2007年02月27日(火)

「あなたが神の子なら、この石にパンになるように、命じなさい」マタイ4:3




40日40夜断食し、空腹の主
に、サタンは「石をパンに変え
て、食べたら?」と語りかけて
来た。「神の子なのだから、何
でも出来るのだから、自分の空
腹を自分で満たしたら?今死ん
だなら元も子もないよ。人類を
救うんだろ。何としてもまずは
生き延びなくちゃ」と。御父か
ら与えられるものによって生き
るのでなく、自分の判断と自力
で事を行なうように仕向ける。
又、「世界には沢山の飢餓に苦
しむ人々がいる。死んで行くそ
れらの人々が救えないで、何の
救い主か。食べ物を与えて、彼
らを救うべきではないか」この
ような意味合いの誘惑であるか
も知れない。サタンはこの世の
理性、常識、知識にかなった、
最もらしい誘惑を持って来る。
この世の理性で対応すると、サ
タンに説得されてしまう。主は
「人はパンだけで生きるのでは
なく、神の口から出る一つ一つ
の言葉による」と、神の言葉で
サタンを撃退された。最も重大
な事は、もし主が石をパンに変
えて食べられたなら、神によっ
てでなく、サタンの指示によっ
て動く事になる。源がサタンに
なり、サタンが主導者になって
しまう。主はサタンの申し出を、
きっぱり拒否された。主は「と
書いてある」と御言葉に立たれ
た。私達はどうか。サタンと会
話し、ああだ、こうだと自分の
思いに誘導され、自分の思いに
立つとやられてしまう。神様!
と叫び、御言葉握ろう。
-----------------------
サタンは無いものを有るかのよ
うに巧みにしかけてくる。自分
で戦ってはいけない。神様に目
を転じ、みことばをしっかり握
って歩もう。今日もサタンを意
識しながら歩もう。


2007年02月26日(月)

『「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です」』出エジプト4:2




出エジプトの指導者として、神
が「今、行け。あなたをパロの
もとに遣わ」すと言われた時、
モーセはどんなに戸惑った事だ
ろう。今さら何を?かつて40歳
の時に、彼は自信に満ち、自分
こそがイスラエルを救う事ので
きる者と、事を起こしたが、拒
絶に会いミデアンの地へ逃亡。
もう遊牧生活40年を経て80歳に
なっていた。かつての野心も名
誉心も独りよがりの正義感も失
せ、そういうものから解放され
た羊飼い生活、家庭も持ち、平
穏な安定した日々に、それなり
の幸せも感じていただろう。こ
のまま静かに穏やかに全うした
い。それにもうエジプトでの地
位も力も人脈も何も無い。一介
の年とった羊飼いに何が出来よ
う。困惑し大いに尻込みするモ
ーセを、神もそれは承知だとば
かりに、延々と説得して行かれ
る。そして、羊飼いの杖を「手
に取り、しるしを行な」うよう
に言われた。モーセは神に説得
され、手に「神の杖」をもって
エジプトへ帰った。羊飼いの杖
を神の杖として用いられるのだ。
それは特別なものでなく、いつ
も身近に普段モーセが使ってい
た杖だ。神は、すでに「あなた
の手にあるもの」を用いられる。
その杖で神は奇跡を行われた。
今あなたの手にあるものを、神
の栄光のために用いて下さる。
あなたと手にあるものを神に献
げよう。それをきよめて、神と
人のために大いに祝福して用い
られる。
-----------------
神様がみわざを成して下さるの
だから、特別なものは何もなく
ても、今もっている物で十分だ
。何という感謝だろう。献げる
心を神様は祝福して下さる。


2007年02月25日(日)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・わざわいではなくて、平安を与える計画であり・・将来と希望を与えるためのもの」エレミヤ29:11

エジプトで華やかな王子の地位にいたモ
ーセが、一転、ホームレス状態になって
しまった。エジプトからもイスラエルか
らも見捨てられ、誰も頼る人もなく逃亡。
パロに命まで狙われ、どんなに不安で孤
独で、お先真っ暗だった事だろう。てん
末を知っている私達は、すべてが神の計
画とわかるが。自分の力に頼っていたモ
ーセを、神が40年をかけて砕かれ、訓
練された。自らの力が失せた、自分を頼
りにしなくなった彼を、40年後、召し
出された。荒野はモーセ育成のためであ
り、何一つ無駄なく、すべてが必要で益
であったとわかる。しかし、この時のモ
ーセはどうだったろう。先はいっさい見
えない。エジプトと余りにもかけ離れた
境遇。王宮で得た教育も、武術も、財も
地位も人脈も、何の関係も無い世界。大
きな挫折感、孤独感、先への不安感があ
ったろう。この時のモーセには何も見え
ないが、神には大きな計画があられた。
指導者として、あらゆる面で整えられる
ためであった。今、あなたも先が見えず
真っ暗だろうか。あなた個人への神の計
画がある。良くして下さる。神を信じ、
信仰の目で現状を見よう。
・・・・・・・・・・・・
モーセ自身は真っ暗だったろう。荒涼たる
荒野で、挫折、空虚、孤独、不安を味わい
尽くしただろう。しかし、実は泉の湧く所
であり、神を深く知り、信仰の培われる場
であった。神のプランを信じよう。


2007年02月24日(土)

「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした」使徒7:23

モーセはエジプトの最高の教育を受け、
武道にも長け、有能であり、エジプトで
の地位、影響力、人脈を持ち、自分こそ
がイスラエルを救える者との自負があっ
た。しかし、当の同胞から拒否されたの
だ。虐げられた同胞をかばい、エジプト
人を殺してしまった。翌日、それが知れ
た事を知り、恐れて逃げた。パロも怒り、
殺そうと捜し、逃亡の身となった。ミデ
ヤンの地に逃げ、そこで羊飼いとして生
活する事になる。華やかな脚光を浴びた
成功人生から、突然の転落だ。何も無い
荒野で、何の肩書きも地位もない一介の
羊飼いだ。遊牧民として40年を送る事
になる。神はモーセを出エジプトの指導
者とするために、この40年をこそ必要
とされた。ここでモーセは砕かれ、へり
くだらされ、ふさわしい器と整えられて
行った。私達にもこの荒野が備えられて
いる。人生に必ずこの荒野があり、避け
たいが避けて通れない。モーセがミデヤ
ンに来た時は、人生終わったと思った事
だろう。しかし、実は 神の手の中で、
神のために間に合う器に練られていた。
荒野は、神の愛の御手の内だ。
・・・・・・・・・
40年の何も無い荒野で、モーセは最高
の教育を受けた。いっぱしだと思ってい
た者が、砕かれ、へりくだらされた。私
達も荒野を通して、高ぶった者が間に合
う器に、柔和で謙遜な者へと変えられる。
荒野で状況でなく神様を見ていよう。

 


2007年02月23日(金)

「しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」Uサムエル12:14




ダビデは姦淫と殺人の二重の罪
を犯した。ナタンによって罪を
指摘された時に、「私は主に対
して罪を犯した」と罪の告白を
した。その時、即座に「主もま
た、あなたの罪を見過ごしてく
ださった」と罪が赦された。
完全に罪は赦される。罪のとが
めは全く受けない。罪は忘れ去
られ、海の深みに投げ込まれる。
罪の責めは全く負う事がない。
十字架の贖いによる神の恵みだ。
しかし、罪が完全に赦される事
と、罪の結果を刈り取る事は別
の事だ。自分の蒔いたものは必
ず刈り取る。これは法則なので
例外は無い。罪は赦されるが、
罪の結果は自らが負う事になる。
厳粛な事だ。だから、どうせ赦
されるのだからと、恵みを軽ん
じて、決して簡単に罪を犯して
はならない。ダビデに最初に生
まれた子供が病気になった。
ダビデは断食をして、一晩中地
に伏して祈った。しかし、その
子は死んだ。ダビデはそれを受
け入れた。又、息子アブシャロ
ムが謀反を起こし、自分に敵対
した。息子達の間に数々の痛く
辛い出来事が起こったが、主か
らのものと認め、受け入れた。
そこにダビデは神の聖さを見、
そこに神の愛を受け止め、ます
ます練り聖められて行った。蒔
いたものは刈り取るが、そこに
尚も祝福が備えられている。神
のあわれみは尽きない。
----------------------
罪は赦されても刈り取りはある。
ダビデのトラブル続きの後の生
涯は凄まじい刈り取りだ。それ
を思うとき、弱い私達であって
も罪の誘惑の前で立ち止る事が
出来ないだろうか。


2007年02月22日(木)

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって」U列王5:14




イスラエルのシリヤに、ナアマン
という将軍がいた。勇士であり幾
度も勝利を治め、主君からの信頼
を得、尊敬と名誉、地位も得てい
た。しかし、彼には一つの重大な
問題があった。らい病にかかって
いた。召使いから預言者のもとへ
行けば、らい病が直ると聞き、神
に対する信仰を持った。ナアマン
は馬と戦車を持ち、エリシャを訪
ねた。エリシャは出て来ず、使い
の者からヨルダン川で7回身を洗
うようにと告げられた。ナアマン
は怒った。プライドが傷ついたの
だ。預言者自らが患部に手を置き、
祈るものと思っていた。それが汚
いヨルダン川に身を浸せとは。怒
って帰ろうとしたが、しもべ達の
進言を受け入れ、言われた通りに
7度身を浸した。すると彼のらい
病はきれいに癒された。ここから
学べる事は、御言葉に力があると
いう事だ。御言葉を信じて「言っ
たとおりに」従う時に奇跡を見る。
プライドを捨てて、へりくだる事、
ナアマンがプライドを捨てられな
かったなら、癒しは無かった。口
で信仰を言うのは簡単だが、「言
ったとおりに行なう」時に栄光を
見る。従う時に、恥を受ける事も
ある、この世のものを失う事もあ
る、しかしそれにまさる大きな祝
福がある。今、従うよう促されて
いるか。プライドが邪魔するか。
しかし、捨てる時に祝福を受ける。
神の人の「言ったとおりに」従お
う。奇跡を見る。
--------------------
目が見えるところや常識が邪魔を
して、素直にみこころに従えない
。決心さえも神様が導いて下さる。
従うと決心するなら必ず助けと備
えを見る。御言葉に従おう。豊か
に祝福して下さる


2007年02月21日(水)

『イエスは言われた「その石を取りのけなさい」』ヨハネ11:39


主がラザロがよみがえると言われた時、
マルタもマリヤも、世の終わりの事と
捉えていた。今、よみがえるなど、信
じられなかったのだ。信仰を、頭の思
いで捉えてしまう。思いの中での理解
と、生きた信仰とは別だ。「もし、信
じるなら、神の栄光を見る」と言われ
た。マルタは、墓の前で、死後4日に
もなり、もう腐っていると言った。こ
れは現実であり、理性であり、知識で
あり、常識だ。死んだ上に、腐ってい
る。だめ押しだ。これが、どうよみが
えろうか。知識と理性が邪魔をする。
私達は普段は5感で生きている。視覚
・聴覚・味覚・嗅覚・触覚にしっかり
頼っている。それは必要であり、毒物
を食べると死ぬし、目の前の危険をし
っかり把握しないと死に至る。身を守
るためにも余りにも深く依存している
ので、それで信仰を量ってしまうのだ。
5感で信仰を捉えようとする。だから
全くわからない。信仰は5感とは全く
関係の無い領域だ。信仰の領域は違う。
理性、知識、常識は「人間の思い」な
のだ。それらを捨てて、御言葉を選択
する時に、御言葉に立つ時に、「御霊
の思いはいのちと平安」を経験する。
5感はこの世で生きて行く上に必要だ
が、信仰は別の領域だ。その石を取り
除ける時、神の栄光を拝する。
・・・・・・・・・・
この世の価値観、この世の知識が死角
になる事を経験する。このためクリス
チャンになっても、長い間なかなか神
の事がわからない。思いを横に置いて、
御言葉の通りに信じてみることだ。


2007年02月20日(火)

『イエスは彼らに言われた「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」』マルコ4:40




ガリラヤ湖は、地中海よりも
低い位置にあり高い山々に囲
まれ、よく風が吹き下ろし嵐
が起こった。この時も主と弟
子達で小舟に乗り、主は「向
こう岸へ渡ろう」と言われた。
主は疲れで、舟に乗り込むや
熟睡された。そこに嵐が起こ
り、舟は波をかぶり水で一杯
になった。今にも転覆しそう
だ。恐れと怯えに襲われた弟
子達は主を起こし、私達が溺
れても平気なのかと、やや嫌
み気に言った。主の「黙れ、
静まれ」の一声で大なぎにな
った。弟子達は主から信仰が
無いと言われた。私達の人生
にも嵐は起こる。その時、嵐
が問題なのでなく、信仰の無
さが問題だ。これからも天に
帰るまで、ずっと嵐は起こる
だろう。嵐自体は無くなるこ
とはない。それなら、信仰を
持ち続ける事は重大だ。弟子
達は、私達は溺れて死にそう
と言った。しかし、主は、は
っきりと「向こう岸へ渡ろう」
と言われた。だから主は嵐の
中でも平安に熟睡しておられ
た。私達もどうだろう。目の
前の状況で右往左往し、動転
し、パニックになってしまう。
その時、状況しか見ていない。
そこから来るのは恐怖と不安
と動揺だ。状況は状況として
あるが、同時にそこに主がお
られる。その主に目を注ぐ事
が信仰だ。「向こう岸へ渡ろ
う」との御言葉に立つ事が信
仰だ。今、状況に飲み込まれ
ているか。状況から目を離し、
主を仰ぎ、御声を聞こう。
------------------
日々、信仰の戦いだ。状況を
見るか、主を仰ぐか。しっか
り選択して行かなければ、私
たちは一時も立って入られな
い弱い者だと自覚していよう。


2007年02月19日(月)

「イエスは・・彼に言われた『よくなりたいか』」ヨハネ5:6





その男性は38年間もの長い間、
伏せっていた。38年は長い。
毎日毎日同じように伏せっている
わけで、その状態が当り前になっ
てしまうと、問題意識を感じなく
なってしまう。主の言葉は「よく
なりたいか」だ。という事は、よ
くない状態という事だ。よくなる
ためには、今の状態が病気だとは
っきり認識する必要がある。でな
ければ、良くなりたいとは思わな
い。私達も同様だ。このままでは
いけない、このままでよいはずが
ない、このままでいたくないと思
った時に初めて、真剣に神を求め
たのではないか。自らの破れた現
実を真正面から見ない限り、神を
求める事はない。自己満足にある
時は、決して神を求めない。主は
まずはっきりと病気である事を認
識させられた。自らの破れた状態
をはっきりと見る事ができるのは、
主からであり、それは大きな恵み
だ。そして、良くなる事が「でき
る」か、でなく、よくなり「たい」
かと問われた。力は求めておられ
ない、しかし、願いを確かめられ
る。自らに願いが無い限り、不可
能だ。あなたはどうだろう。罪に
打ち勝てず、諦めている部分があ
るだろうか。何度やってもだめで、
これからもどうせだめだろう。
しかし、主はそこに目を留め「よ
くなりたいか」と御声をかけて下
さっている。「よくしてあげよう」
と言って下さっている事だ。主に
答えよう。
----------------------
よくならないほうが都合がよいの
ではないか。人のせいにしてすね
たまま、ずっと被害者の方が楽か
もしれないがいつもでたっても闇
の中だ。主の呼びかけに答えよう。
主が癒して下さる。


2007年02月17日(土)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13

ある人に高齢の親がいて、家事に困難
が生じたためにヘルパーを雇った。す
ると、そのヘルパーが来るまでに、家
を掃除し綺麗にするので、余計におお
事になってしまった。こんな汚れた所
に人を上げられないと言うのだ。私達
も来客の時には、見えない所にすべて
押し込んで、外側綺麗にするだろうか。
見た目綺麗だが、見えない所はぐちゃ
ぐちゃだ。私達は聖霊様をこのように
迎えていないか。応接間にだけ通し、
プライベートな部屋には入られたくな
い。都合の悪い部屋には鍵をかける。
綺麗な所だけを見せて、自分の醜い所、
弱い所、汚れた所はいっさい見せたく
ない。聖霊様にも隠すのだ。これが肉
に従って生きることだ。御霊によって
殺すとは、御霊の光に自らのありのま
まをさらけ出す事だ。醜い、弱い、汚
いそのところに御霊に来ていただくの
だ。「明るみに引き出されるものは、
みな、光によって明らかにされます」
「明らかにされたものはみな、光だか
らです」隠されているものは暗闇だ、
しかし、明るみに出されたものは光だ。
プライドが邪魔をするだろうか。しか
し、心の闇がどんなに深くても、光が
射し込めば、そこはもう闇ではない。
光となっている。
・・・・・・・・
光は、ありのままの自分の姿を正直
に認めること。更に醜さ、汚れが照
らされ赦されきよめられる。闇は、
隠してごまかし、認めたくないので、
心を閉じる事だ。更に闇は濃くなる。


2007年02月16日(金)

「しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである」ヨハネ3:21




人は善と悪を知るようになっ
たが、善悪を知るだけで、善
を行なう事はできず、その心
に計ることは、悪に傾いて行
った。又、「人の心は何より
も陰険で、それは直らない。
だれが、それを知ることがで
きよう」とも言われている。
この世の価値観は性善説だ。
人は本来、善なる者であり、
環境が悪い。それらを改善す
るなら善くなる。しかし、神
は「義人はいない。善を行な
う人はいない。ひとりもいな
い」と言われる。人は善を行
なおうと努力し、頑張る。そ
のため、その善をしようとの
願いを持つ自分が、自分の本
当の姿だと錯覚する。ひたす
ら善を行なう事を目指してい
るので、願望イコール自分、
善い人だと勘違いする。それ
ゆえ、善い人ではないという
現実を受け入れる事ができな
い。自分では謙遜のつもりで、
罪人だと言うが、同じ事を人
に言われると、大変な事にな
る。プライドが認めさせない。
謙遜にと思っている人が「謙
遜になれ」と人から言われる
と、カチンと来て、反抗する。
謙遜になりたいと思っている
だけで、謙遜になったわけで
はない。自らが目指している
ところは盲点になる。懸命に
目指しているだけに気づけな
い。盲点は無いか。霊的成長
は本当の姿を認めるところか
ら始まる。そこからしか始ま
らない。
-------------------
真理とは主にとどまる事であ
り、主にとどまらずに自らの
力で行うならそれは偽善だ。
無いものは無い。それを認め
た時、光に出て行ける。闇を
歩まず光の中を歩めますよう
に。


2007年02月15日(木)

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています」ローマ7:18




アダムとエバは善悪の知識の
木から食べ、善と悪がわかる
ようになったが、善を行う力
は無い。それは、善悪が「わ
かる」だけで、善に生きる事
はできないし、神のようにも
ならなかった。サタンの大嘘
だ。善の知識があるだけで、
自分の内に善が住んでいない
ので、善は無い、行う事が出
来ない。頑張るが出来ない。
頑張れば善を行えると頑張る
が、善が住んでいないので無
理だ。善をしたいと言う願い
があるが、実行不可能だ。善
が住んでいないところの私達
が、頑張ってする、善とは偽
だ。善が住んでいないのだか
ら、真の善は不可能だ。だか
らこそ、御父は御子キリスト
を与えて下さった。どれだけ
頑張っても、善は行なえない
事を認め、ギブアップする事
だ。自分の内に善が無い事を
知った人だけが、初めて主に
頼る。それ以前には決して主
に頼る事など出来ない。必ず
自分に頼っているからだ。何
とか頑張れば出来ると思って
いる。肉は、生まれつきの自
分は、どこまでも自分の能力
を誇りたいし、認められたい。
そこそこの無力は認めるが、
どん底まで完全無力は、余り
にも惨めで認められない。
プライドゆえだ。しかし、徹
底無力を認めた時に初めて、
十字架の血潮が自分のためで
あり、完全に赦され、血潮に
おおわれている実感を得る。
---------------------
頼りにならない自分を認める
事が出来るのが恵みだ。弱く
一時も霊的に立っておれない
自分を認める時、主の十字架
の憐みが感謝に思える。一つ
一つ無力を示され、いつも自
覚しておられますように。


2007年02月14日(水)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・」イザヤ55:8




神の思いと人の思いは違うと、
神が言われる。神が言われる
のだから、かなり違っている
という事だ。私達の思いの中
に、無意識ながら、この世で
培われた根深い価値観、肉の
思い、人間的な思いがある。
肉の思いがからみついて、神
の思いをわからなくさせる。
肉の思いとは、敵意、争い、
そねみの類だけでなくて、世
の常識、世の価値観、世の知
識だ。これが一見悪いものに
見えないので、盲点になって
しまう。しかし、信仰を大き
く妨げる。御言葉を拒否する
気はないが、世の価値観で受
け取る。すると「そんな事を
していて、この世でやって行
けない。信仰は信仰、この世
はこの世」と考える。御言葉
受け取る時に、この肉の思い
が入る。実質的には自分の肉
の思いを取り、御言葉を捨て
ているが気づかない。この
「肉の思い」に気づかずにい
ると、なかなか神がわからな
い。霊の事がわからない。
「試練をこの上もない喜びと
思え」と神は言われるが、肉
の目には試練は「悪」としか
見えない。様々な問題が起こ
ると、「もう人生ガタガタだ」
と落ち込む。それは、ガタガ
タでない人生が良い人生、ス
ムーズな人生が善との価値観
があるわけだ。肉の思いに支
配され、縛られていないか、
御霊によって、根深い価値観
を点検して頂こう。
--------------------
信仰が自分の知恵や常識と混
ざり合い、いつしか神様に自
分の知恵を通して近づこうと
する。初めて神様を受け入れ
た日のように、神様を神様と
して崇め、御前にへりくだっ
た時のことを忘れずにいたい。


2007年02月14日(水)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・」イザヤ55:8

神の思いと人の思いは違うと、神が
言われる。神が言われるのだから、か
なり違っているという事だ。私達の思
いの中に、無意識ながら、この世で培
われた根深い価値観、肉の思い、人間
的な思いがある。肉の思いがからみつ
いて、神の思いをわからなくさせる。
肉の思いとは、敵意、争い、そねみの
類だけでなくて、世の常識、世の価値
観、世の知識だ。これが一見悪いもの
に見えないので、盲点になってしまう。
しかし、信仰を大きく妨げる。御言葉
を拒否する気はないが、世の価値観で
受け取る。すると「そんな事をしてい
て、この世でやって行けない。信仰は
信仰、この世はこの世」と考える。御
言葉受け取る時に、この肉の思いが入
る。実質的には自分の肉の思いを取り、
御言葉を捨てているが気づかない。こ
の「肉の思い」に気づかずにいると、
なかなか神がわからない。霊の事がわ
からない。「試練をこの上もない喜び
と思え」と神は言われるが、肉の目に
は試練は「悪」としか見えない。様々
な問題が起こると、「もう人生グチャ
グチャだ」と落ち込む。それは、グチ
ャグチャでない人生が良い人生、スム
ーズな人生が善との価値観があるわけ
だ。人間的な思い=肉の思いに支配さ
れ、縛られていないか、御霊によって、
根深い価値観を点検して頂こう。
・・・・・・・・・・
妬み、憎しみ等のストレートな悪である
肉の思いはすぐわかるが、世の常識や知
識から来る肉の思いがなかなか気づけな
い。当時の人々にはイエス様よりパリサ
イ人の方が常識的に見えたように。


2007年02月13日(火)

「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」イザヤ61:1




人は皆、罪人であり、不完全だ。
自分中心なため、人を傷つける
が、自分自身も様々傷を受けて、
現在に至っている。親から受け
た傷、周囲から受けた傷が心に
あり、それが、御言葉を神の言
葉として、素直に受け取る事を
妨げている事がある。御言葉が
信じられないのだ。自分では信
じているつもりだが、心の奥底
で愛など信じられない。信じて
大丈夫なのかと思っている。傷
を受けているからだ。御言葉を
信じないから、頭ではわかるが、
いまいちわからない状態になる。
まず、自分では傷を認識してい
ない。心深く押し込め、ふたを
し、無い事にしている。だから
自分でもよく認識できていない
が、ふたをしているだけだから、
そこにそのままある。薄々は気
づいているが、押し込めている。
主は傷を癒すために来て下さっ
た。抑え込んで、無いものにし
ていないで「私には〜〜の傷が
あります」とはっきり認めるこ
とだ。主は癒して下さる。苦し
み、悲しみ、痛み、感情も抑え
込まず、主のもとに何もかも持
って行って良いのだ。そのまま
気持ちを主に注ぎ出して行く時、
自分自身の感情を自分が知り、
主の前に告白し、主からの癒し
を受け取って行く。
--------------
認めようとしていない弱さや痛
みはないだろうか。格好つけず
赤裸々な自分の姿を良く見つめ
てみよう。主が癒して下さる。
そのために主は、私達の側に
おられる。


2007年02月12日(月)

  
       
「わたしはこれをあなたの
目に見せたが、あなたはそ
こへ渡って行くことはでき
ない」申命記34:4  
         

荒野で、民は水が無いので
モーセに逆らった。荒野に
連れて来て、死なせる気か
と不平不満を爆発させた。
神は、岩に命ずるように言
われた。そうすれば、岩は
水を出すと。ところが、モ
ーセは神の言葉に従わずに、
命ずるのでなく、岩を二度
打った。すると、水が湧き
出て、民も家畜も水を飲ん
だ。しかし、モーセは失敗
した。神を信ぜず、民の前
で神を聖なる者としなかっ
た。それで、モーセは民を
約束の地に導き入れる事は
出来ず、乳と蜜の流れる地
を目の前にして入る事を許
されなかった。この失敗に
後悔した事だろう。しかし、
モーセは信仰の模範として
記されている。これは罪を
犯しても、どんなに重大な
失敗をしてしまったとして
も、悔い改めるなら、神は
完全に赦して下さるという
事だ。赦しを受け取って、
決して自分を責め続けるべ
きでない。完璧に赦される。
しかし、赦される事と、蒔
いたものを刈り取る事は別
だ。責任は自分にあるので、
必ず蒔いたものは刈り取る
事になる。しかし、逃げな
いで、神と共に刈り取る事
が一番の祝福の道だ。益と
されそこに平安が宿り、尚
も新たな恵みが備えられて
いる。
----------------
人は蒔いたものを必ず刈り
取らなければならないとい
うのは、赦しと共にある厳
粛な神様の約束だ。罪を犯
したなら必ず赦される。
けれどその結果には、必ず
向き合わなければならない。


2007年02月11日(日)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1  

信仰の成長に不可欠な事、必要なことは
「待つ」という事だ。神をじっと待ち望
む事。これ無しに成長は無い。神を信じ
るとは、神を待つ事だ。そして、誰しも、
最も苦手なものが「待つ」ことだ。すぐ
に結果が欲しい。今すぐに欲しいのだ。
速ければ速いほど良い現代、余計待つこ
とは難しい。しかし、信仰の世界は違う。
待つ事によって、学ばされ、訓練される。
待つ事なしに、神も信仰もわからない。
信仰の成長には、長い時間が必要だ。一
朝一夕に成長は無い。長い長い時間をかけ
て、神は私たちの信仰を練り鍛え、成長
させられる。アブラハムは75才の時、
約束を受け取った。しかし、それが実現
したのは100才だった。25年待ち望んだの
だ。ヤコブは兄エサウを欺き、殺されそう
になり、叔父ラバンのもとに身を寄せた。
その二人が和解するのに20年がかかった。
イスラエルがエジプトで奴隷となり、モ
ーセによって解放されるのに400年待った。
「神の時」がある。その前でも後でもない。
神の定められた「時」だ。それは「美しい」
時だ。あなたも、今待つ事が御心か。神
を待とう。「もし遅くなってもそれを待て。
それは必ず来る。遅れる事はない」。神の
美しさを知る。
・・・・・・・・・・・・
待つことは、信仰の表明だ。待つとは、信
じているという事だ。神はその信仰を喜ん
で下さる。待つ事によって、信仰を献げよ
う。確信を投げ捨てるな。「それは必ず来
る。遅れる事はない」。


2007年02月10日(土)

「あなたが私の親類だからといって、ただで仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください」創世29:15

父ヤコブと兄エサウをだましたヤコ
ブに、同じものが返って来る。神は、
更に狡猾なラバンを目の前に置かれ
た。すべて神から来ている。ラバン
は言葉巧みだが、実は、ただ飯食う
な、それ相応の労働をせよとの要求
だ。かつて父と兄を欺いたヤコブは、
ラバンによって欺かれる事になる。
ラケルをめとるために7年間働いた
が、ラバンが与えたのは、姉のレア
であった。だまされたのだ。以前自
分も、だました事を思っただろうか。
神はヤコブを砕くために、あえてこ
の厳しい試練の炉を通された。私達
が変えられるのは、苦しみにおいて
だ。順境が人を変えることはない。
苦しみにより、練り鍛えられる。神
はヤコブの性質もすべてご存じで、
まさにこのピッタリの環境に置いて、
訓練し、造り変えて行かれた。私達
も変えられる。そのための環境をピ
ッタリに備えられる。あなたも今、
試練の中だろうか。状況にほんろう
されるのでなく、その環境により、
神は何かを学ばせたいので、神を通
して状況を見よう。そして、悟れる
ように祈ろう。
・・・・・・・・・
今、目の前に起きている出来事は、
私達に学ばせたい事があるという事
だ。状況に飲み込まれるのでなく、
状況から目を離し、何を教えて下さ
りたいのか、主からのメッセージを
聞こう。 


2007年02月09日(金)

「ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる」士師1:21

                        
                      

「ベニヤミン族はエルサレム
に住んでいたエブス人を追い
払わなかったので、エブス人
は今日までベニヤミン族とい
っしょにエルサレムに住んで
いる」士師1:21 
                      

大掃除の時には、不用品を処分
する。何年も使わないし、もう
不要と思うが、処分する決断が
着かない事がある。なぜか。
万一、後で必要になるのではな
いかと思うからだ。それで優柔
不断になり、なかなか捨てられ
ない。しかし、決断し捨ててし
まうと、さっぱりしているもの
だ。忘れてしまう。捨てた不用
品の事をいつまでもくよくよ考
える事など無い。人間の心は、
はっきり決断してしまうと、後
戻りしないものだ。前に向かっ
て進んで行く。私達の信仰生活
でも、ある時、よく考えて、き
っぱり決断する事は大切だ。心
の偶像、信仰の妨げになってい
るもの、握って放せないものを
捨てる決断をする時、信仰が前
進して行く。決断する時にああ
でもない、こうでもないと思い
煩うが、捨てて後悔する事など
無い。捨てるべきものを、捨て
ずに持っていると、心の中にず
っと偶像を許し、宿す事になる。
いつまでも信仰が中途半端のま
まだ。神のことも今一つよくわ
からず、かといって、世でも平
安がない。一番不幸せで惨めだ。
後戻りはできない以上、今のま
まではなく、前に進む事が御心
だ。きっぱりと心を決めるよう
に、神は今、あなたに求めてお
られないか。  
-----------------
あれもこれも、自力で手にした
ものを手放せずにいる。更に手
に入れようとあくせくしてはい
ないか。必要なものはわずか、
いや一つだと主は言われる。
捨てて行けますように。


2007年02月08日(木)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21

                        


ある人が、稽古ごとをしよう
と、空いている曜日を申し込
んだ。高い入学金と前期分を
前納した。すると丁度、申し
込んでいた仕事が来て、曜日
がピッタリ重なり、取り止め
になった。費用の返却を問い
合わせると規約により無しと
の事。別の人は、夫婦旅行を
幾つも計画したが、その度に
用が入りすべてことごとくキ
ャンセルになった。全く道が
閉ざされたが、どちらのケー
スも、不思議な事に、本人達
の心は全く平安だった。信仰
人生で心に据えていた事が、
自分の願望を通す事でなく、
神の御心が成る事でありいつ
もそこを見つめ、基を置いて
いたからだった。私達も計画
通りに行かない事態がしばし
ば生じる。しかし、主の計り
ごとだけが成るのであれば、
その思い通りでない事態を受
け止め、受け入れよう。そこ
に真の平安を経験し、神を知
って行ける。その時、神と思
いが一つであるという事実に
安んじておれる。神のみここ
ろだけが成就する。人の計画
が成ることはない。環境を通
して、御心でなかった事が知
れたわけだ。受け入れられる
よう祈り、前に進もう。
---------------
みこころだけが成るのだから、
結果はいつも最善だ。だから
いつも前向きで、平安の中に
守られる。閉ざされた環境も
みこころの中。執着する必要
はないのだ。


2007年02月07日(水)

「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」箴言28:2

多くの首長達がいる時、様々な意見があ
り、それぞれの独自の思いがあり、一致
してやって行くのは難しい。日常生活で
も経験する事だ。職場、学校、家庭で意
見がぶつかり合う。何かを決めようとす
る時に、それぞれの思いがあり、主張が
ある。話し合いの結論はどのように着く
のだろう。一番押しの強い人の意見か。
決して譲らない頑固な人の意見が通るの
か。多数決なのか。同じ事が、外側では
なく、私達の心の中でも起きている。一
つの決定を前に様々な思いが起こり、行
き交う。イエス、ノー、ああでもない、
こうでもない、相反する思いも出て来る。
心の中にも多くの首長達がいる。その時、
何をもってして決定するのか。自分の好
きな道か、一番楽な道か、人から言われ
た道か。「分別と知識のあるひとりの人
によって」神の御言葉によって、神によ
って決定して行く時、いのちの道へ導か
れる。様々な思いで混乱する時、分別と
知識の主のもとへ行き、御声を聞こう。
多くの首長達に振り回されていないか。           
・・・・・・・・・・
自分の様々な思い、人々の意見、世の価値
観が交錯する。そんな時、ひとりの人ー主
の御声を聞こう。御前に心静めて、主の御
声に耳を傾けよう。祈りの中で、御言葉を
通してはっきりした指針が示される。



2007年02月06日(火)

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること」伝道7:14

                 


これもあれも神のなさること、
私達の日常の一つ一つも人生も、
すべてに神の御心が成し遂げら
れている。その事を受け入れ、
認めよという事だ。世の人は自
分の意見、自分の知恵で判断し、
自分の力で行動に及ぶ。
世の価値観の中で生きている。
しかし、私達は世の価値観、肉
の思いでなく、神の目を通して、
物事を見、御言葉によって判断
する必要がある。一つ一つの目
の前の神の意志、御心、摂理を
受け入れて行く事だ。状況を受
け入れる事が出来ず、環境を変
えようとして悪戦苦闘していな
いか。又、目の前の人を変えよ
うとしていないか。変えられな
いものを、変えようとするのは
不毛の戦いだ。消耗戦だ。骨折
り損で何の結果も得られない。
変えられるものを、変えて行く
べきだ。つまり、相手も状況も
変えられないが、自分を変える
事は可能だ。変えられるのは自
分だけだ。人は誰しも、自分が
変わりたいと思わない限り、決
して変わらない。相手を変える
事は不可能であり、的はずれだ。
神の御心は自分を変える事。
今、状況を相手を変えようと戦
っていないか。変えるべきは自
分自身。
----------------
目の前の事に不平不満を感じる
時は、いつしか神様を忘れてい
るのか。ささいなものにも神様
の御支配がある。順境にあって
も逆境にあっても神様を神様と
して認めて歩んで行くなら、
いつも平安だ。


2007年02月05日(月)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木からとって私にくれたので、食べたのです」創世記3:12

              
   




よく欠点を挙げながら、「ど
うせ私なんて」という人がい
る。しかし、正面から自分の
欠点を認めているのではない。
もし、周囲から「その通りで
すね」など言われようものな
ら、恐ろしい反撃が返って来
る。自分で言っているのに、
人から言われると腹を立てる。
これは実際のところ、自分が
悪いなどと全然思っていない。
そうではなく、自分を認めて
くれない、周囲が悪いと思っ
ている。欠点はすべての人に
ある。しかし、成長して行く
人と、心を屈折させてますま
す歪めて行く人に分かれる。
その違いは、真っ直ぐにその
欠点を認めるかどうかだ。
そこから大きく違って来る。
私達は皆、失敗するものだ。
間違いを犯してしまう。その
時に「それをしたのは、私で
す」が一番神の喜ばれる態度
だ。アダムはエバに、エバは
蛇に、責任転嫁して行った。
罪の性質は、人を責め、環境
を責め、決して自らの罪を認
める事はない。悪いのはすべ
て人のせい、環境のせいだ。
責任を取るとは、自らの罪を
認め悔い改める事だ。そこで
神の赦しと癒しを経験する。
アダムが「私が悪かった」と
言えば、エバも「いいえ、私
の方が悪かった」と言ったに
違いない。
----------------
人はだれもが罪を犯す。神様
の御心の中を歩んで行くため
には、しっかり罪を認めなけ
ればならない。そうでなけれ
ば、成長もなければ次の一歩
も踏み出せない。


2007年02月04日(日)

「あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」伝道4:4

御言葉は、人々の仕事をする動機は、
成功欲望と人間同士の妬みだと言って
いる。人の心の底にある妬みと、人へ
の競争心が、仕事へと駆り立て、どん
なに過酷で重労働でもやってのけて行
く。地位への野心が仕事へと駆り立て
て行く。ソロモンも経験した。しかし、
それは風を追うように虚しく、決して
心を満たさない。虚しいばかりだ。私
達の動機は何だろう。あなたの動機は
どうだろう。妬みと競争心、野心だろ
うか。人に負けたくない、勝ちたいの
だろうか。神無しの世界ではそうかも
知れない。それが動機だろう。しかし、
もしそうなら、人生が虚しく終わると
警告している。私達の働く動機は、神
の栄光を現わすためであり、人前では
なく神の御前で働く事だ。神のためだ。
又、誰の賞賛を求めているのだろう。
神でなく人の賞賛か。御霊に心を探っ
て頂こう。人の評価を求めて行く時、
迷路に迷い込む。本筋から迷い出る。
誰の評価が欲しいのだろう。誰に認め
られたいのだろう。人か、神か。神が
いつも正しい位置に戻して下さるように。               ・・・・・・・・・・
神が常に見られるのは「動機」だ。ど
んな動機で仕事をし、又、教会で奉仕
をしているのだろう。迷い出ていないか。
御心の場所に戻して頂こう。そこは喜び
と安らぎだ。  






2007年02月03日(土)

「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主」箴言17:3

銀は、るつぼに、金は炉に入れて、高
温で溶かす。不純物を取り除き、純度
を高めるためだ。純度の高い銀と金が
できる。私達も同様だ。試練の炉で、
不純物が溶かされて行く。炉で金が純
化されるのと同様に、私達の心をテス
トされ純化される。人生の目の前に起
こる一つ一つの出来事は主から来る。
主の御心によってだ。偶然は一つもな
く、今、目の前にある事態は主からの
ものだ。その事に主の意図と目的があ
る。人とのあつれき、人からの苦しみ
であろうと、その背後におられる神か
ら来ている。目の前の人でなく、背後
の神を見よう。テストを通して、私達
は自分の本性を知る。醜い自分があら
わになる。順境の時には全く表われな
い自分自身だ。しかし神が愛していて
下さるのは、その醜い自分だ。テスト
を通して練りきよめて下さる。不純物
は、プライド、虚栄心、世を求め、賞
賛を求める心か。砕いて下さる。試練
を通して必ず一段階成長して行く。
・・・・・・・・・・・
試みに驚き慌てるのでなく、思い煩う
のでも心頑なにするのでなく、何を教
えて下さりたいのかが悟れるように祈
ろう。状況に振り回されず、視点をそ
こに定めて、主の目的と意図を受け取
ろう。


2007年02月02日(金)

「湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることができない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」エレミヤ2:13 

  
 

私達は自分の心を満たそうと、
様々なものを追い求める。富、
やりがいのある仕事、趣味、
愛する人、名誉や地位、人か
らの賞賛、知識、快楽、人に
より様々違うが、それらはす
べて「こわれた水ため」だ。
幾ら水をためようとしても、
壊れているので、水が流れ出
てしまう。水をためる事がで
きず、決して心を満たす事が
出来ない。何が問題なのか。
それは湧き水の泉である神を
捨てたことだ。泉は水が湧い
て出る。決して無くならず、
尽きる事がない。神は湧き水
だ。それを捨てるなら、何を
持ってしても満たされること
がない。あなたの心はどうか。
神以外のものに拠り所を置い
ていないか。有形、無形、神
以上に大切なものがあるなら、
それは偶像だ。「あなたの力
とするもの、栄えに満ちた喜
び、愛するもの、心に慕うも
の」それらは、あなたと神の
関係を妨げ、離してしまう。
魅力的で心惹かれ、心奪われ
るもの、喜ばしい、慕わしい
もの、しかし、それは、こわ
れた水ためだ。御霊に心探っ
て頂こう。
------------------
壊れた水ためから、ほんのわ
ずかな水を飲んで満足しては
いけない。信じる者に与えて
下さる本当の命の水は神様か
ら来ること信じ、一つ一つ手
放して行けますように。


2007年02月01日(木)

「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか」伝道7:13


                

神が曲げたものを、まっすぐに
しようとして、私達は何と不毛
の戦いをする事だろう。神が曲
げられているのに、自分がまっ
すぐにしようと、骨を折り、頑
張る。まっすぐにならないと、
尚も頑張り、信仰の戦いだと勘
違いし、思い違いをする。信仰、
信仰と言っても、どうにもなら
ないので、力尽きて来る。もは
や性根尽きて、ギブアップする
時に、神が曲げたものだと見え
て来る。あなたも自分でまっす
ぐにしようと、方向違いの戦い
をしているか。神が曲げておら
れたなら、誰もまっすぐに出来
ない。私達のする事は、神のみ
わざを受け入れる事だ。それが
信仰だ。私達に来る試練は、受
け取る事だ。それが一番の祝福
だ。もがいても、逃げてもただ
痛いだけだ。何の益もなく、神
が与えたい良いものを、自分で
投げ捨ててしまう。あなたの目
をご自身に何とか向けようと、
目の前のものを曲げておられる。
目の前のものから、視点を神に
変えよう。受け入れる時、安息、
安堵、憩いを見い出す。まっす
ぐにしようとするのでなく、受
け入れられるよう祈ろう。
---------------------------
抗っていると苦しいだけだ。も
う自分自身を頼らず前から来る
ものを素直に受け入れられるよ
うに祈ろう。