神も空の器だけを満
たす事が出来る。貧しい人だけを満たす事が
できる。貧しいというと比較で思い描くので、
持っているが少しという感じがする。しかし、
ここでの貧しいの意味は「乞食」、皆無、人
から恵んで貰わなければ生きて行けない状態
だ。何も無い時に、主がすべてとなって私達
の内に生きられるのだ。何の取り柄もない、
能力もない、何者でもない事を喜ぶ事ができ、
それが最も幸せな者とは何という安堵であり、
平安だろう。能力があり、多く持ち、出来る
事が良い事という価値観のこの世だ。能力に、
出来る事に価値を置き、それを誇りとして頼
みとして生きている。その中で競争し、挫折し、
行き詰まる。しかし、愛を満たして下さるの
は、愛の全く無い空の所にだ。力尽きて、も
う立ち上がれない、その時こそが、大いなる
恵みの時だ。
・・・・・・・・・・・・・・・
自分の内に何もなく、破れ果てた状態が幸い
だと言われる。みじめで哀れで、貧しくて盲目で
裸が幸いだと。いつも溢れるばかりの満ち満ち
た主を知って来たのは、自分に力尽きた時だ。
真に福音で喜びだ。


2006年07月08日(土)

「神よ。私を探り私の心を知ってください。私を調べ・・傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩139:23

私達の世界で、対人関係は大きい。その様々
な関係の中で、何か心がザラつく時、暗くなる
時、とにかく平安が失せた時は、何か自分の
側が間違ったという事だ。「肉の思いは死、御
霊による思いはいのちと平安」、自分が神との
正しい関係にあれば、状況がどうであれ心は
平安だ。どんなに敵対され攻撃されても、自
分は平安だ。どこまでも相手でなく神との関係
だからだ。心に死の感覚あり、平安が無いのは、
自分に問題がある。相手に反応した結果、自
分の内に、妬みや敵対心、さばく心、又、思い
煩い、自己正当化等、何かの罪が生じ、平安
が失せた。しかし、心の苦しい気持ちの根拠が、
自分の内に見えないので、相手に置き、相手の
せいにする。それが人に傷つけられた、にすり替
わる。実のところ、相手が自分の思い通りになら
ないので、許せず、さばいている。しかし、気づ
かずに相手に傷つけられたと思う。根にあるのは
相手を自分の思い通りにしようとする、強い思い、
自我だ。神の御前に心を開き、御霊に内を隅々
まで調べて頂こう。光に照らされない限りわから
ない。間違いを指し示し、いのちの道へと導いて
下さる。
・・・・・・・・・・・
自分の思い通りにしたい、はエデンの園での
誘惑であり、神を捨てて、選び取った罪だ。
根深く自分の内にある。光の御使いに偽装
しでも来る。神のためと言いながら、実は自分
の思いを通したい。光のもとに自分をさらそう。
 


2006年07月07日(金)

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」ローマ1:17





ある人が、「今すぐ〜してく
れたら、神様がいる事を信じ
る」と祈り、答えられたなか
った経験を証しした。後に、
神の事が少しづつわかって来
た時、いかに自己中心で、高
慢な祈りであったかと気づい
たと。何で神が自分のために、
そんな事をしなければならな
いかと。私達もともすれば、
何でも自分の願い通りに答え
られるのが、神だと思い違い
をしていないか。答えられな
いと、つぶやき、疑い、不信
仰に陥る。神が、自分の都合
の良いように動いてくれたら
信じると言う。聖書は神中心
の世界だ。私達は自己中心だ。
だから、なかなかわからない。
そうではなく、神はすでに御
子を殺して下さり、極みまで
の愛を現して下さった。
何かを貰おう式、自分、自分、
自分の利得でなく、その最愛
の愛で愛して下さっているお
方に、自分を委ねて従って行
くことが信仰だ。御霊が神中
心の信仰へと成長させて行っ
て下さる。
--------------------
神様はすでに私達に最善の義
を成して下さっている。それ
を頼り信じる事だ。それが、
次の信仰へと進ませる。目先
の利得に左右されるものでは
ない。





2006年07月06日(木)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71



何かの状況や事態に、イライラ
したり、腹立ったり、しんどい
と思ったりする事がある。
そんな時、心の中をよく見てみ
ると、相手のせいにしたり、状
況のせいにしている。そして、
イラ立っている。又、辛い状況
の時もそうだ。
その相手や環境をさばいている。
それは、自分の思い通りになら
ないからであり、結局「自分」
が中心なので、平安が全く無い
わけだ。誰しも経験する。
人のせいや状況のせいにするの
を止める事だ。それではどこま
で行っても平安は無い。
主と離れているからだ。視点を
変えるのだ。神がこの状況に自
分を置かれ、対人関係を置かれ
ている。その事に神を認め、そ
れをまず感謝するのだ。この事
柄を通して、神は何かをあなた
に教えたい。あなたに気づきを
与えたい。自分の内側で何が問
題なのか。何を変えたいと思っ
ておられるのか。その視点に立
つ時、神と一つだ。必ずあなた
の祝福と喜びと成長とされる。
----------------------
状況に飲み込まれていくのは徐
々にだ。常に神様から目を離さ
ずにいよう。はじめは頼ってい
ても状況が複雑になって行くに
つれ混乱して行く。いのちの御
言葉しっかり握り流されないよ
うに。


2006年07月05日(水)

「イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』」ヨハネ13:8

主が弟子達の足を洗い始められた。ペ
テロの番になった時、ペテロはそれを
拒んだ。「決して洗わないで下さい」
と。当時、道路は舗装なく、サンダル
風の履き物だったので、足は、ちりで
汚れきった。彼には、自分の師に、ほ
こりまみれの自分の汚い足を洗っても
らうなど、とんでもない事であった。
しかし、その汚れた足とは、自分の中
の一番醜い、汚い部分、誰にも見せた
くない、知られたくない、隠しておき
たい部分の事だ。あなたにもあるだろ
うか。醜い、自分さえ良ければよい、
エゴイスティックな自分だ。普通この
世の師弟は、師に徹底して仕え、学び、
習得し、師から認めてもらえる関係だ。
しかし、主との関係は違う。主に、自
分の最も醜い汚れた部分を見せ、洗っ
て頂き、完全に赦される、その所でこ
そ、主との関係がどんどん深められて
行く。そんな関係だ。心の一番の奥底
を、主に洗って頂く事を拒否していな
いだろうか。
・・・・・・・・・・
日ごとに汚れた足を洗って下さる。
そこで主とつながれる関係とは何と嬉
しい感謝な事だろう。心の奥にも来て
頂いて、鍵をかけた部屋、封印した引
き出しを主に明け渡して行けるように。


2006年07月04日(火)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」使徒16:25





パウロは御霊の示しにより、マ
ケドニヤに渡り、宣教のために
ピリピの町へやって来た。
そして、川岸の祈り場へ行き祈
った。それから宣教し、悪霊を
追い出したが、訴えられて捕ら
えられ、投獄されてしまった。
むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁
されてしまった。祈ったのに、
問題が来て、苦しみがやって来
た。ましてや宣教のために来た
のに、投獄だ。あの祈りは何だ
ったのか。これでは、どうにも
ならないではないか。しかし、
神の計画は着々と前進していた。
投獄を通して、看守が救われ、
何と全家族も救われたのだ。
ピリピの教会の核となって行っ
た。神に間違いは無い。あんな
に祈ったのに、どうしてこのよ
うに?との状況にあるか。
神はご自身のご計画を進めてお
られる。紆余曲折により、神の
思っておられるように、みわざ
が進行中だ。
---------------------
私達は、先の事がわからない。
いかに思い煩ってもだ。すべて
を完全におさめておられる神様
に人生の計画をすべてお任せし
美しい神様の時を生きよう。



2006年07月03日(月)

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」Tペテロ4:10




車とバイクと自転車があったと
する。自転車が車になろうとし
て、どんなに頑張ってもなれな
い。他も同じだ。他を羨んで、
自分が他ではない事に、常に否
定的感情を持って、ひがみ、屈
折して一生を終えるならどうだ
ろう。それより、車、バイク、
自転車にはそれぞれの特性があ
り、用途が異なる。他には無い
利点がある。代わりが効かない。
それぞれが、自らを生かすなら
どんなに輝いた人生を送れるだ
ろう。一流レストランと、おふ
くろの味飯屋もそうだ。それぞ
れの良さが違う。神があなたの
特性を、賜物を、生き生きと生
かして下さる。もしあれが出来
たら、この能力があったら・・
と漫然と思って過ごしている人
は多い。しかし、もし神がそう
思われたなら、そう出来たので
はないだろうか。それを本気で
信じる時、与えられたものに心
底満足できる。与えられていな
いものも感謝であり、与えられ
たものはよく管理して主のため
人のため使おう。そこから喜び
と満足、感謝が生まれる。
-----------------
自分などとるに足りない無い者、
何の能力も無い者と思ってしま
う時もある。しかし神様が誰と
も取りかえの効かない特別な私
としてここに置いていて下さる
こと信じるなら、自信を持って
賜物を用いていただくのが御心
だ。




2006年07月02日(日)

「互いに忍び合い、だれか他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」コロサイ3:13

対人関係で、ギクシャクしたり、ト
ラブルのあった相手があるだろう。
クリスチャンは赦さねばならないと
思っているので、しばしば赦した「
つもり」になっている事がある。し
かし、実際は赦してはいない。相手
への恨みつらみを言葉や態度で表さ
ない。だが、相手に関わる事に出会
うと、感情が出て来るのだ。苦々し
い感情が出て来る事によってわかる。
相手への怒りがあり、さばいている。
しかし、赦すべきと思っているので、
言葉や行動には決して出さない。そ
れで自分でも気づかない。気づかな
いので、まず認めない。あなたにも
赦している「つもり」があるだろう
か。苦々しい感情があるか。赦して
いない自分をはっきり認める事だ。
心の底にある怒り、恨み、憎しみを
神の光の中で、認め悔い改める時、
解放される。自由にされる。十字架
により、真に赦しを受けるので、相
手を赦すことができる。神に赦され
た人が、人を赦せる。
・・・・・・・・
見たくなくて、うやむやのまま、心の
引き出しに封印しているものがあるな
ら、主の前に出し、必要なら悔い改め
よう。自己弁護、言い訳せず、自分を
正当化せず、光のもとに出すなら、主
が解決して下さる。 


2006年07月01日(土)

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」U歴代16:9

ダビデは主から、主の心にかなう者、
主と一つなる者と言われていた。
しかし、そのダビデは完璧だっただ
ろうか。そうではない。彼はバテシ
バとの姦淫、更にその隠蔽のためウ
リヤ殺害という大罪を犯していた。
それがどう一つだったのか。
ダビデの素晴らしいところは、自ら
の罪を示される度に、神の前に、罪
を認めて悔い改めた事だった。ゆえ
に、主と一つである事は、完璧に主
の御心に従い、決して罪を犯さない
という事ではない。弱さゆえに、主
の御心を痛め、罪を犯してしまう事
がある。しかし、御霊はその罪を指
し示され悔い改めに導かれる。
その時に、心を頑なにせず、突っ張
らず、逃げずに、神と自分に正面か
ら向き合い、心砕かれて罪を認め、
悔い改める事だ。完全な赦しがすで
に備えられている。そして、それが
主と一つである事だと言われる。
今日、御声を聞くならば、心を頑な
にしてはならない。
--------------------
罪を犯したとしても神様と全く一つ
になり得るという事、感謝だ。
自らを罪を犯すしかない者と覚え、
いつも隠さず、主に頼りつつ主と共
に歩もう。