2006年12月31日(日)

「この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」申命記8:2


学生はテストにより、その学課がマスタ
ー出来たどうかを試されるが、神も私達
の信仰をテストされる。このテストが試
練だ。苦しめ、心の内にあるものをあら
わにするためと。試練により普段から心
の内にあるが、決して気づかない自分の
心を知る。隠れたプライドや虚栄心、貪
欲、自己中心に気づく。苦しみの荒野で
なければ、圧迫がなければ、決して気づ
けない、自らの心の底にあるものだ。こ
の1年歩ませられた行程、試練の中で見
せられた自分の姿、又、教えられた霊的
教訓一つ一つをしっかり心に刻もう。
「苦しみに会ったことは、私にとってし
あわせでした・・それであなたのおきて
を学びました」「あなたを苦しめ、試み、
ついにはあなたをしあわせにするため」
練りきよめ成長させて下さるため、神の
目的は祝福のためだ。苦しい試練が
ついには喜びと幸せに結実して行く。
この1年振り返り沢山の学びを感謝しよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
試練の中で自分の本音の姿を見せられる。
ドロドロで、いかに醜く罪深いか。しかし、
そのままが受け入れられ愛されており、
まさにそのための十字架だと言われる。
試練の時に、神の深い愛を知る。



2006年12月30日(土)

「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように」ローマ11:36

                  
「神から」発する事が重要だ。神から発
するなら、神によって成り、神に至る。
そして、神に栄光が帰される。しかし、
もし「人から」発するなら、人に至る。
途中経過が神によって成る事は決してな
いし、神に至る事もない。その計画が、
神の御心で始まったのか、人の思いで始
まったのかは重要だ。肉の計画なら神に
神に栄光を帰される事は無い。その計画
の源が神ならプロセスも神、目的地も神だ。
「だれが、まず主に与えて報いを受ける
のですか」私達が神に何かを与えて、神
から受ける事はない。私達が何かしたか
らという事には、いっさいよらない。
「すべてのことが神から発し」、自分が
祈ったから、事が成ったのではない。そ
れなら自分から発し、自分に栄光が帰さ
れる。神から発したみこころに、自分の
願望や思いを沿わせて、自分が変えられ
て行く、それがみこころに沿った祈りだ。
人からのものは成就する事がない。神か
ら発しているかどうかは大切だ。           
・・・・・・・・・・・
自分の計画、自分の思い、自分の力は
虚しい。自分から発すると自分によって成り
自分に至り、自分に栄光を帰す。神の御心
は何か、何が良い事で受け入れられ・・お心
を切に神を求めて行きたい。
 


2006年12月29日(金)

 「私たちは良くても悪くても・・私たちの神、主の御声に聞き従います」エレミヤ42:6             

              


民は、エレミヤに、神の御声
に聞き従うと言いながら、ユダ
にとどまれとの示しに従わなか
った。良くても悪くても従うと
言いつつ、実は、エジプトへ逃
げる事をすでに決めていて、そ
の承認印が欲しかったのだ。
私達はどうだろう。御声に従う
ので、御心を求めると言いつつ、
実は心では自分の願望、決定が
確固としてあるのだ。それを保
障し、後押ししてくれる都合の
良い御言葉を探し出す。願望が
強いとそうしていて気づかない。
自分の思いを遂げて行き、無残
にも失敗する。ユダにとどまれ
ばバビロンに殺されるのではと、
民は不安と恐怖におののいてい
た。神が救い出すと語られたに
も関わらず。御声に従わず安易
な方へ進んだ。私達も、自分の
肉の欲望の声に従うのは心地良
い。自分に都合良く、楽だ。
しかるに、神の御声は時として
厳しい。しかし、自分の都合に
御言葉を合わせると、民のよう
に不信仰に陥り、神に反逆して
行く。
-------------------
まず肉が反応するのは仕方ない
ことだ。しかし私達にはもう一
つの声がある。肉が反応しても、
御心を尋ね、御声を聞き分け、
選んで行くなら感情に翻弄され
る日々から守られる。


2006年12月28日(木)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」イザヤ55:8




心の願いは神に祈るべきだ。神は
そうするよう招いて下さっている。
しかし、その願いがすべて実現す
るとは限らない。自分の願いは願
いとして告げるが、それが主の御
心と一致するかどうかを、求めて
行く必要がある。一致していれば
「願ったその事はすでにかなえら
れた」と前進して行ける。
もし、自分の思いと神の御心が違
うなら、思いを越えた更に深いご
計画がある事と、主に尋ね求めて
行く事になる。時に、全く予想外
の展開になる事も経験する。時に、
神の思いは人の思いと全く異なる
遙かに高くて深い。主もゲッセマ
ネで、ご自身の願いを退けられ
「わたしの願いではなく、みここ
ろのとおりに」と祈られた。
これにより私達の救いの計画が成
就されたのだ。自分の願いに固執
して苦しむ事はない。主は「願う
ところ、思うところのすべてを越
えて豊かに」与えて下さる。
題は「自分の計画」でなく「主の
計画」を真に求めているかどうか
だ。 
------------------
訴えは聞かれている。しかし神様
に導かれるところが万事益だ。
「御心の通りに」が真の自由と平
安の道、思い通りにならなくても
益、今わからないけど平安に生き
ていける。


2006年12月27日(水)

「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ・・」イザヤ55:11      

私達は意志が強ければと思う。祈り続け
られる意志があれば、必ず答えられるの
にと。しかし、人間の意志の力が物事を
実現させるのではない。神の意志が、物
事を実現させるのだ。だから、神の御心
が重要だ。しばしば、自分の望む事、又、
主が望んでおられるのではと「自分が思
う事」を神の御心と勘違いする。しかし、
成就しないので、いぶかる。ある人が、
これぞ御心と思うが、決してうまく行か
なかったと証しした。後にそれは、神の
望む事ではなく、自分が、神のためにし
たいと望む事をしていたと気づかされた。
が、神のためとの大義名分に隠れて、な
かなか気づかなかったと。「自分が望む」
神の言葉でなく「神の口から出た」言葉
が成就する。決して虚しく帰らない。ど
うすればよいのか。まず自分自身の意志
を明け渡す事だ。自分の意志が妨げる。
私達自身の意志が、神の意志に服し、御
旨を選んで行く時、神の力が御旨を実現
させて行く。
・・・・・・・・・・
自分の口から出る言葉でなく、神の口から
出る言葉が成就する。「神から」発した事
だけが神によって成り神に至る。自分が望
む事でなく、神が私に望まれる事に視点を
置いて御言葉を聞こう。
 


2006年12月26日(火)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12




サタンの誘惑は巧妙だ。ギャン
ブルや泥酔、妬み、憎悪なら、
誰でもすぐわかる。しかし、サ
タンは光の天使に、神に偽装す
る。光の天使の正義の仮面をつ
けて来る。よくある事だ。
自分の思う正しい理想を、家庭
や職場、教会で実現させようと、
やっきになる。正しい事なので、
サタンの誘惑だと気づかない。
理想は良いものだが、間違うと
理想は偶像となり、自分を縛り
つける。現状がそうでないと、
落ち込み、幻滅し、周囲を責め
裁く。正反対の方向へ向かわせ
るサタンの誘惑だ。そこに、す
べての権威と主権を持ち状況を
支配しておられる主を認める時、
サタンが見えて来る。又、御言
葉を持って来て、神殿から飛び
降りる事を試みさせる。これは
神と御言葉で、自分を正当化す
る事だ。サタンは御言葉もどき
を持って来て、自分の欲望を、
あたかも神の御心のごとくに欺
く。要注意だ。今も誘惑されて
いないか。戦う相手をしっかり
見極めよう。
---------------------
御言葉によって、常に行く道を
照らされていなければ、私達は
自分の感情に翻弄されサタンに
足場を与えて行く。今の思考、
行動の動機はどこから来ている
のか、よく見極めて行けます様
に。


2006年12月25日(月)

「あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38



 マリヤはナザレの田舎で暮らす
ごく平凡な女性だった。ヨセフと
婚約中で喜びの中にいた。突然の
事態に「どうしてそんなことに・・」
マリヤは、なぜ自分なのかと大き
な戸惑い、恐れ、不安に襲われる。
これはマリヤが望んだ事でも、選
んだ事でもない。神が一方的にマ
リヤを選ばれたのだ。周囲に自己
弁護も出来ない立場をマリヤは受
け入れ、覚悟を決め、決意し、神
に身を差し出した。私達はどうだ
ろう。私の言葉の通りにとばかり
に、神に「ああして下さい、こう
して下さい、あっちへ行って下さ
い、こっちへ来て下さい」とまる
で主をしもべのようにしてしまう。
「この身になりますように」自分
を捨て、自分を全く明け渡したマ
リヤの信仰だ。今、あなたにも導
きが臨んでいるか。マリヤと同様、
神はあなたを選びあなたにより神
のわざを成そうとしておられる。
この身になりますようにと、信仰
によりお献げしよう。
---------------------
私の言葉の通りに・・の祈りに終
始していないだろうか。祈りが叶
った事のみが祝福でうれしいので
はなく、祈り叶わなくとも、御心
がなりますように、お言葉通りに
なりますように、の態度で生きて
いこう。


2006年12月24日(日)

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」ルカ1:35

               
マリヤはヨセフと婚約していた。まだ結婚
していないのに妊娠するという事は、罪を
犯したとみなされた。まず、ヨセフに何と
説明すれば良いのか。聖霊によりなどと言
って、そんな唐突な話、ヨセフが信じられ
るわけがない。身に覚えのないヨセフをど
んなに傷つけるだろう。それに姦淫は死刑
だ。ヨセフとの信頼関係はどうなるのか。
最愛のヨセフとの関係も、自分の名誉も体
面も、信用も社会生活も、何もかもが崩壊
する。まさにマリヤにとれば崖っぷちの、
命がけの事態であった。これらの何もかも
を身に引き受け命を献げて神に従ったのだ。
神に身を委ねた。マリヤの信仰だ。神は何
でもおできになるが、私達の信仰による応
答により、神のわざを進められる。マリヤ
が信仰により応答した時に、子供を宿した。
私達も神の言葉に信仰により応答した時に、
キリストを心に宿す。マリヤは目の前の山
ほどの困難でなく、神の言葉に信頼を向け
た。私達も神の御声に信仰もって従うなら、
神のわざを見る。        
・・・・・・・・・・・・・・
マリヤの置かれていた状況は、崖っぷちだ。
しかし「聖霊が」臨み成し遂げて下さる。
厳しい状況に関わらず、神の言葉を信じて、
身を委ねて従う度に聖霊が心の中に満ちて
行って下さる。その状況の中で喜びと平安が宿る。 


2006年12月23日(土)

「見よ。東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった」マタイ2:9

博士達はその星を見、星を頼りにエルサ
レムまでやって来た。砂漠や荒野を通り、
時間と労力、財をかけ、危険を覚悟で、莫
大な犠牲を払っての旅だ。命の危険もあ
った。エルサレムはさぞやお祭り騒ぎと
思いきや、へロデはメシア誕生に恐れを
なし、人々も迷惑げであった。へロデは
「わかったら教えて欲しい、私も拝むか
ら」と彼らを、ベツレヘムへ送り出す。
実は「殺すから」だ。その進路を星が明
確に先導し幼子の所で止まった。博士達
は喜びに満ち、幼子を礼拝し大切な最高
の宝を献げた。ただメシアを礼拝をする
ために命の危険を冒して莫大な財を費や
してやって来た。礼拝し満ち足りて帰った。
私達の礼拝の態度はどうだろう。神を
礼拝するという事を今一度よく考えよう。
博士達は、ただ一心に星に導かれて、
たどりついたのが幼子だった。だから
家畜小屋や飼い葉桶も何の問題も無かった。
確かな星に導かれ行き着いた先だった
からだ。自分の思いと判断でメシアを探し
たなら、全く違う方向に必ずや間違っただ
ろう。この導きの星は聖霊だ。私達も聖
霊が日々の信仰生活を導いて下さる。
導かれる先に従おう。そこに御心がある。
・・・・・・・・・・
博士達はすべてを献げ、人生を献げて命
を賭して救い主を求めてやって来た。自分
はどれ位求めているのだろう。それを妨げ
ているのは何だろう。彼らは求めが答えら
れ幼子を見い出し「この上もなく喜んだ」
 


2006年12月22日(金)

「もし、あなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません」ヤコブ3:14

    


私達は信仰生活で、神に従って
歩もうとする時に、二つの声を
いつも経験するだろう。神の声
とサタンの声だ。サタンは神を
真似て同じ事をするので、神が
御声をかけて導かれると同様に、
サタンも語りかけて来る。
どちらも声となって心に聞こえ
て来る。よく識別する必要があ
る。サタンの声には底に苦みが
ある。妬みや敵対心、邪悪な思
いだ。みこころを求める思いの
中に、苦い思いが無いかをよく
点検すべきだ。内に妬みや敵対
心をもったまま、御声を聞こう
とする時、混乱してサタンの声
を神の御声と間違ってしまう。
心に潜む妬みや敵対心に要注意
だ。それをもったままなら、必
ず判断を誤ってしまう。
神の御前に心を照らし出され、
悔い改めよう。神からのものは
第一に純真だ。真実で見せかけ
のないものだ。そこに神の心が
映し出される。神の御声がさや
かに聞こえる。 
----------------------
良い事、悪い事での迷いは無い
が、良い事とより良い事の間で、
よくサタンに欺かれる経験をす
る。良かれと思っている心のは、
本当に純心なのだろうか。


2006年12月21日(木)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11



時に、信仰生活はパズルのようだ。
神のなさる事が理解できない。
一つ一つのピースを幾ら見ても、
意味がわからない。なぜなら、そ
れがすべてそれぞれの場所におさ
まって、初めて意味をなすからだ。
目の前に起こる一つ一つの出来事
は、よくわからない事がある。
いつも神の思いは、私達の思いよ
りも高い。一つ一つのピースがつ
ながって、神のご計画を知る。
そして、その一つ一つが必要で、
どれが欠けても、今の自分がない
ことを知る。ピースが埋まって、
今があるのだ。神のなさる事は、
その時には理解できなくても、
すべて時にかなっている。それ
ゆえ、今、置かれている境遇、
遣わされている場を感謝して、
目の前の状況を、起こる出来事
を、ありのまま受け入れて行く
ことだ。必要であり、無くてな
らぬ経験であり、後に必ずその
意味がわかる。そして、御名を
崇める。
---------------
ふり返る時、思い通りの道でな
くて良かった、といった経験が
誰しもあるだろう。神様の美し
い時がある。今もその時を生き
ているのだ。今目に見えている
ものには、必ず意味がある。


2006年12月20日(水)

「十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」ルカ22:3


ユダは銀貨30枚で主を引き渡した。
「サタンがはいった」と出て来る。
ユダの中にサタンが入ったのだ。
そして、実際のその行為に及んだ。
どのように入ったのか。ユダの思
索の中に、思いの中に入った。
そして、サタンはユダを支配して
行った。行動の前に、まず思いが
ある。ユダは会計係をしながら、
金銭を盗んだいた。金銭に執着し、
金銭のとりことなっていた。
そこにサタンはつけ込んだ。欲に
おびき寄せられ誘惑され、欲を妊
娠させると罪を生む。
女性が妊娠すると、赤ん坊が生ま
れ出るように、欲望を妊娠させる
と、必ずその罪の実がはっきりと
見える形で現れて来る。欲は見え
ないが、心の中でそれに執着し育
んで行った結果が、見える実とな
り現れ出る。まず思いにあった事
だ。思いは人には見えない。
しかし、思いで犯す罪は、外に現
れ出る。 
----------------------
思いの中から自然に生み出されて
来る実は、いくら取り繕っても必
ずわかる。結実する前に、罪をそ
のままにしないで、神様に告白し
よう。悪魔と会話しないで神様に
聞いて頂こう。


2006年12月19日(火)

『「あなたの神である主を試みてはならない」』(マタイ4:7)

ある人が「神が今すぐに○○して
くれたら、神を信じる」と祈った。
○○は答えられず、成らなかった。
しかし、その祈りは、○○をして
くれたら信じるが、そうでなけれ
ば信じないという、自分が従うので
はなく、自分を神の上に置いた神を
試す恐るべき高慢な態度だと気づか
された。○○してくれたなら 神を
信じる。これは不信仰以外の何もの
でもない。神が自分の思い通りに動
くかどうか、神を試そうとする態度
だ。しるしを求めることは、つまり
は、御言葉だけでは疑わしいから、
信じれないから、納得できるものが
欲しいという事だ。自分の不信仰を
棚上げして、自分を納得させろとの
要求だ。自らの「不信仰」が問題な
のだ。人間はどうしても、自己中心
なので、自分の願い通りに叶えられ
ないと納得できない。神を信じると
いうのは、神が自分の思い通りにな
るから信じるという事だ。自分中心
の心は、神がどんなに大きなみわざ
をして下さっても、自分の願い通り
でないなら、決して納得する事はない。
自分の思いがすべてであり、自分の願
い通りになる事が、神に愛されている
という事だ。だから神の愛がわから
ない。他人ごとではない、自分自身の
姿はどうだろう。
・・・・・・・・・・
もしかして自己中心な見方しかできて
いないのでは、とよく振り返ってみよう。
御霊に心探って頂こう。それに気づいて
行く時、初めて今まで見えなかった神が
見えて来る。自分への深い愛、奇跡のみ
わざが見えて来る。


2006年12月18日(月)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:14  

                    

悪魔が私達にできる事は「誘惑」
だけだ。何一つ手を下す事は出来
ない。十字架で悪魔はすでに頭を
砕かれた。最後の地獄行きを知っ
ていて、道連れを増やそうとやっ
きだ。そして、神の子を傷つけ、
神から離すために日夜獲物を狙っ
ている。エバが惑わされたように、
麗しい、魅力的な、好ましいもの
を見せて誘惑する。虚栄心に働き
かける。実は悪魔のせいではなく、
自分の欲望が原因だ。悪魔の餌に
食いつき罠にかかってしまうのは、
欲深い自分であり、自らの愚かさ
だ。悪魔は罪を犯させる事は出来
ない。罪を犯すのは自分自身だ。
悪魔が出来るのは誘惑だけだ。
罪を犯させ、ほくそ笑んでいる。
欲深さに誘惑が来る。罠にかから
ないためには、満ち足りた心を持
つことだ。「満ち足りた心を伴う
敬虔こそ、大きな利益を受ける道」
「今持っているもので、満足しな
さい」すべての望みを神に置いて
行く時、神が満足させて下さる。
------------------
必要なものは、与えられているのに、
満足出来ない自分、自分の中の欲を
欲しいままにしているならいつまで
もサタンの餌食だ。完全なものを神
様が与えていてくださる。
今が最善で、感謝だ。


2006年12月17日(日)

『「主よ。この人はどうですか」「あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」』ヨハネ21:22

ペテロは主に従って行こうとした時、ヨ
ハネのことが気になった。あなたにも、
気になる相手がいるだろうか。友人、同
僚の中にはどうだろう。特に、同世代や、
自分に似た境遇、似たような相手に、競
争意識を持ち、絶対に負けたくないのだ。
表には出さなくても、張り合っている。
それは高じて妬みとなる。あなたはどう
だろう。人知れず心の奥に潜む妬みが無
いか。いつも相手と比較し勝ちたい。必
然的に優越感と劣等感を行ったり来たり、
平安が全く無い。妬みは癌のようだ。ど
んどん浸食し、心を腐らせて行く苦い根
だ。対人関係の中での嫉妬、敵対心、そ
ねみ、憎しみがある時、そのままにして
おいてはならない。主の御前に出て悔い
改めよう。豊かに赦し、解決して下さる。
ペテロは横のヨハネでなく、主を真っ直
ぐに見上げる事により、殉教の死にまで、
従い抜く事が出来た。「この人はどうか」
との自分に気づき、その視点を「わたしに」
との主に向けよう。主と自分の関係が第一
であり、すべてだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
心に、ざらっとしたものがあれば、御霊に
探って頂こう。底に何かが潜んでいる。
薄々気づいているものは、根にあるもの
だ。同時に二つのものは見れない。横へ
の視線を、絶えず上に向けよう。必ず
平安に守られる。


2006年12月16日(土)

「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」詩篇130:3 

                                      
私達は失敗する。自らの罪から失敗を
招いてしまう。背後のサタンに誘惑さ
れ、乗ってしまった結果だ。サタンは
誘惑できるだけであり、罪を犯したの
は自分、責任は自らにある。少しの心
の隙に、油断につけ込まれ、大事に至
ったかも知れない。私達は失敗する者
だ。その責任を取るという事が、悔い
改める事だ。神は完全に赦して下さる。
悔い改めた時、神から離れていた事に
気づく。世にまみれ、又、自分の力に
頼り、いつしかさまよい出ていた自分
に気づく。手痛い失敗を通して、へり
くだらされ神に立ち返る。益と変えら
れる。試練の時に、しばしばこれはあ
の失敗、この過失の罰だと思う。断じ
てそうではない。罰はすでに十字架で
清算済みだ。罰も呪いも一切無い。懲
らしめはバチではなく、愛から出てい
て教育であり訓練だ。愛する者を懲ら
しめられる。罰と愛による教育は大き
な違い、神の愛にとどまろう。
・・・・・・・・・・・
罪は完全に赦される。主の十字架ゆえ
に無罪放免とされる。贖いは罪の無い
血でなければならなかった。それには
御子の血しかなかった。御父の犠牲が
あり、ここに愛がある。完璧な赦しの
道だ。よく考えてみよう。堅く立てる。

 


2006年12月15日(金)

「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ・・わきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2


この世の価値観は凄まじい。
飲み込まれてしまう。世と調子を
合わせてはいけないと神は言われ
る。世の価値観に要注意だ。
考え方、思考パタンを一新し続け
る。変え続ける必要がある。
世の考え方ではなく、神はどんな
お心を持っておられるのか、何を
喜ばれ、何が良い事なのか、神の
視点、神の思いをよく見分ける事
が大切だ。日々、目の前の起こる
一つ一つに関して、神はどうする
事を喜ばれるのか、神のお心は何
か、神中心に考える事が、心の一
新だ。肉の性質は、自分の得、自
分の利益を追求し、絶対に損はし
たくない。損得勘定だ。自分の益
にならない事などしない。
しかし、新しい性質は損得でなく、
神のみこころが基準だ、損になっ
てもみこころを行って行く。
損をしても深い平安を得る。まず、
思考が重要だ。人間は思考により
行動が生まれる。思考により生活
態度も変わる。思考パタンの一新
だ。あなたの行動基準は自分の損
得だろうか、神のみこころだろう
か。神の喜ばれることを、思考の
物差しにして行こう。あなたは変
えられ、心に喜びが来る。   
--------------------
瞬間の選択が行動へとつながって
行く。御言葉が確かな歩みの拠り
どころだ。何を選択するか、良く
吟味しよう。


2006年12月14日(木)

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」ということばを聞く』イザヤ30:21  



神の導きを求める時は、ど
うすれば良いのか。まず、
よく祈り、静かに御言葉に
聞く時を持とう。御言葉に
は明確な原則が記されてい
る。まず記されている原則
に従うことだ。原則に無い
事は、御言葉と祈りによる
平安と環境により、神の心
を現わされる。又、すぐに
答えが無い時は、焦らず、
急がずとにかく神を待ち望
もう。「私のたましいは黙
って、ただ神を待ち望む。
私の望みは神から来るから
だ」。又、強い導きが無い
時は、今、召されている場
にとどまる事が御心だ。
もし、神があなたを動かし
たいのなら、必ず強い明確
な導きがある。霊的指導者
の助言も神は用いられる。
「多くの助言者によって勝
利を得る」。霊的判断の出
る、経験ある助言者に、助
言を求める事は賢明だ。
大きな判断ミスから守られ
る。聖霊ははっきりと御心
を知らせて下さる。
よく祈って、御言葉、心の
平安、環境の閉じ開きをよ
く見張っていよう。
-----------------
動く前に、静まって御言葉
に耳を傾けよう。自分の思
い、世の流れに流されやす
い弱い者だから、霊的な導
きを静かに待ち、動き始め
よう。


2006年12月13日(水)

「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」ピリピ3:13

神が過去に与えて下さった祝福、
恵み、得た学び等は決して忘れて
はならない、「主の良くしてくだ
さったことを何一つ忘れるな」だ。
しかし、忘れる必要のあるものが
ある。過去の罪、失敗だ。罪責感
で尚もさいなまれているなら、そ
れは間違っている。その罪を悔い
改めたなら、神は完全に赦し、思
い出さないと言われる。赦しを受
け取り、前進すべきだ。例え、失
敗があったとしても、人生そのも
のに失敗したのではない。皆、失
敗する。失敗しな人はいない。転
んでも再度立ち上がるべきだ。失
敗から学べば良いのだ。信仰の父、
アブラハムも失敗し、イサクもヤ
コブもモーセもダビデも失敗して
いる。しかし、彼らは皆、ヘブル
11章の信仰の人々に名を連ねてい
る。モーセは自分の力で事を行お
うとして失敗し、荒野での40年
の後、素晴らしく用いられた。ダ
ビデも姦淫と殺人の大きな罪を犯
したが、真っ直ぐに悔い改め、詩
篇を記し、測り知れない慰めを与え
た。後ろのものを忘れ、前進しよう。
・・・・・・・・・・・
悔い改める時、完全に完璧に赦さ
れ、罪無し、無罪放免とされる。
再度、とがめを持って来るのはサ
タンだ。騙されてはならない。
見える所や感じる所でなく、御言
葉に立とう。喜びが来る。


2006年12月12日(火)

「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」ヨシュア3:5


今、あなたの前に、ヨルダン川が、
エリコの城壁が、大きな問題が立
ちはだかっているだろうか。神は
解決へと導いて下さる。まず、身
をきよめよと言われる。御霊に心
を探って頂いて、神の御心にかな
わない罪を悔い改める事だ。
どうしても通したい頑固な自分の
意志、赦さない心、不従順な心・・
御霊に導かれるままに、まず神に
告白しよう。エリコを攻めるため
に不思議な方法を神は示された。
町の回りを1度回り、7日目は7
度回り、ときの声を上げる。
変わった方法だ。しかし、民がそ
の通りに、ただ従順に従った時、
エリコの城壁は崩れ落ちた。いっ
さい人間的な何の力でもなかった。
神の力であり、神の奇跡であった。
神の御声を聞いて、神の示される
事に、その通りに従うことだ。
あなたの前に立ちふさがっている、
問題の城壁が崩れ落ちるのを見る。
今、御霊に心を探って頂こう。
悔い改めるよう示されている罪は
無いか。そして、御声に耳を傾け、
従うべき示しに従おう。みわざを
見る。
--------------
悔い改めとは行為を伴う。困難の
中で私達の助けはどこから来るの
かを真に覚える時、ただみこころ
の中心を歩む事しかないことを示
される。罪を持ったままではない
だろうか。


2006年12月11日(月)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4


私達は神に、自分の願いを叶えて
欲しいと思う。神は願えと言われ、
願いを受け止めて下さる。
しかし、祈りは、お金を入れると、
ジュースが出て来る自動販売機で
はない。何でも祈れば、自分の願
望が叶う手段ではない。私達は自
分の願いは聞いて欲しい。では、
神の願いはどうだろう。その視点
があるだろうか。神は、あなたに
何を願っておられるのか。
そして、神が願っておられるよう
に、生きたいと思っているだろう
か。主を自分の喜びとして行く人
は、主のみこころに自分をそわせ
て行く。神のみこころは何か、何
が良いことで、神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るた
めに、心を一新させ自分を変えて
行く。その時、主と一つ思いにな
って行く。自己中心な願いでなく、
神の御心に適う願いをして行く。
だから御心に適うので、その願い
はすべて叶えられる。
主を喜びとする事は、自分を変え
て行くことだ。
-------------------------
生きておられる真実の神様との関
係は一方的ではないはずだ。人格
的な交わりが必要だ。私はこうだ
が、神様は私に何を望んでおられ
るのか・・この一点に焦点をすえ
て新しい週を歩もう。


2006年12月10日(日)

「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです」ガラテヤ4:23


サライは自分が子供を産めないので、奴
隷ハガルによって子を得ようとした。こ
れは人間的な良い思い、アイデアであっ
た。しかし、御霊によらない、肉の思い
であり、肉の行為は、必ずトラブルと悩
み、混乱を生む。自分にとどまらず周囲
にも害が及ぶ。ハガルは高慢になり、サ
ライを見下すようになる。サライは耐え
きれず、ハガルを追い出させる。奴隷の
ハガルは自分で選択不可能な立場にあっ
た。その事には責任は無いが、しかし自
分の態度には責任がある。肉の判断によ
る行ないは必ず問題を生じる。まず祈ら
なければ、人の意見はしばしば罠になる。
人間的にこれは最善と思える方法が、神
の方法ではない。肉の判断、肉の行動、
肉の結実への警告だ。まず祈り、神の判
断、神の方法を求めよう。サタンは急か
せて、肉の行いに誘惑する。神は必ず導
かれる。待とう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異
なり」根本的に人間の思いは神の思いと
違う。肉の思いの方が常識的に見えてし
まう事が多い。神のみ思いに歩めるよう
切に祈り求めよう。


2006年12月09日(土)

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリピ2:13

                   
賜物を発見して、神のために使って行
く事は御心だ。他と比較して、自分に
無いものばかりを見つめて、くよくよ
し、劣等感に陥っているだろうか。
確かに、自分に与えられているものと、
いないものがある。持つに任されてい
ないものもある。無いものを、あると
思い込むのは無理がある。幾ら言い張
っても、無いものは無い。あるものと、
無いものをはっきりさせる事は大切だ。
勘違いのまま進むのは危険であり、無
いものは無いと認める事だ。そうす
るなら、高慢や劣等感から守られる。
賜物に関して、神は気持ちと志を与え
て下さる。気持ちがあり、神に願うな
ら、必ず事を行なう力が与えられる。
神から来る。しかし、もしその力が
来なければ、それは神からの志でなく、
単に自分の思いだ。その時は、変更す
る必要がある。無いものばかり数えて
いないか。有るものに目を向けよう。
自分に有るものを発見して、神のため
に使って行く事が、喜び溢れて生き生
きと生きる秘訣だ。
・・・・・・・・・・・・
無いものを数えて、不満、落ち込み、
思い煩いに陥るのでなく、有るもの、
自分に与えられているものに目を留め
てみよう。それを育み、それで主に仕
えて行くことができる。
 


2006年12月08日(金)

『すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」』ヨシュア5:14 




ヨシュアは、抜き身の剣を持って
立つ人に驚いて、私達の敵か味方
かと尋ねた。その人は、敵、味方
には答えず、そうでなく、主の軍
の将として来たと答えた。
これから堅固にそびえ立つエリコ
の城を、陥落させようという困難
な戦いを前にした時だった。
その人は足のはきものを脱げと言
った。私達はいつも自分中心に考
える。どこまでも自分が中心だ。
そのため自分の敵か味方かの発想
であり、見方だ。しかし、そうで
なく、主の軍の将だ。自分の思い
や考えを退け、将の前にへりくだ
り、ひれ伏し、従うという事だ。
一つ間違うと、私達は自分が神に
なり、自分の意志を通し、神さえ
も自分の欲望充足のために使って
しまう。今、問題があるか。目前
に将として立っておられる。
「自分の」思い、やり方、計画を
捨てて、将の導きに従おう。
エリコ陥落同様に、主のわざを見
る。
--------------
私達にはそれぞれに立ちはだかる
エリコの城壁がある。ヨシュアの
ように主を認め尋ね求めて行くな
ら、そびえている壁はもはや壁で
はなくなる。



2006年12月07日(木)

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」ヨハネ11:4 




ラザロが病気で、すぐにと使
いを送ったが、主が来られた
のは死後4日目だった。
病気を治す事でなく、よみが
えらせる事を意図されていた。
けがや病気なら治る、壊れた
対人関係でも回復の可能性は
ある、しかし、死だけは絶対
に元に戻らない、完全に切り
離され、絶対限界、絶望だ。
その死をも支配し、勝利され
ている神の力を現わすため、
そして「あなたがたが信じる
ため」だった。将来よみがえ
る事は容易に信じれる、しか
し、今、現在という事が信じ
れない。現実だからだ。頭で
はわかり、沢山の知識もある
が、目の前の実際は信じれな
い。私達の姿だ。「その石を
取り除けよ」心に石がある。
見える所、常識、世の価値観
で不可能だと思っている。
見える所は凄まじく襲って来
て妨げる。まず自分の内の、
不可能という不信仰を認める
事だ。そして、主の語られた
言葉を握って立つ時、信仰が
与えられる。あなたの内に不
可能との思い、神にも出来な
いとの不信仰が潜んでいるか。
もし、信じるなら、栄光を見
る。   
-----------------
結果を見せられて、初めて神
様の栄光に目を見張る。信じ
るなら神の栄光を見ると、そ
の御言葉に立っていない不信
仰を示される。全知全能の神
様に頼ろう。



2006年12月06日(水)

『彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った』ルカ8:24                

              
弟子達は自分の力で舟をこいでいた。プロ
の漁師だった彼らは、舟をゆうに操作する
事が出来た。しかし、嵐に会い、プロの腕
でもどうにも出来ない、このままでは沈没
する危機状況に追い込まれて、初めて舟の
中の主に助けを求める。その時、主のひと
言葉でなぎになってしまった。私達も、主
に頼らなくてもやって行けるので、普段は
主をともの方へ追いやっていないか。対処
不可能な事柄に、自らの無力を認めて、主
に助けを求める事は幸いだ。弟子達もプロ
のプライドを捨てて、無力を認めて主を求
めた。普段はわからず、主に頼らず自分で
舟をこいでいる部分を、試練の時に明らか
にされる。あなたにも、自分で舵取りして
いる所を、気づかされるか。自分で何とか
しようとしている、その所を主に委ねよう。
ギブアップする時、主が乗り出され、問題
解決して下さる。
・・・・・・・・・・
ギブアップ、自分に何も無い、徹底的無力
を知る事が最高の祝福だ。そのどん底に主
がおられる。そこでないと真に主に出会え
ない。砕かれて初めて主を知り、そのため
の嵐であった事を知る。嵐が恵みであった
とわかる。

 


2006年12月05日(火)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」ピリピ2:6 



人はプライドで生きている。男性
は自分の仕事や地位に、格別高い
プライドを持っている。母親は子
供に夢を託し、子供によって自分
のプライドを満たそうとする。
そんな時、愛しているのは実は自
分だ。大切なのは自分のプライド
と面子だ。様々な対人関係で、プ
ライドとプライドが衝突し、火花
を散らし、争い、怒りや憎しみが
起こる。プライドは神の中に自分
の価値を見るのでなく、自分の能
力や功績によって、自分の価値を
量ろうとする。それは順調に行っ
ている時は高慢になり、優越感に
浸り、うまく行かないと劣等感に
落ち込む。プライドは優越感と劣
等感を行き来して、心休まる時が
無い。パリサイ人は徹底してプラ
イドに生きた人達だ。彼らの正し
い行ないの動機は、愛ではなくプ
ライドだった。主は、プライドと
は何の関係もなく、徹底して愛に
生きられた。様々な事態でプライ
ドが砕かれ、へりくだった者とさ
る。今、問題があるだろうか。
プライドが砕かれるためではない
か。 
----------------
どこまで行っても自分、自分。
私達は自分の中に良いものなど一
つもない。それを示される事すら
神様の憐みだ。神様から受ける愛
と力のみを誇りとして歩む者であ
りたい。


2006年12月04日(月)

 「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです」ヤコブ4:16 



自分に批判的な相手や、敵対し
て来る相手が、失敗をした時に、
当然の報いだと、冷ややかな思
いを持つ時、まさに敵対心であ
りながら、自分が悪いとは思わ
ない。しかし、神はそのような
知恵は、上から来たものではな
く「地に属し、肉に属し、悪霊
に属するもの」と言われる。
自分では別に悪いとも思わない
が、罪だ。そのままにしておく
と、心に邪悪な苦い根を宿し、
それは平安を奪い、自分自身を
苦しめる事になる。邪悪な行な
いを生み出す。妬みと敵対心を
持ったままの信仰は、まさにパ
リサイ人と同じだ。心の思いを
よく見張ろう。まずそれが自分
にある事を認める事だ。人の心
は何よりも陰険で腐っている。
認めたくないものだ。無い振り
をしたり、突っぱねたり、ごま
かしたり、言い訳するのではな
く、認めて悔い改めよう。
あなたの心の奥に妬みと敵対心
はないか。
------------------
認めることが出来た時が出発の
時だ。嫉妬心や、劣等感さまざ
まな、ざらついた思いに敏感に
なり、素直に主にの前に悔い改
めよう。


2006年12月03日(日)

「主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」申命記8:3



イスラエルの民は出エジプトを果たし、
荒野に出た。40年、何も無い岩と砂だ
けの苦しい荒野を旅したが、それは主が
苦しめ、試み、飢えさせられたとある。
民はつぶやきの連続であった。不平不満、
不信仰、葛藤、何と不毛の歳月だろう。
しかし、神にはご計画があり、目的があ
った。民に「神の言葉によって生きる」信
仰を確立させようとされたのだ。私達も
同じような所を通る。水も食べ物も無い、
灼熱の太陽が照りつける苦しい荒野、
訓練と試みの場所だ。神がそこに送られ
たのだ。それは、あなたに、神の言葉に
よって生きる、という事をわからせるためだ。
みことばが、いかに真実で、いかに力が
あり、いのちであるかという事実を頭で
なく膚で知る。どんなに悲惨な中でも、
神の語られる言葉によって、神の一言に
よって生きて行ける。それを知るのは、
順境でなく逆境であり荒野だ。今、荒野
にいるなら、御言葉の真実を知れる時だ。  
・・・・・・・・・・
断崖絶壁に立った時に、御言葉がどんな
に命であり、救いであるかを知って来た。
いつも御言葉を備えて下さっていた。今
日も一言一言の御言葉を宝のように聞こ
う。心のひだに御霊がそわせて下さる。 


2006年12月02日(土)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり・・」エレミヤ29:11

ジグソーパズルをした事があるだろうか。
一つ一つのピースは、断片でわけがわか
らない。しかし、それぞれのはまるべき
場所に埋めて行くと、素晴らしい見事な
絵が完成する。一つのピースとして無駄
なものはない。全ピースが必要なのだ。
そのように、私達の日常に起こる一つ一
つの出来事も、なぜ?どうして?と思う
事が多い。わけがわからない事がある。
しかし、一つ一つの出来事に神の計画と
意図がある。全体が見えて来ると、主の
お心がわかって来る。教えようとして下
さっている事がわかる。一つ一つを、後
で考え合わせた時に、ピタッとはまって
解き明かされる事を経験した事があるだ
ろう。一つとして無駄な出来事は無い。
今、困難があるか。理解は出来ないが、
主の御手から来ている。一羽の雀さえ父
のお許しなしには地に落ちない。神のな
さる事は時にかなって美しい。最善だと、
信仰によって受け入れよう。
・・・・・・・・・
主は完全な、そして愛の御手で養い育て
て下さっている。あの事があったから、
今の自分がある、あの事が益となり、こ
のようになった。今までの軌跡を考える
とパズルが埋まるように、思い当たる。


2006年12月01日(金)

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24



信仰生活の中で、絶えず、古
い価値観や、自分の思い、自
の方法、肉の欲望が顔を出す。
これが主について行くことを
させない、妨げる。それゆえ、
自分を捨てない限り、主につ
いて行けない。古い人、古い
価値観が、主に従って行こう
とする、新しい性質とぶつか
り、葛藤する。自分の思い通
りにしようとする自我や、様
々なものに執着して、捨てる
事の出来ない自分をまず認め
る事が大切だ。幾ら頑張って
も、自分では出来ない。
自分でしようとせずに、あり
のままの、出来ない自分、世
に執着し、世を愛している自
分を、主に申し上げて行くの
だ。ありのままの姿を祈りで
告げて行く時、主が働いて下
さる。今すぐ出来なくても、
不思議に必ず出来るようにし
て下さる。ついて行けるよう
にして下さる。くびきをしっ
かり負う時、そのくびきは
「わたしのくびき」だと言っ
て下さる。そして、そのくび
きは負いやすく、荷は軽く、
安らぎが来ると。出来ない
ありのままをまず、主に告
げよう。
-------------
どうしようもない自分だと気
づいているはずだ。それをそ
のまま主の御前に広げよう。
自分が重荷と思っているもの、
捨てられないものを主が一緒
になって下さる事を覚えて。