2007年01月31日(水) 「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」使途5:4
「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」使途5:4
アナニヤとサッピラは本来は 自由であった。献げたくなけ れば、そのように、半分でも 一部でも、献げたければ、そ うすれば良かった。バルナバ やペテロ達には信仰があった。 もし不意の事態が生じても、 その時は必ず神が必要を備え られると。神が信頼できたゆ えに献げた。しかし、アナニ ヤはその信仰が無かった。 教会に身を置いてはいたが、 自分で自分の人生を歩んでい た。富に頼っていたので、恐 くて放せなかった。それなら それで良かった。しかし、人 に霊的と見られたい虚栄から、 信仰深い「振り」をした。そ こが間違いだった。偽りはサ タンから来ている。サタンは 偽りの父だ。闇の世界だ。信 仰生活を破壊するものは「偽 り」であり、偽りが入り込む と致命傷だ。どんな罪も赦さ れる。正直に自らの罪を認め、 悔い改める時に。しかし、偽 りは自らを罪無しとする。 偽りに欺かれるのだ。その時、 真理はもう私達の内にない。 自らに「振り」はないか。信 仰無ければ無いで良い。正直 でいよう。その者に、神が上 から与えて下さる。 ------------- わからないのにわかった振り、 教会では信仰深い振り、世に 出ては限りなく世の人と変わ りない近い振り・・神様の前 に常に正直にいよう。ただそ れだけで良いのだから。
2007年01月30日(火) 『イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります」』ヨハネ11:23
『イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります」』ヨハネ11:23
マルタとマリヤは、主がラザ ロが病気だと使いを送った。 しかし、すぐに主は来られず、 ラザロは死んだ。もう死んで 四日になり、臭くなっている。 ラザロを見ると確かに死んだ。 状況は死だ。確実だ。しかし、 主は、ラザロはよみがえると 言われる。確実な死とよみが えりの、相反する二つのもの が同時に目の前にある。どう すれば良いのか。いつも学ぶ のが、ペテロのように「夜通 し働きましたが、何一つとれ ませんでした。でも、おこと ばどおり」だ。状況と御言葉 が相反する時は御言葉の方を 取り、従うことだ。ラザロは よみがえるとの、主の御言葉 を受け入れるためには、状況 を見るべきではない。状況と 御言葉の内、御言葉の方を正 しいとして、受け取るのだ。 アブラハムも、サラの胎が死 んでいることを認めても、神 には約束を成就する力がある ことを堅く信じた。状況に関 係なく神を信じた。今、相反 する状態にあるだろうか。 状況でなく御言葉を選んで、 信仰に立とう。 --------------------- いくら御言葉を知っていても 従わないのなら何もわからな い。信じて従った者だけが神 様の栄光を見るのだ。自分の 思いから一歩出て、神様の祝 と、あたたかいご愛をもっと 知って行こう。
2007年01月29日(月) 「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま、持っているもので満足しなさい『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」ヘブル13:5
「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま、持っているもので満足しなさい『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」ヘブル13:5
人は欲望を満たそうとすると、 ますます貪欲になり、底無し だ。富んでいる人ほど満足し ない。更に求め、幾ら得ても もうこれで満足という事がな い。そして、貪欲は、無いも のばかりを数えるようになる。 無いものに目を向け、ますま す不平不満に陥る。あれが無 いこれも無い。あれもこれも 思うようにならない。惨めで 心は満たされず欲求不満、口 を開くと愚痴と不平で、心荒 んでいる。こうなると全く祝 福のかけらも見えない。自分 で恵みを閉め出している。暗 闇の中だ。目を転じて上を見 上げ、今現在、その場所で、 神を認めるのだ。与えられて いるものを数えて、目を留め 感謝を献げるのだ。悪循環が 断ち切られる。それらは決し て当然ではない、神からの賜 物だ。感謝を始める時、当り 前の一つ一つのものが、実は 神からの贈り物である事に、 目が開かれて来る。そして神 が見えて、溢れる恵みが見え て来る。恵みは十分であるこ とがわかる。状況でなく、神 を見ることだ。心が変えられ る。 ----------------- 不平不満が口をついて出て来 るとき、満ち足りている事が 当たり前になってはいないか。 感謝を忘れ、朽ちて行くもの を追い求めるのは、過ぎた日 々でもう十分だ。
2007年01月28日(日) 「わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27
「わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27
とにかく物事を完璧にしないと気が済ま ない人がいる。真面目で一生懸命に見え るが、その実、その人の心に平安が無い 事の表われである事がある。いつも心に 安らぎが無い。だからそれを満たそうと、 何かに懸命になる。懸命になる事によっ て、心の空いた部分を満たそうとする。 外側から見るとわからないので、信仰に、 奉仕に一生懸命のように見える。が、実 は内側が満たされていないからだ。それ で、又、自分が一生懸命なものだから、 周囲の人をさばく事になる。もしあなた が周囲をさばいているなら、要注意だ。 他の人より真面目だからでなく、真の平 安を知らないからだ。いい加減が良いと いう意味では無い。ベストを尽くすが、 もし結果が完璧にできなくても、主に委 ねる事ができるのだ。そして安心できる。 主は、主の平安を下さる。自分に満たし が無い事を気づく事は幸いだ。主があな たの空虚を満たして下さる。行いで満た すのでなく、ありのままの状態ををまず 主に告げよう。それが始まりだ。 ・・・・・・・・・・ 失敗しても大丈夫だ。まず律法でガチガチ に縛りつけられた心を解かれよう。又、常に 何かする事で心を満たそうとしていないか。 すればするほど、動けば動くほどますます 心が渇く。平安は主からのみ来る。
2007年01月27日(土) 「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」ルカ24:25
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」ルカ24:25
エマオ途上の二人の弟子に、主が寄 り添い歩まれた。郷里へ帰ろうとす る弟子達だ。なぜ帰るのか。死人の よみがえりなど信じられないからだ。 主は捕まり裁判にかけられ、鞭打た れ、十字架の上で亡くなった。兵士 がわき腹に槍を刺した時、血と水が 吹き出た。完全に亡くなった証拠だ。 なぜ、主がわからないのか。目がさ えぎられていたからだ。なぜさえぎ られていたのか。それは不信仰ゆえ と記されている。よみがえりなどと 荒唐無稽な話、信じられないのだ。 横におられる主が、信仰が無いから 見えない。わからない。私達も同様 だ。不信仰ゆえ主が見えない。日々 の一歩一歩の歩みを支配し、今日も 導いておられるのに、主が見えない。 信仰の目でもってして、初めて見え る。今日も主の愛とご配慮が満ちて いる。主は聖書を解き明かされた。 「文字は殺し、御霊は生かす」。主 ご自身の解き明かしにより、言葉に いのちが宿る。御言葉が心に臨み、 信仰の目が開かれる。御言葉を大切 に、御言葉を受け取ろう。 ・・・・・・・・・ 主が今日も御言葉を語りつつ、かた わらを歩いていて下さる。何と嬉し く心強い事だろう。聞く耳を持つな ら心の目を開いてわからせて下さる。 心の耳で聞いて行こう。
2007年01月26日(金) 「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」マルコ4:38
「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」マルコ4:38
暴風が起き、小舟が波をもろに かぶり、今にも転覆するのでは と、弟子達は恐怖と不安でおの のいた。しかし、主はともの方 でぐっすり熟睡しておられた。 この危急の事態の中でも主はあ わてず平静、全き平安でおられ た。「向こう岸へ渡ろう」との 言葉があり、何があろうと、主 が渡ると言われれば、渡れるの だ。弟子達は御言葉に立つべき であった。私達は少し風が吹き 舟が揺れると「これは御心でな かったのか?」とグラグラ大揺 れする。まず御心を確信する事 は大切だ。御心を確信し約束に 立つなら、波や風にほんろうさ れる事はない。御心を行ってい ても大嵐は来る。御心行ってい るのに、嵐が来た事で「なぜな ぜ?」悩んでしまうが、それは 見当違いだ。御心を行うなら嵐 が来ないと勝手に思っている自 分の思いだ。弟子達にも嵐は来 た。来ても動揺する事はない。 舟の中に一緒に主がおられた。 「私たちが溺れて死にそうでも 何とも思われないのか」とは嫌 味な言い方だ。主のひと言葉で 大なぎになった。主を責めたが、 問題は自分側にあり、自分の信 仰の目がふさがっているという 事だ。私達の舟には主が乗って おられる。どんな中も平安でお れるのだ。 ------------------------- いつも目の前に二つの道がある。 目に見える状況を生きる道と、 その状況を支配されている主を 見つめて歩む道だ。状況に左右 されず約束の御言葉にぎって今 日も生きよう。
2007年01月25日(木) 「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2
「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2
私達は計画を立てる。それ自体 は良い事だ。行き当たりばった りの無計画、無秩序は問題だ。 しかし、神は単に計画自体でな く、そのたましいの値うちもは かられる。つまり、その動機を 見られる。神の御前では行いが 正しいと共に、動機も正しくな くてはならない。神のためにと 言いながら、実は、自分の賞賛、 自分の栄光、自分の欲得、自分 の満足が底に潜んでいないか。 主はそこを見ておられる。いつ も御霊の光の中で心探られる必 要がある。そして、立てたその 計画を神に委ねる事だ。 「あなたのしようとすることを 主にゆだねよ。そうすれば、あ なたの計画はゆるがない」自分 の計画とばかりに、どうしても 思い通りに、予定通りにと、頑 なにこだわり、自分が、自分が、 でなく主に渡してしまう事だ。 まず主に渡してしまってから、 進めて行くのだ。「そうすれば、 あなたの計画はゆるがない」。 あなたの計画と動機を点検し主 に明け渡そう。揺るがないもの とされる。 ---------------- 計画を立てても、実現させて下 さるのは神様だ。動悸がみここ ろから離れているなら、いくら 祈ってもうまく行かない。思い を探って頂き、祈りつつ結果を すべて神様に委ねよう。
2007年01月24日(水) 「マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」ルカ11:42
「マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」ルカ11:42
善と悪なら、選択がストレートで簡 単だが、どちらも良いものである時 の選択は難しい。仕事や学業や趣味 に追われてしまうが、それが悪い事 でないだけに気づけない。仕事や勉 強や趣味は決して悪い事でなく、む しろ良い事だ。それに熱心である事 は何ら問題を感じない。しかし、仕 事や学業に心と時間を奪われ神から 離れてしまった人々は多い。サタン の罠がある。又、世の事でなく、教 会の奉仕を熱心にするが、何のため かと言うと自分のためであったりす る。奉仕する事で自分の存在価値を 確認したいし、人に認められたい。 これらは必ずマルタと同じになる。 奉仕でイライラし人を責め神まで責 める。ベターでなくベストを選択す べきだ。マリヤのように御言葉を 聞く事がベストだ。それによって主 のお心を知る。マリヤが高価な香油 を献げる事が出来たのは、御言葉に 真剣に聞き入っていたからだ。マリ ヤ一人だけこれから十字架に向かわ れる主のみ心を悟り、主をどんなに かお喜ばせした。 ・・・・・・・・ 良い事に熱心になり神から離れる。悪 魔の巧妙な誘惑だ。悪魔は善でも悪で もどちらでもよい。神から離せさえすれば。 心を主に向けよう。必ず御声が聞こえ、 お心がわかる。これが一番の喜びで幸せだ。
2007年01月23日(火) 「みこころが天で行われるように地でも行われますように」マタイ6:10
「みこころが天で行われるように地でも行われますように」マタイ6:10
私達は何を願っているのだろう か。主よ、あれを下さい、これ を下さい、主よ、あちらに行っ て下さい、こちらに来て下さい 、主よ、ああして、こうしてと 忙しい。自分の願望と自分の思 いで一杯だ。主をあちらにこち らに動かそうとする。しかし、 間違ってはいけない。「私の心 が天で行われますように」では ない。自分の思いが天になるの ではなく、天の思いが自分の思 いになるのだ。そして、天で行 われるみこころが、自分を通し て、地で行われるのだ。自分の 思いでなく、神の思いが成りま すように。自分の計画でなく、 神の計画が成し遂げられますよ うに、という事だ。神を越えて、 自分の思いを通す事がないよう に「みこころが天で行われる通 りに、地でも行われますように」 これは重要な祈りだ。すぐに自 分中心に物事をとらえてしまう。 自分の肉の思いを捨てて、神の 思いに、自分を合わせて行く時、 神と一つだ。今日、捨てるべき 自分の思いがあるだろうか。 肉の思いを捨てる時、神のみ思 いへと入る。 ---------------------- ただ、みこころだけが成ります ように。自分の祈りが叶えられ ると感謝。叶えられずとも、そ こから学ぶ事の方がはるかに多 いからこれも感謝。みこころだ けを尋ね求めて行こう。
2007年01月22日(月) 「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」ヨハネ8:9
「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」ヨハネ8:9
主は、姦淫の女を「石打ちの 刑に」と訴えるパリサイ人や律 法学者達に「罪の無い者が、石 を投げよ」と言われた。すると、 石を投げる者がいなかった。つ まり、彼らは内側が照らされた。 自分を見た。そして、罪を認め たのだ。真実が現わされようと していた。本当の自分の姿に正 面から向き合うのか、それとも 逃げるのか。彼らは逃げた。 主に導かれて、自分の罪を見た のに、それに向き合おうとせず に。全員逃げた。しかし、女は 逃げずに、そのままそこにいた。 さばきからも逃れようとせずに、 どうなろうと、主のもとにとど まった。自分の罪から逃げずに 認めたのだ。その時「罪に定め ない」との赦しを受け取った。 私達はどうだろう。逃げるのか、 それとも向き合い、自らの罪を 認め、悔い改め、新しい歩みを 始めるのか。目をそらし逃げる なら、闇の中に陥って行き、ま すます見えなくなる。罪が見え るなら、光が臨んでいる証拠、 悔い改めよう。平安と癒しが来 る。 ---------------------- 罪のない者、過ちを犯さない者 などいない。罪を示されたなら 心から神様に祈ろう。自分の罪 、心の底の底を示された時、同 時に赦しが待っているとは何と いう感謝か。
2007年01月21日(日) 「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」詩篇36:9
「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」詩篇36:9
人から自分の欠点や何かを指摘された時、 ムカッと来るだろうか。カチンと来て、憤 りが湧く時などは、まさにその指摘が的を 射ていて図星なのだ。その通りだからだ。 そこに強烈な自我がある。自我にぶつかる のだ。そこに触れられたくないので、相手 に食ってかかったり、逆に言い返し、相手 を攻撃す。まさに自分の見たくない、認め たくない、頑なな部分があるという事だ。 そこにしっかり目を留めよう。何度も同じ パタンで起きているはずだ。サタンに足場 を与えてしまう。プライドか虚栄心か体面 か、何に触れるのかよく心探ろう。自らの 弱さを認め、その事を神の御前に置いて、 受け入れているなら、人から何か言われて も何も感じない。自分の内の見たくないも のを直視しよう。御霊の光で照らし出される。 ある人は隠れたプライド、コンプレックス を認めた時、自由にされ喜びが来た。自分 の内にあるものを知る時、癒しが来る。人 に言われて傷つく、まさにその部分が急所 だ。主の光のもとに出そう。 ・・・・・・・・・・ 隠しているから、ずっと闇の中にあって、 解決も癒しもない。触れると痛み、ジクジ クとうずく。決して無くならない。神に出 して認める時、癒される。一筋でも光が射 し込んだなら、もう闇でなくなる。
2007年01月20日(土) 「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16
サングラスをかけて、周囲を見るとどうだ ろう。そのメガネの色に何もかもが見える。 自分の強い思いがあると、それがサングラ スになる。その強い思いで、すべてのもの を見てしまう。根に自分の強い思いがあり、 自分の願望というサングラスで物事を見て いるので、環境がそのようにならないと、 受け入れられない。全く喜べないし、絶え ず不満と落ち込みに揺れる。環境が自分の メガネに合った時だけ、喜ぶ事になる。そ れは、たまたま自分の願望が神の御心と合 致しただけだ。自分の願望というメガネを かけて環境を見、御言葉を見ていないか。 神の御心というサングラスをかけたらどう だろう。状況は同じでも、見方が全く変わ って来る。神のお心に照らし合わせて、環 境を見る。神に焦点を合わせ、神の価値観 で判断し、神のみ思いを尋ね求めて行く時、 どんな状況でも、そこにある神の計画や目 的を知って行く。今、自分の強い願望に支 配されていないか。神の御心というサング ラスにかけ替えよう。 ・・・・・・・・・・ 「自分の思い」のメガネで見るなら、曇って 歪んでしか見えない。「神の御心」のメガネ なら、どんな状況の中でも神を見い出す。 そこに何にも代えられない、御霊の喜びが ある。どちらのメガネで見ているだろう。
2007年01月19日(金) 「もし、私たちが自分の罪を言いあらわすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめ」Tヨハネ1:9
「もし、私たちが自分の罪を言いあらわすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめ」Tヨハネ1:9
ある女性が、母親を憎み悶々状 態だった。神を信じた後、その 事が取り扱われた。苦悩の中に いた。憎んで苦しいのは相手で なく、自分なのだ。心が、がん じがらめだった。神の御前に、 この事を差し出し、祈った。 聖霊は心に示された。あの時あ あで、この時こうで、こうなっ たのは、母親のせいだと思って いる事。それで母親を恨み、憎 んでいる事。しかし、母親を責 めていれば、自分を見なくてす む事も。そして、母親がどうで あれ、その母親を憎む事は、自 分の側の問題であり、それは自 分の罪である事を。それがわか った時、どうであれ母親を憎む 事自体は、自分の罪と、神の前 に認め悔い改めた。その時、涙 が溢れ心が溶かされて行くのを 感じた。神の赦しを実感し、心 が平安になった。そしてあの憎 しみと苦しみが不思議に消えた。 相手に関わらず、自分の感情、 思いは自分の責任だ。それを認 めて、悔い改める事が、責任を 取るという事だ。 ------------------- 自分の醜い罪はイエス様の十字 架によって赦されていながら、 人を赦すことも愛することも出 来ない。私達はそのような者だ。 見つめるのは自分の罪。ごまか さず罪を認め言い表すなら、神 様は豊かに赦して下さる。
2007年01月18日(木) 「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」創世記12:1
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」創世記12:1
アブラハムは神の召しに答えて、 神の言われた通りに従った。 そのためには故郷を出て、親族と 別れ、父の家を出なければならな かった。代価を払わねばならなか った。高齢の彼にとり、大変な決 心であっただろう。私達も神に従 うためには、犠牲を払う必要があ り、自分が握り締めているものを 手放す必要がある。一つ一つを神 が示される。それらを明け渡して 行く時に、今まで知らなかった喜 びを知る。御霊による喜びだ。 神を新たに知り、信仰に前進する。 神はアブラハムに、ただ行けと言 われたのでなく、約束を与えられ た。あなたを大いなる国民とする と。サラが不妊の時であり、サラ に子供ができるという素晴らしい 約束だ。彼は神の約束を握り、出 発した。私達も神の約束を握る時、 どんな状況でも進んで行ける。今、 神の導きが臨んでいたなら、決心 して従おう。 ----------------- 神様の行けと言われる所に祝福が ある。自分はなんら変わる事無く 前進は出来ない。結果を神様に委 ねて歩みだそう
2007年01月17日(水) 「主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに」ルツ1:21
「主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに」ルツ1:21
ナオミ一家はベツレヘムが飢饉にな った時、偶像の地モアブへ移住した。 約束の地に、神のもとにとどまらず、 糧食を求めて異教の地へと移った。 家族の幸せを求めたはずが、夫が死 に、二人の息子も死んでしまった。 異国の地で、ナオミの苦労はどんな ものだったろう。飢饉は辛いが、神 を離れ、遙かに苦しむ選択をしてし まった。私達も試練は苦しいがそこ から逃げて、別の選択をしても、結 果的に更に苦しみを増す事になる。 ナオミは約束の地にとどまるべきだ った。私達も神からの試練を逃げな いで避けないで、受け入れる事が一 番の祝福だ。私達の益のためのもの だ。その時は痛く辛く悲しいが、必 ず平安の実を結ぶ。私達を聖くする ために懲らしめられる。ナオミは神 に帰り、約束の地に戻ろうと立ち上 がった。苦しい刈り取りをして来た が、しかし、尚も神は恵み深く、憐 れみは尽きず、ルツという大きな慰 めを与えられた。私達にも「ルツ」 が与えられている事を知る。苦しみ と共に神からの特別な慰めがいつも 備えられている。 ・・・・・・・・・・・・ 目先の状況だけを見ると、パニックに なり、自分を守るために方向違いに動 く。そこに神がおられ、その事に神の ご計画と御心がある。今日も起こる出 来事に、まず「神!」を発想しよう。
2007年01月16日(火) 「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが非難されるところのない純真な者となり・・」ピリピ2:14
「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが非難されるところのない純真な者となり・・」ピリピ2:14
日常の中で、私達の身に起こ ること、出来事の何もかもは、 神の主権によるものだ。神の御 手から送られて来ていて、人か らではなく、神だ。見方を変え る必要がある。人と状況しか見 えていなければ、対応を間違っ てしまう。その背後におられる 神を認めるべきだ。環境は神か ら来ている。その中で、信仰の 目を持って見て行く時、必ず神 が見えて来る。神は一生涯を通 して、私達を訓練し、鍛えられ る。その訓練は環境を通して来 る。そこに神を見て行く時、正 しく対応できる。私達の思いと 神の思いは、しばしば大きく異 なる。神の思いは高くて、戸惑 い、わからない。理解不能な事 がある。しかし、置かれた状況 の中でつぶやかず、神に従って 行く時、練られて、御言葉を通 し御霊により、人間の思いから 神の思いへと変えられて行く。 その状況の中で、そこにある神 のみ思いを悟って行く。その時 神と思いを一つにされて行く。 それが何より一番の祝福だ。 ----------------------- この環境に置いて下さっている のは神様。自分の思いは、常に 否定的だ。運が悪いのではなく、 いつも最善が前から来るのだ から、安心して、落ち着いて、 神様のみ思いを尋ねてみよう。
2007年01月15日(月) 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ・・」ローマ12:2
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ・・」ローマ12:2
この世と調子を合わせないため、 又、神の御旨をよく知るために、 御言葉を学ぶ事は大切だ。御言 葉によって初めて、神の視点に 立った発想、価値観、考え方、 とらえ方を知る事が出来る。聖 書的な物の見方を持つ事が出来 る。自分の視点は自己中心であ り、自分を中心に据えて物事を 捕らえる。信じる前の古い価値 観であり、それは根深いものが ある。自分中心に歪んだ見方、 捕らえ方をしてしまう。それを 正してくれるのが御言葉だ。ク リスチャンになったからと言っ て、すぐに神の視点に立ったと らえ方が出来るわけではない。 御言葉を通して、少しづつ神の 思い、見方を学んで行くのだ。 何が起きても「すべて」の事に 感謝できる事、益となる事、ご 計画がある事、人間の思いとは 異なる事、神の御心のみが成就 する事、常に最善をして下さる 事・・神の視点に立って、物事を 見て行けるために、御言葉に日 毎に接する事、親しむ事がどう しても必要だ。自分の生まれつ きの肉の価値観が、神の価値観 と相反するのだから、それをし っかりわきまえる時、御言葉に 頼る事の重大さを知る。 --------------------- 自分の内にあるのは世の価値観、 世の常識、自己中心に世の中を 渡って行く術ばかりと心し、御 言葉を通して、真に神様の御心 を知っていこう。新しい週の初 め、この世に出て行く前に今一 度よく祈ろう。
2007年01月14日(日) 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて・・栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます」Uコリント3:18
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて・・栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます」Uコリント3:18
神を見えなくしている、私達の顔のおお いとは何だろう。あの大きな太陽すら、 目の前に小さな10円玉を置くと、すっ ぽり隠れて見えなくなる。神以外のもの を心の王座に置くと、神が見えない。心 の中の偶像だ。様々なものが偶像になっ ている。名誉、地位、富、仕事、人、賞 賛・・それらは顔をおおい神を遮ってし まう。又、自己満足もおおいとなる。渇 きが無く、決して神を求めようとしない。 では、顔おおいを取り除けるのはどうす れば良いのか。主の御前に心へりくだる 時、聖霊が心の内にあるものを示して下 さる。気づく偶像を取り除くことだ。二 心は決して神を見る事ができない。示さ れた不純物を一つ一つ除こう。そして、 「主に向くなら、おおいは取り除かれる」 とあるように、主に向き続けることだ。 主に向くと、おおいがわかる。自分の問 題点が見えて来る。心に巣くっているも のに気づかされる。あなたの心の偶像、 不純物は何だろう。主に向くと、それを 示して下さる。そして自由にして下さる。 ・・・・・・・・・・・ 神を見えなくしているものは何だろう。 神は様々な出来事、又試練を通され、 その中で、妨げているものに気づかされ る。動機が探られ、自分が握りしめてい るものに気づかされる。
2007年01月13日(土) 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3
ピリピの教会でユオデヤとスントケは、 共に主のために歩んでいたが、仲違いし ていた。それで主に在って一致するよう にと、パウロは言っている。一致を妨げ るものが「自己中心」と「虚栄」だ。交 わりの中でも、自分に関係無い事は、フ ェアで寛容でおれるが、いざ自分と自分 の利害に関わって来ると、即、自分を守 る態勢に入り、攻撃的になってしまう。 これは自己中心によるものだ。又、誰か の言葉が、自分のプライドや見栄、体面 に触ると、おおごとだ。プライドでも傷 つこうものなら、怒りを向けるか、内攻 して執念深く恨み、敵対心を抱く。私達 の心にざらつく思いやイラ立ち、苦い思 いが出て来たら、自己中心、虚栄、プラ イドでないか、よく吟味しよう。苦い根 をそのままにしてはならない。その根は 心に巣くい、はびこってしまう。すぐに 十字架の血潮できよめて頂こう。罪の苦 い根を、小さい内に、次々と引き抜いて 行こう。心に平安が失せた時には、すぐ 御霊に照らして頂こう。全き赦しのもと、 平安を戻して下さる。 ・・・・・・・・・・・ 今、心にざらつきがあるなら、自己中心、 虚栄、プライドから来ていないか探ろう。 神は様々な問題によって、心の底にある ものを表に出して下さる。一つ一つ神の 前に認めよう。きよめて行って下さる。
2007年01月12日(金) 「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます」詩篇130:1
「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます」詩篇130:1
人生には自分ではどうにも出 来ない、這い上がれない深い 渕があり、経験する事がある。 薬物依存や、アル中、ギャン ブル、暴力、自傷行為、非行、 止められない罪・・深い渕に落 ち込んでいるように感じる。 人はそのような、どうにも出 来ない事態をまずは認めたく ない、認めない。次の段階で は、どうしたら良いかを、も がいて模索するが、何をどう やってもどうにもならず、段 々気力が失せて行く。詩篇記 者は、深い渕にあって、神に 祈っている。「私の声」を聞 いて欲しい「願いの声」に耳 を傾けて欲しいと。そして、 罪の赦しを受け取り、主を待 ち望んでいる。何もかもが閉 ざされたかに見える、深い渕 の中から「祈る」事が出来る。 神に呼ばわる事が、第一歩だ。 何も、どうにも出来ない時、 そのままでよい、まず神を呼 ぼう。何かが変わって来る。 神は生きておられる。必ず変 わる。まず心が変えられ、信 仰の目が与えられる。神は、 あなたに一歩一歩を示して導 き出して下さる。 ------------------ どうしようもない自分のまま で祈ろう。罪はいつも目の前 にあります、悔い改めること も出来ませんと。弱くても、 罪深くても、神様につぶやき 続けるしかない時もある。け れど必ず賛美の朝が来る。
2007年01月11日(木) 『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい」・・「主よもう臭くなっておりましょう。四日になりますから」』ヨハネ11:39
『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい」・・「主よもう臭くなっておりましょう。四日になりますから」』ヨハネ11:39
主はラザロにはっきりと御心を持っ ておられ、それは病気を治す事では なく、死からよみがえらせる事であ った。主はラザロはよみがえると、 はっきりと語られた。しかし、人々 は信じなかった。主が墓に行かれる と、洞穴は石でふさがれていた。 そのふさいでいる石を取り除けるよ うにと言われた。しかし、死んで4 日も経ているのに、何を、との反応 であった。この石は、私達の信じよ うとしない「不信仰」だ。 そして「不可能」との思いだ。信仰 が機能するためには、私達の内の、 固い、信じる事を拒む頑なな心を取 り除け、不可能との思いを取り除け る事だ。「神にとって不可能なこと は一つもありません」。「あなたの 兄弟はよみがえります」と言われた 主は、今一度「もしあなたが信じる なら、あなたは神の栄光を見る」と 語られた。そこで彼らは石を取り除 けた。その時、よみがえったラザロ を姉妹達のもとへ返された。あなた の内にも、信じる事を妨げ、塞いで いる、「石」があるだろうか。あな たの石はどんなものだろう。よく心 を探ってみよう。その石を取り除い て、主に信仰を献げよう。神の栄光 を拝して行こう。 ----------------------- この御言葉に従うなら、きっと不自 由な生活になってしまうだろう、そ んな御言葉信じてたら、この世で生 きて行けないからと、主の御業を大 きな石が邪魔してはいないだろうか。 信じて一歩踏み出してみよう。
2007年01月10日(水) 「わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創世記22:2
「わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創世記22:2
アブラハムにとって、イサクは命その ものであった。すべての希望はイサク にかかっていた。イサクにより、子孫 が繁栄し、神の約束が実現して行くの だ。イサクはアブラハムが持っていた すべてであった。知らず知らず彼の愛 はイサクを握りしめていたであろう。 神はイサクを献げるようにと言われた。 イサクが死んでしまったなら、神の契 約はどうなるのか。すべてがイサクに かかっている。神は絶対に約束を破ら れる事のないお方だ。しかし、いけに えにと言われる。アブラハムの心中は いかばかりであったろう。イサクより 神を愛するかのテストでもあった。深 く愛するものは容易に偶像となってし まう。彼は決断した。イサクを実際に 献げた。まさに人生を、何もかもを 「断ち切った」のだ。将来や可能性、 命そのものを手放した。実質的にイサ クを献げた。しかし、彼は勝利した。 全き従順によって。イサクを死者の中 から取り戻した。 ・・・・・・・・・・・ 自分にとってイサクは、一番大切なも のは何だろう?それが容易に偶像にな ってしまう。それが神を見えなくして しまう。自分のイサクを明け渡す時に、 神を見い出しいのちを得る。喜びを知る。
2007年01月09日(火) 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63
試練に次ぐ試練を経験する事が ある。これでもか、これでもか と容赦なく臨む。ある人が子供 が非行に走り、悩みと非常な痛 みの中、親が倒れ、又、保証人 となっていた人が倒産し、自分 も負債を抱え込み、もう立ち上 がる気力もない、うずくまった まま、失意のもうどん底だった。 しかし、そのどん底に主がおら れたのだ。「子を産まない不妊 の女よ。喜び歌え。産みの苦し みを知らない女よ。喜びの歌声 をあげて叫べ。夫に捨てられた 女の子どもは、夫のある女の子 どもよりも多いからだ」の御言 葉が光のごとく心に臨んだ。 それは、神が自分に対して語ら れた、霊でありいのちの言葉で あった。その言葉は、沈んだ心 に灯をともし、目を上に向けさ せ、失意から信仰へと死から命 へと生き返らせた。どん底には、 まさにそこに主がおられる事を 覚えよう、そして、神の言葉を 受け取ろう。神の口から出る言 葉は、いのちと力があり、どん な状況であろうと、私達を失意 の渕から起こし、新しい力と希 望を与えてくれる。 ------------------------ 状況がどうであっても、目に見 えるものに囚われず窮乏の中か ら、試練の中から神様を見上げ よう。必ず平安に守られる。肉 の思いは死であり、御霊の導か れる所に、いのちと平安がある。
2007年01月08日(月) 「わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび送り・・言ったのに、彼らは聞かず」エレミヤ44:4
「わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび送り・・言ったのに、彼らは聞かず」エレミヤ44:4
人々がエレミヤに、主に聞き従う からと、歩むべき道を尋ね求めた ので「ユダにとどまるなら、あな たがたを救い出す」との主の言葉 を告げた。しかし、彼らはエジプ へ行きたかったのだ。案の定、主 の言葉に従わなかった。結局、彼 らは自分達の思い、決定事項であ るエジプト行きの承認と保証が欲 しくて、神の言葉を求めたのだ。 私達も自分の計画のお墨付きをも らうために、都合の良い御言葉を 求める。結局彼らは神の御声に従 う気はなく、自分の思いを通して エジプトへ行った。神に逆らい不 信仰へと進んで行った。「平安が ないのに『平安だ』と言う」偽預 言者が聖書に出て来る。肉の平安 を与え、自分に甘く、心地良く自 分の計画を保障してくれる、都合 の良い言葉を選ぶ肉に要注意だ。 主の御声はしばしば厳しく、から いかも知れない。自分の思いとも 異なる。しかし、罪から守られ、 信仰に前進させ、真実にあなたを 思い愛して下さっているので、本 当の喜びと平安へと導かれる。 ------------------------- 私達は皆、自分の思いを成し遂げ たい者だ。けれど御言葉にも、御 霊にも従わず御心にそれた道を突 っ走るのは良心が痛む。都合のよ い御言葉があれば何と便利なこと だろう。こうして、いつもごまか しては、いないだろうか。
2007年01月07日(日) 「もし自分の心に責められなければ、大胆に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます」Tヨハネ3:22
「もし自分の心に責められなければ、大胆に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます」Tヨハネ3:22
求める必要が起きた時、大胆に確信 を持って祈ろうとするなら、普段か ら「神の命令を守り、神に喜ばれる ことを行っている」必要がある。す なわち、人の事を思いやり、人が困 っている時には、その必要に仕えて いなければならない。兄弟が困って いるのを見ても憐れみの心を閉ざす なら、自分自身が困った時に、どう して心が責められずに、大胆に御前 に出る事が出来ようか。「寄るべの ない者の叫びに耳を閉じる者は、自 分が呼ぶときに答えられない」人の 苦しみには耳を閉じ、自分が困って いる時には求めるのは、自らの心が とがめ、御霊によって祈る事が出来 なくなる。心にとがめがあるなら、 それが妨げとなり、どれだけ祈って も無駄だ。祈りが妨げられないため に、いつも大胆に御前に出られるよ うに、普段の生活で御霊に示される 事には、従順に従おう。そうする時、 とがめ無く祈れ、求めるものは何で も神から頂くことができる。 ・・・・・・・・・ 御霊の示しに一つ一つ従う事が大切だ。 とがめのない、妨げのない交わりの中で、 神の心を知り、自己中心からでない神の 心にそった祈りをするので、その祈りは 答えられる事になる。
2007年01月06日(土) 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる・・」Tヨハネ5:14
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる・・」Tヨハネ5:14
神は祈るよう招いて下さっている。求 めよ、そうすれば与えられる、又、悲 しみ、嘆き、怒り、すべて神に祈るべ きだ。神は私達が献げるすべての祈り を受け止め、聞いて下さっている。し かし、すべての祈りは聞かれているが、 すべての願いが実現し、叶えられるの ではない。御心にかなった祈りだけが 叶えられる。御心に合致していなけれ ば叶えられない。人間の計画や考え行 動に関係無く、神の御心だけが成る。 人間からのものが神の御心に入り込む 余地は無い。自分の計画と神の御心が 異なる時は、私達は信仰の目によって 捕らえる事だ。自分の計画より、遙か に良い、高い神の計画があるという事 であり、自分の願いをその神の計画に 沿わせて「祈りを変更」して行くのだ。 主がゲッセマネで「わたしの願うよう にでなく、あなたのみこころのように」 と祈られたように。自分の願いを、祈 りながら、そのプロセスで、神のみ思 いに沿わせ軌道修正して行く時、神の 御心が見えて来る。その時、その祈り は叶えられる。 ・・・・・・・・・・ 「ノー」も主の明確な答えであり主の ご意志だ。そのノーが主から来た事で、 そこに主の心があるから愛があり、そ こを仰ぐと喜びが来る。ノーはこちら の思いや態度や進路変更の時だ。霊的 成長の機会だ。
2007年01月05日(金) 「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3
「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3
今、あなたが計画していること、し ようとしている事があるだろうか。 それを、一旦主に明け渡して、献げ てしまうのだ。神のためでなく肉の 欲望によるかも知れない。それが神の 御心なら聖められて返って来るので、 揺るがないものとされる。神から出た 計画でなければ返って来ないが、その 方が良いのだ。「人の心には多くの計 画がある。しかし主のはかりごとだけ が成る」神の御心だけが成就する。肉 の計画は必ず立ち行かず、途中で頓挫 する。幾ら祈っても確信が来ない。状 況が変わる度に心は揺れ動き、風に吹 かれて揺れ動く海の大波のようだ。 どんなに完璧に計画したとしても、人 の計画は必ず挫折する。しかし、神の 御心であれば、見えるところどうであ ろうと、心の底に平安がある。状況に 関わらず、その平安は揺るがない。そ して、どんなに不可能に見えても、道 無き所にも神が道が造られ、その計画 は成就する。今、しようとしている事 を神に委ねよう。 ・・・・・・・・・・・ 自分のプランを一旦神に明け渡す事だ。 それは御心でなければ消え去ってOK という事だ。御心ならが揺るがないも のされる。どうであれ、神と一つ心で 同じ思いで歩む事が一番の喜びで幸せだ。
2007年01月04日(木) 「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め」Uテモテ4:3
「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め」Uテモテ4:3
神を喜ばせるためでなく、自分を喜ば せるために歩む時、又、強い自分の思 いがある時、悪魔の罠に陥ってしまう。 神の御心を求めているつもりが、実際 はどうしても自分のプランを遂げたい。 自分の感情で、都合の良い御言葉を取 って来る。自分の計画ための、神の承 諾印が欲しい。自分の思い、計画を正 当化するための、御言葉が欲しい。神 の御心をと言うが、すでに自分の計画 が定まっているので、都合の悪い言葉 は無意識に排除し、都合の良い言葉し か入らない事になる。自分の願望が強 い時、誰しもこの誤りに簡単に陥って しまう。神にまず自らの計画を、自ら の意志を明け渡そう。どうであれ、も し自分の思いと違っていても、神の意 志が私にとって最善だ。最高の道を用 意していて下さる。明け渡すなら、正 しく導かれる。自分の都合の良い道に それていないかよく点検しよう。神の 下さるものが常に最高だ。 ・・・・・・・・・・・ 自分の思いが強いと、それに合致する 御言葉を取っていて、無意識なので気 づかない。自分のその計画をまず明け 渡そう。御心でないなら計画が成らな い方が良いのだ。御心は別の道だ。
2007年01月03日(水) 「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい・・と書いてありますから」マタイ4:6
「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい・・と書いてありますから」マタイ4:6
荒野の誘惑で、主が御言葉により 勝利された後、悪魔は第2の誘惑 を持って来た。今度は悪魔も御言 葉を持って来たのだ。それも悪魔 が勝手に持って来た言葉だ。神殿 の頂から飛び降りても、御使いが 支えるから大丈夫ではないかと。 「すべての道で」が抜けていて、 御言葉自体の言っている事と全く 関係なく、曲げた解釈で。好き勝 手な事をして守られるのでなく、 神の御心を行う道で守られるの意 味だ。悪魔は御言葉をも持って来 る。しかし、本来の意味を曲げた 勝手な解釈で。御言葉を引用した 罠に要注意だ。正反対の方向へ向 かう。「落ち込んでいる時に聖書 を開くと、あれを、これをせよ、 出来ていないと責められるばかり で、苦しくなって閉じた」のよう に悪魔は恵みをきれいに隠し律法 で攻撃して来る。神は出来なくて 当然、それでよい、だから十字架 がある。あなたのする事はわたし に頼る事、わたしがすると手を延 べて、暖かく包んで下さっている。 常に安堵と安らぎ、感謝がある。 ・・・・・・・・・ 「〜〜せよ」の御言葉は、私の内 におられる「主がして下さる」と 読めばよい。それが福音だ。今日 も一瞬一瞬を主に頼ろう。それが 生きる力であり、喜びが来て安堵 の中に守られる。
2007年01月02日(火)
「あなたが私のそばに置かれた この女が、あの木から取って私 にくれたので、私は食べたので す。」創世記3:11 アダムが罪を犯した時の言葉だ。 神の方から「あなたは、どこに いるのか」と御声をかけて下さ り、悔い改めの機会を与えて下 さった。それをアダムは、自分 の罪を認めず、エバに責任転嫁 をした。私達の態度だろうか。 自分がこうなったのは、環境の せい、親のせい、相手のせい、 決して自分のした事を認めて、 責任を取る事をしない。自分の 失敗を人のせいにするだけでな く、自分が苦しい時は人が幸せ である事が許せない、人にも同 じ思いをさせたいとの陰険な陰 湿な思いを抱く。持って生まれ た罪の性質だ。ある人に、どう しても嫌な人がいて、この人さ えいなければと憎んでいた。 その時、相手にも確かに問題が あるが、その人を憎む事は自分 の罪であり、それは自分の問題 である事を認め、悔い改めた。 それ以後、憎しみの感情が消え 平安になってしまった。今、責任 転嫁している状況は無いか。多く の言い訳と自己弁護があろうが、 自分の罪は罪として認める時、 溢れる喜びと平安を経験する。 ------------------- 見るべきところはいつも自分自 身だ。人や環境を通して神様が 自分を変えようとしておられる。 これは恵みだ。人を責める前に まず自分を見て行こう。
2007年01月01日(月) 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12:2
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12:2
この一年も主イエスから目を離 さないでいよう。ペテロの海上 歩行は、よく知られているとこ ろだが、「来なさい」との御言 葉に立ち、その御言葉のゆえに、 一歩を踏み出した時に、海の上 を歩けた。まっすぐに主イエス だけを見て、御言葉を握ってい た。ところが、風を見て、主か ら目を離した途端に、沈み始め た。これは状況は全く同じとい う事だ。海の上で、何を見てい るかで、歩けたり、沈んだりす る。私達はとにかく苦しい状況 を変えようとする。それさえ変 われば幸せになれると。しかし、 状況の問題ではない。神を通し て、状況を見る時、どんな悲惨 な状況でも、平安と感謝と喜び が来る。しかし、神から目を離 し、状況を見た途端に不満と思 い煩い、恐れと不安に真っ逆さ まに落ち込む。試練にある人が、 主に在る兄姉の慰め励ましを通 して、神の自らへの愛を見ると 同時に、神から目を離すと、皆 が幸せそうで惨めになり落ち込 む事もできる。主イエスから目 を離してはならない。主を自ら の心の中心に据え、あらゆる事 柄を、主中心に考えることだ。 喜びの時も苦しみの時も、主イ エスのことを考え、思うことだ。 この一年「イエスから目を離さ ないで」いよう。 --------------------- 明けましておめでとうございま す。本年も主にあって、どのよ うな時にも喜びと平安の中を歩 んで行けますように。共にこの 一年、さらに神様のご愛を知っ て行けること、本当に感謝です。