2007年03月30日(金) 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加えられるからである」ヘブル12:6
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加えられるからである」ヘブル12:6
あなたの今いる環境は、困難だろ うか。難しい対人関係にあり、誰 かがあなたに敵対し、批判し、辛 く当たるだろうか。あなたはその 相手だけを見て、心ががんじがら めだろうか。あなたにも憎しみや 敵対心が湧き上がるか。ここで信 仰的見方が大切だ。環境はすべて 神から来ている。偶然など存在し ない。たまたまそうなっているの ではない。不運なのでもない。そ の人をあなたの前に置かれたのは、 神だ。あなたは、その人を相手に しているのでなく、神を相手にし ている。神はあなたを取り扱い、 砕き、練っておられる。陶器師で ある神が、陶器であるあなたを練 って、こねて造り変えようとして おられる。神の訓練はその時は悲 しい。決して楽しくないし嬉しく ない。むしろ痛く辛い。しかし、 痛みによって自我の強い、自己中 心な自分が砕かれる。的はずれに ならないよう、しっかり神に焦点 を当てよう。何度聞いても、どこ まで行っても、人しか見えないの が私達だ。人ではなく、相手では なく、霊の目が開かれて、神が見 えるように祈ろう。その時、正し く受け止める事ができて、成長に 至る。 ------------------- 昨日は、一度にたくさんの文章を 送信してしまいご迷惑をおかけし ました。本日分の一部に文字化け がありましたので、再送します。 多くの励ましのメールありがとう ございました。
2007年03月28日(水) 「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか」伝道7:13
「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか」伝道7:13
私達は、神が曲げたものをまっすぐ にしようとするものだ。神が与えた 環境を受け入れずに、環境や状況を 変えよう、変えようと悪戦苦闘する。 思い通りでない事態を、何とか思い 通りにしようと必死になる。経験あ るだろうか。しかし、神が曲げられ たものは絶対にまっすぐに出来ない。 どうやっても変わらない。不毛の戦 いだ。神が下さらないなら、どんな にあがいても得られない。「人は天 から与えられるのでなければ、何も 受けることはできない」。それを、 まっすぐにしようとどんなに苦しん だ事だろう。やがて、曲げているの は神だと悟る。神に焦点が合う時、 初めて自分が間違っている事に気づ く。変えるのは環境や相手でなく、 自分自身だと。あなたも頑張って精 魂尽きただろうか。それとも今、悪 戦苦闘中だろうか。神の主権を認め、 私達のする事は、曲がったものをま っすぐにするのでなく、自分を明け 渡すことだ。状況を受け入れる事だ。 これが平安の道だ。受け入れる時、 心が解放される。自由になる。状況 は何も変わらないのに、心が変わり 平安になる。 ・・・・・・・・・・・・・ 目が開かれて、神の曲げたものに気 づけるように。今も気づかずに戦っ ているかも知れない。受け入れる事 が御心であり、そうできるよう、祈 りを変えよう。
2007年03月27日(火) 「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする」箴言18:1
「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする」箴言18:1
主は私達を、ある対人関係の中 に置かれる。今、ぎくしゃくし ている相手があるだろうか。た またま境遇がそうなり、不運な のではなく、主がその相手をあ なたの前に置いておられる。神 に焦点が合って来ると、神の取 り扱いが見えて来る。「鉄は鉄 によってとがれ、人はその友に よってとがれる」とあるように、 人によってとがれるのだ。性格 や考え方の全く違う相手がいる から、自分の姿があらわになる。 皆が皆、同じであれば、ぶつか る事もなく、自分の本性が出る こともない。自分の出っ張った 部分が、相手と摩擦を起こし、 自我がぶつかり合う。本来の自 分がいかに自己中心で、頑固で、 罪深いかを知る。ある婦人は結 婚して、姑とうまく行かなかっ た時にいかに、自分も意地悪で 冷淡であるかを知った。私達は 目の前の人を通して、取り扱わ れ砕かれる。よく来る誘惑が、 そこで自分を閉ざしてしまう事 だ。しかし、自分を閉ざすと成 長が止まる。へりくだりを学ば されている。傲慢が打ち砕かれ るためのものだ。主に焦点を当 てて、逃げずに避けずに、心を 閉ざさずに学ぼう。成長の時だ。 ---------------------- 嫌な相手を避けて通っても、必 ずいつか、逃げられない状況に 置かれる。自分のどこを変えよ うとしておられるのか、その視 点に立たなければいつまでたっ ても血肉との格闘に終わってし まう。
2007年03月26日(月) 「私の時は、御手の中にあります」詩篇31:15
「私の時は、御手の中にあります」詩篇31:15
ラザロの病気が知らされた時、 主はすぐに行かれないで、な お2日とどまられた。姉妹と ラザロを愛しておられたから こそ、2日とどまられたとあ る。すぐに行動されなかった 理由が「愛」だ。主には意図 があられ、病気を治すより更 に大きな、死からよみがえら せるという、ご計画を持って おられた。祈りが、なかなか 答えられないだろうか。その 祈りが神の御心に適わないな ら、幾ら祈っても答えられな いが、神の御心に適った祈り は、必ず答えられる。しかし、 「時」がある。神が「絶妙の 時」をすでに備えておられる。 「神のなさることは、すべて 時にかなって美しい」。それ はしばしば私達の思いとは異 なる。神の思いは、いつも遙 かに高い。一番美しく神の栄 光が現れされる時を、待って おられる。あなたが祈り続け ているその祈りは、一番ふさ わしい時に答えられる。御心 にかなった祈りは、必ず答え られる。神の計られた時に。 遅れているのは、神の愛だ。 祈りの答えを通して神の栄光 が現れされる。失望しないで、 あなたのその祈りを祈り続け よう。神はあなたを愛してお られる。 ------------------------ 今知らずとも、必ず神様が最 善の時に最善をされる。叶わ ない祈りも神様の愛あるお答 えだ。みこころが成されるこ と信じ、祈りの中で自分の思 いを明け渡して行こう。
2007年03月25日(日) 「ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。それで、エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んでいた。今日もそうである」ヨシュア15:63
「ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。それで、エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んでいた。今日もそうである」ヨシュア15:63
ユダ族は今まで果敢に戦って来たのに、 エブス人を追い払えず、彼らと一緒に 住むようになった。なぜかわからないが 神が御心によりそうする事を許された。 敵対する者をとどめられたのは、民を 倒すためでなく、より神に頼み、成長さ せるためだ。苦しみは避けたいし、逃げ たいし、好きではないが、苦しみの中で 人は成長して行く。すべてが自分の思 い通りになる環境では、人は成長する 事はまずない。思い通りにならず、目の 前、障害だらけで、不都合この上ない 環境こそ、実は恵みなのだ。あなたも、 かせの中に入れらているか。あっち向い ても、こっちを向いてもぶつかり、心は悶 々状態か。そのような時こそ、神が大切 なことを教えて下さる時であり、成長の時 だ。あれほど悩まされたエブス人だが、後 にダビデの時代に、エブス人攻略に成功 した。エルサレムからエブス人を追い出し、 これがダビデの町となった。今、もし、思い 通りにならない環境なら、そこで、学ぼう。 訓練を受けよう。学んだ時に、試練は 終わる。 ・・・・・・・・・・・・・ まだ根絶やしにできない、自分の内に あるものは、高ぶる事なく、更に神に 拠り頼むためだ。必ず神が根絶やしに して下さる。
2007年03月24日(土) 「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12
「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12
パウロが「心を広くしてください」と 言っているように、コリントの人々は 自分で自分の心を狭くしてしまってい た。人から狭くされるのではない。自 分が窮屈にするのだ。自分の罪を認め なかったり、御霊からの促しや指し示 しをきちんと受け止めなかったり、自 分の失敗を隠したり、そういう時、自 分が心を閉ざしてしまう。段々聞かな くなり、自分で心をねじ曲げて行って しまう。すねた思いや自己憐憫に閉じ こもる。失敗した時に、素直に認めて、 悔い改めるのではなく、自己弁護し、 言い訳を重ねるだろうか。そうすると、 実は更に自分を狭くして行ってしまう。 経験あるかも知れない。自分のした事 に対しては、責任が伴う。責任を取る とは、きちんと自分のした事を認め、 悔い改める事だ。人に罪を犯したなら、 謝罪する事だ。その時、赦しを受け取 り、全き平安を得る。主からの叱責、 人からの忠告を受け取らない事も、自 分を窮屈にする。種蒔きの「土地」は 問題だ。土地は心だ。あなたの今の心 はどうだろう。屈折していないか。素 直な心で御言葉に向かおう。状況でなく、 問題は心の態度だ。 ・・・・・・・・・・・ 状況も人も、自分の心をどうにかする 事はできない。自分の心を屈折させる のは自分自身だ。自分のものとして認 める事が解決の始まりだ。
2007年03月23日(金) 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント7:10
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント7:10
悔い改めとは「心を変えること」 だ。後悔する事ではなく、神に立 ち返ることだ。罪の結果を悲しむ のでなく、罪そのものを悲しむこ とだ。後悔とは、罪の結果をしま ったと思い、悔いて悲しむだけで あり、結果さえ悪くなければ、結 果オーライであれば、考える事も 悔いることもない。しばしば罪の 結果が恥ずかしく、体裁が悪いの で、結果を悔いるだけで、罪を悔 いているわけではない。これが世 の悲しみだ。そのため、同じ過ち を繰り返してしまう。放蕩息子は、 父の家を出て、好き勝手に暮らし たが、父の愛に気づき、自分の罪 に気づき、方向変換して、父のも とに帰った。この方向を変える事 が悔い改めだ。神に心を向ける時、 自分のした事に対して悔い改めが 出て来る。後悔は神を見ているの でなく、単に状況と自分を見てい るだけだ。真の悔い改めは御霊の 働きだ。神の愛や恵み、十字架の 救い、赦しがあるから悔い改める 事ができる。放蕩息子は「罪を犯 しました。子と呼ばれる資格はな い。雇い人にしてくれ」との言葉 を用意した。しかし、それを言う 前に、父は走り寄り、ボロボロの 息子を抱きしめた。そして、無条 件で受け入れられたその時に、真 の悔い改めが起きた。 ----------------------- 御霊の導きのない悔いは、肉の憐 憫をもたらすだけだ。赦しも癒し も自分だ。罪そのものをよく見極 め、罪を悲しみ、神様に立ち帰ろ う。赦しはすでに備えられている。
2007年03月22日(木) 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1
すべての事に、神の厳粛なる 「時」がある。祈りの中でそ の、神の時を見分けて行ける なら幸いだ。物理的には、環 境は開かれているのに、気持 ちが沿っていない事がある。 又、逆に、強い気持ちがある のに、環境が全く開かれなか ったりする。それぞれ神の時 ではない事を学ぶ。心が備え られ、整えられ、且つ、環境 も開かれている、そのような 神の時には、信仰によって前 進すべきだ。ある人の証しだ。 会堂建設を教会皆で祈ってい た中で、バブルが弾けて丁度 土地が下がった。今だ!と思 った。今なら格安で買える。 今こそが神の時だと。しかし、 牧師は頑として動かなかった。 早く、早くしなければと思う が、牧師が見ていたのは、土 地の価格でなく教会の一致で あった。まだ機が熟していな い。一致のためにもっと祈ら ねばと。結果的に、皆が一致 し、神の時に土地は与えられ、 会堂が建った。時を待ったの で、土地は値上がりしたが、 それにも増して多額の費用が 備えられ、更に大きな神の栄 光を見る事になった。すべて の事に定まった時期がある。 その絶妙なる時を悟って従う 時、素晴らしい神の栄光が現 れる。日常の中で「神の時」 に目を向けていよう。 ----------------- すべてに神様みこころの時が あるので、結果が閉じられて も、落胆しないし目の前の状 況に執着しないでおれる。す べての営みの中に神様の主権 を認めるなら焦りや不安から 守られる。
2007年03月21日(水) 「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」民数記12:3
「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」民数記12:3
謙遜=柔和の代表と言われるモーセ。し かし、最初からそうではなかった。始め の40年は王家の王子として過ごした。 人々からもちやほやされるが、事実、あ らゆる学問を身につけ、言葉にもわざに も力があり有能な人物であった。自分を いっぱしと思い、同胞を救う力があると 思い込んだが、皆の理解は得られず、結 局ミデアンの地に逃げ延びることになっ た。見渡す限りの荒野で、何も無い所で、 モーセは羊飼いとして生活した。王家の 王子が、荒野で一介の羊飼いとなった。 自分の無力に打ちのめされた。何一つ出 来ない全く力の無い自分を見せられ続け た。名誉、地位、富、人からの称賛、高 慢、プライド、輝かしき将来、すべてを はぎ取られたのだ。しかし、これこそが モーセの真の富となった。荒野の訓練の 中で、自信に満ちたモーセは砕きに砕か れ、柔和な者と変えられて行った。神は 高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを お授けになる。これは普遍の原則だ。モ ーセは荒野で砕かれ変えられ整えられ、 40年の後、間に合う器として、出エジ プトという偉大な働きのために用いられ た。神はへりくだった者を用いられる。 信仰の一番の妨げは高慢だ。今、荒野に いるなら、大きな祝福の一歩手前だ。へ りくだって神に従おう。 ・・・・・・・・・・ 信仰生活の妨げはひたすら高慢だ。自分 をいっぱしと思い、ひとかどと思い、人 よりはましと思う高ぶり。困難や訓練の解 答はへりくだりだ。悩み苦しみにより低く して下さる。それが真の祝福の道だから。
2007年03月20日(火) 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇119:105
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇119:105
御言葉が人生の歩みを、方向を 示してくれる指針であり、進む べき道を教えてくれるのは、誰 しも経験してきたところだ。 しかし、人間はどうしても不完 全なので、間違いもある。自ら の強い期待、強い願望がある場 合、自分の願望を御言葉に読み 込んでしまう。そして、神に語 られたと勘違いする。ある異端 でもよく耳にすると思うが、前 後関係の意味合いを無視して、 1節の御言葉だけをポンと取っ て来くるのは危険だ。御言葉に は、前後関係の中での意味と解 釈があるからだ。それをあちこ ちから1節だけを取って来て、 つなぎ合わせると、自分の都合 の良いみこころが作られてしま う。幾らでも自分の願望に合っ たみこころが出来上がってしま う。それは私的解釈だ。初心者 の頃には、誰しも経験あるだろ う。実際に環境がそうはならな いので、自分の間違いであった と学んで行く。よく祈り、前後 関係の文脈をとらえ、聖書の1 節は聖書全体から見て行くこと が大切だ。一番大切なことは、 御言葉は進路標識でなく、主ご 自身の霊であり、いのちであり、 そこに心があるという事だ。へ りくだって、みことばを愛して、 向き合う時、御霊により正しく 導かれる。 ------------------- デボーションもできたら一章単 位で読んで行きたい。全体の脈 絡、背景なども考えながら意味 をよく考え悟っていきたい。み ことばを悟るとは、素直な心で みことばを聞き、みことばを信 頼し、保つことだと学んだ。
2007年03月19日(月) [そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない」イザヤ29:13
[そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない」イザヤ29:13
多くの民が神殿へ行き、献げもの を献げていた。沢山の人々が宮も うでをしていた。今で言えば、人 々は皆、教会へ来ていた。しかし、 形だけであった。形だけで神をあ がめ、すべてを儀式的に執り行っ ていた。形は整っているが、イザ ヤの時代の民達も、今の時代の形 式的な人々も、決して神の言葉を 受け入れてはいなかった。口では 受け入れていると言うが、心では そうでは無かった。「彼らはやみ の中で事を行ない、そして言う。 『だれが、私たちを見ていよう。 だれが、私たちを知っていよう』 と」民は神が見ていない、知らな いとの前提に立ち、生活していた。 その心は神から遠く離れ、御言葉 は聞きたくない。神に従うより、 自分の思い通りに、好きなように、 自分を神として生きて行きたい。 干渉されたくない。教会に来て礼 拝しているが、私達も心の底はそ のようだろうか。しかし、神は外 側でなく心を見られる。その頃、 神の言葉が封じられた書物のよう になった。11'なぜか。民が御言 葉に聞かないため、神が彼らの心 を閉じられたと。私達の態度はど うだろう。へりくだってまず御言 葉に聞こう。神は語られ、生き生 きとした愛の交わりに入る。 --------------------- 礼拝が習慣となってはいないか。 神様によって週の初めに、世から 取り出され愛する神様に霊とまこ とをもって賛美と祈りをささげら れることを感謝し、自分自身を献 げていこう。
2007年03月18日(日) 「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある」イザヤ28:1
「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある」イザヤ28:1
エフライムは、「肥えた谷」肥沃な地 を持っていて「誇りとする冠」非常に 高慢になっていた。酒に酔いつぶれな がら、自分を誇り自慢していた。神は その酔いどれの誇りとする冠を踏みに じるために、アッシリヤを送られた。私 達も同様だ。神の恵みを忘れ、自力 で得たかのように高慢になる。神に栄 光を帰すのでなく、自分が奪い「誇 りとする冠」にしてしまう。そんな時、神 は私達にもアッシリヤを、砕きの御手 を送られる。今、痛い事、辛い事態 が来ていたら、へりくだって自らを探ろう。 神の恵みを横取りして、自分の手 柄にしていないか。神はしばしば、様 々な事態を送り高慢を砕いて下さる。 それは神の愛だ。放っておかれたら、 私達はすぐに天狗になって、あたかも 自分の功績のように思い、神から離 れてしまう。思うようにならない状況、 事態は感謝な事だ。不平不満はお 門違いだ。へりくだって神のお心を悟 ろう。過去を振り返るなら、思い通り にならない事態が、どんなに感謝で恵 みであったか、高慢から守られたか誰 しも知るだろう。 ・・・・・・・・・・ アッシリヤしか見えていないだろうか。 それを送って阻まれているのは神だ。 自らの高慢に気づいて、力強い御手 の下にへりくだろう。
2007年03月17日(土) 『するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」すると、すぐさま彼は見えるようになり』マルコ10:32
『するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」すると、すぐさま彼は見えるようになり』マルコ10:32
バルテマイは乞食だった。人々から金銭を、 物を恵んでもらって生活が成り立っていた。 だから人々に物を求めた。しかし、主に求 めたものは金銭ではなかった。「目が見え るようになること」だった。人々には出来 ない、しかしこの方には可能との、信仰に よった。信仰がなければ求める事などしな い。彼には信仰があった。その信仰は「私 をあわれんで下さい」との叫びを生み出し た。止められても、ますます叫び立てた。 もし、主が受け止めて下さると信じなけれ ば、どこまでも叫ぶ事などしないし、出来 ない。又、はなから求めもしない。彼は真 剣で必死だった。この時、この機会しかな いと全身で叫んだ。ザアカイも同様だ。今 を逃してチャンスは二度とないと、木にま で登った。もし、ここで憐れみをもらわな ければ、生涯盲人のまま、又、ザアカイは 一生虚しい暗い日々があるだけだ。絶対に このままでは帰れなかった。主は答えて下 さった。私達はどうだろう。あなたの求め は、どっちでもよい程度のものか。又、諦 めているか。彼は何一つ「出来なかった」。 しかし、叫ぶ事が「できた」。この求めを、 神は待っておられる。 ・・・・・・・・・ 神は何も求めておられない。何を提供する 事も出来ない。心底からの「助けて」との叫 びを求めておられる。それだけだ。人生が大 きく変えられて来たのは、心底叫んだ時だっ た。与えるだけのお方だ。
2007年03月16日(金) 「青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」マタイ19:22
「青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」マタイ19:22
この青年は、「殺してはなら ない・・あなたの隣人をあなた 自身のように愛せよ」に対し て「そのようなことはみな守 っております」と答えた。 しかし、貧しい人達に持ち物 を売り払って与えよと、言わ れた途端、本当の姿が現れ出 た。「隣人をあなた自身のよ うに愛せよ」との戒めが守れ ていなかったわけだ。戒めを 守る事など絶対に出来ない。 主は、出来ない自分の本当の 姿に気づいてほしくて、一番 弱いところを突かれた。あえ てそのところをあらわにされ た。もっと聖書を読み、もっ と祈れという事であれば、喜 んで従ったであろう。マルコ では、主は「彼を見つめ、い つくしんで」とある。この青 年を慈しんで、自らの姿に気 づけるように取り扱われた。 私達にも同様にされる。財産 自体は罪でも何でもない。し かし、それが偶像になってし まうと、神からあなたを離す ものとなる。財産は富だけで はない、愛する人、仕事、趣 味、名誉、地位・・神以上にそ れらが心を占めてしまうなら、 明確な偶像だ。あなたの心に は愛するもの、執着するもの があるだろうか。悲しんで去 って行ったということになら ないために、神の御手にそれ らを渡そう。そうするなら、 それを正しい位置に置いて下 さる。 ----------------- 一番握って離せないものは何 だろう。気づいたならそれを 神様に献げてみよう。有限の 自分が握っているものを無限 の御力をもつ神様が豊かに祝 福し何倍にもにして返して下 さるから。
2007年03月15日(木) 「御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」Tコリント3:1
「御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」Tコリント3:1
御言葉は、二種類のクリスチャ ンが存在すると言う。御霊に属 する人と、肉に属する人、大人 のクリスチャンと乳飲み子のク リスチャンだ。肉に属する人の 特徴は、堅い食物を食べること が出来ず、乳しか飲めない。 つまり、御霊のことがよく理解 できない、わからない。「御霊 のことは御霊によってわきまえ るもの」だからだ。堅い物= 「自らの罪を更に知って行く事、 神の義、聖化、訓練」御霊に属 するクリスチャンの関心事は霊 的に成長する事だ。乳=「愛さ れたい」乳飲み子の関心事は、 ただ自分が愛される事、すべて の関心がそれだけだ。神の愛だ けを好み、義や訓練、聖化は好 まない。ヘブル5:14によると、 「乳ばかり飲んでいる者は、義 の教えに通じていない」。「堅 い食物は大人の物であって・・訓 練された人たちの物」、大人の 信仰者となって行くには、訓練 される事がどうしても必要だ。 それゆえ神の訓練、試練を逃げ て、避けていては、いつまでた っても乳飲み子のクリスチャン で、大人になれない。私達はど うだろう。乳飲み子のままでい たいだろうか。乳飲み子の特徴 は、信仰と現実が別ものという 事だ。教会では信仰、世では全 く別の自分になる。二本立てだ。 私達はどうか、神の御心は、御 霊に導かれた生活へと進む事だ。 ----------------- 祈りはもっぱら自分の願いだけ、 痛い、辛いは避けて通る・・こ れならいつまでたっても幼子だ。 心の中を占めている自分、自分 を神様に明け渡して、御霊様に 導かれ日々を歩んで行けます様 に。
2007年03月14日(水) 「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある」イザヤ28:1
エフライムは、「肥えた谷」肥沃な地 を持っていて「誇りとする冠」非常に 高慢になっていた。酒に酔いつぶれな がら、自分を誇り自慢していた。神は その酔いどれの誇りとする冠を踏みに じられるために、アッシリヤを送られ た。私達も同様だ。神の恵みを忘れ、 自分の力で得たかのように高慢になる。 神に栄光を帰すのでなく、自分が奪い 「誇りとする冠」にしてしまう。そん な時、神は私達にもアッシリヤを、砕 きの御手を送られる。今、痛い事、辛 い事態が来ていたら、へりくだって自 らを探ろう。自分を誇っていなかった か、神の恵みを横取りして、自分の手 柄にしていないか。神はしばしば、様 々な事態を送り高慢を砕いて下さる。 それは神の愛だ。放っておかれたら、 弱い私達はすぐに天狗になって、あた かも自分の功績のように思い、神から 離れてしまう。思うようにならない状 況、事態は感謝な事だ。不平不満はお 門違いだ。へりくだって神のお心を悟 ろう。過去を振り返るなら、思い通り にならない事態が、どんなに感謝で恵 みであったか、それによって高慢から 守られた事を誰しも知るだろう。 ・・・・・・・・・・ 神は真実に愛して下さっているので、 高慢なまま進ませられない。危険だか らだ。アッシリヤを送って阻まれる。 放っておかれない神の愛だ。高ぶりに 気づき、御手の下にへりくだろう。
2007年03月13日(火) 「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」詩篇23:3
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」詩篇23:3
誰しも慌ただしい忙しい毎日のことだろう。 1日の予定はビッシリで、為すべきことは 山積、幾らやってもきりがないほどだ。し かし、そんな中で、日ごとに、静まる時を 持つ事は極めて大切だ。日々生活に追われ ているが、静まって御言葉を前にし思いを巡 らすことだ。自分は御言葉に従って生きて いるだろうか、御言葉からそれていないか、 心に罪は無いか、御霊に導かれてよく探っ てみることは必要だ。神を意識する時を、 自らの状態を振り返る時を、持たない限り、 どこまでも流されていて気づかない。神の 御心にそれているなら、それは罪だ。罪を 放ったままにしておくと、必ず苦しみと悲 惨を刈り取る事になる。今のこの時、神を 見上げ、神を意識しよう。御子を賜うほど に愛して下さっているその愛を覚えよう。 神の前に罪を清算しないまま、喜びと平安 を失い、重い暗い心で歩んでいないか。失 望で沈んでいないか。生涯赦されて赦され て歩む歩みが信仰生活だ。「ごめんなさい」 は大きな平安と喜びを回復させる。ちょっ とストップして、神の前に静まろう。神の 霊に触れて心が必ず新たにされる。喜びが 返って来る。 ・・・・・・・・・・・・ 羊飼いがおられる。それを忘れて羊が自分 で何もかもしようとして迷子になる。羊飼い がすべての必要を備えて導いて下さる。羊 飼いにただついて行けばよい安堵の歩みだ。
2007年03月12日(月) 「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いを持って、次ぎ次に教師たちを自分たちのために寄せ集め」Uテモテ3:3
「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いを持って、次ぎ次に教師たちを自分たちのために寄せ集め」Uテモテ3:3
無意識の内に、自分に都合 の良い御言葉を取って来る ものだ。これをわきまえて おくことは有益だ。意識し ているなら良心もあり、そ ういう事は出来ないが、無 意識にしてしまう。例えば、 どうしてもこれが欲しいと の強い願望があれば、その 思いが非常に強ければ、そ れに反する御言葉は通り過 ぎてしまう。まず、その願 望に合う御言葉しか入らな い。こんな経験は誰しもあ るはずだ。だから願望に沿 う御言葉、こうあって欲し いと望む御言葉をもって、 神の御心と勘違いする。こ の強い願望は、目を見えな くしてしまうので要注意だ。 「自分に都合の良い」御言 葉を探してしまう。しかし、 私達の思いがどうであれ、 厳然と御心だけが成るので、 環境が閉ざされる事によっ てはっきりする。この願望 をまず神に明け渡すことが 祝福の道だ。でなければ、 間違ってしまう。神の御心 が最善なので、どんなに強 い願いでも、御心でなけれ ば閉ざされる事が、実は私 達のためだ。主も十字架の 道を、私の願うようにでな く、御心のようにと、自分 の願いを明け渡された。ま ず、あなたのその強い願望 を明け渡す事が、最善の道 だ。そうするなら、主の御 心がはっきりとわかる。 -------------- 主権は神様にある。自己満 足のため、気休めを言って もらうためにみことばに向 かってはいないか。今週も 思いを明け渡し、平安の中 を歩もう。
2007年03月11日(日) 「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった」マタイ14:20
「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった」マタイ14:20
自分の内に諦め思考、マイナス思考が無 いだろうか。「私が少しぐらい証しして も、何になる」「こんな微々たる献金し ても、何にもならない」「少しぐらい祈 ったって無駄だ」「私の微力の祈りが聞 かれるわけがない」「私一人など何の役 にも立ちはしない」「こんなに大勢の未 信者の中で、私一人が何になる」ふっと 心に湧いて来ないか。サタンのささやき だ。「無駄」「微力」あの少年の5つの パンと2匹の魚、幼稚園児の弁当ほどの 微々たるものを、こんなもの何になると、 主のもとへ持って行かなければ・・少年 は用いられるという大きな喜びを経験で きなかった。又、皆もこの奇跡を見る事 は出来なかった。神は全能の主だ。「パ ンが5つと・・ほかありません」「それを ここに持って来なさい」これが何になろ う、その微々たるものを、私が何が出来 ようと思う、あなた自身を、神のもとへ 持って行くなら、あなたを用いて奇跡を される。神が働かれる。どんなに僅かで あろうと問題でない。神は祝福され、人 々は十分満ち足りて、満腹する。周囲の 祝福の器とされる。微々たるものを用い られる。おくせず主に献げよう。 ・・・・・・・・・ 「〜何になる」は主のわざを妨げようとする サタンの声だ。微々たるそのものでなく、主 がどなたかが問題だ。全能の主が、用いて 下さる。恐れず主のもとへ持って行こう。 主の愛を知ることになる。
2007年03月10日(土) 「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」イザヤ7:9
「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」イザヤ7:9
ユダのアハズ王の時、アッシリヤの脅威 があり、アラムと北王国イスラエルはア ハズが同盟を拒んだため、ユダに攻撃を しかけようとした。この時、アハズ王と ユダの民は「王の心も民の心も、林の木 々が風で揺らぐように動揺した」しかし、 イザヤは主から言葉を受け、恐れるな、 静かに主に頼るように、それは起こらな い、落ち着いているようにと語る。しか し、アハズ王はアッシリヤの援助を求め に走る。アラムも北王国もアッシリヤに よって滅ぼされる事になるが、ユダも滅 亡への道をたどる事になる。私達の日常 はどうだろう。木々が揺らぐように動揺 する、突然の事態が生じた時、どうだろ う。アハズのようにパニックになり、神 は吹っ飛び、肉の知恵、方策に頼り、方 向違いに走り回るだろうか。今、動揺す る事態が目の前にあるなら、神の言葉は こうだ。「気をつけて、静かにしていな さい。恐れてはなりません。この事態に 心を弱らせてはなりません」恐れないで、 神を信ぜよ。まず慌てないで、静かにす ることだ。とにかく落ち着こう。神が進 むべき道を、御心を示して下さる。神が 示された道へ進もう。 ・・・・・・・・・・ まず静かにすることを心に据えよう。そ して祈ろう。自分の知恵と判断で、肉で 動くと必ず後悔する事になる。蒔いた種 も刈り取る事になる。神に信頼して、導 きを待とう。なすべき事を教えて下さる。
2007年03月09日(金) 「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」箴言16:9
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」箴言16:9
私達の心には、様々な計画が思 い浮かぶ。しかし、それらのす べてが必ずしも主の計画なので はない。しかし、主の御心と一 致するなら必ず成し遂げられる。 「人の心には多くの計画がある。 しかし主のはかりごとだけが成 る」。御心で無いなら、どんな に願っても成就しない。主の御 心だけが成る。すべての主権は 主にあるので、私達の側とすれ ば「何も思い煩わないで・・願い 事を神に知っていただきなさい」 とあるように、心にある願い事 は神に知っていただいて、お委 ねすればよい。そして、平安で おればよい。「そうすれば、人 のすべての考えにまさる神の平 安が・・」となる。御心ならその 計画は進んで行くし、御心でな いなら閉ざされる。それで平安 だ。御心だと思い込んでいるが、 そうでない場合も多い。人間は 完全ではないので、しばしば間 違うものだ。むしろ、思い通り でなく、逆に思わぬ方に、御心 があったりする。又「人は自分 の行ないがことごとく純粋だと 思う。しかし主は人のたましい の値うちをはかられる」自分で は純粋だと思っている計画の動 機が、間違っている事もある。 しかし、主はそれらも明らかに し、教え導きながら、愛をもっ て、あなたの歩みを確かなもの として下さる。 ------------------- 自分が心に思い巡らす計画も、 主の御心だけがなることを知っ ているなら、結果はお委ねでき る。自分が主権を握っている限 りいつも恐れと不安だらけだ。
2007年03月08日(木) 「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至る」Tペテロ1:7
「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至る」Tペテロ1:7
世の人々は災いを恐れ、災いが無 いようにと信心する。しかし、ま ことの神は違う。天の父は悪い人 にも良い人にも太陽を上らせ、正 しい人にも正しくない人にも雨を 降らせる。だから平等だ。信仰す るなら受験はすべて合格、畑はす べて豊作、大金持ちになるなら、 すべての人が信仰するだろう。 しかし、神はそうではない。不都 合な事も備えておられる。だが、 それは試練であり、試練は祝福と される。私達の信仰は、必ず火で 精錬される必要がある。金は、火 の精錬により不純物が溶かされ、 純金となる。同様に、私達も試練 の火で、内にある不純物が除かれ て行く。不純物が除かれるために、 どうしても火が必要だ。試練の時 に、あなたの心はあらわになる。 建前は信仰でも、本音は何を求め ていて、何を頼っていて、自分の 力としているものは何なのか。本 音で愛しているものは何なのか。 平穏な順境の時には決して出て来 ない、心の本音が現われ出る。自 分の本当の姿を知る。神はすでに 見ておられるが、自分が自分の姿 を知らない。自分に偽ったまま、 進む事を望んでおられない。神は、 建前でなく、本音の私達を受け入 れて下さっている。裸の自分を知 り、認め、主に頼ることができる。 主の愛に安らぎを見い出す。試練 は必ず益で祝福だ。 ------------------ 本当の自分の姿を知るのは試練の 中でだ。むき出しの自分と対峙す る。本当の自分を知らなければ祈 れないし、成長もない。知れる事 が恵みで、教えられない事が最大 の悲劇だ。
2007年03月07日(水) 「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せて下さった」創世記3:21
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せて下さった」創世記3:21
罪を犯したアダムとエバは、主の御顔を避 け木の間に隠れた。神を恐れ、神を避けた。 神に受け入れてもらえないと思うからだ。 神から身を隠すとは、神を拒否する事だ。 関係を持ちたくないという事だ。人は罪を 犯すと恐れが生じ、神と人から隠れようと する。誰しも経験があるだろう。しかし、 神は違う。どこにいるのかと、御声をかけ られ、どこまでも、私達を求めて下さる。 私達には、なかなかわからないが、神の愛 は変わらない。罪を犯す前も、罪を犯してい る時も、罪を犯した後も、神の愛は全く変 わらない。変わらずに愛して下さっている。 そして、罪の解決も備えて下さった。皮の 衣を着せて下さったのだ。動物の血が流さ れた皮の衣だ。それで恥と恐れをおおって 下さった。主イエスの十字架であり、流さ れた罪の無い血潮が、私達の罪をおおう。 罪を犯した恥、恐れ、痛みがあるだろうか。 罪意識が臨んでいるか。心に血の注ぎを受 けたので、全き信仰をもって、恐れなく、 真心から神に近づく事ができる。赦しを受 け取ろう。主の血潮はそのために流されて いる。血潮におおわれ恐れと痛みが消える。 心に平安と喜びが来る。 ・・・・・・・・・・・・・ 罪を犯すと、とがめが来る。恐れと不安で 神に愛されているなどと、とても思えない。 自分が神を拒んでいる。自分がどう感じるか でなく御言葉に立とう。厳然と神はそこにお られ愛し続けて下さっている。
2007年03月06日(火) 「それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」創世記3:7
「それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」創世記3:7
人は裸で生まれて来た。裸自 体は罪ではない。エデンの園で はアダムもエバも裸であった。 しかし、罪が入って来た時、裸 が恥となった。汚れた思いなし に見られなくなったからだ。 それで自分の恥を隠すために、 いちじくの葉をつづり合わせて おおいを作った。私達の姿だ。 罪の恥を隠すために取り繕う。 とにかく隠しておきたい。人に 知られたくない。そのために嘘 をつき、相手のせい、状況のせ いにする。体裁、体面を恐れて 隠すのだ。神が悔い改めの機会 を与えようと「あなたはどこに いるのか」と問いかけられた。 「ごめんなさい」を引き出そう として「あなたは・・食べたのか」 と問うて下さった。「ごめんな さい。食べました」と罪を認め れば良かったが、責任転嫁して 行った。アダムはエバに、更に エバを置いた神が悪いと、神を 責めて行く。エバは蛇に責任転 嫁した。罪の姿だ。自分の罪で あるのに、自分を被害者にし、 相手を責める。ましてや、その 状況を作った神が悪いとなる。 どこまでも罪深い。自分の内に このようなパタンはないか。罪 の性質は、必ず罪を認めず人の せいにする。罪を認める時、完 全な罪の赦しが臨む。真正面か ら罪を認めよう。悔い改める事 が、その罪に責任を取る事だ。 その時、完全な赦しが臨む。 --------------------- 自分の罪をするりとかわして被 害者になる。人を責めている方 が楽だろうか。私達はそうであ ってはならない。見るべきもの はいつも自分の内にある罪だ。 そこを認めなければいつまでも 成長もなく苦しい。
2007年03月05日(月) 「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10:22
「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10:22
人間には良心が与えられている。 その良心には、罪を犯すととが めが来る。そのとがめを抑えた いがために、良い事をする。 言葉で、態度で、人を傷つけた 時に、良心がとがめるので、そ のままでは平安が保て無いので、 親切な行いを返す。そして、プ ラスマイナスゼロにする。これ で良心のとがめを収めて良しと する。誰しもにあるかも知れな い。しかし、これは自分の良心 を何とかしたいだけで、神への 愛や、相手への愛などまるで無 い。強烈な自己中心だ。ある人 は犯した罪に対するとがめから、 懸命に奉仕したり献金している 事に気づいた。神のために良い 事をして、自分の良心をなだめ、 罪滅ぼしをするのだ。神に認め てもらおうとする。そして偽り の平安を得る。人は知らぬ間に、 これを繰り返している事がある。 これは「邪悪な良心」だ。良い 事をして、神に受け入れてもら おうとの態度だ。そうであれば、 主の十字架は無意味になる。 この良心はきよめられる必要が ある。それはただ十字架の血潮 によってきよめられる。神に行 いで受け入れてもらおうとの、 死んだ行ないから離れさせてく れる。主の血によって良心はき よめられ、赦され、どんな時も 恐れなく御前に行ける。主の血 に拠り頼もう。 ----------------------- 私たちの罪は尊い主の血潮によ って洗い流されているのだ。繰 り返し罪を犯す者だけれど、自 己嫌に陥ったり、自我を満足さ せるだけの罪ほろぼしに走るの でなく謙遜に罪赦されている恵 みに感謝しよう。
2007年03月04日(日) 「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう」イザヤ37:20
「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう」イザヤ37:20
ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王のセナ ケリブがユダの町々を攻め取った。王はラ ブシャケを送り、ヒゼキヤや人々に脅しを かける。大軍を伴い、強力な軍隊を誇示し、 挑んで来る。ラブシャケは、ヒゼキヤは主 が救い出すというが、そんな言葉にだまさ れるな、信じるなと、信仰を揺るがして来 る。これを聞いたヒゼキヤは衣を裂き、荒 布をまとって主の宮へ行き、祈りを献げ、 イザヤにも祈りを要請した。私達に挑み、 攻撃をしかけて来るサタンも同じだ。経済 的な事や信仰ゆえの戦い、圧倒的な勢力を 持つこの世を前に、自分達の無力をこれで もかと見せつける。祈っても無駄だ、神を 信じて何になる、しょせん無力だ・・。神を 信じて立たないように、この世に妥協して 生きるように誘惑する。そうすれば楽に生 きられるし、世の成功を手にできる。サタ ンだ。このような時には祈りが対抗手段だ。 ヒゼキヤもイザヤも祈った。その時、神は 奇跡を行われ、主の使いを遣わし戦わせた。 その結果、アッシリヤは立ち去った。世に 妥協させようとする、耳元に来るサタンの 誘惑に気づけるように。あなたにもこの誘 惑が来ているか。祈りによって立ち向かおう。 ・・・・・・・・・・・・・ 信じても無駄だ、どうにもならない・・、こん な微力、焼け石に水だとサタンが攻撃して来る。 又、楽な道、安易な道を誘惑して来る。神は 働きみわざをされる。サタンのささやきに気づこう。
2007年03月03日(土) 「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」ガラテヤ5:13
「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」ガラテヤ5:13
自由は、何でもしたい事をする事ではない。 放縦やわがまま、自分勝手と勘違いしては いけない。魚は水の中で自由、私達は陸で 自由なように、自由は無秩序でなく、秩序 がある。魚は水の中が不自由と感じないよ うに、秩序の中の拘束が自由なのだ。楽器 を演奏する時、譜面に、英語を学習する時、 文法に縛られないだろうか。それらに乗っ 取って初めて、素晴らしい演奏ができ、流 暢に英語を喋れる。スポーツもルールがあ る。誰かそれをルールに縛られて拘束だと 言うろうか。自由とは無秩序でなく放縦で ない。しばしば生まれつきの思いは、勘違 いする。すべての拘束から解放される事が 自由だと。そうではなく、拘束を受け入れ て、従うこと、つまり御霊の導きに従うと ころに、本当の自由がある。今、くびきを 負う事を拒否している事柄があるか。拒否 する事、逃れる事が、解放される道と勘違 いする。御心から逃げて、解放感を味わっ た事があるか。解放どころか、平安が失せ 惨めになる。実際は、くびきを受け入れて、 しっかり負う事が解放される道だ。喜びと 平安が来る。今、示される事があるなら、 受け入れて従おう。信仰生活に真の自由を 味わおう。 ・・・・・・・・・・・ 嫌な人を憎み続ける事が自由だと思う。絶 対に愛したくないと思う。しかし、主にそ の心を明け渡し、御霊に従うなら愛が与え られ、愛する事ができる。愛する事が真の 自由だ。問題はそれを頑なに拒んでいる心だ。
2007年03月02日(金) 「あなたがたのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」マタイ6:27
「あなたがたのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」マタイ6:27
ある未亡人がリストラになり、 探せど探せど仕事が無かった。 その時、この御言葉が心にグ ッと来て、御言葉を信じ、受 け止めた時に、完全に思い煩 いが失せ、全く不安が無くな ったと。神が与えて下さると、 お委ねできたのだ。心平安に 待ち望むことができて、仕事 は時かなって与えられた。 「自分のいのちを延ばすこと ができますか」自分にどうし ようも出来ない事について、 あれこれ心配したり、悩むの は時間と労力の無駄だ。命を 延ばすことなど、幾ら悩んで も考えてもどうにも出来ない。 それより、今、目の前のすべ き事に、心を集中して成し遂 げて行った方が、どんなにか 良いではないか。私達が変え る事ができるものと、変える 事ができないものを区別する 知恵が必要だ。自分に出来る 事をして行く事は必要だ。 変えるべきところは変えなけ ればならない。しかし、「ど うにもできない事」に悩み煩 っていないか。あなたの今の 思い煩いは、この種のものか。 そうであれば、主にきっぱり お委ねしよう。思い煩いが失 せるばかりか、平安で心を満 たして下さる。「何も思い煩 うな」ピリピ4:6。今、目の前 、自分に出来る事に心を向け よう。 ----------- 私たちに明日の事を知ること を許されていない。明日の事 は神様に、すべてお任せなさ いということだ。今できる事 を精一杯成し遂げ、まだ見ぬ 明日を思い煩うことはやめよ う。
2007年03月01日(木) 「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか」伝道7:16
「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか」伝道7:16
日常生活の中で、この言葉は知恵 を与えてくれる。「過ぎてはなら ない」と戒めている。親の子供へ の過干渉や過保護が与える害は周 知の通りだ。過保護は子供を転ば せたくないので、親が関与して転 ばせない。転ぶ事を知らない子供 は、失敗への免疫が無いので、大 人になった時に、小さな失敗にす ら耐えられない。価値観がオール かナッシングなので、失敗が自分 の全否定になり自殺にまでなりか ねない。子供は転んだ方が良いの だ。若い日の道は曲がりくねって いる方が良い。又、過干渉は子供 を親の思い通りにし、子供の意志 を奪い、自分の無い子供にしてし まう。親としての「保護」は必要 だが「過」、過ぎると害になる。 自分の信念に従い、意見を主張す る事は良い事だ。わがままとは、 相手の事も状況も一切考慮せず、 ただ単に自分の我を押し通すこと だ。しかし、正しく意見を述べる 良い事すらも、「過ぎる」と正し くなくなってしまう。自分の信念 を語っていたはずが、過熱すると、 どうしても自分の信念を何が何で も押し通そうと、自我が出て来て しまう。自我を通す事にすり替わ ってしまう。何事も「過ぎてはな らない」。過ぎていないか。心し てへりくだって歩もう。 ---------------------- 過ぎてしまうと神様不在になって しまうかもしれない。自分は間違 っていない!に陥る。いつもこれ で良いのだろうか、自分が間違っ ているかもしれない・・の態度で 神様に尋ねながら歩もう。
2007年03月29日(木) 「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」Tコリント6:12
「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」Tコリント6:12
ストレートな罪はよくわかるの で問題ないが、一見罪ではない、 むしろ良いものが要注意だ。よ く気をつけなければ、その良い ものによって神との間が隔てら れてしまう。食物は私達に益を 与え、体を健康に保ってくれる が、食べ過ぎると害になる。そ れに支配されてしまうと損なわ れてしまう。他のものも同様だ。 仕事、趣味、音楽、スポーツ、 娯楽、愛する人、出世、結婚・ ・それらは決して罪でない。む しろ良いものだ。ただ、それが 過ぎると、それに支配されてし まうと、神からそれて偶像にな ってしまう。その時罪となる。 それをしている時のあなたの心 で試せる。それをする事は、神 との関係を更に近づけるか、そ れとも、遠ざけるかだ。神より そちらに重きが移って行くよう であれば、立ち止まるべきだ。 今、あなたの心の中心は何だろ う?主イエス・キリストか、そ れとも他のものだろうか。今、 あなたにサタンの誘惑が来てい るなら、気づけるように。仕事 にのめり込んで、神を離れた人 々は少なくない。仕事に支配を 許してしまった結果だ。サタン は狡猾だ。良いもので誘惑する。 今、あなたの心は何に支配され ているだろう。「どんなことに も支配されません」に立とう。 --------------------- みこころにしっかり立っている つもりでも、気付くと自分の判 断や肉の満足のために動き回っ ている。どんな事にも支配され ないために、一瞬、一瞬主を仰 ぎ、主に信頼して歩もう。