2024年02月04日(日)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に 隠しておおきました」マタイ25:24


信仰者の神観は、信仰生活に大きな影響を及ぼす。一タラントの
しもべはどうだろう。彼の神観は「蒔かない所から刈り取り、散
らさない所から集めるひどい方」だった。それで「恐くなり、あ
なたの一タラ ントを地の中に隠した」だった。彼は、いい加減
な人ではない。むしろ真面目で、一タラントを絶対に減らす事は
できないと考えた。

ひどい、恐い主人だ、減らしでもすれば、どんなに恐ろしい事に
なるか。失敗を恐れる余り、いっさい何もせず、地の中に埋めた。
そのまま返せば、減らしていないのだから、文句は無いだろう。
彼は主人を信頼しておらず、主人への愛も無かった。彼の主人観
は、恐い厳しい主人、常に要求され、奪い取られ、失敗や過失は
赦されない。罰っされるとの怯えと恐れに支配されていた。

そんな主人のために、何かをしたいなどと思わない。最低限すべ
き事は、きちんとするから、後はいっさい関わらないで欲しい。
これはパリサイ人そのものだ。律法を几帳面に細かく守り、人か
らもいっさい非難されないよう、真面目に生きる。しかし問題は、
しもべを愛し信頼し、失敗のリスクも承知の上で、多額の富を預
けてくれた主人の心が、全くわからない事だった。

主人の心は、愛と慈しみで満ちていて、何よりしもべと喜びを共
にしたい。あとの二人は、主人を喜ばせたい一心で、留守中、精
一杯労した。主人は愛なる方、万一失敗しても赦して下さる。主
人の愛を信じていたので、思いきり喜び勇んで働けた。失敗を恐
れて、一歩が踏み出せないだろうか。主は賜物を預けて下さった。
示しがあるなら、主のために一歩踏み出そう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主は喜びを与えたい、喜びを共にしたいと、タラントを与えて下さった。
任せて下さっている。どこまでも喜びのためだ。それが重荷となり、
しんどいものになっているなら、主を仰ぎ、御霊に導いて頂こう。
今一度、新しくして下さる。


2001年06月30日(土)

「彼らは、アジアでみことばを語ることを御霊によって禁じられたので」(使徒16:6)

ある青年が、牧師になる決心をして、神
学校に入学した。神学校生活は大変祝
福され、よく説教する機会も与えられた。
卒業後、牧師となるべく教会を捜したが
見つからなかった。そうこうしていると、
神学校から教師として、働かないかとの
申し出を受けた。とりあえずそれを受諾
したが、一時的であり、将来は牧師にな
る事を考えていた。しかし、数年後、牧
師ではなく、神学校教師になる事が神
のみこころだと確信出来た。神のみこ
ころを求めるなら、あなたの計画を阻止
される事がある。あなたは一つの方向
へ進もうとするが、道が閉ざされる。
そして最終的には、神が導かれる方向
へ進み、真の満足を得る。パウロも
経験した。アジアとビテニヤへの福音
宣教の道を閉ざされ、マケドニヤで宣
教する事がみこころだとわかった。
今、もしあなたの計画が阻止されてい
るなら、神は別な方向へ導こうとされ
ているかも知れない。しばし、立ち止ま
り、神のみこころをよく求めよ。神は
必ずみこころの道へと導かれる。


2001年06月29日(金)

  「神は、あらかじめ知っておられる人を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めたからです」(ローマ8:29)

  

 私達の人生の目標はなんでしょう。ある作家が言う
「神はありのままのあなたを愛しておられるが、その
まま放ってはおかれません。イエスのように、イエス
に似たように変わって行く事を望んでおられる」。
自分が変わって行く事だが、自分を見るなら不可能に
思える。「私は思い煩い屋」「私は怒りっぽくて、自分
をどうにも出来ない」しかし、神の目的は私達をイエス
に似た者にする事だ。
これは、自分の力でどれほど頑張っても不可能だ。
しかし、キリストを信じた者には聖霊を与えれらてい
る。聖霊は私達の内に働き、イエスに似た者に変えて
くれる。自己満足が一番これを妨げる。
自己満足に陥る事なく、日々、聖霊によって変えられ、
イエスに似た者に変えていただこう。
聖霊だけがあなたをキリストの姿に変える事が出来る。
日毎に、刻一刻と。神の力はあなたを、あなたの人生
を変える。それにあなたが同意しなければならない。


2001年06月28日(木)

「その人は倒れてもまっさかさまにたおされはしない。主がその手を支えておられるからだ」(詩篇37:24)


 あなたは失敗しただろうか。落ち込んでいるだろうか。
失望落胆しているだろうか。罪を犯して、倒れてしまっ
たか。しかし、倒れるより悪い事がある。
それは倒れたままでいる事だ。犯したくないが、罪を犯
してしまったなら、もう一度立ちあがるべきだ。
良い知らせがある。「もしだれかが罪を犯したなら、私
たちには、御父の御前で弁護して下さる方があります。
それは義なるイエス・キリストです」罪を認めよう。
そして神に告白しよう。神は豊かに赦して下さる。
だから、倒れても、まっさかさまに倒れないのだ。
倒れても常に新しくやり直せる。
罪を言い表すなら赦してくださる。
主は人の弱さ罪との葛藤をこ存じだった。日毎に罪か
ら守られるよう、神に頼れ。
神の恵みと力に頼るようになれば、本物の勝利を経験
するようになる。


2001年06月27日(水)

「神は罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました」(Uコリント5:21)

昔の時代、王室というものは特別
待遇を受けていた。受けるべき罰、
規律さえ免除されていた。王家の
子供達は悪い事は罰に値する事
を知る必要があったので、王子や
王女が不従順の時は代わりに「
鞭打たれ少年」が、罰を受けた。
召使いが王家の者のお尻をたた
くなど思いもよらない事だったか
らだ。キリストの十字架は罪の扱
いについて、これとは正反対の事
を示している。召使いが悪かった
のに、王家の者が罰を受けてい
る。栄光の王子であるイエス・
キたいリストが、十字架上で死な
れた時に、私達の身代わりとなっ
て下さった。ご自分から「鞭打た
れ少年」となられ、罪の値を支払
って下さったのだ。何という事だ
ろう。いかばかり感謝すべきか。
この思いが、普通なら止めてし
まうような時も、パウロに働きを
続けさせた。呪いを取り去るた
め、キリストは呪われて下さった。
この身代わりの事実に押し出さ
れ、私達が人に良きおとずれを
告げる事が出来るように。


2001年06月26日(火)

  「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟ることで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍…」(マタイ13:23)

  
 私達の心は地面に例えられている。道端に落ちた種は
鳥が来て食べてしまったと、ある。
御言葉を受け取る私達の土地である心は大きな問題だ。
心次第で豊かに実が実るか、それとも枯れてしまうかが
決まる。神の大きな愛を受け取り育む可能性が、私達の
うちに限りなく与えられているが、地面が、心が固いな
ら、その可能性が花開く事がない。
自分から神の愛や恵みを切り離してしまっている事にな
る。対人関係や職場や教会生活でも、もし心が固ければ
神様の恵みや愛を受け取るすべがない。
自ら心を固く閉ざしている事があり得る。
そして気付かないでいる。
どんなに心が凍っていても、春には雪や氷が溶けるよう
に、神の春のような暖かい愛によって心は溶かされる。
あなたの心は凍っていないだろうか。固い地面ではない
だろうか。神は新しい心を与え、新しい霊を授け石の心
を取り除き、肉の心にして下さる。


2001年06月25日(月)

   「私たちは、夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でも。おことばどおり、網をおろしてみましょう」(ルカ4:5)

   
 プロの漁師であるペテロは夜通し漁をした。
しかし、何一つ獲物は無く、疲れてへとへとだった。
疲れ切ったペテロに、主は「深みに漕ぎ出し」て漁を
するよう命じられた。疲れ切っていたペテロには様々
な思いがあったに違いない。しかし、自分の思いや見
える所を脇に置いて、主のお言葉に従った。すると、
奇跡が用意されていたのだ。あなたにも、努力が身を
結ばない時、疲れ果てもう一歩も進めない時があるか
そんな時、主は一歩踏み出すよう、沖へ漕ぎ出すよう
求められる。不可能に見えても、ただ主が言われた通
りに信じて従うなら、どの状況においても、神が働い
て下さる事を知る。疲れ果てた時も、先が見えない時
も、常にキリストはあなたと共におられる。
主のみわざを見るためには、沖へ漕ぎ出し、網を下ろ
して、あなたの信仰の答えとして、主が何をされるか
見守れ。


2001年06月24日(日)

「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私をしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き・・」(ルツ1:16)


ルツと姑ナオミの物語は麗しいもの
だ。夫を亡くしたルツは故郷へ帰る
よう姑ナオミから勧められても、ナオ
ミを支え自分もナオミの信じるまこと
の神を信じて行こうと決意する。お互
いが支え合い、励まし合い信仰によ
って前進する。真の友を見い出すの
はなかなか難しい。喜び、苦しみ、悲
しみを分かち合える人がいる事は神
の賜物だ。ある人は伴侶にそれを見
つける。又、ある人は長年の友人に
それを見つける。移り行くこの世はそ
のような関係を危うくする。友人はそ
れぞれの進路に進み、家族は家を出
る。又、多くの結婚生活が破綻する。
しかし、ルツとナオミは揺るぐ事のな
い信頼関係、友好関係を私達に示し
ている。あなたには、いつも神の方へ
向くのを助けてくれる真実な友がいる
だろうか。神に感謝しよう。その友情
を大切に育み、更に育て上げよ。
友人は神の賜物だ。


2001年06月23日(土)

「わたしを呼べ。そうすれば、あなたに答え、あなたの知らない理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ33:3)

子供というのは、小さい頃何でも自分
でしたがる時期がある。親が手を出す
のを嫌がり、自分でしないと気がすま
ない。シャツを自分で着替え、後ろと
前を逆さに着たり、靴を左右反対に
履いたり、ハサミを持って危なっかし
い様子で、紙を切りたがったり。親は
忍耐して見守り、助けが必要であり
求めてくれば、助けるだろう。シャツ
を前後きちんとしてやり、処理してや
る。しかし、大人も同じである事に
気づく。試練が来ると、自分で対処
しようとしている事に気づかされる。
憂鬱な気分に陥る時、神に助けを
求めるのでなく、自分で明るく考え
ようとする。失望落胆する時は、自
分で明るく考えようとする。失望落
胆する時は、自分で気を取り直そ
うとする。「自分で」しようとして
いる事に気づく。あなたは、自分で
しようとしていないか。そうではな
く、神に助けを求めよ。子供が自分
でする事、親が待つように、神があ
なたが助けを求めるのを待ってお
られる。



2001年06月22日(金)

   「悪いことばを、いっさい口から出しては行けません...人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)



 あるクリスチャン達が数日間、悲観的な言葉及び
批判的な言葉を決して口にしないというゲームをした。
すると、話す事がほとんどない事に驚いた。
日常生活における自分達の言葉についてもう一度点検
させられ考えさせられた。
不平や不満、ぶつぶつ言う事、批判、思い煩い、不安
な言葉、愚痴、それらがどんなに周囲を暗くし、否定
的雰囲気を創り出し、害毒を流している事か。
誰もそんな言葉を聞きたくない。パウロは悪い言葉を
一切口から出すなと言っている。私達は聖霊を悲しま
せる古い人、自我を脱ぎ捨て、人を建て上げる新しい
人を着るべきだと言われている。
聖霊に導かれ、聖霊の助けに頼る時、私達は言葉と態
度、行いにそのような変化が起こる。
私達はまず自分が変わる事を選ばなければならない。
主は必ずあなたを変えてくださる。
悪い言葉をいっさい口から出すな。


2001年06月21日(木)

「あからさまに責めるのは密かに愛するのにまさる。憎むものが口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴言27:5)


 預言者エレミヤは、神から主の宮の庭に立って、
人々の罪について大胆に警告するように言われた。
エルサレムの人々に、神の律法に従わないなら、
滅びると警告した。神が語れと言われた事をみな
語り終えた時、祭司と預言者とすべての民は彼を
捕まえて言った「あなたは必ず死なけれはならな
い」すべての民がエレミヤを攻撃した。
命が危うくなった。しかし、彼はひるまず警告を
続けた。すると、彼らは考え直して来た。
警告とは、警告を受けるべき人に喜んで受け入れ
られない事を示している。
あなたの周囲に危険が迫っている人はいないか。
あなたが警告を与えるという難しい仕事を神から
示されているかも知れない。
愛ある警告を与える必要があるかも知れない。
愛は、助ける前に傷つけられなければならない
事もある。罪人を迷いの道から引き戻す役目は
罪人の魂を死から救い出す事だ。


2001年06月20日(水)

「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けるになる」(ヤコブ4:6)

主がサウル王に言われた。「アマ
レクを打ち、そのすべてのものを
聖絶せよ。容赦してはならない」
主の言葉を受け、サウルはアマ
レク人を打ち、民を聖絶した。し
かし、最も良いものを惜しみ、つ
まらない値打ちの無いものだけを
聖絶した。主はサウルを王に任じ
た事を悔いられ、サウルを王位か
ら退けられた。ウジヤ王は、神に
対する真実さによって、民に尊厳
と栄光を回復させた。ところが、
彼は高慢になった。神殿に入って
香をたことした。それは祭司にし
か許されていない事だった。それ
を指摘された時も激しく怒り、聞く
事を拒んだ。神が介入され、らい
病に冒された。最初はへりくだっ
て歩んでいたはずなのに、多くの
人々が高慢になり、神から離れ
てしまう。そんな人達は頑固で、
不従順、神のみ声と周囲の声に
耳を貸さない。あなたは今、高ぶ
っていないか。高ぶる者を退け、
へりくだる者に恵みを与えられる。

















2001年06月19日(火)

  「神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く...」(ヘブル4:12)

  
 森の管理人がブナの木を見つけ、焚き物にしようと
丸太に切り揃えた。しかしまだ大きく、もっと割る必
要があった。ところが、どうにもならなかった。
斧は刺さるだけで力が無かった。
この木には斧は軽すぎたのだ。
どうも出来ず、もっと大きい薪割り用の斧を購入し
た。この正しい道具のお蔭で木を割ることが出来、薪
の山を作ることが出来た。同様に、私達も道具を間違
うなら何の役にも立たない。様々な事態の問題解決の
ために、「自分の意見」は幾らでも言えるがその状況
に「神の真理」を当てはめ、適用することが出来ない。
これは事態を更に悪くしてしまう。
正しい道具を、自分の思いでなく、神の御言葉を使う
べきだ。イスラエルの偽預言者も間違った夢言葉、見
通しを人々に語っていた。間違った道具を与えていた。
エレミヤは正しい道具を使い、警告していた。
私達も正しい道具を使うなら、正しいことが出来る。


2001年06月18日(月)

  「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」(マタイ26:38)


 主イエスが、十字架にかかられるのが目前となった
時、ゲッセマネの園で祈られた。その時、イエスはペ
テロとヤコブとヨハネがご自身を支えてくれることを
望まれた。十字架上で罪を負う者として、御父の御怒
りを受けられ、御父に見捨てられるはずだった。
彼はこの恐ろしい杯を取り去ってくださいと祈られた。
その恐るべき暗闇の時、愛する弟子達は目を覚まし共に
祈り同情していてくれるものと思われた。
しかし、弟子達は眠ってしまっていた。主はなんと落胆
された事だろう。
一番苦しい時に、弟子達の寝ている姿は主の孤独をいっ
そう痛ましいものにしただろう。イエスでさえ危機の時
に、弟子達の助けを求められたとしたら、クリスチャン
は尚さら苦しみの時、共に祈ってくれるよう、兄弟姉妹
に頼もうではないか。そして自分自身が苦しんでいる人
を祈りで支える機会が無いか目を覚まして見張っていよう


2001年06月17日(日)

「これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、よくわからせるためです」(Tヨハネ5:13)


クリスチャン達が救いの確信が無
かったり、救いの喜びを受け損なっ
ている。それは神の言葉をそのまま
受け取り、信じる事をしないで、自
分の感情に頼るので、いつも安定の
無いフラフラした状態にいる。ある
牧師が、神に信頼するよう婦人に勧
め、一緒に幾つかの御言葉を見た。
すると婦人が「これらの御言葉を信
じるよう頑張ってみます」と言った。
「え?神を信じるように頑張るので
すか?これらの御言葉を語っておら
れるのは神なのですよ」。すると、
婦人は「ああ、神が言われたと信じ
ます!」彼女は平安を与えられた。
あなたが主イエスを信じたのなら、
救いについて思い煩うな。聖書の御
言葉をそのまま受け取り、あなたに
与えられた新しい命を自分のものと
して主張せよ。神の御言葉はあなた
に確信を与える。イエスは私のもの。
何という栄光、喜び。


2001年06月16日(土)

「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです」(ルカ7:47)

ある女性は、とても虚栄心が強く、
人を妬むと悩んでいた。表面は仲
良さそうに見えても、心では自分に
無いものを持っている友人をひどく
嫉妬していた。聖書を教えていたリ
ーダーは、そのような事は誰にでも
あり、あなたは良い点が沢山あると
慰めた。しかし、それは全く彼女の
助けにはならなかった。リーダーは
後で気づかされた。彼女に虚栄心
や嫉妬は罪だとしっかり認めさせ、
神の赦しを受け取らせるべきだっ
た。罪を過小評価せずしっかり認
めて、神の元へ持って行く時、神
の赦しの平安を得る事が出来る。
少ししか赦されない者は少ししか
愛さないと言われた。聖霊があな
たの罪を示して下さったら、その
罪を認め、すぐ告白しよう。神の
赦しを受け取り、測り知れず深く
高い神の愛をほめたたえよう。
多く赦された者は感謝し、多く
愛するようになる。


2001年06月15日(金)

   「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと…」(テモテU1:5)


 私達はしばしば劇的な回心をした人を羨ましく思う。
人を魅了するような劇的ですばらしい証しがあり、
どんなに神の栄光が現われるだろうと思う。人に語る
時どんなに主の証しになるだろうと思ってしまう。
パウロはこの例だ。クリスチャンを迫害し投獄し死に
至らしめていた。そのパウロに突然天から主イエスが
臨まれ、パウロの人生は180度変換してしまった。
キリストを信じ大伝道者になった。しかし、同様に神は
テモテも用いられた。彼は忠実な母と祖母によって導か
れ幼い頃から主を信じ、忠実に歩んできた。いわゆる彼
は良い罪人、良い人であったろう。
しかし、その彼も初代教会のリーダーとして用いられた
神はどのような背景の人をも、ありのまま用いられる。
神はあなたの通ってきた人生をそのまますべてを益とし
て用いて下さる。
問題は神の手にあなたを渡しているかどうかだ。


2001年06月14日(木)

   「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8:36)

   
 自由をしばしば勘違いし、はき違える。
何でも自分の思い通りになるのが自由で、好きな事
が出来るのが自由だと思っている。
今の時代、正しい結婚関係に無い不倫が麗しい事の
ようにドラマで持てはやされている。
自分に正直であるのがどこが悪いと言わんばかりに。
若い女性が誰にも迷惑かけていないと、自分の自由
だと不品行を行う。しかし、聖書ではそれを「罪」だ
とはっきりと言っている。それは自分に正直なのでは
なく、わがままであり、放縦だと言っている。
罪の支払う報酬は死だと言っている。
真の自由とは御霊の与える自由であり、キリストに従
う事によって得られる。それは罪から開放され永遠に
続く道に導かれる自由だ。私達は選択しなければなら
ない。二つに一つ。罪の奴隷か神の奴隷かのどちらか
しか無い。キリストを主人とする時、真の自由と平安
と喜びを満喫する。


2001年06月13日(水)

「主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。主こそ私の受ける分です」 (哀歌3:24)

私達は日々新しいニュースを新聞で
読み、テレビで見る。より新しいニュ
ースに関心を持つ。今日の新聞は読
むが、昨日の新聞はもう読まない。
報道番組が、今日のニュースを放っ
ておいて過去のニュースばかり延々
取り上げていたらどうか。誰もそんな
報道番組は見ない。それは神が私達
にして下さっている事も同様だ。神は
私達への神のあわれみと恵みが朝毎
に新しい事に気づいて欲しいと願って
おられる。今日、神はあなたに特別に
目を留め、特別に慈しみ愛し特別な
恵みを注いでおられる。それにしっか
り目を留める事を願っておられる。
あなたはどこを見ているか。先ばか
りを見て、不安と思い煩いで心乱れ
ているか。くよくよ後悔しているか。
それとも過去の栄光に固執しているか。
今日、この瞬間あなたへの尽きない
あわれみに気づき恵みを数えよ。


2001年06月12日(火)

   「あなたには、すべてができることを、私は知りました」(ヨブ2:2)

   

 パウロとシラスが牢で祈り、賛美していた時、
神は彼らを解放するために自身を送られた。
私達の思い通りに事態が成るという意味ではない。
しかし、神は主権を持って、ご自身のみこころが
成るように物事を備えて下さる。私達のすべき事
は、祈り、神の導きに従い、結果については神に
信頼する事だ。もし、それが神に望まれ、神のみ
こころであれば、道が開かれる。道なき所に神は
道を作られる。道の見えないところにも、神はご
自身の方法で働かれ、道を切り開かれる。私達の
最初の集会所が全面改装で使用不可能になった時
窮地に陥り祈った。神は道を作られ、店舗用の物
権を備えられ、小さな群れに経済的必要も奇跡を
持って満たされた。その場所が狭くなると、また、
三倍ほどの広さの一軒家を備えて下さった。
行き止まりになりそうになると、神は道を作られ
る。あなたは今、行き詰まっているか。
神はあなたの為に道を作られる。


2001年06月11日(月)

   「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る」(箴言15:31)

   
 ある政府高官がスキャンダルで地位を失った。
彼は言った。「私は大統領のために働ける地位と
権力を得た途端、傲慢になった。
尊大になり、何でも支配できると思い込んでしま
った」彼は辞職前の期間は、妻の言う事も、誰の
言う事にも耳を貸すこともなく、無視した。
私達も同じ罠に陥りがちだ。誰の忠告にも耳を
貸さず自分の思い通りに進んでしまいがちだ。
周囲にはあなたの謝りが見えているのに、あなた
には見えていない。滅びへと向かっている。
今日、あなたの家族か友人、あなたを愛する者が
あなたの間違いを正すために忠告してくれようと
していないだろうか。聖霊はあなたに語っていな
いか。高慢はいつも言う。「私は聞きたくない、
聞かない」知恵は言う。「崖っぷちだ。先は滅び
だ。立ち止まれ。そして、聞け」。
叱責を拒むなら、あなたはますます高慢になり、
何も見えなくなってしまう。


2001年06月10日(日)

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になそこりなさい」(マタイ20:26)

アメリカで、独立戦争の時の事、
一人の下士官が声を荒げて兵
隊達に指図をしていた。大きな
木の梁を持ち上げようとしてい
た。重くて動きそうにない。
を通りかかった男が、下士官も
手を貸せばどうかと、声をかけ
た。すると、彼はいばって、「私
は伍長だ」と言った。男は帽子
を取り、伍長殿、それは失礼致
しましたと言い、兵隊達のもとへ
行き、懸命に梁を持ち上げた。
作業を終えると、男は言った。
「伍長殿、こういう作業で人が足
らなかったら、総司令官室に言
って下さい。又、お手伝いに来
ましょう」。下士官は驚いた。
この人こそ、ワシントン総司令官
であった。神は仕える人こそ偉い
人だと言われる。イエスは模範
を示された。彼は仕えるために
来られた。ご自身は神であられ
たのに、へりくだって人々に仕え
られた。人々は皆、上に立ちたが
る。神の目から見て、偉大な人は
仕える人だ。



2001年06月09日(土)

「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」マタイ10:39

神の世界は、この世界とは正反対
である。この世は、出来るだけ損は
するな。手に入れられるものはすべ
て手に入れよ、だ。しかし、聖霊様
は違う。持っているものを与えよ。
受けるよりも与える方が幸いである。
与えたものだけが、永遠に残る。
クリスチャン生活では、自分に死な
ない限り何も生まれない。倉庫にし
まわれた種はカビが生え、腐敗して
しまう。地面に蒔かれた種は、百倍
にも増える。死ななければ生きない。
「一粒の麦がもし地に落ちて死なな
ければ、それは一つのままです。し
かし、死ねば多くの実を結びます」
イエスは私達のために、すべてを
捨てて下さった。あなたの手の中に
握られるものは死に絶え、蒔き散ら
されるものは、更に増える。まず、
私達の持てるものをすべて主に
明け渡すことだ。そうするなら、主
は取ったり、与えたりしながら、自
由にみこころのままに用いて下さる。


2001年06月08日(金)

  「わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな」(ハガイ2:5)

 

 補囚からエルサレムに戻ったユダヤ人達に、神は
ハガイを通して語られた。「仕事に取りかかれ。
わたしがあなたがたとともにいるからだ」。
彼らは神殿の再建を始めるが、失望落胆する。
以前の栄光に輝くソロモンの神殿に比べれば、自分
たちが建てている神殿は無に等しいほどに見えたか
らだ。彼らには勇み立つ気力が必要だった。
それで、神は「強くあれ。わたしがあなたがたとと
もにいるからだ」と語られた。奮い立つにはどうす
ればよいのか。自分を叱咤激励すればよいのか。
過去の実績を思い起こさせばよいのか。
どのような方法も役に立たない。勇気や気力は神か
ら来る。神のみ言葉から来る。神の前にひざまずき、
へりくだり、神との正しい関係にある時、気力と力
を与えられ、立ち上がる事が出来る。神の真実な御
声に耳を傾けよ。


2001年06月07日(木)

  『ろばの子がいるのに気づくでしょう。それをほどいてわたしのところへ連れて来なさい…「主がお入用なのです」』(マタイ21:2)

  
 今の時代では、ロバはいい意味では使われない。
頑固の人を現す言葉であったり、単調な仕事を「
ロバの仕事」と言ったりする。
しかし、イエス様の時代にはロバは謙遜や穏やかさ
の象徴とされていた。イエス様はロバを用いられ、
エルサレム入城を果たされた。私達も同様に、主が
ご自身のためにロバを用いられたように、私達を用
いて下さる。私達は主をお乗せすることが出来る。
忠実に主をお乗せして、主婦は家庭で、学生は学校
で、サラリーマンは職場で、主を紹介することが出
来る。主は数多くこのような主のロバを必要とされ
ている。ロバはほどかれなければならなかった。
私達も主のロバにされるなら、この世からほどかれ
る必要がある。
それは、この世から出て行くという意味ではない。
この世のまっただ中にあって、私達の心がこの世に
執着しない、私達は主のものであるという意味だ。
主のロバとして用いて頂こう。


2001年06月06日(水)

「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」 (マタイ10:29)

危機一髪という目に会った事がある
だろうか。教会の一人の婦人、家は
築何十年のかなり古いものだった。
る時、リビングから台所に移り、台
所仕事を始めた瞬間に大きな物音に
驚いた。音のしたリビングに戻って
みると、何と天井が落ちていた。も
し、そこにいたらと思うと背筋がゾ
ッとし恐ろしかった。神様の守りに
心から感謝した。決して偶然ではな
い。その瞬間そこにいなかたのは、
神様の御手の守りだった。時々、神
様が奇跡的にご自身を現して下さっ
たら、もっと信じれるのにと思うか
も知れない。しかし、神様は生活の
中にご自身を現わしておられる。こ
んな危機一髪の出来事もそうだし、
小さな日常生活の様々な事柄の中に、
ご自身の恵みと憐れみを表わしてお
られる。神様の日々の配慮はいかに
恵みに富んだものであるか。目がし
っかり開かれ、今日1日の大きな事、
小さな出来事にしっかり神様を見る
事が出来るように。











2001年06月05日(火)

     「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって神の召しによって与えられる望みが…」(エペソ1:18)

     
 私達の祈りを振り返って見ると、目に見えるもの
や事柄についての祈りが多い。物質的な必要、車や
家が与えられるように、職場での対人関係がうまく
行くように、それらは必要であり、祈るべきだ。
しかし、パウロがエペソのクリスチャンのために祈
った時は、物質的なことではなかった。
「こころの目がはっきり見えるようになって」神の
真理がわかるように祈った。
召しによって与えられる望みがどんなものか、
聖徒の受け継ぐものがどんなものか、信者に
働く神の全能の力がどんなに偉大なものか。
これらは重要だ。霊の世界を信仰の目で見れば見る
ほど、目に見える世界の本当の姿が見える。
そして、ちりあくたである、この世のものに執着し
なくなる。目に見えるものよりも遥かに重要である。
心の目で、その豊かさがはっきり見えるように祈れ。


2001年06月04日(月)

      「…比較したりしようなどとは思いません。しかし彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較しているのは、知恵のないことなのです」(Uコリント10:12)


 教会はキリストのからだであり、ひとりひとりは
各器官である。ある人は目、ある人は耳だったりす
る。私達一人一人はどこかの器官である。
その器官が互いに比較しあったらどうだろうか。
「手」は「口」のように言いたい事が言えずに不満。
「口」は「手」のように自由に動けず不満。
足の裏はいつも目立たず不満。「目」は行きたい所へ
行けずに不満。クリスチャンがこのようになると、
体が健全に成長するどころか、あちこちがきしみ、
やがて病気になる。主が一人一人にご計画と配慮を
持って、各部に配置された。一人一人が身体が健全
に成長するために不可欠である。
自らに与えられた役割を忠実に皆がそれぞれの場所
で果たすなら、調和があり栄光が現される。
身体全体は生き生きとし健全に成長して行く。
主が与えられたものであり選り好みは出来ない。


2001年06月03日(日)

「信仰は望んでいる事がらを保証し目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1)

神は時に、奇跡をして祈りに答えて
下さる。しかし、私達が奇跡に心を
奪われる事は望んでおられない。
王室の役人が、病気の息子を癒し
て欲しいと、イエスのもとへ来た時、
あなたは奇跡を見ない限り決して
信じないと、柔らかくたしなめられた。
尚も彼の強い求めに、帰りなさい、
息子は直っていると告げられた。
父親はこのイエスの言葉を信じた。
見ていないが信じた。なぜなら、帰
途についたという行動に表れてい
る。そして、途中でしもべを通して
息子が癒された事を聞く。その時刻
は、イエスの言葉を受けた同時刻
であった。私達は見るところによっ
てでなく、信仰によって歩んでいる
と、聖書は言う。まだ目には見えな
い先に、イエスの御言葉を信じる
事、それが信仰である。信じるとは
目に見えない事を見ることである。
奇跡を見れば誰でも信じる。しかし、
目に見えるところでなく、御言葉を
信じて歩む事こそ信仰の歩み。


2001年06月02日(土)

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい・・父から報いが受けられません」 (マタイ6:1)

神様にもっと仕えたいのに、仕
えられないと、いら立つ事があ
る。夫が未信者であったり、子
供が小さかったり、病気がちだ
ったり、この世の仕事で全時間
取られてしまったり。高齢だ、
目の回るような多忙だと、愚痴
が出て来る。しかし、行動範囲
の問題ではない。私達は手かせ
足かせのように感じて、いら立
つが、実はあなたの信仰の成長
のために制約を与えておられる
人と比較する思いはないか。自
分の評判を気にする思いはない
か。人にどう見られているかば
かり考えていないか。又は、自
己満足のために動いていないか。
神のための奉仕にすら、自己中
心な思いが入り込む。心の動機
を探り、きよめ、成長へと導い
て下さる。人知れず祈った、隠
れた祈りを神は聞き、隠れた献
げ物を神は受け取って下さる。
人は華々しいことには惹かれる
が、神は隠れた場所での、隠れ
た奉仕を見ておられ、報いて下
さる。神を意識することだ。


2001年06月01日(金)

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」(民数記13:30)

主が約束の地、カナンに人々を遣わして、
偵察させよと命じられた。モーセはカナ
ンの地を探りに人々を遣わした。40日
後、その地の偵察から戻った。背の高い
強い民が住んでいて、自分達はいなごの
ようだと報告した。恐れて攻め上れない
と言った。人を恐れると罠にかかる。人
を恐れて、主に従う事をやめてしまうな
ら、それは主を信頼していない事になる。
神の約束、神の力を疑っている事になる。
私達が新しい領域に導かれている時、未
知の世界ゆえに恐れる。しかし、主は主
を信頼して前進する事を望まれる。カレ
ブは他の人々と違って上ってゆこう、主
が必ず助けて下さるから、必ず出来ると
信仰を表わした。私達も恐れる時、何を
見ているだろう。人か、状況か。神を見
つめ、神の約束を握る時、前進出来る。
神を畏れよ。そうすれば、恐いものが何
も無いことがわかる。占領出来る。