2006年09月30日(土) 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み」ヤコブ1:14
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み」ヤコブ1:14
ある時、家にコバエが飛び交い、 殺虫剤で退治するがおさまらない。 食物類も調べるが、尚も飛び交う。 そんな中捜し物をしていて、つけ 物のぬかづけが袋に入ったまま物 入れにあった。それが発生源だと 判明。始末すると、コバエがきれ いに消えた。霊的生活も同様だ。 派生するコバエ=罪でなくて、そ の罪を生み出す内側の原因=肉欲 が問題なのだ。表に出る罪と果て しない戦いをし、悪戦苦闘して疲 れ果て、気力も失せてしまう。そ の罪自体と戦っても、不毛の戦い で解決がつかない。内側の欲望が 問題なのだ。その罪の源にあるプ ライド、虚栄心、妬み、憎しみ、 貪り、高慢、それを探る事が必要 だ。何がその罪を犯させるのか、 何でその状況になるとそうなるの か、その原因が自分の内側の肉に ある。いつも同じ反応が出る、自 分の内に何があるのか。ある人は いつも心がザラつく、その心の奥 に友人に対する妬みが潜んでいた。 認めたくなくて抑え込んでいたの だ。悔い改めて自由にされた。表 面でなく心の底を探ろう。 ・・・・・・・・・・ なぜ、いつもその同じ反応が起き るのか、その根にある欲望は何な のかをよく考えてみよう。妬みか プライドか虚栄心か、自己愛か。 悔い改めて十字架につけて行こう。
2006年09月29日(金) 「善を現わすために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです』ローマ3:8
「善を現わすために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです』ローマ3:8
罪を犯すと、悔い改めるなら 赦されるが、法のさばきに服さ ねばならない。これは当然の事 で、誰も免れられない。対人関 係で、相手と喧嘩をする。 悔い改めるなら、神は赦して下 さるが、傷つけ合ったその修復 と信頼関係の回復にはかなりの 時間がかかるかも知れない。 罪のもたらす傷と害は思うより 大きい。この事はしっかり踏ま えよう。神は悔い改めるなら赦 して下さるのだからと、安易に 考え簡単に罪を犯してはならな い。人間は弱いのだから仕方が 無いと、流されてしまってはな らない。「あなたがたは罪と戦 って・・抵抗したことがない」罪 と戯れずに抵抗しなければなら ない。「祈りながら火の中に手 を突っ込んでも必ず火傷する」 罪を軽く考えてはならない。 必ず火傷し、跡が残り、痛みと 苦しみを招く。安易に考えてい る態度は無いか。罪から守られ るよう御霊に拠り頼もう。 祈っていよう。誘惑は必ず来る が、神は必ず守って下さる。 ------------------------ 罪はいつも私達の目の前にある が血を流すまで闘い抵抗した事 があるだろうか。赦しはあるが、 必ず刈り取りがある。しっかり 祈って神様に頼み勝利していこ う。
2006年09月28日(木) 「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」ヨシュア5:14
「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」ヨシュア5:14
ヨシュアはモーセの後を引き 継いで、リーダーとなり、カナ ンに入った。今からエリコ陥落 に向けて、民を率いて戦いが始 まる。大変なプレッシャーと不 安、恐れ、心配の中にいた事だ ろう。その時に一人の人が抜き 身の剣を持って立った。思わず ヨシュアは「私の敵か味方か!」 と聞いた。自分を助けてくれる のか、それとも攻撃して来るの か。その人は敵とも味方とも言 わず「主の軍の将」だと言った。 これはつまり、私達の信仰生活 は、だいたい自分を中心に考え てしまう。私の信仰・・私の霊 的生活・・。底が厳然と「私」 なのだ。しかし、そうではなく、 主が軍の将であり、主がリーダ ーであり、その主の戦いを助け るのがヨシュアであり、私とい う事だ。「私のための神」 「私の」ではなく、まず神がお られ、「神のための私」だ。 主が将でなく、自分が将となる ので、ありとあらゆる思い煩い と不安に襲われる。自分にかか って来ることになる。主が将と なりあなたの人生を導かれる。 あなたの家庭、仕事、信仰を主 が先に立って導かれる。 ----------------------- 生活の困難や重荷は、日々襲っ てくる。しかし、神様が私の背 後に立っておられ舵を取ってく ださる。自分の生涯のすべては 神様のご計画の一部である事を 覚えよう。
2006年09月27日(水) 「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て』」T列王19:11
「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て』」T列王19:11
イゼベルに命を狙われ、憔悴しきったエ リヤは、「もう十分です。命を取って下 さい」と言った。主を無視した言い方だ。 しかし主はエリヤを回復させようと至れ り尽くせりだ。エリヤはバアルとの大き な戦いをした。その後、命は狙われるは、 あの偶像との戦いは何だったのか、否定 的思いにどんどん捕らわれ心身許容量オ ーバーになって行った。否定的思考は神 を見えなくさせ、自分を追いつめて行く。 ここで大切な事を学べる。信仰生活は神 との関係がすべてだ。神と自分の関係が 正しく、平安な状態にあれば、すべてが 調和を保って行く。周囲との不協和音は、 神と自分との関係が問題だ。私達の常に 第一にすべき事は「主の前に立つ」こと だ。そして主からの細い御声を聞く時、 問題は解決へと導かれて行く。主からの 御声を聞くまで、主の前にとどまろう。 あなたにも、今一番必要な事は、主の前 に立つことだろうか。喧噪の中で静かな 細い御声は決して聞こえてこない。時間 をとって、人と仕事から離れて主の前で 静まろう。 ・・・・・・・・・・・・・ 信仰生活、どうしても必要な事は主の前 に静まる事だ。主を思い、内面を照らさ れ正される。優先順位は大切だ。流され ていたら立ち止まり、静かな時間を取ろ う。
2006年09月26日(火) 「私たちはただちにマケドニヤにへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである」使徒16:18
「私たちはただちにマケドニヤにへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである」使徒16:18
アジアで宣教する事を聖霊に禁じら れ、トロアスに来た時、パウロがマ ケドニア人の幻を見た。その時、今 までの様々な状況をよく見て、判断 し、よく考え、よく祈って、結論を 下したのだ。それは神がマケドニヤ へ導いておられるという事だ。 それははっきりと「確信」に至った。 「私たちは」とあるように、パウロ とパウロの同行者も、皆で一致して、 起こった状況を見て、判断して、祈 り、平安もって至った結論だ。 「確信した」。私達もここで学ぶ事 が出来る。日常生活で、みこころを 求める時に、環境、状況、起こる出 来事をよく見て、祈りと御言葉の中 で、よく考え、判断する時に「確信 した」、はっきり確信に導かれると いう事だ。あなたは今、目の前の事 態をどうすればよいか迷っているか。 どうしてよいかわからないでいるか。 神は必ず「確信」を与え、「確信し て」行動できるようにして下さる。 状況、起こる出来事、祈りと御言葉、 それらを総合し、よく考えて行く時 に、正しい判断に必ず導かれる。 平安を持って「確信して」進んで 行ける。 -------------------- 環境を通し、み言葉を通し、また心 の平安を通し神様は御旨を示して下 さる。迷いがあるなら導きを求めて 祈ろう。時間がかかっても必ず神様 は確信を与えて下さる。
2006年09月25日(月) 「そこで、ナアマンは・・神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に7度身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって」U列王5:14
「そこで、ナアマンは・・神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に7度身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって」U列王5:14
ナアマンは、エリシャの言葉に 怒った。自分の思い通りでなかっ たからだ。神に従うのでなく、神 を自分の思い通りに動かし、神を 従わせたい。エリシャを訪れたの も、彼を通して神を動かしたかっ たからだ。エリシャが将軍の地位 にある彼を無視して、迎えにも出 ず、汚いヨルダン川で身を洗えと 言われて、プライドがひどく傷つ いた。癒しにすらプライドが関わ って来る、これが人間の罪の姿だ。 これこそエリシャが問題にした事 だ。このナアマンのプライドを砕 くために、エリシャはあのような 方法を取った。人間は自らをいっ ぱしと思っている。神に要求し、 神を従わせようとするような者だ。 しかし、彼が自分を通さず、家来 に耳を傾け、へりくだってエリシ ャの言う通りにした時に、きれい に癒された。プライドを捨てて御 言葉に従う時、癒しを経験する。 あなたも今、同じような状況にあ るか。プライドが妨げているなら、 そのプライドを捨てて、へりくだ ろう。大きなみわざを見る。 ------------------------- 神様と自分の間にあるものは何だ ろう。まっすぐに神様に向かえな い自分の心の中には、醜い自己中 心の自分の声が満ちていないだろ うか。自分の声ばかり聞いて生き ていないだろうか。
2006年09月24日(日) 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍・・」マタイ13:23
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍・・」マタイ13:23
種まきのたとえは、大勢の群衆に語ら れた。4つの土地に蒔かれた種に、4 つの結果が出た。しかし、その解き明 かしは、弟子達だけにされた。つまり、 御言葉を蒔く側に解き明かされたわけ だ。蒔いたすべての種が、実を結ぶわ けではない事が明かされている。心が 固ければ、御言葉が全く入らず、跳ね 返るし、感情的に感動して聞いても、 固い自我があり、その内、試練が来る と身を引いてしまう。自分が安泰な限 りの信心だ。又、この世の煩いや富の 誘惑に陥るとせっかくの芽が枯れてし まう。種は蒔けるが、その人の心はそ の人自身のもので、人はどうも出来な い。その中から必ず何倍もの豊かな実 を結ぶ土地がある。正しい良い心で御 言葉を聞き、しっかりと守り耐え実を 結ばせるのだ。良い土地とは耕された 地だ。すきやくわで、土が掘り起こさ れ、どんどん耕される。固い頑なな心 が砕かれる事だ。頑固な心が砕かれて 柔らかい、素直に御言葉を受け入れる 心にされる。同時に御言葉自体が、実 を結ばせて行く。 ・・・・・・・・・・・・・ 蒔いたすべての種が実を結ぶわけで はない事は厳粛な事実だ。土地の問 題がある。自分の心はどうだろう。 主が心を耕し、柔らかい素直な心に される。すきやくわの砕きを受け入 れよう。
2006年09月23日(土) 「ヨナは主のみ顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3
「ヨナは主のみ顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3
ヨナはニネベへ行けとの神の命令が不 服だった。なぜあの宿敵のもとへ。丁 度そこに好都合に反対行きの船があっ た。それに乗って逃れた。嫌な事は避 ける事が出来たが、結局、それは主の 御顔を避けてしまう事になる。信仰生 活には、嫌な事、したく無い事、避け たい事があるものだ。肉は逃れてしま いたい。しかし、信仰生活のすべてが、 神の配剤の中にあり、必要ゆえに与え られている。それを通して、プライド、 虚栄心、頑なな自我を砕き、成長させ ようとのご計画がある。自我の固い殻 があり、したい事だけをしたいものだ。 放っておかれると、自分の好きなよう に生きてしまう。逃げるなら成長を逃 してしまう。今、あなたの目の前に、 逃れたい事態があるか。ヨナは自分中 心にしか見ていないため、神の心がわ からなかった。しかし、自らの自我に 気づき、悔い改めて、主の器として用 いられた。事態から逃れて、主の御顔 を避けるか、それとも向き合って主に 従うか。私達の選択だ。 ・ ・・・・・・・・ 状況から逃れ、問題から逃げる事は主 の御顔を避ける事だ。嫌な事を避けて いると主を避ける事になり、祝福も成 長も逃す事になる。逃げたい問題が目 の前にあるなら、逃げずに従おう。そ こで神に出会い神を知れる。
2006年09月22日(金) 「なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」ガラテヤ2:16
「なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」ガラテヤ2:16
プライドは、救い、又、霊的成長の ために大きく私達をはばむ。御言葉 は、人は救いのために何一つ出来な い。罪ある者として主のもとに来て、 十字架の贖いに拠り頼まなければな らない、と言う。これを人間のプラ イドは受け入れられない。 自分の一切が否定されてしまうから だ。まず、罪人などと受け入れ難い。 認める事はプライドが許さない。 プライドゆえに救いを受け取らない 人は多い。この世は性善説だ。 人間は本来善であり環境が悪い、そ の環境を何とかして善いところを伸 ばして行けば、神のようになれると 考える。人々は良い人間になろう、 自分を高めようと懸命に努力する。 しかし、その努力は神に受け入れら れない。そんな培われた古い価値観 が根深くあり、恵みによって救われ た私達も、恵みは救いまでで、その 後は律法を行おうと自力で懸命に努 力する。私達にも根深いプライドが あるのだ。罪は認めるが、ひとかど の人間だと思っている。人よりもま しだと。どうしようもない罪人だと は惨めで思いたくない。又、自分の 頑張りを評価されたい。しかし、こ のプライドを捨て、神に頼る事が救 いだ。 --------------- 朝毎に無力な自分を認め、祈りを もって御言葉にたより歩みだそう。 自我は隙あらばむくむくと顔を出す。 知らぬ間に孤軍奮闘の泥沼に落ち込 まぬよう。
2006年09月21日(木) 「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼をいだき」ルカ15:20
「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼をいだき」ルカ15:20
彼は莫大な父の遺産を湯水のごとく 無駄にした。しかし彼が無駄にした のは富だけでなく、自分自身をもだ。 自分を損ない傷つけボロボロにして しまった。自分のした事であり、す べて自分の責任だ。彼はどん底まで 行き絶望した。どんなに自分が無力 で惨めで裸であるかを思い知った。 実は皆そうなのだが、様々なもので 自分をだましだまし生きている。 自分の惨めさを認めたくないので、 仕事、愛する人、趣味、あらゆるも のに走り、心を埋めようとごまかし ている。自分ではどうにも出来ない 壁にぶち当たった時に、初めて自分 の本当の姿を知る。弟の帰還で兄の 心もあらわになった。初めからあっ たものが現われ出たのだ。 マザー・テレサが「本音に気づいた。 私が愛していたのは、他人ではなく、 他人の中に実は自分を愛していた事 実に」と。惨めで哀れで裸である事 実を人は知らないまま生きている。 目が開かれてそれに気づく事から始 まる。自分の惨めさを知った時に、 かわいそうに思い、走り寄って抱い て下さっている神を知る。 ------------------ 醜い自分、汚い自分を認めていける のもすべて神様の憐みだ。何も学べ ず、何も認めない者に何の未来があ るだろう。本当の自分の姿を知って 、更に深く神様を知って行けますよ うに。
2006年09月20日(水) 「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」ルカ1:30
「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」ルカ1:30
私達は神の恵みに、尻込みしないだろうか。 「私なんて、とんでもない」「私になど出 来ない」「私なんて・・」と、新しい仕事、 新しい奉仕、新しい領域に進む時に、自分 には力量が無い、自分はふさわしくない・・ と卑下して退いてしまう。しかし、神の恵 みだと、恐れる事はないと言っておられる。 そして、「どのようにして、そんな事が」 の答えに「聖霊があなたの上に臨み」と、 自分の力でなく、聖霊によってだと言われ る。「権力によらず、能力によらず、わた しの霊によって」だ。あなたに、今、新し い場所、新しい立場、新しい働きがあるか。 それは神の恵みであり、「主のはしためで す。あなたのおことばどおりこの身になり ますように」と主に身を委ねる事だ。不可 能が一つもない主が成し遂げて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・ 目の前の一つ一つのなすべき事、働き、そ れは神の恵みだ。自分がするのでなく「聖 霊によって」だ。私のすることは「この身 になりますように」と余すところなく明け 渡すこと、今日も恵みのまっただ中だ。
2006年09月19日(火) 「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」ヨハネ21:4
「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」ヨハネ21:4
主を裏切ったペテロの心は暗たんと したものだった。深い痛みと虚しさ の中にあった。暗く重い心でなすす べなく、かつて捨てた網を取り、漁 に出たが一匹もとれない。惨めで無 力でどん底だった。そんな時、主の 方から語りかけが来た。 「食べる物がありませんね」正直に 自分の状態を認めて告げた。「はい、 ありません」これがいつも回復への 秘訣だ。自分には無い事を、主の御 前に正直に認める事だ。愛が無い、 真実が無い、能力が無い・・。 その時「右側に網をおろしなさい」 との指示が来た。彼らはその通りに 従い、網を下ろした。すると網が引 き上げられないほどの大漁だった。 主の語られる御声に従う事が大切だ。 無力で構わない。御声に従う時、神 の力が臨み、みわざを見る。主の方 からご自身を現わし、ペテロを回復 させて下さった。「主よ。あなたは いっさいのことをご存じです」と、 ペテロはいっさいを、何もかもを主 に明け渡した。このペテロを聖霊に 満たし、宣教のために立てられた。 ----------------------- 自分の力を放棄し、肩の力を抜いて 素直に主に向き合うなら無力な自分 を認める事が出来る。空の自分の中 にはかり知れない主の恵みが、ひた ひたと満ちて来る。
2006年09月17日(日) 「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」エステル4:14
「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」エステル4:14
エステルは王妃となり、危機に黙ってい れば、命は助かり地位も安泰だ。しかし、 彼女は同胞を救うため、命をかけて王に 民の救いを求めた。エステルを通して学 ぶ事が出来る。捕囚の民として異国で生 まれたのも、王妃になったのも、この時 のためかも知れない。私達も、生い立ち、 成育歴がどんなものでも、今に至るまで の過程は神の摂理であり、ご計画だ。今、 どのように思い通りでない場所であって も、困難な現実であっても、今の場所で 神の御心があり、計画がある。今、置か れた所であなたの使命がある。エステル は大変難しい状況で、死を覚悟して、自 分自身を全く明け渡した。その明け渡し たエステルを、神はユダヤ民族の救いの ために用いられた。危急の事態が起きた 時、方策や解決手段を捜し回る。しかし、 方法ではなく、神が全く明け渡した人を 通して、ご自身のみわざをされる。今の 場であなたの使命がある。今の場所が、 神が遣わされた場所だ。 ・・・・・・・・・・・・・・ 今の場所が、神から遣わされた場所と 信仰によって再認識しよう。その時、神の 特別なご計画が見えてくる。今の場で用 いられる。神は必要とされ、私達にとっても 喜びだ。
2006年09月17日(日) 「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」ルカ12:21
「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」ルカ12:21
懸命に働き大成功し、財産を築き、安泰に 過ごそうとする農夫。農業に携わり、大豊 作をもたらすこの農夫は賢かっただろう。 しかし、神は「愚か者」と言われた。どこ が愚かだったのか。まず、彼は神を信じな い人であり、彼の人生に神は無かった。収 穫物も財産も時間も才能も、すべてが自分 のものであった。そして、莫大な財産を得 ても、貧しい人の事をこれっぽっちも考え る事がなかった。徹底して自己中心であっ た。彼の拠り所は富であり、物であった。 倉庫満杯の財産にもう安心だと言ったが、 彼は大きな勘違いをしていた。物は自分の ものだと思っていたが、自分の命は神の 手に握られていた。地に幾ら蓄えても、 天への備えをしなければ愚かだ。いのちは 財産にではなく霊にある。神の前に富むと は、神を信じ、神に喜ばれるように富を、 時を、命を用いる事だ。あなたのいのちは、 心は、今どこにあるだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 心は今、地のものにあるか、天にあるか。 そして中途半端が一番惨めで虚しく決し て満たされない。心を天に向け、宝は天に 積もう。「宝のあるところに心がある」宝を 天に積むなら、心がそこにあるようになる。
2006年09月16日(土) 「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい・・耐え忍んだ人たちは幸い」ヤコブ5:10
「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい・・耐え忍んだ人たちは幸い」ヤコブ5:10
人生で私達は大きな小さな様々な苦しみに 会う。必ず苦しみがあり、御言葉もはっき り言っている事だ。それにどう向き合うか が大切であり、苦難にあっては耐え忍ぶ事 が重要だ。苦しみにも種類があり、★ヨブ の理由のわからない苦しみ★善を行ってい て尚受ける不当な苦しみTペテ2:19★訓練 としての苦しみヘブル12:7★自分の罪ゆえ の苦しみ★主のための苦しみピリピ1:29 がある。あなたの今の苦しみはどれだろう。 自分の罪が原因で招く苦しみは、罪を悔い 改めるべきだ。その苦しみは罪を知らせ、 悔い改めに導くために送られている。そし て蒔いたものを刈り取って行く事が祝福の 道だ。他の苦しみでの御心は忍耐する事だ。 その苦しみを通して、私達は練られ、鍛え られ、聖められる。その苦しみにより霊的 に必ず一段階成長する。霊的成長があなた の一番の望みではないか。あなたも今、苦 しみがあるか。罪があれば悔い改め、無け れば忍耐する事が主のみこころだ。必ず平 安な実を見る。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 罪があれば神に悔い改め、対人なら相手に きちんと謝罪しよう。罪が無いのに来る苦 しみがある。更なる成長のため、人格を主 に似たものに変えるためだ。忍耐とは主が 必ず良くして下さる事を信じる事だ。右に も左にもそれず良くして下さる事を堅く信 じよう。
2006年09月15日(金) 「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」マルコ14:8
「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」マルコ14:8
これから主が十字架にかかられる 事を悟っていたマリヤは、主のた めに、自分の出来る精一杯の事を した。結婚の時のためにと、今ま でとっておいた非常に高価な香油 を惜しげもなく注ぎ出した。 マリヤの主への愛だ。献げ物は主 への愛の表われだ。今、自分に出 来る事をすれば良いのだ。 自分になしうる感謝を精一杯表わ せばよい。私達はよく思う。 もっとお金ができたら献げるのに、 時間ができたら献げよう、状況と 環境が変わればもっと献げられる のだが・・。しかし、そうなっても 献げない。2レプタ献げた貧しい やもめは模範だ。人々から見れば ほんの僅かなお金だが、主は誰よ りも多く献げたと言われた。 今、自分に出来ることを、主への 愛を込めて、お献げしよう。 献金でも奉仕でも、今、自分に出 来る事をすればよい。主は受け取 って下さる。 -------------------- 主が喜ばれる事は何だろう、今自 分に出来る事が必ずあるはずだ。 それさえ主が教えて下さる。主を 愛する動機があるなら、今すぐ祈 ってみよう。
2006年09月14日(木) 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10
この「やめよ」の意味は、他の訳 では「静まって、わたしこそ神で あることを」になっている。 「静まって」という意味は、言葉 を発せず、黙ってという意味では なく、自分で立ち、動き回るなと いう意味だ。人間的な力に頼るな という事だ。危急の時、突然の事 態発生の時、どうするだろう。 まず驚き慌て、パニックになり、 自分を救うための、できうる限り の対処をし、その後、神を思い出 すだろうか。又は、神に祈る事は 祈るが、対応は自分の力でしてい るか。又、すべてを委ねてのつも りだが、後ろの橋を焼き尽くせず、 万一の場合の逃げ道を残している か。結局は全部自分の力でしてい る事になる。目に見えないものを 信じるのは勇気がいる。今一度よ く静まって、自分の心を探ってみ よう。本当は何に頼っているのだ ろう。人は被造物なので、必ず何 か頼らねば生きて行けない。 もし神に頼らなければ、自分か人 か物に頼る事になる。正しく神に 頼ればどんなに幸いだろう。その 時、神が神であられることを真に 知って行く。 ------------------ 何に依存して生きているのだろう。 人は苦しみ、ストレス、さみしさ から解放されたくて解放してくれ るものの奴隷となって行く。神に 依存して行こう。頼るなら必ず最 善の助けが来る。
2006年09月13日(水) 「『わたしに何をしてほしのか』と尋ねられると、彼は『主よ。目が見えるようになることです』と言った」ルカ18:41
「『わたしに何をしてほしのか』と尋ねられると、彼は『主よ。目が見えるようになることです』と言った」ルカ18:41
一人の盲人が、主が通られる時に「私をあ われんで下さい」と大声で叫んだ。周囲の 人々がたしなめたが、決して止むことなく、 ますます大声で叫び立てた。主はその声に 立ち止まられ、何をして欲しいのかと聞か れた。盲人なので、目が見えるようにして 欲しい事は、見るとわかるのだが、主はあ えて、何をして欲しいのかと尋ねられた。 盲人が主イエスを求めた。盲人の目は開け られた。たしなめられた時、諦めて黙って しまったならどうだろう。主は求めを待っ ておられる。諦めないで、叫び続ける事を たしなめるのでなく、喜んで下さる。主が 求めておられるのは、あなたの「求め」だ。 あなたの能力、力でなく、あなたの「求め」 を求めておられる。盲人が癒されたのは、 何かしたからではない。何も出来なかった。 今、問題があるだろうか。ネガティブにな って落ち込んでいるか。相手を責め、環境 が悪いと不満を持ち、相手や環境を変える ことばかりに悶々としているか。方向違い である事に気づき、「わたしに何をしてほ しいのか」と、目の前におられる主に、 「〜〜ようになることです」と、求めをは っきり告げて行こう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「求め」がないと、神はわからない。必要が ない時、神が見えない。自分の問題は求め が無い事、神無しでやって行ける事だろうか。 「わたしに何をしてほしいのか」と、目の前 の主に何と答えるだろう。
2006年09月12日(火) 「それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました」詩篇143:4
「それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました」詩篇143:4
心が衰え果てることがある。ストレスが続い て許容量オーバーになったり、又、対人関係 で傷ついたり、問題に苦しんだりする時だ。 こわばるとは、心の余裕がなくなる事だ。 普段ならどうもない事が、心に全く余裕が無 いので受け入れられない。心がすさんで、ピ リピリし、いらいらし、とげとげしくなる。 人の言葉や態度にネガティブな反応しか出来 ない。人に腹が立って仕方がない。又、それ が自己嫌悪になり、ますます落ち込んで行く。 これは霊的補給ができていないので、ゆとり を失っている状態だ。ダビデはこの後、昔の 日々を思い出し、神のなさったすべての事に 思いを巡らすことにより、再び引き戻され、 引き上げられている。今、あなたがイライラ し、余裕が無いなら、同じようにすればよい。 霊的補給が必要なのだ。今までの沢山の恵み と感謝を思い出してみよう。今生かされてい る事、与えられている恵みに目を留めよう。 神に心を向けよう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 自分の居場所、視点一つで明暗が分かれる。 ネガティブになると全く祝福が見えない。 満ち満ちているのに自分には見えない。神 に焦点が合うと見えて来る。喜びが来る。 心はどうだろう。霊的補給が必要だろうか。
2006年09月11日(月) 「あなたの主人のもとへ帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」創世16:9
「あなたの主人のもとへ帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」創世16:9
子供のできないサライは、女奴隷 ハガルによりアブラハムの子を得 ようとした。肉は良い考えだと思 えた。アブラハムも承知した。 しかし、ハガルに子供ができた時、 ハガルは優越感でサライを見下す ようになった。肉でする事は必ず 問題を引き起こす。予想に反する 事態にサライはハガルをいじめた。 ハガルは辛くて荒野に逃げた。 しかし御使いが現れ、サライのも とへ戻って仕えるよう、子孫を大 いに増やすことを告げた。 ハガルとイシュマエルにすれば自 分で選んだ道ではない状況に置か れた。これは彼らの責任ではない。 しかし、状況に責任はないが、そ れに向かう態度と行動は自らの責 任だ。神は彼らを顧みられた。 サライによる教訓は、肉の判断、 決定は必ず問題と悩みを引き起こ す事だ。人間的にこれは最善と思 える方法が、必ずしも御心なので はない。又、親しい人の肉の助言 が罠になり、そこから大きく道が それる事がある。聞くべきはまず 神であり、判断と決定の際には必 ず祈ろう。神に導きを求めよう。 --------------------- 自分の経験や強い思いが行動の原 動力となるのは自然だ。だからあ えて、日常のささいな事でも御心 尋ねながら歩まねば、すぐに道を はずれて行く弱い者だと覚えてい よう。
2006年09月10日(日) 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」エペソ4:26
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」エペソ4:26
「怒れ。しかし罪を犯してはならない」とい う意味だ。正しい怒りがある。主はパリサイ 人の偽善に、又神殿が商売の場とされている 事に怒られた。悪や罪を憎まなくては、神を 愛する事は出来ない。正しい怒りと自我から 出る怒りがある。では、怒りはどのように対 処すればよいのか。まず、自分の怒りを認め る事だ。怒っていない「振り」をしてはいけ ない。クリスチャンだからと、自分の怒りを 認めない事がある。次にその怒りの原因をよ く考えてみる。なぜ怒っているのか。自我に、 プライドに触れるからか。神のため人のため の怒りなのか。そして、怒りはそのまま表現 してはならない。感情的なままで人に対応す ると、相手も傷つけ必ずひどく後悔する事に なる。自分の怒りを抑え込む事も、逆に爆発 させる事もよくない。まず人ではなく神の御 前に行き、ことごとく怒りを神に告げる事だ。 そして、もしきちんと気持ちを相手に告げる よう御霊から導かれる時は、心を整えられて そうすべきだ。 ・・・・・・・・・・・・・ 自我から来る怒りに要注意だ。その怒りをまず 一番に主のもとに持って行こう。自我の怒りに、 肉の衣を着せると、表現を許すと、とんでも無 い事になる。まず主にことごとく告げるなら、 冷静になれ、自制が与えられる。
2006年09月09日(土) 「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
なぜ、あの失望落胆、絶望で、主が見えない 弟子達の心が燃えたのだろう。主ご自身が語 り、教えて下さったからだ。彼らは主の語ら れる御言葉に聞き入った。すると、御言葉に 目が開かれ、心が赤々と燃やされた。主を知 りたいという願いが起き、別れ道に来た時に、 無理に、せがんで一緒に泊まるよう願った。 これは「求め」だ。主に求めた。家に入って 頂くとは、心開く事だ。心開いたので、主が ご自身を現して下さり、生きておられる事が わかった。失望と復活を信じない不信仰で、 さえぎられていた目が開かれた。不信仰が信 仰に変えられたのだ。話し合い、論じ合いっ ていた彼らは知識は充分にあった。幾ら聖書 知識があっても、信じなければ決して主は見 えない。今、落胆で不信仰に陥っているか。 今、この時も主はあなたのすぐ横におられる。 心開いて、御言葉を今一度信じてみないか。 ・・・・・・・・・・・・ 主との間をさえぎっている自分の不信仰や 頑なな心、閉じた心に気づけるように。主は 今日も、この瞬間もかたわらにおられる。自分 が問題だ。気づく時に目が開かれて行く。良く して下さっている主が必ず見えて来る。喜びが 出て来る。
2006年09月08日(金) 「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18
「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18
弟子達は目がさえぎられていた。 かたわらを歩いておられる方が主 イエスだとはわからなかった。 なぜ、わからなかったのか。御言 葉によると「信じない、心の鈍い 人たち」とある。不信仰が目をさ えぎっていたと。復活を信じない 彼らは、主が死んでしまい深い失 望と落胆の中にあった。悲しみも あった。私達も失望の中にいる時、 主が見えない。「失望」とは主に 期待を向けない、主を見限った不 信仰だ。不信仰は私達の心をふさ ぎ、主を見えなくする。 又、「自己憐憫」は自分の殻にこ もり、主を排除するので、ただ見 るのは自分だけだ。又、「不安」 も目がさえぎられる。思い煩いに 支配され、心配の山だけが見えて、 主が見えない。「多忙」も目の前 の事柄に心が捕らわれ、主を認め る事をさせなくする。あなたも今、 目がさえぎられているか。障害物 に気づき、悔い改めよう。それを 取り除けて頂こう。今もあなたの あなたのかたわらに主がおられる。 -------------------- 何に目をさえぎられているのだろ う。このことも主の憐れみなくて は示されなけれない。かたわらに おられるはずの主が遠くに感じら れる時、不安や焦燥感にかられる 時、主に求めて真に自由になろう。
2006年09月07日(木) 「この世と調子を合わせてはいけません・・神のみこころは何か・・何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために」ロマ12:2
「この世と調子を合わせてはいけません・・神のみこころは何か・・何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために」ロマ12:2
信仰生活において、なぜ日々 みことばが必要か。この世で 生きている私達は日毎にこの 世の価値観に襲われ、さらさ れ、攻撃を受けているからだ。 意識するとすまいと凄まじい 影響下にいる。全く正反対の 価値観だ。この世は地を目指 し、自らの判断と知恵を根拠 に自分の栄光のために生きる。 私達は天を目指し、御言葉を 根拠に神の御心を行い神のた めに生きる。サタンは価値観 の部分に影響を与え、巧妙に 誘惑を仕掛ける。価値観にさ え働けば簡単に行動を操作で きる。御言葉や祈りから離れ ると、クリスチャンもすぐ自 分の損得、自分の賞賛、自分 の欲望、自分の都合のために 生きてしまう。根深い古い性 質があるからだ。御言葉がど う言うかでなく、自分の判断 で行動してしまう。御言葉は その自我や肉の判断に日々気 づかせてくれる。軌道修正し てくれる。日々御言葉に触れ、 御言葉によって自分の考え方 が変えられて行く。 ----------------- 朝のはじめにデボーションに よって御言葉に耳を傾け歩み はじめよう。自分のためだけ 生きて、自分の価値観で生き ている人達に囲まれる前に、 しっかり私達の価値観を確認 し祈り今日も守られますよう に。
2006年09月06日(水) 「あなたのみことばは、わたしの足のともしび、わたしの道の光です」 詩篇119:105
「あなたのみことばは、わたしの足のともしび、わたしの道の光です」 詩篇119:105
信仰生活の中で、悩みや苦しみ、困難 に出会う。悶々とし、真っ暗闇の中に いるように感じる。何がどうなってい るのか、わけがわからない状態だ。そ の混乱状態の原因の一つには、「みこ とば」を真剣に、信仰生活の指針とし ていないところにある。自分の思いで 右往左往し、動き回る。ああでもない、 こうでもないと思い煩う。しかし、幾 ら思い煩ったところで答えは出ない。 真っ暗闇の中では方向もわからず、動 きようがない。暗闇で必要なのは光だ。 ろうそくや懐中電灯があれば、暗闇の 中でも、足もとを照らされ確信もって 進める。暗闇の中でも、光さえあれば 大丈夫だ、歩ける。私たちに無いのは その光だ。もし、今、悩みの中に、問 題の中にいるなら、「みことば」を真 剣に、本気で求めよう。御言葉により、 神のみこころが解き明かされ、明確な 指針が示される。進むべき方向がはっ きりわかる。その示された指針に、従 おう。日々の生活で、みことばをおそ ろかにしていないか。信仰の成長のた めに、御言葉に根づく事が重要だ。 ・・・・・・・・・・・ 御言葉により、神のお心がわかる。御 言葉は光だ。心の中も動機も照らし出 され、又、足元も照らされ、どの方向 へ進むべきかがわかる。目の前の問題 に神はどう思っておられるのか、御心 を求めよう。
2006年09月05日(火) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
心に否定的な、歪んだ思いが湧 くなら、サタンの攻撃だ。 自分の思いでなく、サタンに吹 き込まれた思いだ。よく見分け よう。ある婦人が、近所の女性 と交わりたいと願った。お茶に 誘うが、乗って来る気配がない。 親しくなりたいのに、相手はそ うでもなさそうだ。段々否定的 思いが心にふつふつと湧く。 自分を嫌いで避けているのでは。 疑心暗鬼になって来る。こちら も避けるようになった時、突然、 サタンだと気づかされた。 無いものをあるものに、あるも のを無いものに、自由自在に思 いを吹き込んで来る。それは妄 想だ。話す機会があり、彼女は 全く友好的であり、何の悪意も 無く、彼女のどちらかと言うと 淡泊な性格によるものとわかっ た。疑心暗鬼がきれいに消え、 平安に満たされた。サタンは無 いものを吹き込む。否定的思い は、肉に来ているサタンからの 誘惑、攻撃だ。拒否すべきだ。 今、サタンの思いが来ていない か。気づけるように。 ------------------------- 気づくとサタンと会話している 事がある。ある事ない事吹き込 むサタンに立ち向かおう。疑心 暗鬼は信仰の真逆、御霊様から の思いは常に平和と愛、喜びに 満ちている。
2006年09月04日(月) 「あなたは右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。歩め。」ということばを聞く」イザヤ30:21
「あなたは右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。歩め。」ということばを聞く」イザヤ30:21
神は私達に、語りかけられる。 ご自身のみこころを示され、私 達の行く道を導いて下さる。 どのように語りかけられるのか。 @御言葉を通して語られる。進 むべき道を、説教や学びや、デ ボーションの中で御言葉により 導かれる。A御霊により語りか けられる。祈っていて、あの事 はあのように、この事はこのよ うにとの、志やアイデアが与え られる。B指導者や他の人々の 助言を通して語られる。助言者 により勝利を得るC環境を通し て語られる。御旨ならば必ず門 が開かれる。自分で開くのでは なく、神が開かれる。門が閉ざ されたなら、御心ではない証拠 だ。導きを求める時は、よく祈 り、耳を澄ませていよう。 神は御心を示される。御心は一 つだ。御言葉と内なる平安、環 境と助言、それらが必ず一致す る。 ------------------------ 明日の事を知ることは私達には 許されていない。だから御心を 求めて祈る。けれど自分の思い が強すぎるなら相変わらず、明 日は闇のままだ。自分の思いを 捨てて神様に従い、耳を澄ます なら明日の一歩が見えてくる。
2006年09月03日(日) 「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて・・水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘った」エレミ2:13
「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて・・水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘った」エレミ2:13
イスラエルが、神に頼る事をしないで、神 を捨てて、自分の力で水ためを掘った。神 に自らを明け渡す事、人生を委ねる事が出 来ない。神をそこまで信じる事が出来ない ので、その結果、自分の判断、知恵、自分 の力で歩まねばならなくなる。神が悲しま れる悪だ。水が必要なのであれば、神に求 めれば良い。神に祈れば良い。神は湧き水 の泉だ。神が与えたいと思っておられる。 何か事が起きた時、私達の姿ではないか。 焦って、自分を守るために、自分のために 掘る。思い煩い、不安で何かしなければ落 ち着かず、動き回る。しかし、神は、わた しが湧き水だと言われる。わたしがする、 あなたの必要のためにわたしが動く、と。 それを「信じない」事が、湧き水であるわ たしを捨てる事だと。自分で自分の必要を 管理し、信仰を守ろうとするので、疲れ果 てた苦しい信仰生活になる。自分で掘らず に、湧き水である神にどこまでも信頼して 行こう。 ・・・・・・・・・・・・ 自分の力で歩む事は、主を捨てる事だ。自分 で歩む事はストレートな罪に見えないので中々 わからない。壊れた水ためを懸命に掘って、疲 れていないか。湧き水のもとへ行こう。
2006年09月02日(土) 「私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです」Tコリント11:32
「私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです」Tコリント11:32
もし、幼児がストーブを触ろうとしたら、 親はバシン!と力一杯叩いて、手を払いの ける。次に決して触れないようにと、かな り痛い思いをさせるだろう。幼児は恐くて 痛くて大泣きをするが、やけどから守られ る。痛いので今後近づかなくなる。これは 親の憎しみではなく、愛だ。主の懲らしめ も同じだ。その時は必ず痛い、悲しく、苦 しみが伴う。しかし、それは主の愛であり、 私達のためだ。もし、放任されたなら、そ のままストーブに手を突っ込み、どんな大 事に至るだろう。今、主の懲らしめがあな たに来ているか。大きな危険からあなたを 守るためだ。又、間違った道から戻される ためであり、聖めるためだ。何度、痛い目 に会わせられ、自分の道を行こうとする高 慢から守られた事だろう。自分でどうにも ならない頑なな心が、懲らしめにより砕か れ柔らかくされて来た。懲らしめは大きな 益で、愛だ。 ・・・・・・・・・・・・・ 御心でない道に進んでいて、自分では良か れと思っているので、わからない。主がス トップをかけて下さるのは愛だ。日常で大 きな事、小さな事に主の阻止を認め、方向 変換しよう。安全で平安な御心の道へ導い て下さる。
2006年09月01日(金) 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71
普通は「苦しみに会った事は、 私にとって不幸せでした」だ。 しかし、「幸せ」だったと言っ ている。なぜ幸せなのかは、 「あなたのおきてを学んだ」か らだ。苦しみの中でこそ、私達 は神に近づき、神を知るからだ。 神の私個人への愛や慈しみ、ご 計画を、神がまことにおられる 事を経験的に知る。今まで気づ かなかった、本当に大切なもの に気づく。方向違いに向かって いた歩みを、軌道修正させられ る。もしあの苦しみが無かった なら、迷い出ていたかも知れな い。ある人が、神が自分を信頼 しておられるから、この苦しみ が与えられた事がわかった時、 苦しみを乗り越える力が湧いた、 その時、喜びに変わったと証し している。神の真実を知るのは 苦しみの時だ。ある人は試練を 経て、謙遜で柔和な、砕かれた 人になり、ある人はとげとげし い冷ややかな人になる。試練へ の私達の態度一つだ。後に必ず 幸せだったと言える。受け入れ て学ぼう。 --------------------------- 主のくびきを負って、主から学 ぶことが成長だ。環境や人のせ いにして苦しみを乗り越えたと しても神様を知ることができな いならストレスだけ痛みだけが 残る。大切な成長の場をしっか りと受け入れていこう。