2006年08月31日(木) 「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことば通り、網をおろしてみましょう」ルカ5:6
「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことば通り、網をおろしてみましょう」ルカ5:6
悪の知識の木の実を取って食 べたために、霊的死が訪れた ように見えるが、実は「それ を取って食べるその時、あな たは必ず死ぬ」との御言葉を 受け入れなかったゆえだ。 問題は食べた事以前に、御言 葉をしっかり受け取らなかっ た事にある。御言葉に立つ、 御言葉にとどまる、御言葉を 握る・・これは生命線だ。 アダムとエバの失敗は、この 御言葉にとどまらず、御言葉 を捨てたがために起きた事だ。 私達は御言葉をどう扱ってい るだろう。神の下に自分を置 き、御言葉に従っているだろ うか。それとも、御言葉の上 に自分を置き、自分の思いに 従い、御言葉を退けているだ ろうか。御言葉に従わない時 、知らず知らずの内に、御言 葉よりも自分の思いの方を正 しいとしている。目に見える 事に強く影響され、見えると ころと御言葉が合わないなら、 御言葉の方を捨て、肉の目に 見えるところを信じる。 つまり、自分の思いを信じて 生きている。ペテロのように 見えるところと、御言葉が相 反する時は、御言葉の方に従 うべきだ。そうするなら、大 漁の大きなみわざを見る。 ------------------ たてまえとして知っている御 言葉はたくさんあるが、実際 従っているだろうか。神様が 遠いと嘆く前に自分の思いを 捨てて「お言葉通り・・」と 歩んでいるか、よく吟味して みよう。
2006年08月30日(水) 「剣をさやに収めなさい。父がわたしにくださった杯を、どうして飲まずにいられよう」ヨハネ18:11
「剣をさやに収めなさい。父がわたしにくださった杯を、どうして飲まずにいられよう」ヨハネ18:11
一つ一つの試練は神によって与えられ た杯だ。御父が下さったものだ。状況 でなく、背後の神を見るべきだ。その 試練に反抗することは、剣を振り上げ 向かって行くことだ。今、目の前にあ る試練は神から来ている。主イエスは、 ゲッセマネの園で血の汗を流し祈られ た。十字架を父の御旨と厳然と受け入 れられ、従われた。嫌々、渋々仕方無 しにではない。主は自ら選択されたの だ。受動でなく能動であられた。だか ら、主は命をとられるのでなく、自分 から捨てられたのだ。父のみこころを 行われたのだ。だから、試練に飲み込 まれるのでなく、試練の中でコントロ ールする事ができた。二つの選択があ る。嫌々の態度で、試練にほんろうさ れ、不平不満で一杯で、苦しいばかり か。試練を受け止め、しっかり受け入 れるなら、誰も損なう事が出来ない。 悪魔の働く隙と足場が無くなってしま う。私達の姿勢はどうだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 目の病の子が「見えなくなってしまうん だ」と言うと「目を神様にお献げする 事が出来るよ」との話がある。渋々受け 入れている事を、奪われるのでなく、 むしろ自分から神に献げる事ができる。 その時、心が変わり喜びが来る。
2006年08月29日(火) 「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさしレツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」イザヤ7:4
「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさしレツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」イザヤ7:4
困難の時、悩みの時、恐れと不安に 襲われる。突如の問題が起こる時に は、パニックになってしまう。 驚き、慌て、怖じ惑う。何をするか というと、対応策をと、まず立ち騒 ぎ、動き回る。これが突発事態が起 きた時の反応だ。相当動き回ってか ら、疲労こんぱいしてから、そうだ 祈らなければ、頼らなければと、神 に向かう。まず心が騒いでしまうの だ。しかし、神は「気をつけて、静 かに」するようにと言われる。 ユダにイスラエルとアラムが攻めて 来た。王も民も動揺し恐れた。 しかし、神はそれらの敵対勢力を 「木切れの煙る燃えさし」だと言わ れた。今、あなたの前に心悩ませる 問題があるか。 動揺し心騒いでいるか。神は「静ま れ」と言われる。あなたへの神のみ こころは、まず静まることだ。 状況に反応せずに、神の御前に静ま り、心を静め神の御声を聞くことだ。 神はその問題にみこころとご計画を 持っておられる。神のしようとして おられることをよく聞き、御声に従 うことだ。 ------------------- 恐れてはならないと言われるのは神 だ。不安にかられる時この御声を心 に留めるべきだ。風に揺らぐ木々の ように心を動揺させてはいけない。
2006年08月28日(月) 「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」ルカ10:42
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」ルカ10:42
ここで問題なのは、自分が良 かれと思う事を主のためにす るのか、主が言われている事 に従うのか、という事だ。 マルタは主の喜ばれる事でな く、主が喜ばれるであろうと 、自分が思う事をした。 マリヤはただ主の御心に従っ た。この違いだ。自分の思い で、主のためにする事は、主 の御心からはずれてしまう。 この時、主はマリヤのしたよ うに、座って、まず主の語る 言葉を聞く事を望まれた。 マルタもまず座って、主の語 られる言葉を聞いて、立ち働 くなら、周囲に関係無く、自 分は平安に喜び持って感謝し つつ、主のために働けたであ ろう。私達はどうだろう。 主のために、自分がして差し 上げたいと思う事をどんどん しつつ、不平不満で一杯で、 疲れ果てていないか。 自分の思いと力でしている時 は、必ず、していない人に腹 を立て、さばく。何をしてい るかわからなくなる。マリヤ のように、主が望んでおられ る、主のお心にそう事をして 行けるように。 ------------------------- 主が何を望んでおられるかを 知ることが大切だ。一見どち らも良い事の様に思われるも のの中での選択はとても難し い。御言葉を聞き御心をしっ かりわきまえ、今週も歩もう。
2006年08月27日(日) 「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあ、どうぞ。これがあなたの物です」マタイ25:25
「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあ、どうぞ。これがあなたの物です」マタイ25:25
この1タラント預かった者の間違いは、主 人を誤解していた事だ。蒔かない所から刈 り取り、散らさない所から集める「ひどい 方」だと。神は冷酷な、恐い方、私達を苦 しめ、元を取らないと許さない方だと。 「ひどい」=「厳格な」、彼の神観だった。 与えられた働きを恵みであり特権だと思わ ない。喜び無く、苦痛でしかない。当然、 喜びや感謝など無い。自分は1タラントで、 他の5タラント2タラントに比べ、不満と 妬みがある。働いたとて儲けは少ない。し かし、失敗すれば怒りを買う。何の良い事 も無い。それなら、そのまま返せばいいで はないかと、そして、その自分を悪いとも 間違っているとも思っていない。根本的誤 りは、神を間違って見ていた事だ。愛なる お方で、失敗もリスクも覚悟の上で1タラ ントも任せて下った。1タラントは少額で はない、6千万だ。大きな信頼を寄せて下 さっている。その愛と信頼に答えたいから、 与えられた賜物を十分使って、主のために 労する、それは喜ばれる態度であり、私達 にも、喜びと楽しみとされる。 ・・・・・・・・・・・ 神が失敗を許さない恐い方なら地に埋める。減り さえしなければ文句はないだろうと、神との取引関 係だ。神は心を持った方、神の差し出された愛と 信頼に、応える事を願っておられる。私達の神との 関係はどうだろう。
2006年08月26日(土) 「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩編73:28
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩編73:28
私が最も大切にしてるのは○○です」この ○○に、あなたは何をいれるだろう。その 答えは極めて重要だ。それはあなたを形造 り、生き方を形造る原理になるからだ。も し「安楽」なら、人生、常に楽な方を選ぶ 事になる。「安全」なら、生涯、リスクは 絶対に避ける。危険など冒さない。「富」 なら絶対に損をせず得をする道しか選ばな い。常に基準が損得だ。もし「自分」なら、 必ず自分の思いを第一に通して行く。日々 の決定に、その価値観は必ず反映する。も し、神であり、信仰であるなら、瞬間、瞬 間の決定に必ず出る。どんなに損になって も、犠牲を払う事になっても、それには関 係なく、神の御心を選択して行く。皆が皆、 成功し、思い通りになる人生などあり得な い。しかし、すべてを失ったとしても、富、 名誉、地位、何がなくとも、神の愛があれ ば、幸せであることができる。あなたの本 音で、最も大切なものは何だろう?自分か 神か? ・・・・・・・・・・・・・ 建前でなく本音で大切にしているものが、 必ず日々の瞬間の選択に出て来る。そして それが自分の人格と人生を形造る。そうな ら本音は重要だ。本音で一番大切なものは 何だろう。きちんと見据えることは始まりだ。
2006年08月25日(金) 「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」マタイ4:10
「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」マタイ4:10
一体何のために信仰しているのか、 よく考えてみる必要がある。もし、 信仰が何かを得るための「手段」 なら、自分の欲しいものを得たな ら、もう信仰は必要無くなってし まう。又、手段であれば、どうし ても欲しければ、他の手段でも良 いわけだ。サタンが、私を礼拝す るなら、すべてを与えようと言っ た、その誘惑に乗ってしまう。 目的のものを得られるなら、別に 何でもよいのだから。 しかし、主イエスにとっては、神 を礼拝する事は、手段でなく「目 的」であられた。このところが重 要だ。もし、信仰が、より良い人 生とか、より精神的に高尚な生活、 道徳的生活、心の満たしのための 手段だとするなら、神が自分の思 い通り、期待通りに動いてくれな かったら、遅かれ早かれ失望し、 神の愛を疑い、神から離れる事に なる。形だけは礼拝していても、 心には何の喜びもない。得るもの が無いのだから。しかし、神を神 として信じ、何を得ようと得まい と、神との交わりを目的として歩 むなら、何があっても平安と喜び を失う事はない。あなたは「何の ために」信仰していだろう?欲し いものを得るための手段だろうか。 ---------------------- 私達は一体なんのためにクリスチ ャンとして生きているのだろう。 常に真実であられる神様の御側に 近づき共に歩む人生をより豊かな ものにするために、今一度よく自 分を吟味してみよう。
2006年08月24日(木) 「キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」ガラテヤ2:16
「キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」ガラテヤ2:16
人間のプライドは、自分の力を誇 る。自分には力があり、頑張れば 神のようになれると思う。しかし、 聖書は言う「人間は罪人であり、 自分の救いのために出来る事は何 一つない。ただキリストの恵みに より頼むのみ」と。それは人間の プライドに相反し、受け入れたい ものではない。プライドは、人間 は徹頭徹尾、悪ではない、善もあ り義もあると思いたい。 それで自分の力で頑張ろうとする。 恵みは救いまでで、救われた後は、 恵みは吹っ飛び、自分の力で戒め を行ない、信仰を深め、更に良い 人間になろうとする。 すべてプライドのなせるわざだ。 しかしその努力は、いっさい神に 受け入れられず、認められない。 逆に、神が求められるのは、まさ にそのプライドを捨てる事だ。 それは肉には拒否反応だ。自分が 拠って立つ所だから。神の前に降 伏する事こそが、真の幸せと満ち 足りた喜び、平安を持つ事になる。 ------------------ 救われた時に全身に満ち満ちた値 なしに救われたあの喜びが、徐々 に変化していってはいないだろう か。肉の自分では決して状態を改 善する事はできないのに神様を押 しのけて生きてはいないか。
2006年08月23日(水) 「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」ミカ6:8
「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」ミカ6:8
私達にこんな心がないだろうか。神が自分 の願いを叶えてくれ、自分の思い通りに動 いてくれるなら、納得するのに。しかし、 それなら、神がどんなに大きな事をして下 さっても、それが自分の思い通りでないな ら、納得する事は決してない。なぜなら、 自分が中心だからだ。自分が中心に回って いる時は、自分の強い思いだけが見えて、 神が見えない。神は、人に幸福を与えるた めの手段ではない。願いを叶えてくれる手 段ではない。この世の偶像は、自分のため の手段だ。あくまでも自分が中心で、自分 が幸せを得るための、願望が叶えられるた めの信心だ。しかし、神は違う。何かを得 られるから、叶えられるからではなく、そ れ以前に、神が神であられるから、信じ従 うのだ。信仰とは単に苦しみからの救いで なく、又、商売繁盛、家内安全、交通安全 のご利益を得るためでなく、信仰とは、苦 しみの時も、喜びの時も、悲しみの時も、 どんな時も、神を信じ、神との交わりの中 で生きて行く事だ。どんな時も、神と共に 歩めることが幸せなのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 自分の目が曇ると、目におおいがかかると 全く神が見えなくなる。神でなく、自分の 目の問題だ。目が健全なら全身が明るいが、 目が悪いと全身が暗い。今、自分の目はど うか、焦点それていないか点検しよう。全身 が輝くために。
2006年08月22日(火) 「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから契約の箱を・・持って来よう。神の箱は奪われ・・」Tサムエル4:3
「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから契約の箱を・・持って来よう。神の箱は奪われ・・」Tサムエル4:3
偶像礼拝とは、自らを悔い改めて、 へりくだり、神との関係を正そう とするのでなく、神を自分の願望 のために利用し、神を自分の思い 通りにしようとする事だ。 それが偶像礼拝の本質であり、私 達の心と生活に、そのような事が 無いだろうか。御言葉を聞き、自 らの間違いを認め、悔い改めるの でなく、神を自分の都合のために 連れ出す。ペリシテに敗北した結 果、民はご利益を期待して、契約 の箱を持ち出した。契約の箱さえ 持ってくれば、勝てると思ったの だ。しかし、民は、更にペリシテ に大敗北を帰した。 神礼拝は、御言葉に示された、自 らの罪を悔い改め、主イエスの血 潮に頼り、赦しを求める事だ。 偶像礼拝は、神を自分の願いを叶 え、自分の都合を満たし、自分の 思うご利益を与えてくれるものと して、信じる事だ。自分の幸せと 願望のために神を持ち出し、神を 利用する事だ。そこには、神に対 する畏れが無い。根本的に御言葉 への姿勢の問題だ。自らを御言葉 の上に置くか、それとも下か。 ----------------------------- 生活の中で、自分のしたいことは 全く変えず、ただ欲しい物のため、 やりたい事のためだけに祈ってい る・・そのようなクリスチャン生 活ではないだろうか。今日一日、 素直に捧げて歩んでみよう。
2006年08月21日(月) 「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし、主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:1
「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし、主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:1
「人は心に計画を持つ。主は その舌に答えを下さる。人は 自分の行ないがことごとく純 粋だと思う。しかし、主は人 のたましいの値うちをはから れる」箴言16:1 私達は計画を立てるが、予定 通りに行かない。しかし、神の 御心通りの結果が出ているのだ。 私達は計画を持つが、神の御心 が成る。私達の計画をゆるがな いものとするためには、純粋だ と思っている自分の計画を省み て、主に心を探って頂く事だ。 主は心の動機を明らかにして下 さる。主のためと思っていた中 に、自分の栄誉、プライド、虚 栄心、自我が潜んでいたりする。 その計画の動機を正しいものと 矯正され、後は、主に委ねる事、 つまり、主に信頼する事だ。 繰り返し信頼するよう言ってお られる。「あなたの道を主にゆ だねよ。主に信頼せよ。主が成 し遂げてくださる」。「人間は どうして自分の道を理解できよ うか」人間には理解できないと 御言葉は言っている。 理屈であれこれ考えるとわから ない。人間は先が見えないので、 行き詰まる。しかし、神はすべ て見通しておられ、完全な計画、 御心を持っておられる。 理解できないが、その神を信じ る事が出来る。一歩一歩御言葉 によって導かれ、歩みが支えら れる。 ------------------- 自分の思い通りが最善とはもう 思わない。自分の事さえよくわ かっていない者が、明日の事さ え知る事が許されていない者が、 どんな計画を立てられるという のだろう。すべて神様のご計画 の前にへりくだろう。
2006年08月20日(日) 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7
罪には快楽が伴う。その瞬間は楽しい。心地 よい。苦くなく楽しいのだ。でなければ、罪 に関するこれほど多くの問題は起こらない。 罪と戯れる事は快感であり、歓びなのだ。悪 魔はそう惑わす。実は苦しい結実を招くが、 それはきれいにおおい隠して欺く。罪を良い もの、麗しいもの、賢いものに見せる。御心 からそれているに関わらず、万事うまく行っ ていて、人生は楽しく、幸せだと思っている。 一見楽しく幸せなので、騙されてしまう。こ れは罪には快楽があるゆえだ。特に罪に見え ない事に要注意だ。仕事や趣味に没頭して神 から離れていても罪意識が無い。良い事だか らだ。しかし、必ず刈り取る事になる。これ に例外はいっさいない。蒔いたものは刈り取 る。「肉から滅びを刈り取る」とは、必ず苦 しい結果を招くという事だ。私達は、自分の した事には責任を取らねばならない。肉に蒔 かない事だ。しかし、失敗しても、尚もそれ すらも、益として下さる。苦しいがきちんと 刈り取って行く事が、実は一番の祝福なのだ。 刈り取りの中でこそ、神の愛や恵みがいかばかり かを知れるのだから。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 悔い改めた刈り取りは、訓練となって返り、 砕かれ練られて、成長へと導かれる。放っ ておかれたなら、自己中心で自分勝手な者 が神を畏れる事を学ぶ。どこまでも憐れみ 深いお方。
2006年08月19日(土) 「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」ルカ18:7
「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」ルカ18:7
なかなか祈りが聞かれないと思う時がある。 祈っても祈っても答えがない。どうなってい るのか、まるで放って置かれているように感 じる。しかし、神は祈りを聞かれている。そ して、決して失望しないで、祈り続けるよう 言われている。祈り続ける事を通して、訓練 されるからだ。答えを引き延ばされ祈り続け る中で、忍耐が養われる。忍耐する者へ変え られて行く。時間をかける中で、自らの動機 があぶり出される。自己中心、自我、肉欲に 気づかされる。自分の欲望、虚栄心、プライ ド、体面、不純物を知る。自分の願いでなく、 御心が成るようにと、心が、祈りが変えられ て行く。そして、自分自身が変えられて行く。 それは、時間をかけて祈り続ける中でしか得 られないものだ。祈りの答えと共に、いやそ れより遙かに素晴らしい霊的成長を与えられ る。途中で祈りを止めてしまうなら、これら すべてを逃してしまう事だ。こちら側では壁 のように感じても、神は聞いておられる。必 ず答えを受け取る。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 答えがしばしば違う形で来る。願ったように とは限らない。違う形で来るのでわからない。 受け取り損なっていないか、よく点検してみ よう。願い通りではないが、遙かに良いもの であり、自分の霊的成長とされている事は多い。
2006年08月18日(金) 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」ヨハネ15:4
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」ヨハネ15:4
「わたしにとどまりなさい」とは、 「わたしの内に住みなさい」の意 味だ。素晴らしい家が提供されて いる。家とは愛と親しみに満ちた 場所だ。最大限にリラックスでき、 ストレスからも不安からも守られ て、自由に食べて飲んで、休んで、 語り、憩える場所。そこでは、あ るがままに全面的に受け入れられ ていて、何より愛と信頼がある。 放蕩息子が父の家に帰ったが、こ れが救いだ。喜びと安堵、平安、 憩いを取り戻した。家は安堵と休 息の場所だ。恐れとは対極にある。 主イエスにとどまるとは、全き平 安と喜びの中にいる事だ。もし、 恐れや不安、心配、思い煩いがあ るなら、主にとどまっていない。 家から離れて迷い出ている。 主にとどまるとは、御言葉にとど まる事、御言葉を信じる事だ。 鍵は御言葉だ。「あなたがわたし にとどまり、わたしの言葉があな たにとどまるなら」信仰はオート マチックではない。 常に状況と御言葉の二つが目の前 にある。御言葉の方を選び、信じ て行くことだ。 ------------------------ 不安や恐れに自力で対応するなら すぐに暗闇に迷い出てしまう。 約束の御言葉はどう言っているの だろうと常に思い起こしそこに留 まるなら主の内にいつも住んでお れる。
2006年08月17日(木) 「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3
「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3
自分を主に委ねる事は、なかな か簡単ではない。自分の強い思 いがある時、明け渡すのは難し いし、自分のプランや願望はな かなか明け渡せない。自分のプ ランや願望は、自分そのものだ からだ。自分のいのちとなって いる。又、自分の思いや願いは、 神の思いとしばしば違っている。 ズレがある。自分はこうしたい のに、神は違う道を言われる。 頑固な自我がどうしても動かな いのだ。明け渡せない。自分の 人生をしっかり握った自分自身 が、結局は信仰生活を喜びの無 いものにしている。 しかし、ほこ先を間違った方に 向けて神を恨む。神がこんなふ うにした、人生うまく行かない のは神が悪いと神を責める。 人間は自分勝手に振る舞うが、 しかし、神のご計画は着々と確 実に進められて行く。人の愚か さで神の計画が、変わる事も狂 う事も無い。「主はすべてのも のを、ご自分の目的のために造」 られた。すべてが完璧であり、 一分も違わない。自分の計画を、 イコール自分自身を、神に明け 渡す事が、実は自分が最高に生 きることのできる道だ。 ---------------------------- 順境の時には明け渡す、委ねる と言えるが、いったん事が起こ れば、自我の強い思いの前には、 あるかなしかの理性などもろい ものだ。思い通りの結果しか望 んでいない自分を示された時、 すぐに祈ろう。主に結果をお任 せできるように。
2006年08月16日(水) 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5
目先の事で振り回されていないだろうか。 事は、次から次へと起こり、状況は二転三 転する。その状況を見ては一喜一憂し、目 の前の事で疲れ果ててしまう。又、思い通 りにならなければ、イライラし腹を立てる。 人のせい、環境のせいにする。失敗すれば、 世も終わりかと思うほど落ち込む。又、思 い煩いにほんろうされ、不安と恐れで悶々 とする。こんな事をいつもいつも繰り返す。 御言葉を見ていると、どこを見ても、こう いう生き方では無い。あなた自身を、あな たの道を主に委ねよと、何度も何度も言わ れている。いっさいを主に委ねた上で、日 ごとに目の前に起こる、些細な事、大きな 事、良い事、悪い事、一つ一つのすべてを 主のみこころとして、受け取るのだ。主か らのものとして、受け入れるのだ。その時、 大きな変化が起きる。主が見える。以前は 状況だけしか見えなかったのが、今は主が 見える。不安も思い煩いも、いら立つ事も なく感謝となる。すべての事に感謝を向け て行ける。 ・・・・・・・・・・・・・ 起こる一つ一つを主からのものとして、御 心として受け入れる事は信仰だ。その時、 心が変えられる。向こうから来るのが幽霊 でなく主である事を知る。「しっかりしな さい。わたしだ。恐れることはない」。
2006年08月15日(火) 「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」詩編36:9
「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」詩編36:9
神の光を受けて、光を見るとある。唯 一暗闇を照らし出すのは光だ。神の光 は、私達の心の中を照らし出す。光が 無ければ、内側がどうなっているのか わからない。この光で自分の姿をあり のまま知る。罪が照らし出される。し かしその罪は、主の血潮によりことご とく赦される。隅々まで知り、隅々ま で平安にされる。神に受け入れられて いる自分を、受け入れて行けるので、 安堵と安らぎだ。その時に初めて、周 囲の人々をも受け入れて行ける。すべ てが神の光から来る。そして、この光 が無いところは悲惨だ。「彼には、神 に対する恐れがない」「おのれの目で 自分にへつらっている。おのれの咎を 見つけ出し、それを憎む事で」つまり、 罪を見つけるという良い事をしている つもりでも、神によらず自分でしてい るのであり、それは神から離れた罪で あり、真に罪を見る事も憎む事も出来 ないという事だ。神への恐れが無い時、 すべてが誤った方向へ向かう。神の光 で照らされ続ける時に、間違いに気づ ける。自分は間違う者との認識に立つ 時、光に照らされやすい。 ・・・・・・・・・・・・ 主は光だ。必ず心の闇が照らし出され る。しかし、光があっても、自分が目 をつぶっていれば暗闇だ。特に自分が 認めたくない事には目を閉じてしまう。 自分が光を遮断していないか心探ろう。
2006年08月14日(月) 「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される」詩編41:1
「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される」詩編41:1
弱っている人へ配慮する者は、神 からの祝福を受ける。主に従って 正しく歩む者に、人々からの敵対 があり迫害があり、又、病にもな る。しかし、その時、その心配る 人を主が救い出されると。 弱っている人への配慮は、思って いる以上に難しい。デリケイトな 事だ。肉はなかなか同じ目線に立 てない、寄り添えない。 上から下への施しであったり、心 密かに自分を誇る優越感があった り、自分を喜ばせるだけの自己満 足であったり、強者が弱者をあわ れむ事でしかない。そういうもの が自分の内にあると、きちんと見 えていれば良いが、無意識だと、 返って深く傷つけたりする。主だ けが真実な同情をお持ちだ。 自分には無い事をわきまえて、祈 って行く時に主が用いて下さる。 詩編記者のように、様々な痛み苦 しみに遭い、自らが主に助け出さ れた経験を通して、初めて真実な 配慮が生まれる。苦しみで万事休 す、道が断たれた時にこそ、神に 出会い神を深く経験する。 その痛みは他者への配慮となり生 かされる。 ---------------- 何かと心配っているようで、ただ 肉に反応している場合が多いかも しれない。一体なんのために私達 は他者へ寄り添うのだろう。よく 吟味してみよう。
2006年08月13日(日) 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4
「心の願いをかなえてくださる」ので、祈れ ば、私が願うものを何でも与えて下さると思 う。しかし、そうではない。「主をおのれの 喜びとせよ」がまず第一に来ている。そして、 次に「心の願いをかなえる」だ。主を崇め、 主を喜んで行く時、主の喜びが自分の喜びに なって行く。そして、主の願いが自分の願い になって行く。主に自分を明け渡して行くか らだ。その願いは叶えられる。私達の生まれ つきの願いは、極めて自己中心だ。ひたすら 自分の欲望を遂げる事を願う。神の願いでは なく、自分の願いだ。自分は望むけれど、神 は望まれない。それは幾ら願っても、かなえ られる事はない。しかし、神を心の王座に据 えるなら、自分の願いでなく、神のお心にそ いたいと願うようになって行く。又、自己中 心な願いを軌道修正して行くようになる。神 を第一にする事が大切だ。私の今日の1日が、 私の人生が、神の願われるままで良いと思え るなら、神とひとつであり、私達の願うとこ ろ、思うところのすべてを越えて豊かに与え て下さる。主が自分の喜びか、それとも自分 の願望が喜びか、私達の心はどうだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 主を第一にする時、主を与えられ、「それに 加えてこれらのものはすべて」必要なものも、 結局どちらも、二つ共与えられる。しかし、 自分の願望を第一にするなら、どちらも失って しまう。今日も心の真ん中に主を据えよう。
2006年08月12日(土) 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」マタイ20:16
「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」マタイ20:16
先の者が後になり、後の者が先になるから には、何かの重大な理由があるはずだ。そ れは、その働きの動機や態度を見られると いう事だ。会社員が会社で働く時、動機ま で問われる事はまず無い。結果さえ出せば 良い。それがこの世の価値基準だ。しかし、 神の国では違う。主はすべてを捨てて従っ た弟子達のその動機、働きの動機までも見 られる。最初の者達は、一日の終わりにそ の「動機」が明らかになった。「一日中辛 抱した」。辛く苦しく、主人のために働く 事はしんどい事であり、一デナリと判明す ると、不満と怒りが爆発した。自分達には もっと貰う権利があるとの立場だ。実は早 朝から糧が保証されて、夕刻になると必ず 入って来る。心平安に一日働けるとは何と いう恵みだろう。夕刻まで糧の無い人々は、 待つ家族を思い、どんなに煩い、不安と恐 れにあっただろう。神はその人達を、その 家族をあわれまれた。良かったねと思えな い、祝福できないすべて勘定づくの「自我」 だ。主人の心は愛と慈しみだ。又「一デナ リ、相当のもの」の約束履行し何の不正も 無い。自己中心の目には、神の心が全く見 えない。私達はどうだろう。今の生活、感 謝も喜びも無く不満タラタラ、神のために、 してやっているとの態度か。態度と動機を 探ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 視点によって、考え方も生き方も何もかもが 変わる。損得でしか考えられない者が、朝早 くから、主人のために働けることの感謝と幸 せが見えて来る。喜びで一杯になる。視点を 変えない限り見えない。「人が主に向くならそ のおおいは取り除かれるのです」
2006年08月11日(金) 「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21
ヨブが子供達を失い、財産、家財 をすべて失った時の言葉だ。 「主は与えられる、主の御名はほ むべきかな」とは誰しも言えるが、 「主は取られる、主の御名はほむ べきかな」とはなかなか言えない。 神はいじわる、私から奪う、どこ が愛なんだと言いそうだ。 ヨブはこれらがすべて主から出て いると、はっきりと認めた。 それは神の絶対的主権を認める告 白だ。その上で、主の御名を崇め たのだ。神を信じるとはこういう 事だ。舞台裏では、悪魔が神にヨ ブを中傷した事が出て来る。 人は利得も無いのに神を信仰など しない、利得があるからの信仰だ と。しかし、ヨブの態度と言葉は、 その悪魔の中傷と神への訴えを無 力なものとしてしまった。 この世界には、利得からでなく、 神が神であられるゆえに信じて行 く信仰が存在するという事を、ヨ ブは証明したのだ。神は愛なる良 い方で私達に最善しかなさらない。 どんな時にもそこに立とう。 私達の生涯が、神が神であられる から、神を崇めて行くことを証し して行けるとは、何と幸いなこと だろう。 -------------------------- 順境にあっても試練の時でも、揺 らぐ事のない神様に信頼を置けま すように。失望落胆しようとする 思いの中で、あえて状況の向こう におられる神様を仰ぎ賛美しよう。
2006年08月10日(木) 「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26
「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26
私達が時々、神の恵みを試み る誤りに陥る。つまり自分の 願いが叶えられたら、自分の 思い通りになれば、神に愛さ れている証拠であり、そうで なければ、神の愛を信じない との態度だ。それは神に従う 事ではなく、自分が中心で、 自分が神の上に立って、神を 試す事だ。それはまさに悪魔 の誘惑であり、攻撃だ。私達 が、結局のところ神に求めて いるのは、パンだと、悪魔は 言う。神などではなく、自分 の欲望の満たしだと。そのパ ンとは、自分にとっての生き がいであり、喜び、楽しみだ。 富、名誉、地位、愛する人、 仕事であり、人間が求めてい るのは、それらによって心が 満たされる事だ。しかし信仰 とは、そうでなく神を試す事 をせず、どんな時にも、状況 でも、御言葉を信じて、神を 信頼して歩む事だ。どこまで も自分中心な者が、自分のた めにしか生きる事の出来ない 者が、神のために生きる者に 変えられて行く。これは最大 の奇跡だ。神のして下さるみ わざだ。自己中心な自分が、 変えられている事に感謝しよ う。 ------------------------ パンを求めて従っているのか、 神様が神様であるゆえに従う のか。どこまでも自己中心の 私達を今日も神様は憐れんで、 恵んで下さる。
2006年08月09日(水) 「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました」詩編40:6
「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました」詩編40:6
いけにえが形だけのものに、なってしまう 事がある。牛をちゃんと献げたのだから良 し、すべき事はしたの態度だ。こちらサイ ドではすべき事をしたのだから、祈りが答 えられてしかるべき、答えられないのは、 神の方が間違っている、になってしまう。 今の私達も一つ間違うと、献げるべきもの を献げ、するべき事をしたのだから、神は 私の願いを聞くべき、願いが聞かれないの は納得が行かないの、態度になってしまう。 神との関係が、対等の商売上の取引関係だ。 決してそうではない。神とは取引でなく信 頼関係だ。神にすべてをお委ねして、神が 良いお方であり、最善をして下さる事を信 じて行く関係だ。あなたの態度はどうだろ う。そして、神が喜ばれるのは開かれた耳、 聞こうとする耳だ。御心を聞いて従おうと する心だ。礼拝に出ているが、身体だけ、 形だけ、御言葉を物理的に聞いているが、 実は決して心の耳では聞いていない。耳が ふさがっている。それなら、神にありのま ま、聞く耳がありませんと向き合おう。神 こそが、耳を開いて下さるお方だ。正直に 向かう時、必ず応えて下さり耳が開かれる。 あなたへの神の御声が聞こえて来る。 ・・・・・・・・・・ 神とは取引関係ではない。それなら一タラント のしもべであり、神は恐い、常に要求する方で、 落ち度がないか、いつも怯えた信仰生活だ。神観、 間違っていないか御霊様に照らされよう。
2006年08月08日(火) 「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」詩編39:9
「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」詩編39:9
この詩編記者は、病にあり、苦 しみの中で「なぜですか、なぜ こんな目に会うのか」との不満 が鬱積していた。しかし、舌で 罪を犯してはいけないと、口に 口輪をはめた。しかし、黙して いると、ストレスが更に内攻し、 鬱積し爆発しそうだった。 それを彼は人にでなく、神にぶ つけた。心の中の本音を吐き出 し、気持ちを神に告げた。 人生は、はかなく虚しいと。 心の内をことごとく吐き出した 時、信仰が帰って来たのだ。 この虚しい人生での望みをかけ られるのは何かと、見上げた時、 神を見い出した。私の望み、そ れはあなたです、と。 そして、本音を神にことごとく 告げた後、私は黙し、口を開か ないと言っている。同じ、口を 開かないだが、最初の口輪をは め、ストレスに陥ったのとは異 なる。「あなたがそうなさった」 と、すべてに神の計画がある事 を認め、それを受け入れ、すべ てを神に委ねたのだ。私達も本 音をことごとく神に告げて、初 めて、神の計画を受け入れる事 が出来る。 ----------------- 神様は、素直な者を高く評価し てくださる。心の中に良いもの など何もないこともご存知だ。 私達は、口を閉ざし誰よりも先 に本音を神様に打ち明けよう。
2006年08月07日(月) 「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します・・人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ6:45
「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します・・人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ6:45
私達は心の倉に物をどんどん 蓄える。あなたが心の倉に蓄 えている物は何だろう。隠れ た嫉妬、憎しみ、怒り、敵対 心だろうか。その中身が現れ るのは、その人が圧迫された 時、試練の時だ。 普段は、何もない順境の時は、 出ないものが、とっさの事態 が起きた時に、内面にあるも のがそのまま現れ出る。 その時の反応が私達の本当の 姿だ。圧迫されると何が出て 来るだろう。不平不満、愚痴、 怒り、罵りか。それとも自制、 寛容、柔和、愛が出て来るか。 人の口も同様だ。自分の口か ら出て来る言葉により、自分 の心に何があるかがわかる。 心にある事を口が話すからだ。 特に批判、非難、攻撃された 時、どんな言葉が出て来るだ ろう。良い倉に蓄えた良い物 とは御言葉だ。これは自然に 出て来ない。日々、心の倉に 御言葉を蓄え、取り出す練習 が必要だ。これが習慣になっ て、良い物が培われて行く。 日ごとに地道に、一つづつ御 言葉を貯えて行こう。試みの 時の大きな力だ。 ------------------------- とっさの時、思わず出てくる 御言葉に助けられる事がある。 今日からでも遅くない、心の 倉に御言葉をたくさん貯えよう。
2006年08月06日(日) 「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」箴言12:15
「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」箴言12:15
地図でなく、自分の感覚に頼って、道 に迷った経験があるだろう。信仰生活 も同様だ。自分の思いや願望に合う御 言葉なら、正しいとして受け入れ、都 合が悪いと捨てる。しかし、単に自分 の都合優先なだけで、別にそれがそん なに悪いという自覚はなく、神に従っ ていると思い込んでいる。が、それは、 神を神とせず、自分を神の上に置くこ とだ。自分を上に置いて、神を退ける。 自分を神とする事だ。神に従うとは、 自分の感覚、体験、知識で判断するの でなく、判断の基準を神に置く事、 それを生活に徹底させて行く事だ。神 の御心のことは、御霊にしかわからな い。だから、御心を知りたければ、御 霊に従う事、御霊に支配され、導か れる事だ。それしか無い。又、御霊は 一つ、御心は一つなので、御霊に満た された人々にも必ず示されるはずだ。 指導者の助言、又、自分のためによく 祈ってくれる人の助言に耳を傾ける事 は有益だ。もし、御心なら必ず一致す るはず。謙虚であろう。悲惨な間違い から守られる。自分の目には正しいと 見えるので要注意だ。 ・・・・・・・・・・・・・ 自分の思いが強いと、自分の目には「正 しい」としか見えなくなってしまう事を よくわきまえよう。へりくだって、アド バイスに聞く耳を持つ時、大きな間違い から守られる。へりくだりを求められる。
2006年08月05日(土) 「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり・・火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」イザヤ43:2
「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり・・火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」イザヤ43:2
ある夫婦が、医師から親の認知症が進み、 自宅介護は無理であり、入院させるよう 告げられた。しかし、親を最期まで、家 で看る事を望んだ。もう家族もわからな い状態だった。実際、介護は甘くなかっ た。大変厳しい現実であり、火のような 試練であった。朝毎に、夫婦で手を取り 合い、涙ながらに祈った。祈らなければ 一日たりとも過ごせなかった。主に頼み、 明日の事は一切思い煩わないで、今日の 一日だけを考え、一日一日を過ごした。 想像を越えた厳しい日々であったが、し かし、火の中、水の中に、主が共におら れる事を日毎に経験した。いつも自分達 だけでない事を実感できた。主をすぐそ ばに感じ、主の臨在という恵みにあずか った。王の立てた金の像を拝まない、三 人は火の炉に投げ込まれ、七倍炉を熱く された。しかし、何の害も受けず、もう 一人が共にいた。この炉に、主イエスが おられたのだ。今、あなたは厳しい試み の中いるか。その火の中に、まさに主が 共におられる。炎は燃えつかない。今、 主が共におられることに目を向けよう。 ・・・・・・・・・・・・ 厳しい試練の時、その渦中はわけがわか らないが、振り返ると、あの火の中、あの 水の中、共におられた主がはっきりとわか る。状況でなく、自分でなく、今、この瞬 間も共におられる主に焦点を当てよう。
2006年08月04日(金) 「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」詩編30:5
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」詩編30:5
誰しも人生に、暗い夜を経験する。 試練の時だ。しかし、夜のままで はあり得ない。必ず朝が来る。 これは何と慰めだろう。試練には 定められた期間がある。神が定め られた時から1分たりとも延びる 事はない。人間は成功が続く時こ そが危ない。莫大な遺産を受け継 いで人生を滅ぼした人は少なく無 い。成功の中で自らを律っする事 の出来る人はまれだ。順境で神を 求めなくなる人も多い。人がひた すら求めるのは平穏無事だ。 しかし、それが良いのかどうか。 神が送られる試みは、必ず私達の 素晴らしい益だ。試練の時は、何 もかもが光を失い、真っ暗闇に思 える。が、主のよみがえりを覚え よう。十字架で弟子達はつまづき、 落胆絶望した。万事休す、何もか もが終りだ。しかし、その時に世 界が一変した。死から命へ、暗闇 から光へ、溢れる喜びに変った。 必ず夜は明ける。今の苦しみは喜 びに変わる。明けない夜は無い。 それゆえ、どんな時にも、すべて の事について感謝できるのだ。 --------------------- 朝の来ない夜はない。試練の中で 主に目を向けておれるなら、その 時から私達は解決の中へと導かれ ている事を覚えよう。
2006年08月03日(木) 「こうしてレハブアムは勢力を増し加え国を治めた・・彼は悪事を行なった。すなわち、その心を定めて常に主を求めることをしなかった」U歴12:13
「こうしてレハブアムは勢力を増し加え国を治めた・・彼は悪事を行なった。すなわち、その心を定めて常に主を求めることをしなかった」U歴12:13
ユダのレハブアム王は勢力を増 し加え、盛んになり、国を治め るようになると、主を求める事 を止めた。これは、人が、どん な時に神を離れるかの、典型的 な例だ。厳しい試練のまっただ 中では、返って、人間は神を求 める。神をあがき求めて、神に 拠りすがる。神を離れるのは、 順境の時だ。苦しみの時ではな く、物事が何もかもうまく行き 、大成功を収め、有頂天の時だ。 自信に満ちて、高慢になり、神 に頼ることなく、自分の力で進 んで行こうとする。この時こそ 気をつけるべきだ。警戒する時 だ。罪を犯してしまう。試練の 時でなく、成功の時に、人はよ く倒れるのは、このためだ。成 功で霊的に倒れた人は多い。悪 魔は虎視眈々と狙っている。あ なたが今、成功の有頂天にいる なら、まさに悪魔の標的だ。十 分に気をつけ、すべての栄光を 神に帰し、ますますへりくだる べきだ。悪魔に付け入る隙を与 えてはならない。慢心の誘惑に 心していよう。 ------------------------ 悪魔は狡猾だ。私達の弱い所を 知り尽くしている。少しの成功 で慢心し、高慢になる。自分の 力でどうにでもなると高ぶる。 常に身を低くし今日も主と共に 歩もう。
2006年08月02日(水) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために・・」エペソ6:11
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために・・」エペソ6:11
悪魔は二つの強力な策略、攻撃手段を 持っている。一つは、あなたを失望さ せる事だ。失望させてしまえば万々歳 だ。放っておいても無気力になり、神 を信じる事を止めて行く。信仰してい ても何も良い事がないという失望。辛 い事、苦しい事ばかりだという落胆。 信じていても何も変わらない。又、罪 しか犯せない、何も出来ない自分自身 に対する無力感による失望。こんな思 いは、信仰を失わせてしまう。もう一 つは、心の偶像だ。お金、地位、賞賛、 愛する人、没頭する仕事や趣味、この 世のものを偶像にし、形を変えた神に する事だ。悪魔はこれらをあなたに提 供する事が可能だ。この世の栄華は一 見素晴らしい魅力に満ち、輝いている。 しかし、神と引き替えにだ。「もしひ れ伏して私を拝むなら、これを全部あ なたに差し上げましょう」であり、あ なたに神を捨てさせようとしている。 これらが今、あなたに臨んでいないか。 サタンの誘惑に気づけるように。 ・・・・・・・・・・ 誰もサタンなら拝みはしない。しかし、 偶像に形を変えられると簡単に欺かれ、 尚且つわからない。罪ではない、むし ろ良いものに見えるからだ。サタンを 拝んで手に入れる事になる。すべての 真に良いものは、上から、光の父から 来る。
2006年08月01日(火) 「片手に安楽を満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる」伝道4:6
「片手に安楽を満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる」伝道4:6
片手で満足できないで、両手を 満たさなければ気が済まず、あ れもこれも追いかけていると、 まるで風を追うようだ。 決して満ち足りることない。 いつまでも満足と安らぎの無い 人生になると言っている。何も かもが欲しい、もっと手に入れ たい貪欲の罪だ。不足を見るの ではなく、与えられているもの を感謝して行くなら、両手に満 たさなくても、片手で「幸せ」 になれる。あなたは幸せか。 心の内はどうだろう。今、不満 だろうか。何か不足感で悶々状 態か。心満たされず、何か足ら なくて、もっと得なければ、頑 張らねばと懸命に走り回るが、 やってもやっても足らない。 そこには永遠に満足は無い。そ うでなく、視点を変えるのだ。 神を見、手に与えられているも のを見る。すると感謝が湧き、 与えられている一つ一つが、 こんなにも与えられている事に 驚く。満足と幸福感が来る。 片手で十分幸せだ。現状は全く 同じなのに、不足感と満足感、 この大きな違いは、心の問題で あり、視点の問題だ。 ------------------------ もっと、もっとと現状に満足せ ず走り回るのが美徳だと勘違い する。今与えられているものを しっかり感謝して受けよう。 片手で十分だと示される。