2006年11月28日(火)

「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」マタイ4:6


御言葉によって、自分を正当
化し神殿から飛び降りる・・つ
まり、自分の願望を、主に叶
えさせようと試みる罪だ。
御言葉により、自分の願望を
正当化してしまう。日常生活
の中で、まず主の御心でなく、
まず自分の願望があって、そ
こに都合の良い御言葉を持っ
て来て、神に叶えさせようと
してしまう。しかし、どんな
に祈っても、御心でないなら
決して成就しない。
「そのことが起こらず、実現
しないなら、それは主が語ら
れたことばではない」という
事だ。余りに願望が強い時、
それに飲み込まれてしまい、
自分で自分の願望に都合の良
い御言葉を当てはめて、気づ
かない。これから守られるに
は自分を明け渡す事だ。
右でも左でも御心のままにと
自分の意志を委ねる時、間違
いから守られ、正しく導かれ
る。」
--------------------------
環境と適応していない御言葉サ
タンは狡猾に持ってくる。自分
の思いがあまりに強すぎると迷
わされ、ついには神様から遠く
離されてしまう。よく祈って、
結果を神様に委ねる態度で御言
葉に臨もう。


2006年11月27日(月)

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」ルカ15:24





家を出た時も、その前も、家
にいた時から、弟息子は死ん
でいたのだ。放蕩したから死
んだのではなく、その前から、
すでに父との関係が失われて
いた。父は変わらない愛でず
っと愛していたが、息子の心
が父から離れてしまっていた。
父は身体だけつなぎ止めても
無駄とわかっていて、したい
ようにさせてやった。息子は
放蕩と自由をはき違えたが、
どん底まで行き、行き詰まり
自らの無力を思い知り、自分
から自発的に、自由意志で父
のもとへ帰った。悔い改め、
父との関係が生き返った。
私達クリスチャンも、何度も
父のもとを離れる。自分の欲
望に生きてしまう。父に顔向
けが出来ない。どの面下げて
帰れるのか。少しはましにな
ってから帰ろうとする。
しかし、父は何を喜ばれたの
か。息子が帰った事だ。父は
どんな状態であれ、帰る事を
ひたすら待ち、大喜びして下
さる。いつでも立ち返れる。
私達の弱さをご存じだ。何度
でも立ち返ろう。両手を広げ
て帰る事を待っておられる。
今も離れているなら、今すぐ
帰ろう。
---------------
私達はだめなところばかり、
いつも罪を示されているが、
何度でも神様は赦して下さる。
赦して赦して愛していて下さ
る。その神様の愛の中に今週
も留まっていよう。


2006年11月26日(日)

『「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり』マルコ10:52

自分にとって、主の位置関係はどう
だろう。主は大切なものが沢山ある
内の一つなのか。自分にとって、信
仰は応接間の飾りなのか。考えてみ
よう。バルテマイが「目が見えるよ
うになる事」を願った。それを主は
「あなたの信仰」と言われた。当時
は福祉もなく、盲目であるとは社会
生活が不可能で、生ける屍のような
存在だった。人の憐れみに頼り、
乞食をして生きる、惨めで哀れで、
どんなにプライドが傷ついた事だろ
う。そんな中で、彼は自分の人生に
神がどうしても必要である事を認め
たのだ。神の憐れみが無ければ、こ
れから先、ずっとこのままだ。心底
惨めで哀れな者である事を認めて、
プライドも捨てて、神に憐れみを叫
び求めた。答えて下さると信じて、
なりふり構わず、阻止されても諦め
ず叫び続けた。主はこれを「信仰」
だと言われた。憐れんで下さり、答
えて下さった。神は心からの叫びに
必ず答えて下さる。私達はどうだろう。
求めがあるだろうか。信仰は応接
間の飾りなのか。正直に主に向き
合う事から始まる。
・・・・・・・・・・・・
何一つ出来ない彼が、憐れみを求めて
叫ぶことができた。それだけができた。
神は何も求めておられない。ただ神に
叫び求める「求め」だけを待っておら
れる。自分に求めがあるかどうかだけだ。


2006年11月25日(土)

「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」ローマ4:3

ヨセフの物語を通して、私達は多く
の事を教えられる。兄達の妬みによ
り、隊商に売り渡され、苦難の歩み
が始まる。どんなに恐ろしく不安で、
心も先行きも真っ暗な事だったろう。
しかし、エジプトの地で、主人の愛
顧を得て側近にされた。ところが、
全くの無実の罪で牢獄へ。牢獄で夢
の解き明かしをし、その通りになっ
た献酌官長は元の地位へ。チャンス
到来。ヨセフは今こそが「時」であり、
とうとう釈放と思ったろう。しかし、
約束はきれいに忘れ去られ、尚も2
年!の歳月が流れた。何という試みで
あり忍耐だろう。神の計画と人の思
いは何と異なる事か。2年、神の時
を待った。ヨセフを練り、鍛え、聖
めるための厳しい訓練の時であった。
私達も「待つ」時が与えられる。事
が動きそうで、一歩も、全く動かな
い。じっと神を待つ時だ。やがて、
釈放の時が来る。失望と暗闇に放っ
ておかれない。神は練られた品性を
培っておられる。今が忍耐の時なら
じっと神を信じていよう。必ず神の
「時」が来る。           
・・・・・・・・・
「待つ」事は難しい。本当に大丈夫
なのか?サタンの火矢が飛び交う。
信仰が試される。しかし、その中で
自分の本音もあらわになり、自分の
姿を知り、神に向き合う時とされる。
「信仰」を使う時とされる。


2006年11月24日(金)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください・・私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:24 



まだ起きていない先の事に対
して、不安を誰しも経験する。
不安が不安を呼ぶ。大部分の
不安は自分勝手に作り上げた
ものだ。空想が妄想になり、
どんどん膨らむ。自分でシナ
リオを描き上げる。ますます
不安になり、思い煩う。
しかし、自分が思い煩いを作
り出している事に気づかない。
そういう人は、不安が無いと
不安なのだ。不安が無いと落
ち着かない。あなたも当ては
まるだろうか。対処法はまず
ことごとく神に告げる事だ。
不安を余すところなく神に持
って行く。何が不安なのか、
どう不安なのか、気持ちを神
に話す事だ。不思議だが、気
持ちを神にことごとく告げる
と平安になる。あなたもやっ
てみる事だ。そして、神の御
前に静まろう。自分の思いを
探り、自分が自分の思いを知
るようにさせて下さる。
何が原因でそんなに思い煩っ
ているのか、自分の心の奥に
あるものも知らせて下さる。
それを知り、認める時、解き
放たれて行く。
----------------
自分の何が原因なのか。そこ
をきちんと示されなければ、
いつも堂々巡りだ。本気で改
善したいかどうかもわからな
い。まず静かに神様の御前に
出て心の内を探っていただこう。


2006年11月23日(木)

「母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った」ヨハネ2:3 



                         
歓びの宴会中に突然ぶどう酒が
無くなると、興ざめだ。無くて
はならぬものだ。私達の人生に
もぶどう酒が無くなる時がある。
そんな時どうすればよいか。
第一に母がした事は、「主に向
かって」欠乏を訴えた事だ。
人にでなく、自分で立ち回るの
でもなく、主に告げた。私達も
第一に祈る事が大切だ。まず主
に祈る。そして、母の訴えに、
主はまだ時ではないと答えられ
た。「神の時」がある事を覚え、
待とう。すると、主からの示し
が来た。6つの水がめに水を満
たすよう。水など常識的には無
意味だ。水などどうなろう。
しかし、手伝いの者達は従順に
従った。奇跡を見るためには、
主の言葉に「従う」事が重要だ。
すると、水が最上のぶどう酒に
変えられた。世話役は驚嘆し喜
び、花婿は賞賛を受けた。
皆が喜び祝福を受けた。私達も
突発の事態が起きた時、慌てふ
ためいて、パニックになるが、
まず静まる事が一番大切だ。
動くなかれ。まず祈り、主を待
ち、示された事に従おう。
急ぐな、慌てるな。主が導きを
下さる。  
-----------------------
日常的におこる小さな困難、ア
クシデントを主に頼らずやって
いることが多い。主にいつ頼る
のだろう・・とふと思う。大き
な困難に出会って初めて主に向
き合うのではなく、瞬間、瞬間
を主により頼んで歩みたい。



2006年11月22日(水)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」エレミヤ29:11                   

ニーバーの有名な祈りだ。「主よ、
変えられないものを受け入れる心
の静けさと、変えられるものを変
える勇気と、その両者を見分ける
知恵を我に与え給え」しばしば変
えられないものを変えようとし、
変えるべきものを変えない。これ
は悪戦苦闘となり消耗戦となる。
変えられないものは、受け入れる
ことだ。まず祈って行く事だ。例
えば、性別、人種、時代、国、親、
境遇・・様々、それは御心と受け止
め、受け入れる事が大切だ。境遇、
成育歴、才能、皆違う。決して平
等ではない。それは神のご意志で
あり深いご計画だ。自分への最善
と受け入れる事から、肯定的、前
向きの信仰生活が始まる。「○○
のようであればよかったのに」こ
れは一生自分を否定して生きて行
く事になる。何の喜びも無い人生だ。
私達は必ず状況を変えようとする。
相手を変えようとし、もがいて疲
れ果てる。これは逆だ。自分を変
える事が出来る。その時喜びを経
験する。
・・・・・・・・・
必ずまず状況を変えようともがく。
消耗戦の中で段々、状況の問題で
なく自分と神様の関係の問題だと
気づく。状況は全く同じなのに、
神に焦点が合う時平安と喜が来る。
不思議だ。
 


2006年11月21日(火)

 「マケドニヤへ出かけることにした・・確信したからである」使徒16:10 

 


確信は大切だ。「確信し
た」とあるように、神は
導きを与え、「確信」を
与えて下さる。導きは環
境によって示される。
パウロはアジヤとビテニ
ヤ方面をストップされた
わけだ。もし環境による
阻止が無ければそちらへ
行っていた事になる。
そちらでなく、マケドニ
ヤに渡り、ヨーロッパ伝
道という大きなわざが用
意されていた。あっちも
こっちも閉ざされ戸惑い
にあっただろうが、確信
により行動できた。神に
は深いご計画がある。
目の前の道が閉ざされた
からと悲観、悲嘆する必
要はない。あなたに遙か
に良い別の道があるとい
う事だ。結果的にそれは
最高の道だ。環境の閉じ
開きは御心だ。閉ざされ
たなら別の道だ。又、環
境が開き、御言葉与えら
れ、不安がなく平安があ
ればゴーサインだ。導き
を得るためには、一番大
切な事は自らの意志を明
け渡す事だ。右でも左で
も、御心のままにとの態
勢でいる時、必ず示され
る。そして、必ず御霊の
「確信」が与えられる。
「確信したからである」
の通り、あなたの求めて
いる導きに、確信与えら
れて前進しよう。   
----------------------
確信を与えられるためには
祈りと、御言葉を読むため
の時間が必要だ。自分の思
いをまず脇に置き、心静め
て神様の前に出る時を持と
う。
 


2006年11月20日(月)

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」ヘブル11:6  

 
 


信仰は目に見えない。触れる事も
感じる事も出来ない。日頃慣れて
いる五感では感じる事の出来ない
ものだ。しばしば、五感で感じよ
うともがくが、決して感じること
は出来ない。そうでなく神の語ら
れた御言葉に立つことが「信仰」
、五感では感じる事が出来ないが、
御言葉に立ってつかむ事ができる
ものだ。第六の感覚だ。それによ
って無いものを有るもののように
呼ばれる方のみわざを体験する。
そして、信仰が最も働き、成長す
るのは「不可能」の土壌において
だ。困難な可能性が少ない状況で
なく、絶望、全く可能性ゼロの状
況においてだ。あなたも経験ある
だろうか。今、可能性ゼロの状況
なら感謝しよう。それこそが、
「もしあなたが信じるなら、あな
たは神の栄光を見る」ところだ。
ラザロは死んだ上に更にもう腐っ
ていた。この現状か御言葉か、ど
ちらを選択するかだ。不可能の土
壌に奇跡は起きる。何も見えず感
じる事が出来なくても、御言葉に
立って信じていよう。必ず神の栄
光を見る。
-----------------
見えないところを御言葉によって
確信して行くから神様の平安が与
えられ嵐の中で喜んでおれる。神
様から目を離せば、限りある五感
はいつも不安と苛立ちを持って来
る。


2006年11月19日(日)

「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」出エジプト3:5              

     
モーセは王子として育てられ、有能
であり、言葉にもわざにも力があっ
た。40才の時イスラエルを救おうと、
虐げるエジプト人を殺し、イスラエ
ル人を助けるが理解されず、ミデヤ
ンに逃げる。自分の力で事を行おう
として完全に失敗した。ミデヤンの
地で二人の子供が生まれ、舅に仕え、
羊飼いとして40年を過ごす。王子が
名も無い一介の羊飼いとなった。毎
日毎日何もない荒野で羊を飼う生活。
かつて王子の身では、まるで人生の
無残な敗北者だ。しかし、ここにこ
そ神の計画があった。モーセの力が
砕かれ尽くした時こそ、神の時到来
だ。80才になったモーセを神は召し
出された。今度は神ご自身が、神の
力によって遣わすために。神の時と
方法がある。あなたは今、荒野か。
神はあなたを次なる働きのために整
えておられる。神を待ち望もう。又、
あなたは何らかの導きに召し出され
ているか。神のあなたへの時であり
ご計画だ。信仰もって従おう。常に
今いる場所が聖なる地だ。
・・・・・・・・・
荒野にいるなら感謝しよう。神が間
に合う器に整えて下さっている時だ。
何もない荒野で、砕かれ、忍耐や待ち
望みや自分を捨てる事を身につける。
成長する。


2006年11月18日(土)

「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」詩篇105:19                        

ヨセフは、見た夢を兄達に話した
事により、兄達から妬まれ、エジ
プトに奴隷に売られてしまう。兄
達が自分を伏し拝むという夢と、
苦難の現実は全く相いれない。む
しろ真逆だ。エジプトでは主人に
愛され順調に仕えていた。しかし、
全くの濡れ衣で投獄され獄中生
活となる。ヨセフは鉄のかせに入
れられ、試練を受け入れた。絶望
し自暴自棄になる事も出来たが、
ヨセフは神を信じて歩み続けた。
耐えられない試練は決して無く、
試練の期間も定められている。つ
いに、神の言葉は成就した。牢か
ら出され総理大臣にばってきされ
た。苦しい試練により、銀を精錬
するように練られ、ヨセフの高慢
は砕かれ、造り変えられた。兄達
を赦し、私を遣わしたのは神だと
言えた。約束は「神の時」に必ず
成就する。成就するまでのテスト
の中で、自分自身も練られ造り変
えられる。それこそが大きな恵み
だ。御旨成就と共に成長し変えら
れた自分を見い出す。
・・・・・・・
ヨセフは次々と厳しい苦難が臨んだ
が、必ず救いも用意されていた。耐
えられない試練は無く、逃れの道が
必ずある。信仰が試され訓練され、
約束は必ず成就する。


2006年11月17日(金)

「サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた『ここに、わたしがあなたに話した者がいる・・」Tサムエル9:17  



神が民の言う事を聞き、サウルを
王に定められたが、サウルとサム
エルの出会いが絶妙だ。サウルの
父親の雌ロバがいなくなり、捜し
に出る。サウルは捜し回り、ツフ
に至る。見つからず帰ろうとする
と連れの者が、丁度この町に神の
人がいるから聞こうと提言する。
サウルは同意し、町へ入ると水汲
みの娘達がいた。尋ねると、その
神の人は丁度今日、町に来て、今
からいけにえをささげるところで、
すぐに行けば会えると。
進んで行くと丁度ピッタリ、サム
エルに会えた。サムエルはその前
日に、一人の人を遣わすから君主
とするよう、御告げを受けていた。
雌ロバ捜しからパズルが埋まるよ
うにすべてのタイミングがピッタ
リだ。あなたも、時や事柄がピッ
タリのタイミングで運ぶ経験があ
るだろう。それはまさに主であり
、主が導かれているという事だ。
主の導きは環境からもわかる。
今、導きを求めているなら、環
境もしっかり見定めていよう。
-------------------
神様の絶妙なタイミングを経験す
る時、傲慢になりやすい者だが、
完全に御前にへりくだらされる。
神様の取り扱いは、いつも慈しみ
と愛に満ち溢れている。そして、
それは、神様だ、とはっきりわか
るようにして下さる。


2006年11月16日(木)

「わたしのことばにとどまるなら・・わたしの弟子です。そして、真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:31




よく自由とわがままを勘違いする。
自分のしたい事をするのが自由だ
と思い、思い通りに出来ないと自
由を奪われたと反発する。
不倫をして自分の気持ちに真実に
正直に生きると言う。責任を伴わ
ない自由などあり得ない。それは
自由でなく肉欲であり罪だ。
自由は御言葉ら来る。御言葉から
しか来ない。何でも好き放題でき
るのが自由なのではない。主は真
理そのものであられ、自由であら
れた。しかし、自分の思いでは何
一つされず、父に服し父の御心に
従い、父に示された事を行われた。
御言葉に従うところに真の自由が
あり、溢れる喜びと平安を味わう。
自分の思いを遂げる自由は、つま
り肉であり必ず苦い刈り取りをす
る事になる。世の人は自分は自由
だと言う。しかし、真理によれば
サタンの奴隷だ。愛なる神の奴隷、
義の奴隷になる事が自由なのだ。
今、示されている事があるなら御
言葉に従おう。ますます自由にさ
れ、喜びを経験する。
--------------------------
何でも出来るのは、肉の奴隷、感
情に翻弄されているという事だ。
まとわりついてくる肉の思いから
完全に解放されるならどんなにい
いだろう。御言葉に留まり御言葉
に従い肉に勝利しよう。


2006年11月15日(水)

律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ4:4   


  

聖書を読むと責められて、辛くな
り落ち込む事があるだろうか。完
全でなければ失格と思ってしまう。
しかし、それは律法主義だ。律法
は私達を責めて追い立て、十分と
いう事が決して無い。「今のまま
ではダメ、もっと〜」「あれもこれ
もしなければ」「休むな」「もっと
頑張れ」「する事は山積だ。早く、
早く」心は焦り、荷は山となし、常
に自分は足らない。安堵感がなく満
ち足りる事がない。これは律法主義
に陥っている。自分が立ち上がっ
て背負うので、自分の肩にすべて
の荷がかかる。何かする事によって、
神に受け入れられ、認められようと
している。それはキリストから離れ
ていると言われる。律法の中にいる。
恵みはこうだ。「私」はすべての義
務から解き放たれている。内に住ま
れている「主」が一つ一つ成し遂げ
て下さる。私はその主を信頼し、安
堵し、喜びつつその主と共に一つ一
つあずかって行く。一つ為すごとに
共なる主を知れ、更に喜びを味わう。   
・・・・・・・・・・
恵みの中は安心感と安堵感、喜びと潤い
暖かさだ。主と一つだ。身体は疲れても
心は疲れ無い。だから快適な疲れだ。焦り
、いら立ち、苦々しい心は恵みから落ち
ている。自分が、自分が、になっている。
全き憩いに返ろう。まず安堵がある。


2006年11月14日(火)

「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる」詩篇103:5


 

ある男性は学生の時に、両親が
離婚した。目の前で親が大声で
罵り合い、暴力と悲鳴、争い、
物が壊れ、悲惨極まりない状態
で別れた。自分の心も壊れた。
何も感じなくなってしまった。
何をしても何を見ても無感動、
心が動かない。虚無感で身体ご
とおおわれ、息はしていても死
んでいる生ける屍だった。
富も名誉も何もいらない、ただ
一つ、生きている実感、生きる
喜びが欲しかった。神に立ち返
った時、心に暖かい灯がともっ
た。暖かさに包まれ、ただ一つ
欲しかったもの、あの生きる喜
びが湧き上がったのだ。
今、牧師だ。「生きる喜び」は、
神しか与える事の出来ないもの
だ。その喜びが与えられている
事にまず感謝しよう。
日常の些細な一つ一つの恵みを
数えよう。目の前の恵みを感謝
しよう。恵みを見る時、神を見
ている。感謝する時、神に焦点
が合っている。今日も恵みは溢
れている。
----------------------
生きる喜びは神様から来る。肉
の目で見るなら不平、つぶやき
で一杯にしか見えない。世界が
自分に冷たく思えるなら、霊の
目でもう一度良くみて見よう。
感謝できない自分が見えてくる。


2006年11月13日(月)

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのすか」マルコ4:38  



嵐の中で平然と熟睡している主
に「私達が溺れ死んでも何とも
ないのか」と叫んだ。今まで主
のみわざを、その御力を見て来
たので、ある意味、確かに弟子
達の信仰による言葉だった。
何とかできうるお方と信じたか
ら叫んだ。しかし、ここでの弟
子達の態度は、主を主として、
愛し、崇め、へりくだった求め
ではなくて、自分の願いを思い
通りに叶えよ!と、主に命じて
いる自己中心な信仰だ。私達は
どうだろう。自分の願い通りに
叶えてくれる神、自分に良くし
てくれる神、それを求めて神を
崇めているのだろうか。実は自
分が主で、自分の願望充足の神
を求めている。神に仕えるので
なく、神に仕えさせようとする。
主よ、何とも思われないのかは、
助けるべきだ、助けて当然、助
けろよと言う事だ。罪の性質ゆ
え、信仰においてまで自己中心
だ。嵐により、様々な出来事に
より、こんな自らが砕かれて、
自分の信仰の実態を見せられる。
気づかされ、正され、神中心の
信仰へと、日々成長させて下さ
っている。  
-------------------
状況は良くなって当然、祈って
いれば必ず思い通りの結果がで
るはず・・・神様の御愛はその
程度だろうか。自分の頼ってい
る杖をとられた時、嵐の中で神
様の真のご計画を知る。


2006年11月12日(日)

「あなたがたのことばが、いつも親切で、味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります」コロサイ4:6               

舌は両刃の剣だ。人を生かしも殺しもす
る。無思慮で不用意な一言で、長年の信
頼関係が壊れてしまう事がある。口から
発する言葉は十分気をつける必要がある。
まず語ろうとしている事は「真実か」。
嘘は悪魔から出ていて、悪魔の舌になっ
てしまう。次にそれは「必要か」真実で
あっても語る必要のない事は多い。夫婦
や友人の間で、何でもかんでも思った事
を口にすべきではない。相手を深く傷つ
け関係が崩壊してしまう。逆に真実を語
る必要があるのに、語らない事も相手を
愛する事にならない。愛ゆえに、忠告や
助言が時に必要だ。そして「親切か」親
切に語る事が大切だ。相手の立場に立ち、
配慮を込めて柔和に愛をもって語ること
だ。特に忠告は愛がなければ、うるさい
シンバルだ。その時、そのあなたの言葉
は、相手の心に響き、相手を動かす。
又、未信者に対する時、親切で且つ塩の
味わいのある言葉である時、どう証しす
れば良いかが御霊によってわかる。一つ
一つの機会が用いられて行く。
・・・・・・・・・・・
祈りが大切だ。祈っているとどう答えた
らよいのか、御霊から教えられる。自分
自身が御霊に導かれる時、ふさわしい言
葉が与えられる。言葉は取り返しがつか
ないので、唇の戸が守られるよう祈ろう。


2006年11月11日(土)

「彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16        

律法主義は、心は除外して、形だけ表面
的に物事を行って行く。するといつの間
にか心が麻痺し、目に見える形―規則や
習慣に安心感を得るようになる。形だけ
なら人は幾らでも行えるのだ。信仰深い
霊的な人を幾らでも演じられる。礼拝や
デボーションも、奉仕もそうできる。し
かしそこに主への愛が無いなら、いっさ
いが無益であり無価値だ。律法主義の中
にいる時、自分の醜さや弱さが決して見
えない。だから人も裁ける。しかし、主に
向く時、おおいが取り除かれるので、自
分のありのままの姿が見える。ふたをし
ておきたい、決して見たくない自分の醜
さ、弱さ、傷、汚れ、それらが鮮明に見
える。光があり、神に触れている証拠だ。
律法主義は暗闇の中だ。光が無いので、
自分は常に正しく、相手が間違っている。
ありのままの自分を認める時、自由にさ
れる。喜びが来る。神と人に対して自由
にされ解放されるので、自分を素直に生
きて行く事ができ、信仰生活に喜びと楽
しみを味わう。主の愛の中で伸び伸びと
生き生きと、生きて行ける。                
・・・・・・・・・・・・
律法主義にいると、生きている「実感」
が無い。現実を生きていないからだ。バー
チャル・作り物の世界だ。主に触れる1日
1日は新鮮で、喜びがあり、実感があり、
気持ちがある。人間らしく自分を生きて行
けるから嬉しい!


2006年11月10日(金)

 「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」マタイ10:29



信仰生活にとても大切な事がある。
日々の生活に、人生に様々な事が起
こる。不意の出来事、理解に苦しむ
事、悩みや問題、苦しみ、悲しみ・・
しかし、その一つ一つ、すべての事
が神の許しによるのであり、神の御
心であり、神の意図があり、私達に
必要なものである事を、どんな時に
も堅く信じる事だ。右にも左にもそ
れないで、信じるのだ。
神を信じているのに、なぜこんな事
が?何で何で?これで神は愛?私を
顧みておられる?他の人は幸せそう
・・こんなサタンの火矢を受け入れて、
自己憐憫に陥り、どんどん落ち込ん
で行く。心が深く沈み、失望落胆、
迷いと疑い、暗闇の迷路に入り込む。
神の許しの中だと堅く信じて立つ時、
感謝できる。理解は出来ないが感謝
できる。神に委ねる事が出来る。
それが信仰だ。その時、サタンに足
場を与えない。今、攻撃が来ている
か。意味はわからないが堅く信じよ
う。父のご計画の中だと。
-------------------------
時がたつと少しずつわかる事もあれ
ば、全く理解できない出来事の中に
置かれる事もある。けれど私達はす
べてそれが善、益となる事を知って
いる。導いて下さる主がどんなお方
か知っている。


2006年11月09日(木)

「わたしのくびきを負って・・たましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」マタイ11:30 



くびきとは、畑を耕す時に同方向へ二頭
の家畜を進ませるために、板に二つの穴
を開けたものだ。その穴にきちんと頭を
入れるなら、からだにピッタリ合って快
適だ。主のくびきは快適なのだ。安らぎ
をもたらすものだ。しかし、嫌がって、
くびきを避けようとするなら、首を締め
付け、痛くて苦しいばかりだ。主に与え
られた環境をしっかりと受け入れるなら、
それは快適で安らぎをもたらすものにな
る。しかし、避けて逃げようとするなら、
ますますもがき首を絞め、自分を束縛す
るばかりで、苦痛でたまらない。こんな
面白い話がある。人には負うべき十字架
が一人一人にあるが、それが嫌で人の十
字架が良く見える。それであちこち替え
ては試してみるが、どれも自分の身体に
合わない。取り替えては試し、最後にと
うとう自分にピッタリ合う十字架があっ
た。すると、それは最初に嫌で捨てた十
字架だった。主のあなたに与えられたく
びきは、匙加減ピッタリだ。あなたのた
めのくびきだ。しっかり負うなら快適で、
安らかで、そして学びを得て成長して行
ける。    
・・・・・・・・
一人一人に主が与えて下さったくびきが
ある。それは一見、嫌で苦しみに見える。
しかし、しっかりと負うなら、心底平安
が来て、主の愛や潤いを知る。今までも
経験して来たところだ。逃げずに負う事
を祈ろう。
 


2006年11月08日(水)

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」詩篇84:5    

悲しい事や苦しい事、理解に苦しむ事が
起こる。未信者にもクリスチャンにも同
じように起こる。しかし、違いは、神を
信じる人は、どんな悲惨な事、どんな悲
しい苦しい事の中にも神を認めて行く。
そのまっただ中に神がおられ、神の愛、
慈しみ、助けを実際に体験して行く。神
を信じない人は、どんな奇跡的な素晴ら
しい事があっても、そこに神を決して認
める事は無い。そこの相違だ。信じる人
は何を見ても、どんな出来事が起きても、
そこに神を認め、神の愛を認める。どん
な問題や悩みが来たとしても、神を信じ
ているから、そこを泉の湧く所とし、そ
の中に神を見、出会って行く。信仰とは
そういう事だ。だから、もし、思い煩い、
焦り、恐れ、怒り、不満があるなら、神
以外のものを頼り、見ている事だ。そうで
なく、その所こそ、泉の湧く所である事を
体験して行く者とされよう。
・・・・・・・・・・・
どんな涙の谷も、理解不能の苦しみも
そこが泉のわく所ー神を深く知る所にな
るとは何と恵みだろう。起こる一つ一つの
出来事に、神を認めるか、認めないかだ。
今日も「行く所どこにおいても主を認
め」よう。新たに神に出会える。
 


2006年11月07日(火)

 「主よ。いつまででしょうか。あなたはいつまで身をお隠しになるのでしょうか」詩篇89:46

 

詩篇にも色々な表現で出て来るが、
しばしば神はご自身の臨在を伏せ
れる。それは私達が神ご自身より
も、喜びや、感情的な高まり、神
体験を求めるからだ。臨在を喜び
もって神は現して下さる。しかし、
「体験や感情」に依存しないで
「神ご自身」に依存するように、
時に感情的なものを取り除かれる。
つまり、何も感じなくとも・・恵ま
れているように<感じ>ないし、
喜びの高揚感も無い・・そんな時も、
感情に振り回される事なく、神に
従って行けるようにだ。その時も
正しく神は共におられるし、神は
かつて一度もあなたを離れた事が
ない。感じようと感じまいと、神
に「信頼」して行く事を学ばされ
る。あなたはどうだろう。
もし感情的なものを求めているな
ら、必ずこの所を通される。信仰
は感情ではない事を学ばせられる。
何も感じなくとも心配無い。神に
信頼していよう。エマオ途上の主
は二人の心が燃える時も、燃える
前も一緒に歩いていて下さったよ
うに、感じようと感じまいと、主
は今あなたと共におられる。
-----------------
聖霊様に満たされた高揚感は何も
のにも変えがたいが、変わり映え
のしない日々のように思われても
そこに主はおられる。何という幸
いだろう。


2006年11月06日(月)

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」創世記3:21



アダムとエバは互いが裸でおれな
くなった。罪が入り、ありのまま
の自分が出せなくなった。
アダムの罪以来、私達も同様だ。
本当の自分を誰にも見せる事が出
来なくなった。誰にも言えない、
心の底に潜む、妬み、憎しみ、敵
対心、虚栄、コンプレックス、プ
ライド・・。自己中心、人を見下げ
る高慢、人には言えないが自分の
心は知っている。皆が、本音をひ
た隠して生きている。本当の自分
は弱くて、劣等感のかたまりで、
恥で知られたくない。それでいち
じくの葉でおおい隠す。そのいち
じくの葉とは、富、名誉、地位、
成功・・。虚勢を張って生きている
が、本当は弱い、もろい自分。
主の十字架により罪の代価が支払
われ、隔てが取り除かれた。罪が
完全に赦されている。この本音の
部分こそが受け入れられている。
弱さがありのまま愛されていて、
ありのまま神のもとへ行ける。
いちじくの葉が不要となり、主が
おおいとなって下さった。
---------------
弱くて汚い自分の本当の姿をすべ
て神様は知っていて下さる。示さ
れる事も神様の憐み、素直に受け
入れ十字架を感謝して今週も歩も
う。


2006年11月05日(日)

「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)

主は子供のような信仰を持つようにと言
われた。しかし、子供のような素直な信
仰とは、子供っぽい信仰の事ではない。子
供っぽい信仰とは、自分が受ける事、も
らう事しか考えない。神は良くして下さ
らなければならない。困難が来るとすぐ
不平不満。思い通りにならないと、すね
て、いじけて、自己憐憫に陥る。神を責
め、人を責め、環境のせいにする。友が、
忠告し間違いを正そうとすると、自分を
受け入れないと怒る。どこまでも「自分、
自分、自分」自己中心なのだ。あなたは
どうか。大人の信仰か子供っぽい信仰か。
神は大人の信仰へと成長させたい。困
難が次から次へと来るのは愛のゆえだ。
ああしてくれない、こうしてくれない、
自分が中心に世界が回っているか。一生
それで終わるなら哀しい。あれが欲しい
これが欲しいに終始するのでなく「あな
たは私に何を望んでおられますか」に祈
りを変えよう。
・・・・・・・・・
焦点と関心が自分の事のみだろうか。
神は私に何を求め、何を望んでおられる
のだろう。焦点を「自分」から「神」に
変えて、祈り、発想し、行動をしてみよう。
違う世界が見えて来る。
 


2006年11月04日(土)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります」マタイ6:34   

不安は不安を呼び、幾ら大丈夫だと思っ
ても、不安が泉のごとく湧き上がって来
る。あなたも経験があるだろうか。周囲
から、大丈夫だからと慰められ励まされ
ても、どうしてもだめなのだ。自分でわ
かっているが、どうにもならない。主は
それもご存じで、この日、「今日」を考
えてごらんと言っておられる。今、何か
不足があるか?常に、今日は必要与えら
れている事に気づかないか。その「今日」
の連続が一生だ。果てしない明日を心配
し恐れるより、今日、満たされている事
に感謝してはどうだろう。ある独り身の
高齢の婦人は、「だれが心配したからと
いって、自分のいのちを少しでも延ばす
ことができますか」の御言葉が、心底入
って来て心から納得できた。今日、飢え
ていない、身体が守られている、「今日」
を心底感謝していると、喜びが溢れ、将
来の不安、煩いが全く消えて無くなった
と。明日は委ねて、とにかく今日は、感
謝ではないだろうか。
・・・・・・・・・・・
先を思い煩い、今日を真っ暗にさせてし
まうサタンの思うつぼだ。その問題が来
た時に主と共に対応すればよい。今日、
主に思いきり精一杯感謝を献げよう。自分
の煩いでなく、この1日を主のために用い
て頂こう


2006年11月03日(金)

「わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『わたしは聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若い頃からのあなたの生き方だった」エレミヤ22:21   



主の側では御声をかけ続けて下さ
っている。メッセージを毎週聞い
ているのに、なぜ自分の事として
聞こえないのか。物理的には耳に
聞こえているが、心の耳には入っ
て来ない。聞きたくないのではな
く、聞きはするが、心に御言葉の
種が落ちる前に悪魔に奪われて行
く。なぜ聞こえないのか。
従うつもりが無いからだ。良いお
話と思うが、犠牲を払う気は無い
から、心が受け取らない。御言葉
が心にぐいぐいと入り迫る時は、
自分が聞き従おうとしている時だ。
どのようであれ、御声に従い、自
分が変わろうとの思いがある時、
御言葉が心に力強く響いて来る。
主の言っておられる事がわかる。
種蒔きの例えの土地の通り、自分
の側の心の態度は問題だ。心の奥
では拒んでいたりする。
無意識かも知れない。うすうす感
じているかも知れない。あなたの
心はどうだろう。実は聞こえては
困るのではないか。成長は気づき
から始まる。本当の姿に気づける
ように。気づきは御霊の働きだ。
光が心に臨んでいる証拠だ。
--------------------
御言葉が窮屈なのではない。真理
は人を自由にするのに心に真っ直
ぐ入ってこないのは何故だろう。
何がさえぎっているのだろうか。
何故聞けないのだろうか、立ち
止まってよく祈ってみう。


2006年11月02日(木)

「しかし今、こどもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか・・私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Tサムエル12:23


ダビデは病気の我が子のため
、断食して癒しを求め続けた
が、願いは叶わず子供は死ん
でしまった。その死を知った
ダビデは、身体を洗い、着物
を着替え、主の宮に入り礼拝
した。そして、食事を取った。
家来達は驚いた。子供が生き
ている間は断食をして泣いて
祈ったのに、亡くなると起き
上がり食事をするとは、と。
私達はこのダビデから学ぶ事
が出来る。自分の願いは願い
として、主に祈るべきだ。
しかし、しばしばその結果が
自分の願いと異なる事がある。
それは、どんなに強烈な願い
でも「ノー」が答えであり、
それが主の御心なのだ。その
時は、その「ノー」をダビデ
のように受け入れる事だ。
今、あなたも「ノー」の答え
を受け取っているか。主の御
心として厳粛に受け入れよう。
そこで主を新しく知る。その
答えはノーだが、霊的にはイ
エスで、一歩前進して行ける。
-----------------
御心がわかった事が感謝だ。
ノーの返事をもらったなら、
そこに神様を見ていけるのだ
から決してマイナスではない。
平安に御心の真中を歩んでい
るのだ。


2006年11月01日(水)

『イエスは彼に言われた「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した』ヨハネ5:8

この世には沢山のご利益宗教がある。商売
繁盛、家内安全、無病息災・・では、主の
与えるものは何だろう。信仰を持つ事によ
って、入試類はすべて合格、商売は大繁盛
し、出世し、人生何もかもがうまく行く事
なのか。不都合な事、悪い事は無く、平穏
無事に一生が過ぎる事なのか。そうではな
い。主が与えて下さる人生とは、自分の足
で立って、自分の責任で歩いて行く歩みだ。
38年間、病にいたこの男性は人生への諦
めや、周囲への責任転嫁、自己憐憫にあっ
たかも知れない。しかし、主は起きて床を
取り上げ歩めと言われた。今まで周囲の同
情があり、病気の中で甘んじておれた、そ
の床はいつしか居心地良い場所になってい
た。病が直るという事は、これからは自分
で働いて、立って行く事だ。病や人に依存
するのでなく、主に依存して、自分で立っ
て歩む人生へと招いて下さっている。自立
とは主に依存する事だ。自分の人生を人や
環境のせいにするのでなく、自分の足で立
つ歩みへと招いて下さっている。そこに生きる
喜びがある。
・・・・・・・・・・・
諦めていた者に「よくなりたいか」と御声をかけ、
自己憐憫や責任転嫁、甘えの床を引き払った全く
新しい歩みへと導き出される。このままでいいのか、
「よくなりたいか」、問われている。