2006年10月31日(火)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6



日常生活、様々な事が起こる。
「え?何で!」と理解に苦しむ
ような事、不意の出来事、大き
な事小さな事、色々だ。人生で、
神は何一つ無駄な事はされない。
意味の無い事もされない。
一つ一つに主は意図を持ってお
られ、しようとしておられる事
がある。一羽の雀さえ父のお許
し無しに地に落ちないし、頭の
毛がみな数えられている。
あるクリスチャンが念願の医学
部に合格し、意気揚々と学生生
活が始まった途端、結核が発覚
した。失意落胆で不幸のどん底
に落とされたようだった。
結局2年間休学し療養した。し
かし、医師として立った時に、
その意味がわかった。患者の痛
みがわかるのだ。自ら病んだゆ
えに、病む者の気持ちが理解で
きる者とされたのだった。
医師として技術と共に大切なも
のを備えられたのだ。あなたも
今、理解できない困難の中にい
るかも知れない。しかし、主は
しようとしていることを知って
おられる。信じていよう。
-------------------
神様は、いたずらに苦しみだけ
を与えられるようなサディスト
ではない。すべてを益として下
さるのだ。試練の中を信仰もっ
て歩んでいこう。これはご計画
の中だ。


2006年10月30日(月)

「それで女はその実を取って食べ・・夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」創世3:7



禁じられていた、善悪の知識の木
から食べた二人は、目が開かれて、
善悪を知るようになった。そして、
霊が死んだ。つまり神との交わり
が絶たれ、神から独立して善悪を
自分で判断できるようになった。
今まで無かった恐れと恥が臨んだ。
罪を選んだ人間は、神を捨て、神
無しで生きるようになった。
善悪は判断できるが、しかしその
判断した善を行う力は無い。
悪魔の欺きであった。肉とは、神
無しで生きることだ。神によらな
い生き方だ。何か高尚に見えるも
のが霊で、低俗なものが肉なので
ない。むしろ、肉は決して、醜い
ものではなく、魅力的で、尊敬で
き、貴重なものに見える。
賢く、感性豊かで、揺るぎない意
志であり、立派に見える。
よく気をつける必要がある。霊と
肉はどこまでも神との関係である
ゆえ、人間的判断をすると間違う。
肉とは御霊に頼らないで、自分の
判断と力で生きて行く事だ。
どんなに麗しい、素晴らしいもの
でも神によらないなら、肉だ。
------------------------
神なしで自分の努力でやっている
ならそれはしょせん肉だ。自分が
ほめられたい。今週も御霊様に助
けられ、満たされて御霊の実を選
択して行こう。


2006年10月29日(日)

「わたしの恵みは、あなたに十分である」Uコリント12:9

いつも不平不満を言っている人がいる。
そんな人はどんな環境にいても不満が
出て来る。「あの口うるさい上司さえ
いなければ」「なんと忙しい、もう少
し時間さえあれば」「相手がもう少し
配慮してくれれば」「身体が弱くさえ
なければ」・・不満を捜し出してはつぶ
やく。しかし、完璧な環境にいる人な
ど一人もいない。状況のみを見るか、
神に焦点を当てて、状況を見るかで、
大きく変わる。神に焦点を当てる時、
文句を言うのでなく、この最悪の状況
の中で、自分に出来る事をして行こう
とする。神に依存しているのであって、
状況には依存していないからだ。あな
たはどちらに依存しているだろう。ど
んな時にも、恵みはあなたに十分だと
言われる。主の力は、私たちの弱さの
中に完全に現れる。主のみわざを見る
ことになる。「私たちの手のわざを確
かなものにして」下さる。今の状況が
どんなに悪くても、自分に出来ること
をして行こう。
・・・・・・・・・・
視点を変える時、見方が大きく変わる。
自分中心に世界を回すと、何もかもが
不満だ。自分の思い通りに絶対になら
ない。自己憐憫に落ち込む。神に焦点
を当てると神の満足が自分の満足にな
り喜びにぶち当たる。


2006年10月28日(土)

「・・神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3

弟子達は盲人について質問した。なぜ
盲目に生まれついたのかと。先祖の罪
か本人の罪かと。それに対して主は、
本人でも先祖の罪でもなく、神のわざ
が現れるためだと答えられた。私達は
試練の時、苦しみの時、すぐ「なぜ?」
「どうして?」と問う。どこまでも
「なぜ?」「なぜ?」と追求し、暗闇
の中に迷い込む。しかし、答えが見つ
からない。あなたにも経験あるだろう
か。試練の中で、率直に、正直に気持
ちを神に告げるのは良い事だ。疑問、
怒り、恐れ、嘆き、心からの叫びを神
に告げるべきだ。それが詩篇に記され
ている事だ。感情を抑圧するのでなく、
ダビデのように率直に神に告げよう。神
は受け止めて下さる。それは信仰だ。
なぜなら神を信じているから、感情を
吐き出すのであって、信じていない相
手に向かう事は決してないからだ。そ
して、次にこの苦しみは「何のため?」
と問いを変えるのだ。「なぜ?」でなく、
「何のため?」すると教えようとして
下さっている事が見えて来る。暗闇の
中に光が差し込んで来る。
・・・・・・・・・
「こんな事がなぜ?」でなく「この事
によって教えて下さりたい事は何?」
と問うて行こう。一つ一つの出来事
を通して主の心を学べる。そして、新
たに主を経験的に知って行く。主の愛
に触れる。


2006年10月27日(金)

 「なぜあなたは、兄弟の目のちりを目につけるが、自分の目の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3



「梁」とは屋根を支えるために、
柱と柱の間に渡した横木だ。
大きな丸太だ。「ちり」は目に
すら見えないほどの小さなもの
だ。他人の小さなちりは見える
が、自分の目にある丸太は見え
ない。なぜあの大きな丸太が見
えないのか不思議だが、自分中
心に自分の色メガネをかけた判
断をしているからだ。自分の都
合の良い善悪の判断だ。
アダムとエバが善悪の知識の木
の実を食べた時から、人は自分
で善悪を判断するようになった。
自分の目が曇っていたら、自分
の目に偏見があれば、その目で
見るものは歪んで見える。
人はさばきまくり、自分はどん
どん正当化して行く。人には厳
しく、自分には寛容、善悪の物
差しが自己中心なのだ。自己中
心の物差しは暗闇の中だ。
御言葉が正しい物差しだ。御言
葉の鏡に絶えず自分が照らされ、
正されて行く時、兄弟のちりを
取る事が出来る。
----------------------
基準はみ言葉だ。私達は弱く基
準がすぐにぶれてしまい自己満
足してしまう。まず自分をよく
吟味して、自分の目にあるちり
を示され続けますように。


2006年10月26日(木)

「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして・・」創世4:7



人類最初の殺人が起こった。
ささげ物が受け入れられなか
ったカインが弟アベルを殺し
たのだ。動機は妬みだった。
神に受け入れられたアベルを
妬んだのだ。ヘブル書による
と「信仰によってアベルはカ
インよりすぐれたいけにえを
献げた」とある。
カインはなぜ受け入れられな
かったのかを、神に聞いて、
正しくなければ悔い改め、も
う一度献げ直せば良かったの
だ。自分の肉の思いでなく、
神のみこころに従うことが重
要だ。しかし、神に向き合わ
ず、憤って「顔を伏せた」。
顔を伏せるとは、神との関係
を断ち切る事だ。その結果、
アベルに怒りをぶつけ殺害し
てしまった。
神はカインに顔を上げよと、
御声をかけて下さっている。
しかし、カインは心を頑なに
し、無視し、退けて、恐ろし
い罪の結果を招いてしまった。
私達はいつも顔を上げていよ
う。主の十字架の赦しがある。
主に間違いを正されながら従
おう。主のあわれみは尽きな
いのだから。
------------------------
神様の和解の呼びかけを拒み、
背を向けてしまうなら罪に支
配され、生涯、感情に翻弄さ
れて生きなければならない。
神様に顔を向け、愛されてい
る喜びを感じつつ歩もう。


2006年10月25日(水)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」Uコリント5:7

信仰とは何だろう。信仰とはこうだ。「目
には何も見えず、耳には何も聞こえず、手
で触れるものも、つかめるものもいっさい
無く、何も感じる事のできない、真っ暗な
中で御言葉を握って立つ」ことだ。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは
キリストについてのみことばによる」私達
は五感によって生きている。視覚、聴覚、
触覚、臭覚、味覚によって生きているので、
これらからの情報を真実として信じている。
しかし「信仰」はこれらの五感ではいっさ
いわからない。得られない。霊の部分であ
り、領域が異なるのだ。五感で何も感じる
事が出来ず、真っ暗闇の中で、しかし、御
言葉を握って立つ時、別の領域に立つ。霊
の領域だ。五感ではいっさい感じる事が出
来ない事をふまえておく事は大切だ。五感
に頼って行くと混乱し、迷路に迷い込む。
事実(御言葉)と信仰と感情が順番に崖っ
渕を歩いていて、信仰は御言葉だけを見て
前進している時は後ろの感情もついて来る。
しかし、信仰が御言葉から目を離し、感情
を振り返った途端、信仰も感情も崖っぷち
から転落だ。信仰が先で常に感情は後から
ついて来る。これを逆にすると信仰生活は
混乱と情緒不安定に陥る。
・・・・・・・・・・・
感情に頼ろうとすると迷い出る。感情は天
気一つでコロコロ変わる。そんなものに頼
っていてはどこへ行くかわからない。感情
がどうであれ、今日も御言葉の真実に立とう。


2006年10月24日(火)

「自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいをつくった」創世記3:7   



 善悪を知る木の実を食べたアダムと
エバは、その結果、神のようになるど
ころか、神との交わりを失い、喜びの
関係が恐れに変わった。目が開かれて、
自分たちが裸であることを知った。
以前も裸であったが、恥ずかしいと思
わなかった。しかし、今は腰のおおい
をつくった。神との間にとがめが入り、
仕切りとなった。神の前にも、人の前
にも、自分自身の前にも裸で出る事が
出来なくなってしまった。これが罪の
結果だ。私達の姿だ。
ありのままの自分を、弱さを決して出
せない。自分の本当の姿は知られなく
ない。互いに自分を隠し、自分自身も、
惨めな醜い自分は見たくない。
しかし、動物を殺して作った皮の衣を
着せて下さる事により、主の十字架の
贖いを示して下さった。主の血潮によ
り良心がきよめられ、もう一度ありの
まま、裸で、神の前に出れるようにさ
れた。
--------------------
罪が赦されている事が感謝だ。罪を犯
さずに歩めぬ者だから、せめて素直に
謝り続け、感謝する態度で神様に向き
合いたい。


2006年10月23日(月)

 「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか」Tコリント3:3



クリスチャンにも皆、肉の部
分がある。誰しも持つものが
妬みだ。自分に無いものを、
又、自分が喉から手が出るほ
ど欲しいものを持っている相
手を羨む。しかし、心の底に
ある妬みを認めたくないため
に、相手の欠点をあげつらい、
自分が快くない思いを持つの
は相手が悪いせいと、自分を
正当化する。人を批判し、難
くせをつける、その動機の多
くは隠れた「妬み」だ。人が
誉められると、自分がけなさ
れたように感じ、やっかむ。
自分の中の自分で認めたくな
い心にはふたをし、押し込め
る事が出来る。それゆえ自分
で妬みに全く気づいて無い場
合もある。心にザラッとした
ものを感じる時には要注意だ。
心に何かある証拠だ。底にあ
る妬みは、何かの理由で正当
化して相手への攻撃となり、
争いとなって行く。御霊の光
のみが底にあるものを照らし
出し、気づきを与えてくれる。
光に出されたものは祈れる。
祈るならば、問題解決へと導
かれる。
-------------------
自分の認められない罪を示さ
れる事は神様の憐みだ。よく
祈って光に一つ一つ出してい
ただこう。謝らなければなら
ないこと、受け入れなければ
ならないこと、神様が気づか
せて下さり、次々と重荷を下
ろしていって下さる。


2006年10月22日(日)

「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ・・あなたがしらがになっても、わたしは背負う」イザヤ46:3

主は私達を母の胎内にいる時から担って
下さっている。又、生まれる前から運ん
で下さっている。そして年老いてもずっ
と背負い、私達の一生を背負うと。途中
でだめになったからと背負う事を止めら
れたりしない。私達が自分を委ねる以前
に、すでに担って下さっているのだ。一
生涯、年老いても何の心配も無い。私達
が神に委ねるというのは、神が下さる環
境が、自分の思いや計画と違っても、神
を信じて受け入れて行くという事だ。人
生のすべての道筋において、そこに神を
認めて、神が導かれた道を歩んで行く事
だ。そこには必ず平安と喜びがあり、そ
こで豊かな実を結んで行く。神の道は、
しばしば自分の思い通りではない。思い
とは違う。高くて深く、思いもよらない
道の事がある。意に反しつつも、それを
受け入れ、歩んで行く時に、まさに自らの
人生を神が担い、運んで下さっている事
実を知る。
・・・・・・・・・・・・
全くこの通りではないだろうだ。主に明
け渡した時、自分の思いに無い人生に導
かれたが、それは神の御心の人生であり、
神ご自身に担われ運ばれている人生であ
る事を、平安の中で心底実感している。
 


2006年10月21日(土)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14

アブラハムに最大の試練が臨んだ。最愛
の息子イサクを全焼のいけにえとして献
げよというものだった。息子を殺すより
年老いた自分が死ぬ方が楽だったろう。
それにイサクは約束の子では?神の約束
はどうなるのか?本当に神の声なのか?
聞き間違いではないのか?様々な思いが
巡ったろう。しかし、アブラハムは今ま
での神との深い交わりの中で、神への信
頼と確信があった。「翌朝早く」すぐに
アブラハムは神に従った。そして、刀を
とってイサクをほふろうとした瞬間、神
は止められた。代わりのいけにえとして、
雄羊が備えられていた。神に従う道には、
必ず「主の山に備えがある」。今までこ
の事実をどれほど経験して来た事だろう。
人生には時に理解できない事が起こる。
幾ら祈っても答えがわからない中にいる
だろうか。しかし、そんな中も、主の山
の上には備えがあると信じて歩もう。こ
の事を信じて試練を受け止めるのだ。今、
理解不能の状況の中にあるなら、まっ暗
闇のトンネルの中で堅く信じよう。「主
の山の上には備えがある」と。
・・・・・・・・・・・
信仰人生、今まで来れたのは、主の山の
上に、必ず有形無形の備えがあったから
だ。どんなに断崖絶壁の時も備えがあっ
た。この言葉に立ち、どんな中でも期待
と希望を持って進んで行ける。
 


2006年10月20日(金)

 「その地は、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた」創世記13:10





ロトも財産が増え、アブラムの
使用人との間に争いが起こり、
アブラムはロトと別れる決断を
した。年長であるアブラムがへ
りくだり自分の権利を放棄して、
ロトに選択権を与えた。ロトは
叔父を立てる事もせず、貪欲に
選び取る。ソドムが主の園のよ
うに見えた。目の欲だ。欲望の
入った目で見ると、見えなくな
る。エバが善悪を知る木の実を
見た時、良い慕わしい好ましい
ものにしか見えなかった。
サタンからの誘惑だ。私達も同
様だ。毎日毎日、サタンからこ
の世の栄華を見せられている。
神第一に、信仰を何よりも大切
にと思いつつ、信仰を犠牲にし
ても、豊かな収入や地位や名誉、
この世の賞賛、又、自分の楽し
みを求めていないだろうか。
ソドムが主の園に見えたように、
心に欲望を持って見ると、好ま
しいものにしか見えなくなるの
だ。これが誘惑だ。このサタン
の誘惑が日々臨んでいる。
祈りと御言葉で守られる。御言
葉に立っていよう。
-----------------------
サタンの誘惑はまとわりついて
離れない。いかにも最善の策の
ように見えても気づくと御言葉
と正反対のところに連れて行か
れる。霊的力が失われないよう、
祈りと御言葉がいのちだ。


2006年10月19日(木)

 「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば・・あなたを祝福し」創世記12:1

 

生まれ故郷を離れ、父の家を出る事
は、大きな決断のいる事だった。
恐れや寂しさ、前途への不安、孤独
があったろう。しかし、アブラムは
主がお告げになった通りに「出かけ
た」。主から受けた言葉を行動に移
した。その結果、アブラハムは信仰
の父と呼ばれ、後生に信仰の大いな
る祝福の足跡を残した。神は私達に
も何かの新しい出発、前進を促して
おられるだろうか。御声を聞くなら
従う事が大切だ。その前に彼の父親
テラもカナンの地を目指した。
しかし、途中のカランで住みつき、
そこで一生を終えた。途中で止めて
しまったのだ。私達はどうだろう。
更なる祝福に神は導いておられるの
に、尻込みしているか。居心地の良
い、安楽な今の場所から動きたくな
くて従えないでいるか。今ある何か
に執着して手放せないだろうか。
しかし、大きな喜びと祝福の地があ
る。神の言葉の通りに従おう。
----------------------------
安楽な所にいても、神様の約束
の御言葉がなければ虚しい砂漠だ。
従う中で神様を知るだろう。それが
一番の幸いで祝福。


2006年10月18日(水)

「私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました・・主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせ・・」ルツ1:21

偶像の地で、夫が死に、二人の息子も
死んでしまった。神より、家族の幸せ
を求めた。幸せを求めて来たはずなの
に、まさにその幸せを失う結果になっ
てしまった。約束の地を離れ、自分の
力に頼り、自分の欲に歩んだ結果だっ
た。結局、ナオミは大切なものをすべ
て失って、素手になった時に、神に立
ち返る決心に導かれた。神は愛ゆえに、
神を離れて自分中心に歩む私達を打ち
砕かれる。欲望のままに歩む者を放っ
ておかれたら、どうなってしまうかわ
からない。目の前の美味しい草をあさ
り、道に迷い滅びてしまう。ナオミは
砕かれて、へりくだって神のもとへ帰
って行った。しかし、神は尚も恵み深
く、あわれみは尽きない。ルツという
素晴らしい嫁を与えて下さったのだ。
私達は失敗する。しかし、神は尚もす
べての事を益として下さる。それをル
ツに見る事が出来る。失敗したが、ル
ツという宝を生み出して下さった。私
達はいつでもどんな状態であろうと、
神に立ち返る事が出来る。神に来る者
を決して捨てられない。私達の幸せは
境遇ではなく、神にある。
・・・・・・・・・
神以外のものを求めて出て行く時、主
は必ず素手で帰される。それが神の愛
だ。もし、そこで栄えるなら神から全
く離れて気づかない。心にある偶像に
気づかせて下さる。


2006年10月17日(火)

「この地にききんがあった。それで・・モアブの野へ行き、そこに滞在することにした」ルツ1:1



エリメレク一家は、飢饉が来た時、
すぐに偶像礼拝のはびこる地、モ
アブへ移住してしまった。しかし、
神の約束の地を捨てて外国へ行く
のは、神の約束を捨て去る事であ
った。目の前の問題悩みに、慌て
ふためいてしまい、神の約束に立
ち、神を信じる事をせず、すぐ目
先の安穏を求めた。これがそもそ
もの間違いであった。問題から逃
げようとばかりすると、御心から
それてしまう。私達が遭遇する困
難には、一つ一つに意味がある。
神の深いご計画があり、みこころ
がある。それを避けて、すり抜け
るのでなく、受け止める事が、更
なる祝福と成長につながる。今、
目の前にききんがあるだろうか。
その問題の中に、神からのメッセ
ージがあり、神があなたに学ばせ
たい事がある。逃れる手段を模索
するのでなく―モアブへ行くので
なく、約束の地にとどまり―しっ
かり問題を受け止め、忍耐し、神
の導きに従おう。必ず平安な実を
得る。
-----------------
逃げるのでなく、求めて求めて行
く時神様は必ず必要を与えて下さ
り解決の道を開いて下さる。そこ
で共におられる神様を知ることが
できる。


2006年10月16日(月)

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで・・ちりと灰の中で悔い改めます」ヨブ42:5 


           
ヨブに厳しい試練が臨んだ。正
しく生きて来たのに、なんでこ
んな目に会うのか。理不尽さに
、思いきり不満を神にぶつける。
私など生まれなかった方がよか
った。なぜ、こんな苦しみを受
けないといけないのか。悪い事
などしていない。なぜ?その答
えが欲しい。沈黙を保たれてい
た神が口を開かれるが「なぜ?」
に神は答えられなかった。「わ
たしが地の基を定めたとき、あ
なたはどこにいたのか」と逆に
ヨブへ次々と問いかける。ヨブ
は答えられず黙り込んでしまう。
なぜ?には答えられなかったが、
ヨブは納得する。
神への不平も不満も捨て去って、
神の前にひれ伏す。なぜか。
「今、この目であなたを見」た
からだ。神は説明を与えられた
のでなく、ご自身を現して下さ
った。私達は苦難の中で、理由
を論理的に説明されても生きて
行けない。しかし、神を見るな
ら、神との生きた交わりの中で、
神の愛を信頼して生きて行ける。
-------------------------
自分が納得できる答えかどうか
が問題ではない。自分の理解を
超えたところで自由に生きて働
かれる神様を認めることができ
たから納得して、そして力を得
て生き抜いていけるのだ。感謝。


2006年10月15日(日)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」エレミヤ29:11   

                  
信仰生活で、基本的に確認しておく
べき大切な事は、私達の身に起こる
すべての事は、神のご計画と神の許
しの中にあるという事だ。雀の一羽
さえ父のお許しなしに、地に落ちる
事は無いように、すべての出来事は
御手の中だ。そして、一つ一つは、
私に必要な事だ。苦しい事、悲しい
事、辛い事、私にこれらが必要であ
る事を信じるのだ。今はわからない
が、後の日にこの苦しみが必要であ
った事がわかる。ここを通る必要が
あった事を理解する。これらを信じ
るならば、このところにおいて、信
仰に立つならば、すべての事につい
て感謝して行ける。あなたにはわか
らなくても、主はあなたのために立
てている計画を知っていて下さる。
心配したからとて命を延ばす事は出
来ない。先を一切煩わず委ねる事だ。
一寸先を委ねて、今、あなたが平安
に生きる事が、主の願いであり御心
だ。今「心配」があるか。主は「平
安」と交換して下さる。
・・・・・・・・
「信じる」ことだ。目の前は問題だ
らけだが、信じる時、目に見えない
ものが見えてくる。主は必ず良くし
て下さる。愛していて下さる。素晴
らしく益として下さる。


2006年10月14日(土)

「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ」民数記14:9


モーセはカナンに偵察隊を送って、
偵察させた。戻って来た12人中
10人はカナンの地を乳と蜜が流
れた良い地ではあるが、そこの民
は強く町は大きく城壁を持ち、自
分達はいなごのよう、入っていく
事は出来ないと言った。しかし、
その時にヨシュアとカレブは、主
が共におられるなら占領できる、
上って行こうと信仰を表明した。
だが、民は不信仰に陥り、恐れ、
大声で叫び、夜通し泣き、エジプ
トへ帰ろうと言った。その時、二人
は、彼らは私たちのえじきとなり、
彼らの守りは取り去られていると
言った。「不信仰」の目には恐怖
と不安、難攻不落、不可能の大砦
が立ちはだかっているとしか、見
えない。事態をネガティブにしか
とれない。だが、「信仰」の目に
は、可能、自分たちの餌食にしか
見えない。今、あなたの目の前に
難題が立ちはだかっているか。そ
れはあなたの餌食となる。不信仰
でなく、信仰を選択しよう。信仰
の目で、神が見ておられるように
見よう。
・・・・・・・・
しばしば困難や問題は、肉の目に
はそびえ立った城壁であり、怪物
のように見える。しかし、飲みつ
くす事のできる餌食だ。約束に立
ち、信仰に立ち、神はその問題を
どう見ておられるかに立とう。
 


2006年10月13日(金)

「あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません」詩篇77:19



モーセがイスラエル人を導い
て出エジプトを果たし、海辺
で宿営していた時、パロの軍
隊が追跡して来た。そのパロ
の軍勢が追いついた。前は海
で、後ろからは追っ手という、
絶体絶命の危機に、イスラエ
ルの民は非常に恐れて、神に
叫び、モーセに文句を言った。
奴隷の苦難から救い出された
に関わらず、エジプトから連
れ出したりして、一体何とい
う事をしてくれたのかと、不
平不満をぶつけた。その時、
神は奇跡をされ、海の中に道
を造られた。安全に無事に民
は紅海を渡った。あなたは今、
断崖絶壁にいるか、絶体絶命
か、神は必ずあなたのために
道の無い所にも道を造られる。
その道は隠されていて見えな
い。しかし、信仰持って前進
すると、道がくっきりと目の
前に現れて来る。海が目の前
で分かたれ、道が備えられて
いたように。神に信頼して、
前進しよう。
--------------------
断崖絶壁に立たされるのも神
様だ。振り返ると、確かに信
仰もって一歩踏み出したとた
ん、目の前の海がぱっと開け
た経験があるだろう。道のな
い所に道ができる。


2006年10月12日(木)

「イエスは弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた」マルコ4:35

主の言葉により舟をこぎ出した。する
と、激しい突風で舟は波をかぶり、水
で一杯になった。信仰生活で、御心を
信じて舟を乗り出す。しかし、ちょっ
と波風が立つと「やっぱりこれは御心
ではないのでは」と動揺し不安に陥る。
はっきり御心を求め、確信して行動す
る事は大切だ。しかし、御心を確信し
たなら、波風に一喜一憂、右往左往せ
ず、前進する事だ。御言葉の約束に、
しっかり立ち、信じる事だ。弟子達は
「向こう岸へ渡ろう」との御言葉を受
けた。主が言われたからには、確実に
向こう岸へ渡れるのだから、途中の状
況にほんろうされる事はない。御言葉
を見つめれば平安を失う事もない。現
実に実際に、舟の中に主が共におられ
るのであれば、何を恐れよう。私達は
主に依存しているのか、それとも、安
全で心地良い環境に依存しているのか。
・・・・・・・・・
嵐に会うや「向こう岸へ渡ろう」との
御言葉が吹っ飛んだ。パニックだ。目
の前の状況でなく、主のお言葉に立っ
て状況を見る時、心の嵐がおさまる。
自分は何に依存しているか、よく考え
てみよう。



2006年10月11日(水)

 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」Tペテロ3:15

 

 
弁明というと弁護士を連想するが、
弁護士に必要なものは何だろう。
法律に関する徹底した知識とそれ
を縦横に使いこなす、駆使するこ
とだ。よく言われるが、ただ神に
人生が良いものであるよう、家内
安全、無病息災を願うのは、信仰
ではなく単なる宗教心だ。信仰を
持っていなくても、誰でも願う。
信仰とは、神が与えて下さった約
束を信じる事だ。状況がどんなに
悲惨でも、現実がどんなに厳しく
ても、それにも関わらず、神が語
って下さった御言葉を信じて行く
事、それが信仰だ。それゆえ私達
はどんな状況の中でも信仰によっ
て歩んでいる。そして希望がある。
その信仰や希望について説明を求
める人にはいつでも語れるよう備
えよとは、神の言葉だ。とっさに
聞かれた時も、十分説明できるよ
う用意していよう。いつ、どんな
時に証し出来るかわからない、
チャンスをいつでも生かして用い
る事が出来るよう。一番の備えは、
日々御言葉を聞き、従順に従い、
御言葉を生きる事だ。
-----------------
今日一日を与えられた御言葉によ
って歩んでいるなら、いつも主と
共に歩んでいるなら、時を捕らえ
て証しする事ができる。「いつも
喜んでいなさい」今日与えられた
御言葉だ。御言葉に歩みたい


2006年10月10日(火)

「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」エペソ4:3


この世の会社組織やサークル、
運動チーム等、一致のために
あらゆる努力をする。しかし、
教会は違う。一致を造り出す
のではない。信じた一人一人
には御霊が注がれていて、そ
の御霊により一致が与えられ
ている。すでにある一致を保
てとの命令だ。それを妨げる
のが肉だ。自己中心、自分の
思いを主張するなら、分裂だ。
各々の「自分が一番正しい」
が砕かれて行く時、誰もが御
霊の一致に導かれて行く。
フィラデルフィヤの教会で、
兄弟愛が保たれていたのは、
主の御言葉を重んじたから
だ。「なぜなら、あなたには
少しばかりの力があって、わ
たしのことばを守り」 教会
が御言葉を土台とし、第一と
する時、教会は愛と喜びと力
があった。皆が自分の思いで
なく、御言葉に立ち、御言葉
に従う時、一致が保たれて行
く。自分の肉の思いか、御霊
の思いか、常によく心照らさ
れよう。
---------------
御霊の一致があるから一人一
人が平安に集える。皆が御言
葉によって自立しているから
自由に仕えあって行ける。喜
びがないなら、心の内をよく
吟味してみよう。


2006年10月09日(月)

「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9





姦淫の女は石打ちの刑だと断罪し
た人々は、その投げた石がそのま
ま自分に返って来た。罪の無い者
が石を投げよ、と言われた時、主
のその言葉で自らの姿が映し出さ
れた。彼らは罪がわかったから、
投げる事が出来ずに去った。
しかし、彼らは主の前から逃げた
のだ。律法学者やパリサイ人は、
はっきりと自分の姿を見た。
これは天国への一歩手前だ。しか
し、逃げ去った。ところが姦淫の
女は、逃げずにそのままそこにと
どまった。その女は主から全き赦
しを受け取った。私達はどうだろ
う。日ごとに、御言葉に向かう時、
自らの姿が映し出される。
メッセージを通して、自分の罪が
示される。自分の醜い、汚れた、
自我にまみれた姿を見るのは痛い。
プライドが傷つく。認めたくない。
棚に押し込めたいし、触れずにふ
たをして置きたい。私達も逃げる
だろうか。逃げないでとどまった
女のように、映し出された本当の
自分を認めよう。そこから造り変
えられて行く。何より主の深い愛
を知って行く。
-----------------------
年長者から去っていったのは罪深
い醜い自分を歳を重ねる度に知ら
されている、しかし認められない
からだ。私達も醜く、汚れた者に
違いないが、いくつになっても
主に「聖められたい!」と切に願
う者でありたい。


2006年10月08日(日)

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安・・」ガラテヤ5:22

私達は自分の思い通りに、自分のし
たい事をして生きるなら、幸せで、
充実感があると勘違いする。が、決
してそうではない。貪欲は更に貪欲
を生み、とどまるところを知らない。
金持ちが幾ら富を持っても決して満
足しないように。欲望は満たせば満
たすほど、更に渇く。生きがいを求
めて次々と駆け巡る人を見るだろう。
自分を喜ばせ、自分の欲望を充足し
て生きて行く人生はますます渇くば
かりだ。問題は「自己中心」にある
からだ。神を喜ばせ、神を第一にし
た人に、喜びが無かったという事を
聞いた事がない。人は喉から手が出
るほど「喜び」が欲しい。もし喜び
が欲しければ、自分を喜ばせる事を
止め、神の喜ばれる事を求める事だ。
喜びは御霊の実だ。御霊の実は、御
霊に自分を明け渡して、従って行く
時に与えられる実だ。自分で得るの
ではなく、神に従う時に初めて豊かに
満たされる。今の自分の在り方をもう
一度考えてみよう。
・・・・・・・・・・
喜びと充足感が欲しくて、自分の
欲望を追い求めるが、ますます渇く。
自分を捨て、主に明け渡す時、真に
自分を見い出し、喜びが来る。状況
がどうであれ、御霊の喜びを経験する。 


2006年10月07日(土)

「いつでも祈るべきであり、失望してはならない・・」ルカ18:1

祈りは学校だと言われる。私達は自然
によく祈れるようになるのではない。
祈りは実践により、学んで行くものだ
からだ。自分の祈りをよく顧みると、
その時、限りのいい加減な祈り、気ま
ぐれな祈り、自己中心な祈り、その場
限りの衝動的な祈り・・そんなものも
多い。神がすぐに答えずに祈り続けさ
せられるのは、一体自分が何を求めて
いるのか、自分の本当の願いは何なの
かを、わからせて下さるためだ。衝動
的な祈りは翌日には祈らなくなる。真
に求めているものではないからだ。本
当に求めているものは祈り続ける事が
出来る。時間に耐え得る。どちらでも
良いものは祈り続ける事が出来ない。
自分の祈りを振り返る時、よくわかる
だろう。神が答えを差し控え、祈り続
けさせられるのは、自分自身の祈りを
よく吟味させるためだ。何が本当に必
要で大事なのか、何が自分の願いなの
か自分で理解して行く。祈りで、神と
向き合い、自分を知り、神ご自身を知
って行く。信仰が祈りにより成長して
行く。自らの日々の祈りを今一度点検
してみよう。
・・・・・・・・・・・
祈りによって神のお心を知り、親しく
なって行く。祈りっ放しでなく答えも
よく見張ろう。軌道修正の必要有りか
も知れない。ノーも答えであり、神の
意志だ。別な道なのだ。神のお心があ
る。よく悟れるよう祈ろう。
 


2006年10月06日(金)

 「神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Tペテロ5:6

 



私達は今、自分のいる場所が
不満だろうか。もっと自分は
良い地位にいるべきであり、
もっと能力があるはず、本来
の場所ではないと。ここは不
当だと思っているか。それこ
そが神が備えられ、私達を砕
いて下さる場所なのだ。昇進
出来ない職場、自分の時間が
取られる親の介護や育児、心
煩わす近隣、進学・就職・結
婚が自分の思い通りに行かな
い状況であるかも知れない。
思い通りにならず悶々の状況、
そこでこそ、神は私達を練り
鍛え、訓練し、砕かれる。
状況でなく、霊の目で神の御
手をしっかり見よう。あなた
の殻を砕くためであり、依存
し執着しているものから自由
にするためだ。本来の場所で
ないと高ぶる自らに、いいや
、そこがあなたの場所だと砕
かれる。そこで高ぶりを認め、
へりくだろう。その場で、砕
かれ造り変えられる。へりく
だるその時、そのままでなく
、今度は主が高めて下さる。
大きな祝福が臨む。
----------------
困難な場所から逃れるのでは
なく、今与えられているとこ
ろが学ぶ場所だ。もっと生き
やすい場所なら私達は変わる
事など出来ない、神様を知る
ことも出来ない。


2006年10月05日(木)

『ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」』ヨハネ13:8




主が足を洗おうとされた時、ペテ
ロはそれを拒んだ。この時代は靴
でなくサンダルのようなはき物で、
足が大変汚れた。彼はその自分の
汚い足を洗ってもらうなどと、と
んでもないと思ったのだ。それは
自分の汚い部分を人に見せたくな
い、知られたくないという事だ。
醜い部分は隠したい。誰にも知ら
れたくない。しかし、主はそこを
あらわにしなければ、何の関係も
無くなると言われた。そこでこそ、
主との関係が深められると。
私達は良いところ、出来るところ
を見せたいものだ。人に認められ
たいし、評価されたい。しかし、
主と私達の間はそうではない。
弱い、醜い、汚い部分をすべて主
に広げ、明らかにする時に、赦さ
れ、新たにされ、造り変えられて
行く。その事により主との関係が
より親密にされて行く。弱さに神
の力が現れ、強くされて行く。
弱さを隠す事が、主との関係を妨
げている。汚い足を洗って頂こう。
--------------
正直だと思っていても、認めたく
ない汚いところを隠しているし、気
づかぬ振りをしている。いつまでも
闇の中だ。自分の汚れたところをし
っかり認め主の前にさし出そう。


2006年10月04日(水)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4:4

私達は何を喜んでいるだろうか。神の下さ
る祝福、神の与えて下さるものを喜んでい
るか。与えられるものに目を留めているな
ら、もし、それが与えられない場合に、必
ず不平不満に陥る。自分の思い通り、願い
通りにならなければ、反抗するし、神を疑
ってかかる。すぐに不信に陥る。今まで何
度も経験あるのではないか。あなたがいつ
も目を留めているのは、神の下さる祝福だ
ろうか。どこまでも祝福を追うばかりで、
どれだけ与えられても決して満足しない。
それは与え主である神ご自身を求めていな
いからだ。私達が喜ぶのは、祝福ではなく、
祝福の与え主である神だ。神ご自身を喜ん
で行くなら、自分の思い通りにならなくて
も、又、もし願ったものが与えられなくて
も、失望する事は無い。決してない。あな
たの信仰態度はどうだろう。弟息子のよう
に、父ではなく、父の財産を貰って喜んで、
父のもとを離れて行くだろうか。何を喜ん
でいるか、心を探ってみよう。
・・・・・・・・・・・・・・
強く願ったものが、与えられなかった時の
心の態度はどうだろう。常に目を留め心を
占めているのは「与えられるもの」だろう
か。それではなく、永遠に変わらない「与
え主」の方を求めて行こう。
 


2006年10月03日(火)

 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4

 

主は私達の願うものを何でも与え
て下さると、勘違いするが、そう
ではない。私の願いを叶えて下さ
るから、主を自分の喜びとする、
のではなくその逆だ。
人生の中で、日々の生活で、主を
自分の喜びとして行く時、心に願
いを起こして下さり、その願いを
叶えて下さるのだ。主を喜びとし
て行く時、主を第一にして行くの
で、主と一つになるからだ。
主の願いが、私の願いとなる。私
達は自己中心なので、自分の欲望
を遂げようと、神を利用したりす
るものだ。見るからに肉欲とわか
る事はしないが、一見ストレート
な罪でないなら、無意識でしてい
て、自分では気づかない時もある。
「主よああして下さい、こうして
下さい、あっちへ行って下さい、
こっちへ来て下さい」的祈りでな
く、「主が、私に望まれる事は何
ですか」は、御心にかなった祈り
だ。その祈りをして行く時に、い
つも私達の願い以上のものを、遙
かに良いものを与えて下さる。
主を第一とし、明け渡して行くこ
とが喜びの秘訣だ。
---------------------
主が私に望まれることは何ですか
・・今日一日、尋ねていこう。
自分の目の前の状況を訴えるばか
りの祈りから主を愛して、喜んで
行く者に変えられたい。


2006年10月02日(月)

「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら・・肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」ローマ8:8



神は「祈りなさい」と言われるが、
肉は「時間のある時に」と言う。
神は「時を生かして用いなさい」
というが、肉は「好きな事は楽し
い」と言う。神は「今、祈りなさ
い」と言うが、肉は「さあ、テレ
ビを見よう、今は疲れてて好きな
事がしたい」と言う。肉は今が良
ければいい、安楽でいたい。
「すべての事について感謝しなさ
い」肉は「良い事があった時に感
謝すればいい」そして良い事があ
った時には、らい病を癒された9
人のように感謝せず自分の道に向
かって行く、かと言って、試練の
時には思いきり不信仰になり、肉
は何と神に逆らい、反対方向へ向
かわせる事だろう。御霊に、神の
御言葉に導かれなければ、どこへ
向かうかわからない。自己中心に
生きようとする肉の性質が、絶え
ず自分の内にある事をよく踏まえ
て、御霊に拠り頼もう。御霊に拠
り頼む時、御霊に喜ばれる道を選
び取れる。祈る事だ。目の前の一
つ一つを今日も祈って歩もう。
-----------------------
祈りが足りないのは、自分で何と
かやっていけると思っているから
だ。肉にひかれて行った所は良い
所だっただろうか。弱い自分をし
っかり認め今週も祈りながら歩も
う。


2006年10月01日(日)

「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって」Tペテロ1:7


金は高熱の中を通り、純金とされて行く。
ガラスも高温の中を通り、素晴らしい作
品に造られて行く。鉄も、高熱の炉に入
れられ、溶かされて、鉄鉱石から不純物
が取り除かれ、叩かれ、精錬される。そ
のような過程を通って研がれて、磨かれ
て行く。私達が信仰者として鍛えられ、
練られ、聖められて行く過程によく似て
いる。精錬され、研がれるのは痛い。非
常な苦痛を伴う。しかし、放っておかれ
る方を心配した方がよい。私達はとにか
く平穏な生活を願う。問題が無いこと、
悩み、苦しみが無い日々を願う。しかし、
安穏な日々が続くなら神を求めない。祈
らない。自分で生きてしまう。神から離
れてそれすら気づかない。自分の楽しみ
を求め、目の前の美味しい草を食べなが
ら、気づくと迷子になっている。神は私
達を研ぐために、環境を、よく人間関係
を用いられる。あなたは今、難しい対人
関係で高熱の炉に入れられ、練られ研が
れ削られているか。間に合う器に造り変
えられている。相手によって傷つき、苦
痛に感じる、又、イライラし、怒りを感
じる自分の内に、何があるのかよく探ろ
う。何が引き出されるのか。プライドか
虚栄心か高慢か、そこを削り取って下さる。
・・・・・・・・・・・・・・
神がされる事で無駄なものは一つもない。
目の前の状況に、感情共に振り回される
のでなく、背後の神のみ思い、お心を探
り求めよう。何を教えたくて私のどこを
砕きたいのか。痛いだけで、何の成長も
ないのは悲しい。